第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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トニが処刑されたと知り、アルターの聖衣を纏う事を決意したニコルがその足で向かったのは、幻の地ジャミールであった。
聖域に身を置かず、現教皇の命令があってもことごとく無視し続けていながらにして、その特別な立場故に刺客を差し向けられる事もないという、牡羊座アリエスの黄金聖闘士。彼を沙織というアテナの味方につけ、彼女の戦士となる少年たちを助けてもらう為に、ニコルは彼の元へ向かった。
現教皇がはっきりと誰なのかについてはまだわからないが、本物の教皇であるシオンは前アリエスであり、ムウの師である。聖闘士というものにとって師というものは親よりも大きな存在で、個人によってはもはや絶対的な、神にも近い存在である事すらある。
二百年以上前に起こった前聖戦の生き残りであり、また聖闘士の中でも特別な伝統を守り続けてきたアリエスの師弟。聖闘士たちの中でも最も古風な師弟関係を持つ彼らは、その例にまさに当てはまるのだろう。現教皇が偽物である事、即ちシオンが誰にも知られぬまま既に殺されてしまっている事について話が及んだ時のムウの静かな反応は、トニの死によって暗い高揚をまだ生々しく抱くニコルとて、ぞっと後ずさるほどに冷たく深かった。
つまり端的に結果だけを言えば、ムウはさほどの動揺も見せず──いや、もはやそれはニコルがここに来るのを以前から待っていたのではないかと思うほどあっさりと、沙織に協力する事、すなわち、あくまで平等──に見せかけ、星矢たちが聖衣を損傷させた時は修復に応じる旨について頷いた。
聖衣の中でも最も強度の低い青銅聖衣で黄金聖闘士に挑まねばならない上で最も懸念していた事項に保険がついて、ニコルはとりあえずほっとした。
「“聖衣の意思”……ですか」
「はい」
“商談”がまとまった後、ニコルは個人的な事ですがと言いおいて、ムウに質問した。
聖衣というものが一体どういう存在なのかということについて、装着者たちすらよくわかっていない、というのが現状である。
幻の金属で作られた合金である、意思があり勝手に動くなど、もはや怪談めいた謂れを持ち、しかもそれには確かな信憑性があるのだが、はっきりとした証明も出来ない。そして聖衣は他の神の軍勢のように神が兵たちに与えたものではなく、アテナの兵である人間たちが自ら作り出したものであるということから、ただ神の恩恵という曖昧な認識として補完してしまうには、はっきりとした現実感を持ちすぎている。
そんな聖衣の真実に最も近いのは、聖衣を作り出し、修復師としての地位を保ち続ける、アリエスの一族である。
だが彼らの持つ技術や知識は基本的に一子相伝、しかも現在その立場にあるムウは、人との交流をほぼ完全に断絶した状態だ。
その半生をアルターという聖衣を巡る因縁によって狂わされたと言っても過言ではないニコルは、聖衣というその存在についても、深い興味を抱いている。彼に限らず、聖闘士ならば、いや聖衣を得る為、聖闘士になる為に身を削った者たちならば、同じように興味を抱いているだろう。
そして、祭壇座アルターの白銀聖闘士という肩書きを背負う決意を固めたという事もあって、ムウとの邂逅は、ニコル個人的にも高揚する事だった。
「……あの夜も、同じことを聞かれましたね」
「あの夜?」
「──いいえ、こちらの話です」
遠くを見ていたようなムウは、ふう、と小さく息を吐いた。それに首を傾げつつも、ニコルは言う。
「私どもの手元にある聖衣は、このアルターと、そしてアイオロスが残した射手座サジタリアス。……そして特にこのサジタリアスについては、不思議な事が多い」
「不思議な事」
ひどく曖昧とした表現に、ムウは淡々と相槌を打つ。ニコルは頷いた。
「沙織お嬢様、いえ女神は、サジタリアスを常に側に置いておられます。そしてその様は、まるでアイオロスを側に置いているような。……具体的に言うと、話しかけたり、手を置いたり」
「はあ。故人の墓に話しかけるようなものではないのですか」
しかもまだ十を超えて間もない少女であれば、己を助けた英雄が纏っていた聖衣を本人に見立て、人形遊びの感覚で話かけていても何ら“不思議”ではないだろう。
