第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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こうして息を潜めてから、何十時間になるだろうか。だが、それよりも既に時間の感覚を失ってから久しい魔鈴は、そんな事に思い至る心の余裕さえなかった。
日本で、暗黒聖闘士との戦いで疲弊しきったところを襲撃された星矢たちを助けた魔鈴は、そのまままっすぐ聖域へ帰還した。いや、帰還したという表現は正しくない。魔鈴は既に仲間に拳を向けた裏切り者として指名手配がされており、それ故に堂々と“帰る”ことは不可能だ。
魔鈴は、忍んだ。
正規の入り口ではなく、結界の森の中で出来るだけ小さい次元の裂け目を見つけ出し、半分無理矢理それを潜って聖域内に入った。
こうした隠密行動、探索、索敵、探査、調査などは、魔鈴の得意分野だ。生まれつきの才能にさほど恵まれず、そして女であった魔鈴がまずせねばならなかった事は、いかにして見つからぬよう隠れるかという事だった。だから魔鈴は野生動物よりも気配を殺す事に長けており、そして同時に他者の気配に敏感だ。
その結果、“監視人(イーグル・アイ)”とまで呼ばれるようになった彼女のスキルは相当なもので、誰もが一目置いており、敵地に潜入しての捜査などでも、素晴らしい成果を叩き出してきた。だが魔鈴は今、かつてのように、誰にも見つからぬよう、岩陰に潜んでいる。
息をしているのを悟られぬよう、ゆったりと動く大気の流れに紛れるように、出来るだけ細く、長く呼吸をする。それをし始めて、もはや三日にもなる。ここまで長く、そして過酷な潜入をしたのは、魔鈴も初めてだった。
しかし、それも当然の事といえよう。ここはただの獣の巣では無い。神にも匹敵する実力を誇る、化け物の巣窟。黄金聖闘士が守護する十二宮なのだから。
(──この、小宇宙)
住人たち、いや歴代の住人たちの巨大な小宇宙がたっぷりと染み付いた十二宮の気配は、他のどんな土地でも感じられないだろう濃厚さだった。階段や建造物を形作る大理石、また岩肌、土、その土で育っている植物はもちろんの事、その空気でさえ、原子の一つ一つに黄金聖衣から感じるのと同じ、歴代の黄金の小宇宙が染み渡っている。息をする度に小宇宙を感じ、それに呑まれる事が無いように常に気を張っていなければならない。内臓のそこかしこに重りでも括りつけられるかのような重圧感に耐えながら。
鍛錬の為に酸素の薄い山岳部に赴いて生活するという方法があるが、この場所で生活するのは、それに似た効能があるに違いない。そして生まれながらにして小宇宙に目覚めた“黄金の器”はより鍛えられ、黄金聖闘士になって行くのだろう。
そんなことをひしひしと感じながら、魔鈴は今、宝瓶宮を抜けた岩陰に潜んでいた。
三日間をかけて、じわじわと、魔鈴はここまで来た。まずは少し小細工をして十二宮入り口の雑兵詰所で乱闘騒ぎを起こさせ、面倒見のよいアルデバランが雑兵たちを諌めに来るのを見計らって、守護者不在の白羊宮と金牛宮を抜け、また五老峰に向かっているが為に不在のデスマスクが守護する巨蟹宮、また双児宮、そして教皇の間に向かっていたアイオリアの獅子宮、シャカの処女宮、また天秤宮までを一気に駆け抜ける。
もちろん、守護者不在といえど、気配を完璧に断ってである。黄金聖闘士は例え自分の宮から多少離れていたとしても、侵入者が入ったかどうか薄らと分かるのだという。黄金聖闘士たる小宇宙を持ち、おまけに宮自体にこれだけ小宇宙が染み渡っていれば、小宇宙経由で多少意識がリンクするのは当然なのかもしれない。
白羊宮から天秤宮まで、全体の約半分を一気に駆け抜けることが出来た事は大きい。そしてそれは、事前に得た情報──ニコルからの情報があるからこそだった。
あの男は、半年程前に魔鈴に接触してきた。外界での任務中の事である。
任務の内容は、脱走兵の討伐。一般社会に紛れ込んだ小組織を見つけ出し殲滅せよというその任務は、鷲の目を持つ魔鈴にうってつけの任務だった。しかしそこに居たのは脱走兵ではなく、ニコルであった。
「私は祭壇座アルターのニコル」
わざと脱走兵の情報を流し、魔鈴をおびき出すようなことをしたことに対して非常に警戒する魔鈴に、ニコルは聖闘士を名乗り、全てを話した。13年前の事、現在の教皇の事、また彼女の弟子でもある星矢を含む城戸の子供たちの事、そして今から為そうとしている事、──城戸沙織、アテナの事。
「……どうしてそれをわたしに言うんだい」
話の内容も非常にショッキングなものであったが、しかしなぜそれを自分に言うのかと、魔鈴は当然の疑問を口にした。
「それはあなたが“監視者”だからだ、イーグル」
「わたしの渾名が、何」
「他の白銀聖闘士と違って、あなたは聖域に、そして教皇に特別な恩義もなければ愛着も無い。だからこそそうして飄々としていられ、上空から全てを冷静に見渡す“監視人(イーグル・アイ)”足り得る」
それは、事実である。才能を認められて取り上げられた他の白銀と違い、魔鈴は殆ど力ずくで聖域に入り、自らの努力によって候補生としてその身をねじ込ませた。ゆえにシャイナを筆頭とする才能至上主義者からはよく思われず、あからさまに差別を受け、避けられている。
