第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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昇龍覇を身につけた紫龍は、更に昇龍覇を昇華させ、この技──亢龍覇を会得した。しかしそれを知った童虎は、この技を亢龍覇と名付けたと同時に、禁じ手としてお前の体内に生涯封印せよ、と告げた。生涯、つまり一生、決して使ってはならない、そう命じたのである。
亢龍覇は、絶対無比の技である、と童虎は言った。亢龍覇に敵う者は童虎自身を含めて誰一人居らず、よって亢龍覇を身につけた紫龍はこの地上で無敵となったと言っても過言ではあるまい、それほど絶大な威力のある技である、と。
あまりの評価にいっそ戦いた紫龍であったが、亢龍覇がそれほどまでの技である事は、紛れも無い事実であった。なぜなら──
(──小宇宙の、限界点解除か!)
黄金聖闘士であるシュラは、亢龍覇と名付けられたこの技の本質を見抜き、ぎりりと歯を食いしばる。
──生物には、己で己の肉体を損じぬよう、制限機能が備わっている。
脳に備わったその機能は、常に自身の肉体の力をセーブしており、よって生物、特に人間は持てる潜在能力の三割程度しか使っていないと言われている。女性でもその筋肉は本来1tの物を持ち上げるだけの能力を持っているが、それを全開で使ってしまうと筋肉細胞があっというまに壊れてしまう為、普段は脳が全力を制御している。これが肉体のパワー制御機能であり、また緊急時にこのリミッターが解除されて普段ではあり得ない力、普段眠っている潜在能力が発揮されるのがZONE、火事場の馬鹿力などと呼ばれる。
このZONEこそが小宇宙への目覚めである、という事は散々言われている事だが、しかしただ深いZONEに陥り、多大な小宇宙を発揮させればいい、という事ではない。
実際の事例として、ただただ巨大な小宇宙を発現させる事にばかりかまけた候補生が、己の小宇宙によって肉体の限界を超えてしまい、骨や筋繊維、内臓、そして脳を損傷させてしまい廃人となった、という事例はいくらでもある。
小さい宇宙、と名付けられたこの力は、その名に偽りなく、本当に凄まじい威力を秘めている。宇宙開闢のビッグ・バン──それに通じる力、それが小宇宙なのである。実際、どんな者でも肉体を顧みずに全ての小宇宙を爆発させれば、災害レベルの現象が起こせるといわれている。小宇宙とは、それほど強大なパワーなのだ。
だからこそ、人間はより己の身体を、命を守る為、より安全に目的を達成できるようになる為に、小宇宙を使うことから遠ざかり、文明というものを発達させた。そして下手をすると己を滅ぼしかねない小宇宙という力は封じられてゆき、代わりに便利な道具や科学力などが使われるようになったのだ。
そんな強大なエネルギーを、肉体の損傷を顧みる事なく、とにかく限界まで爆発させれば、どうなるか。
そういうことだ。小宇宙の全燃焼、即ち宇宙開闢の力にも通じるその威力は、童虎が言った通り、最強である。訓練していない者でも災害レベルの現象が起こせるのに、それが聖衣まで得た聖闘士となれば、その威力は絶大。そして己の肉体を守り、小宇宙をコントロールしながら闘う者が、それに敵うわけは無い。ある意味反則技とも取れる手段である。
ただし、その絶対的な威力には、使用者の肉体もまた絶対に耐えられない。どんな敵をも倒せる力を得る代わりに、同時に己の命も失う結果が必ず付きまとう。
つまり亢龍覇とは、己の身体、いや命を顧みず、持てるだけの小宇宙を全て爆発させて全てのものを凌駕するパワーを実現する技、であった。
──亢龍とは即ち、天の極点まで登り尽くした龍のことを言う。
“亢龍悔いあり”──何事も極点までいってしまうと、あとは滅ぶしかない、という、中国古典『易経』にて上九の爻辞にある語。亢龍覇とは、まさしくこの語の通りの威力と結果を招く技であった。
