第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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この13年間、常に己の周りを覆ってきた薔薇たちからゆっくりと生命が抜け落ちてゆくのを、玉座に腰掛けたサガは、やや伏せた目でじっと見遣る。
「よくやった」
誰も聞くことのない、労いの言葉。
「……そうだ。お前で最後だ、アフロディーテ」
麗人の最後の言葉は、薔薇の蔓によって、最後の小宇宙としてサガの元に届いていた。
──デスマスク、シュラ、アフロディーテ。
己の意思に賛同し、この13年間従ってきてくれた彼らが今日、居なくなった。女神ではなく己を、己の正義を守る為に戦い、そして死んだのだ。
(忘れぬ)
──私は、女神とは違う。
サガは、玉座の肘掛けを、ぐっと握り締める。聖闘士としても一流のその力に、玉座がみしりと音を立てた。
数千、数万、神話の時代から、「女神の為に」と言って死んでいった聖闘士たちがどれほど居たのか、明確な記録は残っていない。しかし確実なのは、彼らには死してなお安らぎは訪れる事なく、その小宇宙は流した血と共に聖衣に留まり次の戦士の為の礎となり、魂は、神の為に闘いながらもそれ故に同時に他の神へ逆らったとされ、最も重い罪を犯した者が入れられる冥界の氷地獄・コキュートスに永遠に閉じ込められている、という事だ。
そして女神は、それを振り返る事はない。労いの言葉をかけるでもなく、救い上げるでもなく、己自身で血に塗れて闘うわけでもない。ただ次の聖戦ともなれば、己の為に死んだ聖闘士たちの屍の山の上に凛々しく立ち、さあお行きと言うだけだ。
聖闘士たちの墓は、生前、己自身で掘ったもの。女神は、墓標に彫られた名を知らぬだろう。いや、墓がある事も知った事ではないのだろう。
(……私は、違う)
翼龍の兜の下で、サガはどこかを睨み据える。
自分が自分の正義の為にどれだけ殺したか、サガは覚えている。覚えているだけでなく記録に残し、後に明らかになるようにさえしている。それほど己の正義に、やり通した事に自信があった。
(私は、忘れない。決して)
己が、どれだけ殺したかを。
(忘れぬぞ──三人とも)
己の正義に付き合って命を落とした三人の事を、サガは決して忘れない。また、三人が居なくなったからと言って、決して絶望しない。むしろ彼らが居なくなったからこそ、何が何でも勝たねばならぬと決意を新たにした。
──小宇宙が、高まる。
仁、智、勇。三つの要素をそれぞれ得意分野に持ち、図らずも欠点を互いに補う形となっていた彼らは、常にサガの周りを完璧な形で守っていた。そしてサガは、三つの力を高いレベルで持つ、まさに聖闘士の最高峰と言って過言ではない実力を有す男だった。シオンから次期教皇として選ばれなかった事に対して反感を抱いたのは、れっきとした実力があったからこそなのだから。
白金色の髮が黒く、ブルーグレーの目が赤くなる。天を睨むその姿は、地上の誰よりも美しかった。
黒い髪は、正義を貫く聖剣だ。赤い目は、決して意思を見失わない。美しい姿は、全てのものを引きつける。──かの三人は、確かに死んだ。だがサガは、彼らが残したそれらを身につけ、堂々と玉座に座していた。
女神の戦士を迎え撃ち、討ち取らんが為に。
「──何と、愚かしい」
嘆く声に、サガは秀麗な眉を顰めた。
「実に嘆かわしい……。お前ほどの聖闘士たるものが、そのような」
「黙れ」
サガは、断じた。しかし“彼”はどこまでも悲しげに、そして奥底の憤慨を滲ませながら続ける。
「おまえは女神の為に生まれてきた。そして女神の為に闘い、」
