第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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 今までのように、聖衣を自ら脱ぎすてるのではなく、斬り裂かれた──すなわち後が無くなった紫龍が爆発させた小宇宙は、それまでとは段違いに高まっていた。
 それがどのぐらいかといえば、驚くべき事に、黄金聖闘士の中でも随一の体術の使い手であるシュラに、その体術でもって肉薄する、というくらいであった。
 デスマスクと闘った時といい、紫龍は頭に血がのぼって攻撃に特化すると、その戦い方が肉弾戦一本となるようだ。童虎に叩き込まれた拳法による流れるような体捌きによる怒濤の連撃をひたすら叩き込む、その様は見事と評するに遜色ない。
 その攻撃を、シュラも最初は楽しんでいた。聖衣を失ってからの紫龍の攻撃は、シュラが本気を出さねば避けることが出来ないほどのもので、少なくとも最初のようなカウンターを仕掛けるのは難しかった。そして回を増すごとに段々と、拳が、蹴りの爪先が、シュラの身体を掠め始めていた。
 本気でシュラと体術のみでやり合うことが出来る相手は少なく、そしてひたすらひとり高みを目指す質のシュラは、そういう相手を伸して更に実力を上げるのを、楽しい、と感じている。──普段は。
 だがしかし、紫龍の繰り出す攻撃がだんだん速くなり、そしてとうとうシュラにまともに攻撃を当て始めていることから、シュラの顔から笑みが消えていく。
(──いくらなんでも)
 おかしいのではないか、と、シュラは不思議というよりも、もはや気味悪く感じていた。
 そしてその、シュラが滅多にしない気の散らしが、隙を生んだ。ハッ、と気付いた時には紫龍が繰り出した鋭い蹴りが目前に迫っており、ドカッ! とシュラの側頭部を捉えた。もちろんコンマレベルの反応速度でベクトルを把握しその方向に身を引いたためダメージはさほどでもないが、喉からはくぐもった声が漏れ、そして驚くべき事に、ヘッドパーツが外れて遠くに飛んだ。
 小宇宙を通わせて纏った聖衣は、肉体の一部と捉えてもよいほどのものだ。それを吹き飛ばすというのはよほどの事である。だからこそ、シュラも紫龍の聖衣をわざわざ斬り裂いたのだから。
「くっ」
 素早く身を起こしつつも、シュラの表情からは、すっかり笑みが消えていた。どころか、警戒を表す眉間の皺が深く刻まれつつある。
「この桁外れの攻撃……」
 今までとはまるで別人だ、と、シュラは気味悪げに呻く。
 恐怖による潜在能力の底上げ、生まれながらに黄金の力を備え恐怖心を持たないシュラには実感できない紫龍の戦法。しかし実感できずとも、理解も納得もしている。ZONEを門として小宇宙に目覚めた時、生物が普段眠らせている潜在能力のリミッターが外れ、信じられないほどの能力を発揮させる。
 だが、それにしても、限度があるだろう、とシュラは感じていた。
 紫龍が元々それなりの小宇宙や体術をもっているならば、潜在能力を解放しての今現在の状況も納得がいく。しかしこの変わり様は、あまりにも差異があり過ぎた。聖衣を纏っていた時の紫龍と今現在の紫龍の小宇宙は、まさに小川と大瀑布ほどに差があるのだ。
 まるで強力なドーピングでも施したような──龍神がその身に乗り移ったかのような突然の力押し。どんな環境・条件であろうと、常にぶれのない実力を発揮できる、プロフェッショナルの戦士であるシュラだからこそ、余計に紫龍の力の変動の大きさは、その背に浮かんだ緻密すぎる翔龍の図案もあって、非常に不気味に映った。