そしてニコルの言う通り、聖域や教皇に愛着や敬意を抱いていないからこそ、魔鈴は聖域がどんな場所であるか、冷静に見極めていた。彼女が聖域にやってきたのは十にもならない頃で、一般社会での生活経験が豊富とは言い難い。しかしそれでも、彼女は聖域がどんなに特殊な──良い意味でも悪い意味でも──場所であるか、ごく客観的な視線で見渡していた。
「──お誉めにあずかってるようで光栄だけど」
魔鈴は、その銀色の仮面の下から聞こえるに相応しい、無機質な声で言った。
「わたしが聖域に対してドライだっていうのは、あんたたちの味方になるかどうかとは全く別の問題だ。わたしは教皇を確かに敬愛していないが、恨んでだっていない」
それは、魔鈴の本心だった。魔鈴は神の正体にも聖域の成り立ちにも興味は無いし、今の所、聖域はきちんと機能しているし、教皇が聖域全体に対して常に気を配っている事は事実だ。シャイナたちの持つ選民意識は、教皇たちが小さな子供たちの中から本当に才能ある者だけを選出して候補生にしたという事から来ているのは知っているが、シャイナたちより前は片っ端から子供を崖からたたき落として生き残った者だけを使うという選出方法を用いていたということもまた、魔鈴は知っている。だからその選出方法に切り替えた教皇はまっとうな感覚の持ち主だと思っているし、シャイナたちを多少幼稚だとは思いこそすれ、憎む気持ちは無い。
「それぞれ、込み入った事情ってもんがある。子供向けの英雄譚じゃあるまいし、どっちかが完全に悪玉か善玉なんて、この世にはそうそうありゃしないよ」
「そのどちらかが神だとしても?」
「だから何? 心底どうでもいい」
「…………」
「はっきり言うけどね、わたしは教皇が神だろうがお宅のお嬢さんが女神だろうが、本当にどうだっていいんだ」
だからお前達の味方になる気はない、と魔鈴ははっきりと言った。
「見当違いで残念だったね」
「どうだっていいと仰るのなら、その上で教皇の僕でいらっしゃるのはなぜです?」
ニコルもまた、きっぱりとした様子で言った。魔鈴はそろそろ面倒臭そうな色を滲ませて、はあ、と小さく息をつく。
「仕事だからに決まってるだろう。ばっかじゃないの」
「仕事ですか」
「そうだよ。わたしの仕事は鷲座イーグルの白銀聖闘士。わたしなりに苦労してこの立場を得たし、それで飯食ってるからにはちゃんと仕事をこなすだけだ。神が誰かなんて関係ないね」
「……すばらしいプロ意識だ」
ニコルはアーモンド型の目を細め、賞賛、そして薄ら寒く感じられるほどの歓喜が滲む声で言った。
「その鷲の目、“監視人(イーグル・アイ)”としての平等で乾いた目線──それでこそ価値がある」
「……どういう意味」
「殴り合いで勝ちさえすればいい、と思っているほど我々も幼稚ではない」
魔鈴は仮面の下でも眉ひとつ動かしては居ないが、ニコルもまた、微笑みという鉄仮面を崩さず、言った。
「むしろその逆。暴力のみで玉座を奪還できたとしても、我々は真の統治者と認められはしない」
それはそうだ、と魔鈴は当然納得した。過去や裏事情の真実がどうあれ、現在聖域はきちんと運営されており、現状は過去よりもずっと豊かだ。そんな中、武力によって政権を奪い、我こそは真実の神などと歌い上げても胡散臭いだけだ。その強さから反逆はなかなか受けないかもしれないが、聖域の雑兵・非戦闘員は根こそぎ離れ、民衆なき王という最も悲惨で間抜けなことになりかねない。
「そして貴女の言う通り、誰にも、込み入った事情があるのでしょう。……しかし、そんなことは既にどうでもいいのです。もはや戦争は始まっている」
地獄の釜の底、血で血を洗う戦争は、何かが主張を争う際の最終手段だ。それが始まった以上、話し合いや取り引き、そんなものはもうないも同然なのだとニコルは暗に言う。
「戦争に勝とうとする以上、我々は、完璧な正義でなくてはならない」
「わたしには関係ない」
魔鈴は、すっぱりと言った。
「わたしが個人感情的にどちらの味方でもないのは認めるが、立場的には教皇に仕える聖闘士。アンタたちを手伝う理由は一切ない」
「確かに。……しかし、知りたくありませんか」
ニコルから感じられる歓喜が薄ら寒く、魔鈴は初めて仮面の下で僅かに眉を顰めた。
「貴女のご友人の、獅子座レオの黄金聖闘士・アイオリア。彼は“逆賊の弟”として大変な年月を過ごして来られたとか。それが全て全くの冤罪──いえむしろその逆であれば」
「あの男を舐めるな」
猛禽のごとき、ぎらりと鋭い一瞥が、仮面越しにもはっきりとわかる。
「アイオロスが逆賊でも英雄でも、アイオリアには本来関係のない事だ。あいつは立派な戦士で、それは兄貴がどうこうで覆されるような柔なものじゃない」
「……真実を、知りたくは」
「くどい」
「ならば弟子の力になってやりたくはないですか?」
にべもなく撥ね付けた魔鈴に顎を引きつつ、ニコルは陰った笑みを浮かべながら更に続けた。
「城戸星矢。我々が貴女の所に送り出したあの少年は、実姉にもう一度会いたい、それだけの為に死を覚悟で聖闘士を目指した」
