第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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 ──音は、なかった。

(!? ──投げられた、のか?)
 己が宙を舞った事に、アフロディーテは驚いた。
 奥の手であるのであまり公言していないが、アフロディーテはシュラと組み合っても五分で勝てる、超接近戦のスペシャリストだ。投げ技をしかけられて、簡単にかかる事はない。
 だがアフロディーテは、打撃を受ける事なく、しかし宙を舞っていた。
 見下ろす先には、踏み込み、腕を突き出した瞬が倒れ込むのが見える。体勢からして、やはり投げ技である事は間違いないようだ。
 瞬もまた、鎖を使った超遠距離攻撃型の戦士である。己の弱点を意識する為にも、同じタイプの戦士に対し、何が最も効果的な反撃方法か、ということは当然理解しているだろう。
(最後の力を振り絞って、超遠距離攻撃型の私に、起死回生の投げ技を仕掛けたか──)
 とりあえず、そうとしか考えられない状況であった。確かに綺麗に投げられた事は認めるが、きれいに投げ過ぎてまるでダメージになっていない。よく飛んだが、きれいに飛び過ぎてあっさりフライで捕られてしまう野球ボールのように。
 実際、高く投げられたアフロディーテは、空中で受け身の準備を整えるどころか、体操選手並みの華麗さで着地できるまでの余裕すらあった。
「フッ……何がネビュラストリームだ。君の細腕で仕掛けた技など、このアフロディーテに通用するか──っ……、何ぃ!?」
 くるり、とみごとな宙返りをしたアフロディーテは、驚愕に目を見開いた。

──ドシャッ!

「ぐっ……!」
 宙返りの途中、逆さまの体勢で石床に落ちたアフロディーテは、低く呻いた。
 子供の頃以来なかった、かなり無様な体勢での着地。黄金聖闘士、一流の戦士であるアフロディーテにとって非常に屈辱的な事ではあったが、さすがに一流、プロである。すぐさまショックを無視し、身体を起こそうとする。

 ──しかし、それは成らない。

(バ……バカな……身体の自由が利かないとは……!?)
 一体どうなっているのだ、と、アフロディーテは頭脳を回転させ、分析を始める。無様な着地──いや、そもそもあれほど見事に投げられたその原因を、アフロディーテは把握しようとした。
 確かに無様に頭から落ちはしたが、その程度の事でようよう起き上がれなくなるほどアフロディーテはやわではない。筋弛緩系の毒か、とも思うが、ロイヤルデモンローズを開発する過程であらゆる毒を試したおかげで、アフロディーテの、毒に対する耐性は誰よりも高い。
 しかし、頭痛、吐気、またじんわりと重たい怠さが、どんどんアフロディーテの身体にのしかかってきている。
 だが、それに甘んじているわけにはいかない。アフロディーテは無理矢理身体を動かそうとしたが、──
「──何だ、これは!?」
 ぎょっとして、アフロディーテは叫んだ。
 身体を動かす為に高めた小宇宙、それに伴って鋭くなったセブンセンシズがもたらす視界の中で、アフロディーテは視認した。

(──気流ストリーム!?)

 そう、気流だ。
 自分の周りの空気の流れが渦となり、ストリームを巻き起こしているのだ、と、アフロディーテは正しく把握した。そしてその気流こそが、まるで蛇のように巻き付き、アフロディーテのあらゆる動きを阻害し、拘束しているのだとも。
(あの違和感は、これか……!)
 何か違う、とは感じていた。
 聖衣の防御力は恐るべきものであり、それに頼り切ってしまう聖闘士は多い。実際、聖闘士の多くは防御が下手な者が多く、特に大技を繰り出す時は隙だらけであるというような事も珍しくはない。
 そしてその上で、アンドロメダのチェーン。他の者よりも頼り、依存してしまうに十分な、青銅には過ぎた代物とも言える、有能すぎる機能を持った道具。そしてそれを操る瞬は、少女のように美しい顔をした、華奢で、身のこなしも頼りない少年。それを見て、対峙した者はどう思うだろうか。
 ──鎖に頼って闘っている。
 そう思うのが、普通だ。アフロディーテもそう判断したからこそ、鎖の無効化を行ない、そして実際にそれを成したとき、瞬にはもう出来る事は何もなかろうと断じた。
 だが、違和感はあったのだ、常に。、その警鐘は、常に鳴っていた。正体がわからぬからとはいえ、あり得ないとはいえ、それを無視すべきではなかった、とアフロディーテは眉を顰める。無視していなくともどうしようもなかっただろう、その事も含めて。
「バ……バカな、こんなことが──」
 瞬の、本当の力。あれほどの有能な鎖を持っていて、更に青銅としてはあり得ない力、それは──
「これは、アンドロメダがその拳によって作り出したストリームなのか……!?」


