第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
<11>
 ニコルの操縦するヘリと城戸家のジェットを乗り継ぎ聖域まで辿り着いた一輝は、白羊宮から全速力で階段を昇り、処女宮で苦戦する星矢たちを助けることが出来た。
 随分苦戦をしたとはいえ、最も神に近いと言われるシャカと一対一で戦いを繰り広げた一輝に対する他の黄金聖闘士たちの評価は、相当なものだった。
 神話の時代から誰も纏った事がないという不死鳥フェニックスの聖衣を得、脱走兵の成れの果て、暗黒聖闘士の吹きだまりであるデスクイーン島を統括した一輝の名は以前から知られていたものの、まさかここまでの実力を持っていたとは、誰も思っていなかったのだ。

 紫龍は一振りの剣を選びとって手に持つと、集中力を高め、構えをとった。
 無人だと思っていた天秤宮には、カミュによって氷漬けにされた氷河が眠っていた。
 皮肉にも、それは彼の愛する、東シベリアの海に沈み永遠に美しいまま眠っている彼の母の様子に酷似していた。それが彼の師カミュによる意図的なものなのか、それとも単なる偶然なのかは、知る由もない事であるが。
 しかし彼の母と決定的に違うのは、氷河がまだ生きているという事だ。幾星霜の後に目覚めるかもしれない、そう言ってカミュが施したフリージング・コフィンは、氷河の肉体の生命活動を殆ど止めている。しかしその小宇宙は、まだ完全に凍り付いてはいなかった。
 だが全力のペガサス流星拳でも、氷の棺はヒビひとつ入らない。そうして途方に暮れる星矢たちの前に現われたのは、本来は童虎が纏う、天秤座ライブラの黄金聖衣だった。
 ──紫龍が龍座ドラゴンの聖衣をあえて脱いだのは、デスマスクとの戦いの時と同じく、集中力を高める為である。
 しかし、武装を解くことで己を追いつめ集中力を高めるのが目的だった巨蟹宮での戦いとは違い、今回は、この天秤座ライブラの武器を使う集中力を得る為、と言った方が正しい。
 聖衣には、それぞれ異なる波長の小宇宙が秘められている。“聖衣の意思”とも呼ばれるそれは代々の聖衣の持ち主の小宇宙であり、修復の際に使われた血液の小宇宙だ。新しい持ち主は、その小宇宙に同調することが出来て初めて、その聖衣を纏う資格を得ることが出来る。
 要するに、ドラゴンの聖衣に同調している状態で更に別の聖衣にも同調するのは難しいのだ。同調することが出来ない聖衣は、纏えないどころか、反発現象を起こして触れた者を傷つける事さえある。“認められぬ者が箱を開ければ目が潰れる”というのは、このあたりからきているものだ。
 いちパーツのみであり、他の聖闘士が用いることがある故に比較的同調し易いライブラの聖衣といえど、触れた事のない聖衣、しかも黄金聖衣であることには変わりない。童虎から“智”の修行も多く課され小宇宙のコントロールに長けており、なおかつ中国拳法を基礎として武器を使う体術の修練も修め、更にライブラの聖衣の持ち主である童虎の小宇宙に長く触れている紫龍がドラゴンを脱ぎ、極限まで集中して、やっと触れることが出来るのだ。
 紫龍は十二の武器を一つ一つ慎重に試したが、どれもこれも凄まじい小宇宙が秘められている事が感じられた。少しでも集中を緩めれば、あっという間に反発を起こし、無事ではすまないだろう。
 黄金聖闘士たちは、これと同等の小宇宙が秘められた各々の黄金聖衣を纏った上で、ライブラの武器を用いて戦うという。それを思うと、改めて、黄金聖闘士とは何と高みの存在なのだろうか、と紫龍はまざまざと感じた。
 生身での戦いが基本である故に滅多に使わない武器、しかも黄金聖衣でもある剣を構え、紫龍は極限まで集中力を高める。──失敗は許されない。
(……恐怖との戦いだな)
 じりじりと浮かぶ汗を感じながら、紫龍は実感した。
 たとえ結果が同じであったとしても、やはり、武器と拳は違う。時に繊細なものを扱ったり、日常生活に置いても用いる手を握り締めた拳と違い、“剣”は存在の根本から“凶器”だ。戦う事、いや斬り裂き殺す事を目的として作られた道具でもってして何かに対峙するのは、何とも言えない、独特の恐怖がある。
 その上、紫龍は今、その剣で持って、血を分けた兄弟を生かさねばならない。本来の用途通りに使うだけでも恐ろしいというのに、この殺す為の刃を、生かす事に使わねばならない。それは非常に恐ろしい事であり、だからこそ、己の中の恐怖を斬り捨てる事こそがこの氷を斬り裂き兄弟を生かす事の出来る突破口である事を、紫龍は悟った。
 必死に、恐怖を斬り捨てる。頭の中の、迷いという名の霧が晴れ、意識が研ぎ澄まされて行く。それが頂点に達した時、紫龍は剣を持つ手に力を入れた。
「──蘇れ、白鳥よ!」

──カッ!

