第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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聖闘士とは、己の小宇宙をエネルギー源とし、それを様々なものに反映させ闘う闘士である。対象の多くは己の肉体であり、よって聖闘士は武器を持たずとも、兵器や天災にすらにすら対抗し得ると言われている。
聖闘士が己の肉体を武器にする理由は、女神アテナが武器を嫌い禁じたという言い伝えからそれこそが美徳と考えられているという価値観的な背景もあるが、それよりも単に、最も効率的で簡単だからである。
小宇宙にはあらゆるものを反発する性質があり、無機物であってもそれは例外でない。生物ほどではないが、それでもだ。
こういった性質があるからこそ、聖衣に小宇宙を染み込ませ、己の肉体であるかのように纏うことが出来るというのは並大抵の事ではなく、他者に小宇宙を分け与えるヒーリングは最も難易度の高いテクニックのひとつとされている。
ならば小宇宙が最も馴染むものは何か、というと、それはその小宇宙の持ち主の肉体、いや更に厳密に言えば血液である。よって聖衣に小宇宙を蓄える際は、生き血を用いる。小宇宙そのものを用いれば、適格者以外が聖衣を装着しようとした時のように弾かれてしまう。しかし血液という物理的なものを媒介とする事によって、聖衣に小宇宙を染み込ませる事が可能になるのだ。
アフロディーテは、これらの点において、他の聖闘士とは異なる、やや特殊な性質を持っている。
彼の小宇宙は、植物に対してのみ、かなり反発性が弱い。
これこそが、アフロディーテが持つ“仁”の力だ。
自分の聖衣以外に小宇宙を通すのは、難しい。しかしアフロディーテはそうではない。植物限定ではあるが、彼は己の小宇宙を、植物に宿らせることが出来た。それによって植物を操ったり、成長を促したりといった現象を起こすことが可能だった。
しかし、そうはいっても、反発性が全くないわけではない。おまけに植物の寿命は儚さの象徴となるほど短いか、千年単位の大樹まで様々。そして寿命の短い草花にはほぼ完璧に小宇宙を通し自在に操ることが出来るが、所詮は数日の命しか持たないものであるだけに、強化するにも限界があった。数千年の歳月を過ごした大樹に小宇宙が通せない事もないが、戦闘に使えるほどではない。せいぜい寿命を伸ばしてやる程度が限界だ。
そこでアフロディーテが用いたのが、双魚宮の薔薇である。
黄金聖闘士にとって、聖衣の次に小宇宙を通しやすいのが己の守護する自宮である。だからこそ、それぞれの宮は、自宮で的を迎え撃つ、という戦法を王道とする黄金聖闘士たちの一番の味方、ホームグラウンド足りうるのだ。
そして、これを最も効率的かつ劇的なまでに利用しているのが、アフロディーテであった。
アフロディーテは、黄金聖闘士のスペックの範囲内である自宮に、更に己の小宇宙を宿した植物を隅々まで、限界まで纏わせる事によって、更に強化を施した。
元々から双魚宮に多くの植物が育っていた辺りからして、代々のピスケスも、アフロディーテと同じことをしていたのだろう。しかしアフロディーテが行なった事は、それよりも更に数歩進んでいた。
そもそも、植物を味方につけることが出来る、という特性は、闘う場所を選ばない戦士であるとも言える。アフロディーテの前代のピスケスは、童虎老師とともに二百年以上前の聖戦を闘ったという。コンクリート舗装された道などどこにもなかった時代であれば、地面は常に土。そして、何らかの植物の種や根の欠片が混ざっていない土など存在しない。砂漠であっても、多少は闘い難いかもしれないが、ある程度の植物は自生が可能だ。川や海でも同じことが言える。森や草原ならもはや勝ったも同然とすら言えるだろう。