「私もそう思いました、最初は」
「最初は?」
「……アリエス殿。聖衣というものは、装着者がいない状態でも共鳴音を起こしたりするものなのですか」
聖衣の、共鳴音。それは聖衣が鳴らす、あの星が鳴るような音の事だ。装着者が身体を動かす事でパーツがぶつかりあっても鳴るが、小宇宙が通された聖衣──すなわち聖衣を纏った者同士が近付いても、その現象が起こる。
「というと、サジタリアスは単体でも共鳴音を鳴らすと?」
「ええ。頻繁ではありませんが、女神が大きな小宇宙を発現させた時など、特に」
「……黄金聖衣なら、あり得なくもないですけどね」
聖衣が起こす共鳴音は、小宇宙が持つ基本的な反発性が、聖衣という物質的な質量を得る事によって起きる現象である、とムウは説明した。なるほど、とニコルが興味深げに頷く。
「装着者が居なくても、聖衣自体には、代々の装着者の小宇宙が多く残留しています。黄金聖衣であれば更にその総量は桁違いになる。神レベルの小宇宙が近付けば、その小宇宙が反応を起こしてもおかしくはないでしょう」
「つまり、ただの性質的な反射だと?」
「そうですね。しかし、言いきってしまうこともできません。それが、聖衣の意思というもの」
ムウは、神妙に言った。
「聖衣の意思。……存在するのですか、やはり」
「ええ」
はっきりと、そして腹が立つほどあっさりとした答えだった。
「最も顕著なのが、聖衣は装着者を選ぶ、という点。相応しくない者にはパンドラボックスは開かず、また無理に装着しようとしても小宇宙を通さず重い枷にしかならない」
「…………」
ニコルは顔を顰め、ぎゅっと拳を握った。あの日、トニが持ち手を引いても、びくともしなかったアルターのパンドラボックス。あれが聖衣の意思なのだとすれば、それは──
「……それは、誰(・)の(・)意思ですか?」
その問いに、ムウもまた、過去を思い出していた。何も知らないまま、仲間だと思っていた彼からの思念、今と全く同じ問いに応えたあの夜。
「……聖衣の修復には、小宇宙が籠った血液──すなわち聖闘士の血液を多量に用います」
そしてムウは、あの夜と全く同じ答えを、また返した。他の神の軍勢と違い、女神の力を一切借りず、アリエスの一族、人間の一族が開発した聖衣。それは人間たちの、聖闘士たちの血を、命を引き継ぎながら修復され、あるいはより強く、と改良されてきたこと。聖衣に宿るという意思は、血を流した代々の聖闘士達の“意思”であり“遺志”、それなのではないか、というのが、我々修復師の見解なのだということを。
「代々のその聖衣の持ち主や、その聖衣の為に大量の血を流したかつての聖闘士たちの小宇宙が持つ特性。これがつまり、“聖衣の意思”と呼ばれるもの。……そう、現在、サジタリアスがあなたたちの所にあるのも」
「……どういうことです?」
「黄金聖闘士は、自宮を守護、すなわち待機して攻め入ってくる敵を迎え撃つのが基本です。すなわち黄金聖衣も、黄金聖闘士と同じく、それぞれの宮に安置されているのが基本。装着者の童虎老師が五老峰に居ても、天秤座ライブラの黄金聖衣は天秤宮に安置されているように」
青銅聖衣や白銀聖衣よりパーツが多く、非装着時のオブジェ形態の大きさもかなり大きい黄金聖衣にとって、パンドラボックスは特別な運搬用のトランクのような存在でしかない。黄金聖衣の本当のパンドラボックスは、それぞれの宮に他ならないのだ、とムウは言う。
「聖衣に込められた血と小宇宙による形状記憶的な性質──聖衣の意思。黄金聖衣がそれぞれの宮に戻るのは、その中でもこれは反射的な性質、もはや本能とも言える域に達した、最も強いもののひとつです」
「だがサジタリアスは、お嬢様の側に留まり続けている──」
「それだけ強い“意思”だということでしょうね。本能をも覆すほどの」
「…………」
ニコルは、目を伏せた。
「……聖衣の意思が、装着者や周囲に影響を及ぼす事はありますか」
「完全に聖衣に意識を乗っ取られる、なんて事はありませんが、多少なりとも影響はあるでしょうね」
それが、強い小宇宙と意思であればあるほど、とムウは言い、また遠くを見遣った。
「そうですか」
ジャミールから戻り、ムウの協力を得られた事とともに聖衣の事についても、ニコルは沙織に報告した。
「このサジタリアスにアイオロスを感じるのは、本当の事。……アイオロスが、私に言うの」
「言う……?」
「そう、君は女神アテナだって」