 研ぎ澄まされた一閃は、いっそあっけなくもあった。
 星矢と瞬が固唾をのんで見守る中、剣を振り下ろした紫龍は、美しい動作で納刀の動きに移動した。
 ビシッ、という小さな音が、直ぐさま激しい崩落音となる。まるで砂の城が崩れるように氷の棺が崩壊し、ライブラの剣に込められた小宇宙と反発して原子が動き出した氷が、どんどん水蒸気と化して消えていく。
 その一閃の威力に驚きながらも、少年たちは兄弟の姿を探した。
「氷河!」
「氷河──ッ!」
 もうもうと立ちこめる真っ白い水蒸気の中、仰向けに倒れている影に向かって、星矢と瞬が叫ぶ。急いで星矢が抱き起こすが、気のせいでなく全体的に白い氷河の身体は、ぎょっとするほど冷たかった。
 紫龍による一閃、小宇宙同士の反発力を利用した強力な剣撃の余波で、氷河自身を凍り付かせていたカミュの小宇宙も、少しは相殺されたのだろう。ごくゆっくりと、今にも止まりそうな速度で、しかも弱々しいものではあるが、心臓が動いている。危なっかしいにも程がある状態ではあるが、僅かに小宇宙が感じられるだけであった先程までと比べれば、間違いなく回復している。
「うっ……」
 氷河を抱き起こした星矢が、呻いた。氷河の元々白い肌はもういっそ青く、指先は既に青黒くなっている。凍傷だ。しかも重度の。凍死寸前の状態である事を星矢が告げると、瞬と紫龍がさっと顔色を変えた。こんな時にいつも頼りになるはずの紫龍の表情が一番深刻に顰められた事が、事の深刻さを表していた。
「せっかく氷から救い出したというのに、早く何とかしなければ……」
「でもこんな場所では、ろくな手当も出来ない!」
 星矢が、氷河の腕をガシガシと擦る。しかし冷えて乾いた肌は暖まるどころか、逆に星矢の手の方が冷えきってしまいそうに冷たい。
「ぼくが何とかするから、ふたりは先へ行って……!」
「え?」
 突然言った瞬に、二人が振り向いた。瞬も追いつめられた顔をしていたが、しかし狼狽することしかできていない二人に比べ、まだしっかりした目つきをしていた。
「もう時間がないんだ」
 そう言って、瞬は火時計を指差した。どこの宮からでも見えるよう、絶妙な位置に建てられた火時計の日は、もう天秤宮の火が消えてしまっている。これから先も黄金聖闘士が何人も待ち構えているというのに、これでは間に合わない、と瞬は言った。黄金聖闘士がいかに屈強であるかは星矢も紫龍もいいかげん嫌というほど実感している。瞬の言う事は、もっともすぎるほどもっともだった。
 だがこの状態の氷河を放置するわけにはいかない、そう思っているのがありありとわかる焦燥の表情で氷河を見遣る二人に、瞬は膝をつき、氷河の身体を星矢から受け取ってから、意識してしっかりした表情を作った。二人を安心させる為だ。
「ここで三人が固まっていてもしょうがないよ。氷河はぼくひとりでも、必ず助けるから。……そして二人で後を追うよ!」
「わ……わかった」
 実際に年少であるせいもあるが、少女のような可憐な容姿と心根の優しい性格から、瞬は5人の中でも、星矢とは違う意味で末っ子のような扱いを受けている。そんな彼が背筋を伸ばして自分たちを行かせようとする姿に、二人ははっと心を持ち直した。確かに、ここでただ狼狽している場合ではない。
 二人はぎゅっと表情を引き締めると、先に行く事を了承した。紫龍が素早くドラゴンの聖衣を纏い直すと、二人は直ぐさま駆け出した。瞬と氷河に背を向けながら、氷河の事は頼んだ、と声を上げる二人に、瞬はやはり力強い声で、必ず助ける、と言い切った。
 二人が行ってしまうのを見送り切らないうちに、瞬は再びしゃがみ込み、氷河を抱え直した。その身体は、やはり絶望的なほど冷たい。これで死んでいないのが不思議な位だ。