どんな戦場でも、ホームグラウンド同等のフィールドにできる戦士。ピスケスは、本来そういう戦士であった。最も敵が到達する可能性の低い最後の宮だからこそ、それ以外の時、待機の時間を無駄にせず役立てる利便性を追求した、とも考えられる。
しかしアフロディーテは、そうしなかった。
彼も従来のピスケスのような闘い方が出来ない事もないが、彼のホームグラウンドはやはり双魚宮に他ならない。
その最大の理由は、彼が育てた、薔薇である。
前述したように、ピスケスが武器と出来る植物は、種類によって効果が随分と異なる。しかしアフロディーテの薔薇は、そうではない。
薔薇の花の寿命は長くない。一季節で散り行き、根から切り離せば数日も持たない。アフロディーテの育てた薔薇とて、多少以上丈夫ではあれど例外ではない。
しかしアフロディーテの薔薇は、彼がここに来てから17年もの間、彼の小宇宙を吸い続けてきた薔薇なのだ。アフロディーテがピスケスたる己の小宇宙を理解してからは、彼は最も己の小宇宙を濃く宿す血を出来得る限り水に混ぜ、薔薇たちを育てた。
17年間彼の血を吸い続け、今では維管束の全てに彼の血を、小宇宙を巡らせた薔薇は、もはや彼の肉体に等しいものとなっていた。多くの聖闘士たちが己の血が通う肉体を最も使いやすい武器として鍛え続けるのと同じように、アフロディーテは長い年月をかけて、薔薇を己の肉体の一部と化してきたのだ。
従来のピスケスは、寿命の短い草花を、その場限りの使い捨て武器、として扱ってきた。しかしアフロディーテは双魚宮の薔薇を、己専用の品種といえるまでに育て上げ、その常識を覆したのである。
この薔薇に、寿命によるデメリットはない。花が散るのも葉を落とすのも、この薔薇に限っては肉体が新陳代謝を行なうのと同じことでしかなく、更には枯れた自身は再度土に還って養分となり、加えて進化の法則に従い、より優勢な遺伝子を選びながら交配を続け、より強力にと品種を変えて行った。
しかもアフロディーテの血を媒介として、土に滲む代々のピスケスの小宇宙も貪欲に吸い上げた薔薇は、もはや聖衣に限りなく近いもの──いや肉体の一部、といった方が妥当であろう。残念ながら植物は植物なので強度の面では聖衣と比べるまでもないが、肉体と等しいものであるという事は、肉体と同じことが出来るという事でもある。
──具体的に言えば、アフロディーテが意思を伝えるだけで、この薔薇は彼の目にも耳にも、手足にもなる。つまり彼が動かずとも蔓を走らせ、花は監視カメラや盗聴器にもなり、茎や蔓は遠隔操作の簡易的な作業ロボットとしても使え、棘を飛ばして牽制にすら使えるのだ。
アフロディーテが薔薇という品種を選んだのは、薔薇が元々丈夫な蔓植物だったからだ。蔓はどこまでも延び、実際、双魚宮をまさに“根城”として、聖域中に蔓延っている。
これらは教皇の間のサガの秘密を守る為に編み出した力でもあったが、戦闘に置いても非常に有用だ。なぜといって、あらゆる場所にある薔薇は彼の目であり耳であり、手足である。つまりアフロディーテにとって見えない聞こえない死角は存在せず、そのうえ、先程実践してみせたように、アフロディーテの意思ひとつで、あらゆる所に蔓延した薔薇は弾丸同様のスピードで百発百中の精度で飛び、大理石を簡単に貫通する。
更に加えて、アフロディーテは、二百年前より格段に進んだ品種改良の知識を専門家と言っていいレベルで学び、それに小宇宙を用いて、具体的な性能の品種まで確立させた。その代表が、植物が持つものとしては常軌を逸した猛毒を持つ魔宮薔薇(ロイヤルデモンローズ)である。