「…………」
沙織はいつもと同じように静かにサジタリアスのパンドラボックスを撫で、ゆっくりと言った。
そしてニコルは、そんな沙織の姿を、じっと見遣っていた。
光政がアテナを日本に連れ帰ったのと、ニコルが彼に雇われたのは数年の差異があるが、光政本人から、当時の事は詳細に聞かされている。
アイオロスの死因は、大きな裂傷による出血性ショック死であった。そして流れ出た血液は、彼が背負っていたサジタリアスにほぼ全てぐっしょりとかかっていたという。
もちろん拭ったが、拭った布に着いた血は、驚くほど少量であった、とも聞いている。やはり怪談じみたそのエピソードの裏付けを、ニコルは今、ムウの話から確信していた。
アイオロスは赤ん坊であったアテナを連れ、アテナに対する反逆の徒に乗っ取られた聖域から脱出した。そしてアテナをアテナとして育ててくれと、アテナを守ってくれと、城戸光政に託し、逝った。
そして光政は、言っていた。このサジタリアスを見る度、あのように立派に逝ったアイオロス少年の姿を思い出す度に、己の子らを犠牲にしてでもアテナのための戦士を育て上げねば、という決意が強くなるのだと。
──聖衣の本能を押さえつけ凌駕するほどの、アイオロスが遺した強い意思。それが、光政と言う人間に、己の子殺しさえ躊躇無く行なわせるほどの影響を与えたとしたら?
あくまで、仮説でしかない。証明は出来ない。しかし、きっぱりと否定する事は難しい程度の信憑性は確かにある。おまけに沙織もまた、女神の小宇宙を持っている。あれだけ憎々しげな感情を向けてきていた少年らに、命を掛けて行なうほどの行軍を自主的にやらせるまでのカリスマ、その小宇宙が。多大な影響力を確かに持つ両者に挟まれた光政が、その影響を受けていないとは決して言い切れない。
そしてまたその沙織も、己の生い立ちを知らず、サジタリアスにも触れる事無く普通の裕福な少女として育っていた頃と、星矢たちが旅立ち、また己の運命を知ってサジタリアスの管理を譲られてからは、がらりとその風格が変化した。
(アイオロスの意思──)
いや、遺志。はっきりと証明する事は出来ない。だがそれはいま間違いなく、あの、彼の血に濡れたサジタリアスに宿っているのだ、とニコルは確信した。
(……ならば、この戦いは)
英雄アイオロス。彼が引き起こした戦いともいえるのではないか、とニコルは薄らと思う。確かに事の起こりは現教皇による反乱であるが、アイオロスがただ死に、沙織がただの少女として育てられていれば、この戦いは起こらなかったのだ。
事実、光政はアテナを託されるまで殆どの子供を認知するとまでは行かずともそれなりの社会的・金銭的待遇を考与える事を考えていたし、沙織とて、己の運命を知り、サジタリアスに触れるまで、大富豪の娘としてはごく普通の、ただ我が侭な子供らしい子供だった。
「……女神。あなたは──」
「この戦いは、私(・)の(・)意思ですよ。ニコル」
ニコルの心をはっきり読んだ上でのその発言に、ニコルはぎくりとした。沙織は、笑っている。それは女神として相応しい、高貴で、神々しいとしか言いようのない笑みだった。
「だってアイオロスが私に訴えるのは、戦いなどではないのだもの」
「……では、アイオロスは、何と?」
ニコルが尋ねると、沙織は、女神にしか見えない少女は、黄金色に輝くサジタリアスをゆっくりと撫でながら、言った。
「──世界が平和になりますように。皆が仲良く、楽しく暮らせますように」
それは少年の、たったひとつの願い事。小宇宙を空気のように、聖闘士である事を心臓の鼓動のように、女神を太陽のように自然に受け入れていた少年。ぞっとするほど濃いブルーグリーンの目で、女神が死ねと言えば死ぬのだと、事も無げに言った少年の願い事。
「…………」
「ねえ。とっても綺麗な願い事だわ」
だがその願いは叶えられる事なく、少年は死んだ。おれは何も出来なかったと、強い無念の意思を残して、死んだのだ。
「だから、叶えてあげなくちゃ」
にっこり、と笑う笑み。完璧な、神の笑み。
「……だって私は、地上を守護する、女神アテナなのだから」
そして女神は、戦争を起こす。涙が出るほど美しい笑みを浮かべ、地獄の果て、魔女の釡の底、血で血を洗う戦争を。
その様は、女神が言えば死ぬのだと言った少年の様にとてもよく似ていたが、それを知る者は、ここには誰も居なかった。
──ドォン!
