第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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アイオロス、その名がシュラの口から出た途端、紫龍がピクリと反応した。
「……そうか。それを聞いて、尚更ここに残って良かった!」
「何?」
ゆっくりと振り返りながら言う紫龍の身体から、小宇宙が起こす陽炎のようなオーラがたち登っている。そして紫龍はカッと両目を見開きシュラをまっすぐ見据えると、堂々と言い放った。
「この紫龍の残りの命の小宇宙、全てお前に叩き付けてやる! アイオロスの無念も全て込めてな!」
シュラが作った崖という闘技舞台の向こうで、星矢たちが紫龍の名を呼んだ。数秒心配げに紫龍とシュラの方に身を乗り出していた三人であるが、その行動が時間の無駄意外の何ものでもないと気付いたのだろう。端から見ても後ろ髪を引かれているのが丸分かりな様子で、少年たちは宝瓶宮に続く階段を駆け上って行った。
無防備な少年たちの後ろ姿に聖剣を放つ事は全く難しくなかったが、シュラはあえてそれを見逃した。ミロとカミュが自分の頭上で交わした思念についてはシュラも気付いていたし、いくらなんでもこれ以上はカミュも腹を決めるだろう。それに、アイオロスの代わりに闘うといったような宣言を掲げた紫龍を前にして、シュラは既に、彼を徹底的に叩きのめすという気分になっていた。それは猛獣が二兎を追う散漫さを捨て、獲物をただひとつに定めた瞬間であった。
「ククク……」
喉を鳴らして、シュラが低く笑う。獰猛な獣が、今から殺す獲物に対して唸りをあげるような様であった。
「……アイオロスの無念も込めて、全ての小宇宙を俺に叩き付ける、だと?」
笑わせるな、とシュラは言外に呟く。何も考えず、ただ聖域に生まれたまま、女神、聖闘士、そして正義の何たるかを一切持たずに過ごしていたアイオロスに、無念も何もあるものか、と。
次期教皇に指名されるほどその質が聖域と女神に相応しいとされた、生粋の“女神の聖闘士”であったアイオロス。己が何者なのか、何の為に闘うのか、何を守るべきなのか、女神とは何か、なぜ自分は殺されるのか、何も考える事なく、何も答えを出す事なく、ただ有耶無耶のままに殺された、ある意味哀れな少年。そう、彼はただ、わけもわからぬまま死んだだけだ、とシュラは断じていた。
──そんな少年に、死してまで為したい意思などあるものか。
よって、紫龍のいう事は為せるわけがない、とシュラは思う。アイオロスの小宇宙がサジタリアスに遺され、そして今この少年らの身に宿っていることは、目の前にある紛れも無い事実。しかし、どうせアイオロスの明確な意思などありはしないのだ、とシュラははっきりと断じていた。あのアイオロスの事だ、どうせ死んだ時の「アテナを守らねば」という、理由の無い反射のようなもの、それだけがただあの無闇に強力だった小宇宙のお陰で強く残っているに過ぎない、と。
だからシュラは、紫龍というこの少年を、滑稽だと感じた。雰囲気に飲まれ、目の前に広がる現象をそのまま信じ、その裏を考える頭を一切働かせない、素直で愚かな少年たち。
あの赤い月の夜から、アイオロスという存在にずっと感じていた苛立ちを、シュラは今、紫龍に感じていた。己の頭を使っては何も考えて居ないくせに、さも世界の定めであるような口をきく、神の為に在る子供たち。
──女神にとって都合の良い、何も考えず、神の為だけにレミングのように盲進する、清く愚かな少年たち!
「──俺は、実力も無いのにでかい事を言う奴が嫌いでな!」
一切の予備動作なしに放たれた一撃に、紫龍が目を見開く。
──ザン!!