 ──そしてついに、紫龍の小宇宙は、黄金聖闘士である己の小宇宙を圧倒し始めている。

 信じられないその現実を、シュラは驚愕とともに、確かに目の当たりにした。
(紫龍は、無意識のうちにセブンセンシズに目覚めているのか!?)
 いやしかし、とシュラは思い直す。
 紫龍がこれほどまでの実力を持っていた、という事自体には、驚愕はするが不思議ではない。黄金の小宇宙を持って生まれずとも、トニのようにコントロール技術を磨き、バランスよく鍛える事によって達人の実力を身につける事は可能だ。いうなれば、積み重ねによるテクニックによる強さ。もしくは、追いつめられる事によって深いZONE状態に陥り、少ない小宇宙でも深い煉度によって精密で的確な攻撃を繰り出す事が出来る──シュラの聖剣がそうであるように──というのなら、理解できる。セブンセンシズの域に達する為には、ただ小宇宙を巨大に燃やすだけではならない。セブンセンシズに達する為に必要なのは、深い集中力、ZONE、すなわち煉度だ。
 しかしいまの紫龍の強さは、そういったものとは全く違うもの。あくまで純粋な力技、理屈抜きで突然絶対量を増した小宇宙でもっての、荒削りな強さだった。
 追いつめられる事によって実力以上の力を発揮するという、弱者ならではの戦法。普通に考えれば未熟さゆえの水際の戦法であるが、ここまでの──もはやどこまでも理屈が通らぬ、理不尽で、摩訶不思議な──奇跡か魔法と表現できるほどの威力が発揮できるのならば、それは紫龍にとって得意技と言ってすらいいのかもしれなかった。
(──気味の悪い)
 いら、と沸き起こった苛立ちとともに、シュラは眉間の皺を深くした。
 この苛立つ感覚には、覚えがある。それはあの日、アイオロスに感じたものと同じものだ。

 ──どうして、

 あの日、いくら痛めつけても、何故だと問いつめても、決して聖衣を纏わなかったアイオロス。決して自分と闘おうとはしなかったアイオロス。
 その理由は、今もずっと謎のままだ。彼の正義は、そこまでして成したい事は何だったのか。そして今、わけのわからぬ怨念のような、小宇宙の残骸になってなお、彼の意思ははたらいている。その本質は、わからぬまま。
(……俺も、同じだがな)
 シュラは自覚していた。そうだ、この苛立ちは自分にも向けられている。
 サガ、デスマスク、アフロディーテ。確固たる己だけの正義を堂々と掲げる彼らと並び立ちながら、シュラは自分だけの正義が何なのか、13年経った今でも未だに見つけきれていない。
 あのアイオロスに、ただ純真なだけであった少年に確固足る理由のある正義の意思などなかっただろうと断じようとする度に、苛立ちは募った。それはアイオロスに対するものでもあり、また、ならば己もそうなのではないかという不安からでもあった。だからシュラはアイオロスのあやふやな正義を、未だにはっきりと否定し切れない部分がある。
 ──本当は、理解できていないだけで、アイオロスには正義があったのではないか、と。

 己にも、掴みきれていないだけで、堂々と掲げられる正義がありはしないか、と。

(情けない)
 セブンセンシズを発揮させ、一秒が一時間にも感じる時の中、シュラは自嘲した。
 己は結局、己が何であるか未だにわかっていないのだ、とシュラは嫌になるほど自認する。
 己だけの正義を掲げる夢を見て、異教の正義の神の名を名乗った。だが本当は──

 ──おまえさあ、そういうの、なんてえの、なんつーか、「犬です」って言ってるようなもんだろ

 もう居ない悪友の、かつての言葉を思い出す。
 己だけの正義が何かを見極められないシュラは、その苛立ちを解消する意味でも、ひたすらに実力を伸ばした。デスマスクが言う力こそ正義が絶対とも言い切れないが、力が無ければ主張を押し通せないのは紛れも無い事実。人生をすれ違う者たちが掲げる正義が無力故に淘汰されて行くのを見ながら、シュラは己の剣をひたすらに磨いてきた。──どんな正義が自分の正義でも、きっと成し遂げられるように、と夢見て。
 ──しかし。“山羊座カプリコーンの黄金聖闘士・シュラ”、名を持たぬ故に、己で付けて名乗った名前。しかし本当は、自分は未だ名無しの野良犬なのではないだろうか、とシュラは思うのだ。山羊座カプリコーンの黄金聖闘士という華々しく重々しい肩書きも、ただ犬種を述べるのと変わらない気もする。そして、聖剣と大層な名のついたこの剣も、本当は、ただ切れ味がいいだけの、小さなペティナイフと変わらないのではないだろうか、と。