ひとりでにパンドラ・ボックスを飛び出し、人馬宮に向かって飛んで行くサジタリアスを、皆が見つめている。もちろん、ひっそりと遠くに佇む、ニコルも。
サジタリアスが飛び立ったのは、アイオロスの意思だろうか。それとも黄金聖衣が皆持つという、自宮への単なる帰巣本能だろうか。真実など、誰にもわからない。
(いや──もはやどうでもよい事だ)
もう、戦争は始まってしまったのだ。今更真実を突き止めても、戦いが止まるわけではない。もし明かされた真実が力を持つとしても、それは戦後の話だ。今は真実や、ましてや個人・故人の意思など何の意味もない、ととニコルは断じた。
──ピキィン!
──キィン!
──キィイイイン!
聖衣、しかも最高峰の黄金聖衣が一斉に起こす共鳴は、ほぼ聖域中にまで聞こえるほどである。だがそれは耳に不快な事など一切なく、むしろ美しい音楽のように、皆をうっとりと感嘆せしめた。
星が鳴るような音、と表現されるその音が一斉に鳴り響く様は、まるで流星群に音がついたような壮麗さであった。
サジタリアスは──アイオロスの意思は、きっと星矢たちを、いやアテナの為に闘う少年たちを助けるだろう。それ以外はもはやどうでもいい事だ。
(……もう、あとは待つしかない)
ニコルは星々が鳴り響く中、そっと目を閉じた。
──そして、人馬宮。
ニコルたちの思惑通り、サジタリアスは星矢たちの前にその姿を現していた。日本に安置されていたはずのこれがどうして、と星矢たちが首を傾げる中、サジタリアスが動く。
──ツツ────
音も無くひとりでに弓が引かれる様は、少年たちの背筋をぞくりと震わせた。それは例えば聖遺物の奇跡を目の当たりにしたような困惑と驚愕、そして神が起こしたそれに触れた際の、落雷にも似たショックであった。
──ビン!!
「うっ……!」
放たれた矢が、壁際に居た星矢の脇の下の隙間を抜け、石壁に深々と刺さる。
星矢に背負われていた瞬が地面に投げ出され、小さく呻き声を上げた。星矢、と紫龍が困惑した声で呼びかける。
そして星矢本人はといえば、震えていた。ここまでの戦いで、何度も黄金聖闘士に対峙して居ながらにしてただの一度も震えた事など無かった少年はいま、傍目にもわかるほど震えていた。
「……どうして、サジタリアスの黄金聖衣がオレを狙ったんだ」
冷や汗を流しつつ、それでも何とか震えを押さえ込んだ星矢は、恐る恐るそう言った。もう少しで心臓を射抜かれる所だった、と言う通り、やはかなりきわどい所に深々と突き刺さっている。
そしてその時、その黄金の矢が、ぐわん、と一気に小宇宙を放った。
──ビッ!
「──そこから離れろ、星矢!」
紫龍が、再度叫ぶ。ビシビシと大きく広がって行く壁の亀裂がやから放たれる小宇宙のせいだというのは、誰の目から見てもあきらかだった。その小宇宙に反応したのか、それとも単に大きな音に驚いたのか、気を失っていた瞬も目を覚ます。
「な……なんだ、これは!?」
何とかその場から離れた星矢は、自分の居た壁と矢を見て、ひっくり返った声でそう叫んだ。ぼろぼろと剥がれ落ちて行く壁、矢が刺さった所を中心として、金色の閃光が姿を現していたからだ。
──ガカァッ!!