「なにい!?」
1ミリとて避ける余地無く食らわされた斬撃に、紫龍は青ざめた。傷つけられたのは太腿、下肢全体を支配する大腿動脈や膝窩動脈が通り、総頚動脈のある首と同等に重要な急所である。傷が浅いので致命傷にはならなかったが、それがシュラによる手加減のせいである事ぐらいは、紫龍にもわかる。──これ以上なく下に見られている、という事ぐらいは。
しかし今、それに歯を食いしばって悔しがる余裕さえ、紫龍には既になかった。
「な……なんという拳圧だ! 脚とともに地面まで裂くとは……」
「今更何を驚いている? ……そら、もう一発くれてやる!」
「うわあ────ッ……!!」
今度は、両腕。しかも上腕、これも急所である。血流という視点においての急所は、小宇宙の闘技に置いても重要な急所である。シュラから放たれる衝撃は、やはり一切の予備動作無く、そしてこれ以上なく正確・精密であった。
己に対し三カ所もの急所家の攻撃を成し得ておきながら、未だその場所から一歩も動いていないシュラを前に、紫龍は冷や汗を流しながら一歩後ずさり、小さく呻く。
(これが、大地をも引き裂く奴の拳の威力か……! ……い、いや、拳というよりも剣……)
そうだ、シュラの手刀はまるで研ぎ澄まされた剣のようだ、と紫龍は感じた。
「今頃分かったか、小僧」
そして己の小宇宙の特性を理解したのだろう少年に向かって、シュラは再び笑った。
「そうだ、この俺の両手両足は全て鋼のように研ぎ澄まされている。その威力は黄金聖闘士十二人の中でも最強! 特に、俺の手刀はいかなるものでも斬り裂く聖剣(エクスカリバー)と呼ばれている」
これは、自惚れでも自称でもなんでもない。
シュラの小宇宙は、非常に物理的な性質を持つ。
原子を砕くのが小宇宙の闘法であるが、シュラの場合、原子を“斬る”ことによってそれを為す。その利点は何かと言えば、“必要最小限”である、というところだ。
つまり、砕く、という行為は、対象物に真正面から力をぶつけ、その反発によって為される。しかし反発は拳の威力を削ぐ現象であるため、A点からB点まで拳を振り抜いた時、A点付近の最高速度と、B点に達する際の最低速度には差異が発生する。つまりA点付近で破壊できる対象は多く威力が高いが、B点付近ではさほどではなくなっている、ということだ。
辛辣なことを言えば無駄な力が多いともいえるが、聖闘士としての常識を疑った者など誰も居ないので、“数打ちゃ当たる”の意味合いが強い星矢のペガサス流星拳は、聖闘士として非常に常識的かつ王道的考えの元編み出された技だと言えるだろう。
しかし、シュラはそうではない。原子を砕くのではなく“斬る”ことができる彼は、A点でもB点でも、その威力に変化は無い。研ぎ澄まされた銘刀とその使い手であればあるほど、その刃には刃こぼれがつく事は無い。達人であれば血曇りさえ残す事なく、数多の対象を斬り捨て続ける事が可能になるのだ。
そして超能力が一切使えないということもあり、小宇宙の使い道を“勇”、すなわち身のこなし一本に完全に絞ったシュラの動きは、神速と言って余りある速さを誇る。
そして速いということは、その攻撃力も更に上がるという事である。速いというのはつまり空気抵抗に押し勝っているという事だ。メジャーリーガーが素晴らしいホームランを放てるのも、達人が木刀で巻き藁を斬ることが出来るのも、その振り抜きに一切の迷いの無い一直線の速さがあるからである。
この“迷いの無さ”、すなわち集中力の高さも、シュラの強みである。
仏教では一念三千と言い、人間は一瞬の思考で三千の事を考えているという。それだけ意識を集中させるのは難しく、そしてだからこそ、たったひとつの事に意識を集中することが凄まじい威力を生む。その集中こそがZONEであり、それが深ければ深いほど、質の高い巨大な小宇宙、即ち威力を生み出すのだ。
そしてシュラは、集中力においては、本当に天賦の才としか言えない、凄まじい才能を持っていた。それはもはや集中するよりはしないほうにいっそ気を使う事が多い位で、シュラは普段の生活では、わざと色んな事を考えて気を散らすようにしている。でないとうっかり集中してしまい、一時間経ったと思っていたら一秒も経っていなかった、などということもザラだからだ。そのおかげで、すっとぼけた事を言って周囲を呆れさせる事も時折ある。