 アンドロメダ島で数年を過ごした瞬は凍傷に馴染みがないが、応急処置の仕方は一応知っている。まずは人肌、もしくはそれに近い温度のお湯などでゆっくりと患部をあたため、徐々に回復させなくてはならない。だが星矢の言う通り、お湯を沸かす設備などここにはないし、人肌で温めようにも、重度の低体温症と、全身と言ってもいい重度の凍傷を併発した氷河を瞬が抱きしめる程度の事で回復させることなど出来ない。
 だが瞬は、小宇宙が基本的に熱量を持ったものである、ということを知っていた。兄である一輝のそれは特にその特徴が顕著であり、その熱量は灼熱の域にある。だがそこまでではなくても、小宇宙が発する熱を上手く使えば全身を効率的に温める事が可能なのではないか、と瞬は思いついたのである。
 先程抜けた処女宮で見た、一輝の壮絶な戦い。彼の灼熱の小宇宙を思い出しながら、瞬は己の小宇宙を高めた。兄のことを思い出す事で、より熱のある小宇宙を発生させることができるような気がしたからだ。
(人を倒す為でなく、救うために燃やす小宇宙があってもいいはずだ……)
 それは、瞬が常々思っている事だった。誰かを傷つける事が嫌いな瞬は、この戦いに勝てば誰かを救うことが出来るのだと思い込む事で、望まない戦いに挑む。その誰かとは具体的に誰という事ではなく、どこかで困っている誰かという漠然としたものだったが、想像力豊かで感受性が強く、そして心の優しい瞬は、その心許ない根拠でもって、性に合わない戦いを何とか切り抜けてきた。
 そんな瞬にとって、目の前の氷河を救う為というごく具体的な目的を得た小宇宙の燃焼は、いつもよりも更に強力で、素早く高まった。
 ──もっと熱を、もっと。
 力強い兄の姿を思い出し、そして目の前の兄弟を見つめながら、瞬は小宇宙を高めて行く。
 小宇宙の高まりは、集中力の高まりでもある。ZONEに突入した瞬はひたすらに熱を発する事に意識を向けていたが、しかしふと、発した熱がより多く氷河を温めて行くある一定のポイントがある事に気付く。それは一定の波長にリズムを合わせるような感覚に似ていて、そして氷河が回復するほどに、だんだんと早まった。
(何だろう。心臓の鼓動……と似てるけど、違う……)
 それが小宇宙の波長である事を、瞬は知らない。
 瞬は小宇宙の熱が氷河を回復させるのだと思い込んでおり、それは確かに間違いではないが、実際に氷河を回復させているのは、瞬の小宇宙そのものだった。
 氷河の攻撃を受けた一輝の腕と同じく、小宇宙の闘法の一種、凍気によるダメージは、小宇宙によってしか回復できない。それはつまり、本来反発する性質を持つ小宇宙を相手の小宇宙の波長に同調することで分け与え、急速な回復をもたらす技術。──ヒーリングである。
 ヒーリングは、誰もが簡単に出来るテクニックではない。自分の小宇宙を相手の小宇宙にあわせるという行為は、高度なコントロールが必要とされる。実際まともにヒーリングが使えるのは黄金聖闘士の中でも限られており、更にその中でも程度がある。“仁”・“智”・“勇”のどれにも当てはまらない、特殊で、向き不向きのあるテクニック、それがヒーリングという技術なのだ。
 だが瞬は、相手を救いたいという強い意思をもった集中力の果てに、偶然にも、その極意を掴む事に成功した。
 個人によって感覚は違うだろうが、ヒーリングの極意は、滅私の精神とよく言われる。自分の波長を忘れ、ひたすらに相手にあわせるのだという意識が、より同調率の高い、つまり効率のいい強力なヒーリングを可能にする。
 イメージするのであれば、一定のリズムで小さな口が開く容器に、高い所から水を注ぎ込むような画が分かり易いだろう。小さな口に水を注ぎ込むには、位置を定め、水の量を的確に絞り、落下地点を精密に狙わなければならない。しかも容器の口は一定のリズムで開いたり閉じたりするので、そのタイミングを見定めて、水を無駄に零さないようにしなければならない。