「そして女神の為に死ぬ、と? 願い下げだ」
「まだ、間に合うのだ。もしこのまま改めぬのであれば、お前はコキュートスよりも酷い地獄に堕ちることになろう」
「それで女神が殺せるのであれば、どんな地獄であろうと天国だな」
「…………」
“彼”が、震える。聖人の嘆きは全てのものの心を動かし、何千年に渡って聖書に記されるほどの力があったが、サガの目には、舞台の上のわざとらしい悲劇役者のようにしか映らなかった。
「……嘆かわしい……」
“彼”が悲痛な声で訴えるが、サガは全くもって揺るがず玉座に座り続ける。そしてしばらく、サガにとっては白々しい沈黙が続いた後、“彼”は暗い目で──呪いでも植え付けるかのような目で睨みつけた。
「……?」
サガは、赤い目を眇めた。
“彼”はいつでも、まるで神殿の聖者像のように完璧で、そして石像と同じく、いつも同じだった。まるでプログラミングされたロボットのように融通の利かないことを延々と続けてきた“彼”が見せた初めての態度に、サガは訝しげな視線を送る。
そして同時に、ぞっとした。子供の頃はひたすら“彼”に怯えてきたが、この黒髪と赤い目を得てからは、そんな事もなくなって久しい。しかし聖者そのもの、神の化身たる“彼”が初めて見せた深い呪いの目に、サガは戦いた。……ぞっとした。
そして同時に、理解する。──これが、“彼”の本性だと。
「……聖闘士は」
「何?」
そしてその声も、いつもと違う。聖書の朗読でもしているかのようなそれと違い、今の“彼”の声は、果ての見えない昏い穴の底から吹き上げてくる、不気味な風のようであった。
「全ての聖闘士は、女神(アテナ)の息子である」
ずん、と、教皇の間全体の空気が重くなったような気さえする声であった。まさしく、呪いをかけられたような。
サガの全身から、得体の知れない汗が噴き出す。
「……何を、」
「女神の為に何度でも生まれ、女神の為に何度でも戦い、女神の為に何度でも死ぬ」
「願い下げだと言ったろう」
「そのための聖闘士だ、女神の為の聖闘士なのだ。そうあらねばならぬ」
「──お前は」
「だからこそ聖闘士は、女神(アテナ)の息子でいられるのだ。永遠に──」
「お前は、誰だ」
汗を噴き出させながら、サガは問うた。
「お前は誰だ。──私ではない」
そうだ、これは私ではない、と、サガはいま、初めて気づいた。そして気づいたからこそ、“彼”もまた、本質を現した。
幼い頃から、物心ついたその時から、己の内に小宇宙があると気づいたその時から存在した“彼”──これは、誰だ?
「私はお前だよ」
「違う」
サガは、首を振った。しかし“彼”は、聞く耳を持たず、構わず続ける。
「私はお前。──“聖闘士”という、同じもの」
“彼”は、顔を上げた。まるで神の化身のような、神々しい微笑み、アルカイック・スマイル──古式微笑。紀元前650年頃から作られ始めた青年像・クーロス像がする表情そのものの、見事な微笑みであった。
しかしサガは、知っている。クーロスは同じ型で作られた鋳造品。完成度は確かに高い、だが紋切りの量産品であるという事を知っていた。
そしてそれだけに、不気味だった。神の化身たる完璧な微笑み、しかし全く同じそれが無数にある様を、果たして“人”は美しいと感じるだろうか。
「わたしとおまえは、おなじもの」
「違う!」
サガは、叫んだ。
あんなものと同じであってたまるか、と、サガは叫ぶ。いくら完成されていようとも、同じ型で作られた量産品。どれがどれだかわからぬ石像など、不気味なだけだ。個のない群体。まるで、女王蟻の為に生まれ、一生を費やし、死に続け、また生まれ続ける蟻の群れのような。