ちなみに余談だが、デスマスクはこれとは逆に並列思考、すなわち2つ以上のことを同時に脳で処理することを得意としていた。身近な例だと音楽を聴き歌詞を正確に聞き取りながら本を読む、正確に車の運転をしながら電話で話すなどの行為の事だ。これはひとつひとつの威力は落ちるが、しかし一般人のように漠然とカオスな思考をだだ漏らすのではなく、全てを小宇宙によって正確に管理した上での思考であるので、まさにコンピュータのような非常に回転の速い思考が可能になる。
──閑話休題。
兎に角、シュラの攻撃は全てが斬撃であるが、特に両手によるそれは段違いの精度を誇り、彼自身が言った通り、聖剣と呼ばれている。シュラ自身は足技でもこの威力が出せない事を未だ己の未熟と感じているわけだが、シュラがこうして己の技のネタばらしを平気でするのは、ばらしても何ら痛手にならないからである。
“聖闘士には、一度見た技は通用しない”という言葉があるが、これはあながちはったりでもない。聖闘士の技はどちらかというと一撃必殺なものが多く、でかい威力の大技をぶちかまし、ほぼ一撃で敵を撃破するのが最も理想的とされ、紫龍の盧山昇龍覇もその傾向は強い。
しかしその分発動の仕組みが単純で、見破られやすい、というデメリットが出てくるのだ。
紫龍とて、この断崖絶壁を一撃のみで作り上げたシュラの実力を甘く見ていたわけでは、決してない。しかし一発目に見た威力の大きさから、精度の方はそれと反比例して大味なものなのだろう、と当然思っていたため、放たれた攻撃のあまりの精密さは、正直な所全くの予想外であったのだ。
また、紫龍がそのような判断をしたのも、無理からぬといえば無理からぬ事であった。先述のように、小宇宙の闘法というものは、強大な小宇宙の大技であればあるほどその精度が大味になって行くのが普通だからだ。しかしそれも完全にデメリットというわけではなく、むしろメリットであると捉えられている。広範囲を纏めて破壊するというのは、敵から逃げ場を奪うこととイコールだ。見切られてしまえば二度は通じないかもしれないが、ならば見切られぬよう一撃で倒す、という根性論の極地のような考え方が、実質、基本的な聖闘士の考え方なのだ。
しかし、シュラの戦い方には、この点において、他の黄金聖闘士たちとは大きく異なる部分がある。
小宇宙が巨大になればなるほどその攻撃範囲を増やすことに費やす通常と違い、シュラは逆に、その範囲を狭(・)め(・)て(・)い(・)っ(・)た(・)のである。
──つまりは、攻撃の精密さ。舞う花びらを均等平行に削ぎ斬る事さえ出来るシュラの身のこなしは、プログラミングされたロボットなどを遥かに凌ぐ精密さを誇る。
まず、聖闘士が基本的に目指す“広範囲破壊”を可能にする為には、まず小宇宙の巨大さはもちろんだが、超能力の実力も大きくものを言う。
黄金聖闘士が最強と言われる所以は、セブンセンシズの目覚めに加え、あらゆる超能力が使用できる事も、大きな割合を占めているのだ。超能力が使えれば実際に手が出なくても拳をある程度弾くことや、小宇宙の遠隔操作で広範囲への攻撃も可能だからだ。ミロのスカーレットニードルの百発百中以上とも言える命中率は、超能力による標的追尾能力をもっているからこそだ。
要するに、黄金聖闘士となれば、個々の力の差はあれど、ある程度の超能力が使える。現在一番強力な能力者はムウ、次にシャカだが、ここ聖域からほぼ地球の裏側である五老峰まで念波を飛ばし人一人を動かすことの出来るデスマスクも相当な力の使い手であったし、サガの技は次元を歪めこじ開けるという、高度かつ希有な超能力がないと使えない類いの技だ。こういった異次元追放系の技は、努力ではどうにもならない天賦の才でしか扱うことの出来ない技なのである。
そして超能力というそれ自体も、努力ではどうにもならない生まれもっての才能がものを言う、“仁”の技である。
しかしシュラは、超能力を殆ど使用する事が出来ない。サイコキネシスはお情け程度、テレポートなど1メートルもできない、というのは、歴代の黄金聖闘士の中でもひどく珍しいだろう。肉体派と呼ばれるアイオリアやアルデバランとて、街一つ分をテレポートして移動したりすることぐらいは朝飯前なのだ。シュラとて努力はしたが、血反吐を吐くほど努力して現在の状況がある、とだけ言っておこう。