ちなみに、紫龍が亢龍覇を編み出したのは、候補生が陥りがちな小宇宙の燃焼のみに執心した結果である。もっと威力の高い昇龍覇を、と突き詰めて行った結果、己の肉体の限界を超えた威力を持つ昇龍覇を放つことが出来た、それが亢龍覇の誕生のきっかけだ。
目的の為なら聖衣をも脱ぎ捨て、自ら目を潰し、己を水際に追い込む事により、恐怖心さえ利用して勝ちを得に行くと言う、捨て身意外の何ものでもない戦法を迷いなくとれる紫龍だからこそ、亢龍覇を会得するに至ったのであろう。
それを見た童虎はその危うさを直ぐさま理解し、亢龍覇と戒めの名を与えて封印させたが、紫龍は今この場に置いて尚、その威力について正しく把握しては居ない。ただ己の命と引き換えにどんな敵でも葬ることができる技、そういわれているから使っただけだ。
童虎がこの技を亢龍覇と名付けたのは、技自体の威力をみてということと同時に、人として、簡単に命を投げ捨てるような戦いをせぬように、という、紫龍自身に対しての戒めでもあった。──紫龍自身、今、それを理解しているのかどうかはわからないが。
(──しかも)
ごくりと唾を飲み込む事すら出来ない凄まじい反重力の重みに耐えながら、シュラは分析する。
紫龍はただ小宇宙を暴走的に爆発させるのではなく、
セ(・)ブ(・)ン(・)セ(・)ン(・)シ(・)ズ(・)を(・)持(・)っ(・)て(・)し(・)て(・)、小宇宙の限界点解除を行なっている。
無闇矢鱈に小宇宙を爆発させただけでは肉体損傷を招く、という事は前述したが、この壁を乗り越えるのが、第七感──セブンセンシズである。
セブンセンシズとは、小宇宙というパワーをより上手く使う為に存在する感覚である。例えば人間の手は細かく別れた関節や十の指、柔らかい手首などによって繊細な動きが可能な器官であるが、いくら器用でも、触覚が無ければその動きを最大限に生かす事が出来ない。
繊細な触覚があればこそ指を自在に動かすことが出来るように、セブンセンシズがあればこそ、小宇宙をより上手く、効率的に使用する事が出来るのである。
セブンセンシズがあれば、己が今どれだけの肉体を維持しているのかということ、もっと具体的に言えばどれだけの筋肉量があり、どの程度骨が強靭で、血流の速度がどの程度であるか、そして脳の電気信号がどれだけ複雑に、どれだけの速度で伝達可能なのかなどを、何万分の一秒、いやもっと高いレベルで把握することが出来る。よって肉体に過度の負担をかける事なく、時には肉体の限界すら超えた動き──音速や光速の動きすら可能にするのである。
生まれながらに小宇宙に目覚めている黄金聖闘士は、セブンセンシズに関してもまた、子供が自然に歩き方を覚えるようにして会得する。そしてまた、セブンセンシズを会得しているからこそ、いくらでも遠慮なく巨大な小宇宙を身につける修練を極めることが出来る。黄金聖闘士が聖闘士の至高、最強の存在と言われるのは、このような理由がある。
そして、そんな力を、あえて小宇宙の限界点突破に用いれば、どうなるか。
紫龍が亢龍覇を編み出したのは、候補生が陥りがちな小宇宙の燃焼のみに執心した結果である為、編み出した当初は単なる小宇宙の燃やし過ぎ、というだけだ。しかし度重なる激しい戦いでもはや否応無くと言っていい具合でセブンセンシズへの取っ掛かりを掴み始めていた紫龍は今、極限状態の極みに身を置いた事で無自覚ながら完全にセブンセンシズに目覚め、そしてそれでもってして亢龍覇を使ったのである。
セブンセンシズを使用した、亢龍覇。
それは、滅び行くしか無い、しかしだからこそ残酷なまでに限界以上の機能を引き出された肉体、そしてあらゆる能力は、ただ小宇宙を手当り次第に爆発させるのとは比べ物にならない威力を生み出す。