小宇宙の属性のうち、仁智勇の“智”──すなわち一度に発する事の出来る小宇宙の絶対量が心許ない体質のアフロディーテは、こういった方法で己の弱点をカバーした。
そしてそれは完璧以上の成果を成したと言って良く、十数年分の小宇宙のストックという、十分すぎる“智”を備えた“仁”“勇”のスペシャリストは、戦いにおいて教皇以上の完璧さを誇る戦士であった。
デスマスクは、アフロディーテと闘う時、双魚宮で闘うのだけはごめんだ、と弟子に漏らした。その評価は、全く見事に正論であるといえよう。
そして、今。
瞬をそのロイヤルデモンローズで吹き飛ばしたアフロディーテは、双魚宮から教皇宮の間にびっしりと蔓延らせた薔薇に視覚をリンクさせ、先に進んだ星矢の状態を確認していた。
無防備に薔薇の繁みを突き進んだ星矢は、アフロディーテが言った通り、十歩も進まぬうちに毒にやられて倒れている。あっけないことだ、とアフロディーテは冷徹に目を伏せつつ、こちらも薔薇の毒を吸い込んで倒れ伏している瞬に言った。
「さっきも言ったように、ロイヤルデモンローズはその花粉をひと吸いしただけで五感を失って行く……決して苦しむ事はない!」
悪友たちと違って、自分は嗜虐趣味でも戦闘狂でもない。そう言ってアフロディーテが作った薔薇は、神経細胞、ニューロンに特異的かつ即効性で作用し五感を失わせる神経毒を主として、遅効的に幻覚作用をもたらす物質が含まれている。よって麻痺によって倒れた後、何とかしようと思う間もなく幻覚に襲われる為、ロイヤルデモンローズにやられた者は、陶酔のうちに死ぬことができるのだ、と、アフロディーテは淡々と、安らかささえ誘うような調子で言う。
それは、死に行く少年たちに贈る言葉だった。
──しかし足下で蠢いた気配に、踵を返しかけていたアフロディーテは立ち止まり、初めて、僅かに眉を顰めた。──立ち上がった瞬に向かって。
「……苦しまずに死ねるようにしてやったものを、なぜ立ち上がる……」
無駄な事を、面倒臭い、と、アフロディーテは言外に言った。大人しく目を閉じていれば、これ以上苦痛と死の恐怖を味あわずに済んだものを、と。
麗人の冷やかな目に見下ろされ、しかし少年は荒い息をつきながら、毒にやられた身体を起こす。
「……ぼくは、目を瞑って死ぬまでの陶酔に浸るような弱虫じゃない!」
やはり息は荒く、閉じようとする目をこじ開けているような状態で、しかし瞬はやはりアフロディーテを睨んだ。
「別れの間際、にいさんにも約束したんだ……最後まで男らしく闘うと!」
実兄・一輝は、星矢たちらとはまた別の所で、瞬にとってかけがえのない、特別な存在だ。その彼との約束は、瞬に実力以上のものを呼び起こす起爆剤となり得ていた。それによって己に暗示と発破をかけ、瞬ははっきりと、力強くそこに立つ。
「──今こそ、本当のぼくの力を見せてやるぞアフロディーテ!」
──ピキィン!
瞬が叫ぶと同時に、聖衣特有の、金属音とも星の鳴る音ともつかぬ透き通った音とともに、アンドロメダのチェーンが瞬の周りを取り巻いた。これこそが、アンドロメダのチェーンの強みのひとつ。オート動作である故に、例え使用者が気づかなくても反応する鎖によるディフェンスは、白銀聖闘士にも十分渡り合える効果を持つ。
瞬が一切動いていないにも関わらず、キン、キン、と音を鳴らしながら、鎖は瞬を隙なく取り巻いている。
「これであなたがいかなる技をしかけようと、決してぼくを傷つける事は出来ない」
「フッ……」