とにかく、そのように超能力の才能に一切恵まれなかったシュラは、体術、格闘術、すなわち“勇”の技を磨く事に全てを費やした。他の者は光速の動きに加えてテレポートでも動くことができるが、シュラは一切それが出来ない。よって、自分の肉体と小宇宙だけでそれについていけるスピードを養わなくてはならなかったのだ。
しかし、己が体術使いとして才能を持っている事に気付いたシュラは、「超能力が使えないので仕方なく」という見方を一切捨てた。
そして、その結果、彼は超能力の欠如という大きな痛手を補って余りある実力を身につけ、サガとアイオロスに次いで誰よりも速く聖衣を賜る事にも繋がった。
聖闘士の誰もが目指すド派手な必殺技を、シュラは持たない。小宇宙が成長すればするほど超常の大技に傾倒しがちな周囲と異なり、シュラはただただ地道に体術を磨き、小宇宙を巨大に膨らませるのではなく、逆により細く、より鋭くと研ぎ澄ませていった。
つまりシュラが目指したのは、“最強の通常技”ともいえる。
比較的大技の多い聖闘士の必殺技は、それ故に“溜め”や“構え”を必要とし、つまり技を繰り出す前後は隙だらけであることが多い。そしてその間に小宇宙を燃やして身構えておくこともある程度可能だ。だから聖闘士は結果的に、音速だの光速だの、スピードが重要になってくるわけだ。技の前、もしくは最中のモーションの間に身構えさせることを防ぐ為に。
しかし、シュラの場合、聖剣による斬撃は、格闘技に組み込まれた要素の一つだ。聖闘士に一度見た技は通用しないが、いくらなんでも熟練の達人の格闘術を、一度見ただけで全て見切るなど不可能。まさか正拳突きだけで戦うわけはなく、突きも来れば蹴りも繰り出す。しかもシュラが身につけているのは一つの流派だけではない上に、どの動きも達人の域を突破した神業だ。無駄なモーションは一切なく、更にはあらゆる武術・体術を極め、接近戦を本領とするシュラに、肉体のみの機動力で敵う者はいない。超能力や大技を発動させるには小宇宙を多少燃やさねばならないが、その間にシュラはとっくに間合いに入ってきている。能力なしでそれだけ動けるからだ。
戦いに身を投じていくうちに、強さイコール小宇宙の大きさとなっていくのが聖闘士だ。確かにそれも間違ってはいないが、その巨大な小宇宙を発動させる前に目にも留まらぬ速さで間合いに踏み込まれ斬りつけられてしまっては、何の意味もない。
大技に頼ってあまり接近戦の格闘術を重要視しない聖闘士の盲点を、シュラは超能力の才能がないという欠点によって見事に見出し、そしてその欠点を突破口にして、最強の長所にまで叩き上げた。
シュラの闘い方は、広範囲を纏めて破壊する事による“一撃必殺”ではなく、これ以上なく精密な体術に斬撃の小宇宙を付随させる戦法によって息の根を止める、という“一撃必殺”。それは、“必(・)ず殺(・)す技(・)”という意味では、確かに“必殺技”であるといえよう。
──精密極まる体技と速さ、極限の集中力、斬撃という特性。
それこそが、“聖剣”であり、他の黄金聖闘士と一線を画す戦いの要であった。
シュラは全くもって迷いのない、プログラミングされた精密作業ロボットのように、一切の無駄な力みのない、精密な動作で腕を振り上げた。
「死ね! 紫龍────ッ!!」
それは最初の一撃のように、大地を裂き崖に化すほどの、強力な大降りであった。しかしそのことを瞬時に見抜いた紫龍は、冷や汗をかきながらも正しく身を屈め、大降りによって開いたシュラの懐に、思い切って身を突っ込ませる。
「むっ……!?」
そして、先程までまるで木偶のようにシュラの攻撃をまともに受けるばかりであった少年が機敏な動きを見せた事に、シュラも小さく目を見開く。
「そう容易くやられてたまるか! ……今度はそちらが受ける番だぞ、シュラ!」
挑発するような言葉を叫びながらも、紫龍の表情は強ばり、いやな汗が幾筋も滲んでいる。斬撃、というシュラの小宇宙の特性を知った以上、彼の懐に飛び込むのは、千の刃の切っ先に特攻を仕掛けるような恐怖が伴う。無理もない。
シュラの体勢や表情を確かめる余裕は、紫龍には一切ない。ただがむしゃらに、彼の懐から、一撃必殺の拳を繰り出す事しか考えなかった。そして頭上から、うっ、と低いシュラの声が聞こえたのを合図のようにして、紫龍は小宇宙を爆発させる。強敵を前にしたからこそ深いZONE状態に陥っている紫龍には、シュラの懐に入ってからこの瞬間までが、ひどく長い時間に感じられていた。
「盧山、昇龍覇────ッ、……うっ!?」
──ガッ!!