 ──


 それこそが、瞬が持つ、真の力であった。
「その通りだ、アフロディーテ……」
 荒く息をしながらも、瞬はアフロディーテを睨み据える。
 皮肉にも、それはアフロディーテの力とも似ている。アフロディーテが植物に対し、己の肉体であるかの如く小宇宙を流し自在に動かすことが出来るのと同じように、瞬は、空気に対して同じことが出来る能力を持っていた。
 瞬は、乙女座の星の生まれである。乙女座ヴァルゴの黄金聖闘士・シャカがまさにそうであるように、乙女座は、仁知勇の“仁”の力に優れる事が確率的に多いとされる。
 瞬は超能力に秀でているわけでもなく、また体格に恵まれているわけでも、格闘技の才があるわけでもなかった。だからこそダイダロスやジュネは、瞬が聖闘士になるのは難しいと思っていたのだ。
 しかし、瞬が小宇宙に目覚めたその時、彼が持つ“仁”の力もまた、小宇宙の増大に伴って育っていったのである。
「ストリームによって、あなたの自由は完全に奪われた……もはやあなたの命は、ぼくの動きひとつに握られてしまったのだ……!」
「う……」
 ぎしり、と身体のあらゆる関節を逆方向に押さえつけるストリーム、そして吸い込む空気の薄さがもたらす不快感に、アフロディーテが呻く。
 地球上に生きるほとんどの生物にとって、空気は必要不可欠なものである。その空気を、瞬は支配し、自在に動かすことが出来るのだった。ジェット気流レベルの現象を起こす事も出来れば、空気成分をある程度コントロールする事も出来る。それはまさに、命の全てを握ることが出来るに等しい力だった。
 先程からアフロディーテが感じている症状は、瞬によるものだ。瞬がアフロディーテの頭部周囲の酸素濃度を下げているせいで、ひどい高山病と同様の症状──頭痛、吐気、目眩が起こり、その果てに身体を上手く動かすことが出来ない。ちなみに、高山病は重症となると脳浮腫や肺水腫を起こし、死に至ることもある。
 更に空気は1平方センチメートルあたり約1kgの圧力を及ぼすが、圧縮すればするほどその力は大きくなる。相手の身体に気流を纏わせ、一気に圧力を込めれば、深海で圧潰するスチール缶と同じ現象とて起こせる。
 瞬が音もなく、アフロディーテに掴まれた感触すら覚えさせず投げ飛ばしたのも、ストリームによるものだ。新幹線の脇の植木の葉が舞い上がるように、気流と、それが起こす圧力によって、瞬はアフロディーテを舞い上げるようにして投げ飛ばし、それと同時に、己の小宇宙を行き渡らせた気流をアフロディーテに絡み付かせた。
 また、瞬があれほど自在に鎖を操ることが出来ていたのは、鎖の力だけではない。鎖は所詮鎖、無機物であり、オートの動作はもっと融通の利かないもののはずだが、瞬が操る鎖はそうではなかった。オートで機械的に動作する鎖を、瞬は密かに鎖の周囲の空気を操作することで力を加え、緻密な動きを可能にしていたのだ。
 だがしかし、この力を自覚した時、瞬は恐怖した。戦いを嫌い、出来得る限り他人を傷つける事なく過ごしたいと強く願う瞬にとって、その力はあまりにも残酷な力だった。
 だから瞬はアンドロメダ島で毎日死ぬ思いをしながらも、その己が持つ強大な力を誰にも見せる事なく、力に甘えもしなかった。それほど瞬の“傷つけたくない”という意思は強かったのだ。
 結局、瞬はこの力を用いて海を割り、聖衣を得、また最後に師であるダイダロスにのみその力を示し、島を去った。
 その瞬が今、初めて、この力を振るった。
 それは、今まで瞬の中で何よりも強かった“闘いたくない”“傷つけたくない”という思いを、アフロディーテに対する“憎い”“殺してやりたい”という思いが上回った証しでもあった。