女神の為に生まれ、女神の為に闘い、女神の為に死んでいった、過去幾多の聖闘士たち。女神の為に他の神に逆らい、それ故に氷地獄コキュートスにて永遠に苦しみ続けるという彼らが一体どんな姿をしていたのか、どの記録にも残っては居ない。墓ですらまともに残っては居ない彼らは、一体どんな者たちだったのか。
生前、彼ら自身で掘られるという、彼らの墓。名前こそ違うがしかし、墓石には、必ず同じスペルが刻まれている。──“Saint”と。
イメージが、──幻影が、浮かび上がる。戦士たちが、女神の為に戦い死んだ殉教の聖者(Saint)──聖闘士たちが、氷の檻に閉じ込められ、ずらりと並んでいる。
だがその表情は、どれも同じ顔。型を押したような微笑み、神のように完璧な微笑みを浮かべた聖闘士たちが、何千、何万と積み重なって打ち捨てられている。
ふと、その一人が、こちらを見た。みごとなプラチナ・ブロンド、ブルーグレーの目。あれは──
「わたしは、おまえだ、──聖闘士」
違う、と叫ぼうとした。
しかし視界に入った煌めきに、ハッと息を飲む。肩にかかるのは己だけの正義を貫く聖剣を掲げる黒髪ではなく、白金色。目は決して意思を見失わない赤でなく、薄いブルーグレー。その姿はただ一人でも、泥や血に塗れても孤高に抗う唯一ではなく、完璧な微笑み。神が作った完璧な量産品、紋切りのクーロスが、そこにいた。
「おまえは、わたし」
違う、と叫ぼうとした。
「わたしは、おまえ。聖闘士の最高峰たる、双子座ジェミニの黄金聖闘士」
──その通りだ。
同意した瞬間、意識がぐるりと反転した。
「……ペガサス、流星拳────!!」
──バァン!
凄まじい音がして、重い扉が開け放たれた。
「星矢か……」
あまりにも滑らかな、優美とすら言える低いバリトン。
「よく、ここまで辿り着けたな……」
まるで小さな子供を慈愛たっぷりに褒めるような、その声。
長く美しい指をした男の手が、翼龍の兜にかかる。重たげな兜が難なく持ち上げられ、その下の素顔が明らかとなった。
兜の下から溢れる、豊かなプラチナ・ブロンド。ブルーグレーの目が、朝日のようにやさしく輝く眼差しを送っている。
「何……、お……お前が……?」
その容貌は、美しく。
「おまえが、教皇か……!」
サガは、戸惑ったような表情を浮かべるペガサスの聖衣を纏った少年を、慈愛溢れる目で見遣っている。
「星矢……本当に、よくここまで十二宮を突破してきた……。お前たちこそ、まさしく真の勇気と力を持った女神(アテナ)の聖闘士だ……」
──女神の聖闘士。
聖衣を得たとはいえ、一人前とはとても言い切れない未熟で幼い身で、命を賭けて女神の為に闘い、ここまで辿り着いた少年。何も考えず、ただひたすら女神の為にと、死をも恐れず突き進んできた少年。
──あれは、自分と同じものだ。
(おまえは、わたし)
──女神の聖闘士は、神の化身のような微笑みを浮かべた。
「ふ……ふざけるな……まるで善人のような顔をしやがって」
星矢は牙を剥き、警戒するような構えをとった。目の前に立つ男の姿の神々しさに戸惑うも、状況からして、彼は間違いなく敵である。
「今更自らを悔い改めている暇はないぜ……女神(アテナ)はあと30分足らずの命しかないんだからな!」
戦いを始めてから、星矢はあの少女の事を、すっかり“女神”と呼んでいることに、気づいては居ない。かつては“沙織お嬢さん”と呼んでいた彼女の命が脅かされそうになっている今、星矢は彼女を“神”と呼び、命を賭してその為に闘おうとしている。
「さあ、あんたを下まで引きずってでも連れて行くぞ!」
そして女神に刺さった黄金の矢を抜いてもらう、と星矢は威勢よく叫び、小宇宙を高め、拳を構え──、迷いなく、繰り出した。
──ガシャッ!