嘲笑。まさにそう評していい笑いを漏らしたアフロディーテは、目を閉じた。目の前にいる的に対し、目を閉じたのだ。
それは、お前など話にもならないという意思表示に他ならなかった。
「言ったはずだ、アンドロメダ。そんな青銅のチェーンなど、このアフロディーテの前では何の役にも立たないと……」
「どうかな」
余裕綽々の麗人に、瞬は睨む力を強くする。
「笑止な……ならばもう一度その身に浴びよ!」
その生意気な様子に、アフロディーテはすっと冷やかに目を開けると、小宇宙を高め、周囲に一斉に行き渡らせる。薔薇たちが攻撃的にざわめき、全ての花が瞬の方を向いた。
「──ロイヤルデモンローズ!」
毒薔薇が、少年に向かって一斉に襲い掛かる。しかし鎖を構えた少年は、その場から動く事はなかった。
「守れ、チェーンよ! ──ローリングディフェンス!」
ジャラララ! と激しい音を立てて、アンドロメダのチェーンが動く。
──その動きに、アフロディーテは、違和感を覚えた。
「うっ……何ぃ!?」
しかし、それが何かを考える暇はなかった。瞬に向かった薔薇たちの塊が、ことごとくその鎖に阻まれ、アフロディーテに撥ねて帰り、なおかつその勢いが、アフロディーテが瞬に向けたものよりも強かったからだ。
嵐に遭ったようにして、アフロディーテの身体が宙に吹き飛ばされる。
「バ……バカな、ロイヤルデモンローズの薔薇を全て弾き返すとは!」
吹き飛ばされつつ、しかし空中で即座に体勢を整えたアフロディーテは、ダン! と音を立てて、しかしダメージなく着地した。ちなみに、もちろんだが、薔薇の毒はアフロディ−テには一切効かない。毒を持った生き物が、自らの毒で死に至る事がないように。
しかし目をぎらつかせた瞬は、着地したアフロディーテに、すかさず追い討ちをかける。
「ダイダロス先生の仇……!」
瞬の目が見開かれる。その目に燃える激昂。錯乱しているようにも、極限まで集中して放った一撃のようでもあった。
「食らえ、──星雲鎖(ネビュラチェーン)!」
瞬は完全に畳み掛けたつもりだったが、アフロディーテは既に完全に体勢を整えていた。眉を寄せ、一直線に向かってくる鋭利なスクエアチェーンの先をまっすぐに見極めたアフロディーテは、またも小宇宙を一気に周囲に行き渡らせる。
その小宇宙の動きから、攻撃で返してくるか、と、瞬は思った。しかし、その予想は外れる。
「なにぃ!?」
目の前で起こった現象が信じられず、瞬は目を見開いた。
「き……消えた……」
──そう、消えたのだ。
周囲に舞うのは、戦闘で飛び散った、数え切れないほどの花びら。その花が墨の中に溶け込むように、アフロディーテの姿がかき消えたのだ。
これもまた、薔薇がアフロディーテの小宇宙をふんだんに蓄えているからに他ならない。アフロディーテがこの薔薇を手足にように使えると同時に、他者にも薔薇がアフロディーテそのもののように感じられるからだ。
聖闘士の多く、しかもセブンセンシズに目覚め五感ばかりに頼らないレベルの高い者であればあるほど、索敵に小宇宙の気配察知を用いる。双魚宮中にみっしりと蔓延った薔薇に紛れたアフロディーテを見つけるのは、セブンセンシズに深く目覚めていればいるほど難しくもある。
「……だけど、無駄だよアフロディーテ」
花霞を見つめる瞬は、アフロディーテの居場所がわかるわけではない。しかし彼には、索敵において、反則的なまでのものを持っている。それは瞬の右手に握られた、やはりひとりでにジャラジャラと音を鳴らすチェーンだった。
「このスクエアチェーンは、敵が何万光年の彼方に隠れていようとも、必ず見つけ出して倒すのだ! ──行け! サンダーウェーブ!」
──ギャラララララララ!