──そう、今現在、紫龍とシュラの二人が星の重力すら完全に無視し、既に雲を突き抜けて、大気圏を内側から破らんとしているように。
「シ……紫龍、お前、わかっているのか」
凄まじい空気抵抗の中、シュラは小宇宙を発揮して己の身を守りながら、口を開いた。肉体の全ての機能を限界以上に発揮した紫龍なら、この状況でも己の声を耳にすることが出来るはずだ、という確信をもって。
「このまま上昇を続ければ、二人とも摩擦熱に耐え切れず……溶けて天空のチリになってしまうぞ」
脅しでも何でもなく、それは単なる事実だった。しかし、紫龍は返事をしない。
「い……いや、俺は黄金聖衣を纏っている分、お前より長く耐えられる。先に死ぬのは生身のお前の方だぞ、紫龍」
今現在最強の力を発揮できている紫龍であるが、その力は決して持続しない。そして、今現在紫龍から逃れる事は出来ないものの、正しく己の肉体をガードする為に小宇宙とセブンセンシズを使い、尚かつ仮に宇宙空間に放り出されてもびくともしないと言われる黄金聖衣を纏ったシュラは、確実に紫龍より長く小宇宙を発揮していられる。つまり、より長く生きていられる。
もしかしたら紫龍が死んだ時には既にシュラもどうしようもない所まで来ているかもしれないが、このままだと、とにかくシュラより紫龍が先に息絶えるのは確実だ。そしてそれは、よく考えなくてもすぐにわかる事でもある。
──シュラには、万がいち以上に生き延びられる可能性がある。だが紫龍は、そうではない。
だが紫龍は、セブンセンシズを極限まで発揮し、何万分、何億分の一の瞬間も捉えることが出来るこの状況に置いても、全く躊躇の感じ取れない様子で言ったのだった。
「こ……この紫龍、死はもとより覚悟の上……! お前も必ず連れて行くと言ったはずだ!」
引きつった声で、しかしきっぱりと応えた紫龍に、シュラは唖然とした。
命を捨ててまで、シュラを倒す可能性をとった紫龍。そんな少年を、シュラはやはり、どうしようもなく不気味に感じた。
「ば……馬鹿な……そこまでして勝ちたいか……」
──理解、出来ない。
「──自分が死んでの勝利など、何の価値があるか!?」
シュラは、叫んだ。感情のままに、激情のままに。
──どうして、
例え心の底から共感することができなくても、これが己の正義なのだと主張し、そしてそれに相応しい力を見せる者たちに、シュラは敬意を払ってきた。より共感が深ければサガたちにしたように己の剣を貸す事もあり、そこまででなくても、決して邪魔はせず、それがお前の正義ならと見守ってきた。
だが今、シュラは、紫龍の正義が何なのか、どうしても知りたかった。敵ではあるが、いやいつものように見守る事で受け入れられない敵だからこそ、命を捨ててまで、自分の存在が消えてまで成したい正義とは一体何なのかを、知りたいと思った。
──言え、ない
(──どうして!!)
決して己に拳を向けなかったアイオロス。殺されるとわかっていたのに、それでも絶対にシュラと闘おうとはしなかったアイオロス。そして、己の命と引き換えに、シュラを倒そうとしている紫龍。
(……正義、正義、正義!)
重い言葉。しかし姿は見えず、それぞれによって全くその形を変える、あやふやなもの。各々の正義を掲げる者たちを眺めながら、その代わりに剣を握り締め、ひたすらに研ぎ澄ましてきたシュラは、その正義に憧れてやまない。譲れぬ正義の為に魔道に堕ちた異教の神、その名にあやかるほどに。
(阿修羅)
なぜ、かの神は魔道に堕ちたのか。
力が無かったからだ、と、デスマスクは言った。狭量であるからかな、とアフロディーテは呟いた。慈悲深さを説いているのではないかな、とサガは苦笑した。それで全てを納得できたわけではないけれど、少なくとも力不足であったというのは、事実だと思った。それ故に、シュラもまた力を求めてもみた。
しかし、犯された娘の誇りを守る為に刃を握るのは、狭量か? 女を犯した男を許すのは、慈悲深いといえることなのか?