「……な……」
星矢の拳は、確かに男の胸に直撃した。
しかしそれは何の威力を発揮する事もなく、ただ直撃しただけだ。悠然と目を閉じたままの男は、少年の拳を真っ向から受け止め、微動だにしていない。むしろ彼が絶妙な具合で僅かに身を引いたせいで、彼自身に殆どダメージがないばかりか、星矢の拳にさえほとんど衝撃がない。
本来なら、軽くいなされてしまった、と戦く所であろう。しかしその手応えは、いなされたというよりも、癇癪を起こして暴れる子供の頭をゆったりと撫でて落ち着かせるような、包み込むようなものにさえ感じられた。
「星矢」
優美なバリトンで名を呼ばれ、星矢は思わず拳を引く。背の高い男の顔を見上げれば、その美しい顔は、悲痛ともいえる表情を浮かべているのに気づく。そしてその表情さえ、まるで至宝の石像のように完璧だった。
「……すまないが、私自身の力でも、女神(アテナ)の胸に刺さった黄金の矢を抜く事は出来ないのだ」
「な……」
星矢は目を剥いているが、それは事実だった。
どういう理屈でそう教えられてきたのかはわからないが、デスマスクの、魂を肉体から引き剥がす力、またアフロディーテのブラッディローズを応用した、小宇宙の媒体・血液の源である心臓をオートで追尾する能力、そしてどんなものも斬り裂くシュラの斬撃。その三つの小宇宙を組み合わせて作られたあの矢は、サガ、また“教皇”と呼ばれる地位の者がどうこうできるものではない。
だがもちろん、星矢は納得できない。教皇だけが女神を救えるのだと、それを一心に信じてここまで来たのである。当然であろう。
「今更言い逃れは出来ないぞ……! 食らえ! ペガサス流星拳!!」
星矢必殺の技。無数の拳が、教皇に向かう。
その拳は彼に残らず直撃したがしかし、当たった拳のことごとくは、またも彼に何のダメージを与える事もなかった。
「な……何い……」
あまりにもな結果に、少年はたじろぐ。
しかし星矢は、更に戸惑う事となった。──男が、泣いているのだ。
「な……」
先程からの悲痛な表情、閉じられた目から、涙が溢れる。白金色の長い睫毛が濡れ、滑らかな頬に流れる。その様は、聖像が涙を流す奇跡の様にすら見えた。
「き……教皇……?」
「星矢……」
星矢は、怯んでいる。聖像のような、神の化身のような姿の敵。そしてその彼から、慈愛溢れる優美な声で呼ばれる事に。
「私の行ないは確かに許されるべき事ではない、だが……私は……この教皇は……」
涙に濡れた目が、薄らと開けられる。どこか熱に浮かされたようなぼんやりとした目は、宝石のようだった。光を反射して輝く、美しい石。
「い……いや、そんな事を今語っている場合ではない」
しかし彼はふるりとひとつ頭を振ると、今度はしっかりと目を開け、ぐっと真剣な表情で星矢を見た。
「女神(アテナ)の命を救う為に一刻を争うのだったな、星矢」
「そ……その通りだ」
星矢は、混乱しながらも頷く。教皇のその声も、表情も、女神の命が失われる事について、星矢以上に真剣で、焦りが見える。
「一緒に下まで行って、女神(アテナ)の胸に刺さった矢を抜いてくれるのか、教皇」
「いや」
いっそう悲痛な表情で、彼は首を振る。
「あの黄金の矢を抜く事は私にも出来ない、と言ったはず」
「し……しかし……」
「聞きたまえ、星矢」
小さな子供をやさしく諌めるような声に、星矢はぐっと黙る。その声に不快感を感じない、──それどころか信頼できる大人に諌められているような心地よさを感じるということに対する戸惑いも、星矢が黙った要因のひとつであった。
