第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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──姉さん
煙と炎が上がる中、見失いそうになる小さな後ろ姿を、必死で追いかける。
──姉さん
あらん限りに手を伸ばし、しかしそれでも届かぬ背中。ぼやけてゆく姿に、焦燥が募る。
──魔鈴さん
「……星矢!」
叫び、起き上がった視界に広がったのは、満天の星空。
冷えた大気が喉と肺、そして頭を冷やしてくれるのが心地よい。耳に響く荒い呼吸、そして今しがたの夢も、あの男の魔宮薔薇の毒がもたらしたものだろう。澄んだ空気が、それらを薄めて行くのがわかる。
「気がついたかい、魔鈴」
「はっ……」
思わずびくりと身を震わせた魔鈴は、声のした先を見た。そして、その見慣れた姿に、自然に肩が下がる。
「シ……シャイナか……」
階段脇の岩場に腰掛けたシャイナは、聖衣を纏っていない。
カシオスの遺体をひとまず家の中に安置したまま、獅子宮に戻るアイオリアに便乗する形で、十二宮を昇った。命がけで星矢たちの道を拓いた、とも言えるカシオスの師であるという事と、黄金聖闘士でありその当事者であるアイオリアの口添え、また、まだ彼女が戦闘には耐えられない怪我人であるということが、「現在行方不明の魔鈴を探すため」という口実を実現させた。
更に、戦いには参加しないという意思表明のため聖衣を纏わぬ姿で、シャイナは十二宮を駆け上ってきた。──とはいっても、アイオリアとともに登ってきた獅子宮までは兎も角、あとは天蠍宮以外全て戦いが終わったあとの無人宮であったので、聖衣を纏わぬという気遣いも虚しく、本当にただ昇っただけであったが。
「セ……星矢は……」
「行ったよ、教皇の間へ……」
毒と疲労のせいでまだ息が荒い魔鈴の声は、切羽詰まっていた。
いつも冷静で取り澄ました風に見える魔鈴のそんな様子に毒気を抜かれたか、シャイナも珍しく、特に憎まれ口のオプションをつけることもなく、さらりと応える。すると魔鈴はまさに一息ついたという様子で、「そうか……」と呟き、仮面の下で大きく息を吐いた。
「魔鈴、その姿は……? 一体、今までどこに行っていたんだい?」
シャイナがここまでやってきた口実。しかしそれは、シャイナの個人的な疑問でもあった。彼女が弟子である星矢の味方をすることは特に不思議ではないが、それにしたって、魔鈴の行動は謎な部分が多すぎた。──この戦いに置いて、末端にいるシャイナにとっては。
「スターヒルさ」
「な……」
逡巡することなくさらりと発された魔鈴の答えに、シャイナは絶句した。
「なんだって……? スターヒル?」
スターヒルとは、教皇の間とアテナ神殿の間から少し外れた所にある。グラドゥス・アド・パルナッスムとも揶揄される十二宮が建造されたこの岩山と隣接しているような岩山、それそのものがスターヒルであった。
スターヒルは、代々の教皇が女神に代わって星の動きを見て大地の吉凶を占う場所である。
そして、聖域の中でも、教皇以外の立ち入りが一切許されていない、禁区中の禁区であった。実際、スターヒル全体には十二宮とはまた別の結界が施されており、かならず教皇宮からでないと到達する事は出来ないようになっている。
星矢と別れて以来、教皇の正体を暴く為に暗躍していたのだ、と、シャイナは魔鈴本人の口から聞き、引き続き唖然としていた。
しかし、納得もした。そんな目的があったのであれば、スターヒルにこそその秘密があると思うのは自然な事だ。十二宮よりもはるかに到達が難しく、正統な手段でなく侵入するとなれば死と隣り合わせどころではないだろうことを置いておいての話だが。