──なぜ、正義の神は、己の正義のために魔道に堕ちた?
──阿修羅は正義の神ではない
(……ならば、何だ!)
苛立ちが、シュラの胸を、頭を、煮立たせた。
正義、その為に闘う者たち。剣だけを握り締めてただ敵を倒すシュラと違い、それぞれの何かを貫き通さんと、その為に闘う者たち。
──強いほうが、……力こそ、正義だ。これが俺の答え
──私は、悪戯の途中で抜けるほど付き合いは悪くないつもりだ
──聖闘士は、赤子の為の木馬の騎士ではない!
(──どうして、)
赤い星が、どんどん近くに迫ってくる。いや、近付いているのはシュラのほうか。小さな赤い星が、あの日の月のように、押し潰されそうなほど巨大になってゆく。
(どうして、)
──どうして、どうして、どうして、どう
どうして、アイオロスは自分と闘わなかったのだろう。何故、仲間たちは闘うのだろう。何故、紫龍は立ち上がるのだろう。
──何の為に、彼らは闘うのだろう。
「……何の為にそこまで闘うのだ、──何故だ──ッ!?」
シュラは、叫んだ。13年前から抱いてきたその感情が、いま、爆発する。
つい先程までは平静の極地とも言える精神状態が嘘のようなシュラ、しかしそれに対し、今度は紫龍の方が、まるで泉のように静かに言った。
「シュラよ、聖闘士ならわかりきった事……」
──女神(アテナ)の為だ!
そう言った紫龍の顔は、もちろん見えない。
しかしシュラには、少年が、まるで悟りを開いた神の像のような笑みを浮かべたのがわかった。
(女神の、為?)
神話の時代から存在する聖闘士、女神の戦士として誕生したその存在、もはや彼らの常套句でもあるその言葉。シュラが今まで聞いた事のあるそれは、時の流れの果てに意味を失ったおざなりな敬礼でしかなかったがしかし、紫龍が今発したのは、同じ言葉でありながら、胃の腑に鉛を詰め込まれるかのように重く、そして火傷をしそうに熱く、痺れるような衝撃があった。
「オレたちは沙織さんを女神と信じ、ここまで闘ってきた。そしてこの十二宮の戦いで、もはやそれは確信した!」
凄まじい速度での上昇中にも関わらず、少年の声は、シュラの耳に静かに響く。その声は清廉で、殉教の少年像のように、神がかった神聖な迫力と、どうしようもない儚さが滲んでおり、そしてそんな声がこの状況ではっきりと耳に届く様は、奇跡と言っても差し支えの無い現象でもあった。
「女神は、邪悪と闘う為に、数百年に一度生まれるという……。沙織さんは、これから邪悪と闘わなければならない大事な人……!」
沙織。日本に出向いたあの日、シュラの背が高いと言った、小さな少女を思い出す。あの少女の為に、この少年は命を掛けているという。
「沙織さんが悪を打ち払い、この世が平和になり……それによって、オレたちのような不幸な子供たちが居なくなるのなら……」
紫龍が言う悪とは、何だろう。サガは、デスマスクは、女神アテナは己に反逆する者全てを敵と見なすと言った。だがしかし、紫龍は言った。オレたちのような不幸な子供、と。
それは、有無を言わさず蟲毒の壺に押し込められた子供たちのことだ。──サガが身を削って救おうとした、子供たちのことだ!
「この紫龍一人の命など、安いものだ……!」
──ああ!