「うわっ……!?」
「なに!?」
それはもはや爆発に近く、閃光とともに、勢いよく石片が飛び散る。既にかなり細かく砕かれていたためダメージは無きに等しいが、少年らは慌てて身を守った。やはり小宇宙が多量に発されているからだろう、少年らの聖衣と黄金の矢が砕いた石片がぶつかると、キィンキィンと細かな星屑の音が響いた。
「うっ……壁の亀裂の下から何か出てきたぞ!」
盲目の状態から復帰して短いからか、いち早く目を開けたらしい紫龍が叫ぶ。
「……ああ!」
「こ……これは!?」
目の前に現われたものを、少年らは、じっと凝視した。
「字だ……」
壁が剥がれたその下に現われたのは、人の手で刻まれたらしいギリシア文字だった。
「……どうやら、アイオロスの遺書のようだな」
「なに?」
突然かけられた声に、少年らはびくりと反応して振り向いた。目の前の奇跡に気をとられ全く気配が察知できなかったが、背後に立っていたのは、天蠍宮を無事抜けてやってきたらしい氷河だった。
己の姿に喜色を浮かべる星矢らにひとつ頷いてから、氷河もまた、壁の文字をじっと見つめる。
「……射手座サジタリアスの黄金聖衣は、星矢を狙ったのではなく……壁に刻まれたこの遺書を、オレたちに見せようとしたらしいな」
そして星矢らも、氷河の視線を辿るようにして、今一度壁に刻まれた文字を見た。一つ一つの文字を噛み締めるようにして、少年らはその文字を読み上げて行く。
──ここを訪れし、少年たちよ
あとからあとから、少年らの目に、涙が溢れ流れて行く。
──きみらに
「女神を、託す……」
少年たちのその様子は、まるで涙を流す奇跡の聖像を見つめ涙し、天啓たる聖句を読み上げる敬虔な信者のようであった。
文字を読み上げるごとに、一句を心の中で噛み締める度に、身体の底から込み上げてくる熱い感情。傷つき失われた力が再び蘇ってくるような感動の中、少年らはしばらく無言のままだった。
──アイオロスは、おれたちが来る事を、ずっと待っていてくれたのだ。
少年らは今、言葉もなく、全員がそう解釈した。いつ来るのかわからない自分たちを、永久に誰も訪れないかもしれないこの人馬宮で、ずっと待っていてくれたのだと。
聖衣の特性や、小宇宙の性質の事を考慮するならば、サジタリアスの黄金聖衣が人馬宮にひとりでに舞い戻ったのは聖衣が持つ自宮への帰巣本能であり、またサジタリアスがひとりでに弓を引き遺書にも見える文面を星矢たちに見せたのは、サジタリアスに残った意思、すなわちアテナを守れというアイオロスの遺志を最もよく伝えやすい道具がたまたま揃っていたからだ、とも言える。この壁の文章とて、確かにアイオロスが掘ったものではあるが、本人もまさかそれが己の遺書として捉えられるなどと、万にひとつも思っていなかっただろう。
だがやはり、少年らにとって、そんな事実は知る由もない事であったし、彼らを頼みの綱にしているニコルらにとっては、どうでもいいとさえ言えることであった。信者が増えるのであれば、聖像の涙がただの雨漏りであろうとて構わない。裏付けを有耶無耶にする程度で奇跡と言われ、そしてそれが力となるのならば。そう、戦争において、“士気を上げる”という重要な要素を満たせるのであれば、手段など問う必要はないのである。
そして今、その目的は、完璧以上に果たされようとしていた。言葉を交わす事無くひとつになった己と仲間らの心を感じた歳若い少年たちのモチベーションはこれ以上無く高まりつつあり、そしてアテナを守ると言うその意思をこれ以上無く高めた彼らに反応して、サジタリアスは、その身に溜め込んだ小宇宙──アイオロスの小宇宙を、パンドラボックス以上に馴染む人馬宮を通して、少年らに分け与えつつあった。つまりはアテナを守ろうとしているその存在の為に、身を削ったヒーリングを行なったのだ。失われた力が蘇ってくるような、と少年らが感じたそればかりは、上がった志気がもたらす幻想ではなかったのである。