だがこの魔鈴は、そのスターヒルに侵入を果たしたのだという。シャイナは今まで散々抱いてきた魔鈴への嫌悪感や苛立ちを吹っ飛ばし、もはや呆れた。常に冷静で、気配を察知させず、任務の上で様々な難所に侵入を果たしてきた魔鈴の事を、日本人である事も絡めて“ニンジャ”と呼ぶ輩がいたが、魔鈴はまさにそれに相応しかろう、とシャイナは認めた。
「おかげで、スターヒルの頂上の祭壇の上で発見したのさ…… 十年以上も経った、教皇の死体をね……」
魔鈴のその発言に、シャイナが、驚愕の声を上げた。
教皇の法衣をまとった、白骨。アフロディーテに教えられた抜け道経由とはいえ、強固な結界に身体を焼かれながらスターヒルに到達した魔鈴がまず発見したのは、それであった。
おそらくは、占星の際に供え物でもするための祭壇なのだろうそこに横たえられたその有様は、まるで神に捧げられた供物のような、呪術めいた様相であった、と魔鈴は回想する。
犯行の決定的な証拠となるはずのその遺体を廃棄・隠蔽する事なく、わざわざああして祭壇に掲げているところに、魔鈴は強い怨念のようなものを感じて、ぞくりとした。
「教皇の死体だって……!? バ……バカな、それではあの教皇は……! 星矢が乗り込んで行った教皇の正体は……!」
「さあね。だが、シオン教皇じゃあない」
魔鈴は、またもあっさりと言った。
「ク……」
再度絶句していたシャイナであったが、魔鈴の呻き声に、ハッと我に還る。そして魔鈴が立ち上がろうとしている事に、仮面の下の目を見開いた。
「ちょっと、おやめよ。死ぬよ」
シャイナは、焦った声で忠告した。しかし魔鈴は構わず、まさに岩にかじり付くといった様相で、階段脇の石を支えに身を起こそうとしている。
「……薔薇がない……」
「は?」
「薔薇が……、……ピスケスは、どうした」
「ピスケス?」
動いたせいでまた荒くなった域とともに尋ねてきた魔鈴に、シャイナは首をひねる。
「……ピスケスなら、死んだよ。アンドロメダの瞬って子に──」
「そう……」
──死んだのか。
殺しても死ななさそうだった、あの麗人は、死んだのか。魔鈴はぼんやりとそう思った。何だか現実感がないのは、彼の薔薇の毒のせいだろうか。
「ピスケスがどうしたっていうのさ。アンタ、仲良かったっけ?」
「冗談こくな」
シャイナの訝しげな質問に、魔鈴は珍しくも、若干苛立ちの籠った声で言った。力の入らない身体を忌々しく、そしてそれが彼の薔薇のせいだと思うと、あの絶世の美貌が作る薄情な笑みを思い返し、魔鈴は何だかむかついた。
「……薔薇の下には秘密がある」
──私はこの13年間、ずっと秘密を守り通してきた。薔薇の下で、という言葉どおりにね
──しかしここまで来たら、もうすべてを明かしてしまってもいいのではないかと──
あれは、遺言だ。……遺言に、なってしまった。
──いや、明かしてしまいたい、と思ったのだよ
魔鈴は、彼の薔薇に導かれ、聖闘士となった。蔓一本程度の僅かな縁だがしかし、同じ魚座の星の下に生まれた者同士だからであろうか、魔鈴はもはや意味などない、意地と言っていい心地で、彼の言葉を実行しようと──、いや、実行してやろう、としていた。
──我々は、確かに皆に対して多くの隠し事をしている
──しかしそれは、明かしても決して恥じるようなことではないし、本来誰からも責められるようなことではないと、胸を張って言うことが出来る
ならば、見てやろうではないか。
──君の仕事は、どちらかの味方をすることでも、どちらがより正しいかを断ずることでもない。ただありのままを見ることだけさ
見届けてやろうではないか── この、鷲の目で!