この言葉こそをサガに聞かせたい、と、シュラは震えた。
「バ……馬鹿な、信じられん……。シ……紫龍よ、お前のような男が世の中に居たとは……」
グラード財団、城戸光政が死地に放った百人の子供たち、その中から辛うじて救い上げた子供。紫龍たちもその中に含まれており、だからこそ、彼らが自分たちを敵と見なして攻め入ってくる事に、サガたちは苦々しい顔をしていた。己の信念に基づき、必死に救った命からの裏切り、そう感じて。
(──違った。そうではなかったぞ、サガ)
聞いて欲しい、とシュラは心の底から思った。
サガは神を、女神を、何もしてくれない役立たずと見なした。味方ではない、敵だと見なした。そして紫龍たちは、女神こそが人々を救う、己らにとっての希望だと信じている。
真逆の言い分。──だがしかし、実は、その先にあるのは全く同じ目的なのだ。ただ、取ろうとしている手段が──信じるものが違うだけで。
「オ……俺は、人間は全て自分の為に闘うのだと思っていた……。自己の利益の為だけに命をかけるのだと思っていた……」
幸せになりたいと、誰もが抱く願い、欲求。だからこそサガは何もしてくれなかった神を憎み、デスマスクもまた同じく、そして弟子に、神に頼らなくとも生きて行けるようにと人としての生き方を教え、アフロディーテもまた、何もせぬ神は要らぬと断じた。力こそ正義であり、また我らこそがその力を持っているのだ、と。
「だ……だから、たとえ教皇が悪であれ、力をもって貫けば、正当化されるのではないかと思っていた……」
時の流れ、時代によって、何が正義で何が悪であったか、という評価は変化する。ナチスの正義しかり、日本軍の侵攻しかり、それは確かに過去の歴史が証明している。
「力のあるものが……勝った者が正義を名乗る資格があるのだと思っていた……」
女神の戦士として生まれた聖闘士の歴史からすれば、サガたちのやっていることは、謀反・反逆意外の何ものでもない。
しかしシュラは、そんな彼らに共感し、ずっと刃を提供してきた。彼らの言い分を正しいと感じ、そしてそのために血反吐を吐いて尽力する彼らを認めている。今この瞬間もそれは変わっていないし、これからも変わる事は無いだろう。
だがシュラは今、紫龍にも共感していた。ミロが貫く不殺の誓い、アルデバランの判断、ムウがとった立場、カミュの弟子に対する態度、アイオリアの生き方──心から共感はできない正義、しかしそれを否定する事なく見守ってきたその事以上に、シュラは女神こそ命賭けるに値する正義、そして希望なのだと言った紫龍を否定する気にはなれなかった。いやむしろ、この上なく──好ましいとすら感じていた。それは、何故だろうか?
──阿修羅は正義の神ではない
再度、シャカが言った言葉を思い出す。
(ああ──、そうか)
すとん、と、シュラの胸に、生涯初めてと言ってもいいような、この上ない爽快感が落ちてきた。
聖域に連れて来られた日から、そして正義とは何か、……己の正義はどこにあるのだと迷い続けてきたその答えを、シュラはたった今、はっきりと理解した。
──護法善神。……つまり、正義の守護神なのだよ、シュラ
正義の守護神。
己の正義の為に魔道に堕ちた、異教の神・阿修羅。彼がそんな運命を辿ったのは、シャカの言う通り、彼が護法善神、正義の守護神であるからに他ならないからだ、とシュラは理解した。
正義の守護神、即ちすべての正義を守護する者。
つまり阿修羅は、どんな正義も否定してはならなかったのだ。愛しているからもうよいのだと言う娘の主張、正妃として何よりも大事にすると誓い、戦争すら起こして阿修羅の娘を手放さなかった帝釈天を認め、見守らなければならなかった。
しかし、阿修羅は己の怒りに、感情に、正義に固執し、それを撥ね付けた。阿修羅自身の正義も確かに正義であるので、最初の頃はまだ見逃されていた。しかし何の罪も無い蟻を己の侵攻を阻む敵の手先ではないのかと疑ったその瞬間、彼は堕ちたのだ。──正義を守護する役目を忘れ、ただ己の正義を貫くためだけに周り全てを敵と疑うようになった彼は、ただただ戦い血に濡れるだけの魔神に堕ちた。