凄まじいスピードで、そして一直線に、チェーンが目標に向かって飛んでゆく、瞬はただ、その切っ先を睨み据えるだけだ。
──カッ! と鋭い音。
鎖の切っ先がぶつかった魚座ピスケスのメットが、双魚宮の床に転がる。
「バ……バカな」
ここまで星雲鎖(ネビュラチェーン)の威力があろうとは、と、さすがにアフロディーテも驚愕した。纏う人間はやりようによっては与えられた聖衣の位以上に鍛えられもしようが、聖衣は違う。無機物である以上、青銅はどこまで行っても青銅でしかない。しかし看板に偽りありとはまさにこの事、星雲鎖(ネビュラチェーン)の威力は、もはや青銅足り得ないとみていいだろう、とアフロディーテは断じた。
──しかし、それだけではなく。
(ま……まさか)
先程から感じる────違和感。
(このぼうやの小宇宙は──)
「先生……ダイダロス先生の仇……この瞬が今こそ取ります……、ダイダロス先生……、先生を倒した仇、魚座ピスケスのアフロディーテを、今、ぼくが、倒します……!」
アフロディーテが戦況を確認している前で、対峙する少年は、鎖を手に、ぶつぶつと同じことを繰り返し呟いていた。単に魔宮薔薇の毒にやられているのか、それとも仇を前にした憎しみの錯乱からか、瞳孔が開きかけた目は焦点が合っているのか逆に一点を見つめるばかりなのか判断がつかない。
狂人かと思うほど鬼気迫った姿、しかしそんな瞬を目の前に、アフロディーテはひるむどころか、すっと冷やかに目を伏せた。
「いくぞアフロディーテ……! 食らえ! サンダーウェーブ!」
──カッ!
凄まじい勢いで、チェーンはアフロディーテ目がけて一直線に飛んで行く。しかしアフロディーテはまたもその切っ先を見つめたまま微動だにしない。
「なに!?」
そして目の前で起こった信じられない光景に、瞬は目を疑った。
──アフロディーテが手に下、一輪の黒薔薇に、チェーンの切っ先が受け止められている。
「まるで少女のような顔をした君に、ここまでの闘志があるとは思わなかった」
──それは、非常に遠回しではあるが、相手を認める言葉でもあった。
その理由は、瞬がしぶとく立ち向かってくるから、ではない。
アフロディーテが同士と認めた者たちは、常に自分の頭で考え、悩み、しかし確固たる自我と意思を主張して立つ者たちだ。それが例え、神を敵に回しても。
だからこそ、世界の為だ、アテナの為だ、という漠然とした大きな言葉を理由なく鵜呑みにし、レミングのように考えなく死地に向かってくる少年たちを、アフロディーテは軽蔑していた。
しかし今、この瞬という少年は、師匠の仇だという、ごく私的かつこれ以上なく分かり易い理由で、青銅聖闘士としては驚異的な実力を発揮しアフロディーテに向かってきている。
「既にロイヤルデモンローズを受けている者は、放っておいても間もなく死が訪れるのだが……。……どうやらその時までじっとしていられんようだな」
私闘を禁じ、その力を私利私欲の為に使う事など厳禁と謳う聖闘士としては、今の瞬の姿は、“アテナの聖闘士”としては、とても模範的とはいえない。
だがしかし、だからこそ、アフロディーテは瞬を認めた。ただしぶとくしつこく立ち向かってくる姿を評したのではない。己の心で感じ、己の頭で考え、そして魂で感じる激情を原動力に向かってくる瞬は、“アテナの聖闘士”ではない。この少年は、我らと同じ“ひとりの人間”である、とアフロディーテは評したのだ。
──そして、神の狗は殺すだけだが、人間の尊厳は守らなければならぬ。
「よかろう! 待つのが嫌なら、このアフロディーテが即座に死をくれてやろう……君の頼みのチェーンをもいだ上でな……!」
みっしりと咲き誇っていた赤い薔薇。アフロディーテの周りだけが、いつの間にか黒に変わっている──いやまるで早回しのような速度で一斉に花開いているのに、瞬は気づいた。
デモンローズは、その身に宿す猛毒を気づかせないようにか、見事に赤く、花びらは可憐に丸く、するすると伸びるやわらかな蔓は優美とすら言える姿をしていた。
しかし先程から凄まじい早さで咲き誇っている黒薔薇は、蔓といよりは茎と言った方が良い様子で無骨に伸び、なおかつその茎からは、かなり太く長い棘が突き出しているという、かなり攻撃的な造形をしている。
そんな薔薇がまたも一斉に自分の方を向いているのは、獰猛な猛獣に周囲を囲まれたような、分かり易い戦慄を瞬に与えた。
「うっ……!」
「受けろ、黒薔薇の恐怖を!」
ギギギギ、と、蔓ではなく枝のようになりつつある無骨な茎が伸び、葉の代わりに次々に現われた長い棘が、チェーンの隙間を様々な角度から突き刺して捕えてゆく。
(──動かない!)