「薔薇の下……?」
「とっとと見つけないと、あの男が全部なかったことにしてしまう」
アフロディーテにも言ったが、アテナが戦いに勝利したならば、アテナの不利益になる情報は、片っ端からあの男──ニコルが隠滅してしまうだろう。その前に、魔鈴は見なければならない。
──事実を。
真実ではない。真実は、正義は、それぞれにそれぞれだけある。魔鈴が、“監視人(イーグル・アイ)”が見なければならないのは、ただ現実に起こった、ありのままの、思想の絡まぬ、単なる事実だ。
「くっ……!」
岩に爪を立て、傷つき、毒に侵された身体を引きずって、魔鈴は進む。薔薇の下へ。
「……ああ、もう、世話の焼ける!」
「!?」
いらいらとした声での叫びが聞こえたと思った瞬間、魔鈴の身体が引き上げられた。腕を引っ張られた事で激痛は走ったが、しかしすぐに、脇下からしっかりと支えられた事がわかる。
ぽかんとして横を見れば、自分と同じ、銀色の仮面。
「ああもう、アタシだって怪我人なんだからな! アタシが辛くなったらもう知らないからね、このクソ女!」
「…………」
ぶつぶつと憎まれ口を叩きながら肩を貸すシャイナに、魔鈴はここ数年で最大の驚愕を覚えた。
今までの境遇から、魔鈴は他人に助けを求めるという事をまずしない。だから魔鈴は、他人からのアプローチに対して必然的に受け身一辺倒だ。だがしかし、それがまさか、己を蛇蝎のように嫌っていたシャイナから施されることになるとは。
「……ちょっと。一体どういう風の吹き回し? アンタもなんかタチの悪い毒にやられたわけ?」
「口の減らない女だね! 素直にありがとうございますシャイナ様って言っとけ!」
口の減らないのはどっちだ、と魔鈴は思ったが、乱暴そうに見えてきちんと身体を支えてくるシャイナに、フッと笑った。
癇癪持ちで乱暴な女と思われがちなシャイナだが、“勇”の才能に優れているだけあって、彼女は身体の怪我の対処に関しても優れている。そのことから、医学の守護神アスクレピオスの杖の星、蛇遣い座の聖闘士に相応しく、怪我をした候補生たちへの対処も適切だった。
そういう一面があるからこそ、彼女の、自分以外に排他的な、選民思想的な幼い精神さえ、愛すべきものとして目下の者たちに慕われてきたのだ。
「……そうだね。ありがとうございますシャイナ様」
「棒読みじゃないのさ! むっかつく!」
「どうしろってのよ」
今まで散々彼女の幼い癇癪に辟易してきたものだが、こうして一対一で接してみると、何だか子供が喚いているようで、別に腹が立つようなものでもない。いやむしろ──
「何笑ってんのさ! 気持ち悪いな!」
「ひどいね」
シャイナを慕う者たちの気持ちが、少しわかった気がした。
《──ムウ》
直接頭の中に響く声に、ムウはぴくりと身じろぎした。
《牡羊座、アリエスのムウよ……!》
「その声は……」
13年前からジャミールに籠り、聖域には一切出向かなかったムウは、黄金聖闘士たちと合うのは、一部を除き本当に久方ぶりである。声変わり前の高い声しか覚えていないことも珍しくなかったが、頭の中に響く静かな小宇宙には、覚えがあった。
「乙女座、バルゴのシャカか……?」
《そうだ、ムウよ。きみにちょっと助けてもらいたいのだ》
十年近くぶりの邂逅だと言うのに、挨拶もせずいきなり頼み事をしてくる辺り、性格は全く変わっていないらしいな、とムウは懐かしさの籠った苦笑を浮かべた。
《実は、時空の間の、ねじ曲がった、すごく面倒な所へ落ちてしまってね……》
「フッ、私にわざわざ助けを求めずとも……シャカよ、君の力ならいかなる時空からも戻って来れるはずだが?」
笑みを深くして言ったムウの言葉は、真実だ。シャカの力──類い稀なる質を持った“仁”の力と、最も神に誓いとまで言われた“智”の力、すなわち絶大なる小宇宙があれば、どんな異次元に飛ばされようとも戻って来れるはずであった。
《いや、私一人ならよいが、もう一人助けたい男が居るのだ》
シャカが“助けたい”とは珍しいな、と、ムウは失礼ながらも純粋にそう思い、そして興味を持った。シャカにそう言わせる人物とは──
(一輝か……)
先程までシャカと戦いを繰り広げた、青銅としては規格外の実力を持ち、そして色々な意味で枠にはまらない不死鳥フェニックスの聖衣を纏った男。確かに興味深い人物であるが、よもやシャカの眼矩ににかなうとは、と、ムウは口の端を僅かに上げる。
《黄金聖闘士の中でも、並外れたサイコキネシスを持つのは君だけだ》
──いま存在している黄金聖闘士の中では、確かにそうだ。かつて超能力においてシャカやムウに教える側であった蟹座キャンサーはもう居らず、そして彼(・)は──
《頼む。話は後でする……》
「……よし、わかった。処女宮に戻せば良いのだな……」
目を閉じ、ムウは小宇宙を高めた。天災さえも起こせるような巨大な小宇宙が渦巻き、三次元でなく、四次元にまで干渉し始める。
先程のシャカからのテレパスを手がかりに、シャカの居場所を辿る。するとなるほど、シャカだけでなく、フェニックス一輝の小宇宙も感じることが出来た。
「……捕えた。シャカ、乙女座バルゴの聖衣は処女宮にあるな?」
《うむ。それを道しるべに戻るつもりだ。補助を頼む》
「承知した」
大気のどこかに穴が開いたような気配がする。ここではない時空と、この世界が繋がったのだ。そしてシャカの言った通り、その扉は処女宮の、乙女座バルゴの聖衣。
──キィン!