己はどうだろうか、と、その魔神の名にあやかった名を名乗る男は考える。
アイオロスを討伐する任務を受け、そして彼に斬り掛かった時、シュラの剣は初めて折れた。あの時の小指の痛みを思い返しながら、なるほどそれも当然か、とシュラは納得する。
アイオロスは確かに己が何を成したいのかを言葉にすることをしなかったが、しかし言葉にしなかっただけで、アテナを守り抜く事を確かに成した。──命を賭けて。
だからシュラは、本当は、彼をあのとき認めるべきだったのだ。そうすれば、アイオロスも落ち着いて、何を思っているのかを、ゆっくりでも話すことが出来たかもしれない。
シュラとて、十数年考え続けた挙げ句でしか、己の正義がどういうものなのか、はっきりと形にする事が出来なかったのだから。
アイオロスにしたことが、今初めて、シュラに後悔と言う感情になって降り掛かる。しかしそのアイオロスの思いを託されて闘った紫龍と言う少年がいる事で、その後悔はすぐに懐かしさに取って代わる。そして改めて、その事に置いて、紫龍には感謝を示したいとすら思った。
己の正義を掲げる者たちに憧れながら、シュラはただ、刃を磨いてきた。どんな正義も、貫き通せる力が無ければ意味が無い。それだけは確かだと感じたからこそ、そうしてきた。そのことを、魔道なのではないかと心のどこかで疑い、迷いながら。
だがしかし今、シュラはそのようにしてきた己が間違っていなかった、という事を確信し、泣きたくなるほどの誇らしさを感じた。
その信念に共感し、刃を貸してきたサガ。横に並び、共に闘ってきたデスマスク、アフロディーテ。共感する事は出来ないが、理解を示し、否定する事無く、ずっと見守る姿勢を貫いてきたミロ、カミュ、アルデバラン、ムウ、そしてアイオリア。そして今、たった今まで敵として闘った紫龍にも、シュラは同じ、いやそれ以上の思いを抱いていた。
──好ましい、と。
(ああ、そうだ)
己の信念を、正義を掲げ、その為に努力を惜しまず、身を削ってそれを証明せんとする者たち。そんな彼らを、シュラは常に好ましいと思ってきた。愛してすらいた。だからこそ、でかい口を叩くだけで実を伴わないことを言う者が何よりも嫌いだった。そして、これは既に己の未熟さから来る失態だと認めているが、何が自分の正義かもわからず、ただ行動に出るアイオロスを、手に負えない、厄介で苛立たしい、と感じた。
だからシュラは、はっきりと正義を掲げる者たちの為に刃を振るい、否定せず見守ってきた。──己が持っていた少ない財産、甘い花を、小さな音楽を、とっておきのケーキを、惜しげもなく差し出してきた。それを後悔した事は今まで一度もないが、たった今、シュラは自分がそうしてきた事を、この上なく誇らしいと、改めて感じていた。
正義の守護神、阿修羅。その名をあやかるに相応しい行いを、己はしてきたのだと。
──誰かの正義を、その研ぎ澄ました刃を持ってして守ること。
どれだけ努力しても、力届かぬ時もある。そんな者たちが悲痛な思いをしないように、最大限努力している者たちを認めた上で刃を貸し、その正義を守ること。
その事こそが己の持つ、どこにあるのだと探し続けた己だけの正義なのだと、シュラは噛み締めた。そしてこの剣も、単なる切れ味がいいだけのナイフなどではなく、聖なる剣という名が似合う刃なのだと、今なら胸を張って言いきれる気がした。
──聖闘士というのは、アテナの為に、地上の平和の為に戦う者たちです
かつて、母のようにしてくれた人は言った。
──せっかく凄い力を持って生まれたんですから、それをいかに多くの為に役立てるか──、いえ、いかに地上の平和の為に使うか、ということを考えること
「……だがどうやら、俺は間違っていたようだ」
やはり彼女の言葉は常に間違っていなかった、と納得しながら、シュラは微笑みさえ浮かべて穏やかに言った。
「聖闘士として……ましてや黄金聖闘士としては失格だ……」
「シュラ……」
女神アテナの為の正義、それのみに闘うのが聖闘士のあり方ならば、阿修羅神の生き方を変える気の無いシュラは、聖闘士としては確かに失格なのだろう。