がつん、と頭を殴られたような気がした。
魔鈴は例え自分の弟子であっても、その素性を根掘り葉掘り聞くような性格ではない。星矢に姉がいて、聖闘士を目指す身、しかも女の魔鈴を師に持ちながら女は殴らないとふざけた事をぬかすほどに姉を敬愛している事はよく知っている。
しかし、何としてでも聖衣を持ち帰らねば、と星矢が躍起になっているのは姉に再び会いたいが為、そのためにニコルらグラード財団と取り引きをした為なのだと、魔鈴はこのとき初めて知った。
「そう、貴女と同じようにね、イーグル」
「……なんで、それを」
二度目の衝撃。魔鈴は仮面の下で表情を歪め、しかし他の部位には一切感情の揺れを示さなかった。仮面の下でどんな表情をして居ようとばれないが、拳を握り締めればそれが知れる。プロの女聖闘士としての嗜み。
「高みからの目を持っているのは貴女ばかりではない、という事ですよ、イーグル。……いえ、我らが女神が持つのは、ユビキタスをなし得る神の目。それは鷲の目よりもはるかに高みにある」
「……子供に対して肉親を人質に取って取り引きとはね。何が完璧な正義だ、この下衆」
高慢なニコルの発言を無視し、絞り出すような声で、魔鈴は言った。魔鈴が弟と逸れたのは天災によるものだが、星矢が姉と別れることになったのは、理不尽で人為的な行為によるものだ。圧倒的な大人の力で無理矢理唯一の肉親から引き離され、一方的な取り引きを呑んで死地に送られた幼子。あくまで事故の結果、自主的に弟を捜している自分よりも何倍もひどい話だ、と魔鈴は怒気を押さえ込む。これを下衆と言わずして何と言うか。
「下衆とはひどい。大いなる正義の為の犠牲──必要悪というものを知っているでしょう」
知っているが、どうしようもなく虫酸が走るくらいには魔鈴は若く潔癖だった。ニコルは知略に光る目で魔鈴を見ている。
「ですが、残念ながら、近々予定されているペガサスの奪還試合で彼が勝利したとしても、彼は姉に会える事はない」
「……何だと」
「そう恐ろしい声を出さないで頂きたい。こればかりは本当に私たちのせいではないのだから」
星矢の姉・星華は、星矢がギリシアに送られたその日に姿を消し、それ以後行方が知れないという。魔鈴は食いしばった歯の音が漏れないよう、気をつけた。
「何が自分たちのせいではない、だ。取り引き材料をきちんと保護する義務を怠って見失ったのはあんたたちの過失だろうが。子供に無茶な要求突きつけた上に、その約束も守れないのかい」
「……星矢は聖闘士になった後、再び我々と取り引きをすることになるでしょう」
魔鈴が感情を表に出したからだろう、魔鈴の倍以上の年齢であるニコルは、癇癪を起こした小娘を見る目つきで彼女の発言を無視し、その姿を見下ろした。
「グラード財団の手にかかれば、行方不明になった人間の行方を探す事くらいは簡単」
「どこまで下衆なんだ」
「まあ、聞いて下さい。彼が聖闘士になったとしても、その精神はまだまだ子供」
「そう、だからおまえたちにいいように食い物にされる」
「黙って聞けと言っている」
笑みを浮かべたままで強く言ったニコルに、魔鈴はピリリと殺気を感じながら黙る。えらく口が回り物腰もそれらしくないので気付くのに時間がかかったが、ニコルは決して頭脳労働だけの要員ではない。本気を出せば魔鈴ともそれなりに渡り合えるだろう。昏い場所から滲むような殺気が、おそらくこの男の本質だ。
「貴女はこう思っているでしょう。再度星矢が我々と取り引きしたとしても、星矢が我々の下から抜け出る事は出来ない」
「だろうね。見つからないとしらばっくれ続けるだけでも相当時間を稼げるだろうし、そもそも星華が行方不明というのもお前達が仕組んだ事ならばもっと」
「それは誓ってないですが、……まあ信じては貰えないでしょうね」
ニコルは肩を竦めた。
「そこで、お約束しましょう」
「…………」
胡散臭げ、疑わしげ極まる気配がニコルに向けられているが、彼は構わず続ける。
「貴女が教皇宮、またスターヒルに忍び込み、13年前の真実の物的証拠を押さえることが出来たなら、星華嬢を見つけた後は、星矢にはもう一切関わらない」
「無茶な」
本当に無茶だ。達人と言ってもまだ足りない、神と闘わんが為真実神に近いレベルの実力を持つ黄金聖闘士たちの本拠地、ホームグラウンドに誰にも気付かれずに潜入した挙げ句、教皇宮、そして教皇しか登れないというスターヒルに登るなど。
「いや、貴女なら出来る」
「何を根拠に」
「貴女の今までの任務とその実績は、ほぼ拝見させて頂いています。その殆どが隠密行動や潜入、操作──そしてそのどれもが素晴らしい結果に終わっている。この実力の上、我々が提供する情報があれば、達成は可能でしょう。確かに、簡単にとは決して言いませんが──……己の限界を超える、それこそが聖闘士の本分であり小宇宙の真髄ですからね」
ニコルは笑みを深める。仄昏い場所から滲むなにかが、その笑みから感じ取れる。
「……真実を知りたくはありませんか、イーグル」
ニコルは、もう一度言った。魔鈴は黙っている。
「そして、弟子の力になって──助けてやりたくはないですか」
その言葉が、魔鈴の琴線にやはり触れる。