 ──阿修羅。魔道に堕ちすらするまでこだわったその正義が一体どんなものなのか、シュラには未だわからないのだから。

「シュラよ」
 名を呼ばれ、シュラはハッと気を取り直す。そうだ、今は戦闘中。思索に耽るべき時ではない。
「この紫龍の盧山昇龍覇を。子供騙しの技と一笑に付したな」
 紫龍の小宇宙が、またも高まって行く。裏付けの無い、不気味な現象。──まるで、ような。
「盧山昇龍覇は、この紫龍が命を掛けて体得したもの」
 小宇宙が一定の所まで高まると、紫龍は前に踏み込んだ。
「再び躱せるものかどうか、受けてみろ──ッ!!」
「……フッ」
 迷いのない、しかしそれと同時に馬鹿正直に一直線な少年の踏み込みに、シュラは嘲笑とも失望ともつかぬ、小さな笑みを漏らした。
「小宇宙は段違いに高まったが、己の弱点にはまだ気付いておらんようだな」
「なに!?」
 一直線に向かって来ようとする紫龍に対し、シュラは微動だにしない。それは、既にその動きを完全に見切っているからだ。
「昇龍覇が恐るるに足らんのは、それがそのまま、お前の死に繋がる弱点を持っているからだ!」
 昇龍覇を放つ際、時にして千分の一秒ほどだが、無意識にお前の左拳が下がる。いわばお前の心臓は、まるで無防備な状態になるのだ、とシュラは言った。それはまるで稽古をつけている師匠のようにも見えたが、しかしそれは忠告ではない。
 その弱点は、銀河戦争にて星矢と闘った際に見破られてからというもの、紫龍が必死に補ってきた箇所であった。千分の一秒というタイムは、星矢と闘ったときよりは縮まっている。しかし、光速の動きを基本とする黄金聖闘士にとって、千分の一秒という一瞬は、十分期を狙えるだけの一瞬なのである。そしてそんな大きな弱点を未だ技の中に持っているということは、未熟の証し意外の何ものでもない。
「──そうら、撃ってこい! お前の心臓を串刺しにしてやる──!!」
 双方が、吠えた。

「盧山、昇龍覇────ッ!!」

──ドカ、グシャアッ!!

 響き渡ったのは、奇妙な音だった。
 それは少なくとも、シュラが当然予想していた、ただ己の剣が少年の心臓を潰す音ではなかった。
「む、うう〜〜〜〜ッ」
「うおぉ……」
 シュラは、今度こそ、心の底から驚愕した。
 ごく目の前まで迫った少年は、歯を食いしばり、苦痛の表情を浮かべ、しかしその拳を、完全にシュラの腕に当てていた。そう、紫龍の心臓に向かって一直線に突き出された、その聖剣に。
「シ……紫龍、おまえ……」
「昇龍覇の弱点など、星矢に見抜かれた時から既にわかりきった事……」
「な……ならば」

 おまえはあえてその弱点を敵に曝け出し、まさしく背水の陣を張ったというのか!