しかし今、この場に置いてなお、シュラは己の正義を、それが何人であっても、アテナの正義に反する者でもそうでなくても総じて、命を賭けた正義を掲げる者たちの全てを否定する気にはなれなかった。
「紫龍……」
そして、この少年も。
命を賭して女神アテナの正義を貫こうとした少年の事も、シュラは守りたいと思っていた。デスマスクなどは、そんな正義はただ神を盲信した、思考を放棄した狂信者の愚行としか言わないかもしれない。しかしシュラにとっては、例えデスマスクの言う事が真実でも、彼らが命を掛けてひとつの目的を成そうとしている事には変わりない。そして努力と実力が伴ったそれを、シュラはきちんと正義として認めていた。
しかし今、紫龍は意識を失いつつあるようだ。小宇宙は未だシュラをしっかりと拘束しているが、肉体が限界を迎え、悲鳴を上げ始めている。
「お前は死んではならん……お前のような男こそ、生きてこれからも女神アテナの為に闘わなければならないのだ……」
シュラと違い、紫龍という少年は、アテナの聖闘士としては素晴らしい資質の持ち主なのだろう。
そしてシュラは、紫龍を確固たる正義の持ち主と認めたが故に、彼の言い分を信じることにしていた。彼が女神アテナを、そのアテナである沙織を、地上と人類の希望だというならば、きっとそれは真実なのだ。サガが、デスマスクが、アフロディーテが、女神は何もしなかった役立たずだと言うのが真実であるのと同じように。
「紫龍よ、お前を死なせたくはない……」
そして、信じる者やとった手段が正反対でも、彼らの目指す終着点の目的は同じなのだ。ならば余計に、シュラは紫龍を死なせたくはなかった。
だがしかし、シュラの身体も、小宇宙も、そろそろ限界の兆しが見え始めており、既に指一本動かす事もままならない。このままだとまもなく二人の身体は溶け出し、塵となって、この宇宙に永遠に漂うことになるだろう。
「これからはせめて……せめて星となって女神を守るか……? なあ紫龍……」
問いかけてみるが、返事は無い。完全に意識を失っているのだ。
クッ、とシュラは不敵な、しかし穏やかで優しくも見える、不思議な笑みを浮かべた。
「……選ばないのなら、勝手にやるぞ」
そして、シュラは小宇宙を燃やし始める。
幼少の頃より発動し慣れたセブンセンシズは、紫龍の発したものとは比べ物にならぬ程洗練されており、そしてそれによって──限界を超え、肉体の損傷も顧みずに燃焼された小宇宙は、神にも等しいのではと思われた。何もかもを守り抜くことが出来るのではないか、そんな強大さ、頼もしさがある。それは守護神、そう評して相応しい小宇宙であった。
(さて、何をくれてやるか──)
いっそ楽しさすら覚えながら、シュラは考える。花も、ケーキも、小さな音楽も、シュラはもう持ってはいない。全ては己の名を刻んだ墓の下に、もの言わず葬られている。ああ、そういえば、自分はあの味も素っ気もない、寂しい自作の墓に入る事すら出来なくなったわけだ、と思うと、もういっそ大声で笑いたいような気になった。
──ならば、もう一切合切、身包み剥がしてくれてやろうではないか。
シュラはにやりと笑うと、己の身を顧みず燃やした小宇宙を、後ろに密着している紫龍に分け与え始めた。
ヒーリング。小宇宙を分け与え、傷や疲労を劇的に回復させるその技は、己自身の小宇宙でずたずたになった紫龍の身体をどんどん癒している。
命を掛けて殺そうとした相手に、逆に命を掛けて救われたと知れば、紫龍はどう思うだろう。やりきれなさに歯噛みするだろうか。……それとも、感謝を示すだろうか。
だがしかし、それもまた、阿修羅の生き方を全うしようとしているシュラには、どうでもいい事であった。シュラはシュラ自身の正義の為、そう、聖闘士にはあるまじき動機で、紫龍を救おうとしているのだ。紫龍の意思など知った事ではない、星になるかと聞いたのに応えなかった紫龍が悪いのだ、と、シュラは笑みを浮かべながら考える。
さて、小宇宙の全てをヒーリングに使用すれば、紫龍の身体は後遺症もなく回復するだろう。しかしここから地上へ降ろす際、折角回復させたのが無駄になってしまう。──ならば。
──キィン!