星が鳴るような音とともに、空間からにじみ出るようにして、二人分の姿が処女宮に現れる。そして星の音と共に分解したバルゴが、降臨したシャカの身体を素早く覆った。
《ムウ、助かった》
《どういたしまして。では、また》
《うむ》
思念での会話を終え、シャカは腕に抱えた一輝を地面に下ろすと、背に回り、活を入れた。すると、うっ、という小さな呻きとともに、だらりと弛緩していた一輝の身体に力が戻る。
「うう……」
「気がついたかね、一輝」
活を入れた後、すぐにヒーリングを施しながら、シャカは確認した。特に問題もなさそうに、目を開けて頭を振る一輝に、シャカは感心しつつ、しかしいっそ呆れた。闘っていたときも思ったが、つくづくタフな少年である。
しかしここまでタフならしっかりヒーリングを施せば十分闘えるであろう、と、シャカは素早くそれを終えた。元々ヒーリングはさほど得意ではないので、おそらく一輝はあまり快適に回復したとは言えなかろう。事実、わけのわからぬうちにシャカの小宇宙を分け与えられた一輝は、微妙に反発現象の残ったままのそれに目を白黒させていたが、しかしそんな事はシャカの知った事ではない。
「う……、……こ……ここは、元の処女宮……?」
「今は事情を説明している暇はない。教皇の間へ急ぎたまえ」
シャカは、少しせっかちに言った。
「教皇の間へ……」
「そうだ。今ペガサスがひとりで苦戦中のはず……時間もあと僅かしかない」
いくら聖闘士が常人ならぬ早さで駆けることが出来るとはいえ、十二宮は立派に山と言っていい規模の要塞で、処女宮はそのちょうど中央に位置する宮だ。守護者と闘う必要がもうない為に全てただ駆け抜けるだけではあるが、それだけでも時間はギリギリなのだ。
「セ……星矢が、ひとりで……」
「きみのフェニックスの聖衣は、黄金聖衣にもない自己修復能力を持っているのだったな……。死してもまた、灰の中から蘇ると……」
──ひと握りの灰さえあれば、フェニックスはまた羽ばたく。
そしてそれこそが、不死鳥フェニックスの聖衣が青銅らしからぬといわれる最大の理由だ。歴史上でも、このフェニックスを青銅とカテゴライズするのは如何かと、何度も取沙汰されてきたことがある。
ちなみにこの自己修復能力、聖衣修復の技を受け継ぐアリエスの秘伝にも残っていない為、再現するのは事実上もはや不可能であるという。
シャカが拾い上げたフェニックスの灰が漂い、きらきらと煌めき始める。聖衣が持つ星の輝き、しかしフェニックスのそれは、星の光よりも熱量の目立つ、炎から舞い上がる火の粉と表現した方が適当に感じられた。
──ゴゥ!