技を繰り出した直後に脇下から感じた衝撃に、紫龍は動揺する。そしてその一瞬後には既に紫龍の身体は地面から浮いており、凄まじい力で上に引き上げられていた。
紫龍はパニックを起こしそうになりながらも、カプリコーンの黄金聖衣に覆われたシュラの爪先が己の脇に両方引っかかっている、という現状を何とか把握する。しかしそれは紫龍を更に驚かせただけであった。
それは、紫龍の肩の動きが完全に封じられており、シュラの爪先から逃れる事が一切出来なかったからだ。脇下に爪先を引っかけるなどという不安定な状態、普通なら、少し身体をひねるだけで逃れられるはずだ。しかしどこをどう絶妙に捉えればそんな事が出来るのか、シュラはそんな不自然なやり方であるにも関わらず、紫龍の動きを完全に封じていたのである。
紫龍は、ぞっとした。童虎から血反吐を吐くほど拳法を叩き込まれた紫龍だからこそ、それがどれほどの達人の技か理解できたからだ。童虎もまた、指先で紫龍の額を押さえただけで、紫龍を指一本動けなくさせる技をもっている。つまりシュラは、童虎と同等、いや体格に恵まれている事と年齢を考えれば、もしかしたらそれ以上の体術の使い手である、という事である。そしてその評価は、正しかった。
先程も聞いた、クッ、と小さく笑う声とともに、鋭い視線を頭上から感じる。
「甘いわっ! そんな子供騙しの技が、黄金聖闘士のこのシュラに通用するか!」
そう、紫龍がただがむしゃらに拳を突き出すのに躍起になっているのを、シュラは、ただただ冷静に見下ろしていたのである。シュラという、生物としての上位者を前にして本能的な危機感を感じることによって、今までにないほどの深いZONEを発揮した紫龍を、それよりも更に深いZONE──セブンセンシズに至るまでのそれによって。
そしてその様は、シュラの発した“子供騙し”の評価そのもの。大人に向かって拳を繰り出す子供と、それを悠々と掌で受け止める大人の様に等しかった。さらに今、逆に、紫龍は何がどうなってしかけたはずの自分が動きを封じられ、そして重力に反する方向に凄まじい力で引き上げられようとしているのか、まるで把握できていなかった。
シュラは、獰猛な笑みを浮かべた。猛獣が吠えるように大きく笑いながら、獲物に向かって宣告する。
「そうら、自分が仕掛けた技の勢いで自分がすっ飛べ! 紫龍──ッ!」
「なにい!?」
自分の身体を引き上げている力の正体を紫龍がやっと知った瞬間、既に紫龍の身体は更なる力によって一気に引き上げられていた。
「──ジャンピングストーン!!」
ばかな、と、宙に放り出された紫龍は驚愕していた。
己の渾身の昇龍覇、それを避けるだけではなく逆手に取られてカウンターにされた事もかなりショックだが、しかし爪先を引っかけるだけというあの不安定な状態、しかも昇龍覇による凄まじい上昇の中で紫龍を落とさず、更に上方に蹴り上げたのである。信じられないその身体能力に、紫龍は攻撃を食らわされている最中だと言うのに、完全に呆気にとられていた。
──ガシャアッ!!
そして、空中に蹴り飛ばされた無重力状態であるが故に完全に無防備であった紫龍は、更に最も無防備な背中から、大きな石柱に叩き付けられた。
「う……」
これがもう少し細く脆い石柱であれば衝撃を吸収もしてくれたかもしれないが、シュラが狙ったのかそれとも偶然か──体操選手よりも完璧に着地したシュラが迷いなく紫龍の様子を目で確認している所からして前者であろうが──あれだけ凄まじい衝撃であったにもかかわらず、石柱は半分ほどが砕かれただけであった。すなわち、紫龍の背中にかかった衝撃もそれほどであった、ということである。背骨が折れていない事はもはや奇跡であろう。
「バ……バカな……」
昇龍覇がまるで通用しないなんて、と、紫龍は呻きながら、今度は頭から盛大に地面に落ちる。