 ──しかし。

「だ……だけど、アフロディーテ……」
 瞬がアフロディーテの命を奪う事は、既に難しい事ではない。さすがに強大すぎる能力だけあってコントロールは難しく、酸素濃度を下げきって窒息死をさせるとか、一気に身体を圧潰させる、ということは、瞬の今の実力ではできない。特に後者は、相手が黄金聖闘士である以上無理だろう。
 しかし、アフロディーテも人間である以上、関節が存在し、またそれにあわせて、聖衣も多くのパーツで構成されている。よって、アフロディーテの身体に纏わせた気流にジェット気流レベルの風速を起こし、全身の関節を逆方向にねじることは確実に可能だ。いうまでもないが、全身の骨は砕け、肉は千切れ、内臓がひねり潰されるだろう。小宇宙がどれだけあろうが、それで生きていられるならばもう人間ではない。
 だがしかし今、瞬はそうせず、話しかけていた。──殺したい程憎い敵に向かって。
「も……もしあなたが、ダイダロス先生を殺めた事を後悔しているのなら……」
 そんな風に、勝利が確実な所に近付いたせいだろうか。元々瞬が持つ、“闘いたくない”“傷つけたくない”という思いが、この場に於いてまた顔を出す。
「ひとこと……ひとこと、ダイダロス先生の霊に詫びて下さい……」
 この世の地獄、と言われる場所のひとつ。アンドロメダ島にて、瞬は恵まれた力に決して甘えなかった。誰かの命を奪う力、生殺与奪を完璧に握るその力を振るいたくないばかりに、瞬は無手で地獄を生き抜いた。
 それほどに、“傷つけたくない”という瞬の思いは強かった。親よりも大事な師を殺した敵にさえ、土壇場でそう思うほどに。

──キィン!

「──甘いぞ、アンドロメダ!」
 しかしアフロディーテは、星が鳴るような高い音とともに、瞬が差し伸べた言葉を苛烈に撥ね付けた。
「この程度のストリームを起こした位で勝ち誇るつもりか……!」
 ぐぐぐ、と、痛いほど白い薔薇を構えたアフロディーテの腕が上がっていく。キン、キン、と鳴り続ける星の音は、アフロディーテが高めた小宇宙で更に今日枯れてたピスケスの小宇宙と、瞬の小宇宙に支配された気流がぶつかる音であった。
(確かに……恐るべき力だ)
 空気を支配する力。すなわち生きとし生けるもの全てのものの生殺与奪を握るその力は、神にも等しいようなといって差し支えない力だ。我こそは女神、と謳う者の戦士として相応しくもあるだろう。
(だが、──だからこそ!)
 屈してなるものか、と、アフロディーテは小宇宙を高める。
 神に抗う、その為に自分は、彼らは、私たちは過ごしてきたのだと。
 そして、今。──もう、彼らが居ない今。
(──私が、最後)
 双魚宮。十二宮最後の砦、殿の宮。ここが突破されたその時、黄金聖闘士は全滅した事となる。教皇という本丸を守る全ての瓦解、それが何を意味するのか。
(抗え)
 アフロディーテは、“仁”と“勇”を得意とする戦士だ。仁は言わずもがな植物を操作するその力だが、アフロディーテもまた、その力に一切甘えず鍛錬を積んできた。超接近戦においては体術使いとして最高峰のシュラと五分の実力を有す彼は、華麗な容姿に似合わず強靭な肉体を持つ。また、最も高い高度に存在する双魚宮で過ごしてきただけあって、他の黄金聖闘士より酸素の薄い環境にも比較的強い。
(屈して、なるものか……!)
 全ての命を握る、神のような力。しかしその前でなお、アフロディーテは手を伸ばした。肉がちぎれ、血が滲み、骨が軋んでひび割れる。それでも、その手に握った花を、刃を、屈せず抗うその意思を、目の前の敵、女神の戦士に指し向けた。