大人の勝手な事情によって、捨てられ、姉と引き離され、辛い幼少時代を送ってきた星矢は、大人を信用・信頼するまでに酷く時間がかかる類の子供だ。それなのに、最前線の戦場で、しかも総大将たる敵に対して、親や兄に対するような信頼を感じるという、この異常。
それは、彼の人間的な器がそれほどに大きいという事なのか、それとも──
「この教皇の間を抜けると、アテナ神殿がある。そこには神話の時代から受け継がれた、アテナの巨像が建っているのだ」
「アテナの神殿?」
眉をひそめつつ、星矢は問う。しかしその様は、教師の教えを渋々聞いている生徒のような様子が見て取れた。
「そうだ、遥かなる昔、アテナは──」
どこか遠くを見つめながら、彼は言う。
「右手には勝利の女神・ニケを──そして左手には盾を持っていたのだ」
右手の勝利の女神(ニケ)、左手の盾。いわばその二つこそがアテナの証しでもあるのだ、と彼は言った。遠くを、──過ぎ去った何かを、懐かしく、切なく見遣るような眼差しで。
「だがそのひとつのニケは、今はここにはない。13年前に、幼い女神(アテナ)と共にアイオロスが持ち去ったのだ。いわば女神(アテナ)は、射手座サジタリアスの聖衣と共に、ニケにも今まで守られてきたのだ」
射手座、サジタリアス。それは彼が策謀の果てに追放し、殺したアイオロスの事を指すはずだ。しかし、サジタリアス、と呼ぶ彼の声はどこまでも慕わしく、賞賛するような響きすらあった。
「勝利の女神……ニケだって? そんなものは見た事もないぞ」
「いや、お前たちも見ていたはずだ……。何故ならば、勝利の女神ニケは形を変え、常に女神(アテナ)の右手に握られていたのだから」
「な……何だって」
まさか、と言って星矢が思った事は、正解であった。
沙織がいつも手にしていた、黄金の杖。あれこそが、勝利の女神ニケが姿を変えたものだと。
この赤ん坊がアテナである証しを持っておかねば、と辛うじて思いついたアイオロスは、手当り次第、目についたものの中で、持ち運べそうで、なおかつ価値のありそうなものを適当に手に取り、聖域を出た。
それがよりにもよって、何よりの証しになるニケの化身である黄金の杖であったことが偶然だったのか、それともアイオロスがニケが発する小宇宙によってこれぞと判断したが故の必然であったのか、あるいは幼い女神が導いた末の奇跡であったのか──それはもう、誰にもわからない。
「そうだ。女神(アテナ)が手にする勝利の女神(ニケ)は、その名の通り、聖闘士を勝利に導いてくれるのだ」
──どくん。
心臓が、跳ねる。小宇宙を宿し、その身を巡る血液、その源。
「お前たちが、強大な相手にも常に勝利を収めてきたようにな……」
本来、青銅聖闘士は、白銀聖闘士の補佐がその役割である。それ故に、聖衣には特殊な能力が付随している者が多くはあるが、その実力の平均は雑兵に毛が生えた程度。そんな者たちが、本来上に立つ白銀聖闘士、ましてや最高峰たる黄金聖闘士を倒す事などあり得ない。
だが星矢たちは、勝利してきた。彼ら自身の、命も惜しまぬ特攻、更に幾多の奇跡によって。
──どくん。
汗が、流れる。血液が巡り、熱が増す。小宇宙が、高まる。
(ふざけるな)
──どくん。
「そして、左手の盾……」
流れる汗を拭おうともせず、彼は続ける。
「その女神(アテナ)の盾こそが、いかなる邪悪の攻撃も振り払う事の出来る正義の盾なのだ!」
(ふざけるな……!)
──どくん!
(勝利の女神、正義の盾、だと……! そんなものが、)
「わかったか星矢、私ではない」
(無駄だったという事か)
「私(・)の(・)側(・)に(・)あ(・)る(・)、女神(アテナ)の盾こそが」
(いくら策を労そうとも、力を得ようとも、血を流そうとも、無駄だったと?)