火の粉の輝きが一輝の身体にまとわりついたと思ったその時、それらが一斉に炎を吹き上げる。傍目には一輝が炎に包まれたようにしか見えない壮絶な光景であったがしかし、次の瞬間には、新生した輝きを放つフェニックスの聖衣に身を包んだ一輝の姿が現れる。
その様はまさに、炎の中からもう一度生まれるという不死鳥、そのもののようであった。
「……このシャカ、ひとつだけ君に頼みがある」
一輝が新生した聖衣の具合を軽く確かめていると、シャカが、静かな──というよりは、どこか厳かな様子で言った。
「もし教皇を追いつめることが出来たとしても、命だけは助けてやってくれないか」
「なに?」
一輝は、眉を顰めた。
命だけは──という、聞き慣れた、ありがちな嘆願。しかしその言葉は、よりにもよってこの男が発するのは似合わなさすぎた。慈悲など持たぬと断言した、このシャカという男には。
──完全なる悪、完全なる正義など存在し得ないのだ
宇宙全体の真理は、無常ということなのだと、戦いの最中、シャカは言った。そしてその上で、己が見た教皇は正義なのだと、はっきりと断言した。だからシャカは教皇に敵対することはないのだと。
一輝にとって、シャカは今まで戦った敵の中でもずば抜けて、いやもはや比べ物にならぬレベルの強敵であったが、それ以上に、得るものの多い人物であった。哲学の問答のようなやり取りからも、彼が凄まじい戦士であるというのとはまた別の所を極めた人物であるという事を、一輝は既に理解している。
だからこそ、今までのように無闇に突っ込んで行くことはせず、まず彼の言葉を聞くことを最善と判断し、静かに耳を傾けていた。それに、好戦的に見える行動から誤解されがちだが、一輝は決して猪武者ではない。話を聞き、考え、その上で慎重に行動する思慮深さを、兄弟たちの中で最も持っているのは一輝に他ならない。
そしてそれを、シャカもまた察していた。
──一輝は、“仁”、“智”、“勇”に優れた聖闘士だと。
炎を操る“仁”の力、そしてこの若さでどんな経験がそうさせたのか、深い精神性に裏打ちされた“智”、そして言わずもがな、恵まれた体躯に甘えず研ぎ澄まされた“勇”。
フェニックスという、青銅の枠にはまり切れない聖衣。しかしその主もまた、青銅というにはあまりありすぎる実力を備えている、と、シャカは評した。
“仁”、“智”、“勇”に優れるということは、そのうちのどれかに飛び抜けて優れるよりも凄まじい強さを発揮する。しかしそれは持って生まれた才能と、そしてそれに甘えぬ絶大な努力を持ってせねば為す事は出来ない。
よって、この三つが揃っているというのは、人格的にも信頼が置ける、ということを表す。だからこそ、この概念は教皇たる条件として掲げられている。
(──彼も、また)
そう、彼(・)もまた、“仁”、“智”、“勇”に優れた、正義の男だ。間違いなく。
だからこそ、シャカは彼を正義と見た。──我らが教皇と、認めたのだ。しかし──
「し……しかし、シャカよ。どうしてこの俺まで再び蘇らせたのだ」
「……迷いが生じたからさ。このシャカの心の中に、初めて……」
そう、迷いだ。
今でも、彼(・)を、教皇を正義だと思う事は、揺らぎはしない。
「その迷いを植え込んだのは君だ、一輝……」
しかし、彼(・)と同じく仁知勇の揃った若者と対峙した今、その正義に敵対する別の正義を悪と見て軽んじても良いものかどうか、シャカは迷った。
そして迷った末、行かせる事にした。──闘わせる事にした。どちらが、正義なのかと。
(……憎たらしい事だ。“力こそ正義”──)
だらしなく椅子に寝そべり、口元に笑みを浮かべて人を食ったような軽口を叩く、銀髪の少年の姿を思い出す。
悪魔の証明じみた彼との問答、その中で最も悪魔的と言えるのが、この「力こそ正義」という彼の座右の銘ともいうべき主張だった。
それはどうかと直感的に思うものの、はっきりした反論は決して出来ない。そしてこうして切羽詰まれば、シャカでさえ、その「力こそ正義」というやり方で雌雄を決そうとしてしまう。勝った方が正義なのだと、結局は認めてしまうのだ。
喧嘩は弱い、嫌いだと、彼は言った。しかし彼が試合に負ける所は幾度も見れど、勝負に負けた所はついぞ見たことがない。そしれそれは、こうして彼が死んだ後も、ついに覆されてはいないのだ。
赤い目が、してやったりざまあ見ろと、意地悪そうに、こ憎たらしく笑った気がした。
──では、きみの思う強さとは、何だね
かつてシャカは、彼に問うた。