「──私の自由は、まだ完全には奪われていない!」

 全てを支配するはずのストリームの中、ミシミシと軋む音を立てながらも、きっちりと背筋を伸ばし、白薔薇を掲げるアフロディーテに、瞬はこれまでになく驚愕した。
(そ……それに、あの白薔薇は一体……!?)
 アフロディーテがまっすぐに掲げる、純白の薔薇。いよいよ武器とは思えぬ美しい一輪に、瞬は畏れを抱く。心を奪われるほどに美しい姿、しかしそれには、凄まじい小宇宙が込められているのを感じる。
「……赤薔薇はいわば遅効性のロイヤルデモンローズを起こし、黒薔薇は即効性、ピラニアンローズを起こす……」
 瞬がじっと白薔薇を睨んでいたからか、アフロディーテは不敵な笑みを浮かべて言う。
「だがその二つをかけられてもまだこれだけの悪あがきをするとは……」
 君にはもはやこの白薔薇を撃つ以外あるまい、と、アフロディーテは言った。恐るべき事に、優れた“勇”の能力による肉体操作によって既に酸素の薄い状況に適応するべく身体を整えたのか、その口調からはぎこちなさが徐々に消えていっている。
「この白薔薇はブラッディローズといって、私の手から離れた瞬間、君の心臓に突き刺さる。たとえどんな事をしても躱す事は出来ない。そしてこの白薔薇が君の血を全て吸い付くし真っ赤に変わった時、君はもはやこの世に居ない……」
 矢座サジッタのトレミーに託した、神殺しの黄金の矢。それに託されたアフロディーテの小宇宙は、このブラッディローズの開発に用いられたそれに他ならない。敵の小宇宙を察知し、小宇宙の媒体、血液の発生源である心臓を的確に捉え、自動追尾ミサイルよろしく確実に仕留めるその力は、絶対だ。例外はない。更に、心臓に突き刺さった白薔薇は、小宇宙、即ち心臓から生み出される血液を吸い尽くすまで決して枯れる事はない。
 そしてその効能を聞いて、沙織に刺さった矢と効能がほぼ同じである事に気づいた瞬は、警戒を強めた。戦闘能力は兎も角、神足り得る巨大な小宇宙を持つ沙織があっさりと倒れた矢がどれほど危険なものかは、十分すぎるほどに明らかだ。
「私にこの白薔薇を撃たせたのは君が初めて……」
 十二宮の最後の宮、殿の宮を預るアフロディーテは、常に万全を、完璧を期してきた。超遠距離攻撃型でもあるが同時に超近距離型のスペシャリストでもあり、少ない小宇宙を補う為に、十数年分の小宇宙を宮そのものに蓄え、遅効性と即効性、両方の機能を持った薔薇を開発した。
 まさに最後の砦、殿として相応しい隙のない布陣。しかし万がいち以上の確率でその全てをくぐり抜けた時の備えも、アフロディーテは怠っていなかった。それこそがこの白薔薇、ブラッディローズだ。
 しかし、本当に最後の手段、奥の手だけあって、リスクはある。その絶対的な機能を備える為、アフロディーテは現在その身に持てる殆ど全ての小宇宙と、宮に行き渡らせている大半の小宇宙をこの白薔薇に込めなくてはならない。つまり、今度こそ、まったく後がないのだ。余談だが、込めるべき強大な小宇宙に耐えられる白薔薇の栽培自体も非常に難しい。
「褒めてやるぞ、アンドロメダ────!」
「くっ!」
 アフロディーテが一気に小宇宙を込めて白薔薇を振りかぶろうとしたその時、瞬はぞくりとした本能的危機感によって、反射的に小宇宙を高めた。
「うぁ……!」
 空気に溶け込む瞬の小宇宙が強くなると同時に、ストリームの動きが更に速くなった──すなわち圧力が強くなりアフロディーテの動きを封じる。
「……ネビュラストリームの気流……、ま……まだ激しさを増すというのか……」
「そ……その通りだ。ネビュラストリームはぼく次第で限りなく激しくなる……そして最後にはとてつもなく変化するのだ……」
 しかもこの具合からして、圧力は最終的にこの数十倍以上にもなるだろう、と容易く理解できる。その脅威に、白薔薇を投げられなかったアフロディーテは驚愕を新たにした。
「だ……だからアフロディーテ、そうなる前に……」
 それは、瞬なりの脅しであり、交渉であった。
 その前にダイダロスに謝罪の言葉を、と続けようとした瞬であったがしかし、そう言おうとしているのを察知したアフロディーテは、だからこそ、瞬の言葉を遮った。
「あ……甘いと言ったはずだぞ、アンドロメダ」
 単純に、風が強い所では息がし辛く、その上瞬が酸素濃度を下げているせいで、アフロディーテはかなりの息苦しさを感じていた。また空気は音の伝導率がさほど良くないため、発した声は非常に聞き取り辛くなるはずだ。
 しかしアフロディーテの声は、ゆっくりとしていてかつ途切れがちではあるが、不思議と、瞬の耳にまっすぐに入り込んできた。──聞き逃す事など、不可能なほどに。
「私はダイダロスを倒した事を後悔していない。詫びるつもりもない」
 今度はもはや一切の息苦しささえ感じさせず、アフロディーテははっきりと言いきった。
 また、アフロディーテは今、初めて苛立っていた。
 アフロディーテは、一切に折れるつもりがない。意思を覆すつもりも、膝を屈する気もない。息絶えても抗う姿勢でこうして立ってみせてなお、この少年は甘ったれた交渉を持ちかけてくる。その温い──アフロディーテにとっては舐め切っているとしか思えない行為に、彼は苛立っていた。
「なぜなら、ダイダロスは教皇に服従しなかった!」
 びりびりと、空気が振動して響く。瞬が支配しているはずの空気が、アフロディーテの咆哮に震えた。
「いわば君たちと同じ反逆者だからだ! それに天誅を加えて何が悪い!」
「バ……バカな」
 瞬は、呆然とした。それはアフロディーテのが己の支配下のストリームの中でまだここまでの咆哮を上げ、なおかつ響き渡らせすらした事に対してであり、また彼の言い様に対してでもあった。
 しかし、瞬も退けない。アフロディーテほど堂々としたものではなかったが、瞬もまた反論した。
「教皇こそ幼き日のアテナを殺害しようとし、聖域を簒奪した反逆者なのだ! あ……あなたはその事実を知らないのか──」
「フッ、知っているとも」
「な……」
 なんだって、と、瞬は今度こそ唖然とする。しかし瞬が絶対の自信を持って発した反論に、アフロディーテはあっさりと言った。恐るべき事に、またもこの激しい気流に素早く順応してのけたのか、再度口調が滑らかになってきている。
「他の黄金聖闘士はいざ知らず、少なくとも、蟹座キャンサーのデスマスク、山羊座カプリコーンのシュラ……そしてこの魚座ピスケスのアフロディーテはな……」
 同志と誓い、そして戦いの中、最後まで己の意思を貫き通し、散って行った悪友たち。
「過去の教皇の行いを知った上で、あえて教皇に忠誠を誓っているのだ」
「バ……バカな」
 あっさりと返された言葉は、瞬にとって、もはや理解できないものであった。
 本質的な、根本的な、世界の基を作る価値観そのものから違う。瞬にとって、アフロディーテのあり方はそれほどのものであった。
「正義を守るべきはずの聖闘士が……しかもその最高位に位置する黄金聖闘士が……あえて邪悪に加担しているのか……」
「だから甘いと言ったのだ」
 アフロディーテは、苛立たしげに言った。疑いもなく、考える事すらせず、己が正義でその他は邪悪だと言いきった少年に向かって。
「何が正義で、何が悪かもわからんヒヨコのくせに……」