シュラが聖衣に意思を込めると、山羊座カプリコーンの聖衣は星のような音を慣らし、シュラの身体を離れ、そして紫龍の身体を覆い始めた。そして同時に聖衣を失ったシュラの身体が一気に焼け爛れ始めるが、シュラは笑みを崩さない。そしていよいよ紫龍を地上に降ろさんと、更に小宇宙を燃やし続ける。
(……? ああ、)
その時、シュラは目を丸くした。
たとえ黄金聖闘士とて、己の肉体を顧みる事なく小宇宙を発揮する事などあるわけが無い。しかし紫龍がこうして大気圏も突き破るような上昇を可能にしたのと同じように、シュラにもまた、限界を超え続けた果ての奇跡が舞い降りていた。
(初めて使える力が、これか)
シュラが生来全くもたない力、“仁”。超能力をはじめとするその力が今こそ使える事を、シュラは凍てつく真空、光速の星の世界で自覚した。
(──よかろう、持って行け)
これからお前がまみえる戦い、その正義を貫く為の戦いに、それは必ず役立つ事だろう、とシュラは満足げに笑う。それに、これを折って見せたお前には、これを持つ資格もあるはずだ、と。
そしてシュラは、左手で、紫龍に触れる。
最後の小宇宙──それは、聖剣だった。
肉体の限界を超え、セブンセンシズでもって、命を顧みず最大限まで燃やした小宇宙は、己の能力を他人に譲り渡すという、信じられない“仁”の力、いや奇跡を起こしたのである。
シュラは、紫龍に全てを与えたその手でもって、彼を下、地上に向かってトンと突き放した。
黄金の煌めきを纏った少年が、どんどん遠ざかって行く。それは紫龍が降りているせいだけではなく、シュラが逆に上昇を続けているからだ。
遠ざかって行く少年をみる琥珀の目は、穏やかだった。その目の輝きは、まるで地上を照らす星のように遠く、そして人智の及ばぬ程の偉大さがある。正義の守護神・阿修羅、その名にあやかって相応しい輝き。
(俺の名前は、シュラだ)
花も、ケーキも、小さな音楽も、全ては冷たい墓の下。
山羊座カプリコーンの黄金聖衣、そして小宇宙、人生を賭けて研ぎ澄ましてきた聖剣は、一切合切くれてやった。
そして今、この肉体は、墓に入る事すら無いだろう。
──だが、しかし。
(俺の名は、シュラだ!)
それだけで、彼はこの上なく満足だった。誰に貰ったわけではない、己自身で名乗った名前。全てを彼らに、正義を貫かんとする者たちに分け与え、そして己はシュラという正義の神の名だけを抱いて、彼は星になろうとしていた。
赤い星が、目前まで迫っている。あれほどまで忌々しく、苛立たしかった輝き。
だがシュラはその輝きを目の前に、不敵に笑い──
そして、彼は星になった。
──正義の為に闘う、地上のすべての者たちを見守る為に。