彼は、強さとは、力とは、単なる武力ではないと言った。そして、それよりも大事なのは情報だと言った。情報を制すれば、武力を振るうまでもない。なるほど納得だ。しかしそれも戦争に限ってのことであって、力そのものではないという。情報は、あくまで強さを得るためのいち手段に過ぎないのだと。
(……君のいう強さとは、何だったのかね、デスマスク)
赤い目の悪魔の問答の答えは、きっとそこにある。
だが、それがわかる日は、来るだろうか。彼が居なくなってしまった日々の中でも。
「フッ……。さあ、行きたまえ」
「シャカ……」
どこか自嘲するような、寂しげな笑みを浮かべたシャカに、一輝は目を細める。
だが彼の遠い笑みは、自分のどんな言葉でも触れられないところにあるのだろうと悟った思慮深い少年はそれ以上言葉を発する事なく、走り出す。星矢を、弟を、救う為に。
──己の正義を、通す為に。
そして、その頃。
星矢は、とうとう階段を昇りきろうとしていた。
(もうすぐ……)
薔薇の毒は殆ど薄まり、全速力で駆けるのに何の問題もなかった。それを、不思議だ──と、星矢も思わなくはない。思わなくはないが、考えている暇がなかった。
そう、考えている暇などないのだ。だから星矢は、この戦いが始まってからというもの、ものを考えるという事を殆どしていない。
元々、ものごとをじっくり考える、というのが苦手だという事を、星矢自身否定はしない。勉強嫌いなその質は魔鈴に散々手を焼かせたし、哲学的な話などになればなお一層その傾向は強い。
だがそれを差し引いても、星矢は何も考えないままここに居る。いや、何も考えずに来たからこそここに居られるのだと、星矢は今、ぼんやりと理解し始めていた。
(──姉さん)
生き別れ、ただひたすら再び合う事だけを夢見てきた実姉・星華。
(魔鈴さん──)
ここ聖域で、死ぬほど厳しいが絶対に死なないように、この6年間己を鍛えてくれた師匠。
先程、魔鈴の仮面の下の素顔を見るか見まいか、星矢は悩んだ。──つまり、考えた。頭が沸騰するほど悩み、しかし結局理屈もくそもない直感的によって、魔鈴の素顔を見る事はしなかった。
一応、女聖闘士が素顔を見られるのは裸を見られるよりも屈辱的な事であるのだとか、見てしまったら殺されるか愛されるかという究極の二択が待っているのだとか、もっともな理由はある。
だがやはり、星矢が魔鈴の素顔を見なかったのは、「何かとても悪い事をするような気がする」という、理屈のない直感だった。
──星矢がもっとものを考えることに慣れた少年なら、なぜそう思ってしまうのか、考えただろうか?
それは、誰にもわからない。
だがとにかく、星矢は、魔鈴の素顔を確かめるのが、とてもいけない事のような気がしたのだ。いや、正しくは、女性の顔を見るのが、だ。
──それは何故かとは、星矢は考えない。考えるのは、とてもいけない事であるような気がする。
(姉さん)
あれほどに、焦がれた姉。6年間もの間死ぬ思いをしてまで会いたかった姉かもしれない人を、星矢は確かめなかった。
(姉さん……)
星矢が心の中でぼんやりと呼びかける姉の姿はいま、どこか霞んでいる。今までは、星矢が乗ったバスを泣きながら追いかけてくる星華の姿を、昨日の事のように鮮明に思い出せたというのに。
そして、姉の姿がぼやけていくのに比例して、星矢自身、どこか遠い所に来てしまったような感覚があった。
冷静に判断すれば、星華が行方不明になったと言われる時に既に聖闘士としてここに居た魔鈴が、当人であるはずがない。しかし星矢の思いは、そんな単純な理屈すら忘れるほどに激しい思いだったはずだった。姉かもしれない、姉の手がかりかもしれない、それだけで我を忘れて形振り構わなくなるほどに、胸を掻きむしり、血を吐くほどに焦がれることであったはずだった。
だが星矢は、確かめなかった。姉かもしれない人を、確かめなかった。なぜか、どうしてか、どうしても、何(・)か(・)と(・)て(・)も(・)悪(・)い(・)事(・)を(・)す(・)る(・)よ(・)う(・)な(・)気(・)が(・)し(・)た(・)か(・)ら(・)。
(この戦いが、終わったら)
魔鈴も素顔を見せてくれるかもしれない。
そうだ、シャイナさんもそう言ったじゃないか、と、星矢は自分を納得させた。戦いが終わったら、そうしたら、魔鈴さんに確かめればいい。──それまでは、何も考えてはいけないのだ。
(アイオロスに、言われたんだ……! アテナを託す、と……!)