黒髪が、赤い目が、花のように美しい姿は、もう居ない。いつも私(・)の(・)側(・)に(・)居(・)た(・)彼らは、もう、
(──失った命は、無駄だった、と?)
「女神(アテナ)の命を救う力があるのだ……!」
(──ふ、ざける、なアアアアアアアアアア!!)
──ドクン!
「だ……だから……」
どくどくどく、と、身体の内側で暴れる熱。押し込められたものが、内側から、身を破って血が吹き出さんほどに激しく殴りつけてくる。
その苦しさに、“彼”は更に汗を流し、ぴんと伸ばしていた背筋を曲げ、俯いた。全速力で走ったときのように息が上がり、内側から殴りつけてくるかのような心臓部分を右手で押さえる。
「ど……どうした教皇……気分でも悪いのか……?」
明らかに尋常でない、様子のおかしい彼を、少年が訝しげに気遣う。
「な……何でもない……アテナ神殿へ早く行け……」
そしてアテナの盾を女神(アテナ)の方向に翳すのだ、と彼は言った。優美なバリトンが、荒い息によって掠れている。
「そうすれば、女神(アテナ)の胸に刺さった黄金の矢など跡形もなく消え去る……」
(──させるものか)
──ドクン!
心臓が、鳴る。心が、震える。
──小宇宙が、高まる。仁智勇、その全てを備えた小宇宙が。
(させて、なるものか……!)
「は……早く……」
とうとう膝をついた彼は、震えながら言った。
「き……教皇、大丈夫か、一体……」
「私に構わず早く行くんだ、星矢!」
「わ、わかった」
怒鳴られ、星矢はびくりと跳ね上がる。叱られた子供のような仕草を見せた少年は、慌てて身を翻す。盾を取ったらすぐに戻ってくるからな、と、気遣わしげな言葉すら残して。
そして、星矢が走り出した、その時であった。
「ま……待て」
「え?」
星矢が、振り向いた。
膝をついた彼の──サガの口から漏れた声は、先程までの、天窓からさす光のような、優美で神々しいバリトンではなかった。
「だ……誰が…… 誰がアテナの盾など取りに行かせるか……」
獣の唸り声にも似たその声は低く、呻き声とすら言え、もはや優美とは言いがたい。しかし、強固な信念に溢れる声だった。
若者の背筋を正し、老人の肩を支え、抱いた女の子宮を刺し貫く、力強い男の声。
──ドクン!
心臓が、鳴る。心が、震える。
──小宇宙が、高まる。仁智勇、その全てを備えた小宇宙!
白金色の髮が黒髪へ変わっていく様を、星矢は呆然と見た。先程涙を流した彼の様を聖像の奇跡のようだと思ったが、髮の色が変わるという尋常でない目の前の現象は、神の所業とは思えなかった。
それほどまでに、彼の小宇宙は生命力に溢れていたからだ。地を這いずり、血と泥に汚れ、歯を食いしばって前に進もうとする、形振り構わぬその様は、完全無欠の神の化身とは言いがたい。
星矢は、どっと汗を溢れさせた。地上に生きる一個の生命として、食物連鎖のピラミッドの上で上位に位置する生き物と対峙した時に感じる本能的な戦慄が、星矢の背筋に走る。
「──死ね、星矢!」
──ガカァッ!