 ヒーリングという技術の存在を知らない瞬は、ただ小宇宙による熱で氷河を温めようとしており、よってタイミングを外した瞬の小宇宙は無駄に周囲に溢れまくっている勿体ない状態なのだが、それでも、着実に瞬の小宇宙は氷河に注ぎ込まれ、彼を回復させていた。
(氷河が蘇るのが先か、ぼくの命が燃え尽きるのが先か……)
 インド神話の兎よろしく、瞬は己を犠牲にしているのではないだろうか、と紫龍はあとで心配することになるが、結果的には当たらずも遠からずといった所だろう。瞬は死のうとしているのではない。ただ形振り構わず必死なだけだ。
 才能があるだけに、瞬がヒーリングの存在を知っていれば、事態はもっと簡単だっただろう。だが瞬生来の滅私の心根が、偶然にも、確実に氷河を回復させる術を生み出した。奇跡を起こしたと言ってもいいだろう。
 それに、理由はわからなくとも、不思議なリズムに小宇宙をあわせるとより効率的に氷河の体温が回復する事は、瞬も既に気付いている。同調はかなり難しいことであったが、コツを掴めばその効率は格段に上がる。
 小宇宙の波長に上手く合わせることができれば、氷河の心臓の鼓動も力強くなっていく。その確かな手応えを頼りにしながら、瞬は必死に小宇宙を燃やし続けた。






「ひ……ひとまず退け──っ!」
 倒れた沙織の側に一般人の辰巳しか居ないのをいい事に襲撃を行なった雑兵たちは、突如現われた青銅聖闘士たちにやられ、慌てて撤退して行った。いくら最下級といえど、きちんと称号を与えられた聖闘士には敵わぬという判断からであったが、統率の取れた雑兵たちの動きは、個人戦闘しか行なわない聖闘士にはないものである。
 教皇となったサガは、最も治安悪化や風紀の乱れの原因とされていた一定の年齢以上の雑兵たちへの取り締まり、そして新たな訓練についても対策を立てた。
 聖域の人々の生活や候補生の修行を見直す為にサガたちは軍隊の様式を多く取り入れたが、その中でも最もその影響が色濃いのが、この雑兵たちであった。
 先程も言った通り、聖闘士は一対一の戦いを基本としている為、その修行もそれに向けたものばかりだ。しかし星の名を得る事の出来なかった屑星たちが、その技術を生かす事は難しい。だが集団行動を基礎とする軍隊式の動きを、屑星とはいえ一般人よりは遥かに上の能力を持つ雑兵たちが行なえば、どうなるか。
 また、上官の命令は絶対という、軍隊の基礎中の基礎とされるトップダウン式の精神を叩き込む事は雑兵たちの素行を制限する事に繋がり、そしていくつかのグループに分けた雑兵たちのそれぞれの総括として白銀聖闘士たちを置く事によって、サガたちはばらばらだった雑兵を纏め上げたのだ。
 白銀聖闘士が実質的に全滅した今、彼らを纏める指導者はいない。もちろん、教皇命令として指示は下してある。待機命令だ。
 黄金聖闘士で星矢たちを迎え撃っている間に雑兵たちが沙織を闇討ちして殺す、というのは確かに手っ取り早い魅力的なやり方でもあるが、あとで卑怯者と罵られてはまた面倒なことになる。ムウやアイオリアと同じく、サガが下したのもまた、勝敗が決したあとのことを考えての指示であった。
 だが、元々荒んだ環境で泥を啜って生き延びてきた雑兵たちは総じて荒くれ者が多く、司令官を失ったいま、押さえ込まれていたその性が暴走し始めていた。目の前に敵の総大将が瀕死の状態で倒れているというのを見て待機命令を守り続けていられるほど、彼らの精神は完成されていなかったのである。