 紫龍の身体に浅く刺さった聖剣を抜きながら、シュラは呆然と呟く。
 光速の動きを持つ黄金聖闘士、その中でも随一の体術の使い手であるシュラの動きを、一朝一夕で見切るのは不可能。ならば、どうするか。
 ──見切れぬのなら、見切れるように動かせばいい。
 紫龍がシュラの動きを見切れないのは、その速さに加え、熟練の体術使いの複雑かつ巧みな動きがあったからだ。しかし、いくら速くとも、その軌道がわかれば、対処法はいくらでもある。
 一直線で迷いのない、しかしそれだけに愚直で見切りやすい技、とシュラは紫龍の技を断じた。しかし紫龍もまた、己の心臓を囮にして、シュラの聖剣をまんまと導いたのである。
「くっ……」
 心臓を突いた左腕を引いた瞬間倒れ臥した紫龍を見下ろしながら、シュラもまた呻いた。
「み……見事だ、紫龍……。己の弱点にあえて誘い込み、このシュラの左腕を折るとは……!」
 紫龍の心臓を突いた左の聖剣は、山羊座カプリコーンの聖衣を僅かに砕き、そしてその中のシュラの腕の骨を折っていた。聖衣がギプスの役割をし、複雑骨折には至っていないが、大きなひびが骨をきっぱりと断じているのを、己の肉体を完全に把握する体術使いであるシュラは自覚していた。
 肉を斬らせて、骨を断つ。まさにそれを体現した紫龍を、シュラは素直に見事と評した。
「……だが串刺しにならなかったとはいえ、おまえの心臓も無傷ではあるまい……」
 紫龍の策は本当にギリギリのもので、シュラの指先は紫龍の胸筋を破った後、肋骨をかすり、心臓の柔らかな外壁に触れたのだ。
 しかしその時、俯せに倒れ臥した紫龍が、ぐぐ、と身体を起こそうとする動きを見せた。
「……よせ。今の衝撃で、お前の心臓は相当なダメージを受けている。これ以上動くと血が吹き出すぞ!」
 小宇宙が血液を媒体にして宿るものである以上、小宇宙の闘法を取る闘士たちにとって、血流の急所が真の急所。そして血液を生み出す心臓はその最たるものだ。そして破られるまで行かなかったとはいえ、普通、心臓に強い衝撃を受けただけでも人は倒れるものなのだ。でなければ、心臓マッサージとて有効ではない。
 しかも小宇宙に目覚めた闘士の場合、小宇宙の宿る血液に他人の小宇宙が叩き込まれるのは、小宇宙が持つ反発現象によって、何ともいえぬ苦痛を伴う。しかもそれが心臓であったなら、その苦痛は相当なものだ。
 そしてシュラの言う通り、反発現象を起こし、血流が乱れた血液は、下手に動かすと血流が更に乱れ、最悪血管を自ら破って吹き出す事もあり得る。
 しかし紫龍はシュラの忠告が聞こえていないのか、それとも意図的に無視しているのか、はたまた死にかけた虫のように、単に反射として身体を動かしているのか、またも身体を起こそうと、……立ち上がろうとしている。
「立ち上がって、何をするつもりだ……」
 それは、殆ど呆然としたような呟きだった。
(おまえは、……は、何を成そうとしているのだ?)
 アテナを名乗る少女、彼女が統べる少年たち、そして──アイオロス。ただ神を盲信し、己の頭では何も考えず、レミングのように死地に突き進む彼らは、一体何を成そうとしているのか。己の為ではなく、正義の為に、と声高に叫ぶ彼らのその正義とは、一体何なのだろうか。シュラにはやはり、それがよくわからない。
「──よかろう」
 左腕一本失ったとはいえ、シュラにはまだ、鋼のように研ぎ澄まされた右腕と両足が残っている。
(だが、お前の弱りきった心臓はひとつ)
 弱点を曝け出し、昇龍覇を撃つ事はもう出来ないのだ、と、シュラは倒れ臥す紫龍を見下ろしながら、右腕をゆっくりと高く振り上げる。その動きはさながら、横たわる罪人の首を刎ねるため、狙いを定めて斧を構える死刑執行人のようであった。
「──もはや死に時だぞ、紫龍!」

──ザン!!