 ──私たちの13年間を、何も知らぬくせに……!


 薔薇が、ざわめく。
 聖域に来てからは17年間、この双魚宮を守ると決めてからは13年間。違える事なく蓄え続けたアフロディーテの小宇宙がいま、一輪の白薔薇に集約されようとしていた。一点の染みもない、完全無欠に純白の薔薇にいま、ひとりの青年の小宇宙、──生き様の全てが込められてゆく。
 瞬は、心やさしい少年だ。気の毒な境遇に置かれた者を憐れみ、助けようとする心を持ち、己が同じ立場であったらどうだろうかと思える広い想像力があり、その上で、己がされたらいやな事は他人にも決してしないようにと心がける。
 そして、そんな心を持っているからこそ、理解しあう事が出来れば争う必要もないのだと、半ば信仰にも達したような信念をもっている。
 だがしかし、アフロディーテは違う。
 恨み、憎しみを持って向かってくる瞬を、アフロディーテは、己と同じ人間であると思った。
 そして同じ人間として、アフロディーテも、大事なものを害された怒りや怨み──瞬の気持ちを、十分に理解することが出来る。しかしアフロディーテは、瞬にけして頭を下げない。己がされたら許せない事を相手にした、その自覚があってなお、アフロディーテは後悔しない。
 それは、なぜか。
「生まれつきネジが飛んでいる」とデスマスクが己自身を含めて評した要素。デスマスクが“罪悪感”を持たず、シュラが“恐怖心”を持たないのと同じように、──アフロディーテは、他者に対する“同情心”を持たないからだ。
 共感と同情は、違う。共感とは、他人の考え・行動に対し、全くそのとおりであると同意し、同感であると感ずることである。これは、それぞれの立場を動かさず、その上で、共通点を見つけるようなと言ってもいいだろう。
 だが、同情はそうではない。同情は、他人の苦しみ・悲しみ・不幸などを同じように感じ、思いやり・いたわりの心を持ち、可哀想だと思うことである。己がこの者の立場であったらどう思うだろうかと想像し、辛いであろうと感じた時、相手を慰めたり、助けようとしたりする。──瞬が行なうのは、まさしく同情、これであろう。
 アフロディーテには、罪悪感もあり、恐怖心もあり、また全く考え方の違う他人の事を理解しようとする柔軟さも、十分にある。
 しかしそれは、あくまで、アフロディーテ自身の立場を動かさずに、という前提の上だ。
 地に根ざす花のように、アフロディーテは、決して揺らがない。罪悪感や、恐怖心に晒されようと、彼は決して動く事はない。
 よってアフロディーテは、誰かに共感する事はあっても、同情する事はない。だからこそ、アフロディーテはサガの考え、やり方に共感を覚えたとき、彼に協力した。そして、共感した──同志であるサガに敵対する瞬の気持ちを理解する事はあっても、同情しない為に、頭を下げる事はないのだ。
「──最後だから、教えてやる……!」
 小宇宙が、高まる。全ての命を潰すストリームの中、凛とした声が響く。
 どんなに劣勢でも、どんなに理不尽でも、どんなことがあってもその場を預かり水際で仲間を救う事が本懐である殿、アフロディーテのがんとした声は、その役目に相応しい力強さを持っていた。
「いいか、……力こそ、正義なのだ!」