 だが、雑兵の数は、総勢で数千人にも上る。その中で命令違反をしたのはこの十数人のみということを考えれば、たかが数年でよくぞここまで軍隊式の精神を叩き込んだ、と褒めてもいいかもしれない。
 そしてその成果は単なる力づくのものではなく、地獄のようだった聖域の環境を整え、人間的生活を送る事を可能にした教皇への恩が彼らにあるからなのだ。彼らとて、好き好んで悪事に手を染めていたわけではない。環境だけが全ての原因とは言えないが、獣のようにならねば生きていけなかった状況があったというのは事実である。きちんと毎日十分な食事が取れるという保障がされているだけでも、その精神状態は劇的に安定するものだ。
「辰巳さん、大丈夫かよ」
 那智の声には、かつてのような怯えや怨みの声はない。余裕の感じられるその声は、力ある者の声だった。
「お……お前ら、俺が片付けようとしてた所へ余計な真似をしおって」
 生き残った十人の全てが、既に己とは比べ物にならないくらいの力をつけている事を、辰巳は知っている。しかし、それでいて素でこういう返し方をするのが、辰巳が辰巳たる所以である。ククク、と後ろで市が笑う。密かに、檄や蛮も似たような笑みを浮かべていた。
 彼らが無力な子供だった頃、辰巳は彼らにとって絶対的な強者だった。そしてそんな彼から、かつて星矢たちは、理不尽な暴力や様々な仕打ちを多く受けた。
 だから──普通に考えれば、超人的な力を身につけて帰ってきた彼らから怨みを買っていることに怯えるところだ。実際、日本に帰ってきて最初に辰巳の事を見る彼らの目は、皆相当の憎悪に彩られていた。しかしそれにも関わらず、辰巳の態度は、かつてと変わらず尊大だった。
 辰巳は強がっているわけでも、年長者としての威厳を保とうとしているわけでも、沙織の執事という威を借りているのだから何をしても良いと思っているというわけでもない。ただ彼は、ただひたすらに傍若無人極まる性格なだけだ。もちろん根拠など何もない。少なくとも、誰も知らない。
 要するに、彼が頭を下げるのは、沙織と光政だけなのだ。彼にとってその他のものは全くもって同列で、相手が聖闘士であるとか、例えば大統領であるとか、そういう事は関係ない。見ようによっては潔いが、辰巳の場合は単なる馬鹿さが原因だ。だがどちらにしても、ストレスとは無縁な性格といえよう。
 もし辰巳が、聖闘士となって帰国した自分たちに媚びへつらって怯える態度をとっていたとしたら、星矢たちの態度もまた違ったかもしれない。だが辰巳の態度は、星矢たちが弱者だった頃と、全く同じままだった。
 壮絶な修行を経て、聖衣を得て聖闘士となり、日本に帰国した星矢たちは、そんな辰巳に、幼少の頃のような憎悪の目を向ける事をやめた。もちろん、かつて受けた仕打ちを許したわけではないし、無駄に偉そうな態度は相変わらず癪に触る。だが辰巳の性格を理解した今、これを恨んだところで労力の無駄だ、という諦めのほうが先に立つ。
 それに、やろうと思えば指一本で辰巳を殺す事も出来る力を身につけた今、たかだか剣道三段程度の腕で聖域の雑兵に立ち向かい、命を張って沙織を守ろうとする姿勢には、呆れが大半を占める奇妙な微笑ましさを感じたのだった。
 それは強者となったゆえの余裕がもたらす寛大さだったが、やはり辰巳にそんな事は関係ない。彼は星矢たちがどんな気持ちなのかなど昔も今も考えた事すらないし、彼にとって星矢たちは生意気な小僧のままだ。
 だが現状、上手く行っているのだろう。成長した子供たちと、彼らに軽くあしらわれている、滑稽な中年として。
「それよりお前ら、一体今までどこへ姿を消しておったんだ! お嬢様に無断で、けしからんぞ!」
「無断じゃない」
 今度はしっかりと固い声で、那智が言った。自分たちはそれぞれ指導を受けた師のいる修行地へ、再度特訓に行っていたのだと。