 聖剣がギロチンのごとく振り下ろされるがしかし、それが少年の首を落とす事は無かった。
 ──どこにそんな力が残っているのか。
 力を振り絞って、紫龍は身を翻し、聖剣から再度逃れた。出血に加えて心臓への重いダメージ、そこに急に動いた事から来るのだろう激しい動悸を堪えながら、それでもシュラから目を離さない紫龍に、シュラは目を細める。
「……見苦しいぞ! お前ほどの男が」
 これ以上の悪あがきはよせ、と、シュラは重く、静かに、諭すように、優しくすら思えるような声で告げた。
「龍星座ドラゴン最大の奥義・昇龍覇が撃てん以上、お前にはもはや何も残ってはいまい」
 そう告げる琥珀の眼差しには、先程までのような、ただ獲物を見る獣のような獰猛さは宿っていない。そこにあるのは、己と同じ戦士を見る、知性ある静かな光だ。
 シュラには理解できない正義を掲げる少年。その源がどういうものなのかはわからなくとも、しかし聖剣を避け、更には己の命を囮にして左の聖剣を折ってさえ見せた彼を、シュラは認めていた。
 ミロの不殺の誓いも、カミュの弟子に対する態度も。アルデバランの判断も、ムウが取った立場も、シャカの考えも、シュラは認めている。もう長年殆ど口をきくことは無くなっていたが、自らが葬ったアイオロスの弟・アイオリアの事とて、彼が静かに信念をもって過ごすようになってからは、彼を否定した事など一度もない。本人は望んでいないかもしれないが、実は見守ってきたと言ってもいい位には気にかけている。
 しかし、彼らの信念を、ある程度、もしくは理屈では理解していても、心の底から共感しているのか、と言われると是とは言えない。
 更には、13年間刃を貸し続けたサガ、己の掲げる主張の為に彼に着いたデスマスク、そしてもの言わぬ花のように、しかし決して折れぬ立ち姿を見せ続けるアフロディーテ。人生の半分以上を共に過ごし、運命共同体と言ってもいいほどの彼らの正義とて、実のところ、──本当に理解しているのか、と聞かれれば、答えは否なのだ。
 アイオロスは、自分の正義が何なのか、とうとうはっきりと口にする事は無かった。ただ漠然と、聖闘士だから、そう生まれたから──それだけの根拠、与えられた状況に従順に流され、わけのわからぬまま惑い、面と向かって抗い闘う事をしなかった彼に、シュラは非常に苛つき、そして結果、友人であった彼を殺すことになった。友人を殺さなければならなかったのは、確かに悲しいこと。しかしシュラはそれを仕方の無い事だとはっきりと思っており、そんな彼を軽蔑し失望を抱いたのも事実で、そしてそれが招いた結果に後悔もしていなかった。
 だからシュラは、紫龍を認めた。理解できぬどころかたった今目の前で敵対している存在、しかし彼が掲げた正義がこうして実際の力を見せつけたからこそ、彼は紫龍を認めた。実力もないのにでかいことを言う者は嫌いだ、その言葉通りに。──紫龍は、聖剣を折ってみせた。言うだけの事を、成してみせたのだ。
(だが、)
 自分には理解できない正義をそれぞれ頑として掲げる友人、仲間たち。そして敵であるはずの、しかも、不気味なほどに理解できない正義を掲げるこの少年。彼らに己が共通して抱いているこの感情はなんだろうか、と、シュラは永遠のような一瞬のうちにふと考える。

 ──阿修羅は正義の神ではない

 かつて、シャカが言った言葉が頭を過る。そうだ、この言葉の意味も、当時はわからなかった。だが今なら──
「い……言ったはずだぞ、この紫龍の五体全てが飛ばされても、一人では死なんと……」
「なに?」
 辛うじて絞り出したような紫龍の声が、シュラの思考を打ち切った。そしてシュラの怪訝な表情が、次の瞬間、再度驚愕の色に染まる。
「──なに!?」
 突如紫龍から広がった、強大な小宇宙。それによって起こる反発現象により、シュラの身体から生理的な汗が噴き出す。
「な……なんだ」
 この絶命の時に、紫龍の小宇宙が衰えるどころか更に増大して行くという信じられない現象。この上まだ何か残されたものがあるというのか、と、もはやはっきりと不気味なその現象に、シュラは戸惑いを浮かべて眉を顰める。
(ろ……老師)
 そして紫龍は、初めてシュラから目を離し、無防備と言っていいような仕草で、すっかり満天の星空となった天を仰いだ。
(お許し下さい……この紫龍、老師の戒めを破ります……)
「…………」
 自分から目を逸らし、ノーガードの姿勢で星空を見つめる紫龍に、シュラは再度眉をひそめる。
 まるで祈りでも捧げるかのようなその仕草は、今度こそ全く理解できない、不気味な様子だった。同時にどんどん高まって行く、強大な小宇宙も相俟って。
 しかし戦いから目を逸らした戦士に対し、当然剣を振りかざす。

──ガシッ!!