ドシャア、と大きな音を立てて、まともな受け身すら取れずに紫龍が倒れたと同時にシュラは立ち上がり、凄まじい空気摩擦によってボロボロになった白いマントを片手でもぎ取り、バサリと放り捨てた。
(──まあ、この程度か)
倒れ臥している紫龍を見て、シュラは心中で呟く。
それには、若干の興醒めも含まれていた。アイオロスが云々とでかい口を叩いておきながらこの体たらく、ということもそうだが、単純に、殺し甲斐のない敵である、ということで、である。
シュラは、闘う事が好きである。
その性格は、戦闘神としての阿修羅の性質にみごとに合致しており、その名を名乗るに相応しいものであった。正義だなんだ、戦局がどうの、負けられない、などという事をまるきり無視して、シュラはその場その場の闘いを楽しめるし、楽しみたい性格だった。分かり易くいえば、筋金入りの喧嘩好きなのである。
喧嘩を売られれば、特に真正面からの肉弾戦であれば漏れなく嬉々として高額で買い、非常に嬉しそうに相手を叩きのめす。強敵であればあるほどその喜びは大きく、血まみれで非常に機嫌良さそうに立ち回るシュラを、悪友たちは戦闘狂、あるいは喧嘩馬鹿などと呼ぶ。
口下手が災いして不機嫌であるのかと誤解される事も多いものの、普段はどちらかというと温厚でマイペースなシュラであるが、いざ戦闘となれば、獣のごとき獰猛さと、狂気に等しい嗜虐性が燃え上がる。
それは戦士であれば当然といえるのかもしれないが、生まれつき“恐怖”というネジがすっぽ抜けているシュラのそれは、黄金聖闘士たちの中でも群を抜いて強かった。戦闘神・阿修羅、闘う為に生まれたその神の名を名乗るに相応しい性質を、彼は十二分に持っている。どんなに強い相手にも一切の恐怖を感じる事なく、むしろ嬉々として牙を剥くことが出来、相手の顔面を地に踏みつけようとする、狂気にも似た嗜虐的獰猛。
そんなシュラにとって、紫龍ははっきり言って物足りない相手だった。懐に飛び込んで来た時は多少ワクワクしたが、あまりにも素直で力んだ拳は、綺麗にカウンターに転じることが出来てしまった。己に体術の指導をしたあの童虎老師の弟子、しかも盲目の状態でデスマスクを圧したというから、正直期待をしていのだが──所詮は青銅のヒヨコという事か、と、シュラは若干下がったテンションで、一歩前に出る。さて、まだ少しは楽しめるだろうか。
「今、首を落として楽にしてやる」
口の端に笑みを登らせたその表情は、先程までの獰猛なものとはワンランク下がったものだ。もはや狩れる事が確実な獲物を前に、さて殺す前に多少遊ぼうか、という、残酷で余裕に溢れたもの。
そしてシュラはその表情に相応しく、彼にしてみればラフな動作──大きく脇を開け、腕を高く振り上げる。
「う……」
しかし、刃に宿る研ぎ澄まされた小宇宙に、紫龍が小さく呻いて反応する。
──カッ!!
迷いなく振り下ろされたそれを、紫龍は左腕に装着した盾で防ぐ。
防御が成功した事に対する安堵、しかしそれも、一瞬だ。
「う……」
にやりと笑みを浮かべたシュラに、紫龍は己が──いや、己で遊ばれている、ということを悟った。わざと甘い攻撃を繰り出し、それを命からがら防御する紫龍を眺めて遊んでいるのだ、この男は。猫をじゃらして遊ぶように。
また紫龍は、シュラがこの状況を楽しんでいるという事に対し、はっきりと恐怖を──シュラが一切持たないその感情を感じていた。
格闘技、すなわち身体を動かす事が楽しいという事は紫龍も十分理解できるが、このように、命のやり取りを楽しむという事は、ここ数日で初めて人を殺し、嘔吐と不眠にやっと打ち勝ったばかりの紫龍にとって、とんでもない狂気意外の何ものでもなかった。その狂気が、おそらくこの男にとってごく普通の事である、という事も含めて。
そして紫龍は、更に絶望することになる。
──ピシッ!!