人馬宮にて、星矢は、説明できない、しかし絶大なる力を、意思を感じた。かの黄金の矢は、確かに今、星矢の胸に刺さっている。
だから星矢は、ひたすらに走った。
何も考えず、たったひとつの命を掛けて。
(──女神(アテナ)の、為に……!)
そしてとうとう階段を昇りきり、星矢は広大な教皇宮の敷地を一直線に駆け抜けた。
照明のない通路は暗く、茶色く枯れた薔薇がそこかしこに、恨めしげにも見える風情で絡み付いている。しかし星矢はそれを一瞥すらする事なく、ただひたすらまっすぐに駆けた。
「……ここが、教皇の間か!」
がっちりと隙間なく閉まっている重厚な扉は、見た目通りに頑強だった。とりあえずぐいぐいと押してみてもびくともしないので、星矢は数歩扉から離れ、腰を落として構え、小宇宙を高めた。
「……ペガサス、流星拳────!!」
──バァン!
凄まじい音がして、重い扉が開け放たれる。
視界に飛び込んだのは、まず、赤。
「う……!」
今まで月星の光のみの薄暗い道、しかも白っぽい岩ばかりの場所が続いたせいか、それは実際よりもなお一層赤く見えた。
高い天井、まっすぐにそびえる柱。石床の上に敷かれた真っ赤な絨毯の先には、玉座。そしてその玉座に座すのは、黒と金の法衣を纏い、翼龍の兜を被った人物。
「教皇……!」
これまで数度聖域で、そしてついこの間、天馬星座ペガサスの青銅聖衣の奪取試合の際、星矢が見た事のあるその姿が今、目の前にあった。
「星矢か……」
呼んだ声は、あまりにも滑らかな、優美とすら言える低いバリトン。ぞくりと響くその声、そして立ち上がってわかった背の高さに、星矢は思わず後ずさった。
「よく、ここまで辿り着けたな……」
まるで小さな子供を慈愛たっぷりに褒めるようなその声に、星矢は戸惑う。
(……これが、邪悪な、教皇?)
そんな馬鹿な、と、星矢は戸惑う。
教皇は、ほんとうの教皇を殺して成り代わり、アテナまでもを殺そうとし、アイオロスを逆賊として追放し、そして殺した極悪非道の、邪なる者のはずだ。
長く美しい指をした男の手が、翼龍の兜にかかる。重たげな兜が難なく持ち上げられ、その下の素顔が明らかとなった。
「な……」
兜の下から溢れる、豊かなプラチナ・ブロンド。ブルーグレーの目が、朝日のようにやさしく輝く眼差しを送ってくる。
「何……、お……お前が……?」
その容貌は、美しく。
先程見たアフロディーテもまた信じられぬ程の美貌であったが、星矢の目の前に立つ男は、彼とはまた違う、しかしやはり絶世の美貌を持っていた。
星矢が「本当に男か」と評したその通り、アフロディーテの美貌は性別を超越した類いのものであったが、目の前の彼は違う。
おそらく、今まで会った黄金聖闘士の中で、アルデバランを除いて最も背が高いのではないだろうか。しかし細身ではなく、むしろ背の高さに見合って十分男性的な、しかも国宝級の彫像ですら恥じ入って台座から逃げ出すのではないだろうか、などと思うほど見事な体つきをしているのが、ゆったりとした法衣越しでもわかる。
そしてその顔も、しっかりと通った鼻筋、高めの頬骨、やや太い眉、がっしりとした肩と首から続く顎のラインでもってして、男性というカテゴリの中でこれ以上の美はないだろうと断言してもいいだろうものだった。
(これが、教皇)
星矢は、信じられなかった。
何故と言って、何故とよくよく考えられる頭を今の星矢は持ち合わせていなかったがしかし、それでも今、何故と言われれば、答えることが出来る。
──あれは、自分と同じものだ。
アテナの為に、女神の為に、そうして命を賭ける者。
アイオロスに女神を託されし自分たちと同じものを、彼は持っている。
「おまえが、教皇か……!」
──星矢は、戸惑った。
ほんとうの教皇を殺して成り代わり、アテナまでもを殺そうとし、アイオロスを逆賊として追放し、そして殺した極悪非道の、邪なる者、偽りの教皇。
──彼は、神の化身のような男だった。