「うっ……」
 今度こそ、はっきりと、真正面から防がれた聖剣。
 どんどん増大して行く紫龍の小宇宙は、もはやシュラの聖剣を、小宇宙を、上回っていたのである。
「な……何だ」
 “智”、小宇宙の絶対量を表すその性質に置いて、最も高みに居るのは全智全能たる神。不気味なまでに増大を続ける紫龍の小宇宙、もはやそれはシュラを、そしてもしかすればサガをも超えているかもしれない。──神のような男と言われたサガ、ならばそれを超える小宇宙とは?
(──神、)
 姿の見えぬ、理解できない、ただ強大な存在感だけを放つ不可視の存在。
 ぞわ、と、シュラの背筋に震えが這い登る。その震えは、シュラが生まれて初めて体験するものだった。そう、それは、シュラが持っていないはずの──
「紫龍……! ……このシュラを戦慄させるだけの何を一体持っているのだ!?」
 戦慄──“恐怖”
 シュラは生まれて初めて感じるその感情に、声を荒げる。だがしかし、聖剣を受け止めながらこちらを見ている紫龍の目は、ただただ澄んでいた。黒い目に映った星空、しかし紫龍の目の中の星たちは、空の星よりも強い光を放っていた。
 小宇宙は、その目に最も現れる。紫龍の目から見て取れる小宇宙は、何万光年離れていようとその光を地上に届かせる星の光。人々に、その身をちっぽけな塵芥だと自覚させる、途方も無い、人間には及びも着かぬ宇宙の光、そして何もかもを吸い込む、果てのない闇の果てが確かにあった。
「我が大恩ある老師に禁じられていた、ただひとつの技……」
「な……何だと? 五老峰、天秤座ライブラの老師にか?」
 かつて己も教えを受けた老人の姿を思い返し、シュラは尋ねた。しかし紫龍はそれに応えるというよりは、殆ど独り言、いやまるで何か巨大な存在に啓示でも受けているかのような様子で言った。
「この技を使えばどういうことになるのか、この俺にはわからない……だがただひとつ、これだけは言える!」
「!?」
 フッ、と紫龍の姿が目の前から消えぎょっとしたその時、シュラの両肩が完全に固定された。後ろに回った紫龍の動きが全く見切れなかったという事実、すなわち小宇宙の絶対量である“智”の増大により、黄金聖闘士随一の体術の使い手であるシュラの“勇”をも上回る身のこなしを可能にしているという事に、シュラはまた新しい汗を流した。
 紫龍がシュラの脇下から回した腕は、シュラの動きを完全に封じている。そしてそれは皮肉にも、つい先程、紫龍を僅かな爪先で捉えた時と全く同じ封じ方でもあった。紫龍はシュラよりも背が低い分シュラの身体を仰け反らさせる事になり、それが更に強い封じに繋がっていた。
「──それは俺もお前も、間違いなく滅ぶという事だ!」
「な……なに!?」
 背後で告げられた言葉の真意をシュラが尋ねる暇も与えず、バアン、と、人が地面を蹴ったとはまるで思えない轟音をたてて、紫龍が地を蹴った。
「さあ、約束通りお前も連れて行くぞ、シュラ!」
 大声とともに己の身を襲う、グン、と重力に逆らって身体が持ち上げられる感覚に、シュラが呻く。この感覚は、投げ技をしかけられた時のそれだ。しかし投げ技ならばすぐに重力に任せたベクトルの転じが行なわれるはずなのに、いつまで経ってもその衝撃は来なかった。
(こ……この技は!?)


「──盧山亢龍覇!!」


 紫龍が、叫ぶ。まさに、龍が命を賭した咆哮をあげるように。
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BY 餡子郎
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