魔鈴は星矢の師匠として、ただの一度も、彼を甘やかした事はない。それは聖域中の誰に聞いても確かな事で、日本人であるという事で受けるひどい差別よりも、魔鈴のシゴキのようがよほどひどい為にイジメが軽減したくらいだ。
だがその全ては、星矢の力になってきた。他の誰でもない魔鈴によって、星矢は肉体的にも精神的にも強くなり、ペガサスを得ようとしている。
「貴女と同じように肉親を捜す弟子を、助けてやりたくはないですか」
己と違い、人為的に姉と別れさせられた星矢。幼い身で、命を掛けて、何年もを犠牲にして、その理不尽な取り引きに応えようとしている星矢。しかしそれが為されてもまだ利用され続けるのだという、己の弟と同い年の弟子。──姉に会いたい、ただそれだけの為に、身を削って試練に耐える己の弟子。
魔鈴は、ただの一度も、星矢を甘やかした事はない。だが師匠として、彼女はいつだって彼の力になれるようにやってきた。彼が聖闘士になれるよう、聖衣を得られるよう、目的を達成できるように。しかし聖衣が得られても、まだ星矢は解放されないという。
「──いいだろう」
絞り出すような声で、魔鈴は言った。弟子を助け、力になるのが師匠の務め、仕事だ。この五年間、ずっとそうしてきたように。
「おお、信用して頂けますか」
「そんなわけないだろ」
魔鈴は、ばっさりと斬り捨てる。唾を吐くようだった。
「今現在、聖域は順調に──いや十三年前以前よりは遥かに改善されて運営されている。だからわたしが十二宮の頂上から持って帰れるものは、お前達の有利になるものばかりじゃない事ぐらいはわかっているだろう?」
「……約束を守らねば、それをばらす、と?」
「理解が速くて結構だ。それに星矢とその兄弟たちのことだけでも、お前達を正義の玉座から引きずり下ろすに十分な理由になり得る」
「あの聖域の人間たちが、たかが子供の身の上程度に同情しますかね」
それは、聖域という場所を長く知っているものだからこその発言だった。魔鈴は彼の後ろに透けて見える過去を、鋭い鷲の目で冷静に観察しながら、噛み締めるようにゆっくり言った。
「さあね。でも少なくとも、グラード財団総帥としての立場は地に堕ちるだろうね。人間としての社会的地位なんか女神サマはどうでもいいかもしれないけど、あの聖域を運営するにはそれなりの金が必要だ」
「やはり、星矢と違って一筋縄では行きませんね」
ニコルは、やれやれと肩を竦めた。途端、もう話す事はないとばかりに魔鈴は彼に背を向ける。その後ろ姿に目を細め、ニコルは言葉を投げかけた。
「……では、目的を達成したなら、貴女の弟を探すお手伝いも」
「余計な世話だ」
はっきりと怒気の滲んだ声で、魔鈴は吐き捨てた。こんな連中に弟を捜して欲しくもないし、星矢の話を聞いた上ではなおさらだ。
「むしろ探すな。お前らに頼んだら、弟が見つかっても、そのまま何に利用されるかわかったもんじゃない」
嫌われたものだ。とニコルは目を細める。魔鈴は身を翻し、軽やかに闇に消えた。
その後魔鈴とニコルたちの情報交換は続き、星矢は無事ペガサスを手にした。念願の青銀色の箱を背負い、晴れやかな顔で故郷に帰ろうとする星矢に、何もかも知っている魔鈴は、たまらなくなって聞いた。「聖衣なんか日本へもって帰ってどうする気」、と。……彼の姉の星華は行方知れずで、星矢が聖衣を持って帰っても、彼が姉に会えることはないのに。
「教えたら、魔鈴さんの素顔も見せてくれるのかな」
いつになく自分に対して明るい口をきく星矢に、魔鈴は黙り、そして心の中で呟いた。
ただこれだけは言えるだろう、星矢。おまえの戦いはこれから始まるのだと──
そして魔鈴の心の呟きの通り、星矢たちへの試練が始まる。
しかし、当然ながら星矢たちは己たちを辛い目に遭わせたばかりかまともに人間扱いすらしなかったグラード財団と城戸沙織らをよく思っておらず、何かというと反発していた。
星矢は星華が本当に行方不明になったのだと素直に思っているが、魔鈴はそれを信じていない。聖衣が手に入ったとて、装着者が居なければ意味がない。星矢を懐に入れる為、城戸沙織らが裏で星華の身柄を確保し、星矢を掌の上で良いように操っている可能性もあるのだ。その場合、星矢があまりにも反発しすぎると、星華がどうなるか分からない。
だから忠告として、魔鈴は去り際砂の上に「セイヤ、アテナを守りなさい」と忠告を残した。ニコルたちから見れば協力、星矢に対しては姉の身の安全を考えた忠告となるそのメッセージを。
魔鈴は師匠として、星矢を甘やかした事は一度としてない。しかしいつだって、彼女は弟子の力になれるよう、助けてきたのだ。
そして、ニコルがもたらした情報を利用して白羊宮から天秤宮までを駆け抜けることができた魔鈴であるが、天蠍宮に関しては、完全に魔鈴だけの力で攻略せねばならなかった。
蠍座スコーピオンの黄金聖闘士、ミロ。普段はその明るい性格から黄金聖闘士の中でも親しみやすいとされている一人だが、その実力は当然ながら申し分なく、しかもその小宇宙の特性が厄介だ。
誰の小宇宙にも備わっている他の小宇宙への反発性、それが桁違いに高いという彼の小宇宙は、触れ合うだけでまさに蠍のそれよろしく猛毒になり得る。彼が普段の生活を平然と過ごせているのは、彼が己の小宇宙を周囲に合わせるコントロール技術に天才的に優れているからに他ならない。