あっという間にチェーンを取り巻いた無数の黒薔薇は、植物とは思えない頑強さでチェーンを捕えていた。事実今、瞬はあらん限りの力でチェーンを引き戻そうとしているが、全くもってびくともしない。
「舞えよ、黒薔薇……!」
ビキ、ビキ、とチェーンから聞こえる音が何の音なのか、瞬は理解できない。──いや、したくなかった。
「──ピラニアンローズ!」
アフロディーテが一気に小宇宙を高めた瞬間、黒薔薇に絡め取られた鎖が、ビシビシビシッ、と、更に大きな音を立てる。
──カカッ!
「何ぃ!?」
あっけない音を立てて砕け散った鎖に、瞬は悲鳴に近いような声を上げた。
「バ……バカな……ぼくのスクエアチェーンが……」
完璧な防御本能を誇る、と謳うだけ合って、アンドロメダのチェーンは、ドラゴンの盾と同じく、特に耐久性に優れる。つまり同じ聖衣でも他のパーツより一段丈夫に作られているのだが、しかし今、その鎖は木っ端みじんに砕かれた。しかも、この世で最も弱いであろう“植物”によって。
「フッ」
黒い花びらに塗れ、粉々に砕けたチェーンを前に呆然としている瞬に、アフロディーテは初めて、嘲笑ではなく、好戦的な笑みを浮かべた。
猛毒を持つ赤のロイヤルデモンローズは時間を置いて、しかし苦しめずに死に至らしめるが、黒のピラニアンローズは、即座に敵を倒す事に特化した薔薇である。
“仁”の力で闘う聖闘士の戦いを見ていると忘れがちだが、聖闘士の小宇宙の闘法の基本は、“原子を砕く”ことにある。
そして、黒薔薇・ピラニアンローズは、その“原子を砕く”ことに特化した薔薇であった。
拳で殴りつけるのと同じ位の強い小宇宙を込める為、柔らかな蔓ではなく枝である為に比較的動きが遅く、また芳香と花粉に毒を含む為に非常に有効範囲が広いロイヤルデモンローズとは逆に、直接対象に触れ、出来るならその棘を刺さなければならない上、原子を砕く衝撃で自身も散ってしまうというデメリットはあれど、その花や棘一つ一つが原子を砕く聖闘士の拳と同等の威力を持っているのだ。その獰猛なまでの攻撃力は、決して油断できないものである。
大勢で一個を囲み、一斉に攻撃するその様は、例えるならば、獲物に群がるピラニア。しかも、原子を砕くその牙に、砕けないものなどない。
呆然と佇む瞬の周囲で、ざわり、と、再び黒薔薇が咲き誇りはじめる。
「さあ、君自身も黒薔薇の牙によって粉々に消滅しろ! ──ピラニアンローズ!」
「うっ……! ま、守ってくれ、チェーンよ! ──ローリングディフェンス!」
ショックから未だ立ち直っていないながらも、瞬は何とか鎖をディフェンスに回す。
──しかしそれは、最もしてはならない悪手であった。瞬を守ろうとするチェーンに触れる端から、薔薇はあっけなく散って行く。しかし同時に、ピキ、ピキ、と、またも嫌な音が、チェーンからはっきりと聞こえていた。
──パァン!