とにかく、今、少年らの力は、これ以上無く漲っていた。
自分たちは英雄アイオロスにアテナを託され、真の聖闘士として認められた男なのだ、と、少年らは各々の拳を重ねあわせる。我らこそ神の意思を託された聖なる徒なのだと、十字の剣を重ねあわせ、エルサレムを目指したかつての聖騎士たちのように。
「教皇の間まで、残す宮は後三つ! 時間も僅か三時間だ!」
先程の、遺書を読む震えた声とは打って変わって勇ましい声で、星矢が言う。
「前にも言ったように、誰でもいい。残った一人が教皇を引きずり出し、女神の命を救うのだ!」
奮起すると実は好戦的になるのか、命を捨ててでも、とも取れる言葉を吐く紫龍。
「だけど、よくここまで辿り着けたものだね。……ここまで来れた事を、皆に感謝しているよ!」
決意はしていても、やはり目の前に立ち塞がる争いに引け腰になりがちだった瞬もまた、前に進むのだと、明確な意思をもって、はっきりと断言した。
「フッ……それは全員同じことさ。一人だったらここまで登ってくる事など、到底不可能だったろう」
ひとりひとりが力を出し切ったからこそ来れたのだ、と言った氷河に皆が頷き、尚一層、重ねた拳に力を込める。
──いいか。この先、どんなことがあっても死ぬんじゃないぞ!
──この果てしなき星渦巻く銀河で
──同じ時代を分かち合って生まれてきた
──熱き血潮の兄弟たちよ……!!
出陣前の聖句を唱えるように、そして死地に突入する鬨の声を上げるようにして少年たちは言い、拳をぶつけあわせると、一目散に階段を駆け上がっていった。
「──はは」
人馬宮から覚えのある小宇宙が大きく膨らんだのを感じ、戸惑う黄金聖闘士は多かった。遺体こそ見つからなかったものの、完全に死んだと確定されていたアイオロスの小宇宙と、彼が持ち去ったとされる射手座サジタリアスの黄金聖衣が今、人馬宮にはっきりと感じられたのである。当然であった。
しかし、戸惑う者は多けれど、笑ったのは一人だけだった。人馬宮の上、磨羯宮を守護する、山羊座カプリコーンの黄金聖闘士──シュラである。
「く、……はははははは」
──アイオロス
──……生きているのか?
──馬鹿を言え
──アイオロスは、俺が殺した
「──生きていたとはな、アイオロス!!」
戦いが始まってからずっと、静かに局面を眺めていた琥珀の目が、ぎらりと獰猛な光を放つ。笑みを浮かべる薄い唇の端が吊り上がり、尖った犬歯が白く覗く。
《シュラ》
こめかみから囁かれるような感覚でもって、双魚宮からテレパスが届く。アフロディーテだ。
「ああ、アフロディーテ。感じたか」
《ああ》
《……まさか、生きていたとは》
アフロディーテよりも更に滑らかに響く思念は、プラチナ・ブロンドのサガだ。やや震えたような声だが、しかし理性的で冷徹な指揮官としての芯は決して失っていない。デスマスクが死んだ今、サガは彼の分まで役割をこなさねばならぬのだ。そうでなくては困る、と、聖剣を持つ阿修羅は目を細める。
もちろん彼らとて、一般的な意味でアイオロスが生きている、と言っているわけではない。13年間、サガとデスマスクの方針で、聖衣とは何か、小宇宙とは何かという課題を徹底的に研究してきたのは伊達ではない。おそらく死の間際にアイオロスの小宇宙が強くサジタリアスに移り、生物としての自我なく、ただその意思だけが機械的に機能し続けてきたのだろう、と彼らは正確に断じていた。
《まあ、あれを生きていると言うのかは微妙ではあるがな》
「生きているのに変わりはない」
むしろ、特に聖闘士同士での戦いならば、肉体を殺す事よりも、その魂、信念──すなわち正義を砕く事こそが真に殺す事なのだ、とシュラは思っていた。だからこそ、不殺の信念を掲げ、しかし心を挫く事で戦意を喪失させて勝つミロの戦いは、多少甘くとも理にかなっている、と認めているのだ。