だがしかし、普段の彼は周囲の小宇宙に同調しているが、戦時中、己の宮を守護する任に専念しているときは、その逆だ。彼は“黄金の器”足る巨大な小宇宙を宮全体に行き渡らせ、そしてその小宇宙の網に何かが引っかかったときはもちろんすぐにわかるし、反発性という毒を帯びたその小宇宙は、並大抵のものならショックで昏倒くらいはしかねない。魔鈴はまさか意識を失うまではないがやはりダメージは食らうだろうし、もちろんミロには気付かれてしまうだろう。
だから魔鈴は、動かなかった。完全に気配を殺したまま、一歩も、一ミリも、微動だにしなかった。呼吸で肉体が収縮する事さえ抑えきり、そしてそのままで居た時間は、なんと72時間近く。ミロが教皇の間から降りて来る前から大理石の柱と完全に一体化していた魔鈴は、宝瓶宮から降りてきたカミュとミロが話し込んでいる間に、まんまと天蠍宮の脇を抜けたのである。
魔鈴には、生まれ持った才能が無い。それは、少年期は“黄金の器”とも呼ばれる黄金聖闘士とは全くもって真逆の性質だが、だからこそ出来る事もある、と魔鈴は気付き、そしてそれを最も誇らしく思ってもいる。
つまり、生まれつき小宇宙に目覚めていないからこそ、完全に小宇宙を消し去る、という事を、彼女は死に物狂いの訓練の末可能にしたのだ。
小宇宙の目覚めの入り口はZONEという現象が不可欠であるが、生命の根源的要素とも言える小宇宙を完全に消し去るのもまた、ZONEが不可欠だった。小宇宙を消した世界は、空気と一体になった感覚とでもいおうか。まるで植物、しかも樹齢の長い木にでもなったような独特の感触を魔鈴に与える。時間の流れは非常に遅く、そして彼女の動きは、あまりにもゆっくり過ぎてなかなか目で確認できない木の成長の如しであった。ひそやかに、しかし確実に根を進める木のように、魔鈴は潜み、駆けて行く。
それは、小宇宙があって当たり前な状態である黄金聖闘士が、決して為せない事でもある。凡人がセブンセンシズを感じるのは、生まれつきの盲人が視覚に目覚めるよりも難しい事だ。しかし同時に、五体満足な者は、目隠しをした状態で階段を昇ることが出来ない。
そして魔鈴は、何十時間もかけて完全に気配を消す事でミロの目を盗み、また完全に小宇宙を消し去る事で、彼の猛毒の小宇宙の中を無傷で駆け抜けたのである。闘うのではなく、潜り込むことに特化したからこそ為せた事だ。
そして続く人馬宮は無人なのでどうとでもなったが、天蠍宮に続いて大きな難関だったのが、磨羯宮である。
ニコルによると、守護者である山羊座カプリコーンのシュラは、蟹座キャンサーのデスマスク、魚座ピスケスのアフロディーテと同じく、偽教皇の正体を知りつつも彼に仕える、腹心中の腹心だ。最悪の場合、見つかれば13年前の真実や沙織の正体なども全てぶちまけてしまえとニコルからは指示されている。他の黄金聖闘士ならやり方によってはそれが通じたかもしれないが、シュラにはそれが通じ無いどころか逆効果、一気に不穏分子と見なされてしまうだろう。
しかし魔鈴に出来るのは、そしてせねばならないのは、やはり隠れきる事だけだ。魔鈴は天蠍宮の時と同じく完全に気配を消し、磨羯宮の脇に身を潜めようとした──その時だった。
──キィン、
星の鳴るような音。
それが聖衣の触れ合う音、中でも最高ランクの黄金聖衣の音である事は、魔鈴も知っていた。最新科学の粋を集めても作る事は不可能な、アリエス秘伝の奇跡の合金。それに黄金の器たる小宇宙を行き渡らせたとき、初めて奏でられる至上の音だ。
大理石の巨大な柱を挟んで、シュラが立ち止まった。
待機・自宮守護命令が出ている為、彼は磨羯宮中に己の小宇宙を行き渡らせているのだが、彼の小宇宙は、まるで研ぎ澄まされた刃のようだった。ミロの小宇宙も途方もなく巨大だったが、慈悲深く不殺を貫く彼の性格もあるのだろうか、まだ、解毒や回避という僅かな逃げ場がある。しかしこの山羊座の男の小宇宙は、常に相手の薄皮一枚ギリギリに、触れなば切らん刃を当てられているような心地がした。1ミクロンでも身動きをすれば、その身が斬られ血が噴き出す。
魔鈴は、抑えた。心臓が跳ね上がないように、肺が膨らまないように、汗のひとすじも流れないように、毛穴のたったひとつでも逆立ったりしないように、懸命に抑えた。
いっそ心臓など止まってしまえとすら思いながら、背後に感じる濡れた刃のごとき気配を、死ぬ気になってやり過ごす。魔鈴の戦いは立ち向かう事ではなく、全てを切り抜ける事にある。
──シュラも、微動だにしない。魔鈴は彼から完全に死角になる居て、魔鈴からも、彼の姿はマントの端ですら見えはしない。しかし、普通の人間ならば気が狂うほど張りつめた彼の小宇宙で充満した空間の中、切れ長の目の琥珀色が、きろりと魔鈴の方を見たのがわかった。
ひゅっ、と息を吸い込みそうになる、しかし堪える。小宇宙を完全に消しているからこそのZONEが、一瞬を那由他の時にも感じさせた。
「行け」
張りつめきった空気に響いた男の声は、びり、と、雷に打たれたような感覚となって、魔鈴の身体を駆け抜ける。途端、自覚なく、魔鈴は全速力で駆け出していた。