 ──力のある方が勝ち、そして勝った方だけが我を通すことが出来る

「教皇こそ! その偉大な力を持ったお方だからこそ、この聖域を手中に収めるに相応しいのだ!」

 ──俺は、実力もないのにでかい事を言うやつが嫌いだ

 教皇に、サガにつくと誓ったあの日、彼らはそう言ったのだと、アフロディーテははっきりと覚えている。
 そして同じ日、アフロディーテは言った。戦において、殿には、主を守る最後の砦には、絶対に裏切らない強い殿こそが必要になる。そして私は常にこの二人の戦いを後ろに立って見守り、また二人が万がいち倒れ臥した時の最後の砦として戦わねばならないのだと。
 地面に根を張り、水や光を受けた分だけ美しく咲き、そして無遠慮に自分を摘もうとする者には容赦なく棘を刺す花々のように、アフロディーテはじっと状況を眺め、そして最後になって、がんとした姿勢でふさわしい評価を返す男だった。
 そしてそれは、次々と手を考えて先を読もうと動くデスマスクや、とにかく目の前のものへ斬り込んでいくシュラにとって、心強いことであった。馴れ合いをしないアフロディーテはあからさまに彼らを助ける事はしないが、絶対にその後ろに立ち続け、彼らの全てを見届けた。そして彼らが倒れてしまったいま、彼は二人の行動を自分なりに評価し、彼らの代わりに目的を果たす。
 何が正しくて何がよくなかったのか、どうしてその行動をとらなければならなかったのか、そういうものを、同情心を持たぬアフロディーテは、冷徹とも言える平等さで見極める。
 そういうアフロディーテが常に殿に居るからこそ、それが時に非情とも異常とも言えるような行動であっても、彼らは自分がこれと思った事を遠慮なく行なうことが出来た。──最後まで!
「そ……そんな馬鹿な……力が正義、だって……?」
 しかし瞬には、理解できない。ほんの僅かにも躊躇いのないアフロディーテに、瞬は怒りからか、それとも戸惑いからか、震えを含んだ声で呟く。
「な……ならば、弱い人間はどうなる……子供や老人は常に力あるものに従えというのか……! 力のある者は、常に何をしても正当化できるというのか……!」
「フッ、その通りだ」
 だからこそ、理不尽な力に、神に屈せぬよう、──弱きものが虐げられぬよう、自分たちは力を求めてきたのだから!
「──幼い赤子などに、何が出来た?」

 ──聖闘士は、赤子の為の木馬の騎士ではない!