その点でいえば、シュラは、アイオロスを完全に為損じていたという事になる。
──ならば、殺さねば。
クックックッ、とシュラは喉を鳴らして笑う。
「悪かったな、教皇。為損じていたようだ。責任を持って殺してみせよう」
《……ああ、私の阿修羅。──任せた》
それきり、上の二人の声は聞こえなくなる。
(阿修羅、か)
──わからん神だ。
かつてシャカに言ったその言葉を、シュラは今一度、心の中で呟く。そういえばシャカは今、どうしているのだろう。フェニックスとともにその気配は消えたが、処女宮に染み渡った彼の小宇宙は、危なげなく生存を示している。
(……そういえば、奴の正義が何なのかも、よく分からないな)
しかしそれ以上に、シュラは未だ、己の正義という者が何なのかが分からないままだ。
小宇宙に完全に覚醒したあの日、幼心に許せなかった存在は、既に滅した。それ以来、シュラにはこれこそ、という目的が無い。ただその日その日を暮らす野良犬のように、ただ漠然と生きていた。
だがシュラは、そんな自分が不満だった。これだけはと言う、頑と譲れぬ信念を持って貫くサガやデスマスク、そして揺るがぬ己の立ち位置を見極めて立つアフロディーテを羨み、だからこそ彼らと行動を共にした。正義を譲れぬ故に魔道にすら堕ちた異教の神の姿に憧れを覚え、その名にあやかった。
だがやはり、シュラには己の正義が見えない。他人が掲げる正義を眺めながら、ただ刃を研ぎ澄ます日々。それは楽ではあったが、しかしこれではならぬのではないか、という強い不安にいつも苛まれた。また、聖剣という、迷いのない正義の為にあると言われる剣の使い手であると言う事実が、更にシュラを追いつめる時も度々ある。
(あの日、俺は初めて迷った)
何も考えず、ただ無邪気に日々を過ごしていた少年の日々、美しき子供の情景。
その日々が覆されたあの赤い月の夜、シュラの聖剣は無様ななまくらよりも無様な、情けない有様に成り果てていた。思わず、あの日潰した小指をゆっくりと曲げてみる。
──あの日の迷いのツケが今、ここで果たされるのではないか。
ふとそう思いつけば、もはやそうとしか考えられなくなっていた。子供ではなくなったあの日、血まみれのペティナイフよりも無様な刃をみっともなく振り回したあの日の為損じが今、青銅聖闘士の少年たちに姿を変えて登ってくる。
「お笑いだ、アイオロス。ただ犬のように女神に従うだけだったお前に、怨念と化してまで為したい何の正義があるというのだ?」
そう思うと、シュラは思わず笑みを深めながら、小宇宙を高めた。
──集中力。俗に山羊座の特性としても挙げられる一徹精神において、シュラの右に出る者はなかなか居ない。というのも、彼は集中せぬようにする事の方がいっそ気を使うほどで、うっかりすると深いZONE状態に陥ってしまい、一時間は経ったかと思っていたらまだ一秒も経っていなかった、などという事もざらなのだ。よって時折顔に似合わぬすっとぼけた事を言って友人たちに呆れられるのだが、まさに光速の世界で生きている、と言えよう。
そして戦いが始まってから今まで、シュラは至極浅いZONEに意識を留めるべく、あえて気を散らせてきた。しかしいま、彼は空気中を漂う塵の一つ一つまでを認識している。四人分の少年の足音が、とてもゆっくり、まるで地上から見た星の軌道のようにゆっくりと登ってくるのが聞こえていた。そして彼らが、先程感じたアイオロスの小宇宙をその身に確かに持っているのも、近付いてくれば来るほど、はっきりと認識できる。
──なんの小宇宙も感じない!
──ひょっとしたら、一気に駆け抜けられそうだぞ!
──いや、油断するな!