(──どういうことだ)
どっと滝のように溢れた汗を感じながら、魔鈴はパニックを抑える。握り締めた拳が震え、駆ける脚がもつれそうになるのに悔しさを覚えつつ、魔鈴は歯の根が合わない口元を引き締める。
シュラは、魔鈴に気付いていた。しかし、彼は彼女を見逃した。
宝瓶宮は、無人。この頃カミュは、天秤宮にて氷河と対峙していた。
魔鈴は再び気配を消し、主が居なくてもひんやりと冷たい宝瓶宮を駆け抜け、そして双魚宮を目指す。
最後の砦を守るのは、魚座ピスケスのアフロディーテ。彼はこの最上階から滅多に降りてくる事は無い。墓場の見事な花園、どんな時も決して枯れる事の無い不思議な花園が、幼い頃の彼が作ったものであるという事は聞いている。そのことから植物を操る力を持っている事も知っているが、これ以上のアフロディーテに関する情報については、ニコルらの情報網を持ってしても殆どが不透明なままだった。
しかし魔鈴は、彼に僅かな縁がある。
はっ、と、魔鈴は銀色の面を上げた。嗅覚を刺激した水分を含んだ香り──花の香りに辺りを見渡せば、階段の両脇から、赤いつるばらが顔を出している。気をつけて見れば、ずず、と蔓が動き、蕾が後から後から花を咲かせている。まるで植物の成長を早送りにしたようなあり得ない現象、しかし魔鈴は、その姿を見たことがある。
そして魔鈴は、頭上から感じた視線に気付いて、ぎりと歯を鳴らす。それは、この十二宮に潜入してから、魔鈴が初めてはっきりと慣らした音であった。
「やあ、イーグル」
男の声だが、不思議に柔らかい声だった。魔鈴が階段を駆け上がると、宮の入り口すぐの通路中央に立ったアフロディーテは、目を細めて笑みを浮かべた。美しすぎて、性別どころか人間であるのかさえ疑わしいような笑みだ。
「久々だ。……大きくなったね」
お互いさまかもしれないけれど、とアフロディーテは言った。
魔鈴は、彼に僅かな縁がある。それは、弟と生き別れた大災害の際、瓦礫の下敷きになった魔鈴を見つけ、救助し、そして魔鈴が小宇宙に目覚めかけているのを見抜き、聖闘士にならないかと提案してきたその人であった。
大きくなったというのは本当にお互いさまで、あの頃魔鈴は本当に幼かったが、彼もまだローティーンの子供だった。あの頃の彼はまるで妖精か天使のようであったが、今の彼はその王と言って遜色ないほどに完成されている。性別、種族さえも超えた美の中、ぽつりと目元にあるほくろが彼が人間である事を証明し、また美貌の中に組み込まれた男性としての要素が、何ともいえない色気を彼に与えている。
「……どういう、ことですか」
約三日ぶりに、魔鈴は声を出した。アフロディーテは笑みを浮かべたまま目を細める。
「ミロとシュラが褒めていたよ。ミロは宮を出るぎりぎりになって初めて気付いたというし、シュラも“あれだけ脅したのに、小宇宙のかけらも出さなかった”としきりに感心していた」
「どういうことですか」
魔鈴は、もう一度聞いた。出口間際だったとはいえ、気付いたのならミロが見逃すわけは無いし、シュラとてそうだ。なぜ自分は見逃されたのか、魔鈴は絞り出すようにして問う。
「きみがニコルと通じているのは、既に察していた」
「…………」
魔鈴が赴くことになった任務の不自然さ、彼らもそれに気付いていたらしい。そこからか、と、魔鈴はどっと重たい敗北感を感じた。態度には全く表れていないが、気配と小宇宙でその落ち込みを察したアフロディーテが、尚も笑みを深くする。
「そう気落ちするものじゃない、イーグル」
「言ってくれますね。……わたしを易々通したのは、いつでも殺せるからという事ですか」
「まさか」
妙に茶目っ気のある仕草で、アフロディーテは肩を竦める。化け物じみた美貌の彼がそんな人間くさい仕草をするのは、何とも不思議な感じがした。
「黄金聖闘士が来訪者を通す時は、何も戦いに負けた時ばかりとは限らない。その実力を認め、またその目的を良しとした時、我々は宮を通る許可を出す。本来、戦いはそのいち手段でしかないのだよ。忘れられがちだがね」
実際、金牛宮守護者のアルデバランは、そのようにして星矢たちを通した、とアフロディーテは魔鈴に教えた。
「君は見事な手腕でこの十二宮に潜入を果たした。君は我々黄金聖闘士に認められ、いまここにいるのだよ」
「……それは、どうも」
それは手放しの賞賛だったが、残念ながら、魔鈴はここで喜びに浸れるような心の余裕は微塵も無かったし、はじめからバレているということで、喜びもくそもなかった。しかし、アフロディーテは構わず続ける。
「そして、イーグル。君の実力を見させてもらった結果、我々はニコルと同じく、君の“監視人(イーグル・アイ)”としての資質を買うことにしたのだよ」
「……全てを見せる、と?」
もう全てバレているのだから、ここでしらばっくれてもしょうがない、と魔鈴はさらりと応じた。
「そうだ。もう騒ぎは──戦争は起こってしまっている。我々は疑われており、この戦いで勝利したとしても、その疑いが尾を引いてしまう事は避けたい。勝利したのに戦後処理を失敗して自滅なんて、情けないにも程がある」
「はっきり言って下さい」
──自分は、何を求められている?