「ああ……!」
急に軽くなった手応え。
激しく動いていたせいで、砕けた鎖が周囲に飛び散る。まさに消し飛んだと言っていいその有様に、瞬は信じられないという顔をした。しかし、戦いにおいて相棒とも言えるものが完全に無効化されたショックの中、ぶるぶると震えながらではあるが、役に立たなくなったチェーンから手を離し、警戒の態勢を整えたのは天晴と言えよう。
「フッ、これで君は敵を攻める事も自分の身を守る事も出来なくなった」
基本的には己の身一つこそを聖闘士なのだから、瞬とて、肉弾戦にてアフロディーテにかかってくる事も考えられる。しかし彼の体格や今までの動きからして、瞬が肉弾戦、格闘戦に秀でているとは考え難い。特に、強力な遠距離攻撃手段を持つものは、近距離での戦いに手を抜いてしまう事が多い。瞬もそうなのか、それとも元々不得手なのかは知らないが。
ちなみにアフロディーテは、17年も小宇宙を溜め込み、えぐいほどの性能の薔薇を開発しているあたりからその余念のない性格が伺い知れる通り、接近戦に置いても鍛錬を怠っていない。
薔薇を使うアフロディーテも瞬と同じく遠距離攻撃型ではあるが、遠距離攻撃に秀でた敵に対し、無防備そうな懐に潜り込んで形勢逆転を狙うのは基本である。それに備え、アフロディーテは超近距離戦用格闘術──つまり投げ技や関節技、絞め技などを極めていた。その実力は、体術において右に出る者は居ないと言われたシュラに、柔道やレスリングなどの種目で五分の勝敗を分けていた、と言えば、その凄まじさがわかるだろう。
超遠距離からの薔薇の蔓をくぐり抜けた敵に懐に潜られたと思いきや、あっという間に相手を捕え、絞め技にて息の根を止めるアフロディーテの様は、食虫花にも似ている。──残念ながら、瞬相手では、その実力を披露する事はなさそうだが。
とにかく、瞬の怖い所は、オートで動き主を守る、青銅の範疇から飛び出した高性能すぎる鎖だ。それがなければ、瞬は何も出来ない無力な子供に過ぎない。
(……私の予想が杞憂なら、だが)
「う……、ううっ……」
恐怖からか怒りからかはわからないが、青い顔でぶるぶると震えながら、しかしアフロディーテを睨み据えて構える瞬に、アフロディーテは笑う。その笑みは堂々としており、瞬の言葉を用いるならば、この上なく“男らしい”ものであった。これから倒す敵に最後まで油断せず、微塵の容赦も与えない、戦士たる男の笑いだ。
「さあ、──不憫だが」
何も出来なくなった今、瞬はただ、愛する師匠を殺された怒りに震える、親のいない子供に過ぎない。それを哀れと思う心はアフロディーテも持っているが、しかしそれはそれと割り切る覚悟も十分すぎるほどある。花びら一枚ほどの容赦もなく、アフロディーテは凶悪に小宇宙を高めた。──黒薔薇が、咲く。
「望み通り、死を見舞ってやるぞ……、──ピラニアンローズ!」
「うわああ────ッ!!」
──バキバキバキバキッ!
身体に残るロイヤルデモンローズの毒のせいか、まだチェーンが砕かれたショックが抜けきれていないのか、瞬は獰猛に棘を伸ばしてきた薔薇を避けることが出来なかった。
少年の華奢な身体を取り巻いた黒薔薇は、全くもって容赦なく触れたものを砕いてかかる。ある花はアンドロメダのチェーンとともに砕け散り、ある棘は瞬の肉を刺し貫き、その原子を砕きながら抜け落ちた。
一斉に聖闘士の拳を数十、いや数百発クリティカルに食らったような衝撃に、瞬はうめき声すら上げる事なく、顔面から崩れ落ちた。
「これで、十二宮を侵そうとした青銅聖闘士五人全員が息絶えた……。教皇もホッとされる事だろう」
「う……」
「……まだ、死にきれぬか」
小さく呻き、まだ足掻こうとしている少年。もはや何の寄る辺も残っていない少年を、アフロディーテは静かな目で見下ろす。
「大人しく死を待て……。これ以上、血は見たくない──……ッ!?」
──違和感。
またも感じたそれに、アフロディーテはぴくりと身じろぎした。
(小宇宙!)