咆哮、そして衝撃。
まるで雷が落ちたような衝撃が、星矢に直撃する。
「う……うう……」
「クッ、……ククク……」
クーロスの微笑とはかけ離れた獰猛な笑い声を聞きながら、星矢は混乱の中で倒れ、呻く。
「馬鹿め、そう易々とアテナ神殿に乗り込まれてたまるか」
──何だ。
一体どうしたんだ、と、衝撃を食らって立ち上がれない星矢は、ぐるぐると混乱の中に居た。
己の罪を悔いるような発言とともに涙すら流し、天使のようだった男。それが一転して、今度は真逆の、邪悪の化身のようになってしまうとは。
そう、邪悪。星矢の目には、黒髪となったサガの姿は、そのように感じられた。揺るがぬ力強い意思を持ち、誰に、神にすらそれを咎められようとも決して覆す事のない、畏れを知らぬその姿は、女神の戦士にとって、邪悪意外の何ものでもなかった。
そしてその変わり様が、神と悪魔ほどにかけ離れている事が、星矢に更なる混乱を与えた。
ほんとうの教皇を殺して成り代わり、アテナまでもを殺そうとし、アイオロスを逆賊として追放し、そして殺した極悪非道の、邪なる者、偽りの教皇。しかし完璧な微笑みを称え、やさしく星矢を諭し、涙すら流して罪を悔いる美しい男でもある。
──一体、この教皇の正体は何者なのか。
「ククク……」
サガは、笑っていた。
いくら策を労そうとも、力を得ようとも、血を流そうとも、勝利の女神があちらにある限り無駄であったのだと知った今、サガは絶望していなかった。
誓ったからだ。忘れない、と。
己の正義に付き合って命を落とした三人の事を、サガは決して忘れない。また、三人が居なくなったからと言って、決して絶望しない。むしろ彼らが居なくなったからこそ、何が何でも勝たねばならぬと決意を新たにしたからだ。
だからサガは、笑ってみせた。不敵に笑い、むしろ良い事を聞いたとばかりに、好戦的に拳を握り締める。──女神(アテナ)の命に加え、アイオロスが持ち去っていたらしい勝利の女神(ニケ)さえも手に入れる事が出来たら、まさに一石二鳥ではないか、と。
「いかなる勝利をも掴む事の出来る女神(アテナ)の命に加え、アイオロスが持ち去っていたらしい勝利の女神(ニケ)と、神や悪魔のいかなる攻撃をも退ける、アテナの盾!」
朗々と、サガは声を張り上げる。
「この二つが揃えば、まさしく天上のゼウスを抑え、海皇ポセイドンを抑え、冥界のハーデスさえも抑えて、この私が彼らと互角の力をもって地上を支配することが出来るのだ!」
低く、びりびりと周囲を震わせよく通るバリトンは力強く、時折甘く、歌うようで、非常に演説に向いていた。
「そうすれば、もはや女神(アテナ)の名を借りるまでもない……この私が直に地上の支配者となるのだ!」
ククク、と、サガは嗤う。
そして彼が語った野望は、不可能な夢ではない。勝利の女神ニケが起こした奇跡の数々は、その犠牲に歯を食いしばったサガこそが一番よく分かっている。それに加え、いかなるものも退けるという盾があれば、無敵というのは決して過言ではないだろう。
そもそもサガがサガとしてでなく、素性を隠して君臨したのは、自身に、実力はあれど資格がない事を理解していたからだ。
女神が排され人間がトップに立ったと他の神に知られたが最後、地上は神々に攻め入られるだろう。いかにサガといえども、何も知らぬ軍隊と部下、僅かな腹心のみで、神の軍団との戦争に耐えられるとは思っていなかった。
しかしアテナがアテナたる証しとすらいわれるニケと盾を得ることが出来るなら、話は別だ。それらそのものの強力な効能はもちろん、アテナの証しを全て奪ったという事は、アテナを倒したという証しにもなる。
それは実力の証しでもあり、またクロノスがウラノスを倒して君臨し、更にゼウスがクロノスを排して全ての頂点に立ったように、倒した神に成り代わる為の、唯一の正攻法でもある。
(──女神(アテナ)の息子、と言ったな)
全ての聖闘士は女神(アテナ)の息子なのだ、と“彼”は言った。
(ならば、母たる女神を倒して成り代わるのは、息子の役目というわけだ。そうだろう?)