率直に問うた魔鈴に、アフロディーテは笑んだ。賢い動物を褒める時のような、上から見下ろす柔らかな笑みに、何が“監視人(イーグル・アイ)”か、と魔鈴は唾を吐きたくなった。己の遥か頭上には、まだまだたくさんの目がある。神の目にも等しい、パルナッソスの高みから見下ろす目。
「君の役目は、査察官だ」
「…………」
「君は個人感情的に、彼らの味方ではないし、我々の味方でもない。ただ理性的で平等な目線で立場を決めている、その姿勢と今回見事に十二宮に潜入した実力を、我々は買ったのだよ」
「余裕ですね。見られて困るものはもう全て処分しましたか」
「いや?」
偽教皇、その事を魔鈴が大胆にも言外に皮肉るが、アフロディーテは重たい睫毛を伏せて、妖艶に唇の端をつり上げる。
「見られて困るものなんて、我々には元々全くないのだよ。……アテナにとって困るものは、沢山あるかもしれないけどね」
「どういうことですか」
「その目で確かめたまえよ、イーグル。その鷲の目で」
おいで、と、アフロディーテは白いマントを優雅に翻した。訝しげに思いつつも、魔鈴はその背を追う。
アフロディーテは双魚宮を抜け、スタスタと教皇宮に昇って行く。しかし彼が辿り着いたのは、教皇宮本殿ではなく、脇から奥に入った所。
「……厨房?」
「その通り」
大きな調理台、竃、壁からぶら下がった調理器具の数々に魔鈴が尋ねると、アフロディーテは頷いた。
「祭壇座アルターだった男が、かつてここに居た」
「ニコルが?」
「へえ?」
アフロディーテが、驚いたように振り返った。
「知っているのか。というか、あの男はアルターを名乗っているのか?」
ふん、と鼻を鳴らしたアフロディーテは、笑みを浮かべつつも眉を顰めている。
「何の事」
「ここにいたのは、ニコルじゃない。我らがアルター、トニという男だ」
歩む足をまったく緩めることなく、アフロディーテははっきりと言った。
「どういう……、トニ?」
「さすが情報通の“監視人(イーグル・アイ)”だ。聞き覚えがあるかい? 元教皇宮料理長・アントーニオに」
「……名前、だけは」
さすがに困惑しつつ、魔鈴は正直に答える。それは確かに二年前、アフロディーテが言ったとおりの情報だった。当人はこの教皇宮で薬物使用を行っているところを現行犯で見つかり処刑され、魔鈴は彼を見知ってはいない。しかし彼から薬物を提供され使用したとされる雑兵数人の処刑は公開で行われ、魔鈴も目の端で見た。
「トニは、麻薬どころか煙草も吸わない男だった。料理に煙のにおいが移ると言って」
「冤罪、」
「そうだ。我々がそうした」
アフロディーテは、決して振り返らない。堂々とした背を向け、真っ白なマントを揺らしながら、彼は語った。なぜトニがここを去ることになったのか、その真相を。
「彼は我々の不利となるものをすべて背負い、ここを去った。彼がそうしていなければ、我々は今頃ここには居ないだろうね。そしてあの麻薬の騒動、あれもまた、二コルが仕組んだことではないかと我々は睨んでいる。柄が悪い連中が悪いものを持っていてもあまり不思議に思われないが、外界にまったく縁のない雑兵連中が、麻薬に厳しいギリシアにおいてあんなものを手に入れるのはひどく難しい。裏にも表にも、大きなパイプを持つ者がバックに居なければ。そしてその条件に、グラード財団は面白いほど当てはまる」
アフロディーテは、吐き捨てるように言い切った。
そして魔鈴は、アフロディーテの言うことに、実感を伴った信憑性を感じていた。ニコルが目的のためなら手段を選ばないことを、魔鈴も知っている。女神の正義の名の下に子供を百人殺してのける彼ならば、小道具として麻薬くらいは使うだろう。
「トニは我々を、教皇を支え続けてくれた、まさにアルターに相応しい男だ。ニコルがどう名乗ったのかは知った事ではないが、我々にとってのアルターはトニ、彼ひとりだよ」
「ニコルは偽物だと?」
「さあね。どちらも、そう名乗っているだけさ。どちらが正義なのかは、この戦いに誰が勝利したかで決まる事」
アフロディーテは迷いの無い歩調で歩み、そして厨房を抜けた通路の奥に魔鈴を案内した。
──何もない、行き詰まりの通路。しかしよく見れば、塗り込められたような跡がある、と魔鈴が気付いた瞬間、アフロディーテは拳を振りかぶった。
──ドゴンッ!
そんな音を立てて、おそらく厚さ50センチはありそうな壁が貫通し、外の冷たい空気が流れ込む。そしてアフロディーテはその細身からは考えられないような力でもって、まるで粘土でも避けるようにし、穴を広げて行く。
塗り込められていた、という魔鈴の予想は正しく、アフロディーテが作業を終えると、そこには窓らしき、きちんと四角い穴が現れた。
「見えるかい」
顎をしゃくって示され、魔鈴は彼の動作に気を抜かないながらも、窓というには簡素すぎる、壁の穴から外を見た。
「ここは生ゴミを投げ捨てる為の窓でね。2年前、トニが居なくなった時に塗りこめたんだが、ここから跳躍し、あの崖を登るとアテナ神殿の離宮、そしてそのまま裏に回ればスターヒルに辿り着ける」
「なぜ」
さすがに魔鈴も驚愕し、上滑った声で彼に問うた。
「……何もかもを見せるとは言ったが、実はそれは、私の独断だ。教皇は知らない」
魔鈴は、今度こそ絶句した。アフロディーテは窓の外を見ながら、初めて、苦笑ともとれるような、複雑な笑みを浮かべている。だがその眼差しは遠く、どこか懐かしげにも見えた。
「双魚宮は、教皇宮に最も近い。だから黄金聖闘士たちに命令や周知を行う際、連絡網の最初はいつでも私だ。だから私が“教皇からの命令だ、イーグルが宮を通るに相応しいと判断すれば通せ”と言えば、教皇の命令として通ってしまうのさ」
「…………」
「今回初めてやったことだがね、あまりにもあっさり通ったので驚いた」
13年前から、聖域では命令系統がしっかりと整えられた。それゆえ出来たことである。もちろん、ばれれば重罰どころではすまない行為であるが。
「どうしてそんなことを、と思うかい」