瞬から感じるのは、そう、小宇宙だ。
しかしアフロディーテが違和感を感じているのは、小宇宙が感じられるという事そのものではない。生きている限り、小宇宙は感じられるものだからだ。
「バ……バカな」
気になるのは、その小宇宙が持つ違和感。──いや、これは──
(既に頼みのチェーンを失くしたこの少年に、一体まだ何があるというのだ……)
まさか、と思いかけて、馬鹿な、と更に思い直す。
瞬は、青銅だ。強力なチェーンが無効化され、聖衣も砕かれ、しかもロイヤルデモンローズの毒に加え、ピラニアンローズの一斉攻撃をその身に受けた瞬は、まさしく死を待つだけの状態のはずだ。……しかし、瞬が放つ小宇宙。その違和感、いやこれは違和感ではなく──
──威圧感。
小宇宙とは、生命が持つ格のレベルを表すものともいえる。草食動物が肉食動物に抱くような、食物連鎖のピラミッドに置ける上下を感じる、本能的な感覚。
瞬の小宇宙から感じられるのは間違いなくそれだ、と、アフロディーテは信じられないながらも理解した。
──生き物として、あらゆる生命を脅かす何かを、瞬は持っている。
(な……何が……アンドロメダに一体何が隠されているというのだ……!?)
「う……」
瞬が呻き、その身を僅かに起こす。
アフロディーテの全身から、じわりと汗が吹き出た。もたらしたのは、動物的な、本能的な危機感。もはや反射的に黒薔薇を構えたアフロディーテは、すぐに瞬の息の根を止めるべく一歩踏み出す。その一歩はあまり優雅とは言いがたく、切羽詰まって焦った動きにも見えた。
「く……来るな」
地を這うような、手負いの獣の呻きのように低い声で、瞬は言った。
「生身の拳は、使いたくない……」
「……?」
瞬が行った言葉の不可解さに、アフロディーテは、眉を顰めた。しかし凄まじいダメージのせいで朦朧としているらしい瞬は、もはや独り言のように呟くだけだ。
(だ……だけど……ぼくの命もあと数分で終わるだろう……)
そして瞬は、考えていた。まともに回らなくなった頭で、ただ仇を前にした激情を原動力に、ぐるぐると思いを巡らせていた。
──ああ、嫌だ、闘うのは嫌いだ。
──誰も傷つけたくない、本当なら、でも、
「……そうしたら、先生の仇は討てなくなる……」
瞬は、天使のように心やさしい、と言われた少年だ。闘いたくない、誰も傷つけたくない
という思いは、瞬の中で確かに本物だった。しかし同時に、ダイダロスを殺された怨みも、憎しみも、本物だった。
瞬はかつて数度、誰かを助ける為に命を投げ出そうとした。実際今も、誰かを傷つけるくらいなら自分がどうにかなった方がいい、と確かに思っている。
だがしかし今、それと同じ位、瞬はアフロディーテに対して怒り、恨み、憎しみを抱いているのである。
本当は殺したくない、誰も傷つけたくない、それなのにこんなにも彼を殺したいのは、彼が先生を殺したから、……ここまでぼくを追いつめたからだ。そうだ、本当は殺したくないし、誰も傷つけたくないんだ。
──悪いのはあなただ。ぼくじゃない。
憎しみと毒が起こす熱に浮かされてぼんやりした頭で、瞬はそう結論づけた。
──そうだ、ぼくじゃない。彼のせいだ。
「アフロディーテ……ここまでぼくを追いつめたあなたのせいだぞ……」
「な……」
濁った目で下から嘗めつけるようにして唸った瞬の不気味さに、アフロディーテは気持ち悪そうに顔を顰めた。
「……何が出来るというのだ、死にかけたその身体で! その前に私の方でとどめを刺してや──」
「今こそ受けろ、アフロディーテ! この瞬の、真の力を!」
(──そうだ、受けろ、アフロディーテ、先生の仇め!)
(ああ、爆発する。あなたのせいで、ぼくは嫌なのに、あなたのせいで、)
(──ぼくの、怒りが、怨みが、憎しみが、憤りが、)
「な……何ぃ!? 空気が、」
── 殺 意 が、
「何だ、これは──!?」
──渦巻く。
「──ネビュラ・ストリーム!!」