唇の端を吊り上げれば、胸の奥で“彼”が嘆きに震えるのがわかり、サガは更に笑みを深くする。
「バ……バカな…… それでも、地上の平和を守る、女神を補佐すべき教皇か……」
よろ、と、未だ混乱の中にある星矢が立ち上がる。
「そ……そんな事は断じて許さない……!」
しかし混乱しながらも、星矢はやはり迷っていなかった。女神に仇する発言を聞いた以上、星矢に、女神の戦士に、迷う──考える余地は、ない。
「……食らえ! ペガサス流星拳!!」
──バァン!!
渾身。しかし今度の拳も、受け止められた。
だが先程のように衝撃を吸収して逃がすのではなく、真っ向から、むしろ前に乗り出すような形で、つまりより衝撃を受ける形で、サガは星矢の流星拳を受け止めた。──無傷で。
しかし纏った服はそれに耐え切れず破れ、その下の肉体が露になった。
「クッ」
不敵な笑み。
「お前の攻撃など何一つ通用しない事は、わかっているはずだ」
舌なめずりをするような、低く、どこか甘い声。ぞくり、と、少年の背筋に戦慄が走った。
露になった肉体は見事で、もはやどんな至宝と言われる石像であろうとその見事さを再現する事は不可能であろう、とすら思われた。数多の攻撃を受け止める為に力んだ筋肉は緊張して張りつめ、また呼吸する度に、心臓が鼓動する度に躍動している。
「それに、私自身ももはや動き辛い教皇の法衣を借りるまでもない……」
そうだ、もはや誰の名を借りる事も必要ないのだ、と、サガは広い胸を張る。──そして、喚ぶ。長らく纏う事のなかった、己にこそ相応しいそれ。
「ここへ来て、私の身体を覆え! ──我が聖衣よ!」
サガが指を立てて命じると、その後ろの空間が歪み、左右対称な形をした、黄金の輝きが現れる。
聖闘士の多くは、己の聖衣をどこか相棒のように扱うのが普通だ。苦難の末に手に入れ、武器を持たぬ己の身を守ってくれる、最高にして唯一の戦友。
しかしサガが聖衣に対する振る舞いは、王が僕を扱うような風格があった。事実、このように自在に聖衣を召喚など出来るのは、彼の持つ特殊な“仁”の力の特性と、それ以上に、彼自身の風格故なのだろう。
──誰かの上に立つ才能、この男には、間違いなくそれがあった。
「な……」
星矢は、サガの後ろに現われた黄金の輝きに、見覚えがあった。
他の黄金聖衣と違い、モチーフのせいか、どこか暗喩めいて抽象的なデザインをした聖衣。奇妙かつ神秘的な指の形を取って掲げた4本の腕は、アジアの神を彷彿とさせるあの聖衣は──
──双子座(ジェミニ)!
そう、それは間違いなく、双子座(ジェミニ)の黄金聖衣だった。
「バ……バカな……それでは教皇、お前の正体は……!」
──カシャァン!
星矢が呆然と呟いた次の瞬間、星が弾けた。
キィン、キィン、と星屑が鳴るような音を立てて、ばらけた黄金の輝きが男の肉体に装着されてゆく。微動だにせぬ男にみるみる聖衣が纏われていくその様は、王者が下僕に服を着せている様にも見えた。
そして、最後のパーツが収まりきったその時そこに居たのは、神の化身ではなかった。
己だけの正義を貫く聖剣を携える、黒い髪。決して意思を見失わず、神にすら抗う事に躊躇わない、赤い目。全てのものを引きつける、華々しく美しい姿。
人の上に立つ才能を持ち、演説を振るえば、若者の背筋を正し、老人の肩を支え、抱いた女の子宮を刺し貫くだろう、力強い男の声。
仁、智、勇。全てを備え、堂々としたその風格。
──神ですら屠らん程の強大な力を宿した王者が、そこに居た。