 それを聞いて、さすがの辰巳も驚いたらしい。また地獄のような思いをしてきたのか、と、呆然と呟いた。
 他人の心を思いやる精神、想像力などが致命的に欠ける辰巳といえど、彼らの修行が地獄のようなものだったという事は聞いている。それ故に一輝は沙織たちに対し、あのような行動に出た、と辰巳は思っている。もちろん、デスクイーン島に向かう船の中で自分が一輝にした仕打ちは勘定に入っていない。
 ともかく、彼らはそれぞれ銀河戦争での敗北の悔しさを胸に、再び血の滲むような特訓をしてきたのだ。星矢が一輝に言ったように、地獄の中で意思にかじり付く思いをして生き延びた事については、十人全員、誰も変わりない。だが銀河戦争で戦った事で、実際の実力にかなりの差がある事を見せつけられた那智たちは、すぐに修行のやり直しをする事を思い立った。これは戦士としての意地であり、プライドである。
 だがその中で一人、そうでない者がいた。
「お嬢さんを……女神を守る為にな」
 涙ぐみながら言った邪武は、黄金の矢を胸に倒れている沙織の側に、がくりと膝をついた。彼も修行地アルジェリアから帰ってきたばかりだが、その動機は那智たちとは異なる。もちろん戦士としてのプライドが傷つけられた事も大きいが、自分たちでなく、星矢たちが沙織を守っているという事実が、彼には何よりも悔しかったのである。
「お嬢様、遅くなってすみません」
 もう二度とお嬢様に危害は加えさせないですからね、と涙ながらに言う邪武の後ろ姿を、兄弟たちは苦笑気味に見る。

 そしてそんな彼らを、少し離れている所から、密かに見守る者がいた。──ニコルである。

 超人的な身体能力により、交通の便がなかろうが海があろうが目的地へ向かうのに致命的な支障のない聖闘士であるが、高位スキルであるテレポートが使えない以上、その速度には限りがある。彼はカノン島から聖域へ一輝を送り届けたあと、そのまま修行地から聖域へ向かう途中の邪武たちを回収し、同じようにしてここに連れてきたのだ。
 邪武が昔から、沙織に対して盲目的と言っていいほどに忠実であることは、ニコルも知っている。そして一見一直線で単純なように見えるそれは、恋愛感情や忠義心などと既存の言葉で表せるようなものと違うような気がする。確かに恋愛感情や忠義心も含まれているのだが、邪武のそれは、強いて言うならば心酔というのが最も的確だろう。
 城戸光政と沙織の間に、血縁関係がない事。孤児である彼らの中には、そのことで、光政への感情は兎も角として、沙織への怨恨は薄めたという者もいる。しかし、かつて沙織が幼かった彼らに相当な無体をはたらき、彼らが帰国してからも、脅しまがいの交換条件を持ちかけて言うことを聞かせた事は事実である。星矢などは行方不明の姉・星華のことについてだったが、他の者への交換条件も概ね似たようなものだ。
 だが邪武は、ニコルが知る限り、一目見た時から沙織に対してああだった。彼は何の見返りも求めておらず、ただ純粋に沙織に対して心酔していた。沙織が女神アテナであると知った時も、驚愕や不信、戸惑いを露にした他の少年たちと違い、彼の反応はまるで神の啓示を受けた者のような陶酔感に溢れていた。やはり自分の思いは間違っていなかったのだ、というような誇らしささえ滲んだ表情に、ニコルは見覚えがあった。
 ──城戸光政。瀕死のアイオロスから赤ん坊の女神を託され、晩年の時間の全てと、人生をかけて築き上げてきた財産の全てを投げ打って、孤立無援となったアテナのための軍隊を作った男。
 百人の子供たちが皆彼の実子であることは、先日、星矢たち全員に告げられた。その衝撃的な事実は、彼らが抱く“父親”という概念をことごとく悪印象に染めきった事だろう。