少年たちが、大声を張り上げながら登ってくる。
(さあ、来い)
来い、来い、と、駆け足が登ってくるタイミングにあわせて、心の中で呟く。琥珀の目がぎらぎらと光り、研ぎ澄まし過ぎていっそ密やかな小宇宙を持って佇むその様は、野生で獲物を待ち伏せする獣にも酷似していた。
一秒が数分、数十分にも感じられる世界の中、イメージ・シミュレーションを頭の中で繰り返す。あの夜、高い崖の上、アイオロスを追いつめ斬りつけたあの日の動作を、一つ一つ確かめる。どこでどうなっても、確実に殺せるように。
──ふと、空を見上げる。もうすっかり日は沈み、星が輝いている。聖域ならではの満天の星の中、赤い星を見つけた。あの月と同じような、赤い星。
「抜けた────ッ!!」
「この磨羯宮を守る聖闘士は存在しなかったのか!?」
そして同時に、少年らが声を上げ、シュラの前を通り過ぎる。
獰猛な小宇宙が膨れ上がり、そしてその気配に反比例して極限まで洗練された刃が、微塵の迷いもなく振り下ろされた。
「うっ!?」
ぞく、と背筋に尋常でない震えを感じ、紫龍が叫ぶ。
「──危ない! ……皆、跳べ────ッ!!」
──ドドォオオオン!!
「うわああああ────ッ!!」
もはや天災としか思えぬ程の威力でいきなり裂けた地面に、少年たちは宙に投げ出されつつも、しかし紫龍が言った通りに何とか跳んだ。星矢と氷河が何とか対岸に着地し、ぎりぎりで足を踏み外してしまった瞬を、星矢が何とか引き上げる。
「うっ、紫龍が……!」
「なに!? ……ああ!」
対岸に残ったままの紫龍の姿に、氷河と星矢が声を上げる。
「……他の三人に跳べと言っておきながら、自分の跳躍力には自信がないようだな?」
それとも俺が引き裂いた亀裂に戦いて腰が抜けたか、と挑発するような言葉を発しながら喉で小さく笑う声。それは首筋をくすぐるように低く、そして凛としていた。
そうして現われた気配に、紫龍は振り向かなかった。盲目であった期間は決して無駄ではなく、視覚による情報がなくとも慌てないだけの強さを、紫龍は既に得ていた。
(まるで、知性を持った獣のようだ)
男の気配に対して、紫龍はそんな感想を抱く。修行地五老峰にて何度も目にした野生の大虎は野生であるが故の洗練を持っていたが、しかしそこに知性は無い。しかし背後に佇んでいるのだろう男の気配は、弱肉強食・自然の摂理においてのピラミッドの頂点に間違いなく君臨していると確信させる野生の獰猛さを持ちながら、その中に知性が光る洗練された風格であった。
(……これは、強い!)
アイオロスの一件によって体力的にも精神的にも十分に回復していた紫龍だが、研ぎ澄まされたその気配に、改めて気を引き締める。
「俺まで跳んでいたら、今頃全員お前の第二の攻撃で地の底へ真っ逆さまに落とされていただろう」
「ほお……? あの三人を逃がす為に会えてこの場に残ったというのか? ……小癪な!」
小癪な、と言いつつ、シュラの口元は釣り上がっている。
「……後悔するぞ、小僧!」
月ではないが、あの夜と同じ赤い星。そして崖っぷちに佇む、アイオロスの小宇宙をその身に宿す少年。──シュラが知る事ではないが、更に偶然を言及するならば、紫龍はあの日のアイオロスと同じ、14歳であった。
そんな紫龍という少年を前に、刃の輝きを宿す琥珀の目が、尚一層輝きを増す。
「──俺は、山羊座カプリコーンのシュラ」
正義を求め、魔道にすら堕ち、非天の意を示す名を持つ異教の神の名。
「そして13年前、逃亡しようとしたアイオロスを半殺しにした男よ!」
まただからこそ、今度こそ今から完膚なきまでに彼を殺す男の名である、と、シュラは笑みを深くした。
(さあ、今こそ示してもらおうではないか、アイオロス)
お前が死して尚、その意思を託したのがこの少年であるならば。
(この阿修羅に、お前の正義を見せてみるがいい。──女神の聖闘士よ!)
己の正義は持たずとも。
阿修羅の名の下に、見極めてみせよう。
──悪しきもののみを斬り裂く、この聖剣で!