当たり前だ。魔鈴が黙りこくっていると、アフロディーテはそれを肯定と取ったのか、それともただの独り言なのか、魔鈴のほうを見ず、ただ崖が見える窓の外をじっと見ながら、淡々と言った。
「私はこの13年間、ずっと秘密を守り通してきた。薔薇の下で、という言葉どおりにね。しかしここまで来たら、もうすべてを明かしてしまってもいいのではないかと──いや、明かしてしまいたい、と思ったのだよ」
「…………」
彼が今どんな過去を思い出しているのかは、魔鈴にはわからない。けれどその、魔鈴が知らない過去の存在を感じたとき、この麗人が決して雲の上のあやふやな存在ではなく、ずっしりと重い過去の上に立つ人間なのだということ、そしてそこに迷いなく、後悔なく、前を見据えてまっすぐに立っているということを実感した。
「我々は、確かに皆に対して多くの隠し事をしている。しかしそれは、明かしても決して恥じるようなことではないし、本来誰からも責められるようなことではないと、胸を張って言うことが出来る」
「……まあ、皆それぞれに事情があるでしょう。それぞれがそれぞれにとって正しいことをやっている」
「そうさ。だがそれがぶつかり合って戦争になる。そして負ければ正しいことは別の正しいことに押し負けて、正しいことでなくなるのさ」
「…………」
「力こそ正義だといつも言っている友人が居るが、私もつくづく至言だと思うよ」
「あんたは何をしたいんだ」
敬語を忘れて、魔鈴は言った。すると初めて、アフロディーテが魔鈴を見る。その表情は、その美貌のせいでやけに妖艶な、しかしどこか悪戯っぽいような笑みだった。
「ニコルと同じさ。外堀を埋めようと思ってね。昔から、そういうフォローは私の役目」
「……勝っても負けても、相手が不利になるように?」
「そう、誰よりも平等な鷲の目によって」
「しかし、あのニコルのことだ。アテナの不利益になる情報は、片っ端から隠蔽、いや、全部なかったことにしてしまうと思うけど?」
「勝てばね。勝たないが」
アフロディーテは強気極まりなく言い、しかしにやりと笑って続けた。
「まあ、仮に彼らが我々に勝ったとしてもだ。ニコルはあの教皇宮の資料室にどれだけのものがあるか知らないだろうけど、あれを隠そうと思ったら相当なことだよ。ばれれば前教皇が老いて呆けた老人だったということが明らかになるし、アテナの正義なんてただの傲慢な小娘に成り下がるだろう」
それだけ、前教皇──本物の教皇の時代はひどかった、ということなのだろう。目の前の窓の向こうにどれだけの伏魔殿が広がっているのかと想像し、魔鈴はぞっとした。
「我々がやったことも確かに過激だが、きちんと理由がある。“アテナの為に”以外の、きちんとした理由がね」
「……それは、私の知ったことじゃない」
「その通りだとも。君の仕事は、どちらかの味方をすることでも、どちらがより正しいかを断ずることでもない。ただありのままを見ることだけさ。それでこそ私の必要とする“監視人(イーグル・アイ)”たりうる」
だがそれが最も難しい立ち位置であることを、ニコルと関わってから、魔鈴は嫌と言うほど知っている。どちらの味方もせず、それでいて事実だけを見極める目。ニコルもアフロディーテも同じく、魔鈴のそんな鷲の目を求めている。しかしどちらかといえば、アフロディーテのほうがなおはっきりと、本来の意味での鷲の目を求めているような気がした。
そしてさらに難しいのは、魔鈴自身にも目的がある、ということだ。魔鈴は沙織やニコルの味方をする気はさらさらないが、星矢の望みは叶えてやりたい。だからこそ、魔鈴はこの厄介な戦争の上空を、爆炎を必死に避けながら飛びまわっているのだから。
「私が君に求めるのはそれだけだ。あとは君の好きにすればいい」
魔鈴の心を見透かしたようにアフロディーテが言ったので、魔鈴はどきりとした。十二宮の最上階を守るこの麗人は、やはり鷲の目さえも上回る高い目線を持っているのだろうか。
「ただし君にも、試練を受けてもらわなければならない。ここまで上がってきたように、教皇宮を抜ける試練をね」
ばさり、とマントを翻し、アフロディーテは窓枠に腰掛けた。彼の向こうには、切り立った崖。
「あの崖には、歴代の教皇の結界が張り巡らされている。うまく登らないと、聖衣を着ていても死ぬ」
「でも、うまく登れば死なないわけだ」
「理解が早くて結構だ。行くかい」
「行く」
魔鈴は即答した。でなければ、何のためにここまで来たのかわからない。
「それに、行かなきゃあんたにここで殺されるんだろ」
「わかってるじゃないか。魚座の子は勘がいい」
にやり、と無駄に華麗な笑みを浮かべるアフロディーテに、魔鈴は仮面の下で呆れ顔をつくる。不思議と、不快な気はしなかった。
アイオリアに聞いたことがあるのだが、十二の星座の生まれは小宇宙にも多少の関係性があり、同星座であれば波長が合う場合が多いという。それは教皇の占星よりも更に不確かな、根拠のないあやふやな実感でしかない。しかし聖闘士、特に黄金聖闘士であれば誰もが感じる感覚であるらしく、ある程度は相手の生まれ月を言い当てることも珍しくないので、否定する者は居ないという。
そして今、魚座生まれの魔鈴は、アフロディーテを前に、それを深く実感していた。おそらく、彼もそうなのだろう。こんな状況でありながら、魔鈴は極限状態続きの三日ぶりにリラックスしていたし、彼は奇妙に機嫌がよかった。
兄が居たら、妹が居たら、こういう感じだろうか──もしかしたら、そんな感覚だったのかもしれない。
助走を付けた魔鈴は、トン、と窓枠に飛び乗り、そして蹴った。重点的に鍛え抜かれた脚力と女性ならではの体重の軽さ、そして三日ぶりに全力で燃焼された小宇宙が、飛び立つ猛禽そのものの跳躍を可能にする。
飛び立った鷲を目の端で見送ったアフロディーテは、羽ばたきが起こした風で舞い上がる髪もそのままに、遠い目をした。
「──見るがいい」
薔薇の下に隠された、13年の秘密の全て。
「我等の正義を見るがいい、女神」
白いマントを翻し、一度も後ろを振り返らないまま、彼は己の宮に戻る。
そして彼は、もう二度と、自分の宮から動かなかった。