 しかし、無理もない。一輝に言った通り、光政が行なったのは、非人道的極まる鬼の所業だった。実質、自分の子供をひどく虐待して殺したのと変わりない。そしてその行為の片棒を担いだと言っても過言ではなく、同時に後悔もしていないニコルだが、胸を張って「尊い犠牲だった、しかたがない」とは言えない。ニコルとて、さすがにそこまで面の皮は厚くなかった。
 ただ旅先で偶然託されたアテナのために、一般人であった光政が何故そこまでしたのか、その詳しい原因は定かではない。
 しかし、邪武が沙織を見るその目は、光政が沙織を見る時の目と、どこか似ているような気がした。狂信的ともいえる、純粋すぎて不気味なほどの強い輝きを宿す目。
(──神の力か)
 と、ニコルは冷静に想像しているところがある。
 カリスマ。支配者、指導者に欠かせぬその資質が小宇宙によるものだという分析は、小宇宙の存在を知る者にしか理解できない、しかし純然たる事実である。一般社会でも、多くの人々を魅了するアーティストたち、また偉大な指導者、多くの信者を持った教祖の類いは、紛れもなく小宇宙覚醒者に他ならない。
 ならば、神の小宇宙を持つ沙織が、深い憎悪を抱いている少年たちに命を掛けた忠誠を誓わせることが出来るとしても、とくに不思議ではない。そしてそれは、良いように言えば改心を促すほどのカリスマや魅力だが、小宇宙の存在を知っている者からすれば、恐るべき強力な洗脳能力と見なされるだろう。
 そして、小宇宙の影響を最も如実に受けやすいのは、全く小宇宙が発露していない一般人はもちろんひとたまりもないとして、雑兵や青銅聖闘士など、小宇宙を持っているがさほど強大とは言えない、そんな者たちなのだ。
 まず、あれだけ教皇が恩恵を与えているにもかかわらず、ニコルが送り込んだ“草”にまんまと踊らされ、教皇に対して不信を抱いた者たち。もちろんニコルのやり方が巧妙だったというのもあるが、沙織の小宇宙の影響を多少なりと受けたというのも、全くないとは言い切れない。そして世界屈指のコングロマリット・グラード財団を一代で築き上げた総帥である光政はある程度の小宇宙覚醒者であるからこそそれを成し得たが、やはり訓練のされていない一般人である。また邪武は、ニコルが見る限り、十人の中で、生まれ持った潜在能力は最も低かった。
 もっとも影響を受け易いであろうそんな彼らが、沙織が持つ神の小宇宙にすっかりいたとて、何の不思議もない。
 そしてそこまで深く考えずとも、世界を救うべく降臨なされたこの美しき女神、おまえはそのために選ばれた戦士なのだと言われてその気になってしまう者は少なくない。世間に溢れている似非宗教がこれだけ賑わっているのであるから、それが本物だとしたら、なおさらだ。いっそ当然といってもいいだろう。
 だがそれならば、沙織が女神として未熟であるという事も同時に証明される。沙織が女神の小宇宙を最大限発揮できていれば、星矢たちが本命の戦である十二宮攻めぎりぎりまで沙織に対して強い反感を持ち続けていることもなかっただろう。
 また、沙織は女神であるので特殊だが、小宇宙を発現する際の肉体的な要である脳に干渉する技というのは、他と比べて著しく高い技術と素質を必要とする。よって幻朧魔皇拳は仁知勇に優れた教皇しか使えないとされており、サガが操る幻朧魔皇拳は、神に近いレベルの強大な小宇宙覚醒者である黄金聖闘士でさえまともにはいれば完璧に操ってしまうほどの威力を持つ。
 沙織が持つカリスマは広く浅く人々の心を奪い味方を増やしたが、サガは、キャンサー、カプリコーン、ピスケスの三人を強力な腹心として持ち、要を見抜き、狭く深く絆を繋ぐことで、聖域の頂点に立ち続けている。