「教皇が居たからこそ、大地の平和が今まで守られてきたのだ!」
 彼だからこそ、サガだからこそ、我々は13年間薔薇の下、秘密を共有して同じ場所に立っていたのだ!
「ち……違う! そんなことはどこかで間違っているのだ、アテナはっ……!」
「もはや問答はこれまでだ! 所詮、君らヒヨコにはわかるまい……!」
 ただ「違う」とか、「どこかで」などと曖昧な反論しか出来ない瞬に対し、嵐の中でさえ姿勢を崩さず立ち続け、その声を響かせるアフロディーテは、完全に見切りを付ける。
「さあ、この白薔薇を受けて今度こそ本当に死んでもらうぞ、アンドロメダ!」
「うっ……!」
 アフロディーテの小宇宙がこれまでになく高まってゆき、白薔薇に集約されてゆく。
(ここまで強めたストリームを破り、さらに攻撃に出る気か……!)
 瞬が起こしている気流は、もはや常人ならば既に息絶えているレベルであるはずだった。酸素は世界一の標高を誇る山の頂上よりも薄く、また気流の早さが起こす圧力は、大木の一本や二本、とっくに吹き飛んでいるくらいのものだ。
 しかし、アフロディーテは揺るがない。決して膝を屈する事なく、頑としてそこに立っている。そして彼が掲げる白薔薇は、彼の小宇宙が一点に込められ、その花びらひとつ散らしては居ない。
 さすがは、黄金聖闘士。しかしそんな肩書きだけでは計れぬ何か。気迫が、覚悟が、──想いが、アフロディーテにはあった。
「や……やめろ、アフロディーテ……」
 しかし、瞬もまた、譲れなかった。
 殺したい程憎い仇。そんな相手にすら、闘いたくない、傷つけたくない──出来るならわかりあいたい、そう思ってしまう瞬の最大の譲歩が、ダイダロスに詫びの言葉を入れるなら、という事だった。そして瞬は今この瞬間もなお、その思いを捨てては居ない。
 かつて兄とともに、宇宙から見た地球の写真を眺めた。地球には地図にあるような国境線などどこにもなく、とても美しかった。
 こんなにも美しい地球の上で、ありもしない境目を作り、争う人々を悲しいと思った。だからできるなら、平和を守る為に力を尽くしたい、瞬はそう思って聖闘士になった。
 だからこそ、瞬は諦めるわけにはいかなかった。そう誓って聖闘士になった以上、師を殺した、胸が潰れるほどに悔い仇でさえ和解出来るのだと証明してみせねばならなかった。
「貴方の動きを封じる為にストリームを高めれば、変化すると言ったはず……! 気流ストリームストームに変わるのだ! そうしたら、あなたは今度こそ確実に死ぬ!」
「フッ、やってみたまえ」
 ──しかし、瞬の譲歩は、交渉は、脅しにすらならなかった。
 既に、強い気流に抗っているせいで、アフロディーテの全身の骨はきっとヒビだらけだろう。この上更に気流の圧力を強くすれば、アフロディーテの全身の骨は砕け、肉とともに内臓が潰れ、瞬の言う通り、確実に死に至る。もはや小宇宙が強いとか弱いは関係ない。
 それでも、アフロディーテは迷わなかった。やるならやれと、自分がそうであるように、お前が思う通りにやれと、躊躇いなく言いきってみせた。
「私が死ぬのが先か、君がこの白薔薇に射抜かれて死ぬのが先か」
 気流の間を縫って、骨を軋ませ、肉を裂かせながら、麗人は迷いなく純白の薔薇を掲げる。
「さあ……! もうこれ以上このストリームで私の攻撃を阻止するのは不可能だぞ……!」
 その姿勢は、今すぐ瞬に薔薇を放つ事ができる姿であり、またそれは、いま気流が強められたら確実に命がない立ち方でもあった。絶対に後戻りの出来ぬ所まで、アフロディーテは微塵の迷いもなく進みきったのである。
「や……やめろ────ッ!!」
「死ね、アンドロメダ! 受けよ──ブラッディローズ!

 ──白薔薇が、飛ぶ。

 大木を吹き飛ばし、海を割り、地をひっくり返すほどの気流。
 しかしその中で、アフロディーテがその身に持てる全ての小宇宙を、そして双魚宮中に蓄えられた13年分の小宇宙を込められた純白の薔薇は、まっすぐに少年の心臓を目指していた。
 互いに、セブンセンシズがもたらす光速の世界。
 瞬の作り出した気流、いま嵐に変わろうとしている空間は、星の世界、何もかもを凍てつかせ引き裂く、厳しい真空の世界を彷彿とさせた。しかし純白の薔薇は、宇宙空間でも何万年も軌道を崩さぬ星のように、まっすぐに飛んでゆく。
「くうっ……! 爆発しろ、ネビュラよ!」
 そしてその絶対的な姿に、瞬もまた抗う。頑として揺らがぬ魚座の星に向かうのは、ビッグ・バンにも匹敵する爆発が起こす、アンドロメダの星雲ネビュラ

──ビシッ!