「ああ!」
青銅聖衣という括りを超えて最強の高度を誇るとされる、ドラゴンの盾。それは紫龍の腕に装着されたまま真っ二つになり、それだけでなく、その下の紫龍の腕を深く斬り裂いていた。つまり、盾としての役目を全く果たさなかったのである。
「うう……」
「フッ、しかしさすがに噂に高いドラゴンの盾。それが無ければ、お前の腕は落ちていたぞ!」
シュラは、少しばかり機嫌良さそうに言った。どうやら、紫龍の反応で遊ぶのではなく、己の聖剣とドラゴンの盾、どちらが勝つのか試したかったようだ。そして紫龍の腕ごと切り落とすつもりであったのにも関わらずそれが成せなかったという事──紫龍はそう思っていなかったが、ドラゴンの盾が盾としての機能を果たした事──が、彼の機嫌を上昇させていた。
「だが、これでもうお前の身を庇うものは無い!」
シュラの顔から、既に笑みは消えていた。ドラゴンの盾を斬り捨てた今、楽しめる要素はもう無いと断じたからだ。あとはもはや事務処理にも等しい単調な仕事だけだ、と。
「そうら、ついでに聖衣も全て剥ぎ取ってくれる!」
「うっ!」
目にも留まらぬ速さで繰り出された複雑な軌跡に、紫龍はもはや微動だに出来なかった。それは単に本当に速すぎて目にも留まらなかったからであり、また刃を向けられた時の生物としての本能的な反応、すなわち恐怖で身体が硬直していたからでもある。
「……なにい!?」
ひびすら入る事なく、溶けた飴でも斬るように斬り裂かれたドラゴンの聖衣は、滑らかな切断面を晒してがらがらと地面に散らばった。
聖衣を傷つけられる事は、聖闘士にとって、技を破られる事以上に心を挫く事に繋がる。死ぬ思いをし、奇跡的な確率の元、やっと手に入れることができる聖衣。現代技術では再現する事不可能なその合金に己の小宇宙を血肉のように通わせて纏うその装備は、肉体的な意味だけではない、精神的な意味合いも強く持つからだ。
そして、ただ肉体的に相手を滅するだけでなく、精神的にもその心を完全に折るという事について、シュラは最近関心を持っていた。肉体的には生かす、すなわち不殺の誓いを掲げながらも勝利を得るミロ。戦士としての精神を叩き折る事で戦いを終わらせるその姿から、それを学んだのだ。
とはいっても、シュラが肉体的な攻撃をおろそかにするわけはない。それはただより完全に、より徹底的に相手を殺そうとした結果であり、しかも戦闘狂の嗜虐性と結び付いてより容赦がなかった。現に、紫龍は聖衣が細切れにされたショックで、未だに膝立ちから立ち上がることが出来ないでいた。
硬度について評価が高いドラゴンの聖衣を纏っている紫龍は、特に聖衣に対する異存が高い。
そして、桁違いに大きな小宇宙──すなわち聖闘士として常識的な力技によって砕かれる事は想像の範囲内でも、全く逆に極限まで範囲を狭めた神技によって鋭利に斬り裂かれた事、すなわちパワーではなくテクニックによってドラゴンの聖衣を破られたことに、大きなショックを受けていた。
しかし戦士としての心の象徴である聖衣を細切れにされた今、シュラの拳がまさしく聖剣、触れなば切れる刃であると、紫龍は心の底から理解した。つまり、まともにぶつかってはまさに太刀打ちできないということを理解したのである。それは、生来馬鹿正直なまでに素直な質、美徳であり欠点でもある性格を持つ紫龍が正しく得られた結論であった。
「どうだ、観念したか紫龍!」
シュラが吠えた。刃への恐怖と聖衣を失った絶望で膝をつく少年に対し、もはや終わりだと、お前が出来る事はもう何もないのだと、徹底的かつ残酷に宣言した。
更には余談、しかも紫龍は与り知らぬ事であるが、巨蟹宮戦に置いて紫龍の起死回生に繋がった、春麗が発する思念──彼女の天賦の才によるテレパスによる割り込み、思念妨害(ジャミング)。超能力に関してはトップクラスに入る力を持つデスマスクには非常に目立って感じられたそれも、シュラには一切効かない。春麗は未だ紫龍に対して念を送り続けていたが、超能力の才能を一切持たないシュラは、彼女の祈りの思念に気付く事すら無かった。
「さあ、今度は聖衣でなくお前自身が真っ二つになる番だ────!!」
再度シュラが吠え、今度こそまったく隙のない、一撃必殺の刃が振り下ろされた。
──ザン!!
そこにあるのは、恐怖で硬直し、脳天から真っ二つにされた少年の姿──の、はずだった。
──カシャン、と、最後に残ったドラゴンのヘッドパーツが地に落ちる音。
「う……」
シュラは、この戦いに置いて、初めて笑みと無表情以外の表情を見せた。それは、驚愕。
「……おまえ、まだ立ち上がる気力があるとは……。しかも」
──俺の手刀を、素手で受け止めるとは!