 どちらも、支配者、指導者としてはかなりの素養があるだろう。しかし片方は神であり、片方は人間。沙織は神であるが故、一輝が言うように、人の心を解していないのではないかと思うほど傲慢な誇り高さで持って、不特定多数の者たちの心を掴む。一方、人間であるサガは、顔を会わせた人間だけを同志として迎え入れ、味方とする。
 ニコルはその半生ゆえに、沙織側についている。しかし何のバックグラウンドもなく、ただ素直にどちらをボスとして持ちたいだろうか──と、ニコルはふと考え、しかしすぐにやめた。考えても無意味なことだし、教皇たちは今日死ぬのだと、ニコルはまったく疑っていない。
 もちろん、青銅聖闘士としても新米の星矢たちが黄金聖闘士たちに圧勝するとも考えていないが、彼らが敗北してなお勝利する手だてを、ニコルはちゃんと用意している。それに今の戦況から行けば、漁父の利のごとく、星矢たちとの戦いで疲弊した教皇側に攻め入って叩くという事も出来るだろう。
 星矢たちが勝利をもぎ取ってきてくれるのがベスト、しかしそれができないならば、最悪、勝てば官軍の言葉の元、手段を選ばずに勝利を得る準備はしてある。その為に、ニコルはこうして表舞台に姿を現すことなく裏方で暗躍し、いざという時の出番に備えて待機しているのだ。
 これは、総司令官である沙織にも事前に進言しており、許可を取ってやっていることだ。処女神アテナとしての潔癖か、それとも年若い少女としての嫌悪感か、沙織はもちろんいい顔をしなかったが、グラード財団総帥・城戸光政に育てられ、時に教皇よりも冷徹な目線を持たなければならないアルターを背負ったニコルを教育係にしている沙織である。ここで普通の少女のように喚き散らすような馬鹿はしない。
 彼女は、戦争と、その為の知恵の女神・アテナなのである。そしてそれは、手袋を投げつけ、手順を踏んで立会人の元一対一の戦いを繰り広げる決闘とは、わけが違う。戦争とは、地を這い、泥を啜り、屍肉を食らい、女子供の頭を踏みつぶして進軍せねばならないものだ。地獄の果て、魔女の釜の底。そこに、慈悲や思いやりなどはない。そんなものが有効に働くのであれば、そもそも戦争など起こらない。
 ──戦争とは、絶望なのだ。いざ戦いが起こってしまったなら、どんな非道もまかり通る。慈悲、思いやり、誇り、話し合い。それが通じなかったからこそ、最後の手段として戦争を行なうのだから。
 そしてそんな戦前に行なうべき譲歩・会談の場を一切設けず、というより微塵も考えず、聖戦と称してひたすらに戦争の準備だけに一目散になってきた沙織は、やはりどこまでも戦争の女神なのだろう。
 そしていま行なわれているのは、その戦争だ。故にもちろん、真っ正面を突破しようとしている星矢たちだけが、いま稼働している駒ではない。待機しているニコルもそうだが、もう一つ、密かに動いている駒がある。
 が潜入を果たしたのは、既に数日前。それから全く気付かれていない辺りその腕が相当であることを示しているが、その任務が今回の戦争の中で最も難易度が高く、そして重要であることも事実である。星矢たちが勝っても負けても、彼女の任務さえ上手く行けば、あとは沙織の有利にしかならない。
(さて……今頃どの辺りか)
 辰巳が檄に何やら使いを頼んでいるのを見遣りながら、ニコルはそっと陰に潜んだ。
BACK     NEXT
Annotate:
次の話を読む前に、【Children's corner - 子供の領分】の星矢・アイオリア・魔鈴の短編『グラドゥス・アド・パルナッスム博士(全3話)』をお読み頂けると、なお一層お話が盛り上がって楽しめるかと思います。もちろん読む順番は自由ですが、書き手より、ご参考まで。
BY 餡子郎
トップに戻る

各メッセージツールの用途と使い方
拍手 Ofuse Kampa!