 少年の心臓を、白薔薇が射抜く。
 瞬は、歯を食いしばった。とうとうわかりあえなかった事を悔やんで。──そして、己の意思もまた最後まで覆さなかった事を噛み締めて。
 瞬の胸には、深々と白薔薇が刺さっている。こうなるまで、瞬は攻撃に出なかった。どんなに命を危険に晒すことになったとしても、やむを得ない正当防衛、そういえるまで、瞬は交渉を諦めなかった。
 それは瞬にとって譲れない事であり、そして、防戦を信条とするアテナの聖闘士の鑑でもあった。


「──ネビュラ・ストーム!」


 その名に違わぬ、人が起こしたとは思えない、まさに天災と言うべきストームに、アフロディーテの身体がとうとう吹き飛ぶ。
 あれほど頑として立ち続けていたしていたアフロディーテの肉体が、嵐の中の木の葉と同様に舞い上がり、そして地に落ちる。全ての小宇宙を白薔薇に込めきったせいで聖衣もまた小宇宙の供給を失い、星の鳴るような音ではなく、ガシャン、と無骨な音を立てる。
「う……く……」
 意思の力ではなく、生理的な呻きが、アフロディーテの口から漏れる。
(ス……ストリームが……まさしく気流ストリームストームに変化した……)
 瞬の予告通り、アフロディーテはずたずただった。さすがに聖衣に覆われている所の損傷はさほどではないが、そうでない所や、可動の為のジョイント部分の隙から空気が入り込む部分は、骨が粉砕され、肉が引き裂かれ、それに伴って内臓も挽き潰されたようになっていた。
「み……見事だ、アンドロメダ」
 おそるべき、ともいえよう。瞬の持つ力は、まさしく青銅らしからぬものだった。アンドロメダのチェーンなど、もはや話にならぬ程に。
「だ……だが、君も滅びる……」
 にやり、と、尚も不敵な笑みが浮かぶ。アフロディーテの全てを込めた白薔薇は、瞬の心臓に確かに突き刺さった。
(に……にいさん……)
 そして瞬もまた、笑みを浮かべていた。胸に刺さった白薔薇は、瞬の血で赤く染まりつつある。
(ぼく、男らしく最後まで闘ったよ…… ダイダロス先生の仇も取った……)

 これで少しでも、平和に近付いただろうか。

 毒に侵され、痛みに鈍り、朦朧とした頭で、ぼんやりと夢現に思いながら瞬が浮かべたのは、天使のような笑み。しかし、ドサリ、と瞬が倒れた音を聞いて、アフロディーテは尚も笑みを深くする。
 小宇宙を使い切り、神経すらずたずたに挽きちぎれたせいでぼやけきった視界の中、茶けた色が見える。瑞々しく咲き誇っていた薔薇たちが、主の小宇宙を失って枯れつつあるのだ。
 双魚宮の中だけではない。アフロディーテが目として、耳として侍らせ、そして人々の為に恵み与えた聖域中の植物の全てが今、一斉に萎れて行こうとしていた。
「所詮……教皇を倒す事など、不可能、な……」
 しかし尚、アフロディーテは疑わない。負ける事を、折れる事を。
(私が、最後)
 デスマスクが倒れ、シュラが倒れ、そして最後に自分が倒れた。──そう、最後だ。
(私で最後だ、サガ)

 ──倒れるのは、私が最後だ。

 アフロディーテは、疑わない。我らの上に立つ者こそが正義なのだと。
 薔薇が、枯れてゆく。
 ある程度は保つだろうが、アフロディーテの小宇宙の消滅に従い、双魚宮から教皇宮までの階段を覆う魔宮薔薇も、だんだんと毒が抜け、枯れてゆくだろう。ペガサスは既に薔薇の毒を吸っているだろうから、彼が階段を昇りきれるかどうかは定かではないが。
 13年間もの間秘密を覆い隠してきた薔薇が、茨が、萎れてゆく。そして、女神の戦士を名乗る少年たちに掻き分けられた茨の向こうには、彼が立っている。
(サガ)
 赤い目と黒い髪を備え、そして誰よりも美しく立つ王者。
(あなたは、決して倒されない)
 アフロディーテは、疑わない。笑いさえして、頑として咲き誇る。


 ──最後まで。決して折れなかった男が、今、散った。
 ──誰よりも美しく、堂々と笑いながら。


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BY 餡子郎
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