それはシュラにとって、生まれて初めての経験であった。紫龍は振り下ろされた刃を掌で挟み込むようにして、シュラの刃を見事に止めていたのである。
まともにぶつかっては太刀打ちできない、それを正しく理解した紫龍は、真っ正面から聖剣を防ぐのではなく、その迷いの無い一直線のベクトルの垂直方向から力を加えるという方法で、その刃を止めたのである。
「──真剣白刃取り! 俺の生まれた日本に伝わる武道最大の奥義……」
とはいっても完全ではなく、ドラゴンのヘッドパーツは真っ二つに斬り裂かれ、紫龍の額はバックリ割れて流血していたが。それは盾の時と全く同じ状態であったが、ということはつまり、紫龍の技は、最強の硬度を誇るとされるドラゴンの盾と同じ役目を果たした、という事である。
聖衣という戦士の心の象徴を粉々にされ、しかし生身の身体でその聖衣と同等の力量を見せつけた紫龍に、シュラは素直に感嘆し──そして、不気味に感じていた。心を、聖衣を砕かれ、刃を、最大の恐怖を与えられてこそ初めて、シュラの目をまっすぐに見てきた紫龍を。
「そして、シュラよ! お前を滅ぼす起死回生の技だ!」
「な……なに……、!?」
──ドカァ!!
「ぐっ!」
不自然な体勢、体術において神技の域に達したシュラがあり得ないと断じていた体勢から繰り出された紫龍の渾身の蹴りが、シュラの腹に直撃した。昇龍覇を繰り出す紫龍の打撃力はなかなかのもので、シュラは後ろに飛ぶ事によってその攻撃の半分をやり過ごす。おかげでダメージはさほどでもなかったが、背中から倒れ込むことになったシュラは、子供のとき以来の無様な倒れ方をした己に目を見開く。
「バ……バカな」
──奴の身体のどこに、まだこれだけの力が残っていたのだ!?
さすがにその驚愕に思考を持って行かれる事はなく、シュラは直ぐさま身を起こした。とはいっても、その表情はやはり驚愕に彩られていたが。
シュラという戦士の性質を正しく理解した紫龍とは裏腹に、シュラは、紫龍という少年をまったく理解していなかった。
最強の硬度を誇るドラゴンの聖衣、だからこそ聖衣に対する異存は強かろう。その判断からドラゴンの聖衣を細切れにしたシュラのやり方は理にかなっていたし、紫龍に恐怖を与えるには、確かに最も効果的な方法であった。
──しかし、シュラは思い及ばなかった。恐怖心と言うものを一切持たず、いつ如何なる時も平静で極限の集中力を発揮でき、なおかつ今現在まで与えた恐怖の怯みと同時に完璧に的を葬ってきた彼は、恐怖こそが火事場の馬鹿力の呼び水となり、通常あり得ないレベルの力を発揮させてしまう事を理解できなかった──いや、殆ど知らなかった、と言っていいだろう。
紫龍と比べれば歴戦の戦士であるシュラだが、彼がまだ23歳の歳若い青年である事は事実。童虎などにいわせれば、まだまだ経験の少ない若造であった。そして現在の状況は、それを確かに証明している。出会った事の無いタイプの敵に戸惑う、という姿で。
「うっ……、な、何だこれは!?」
翻る長い黒髪、その下の背に浮かぶ龍の図案に、シュラは眉を顰める。小宇宙の高まりに比例して色濃くなるその姿の仕組みは不明、しかしそんなことよりも、この状況で最も小宇宙が高まっているという状況が、シュラには理解できなかった。
まさに、窮鼠猫を噛む。追いつめられた恐怖が爆発した時の生命の反発力、それが紫龍に力を与えていた。
そしてそれは、もはや紫龍の常套手段でもあった。
デスマスクとの戦い、それ以前の戦いにおいても、追いつめられた紫龍はあえて聖衣を脱ぎ捨ててきた。
自らを更なる窮地に追い込む事によって、己の潜在能力を呼び覚ます。弱者だからこそのそのやり方は、シュラには決して理解できないのかもしれない。どんな相手にも恐怖を持つ事無く、心平静に、そして残酷な嗜虐性をもってして敵を攻撃する彼は、被虐の恐怖を転じて力と成す手負いの獣の精神は理解できないのだろう。
「これだけは約束しておこう、山羊座カプリコーンのシュラよ!」
そして更に、シュラたちが持たぬ、しかし女神の聖闘士としてもはやありがちにすらなりつつある、悲壮な覚悟。己の命を引き換えにしても、という思い詰めた気迫。まさにカミカゼ特攻と評されるだろう意思が、紫龍にその言葉を吐かせた。
「──例えこの紫龍の五体全てが飛ばされたとしても、一人では死なん! 必ずお前も連れて行くぞ!」