第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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「シャイナはいるか」
 低い声で、シャイナは目を覚ました。普通ならば目覚めどころかうっとりと眠気を誘うような良い声であったが、そこに籠ったただならぬ固さにこめかみを小突かれるようにして、シャイナは目を覚まし、そして自分がきちんと布団をかけられてベッドに横たわっていた事に気付く。
 急いで身体を起こすと、戸口近くに立っていたのは、力強い黄金の輝きだった。
「出てきてくれ」
 どうして自分がここで寝ていたのか、そしてなぜアイオリアが自分の部屋の戸口に立っているのか。何が起きているのか殆ど把握し切れていないシャイナの様子に気付いているのかいないのか、アイオリアはまったく物音を立てずに身を翻し、戸を開け放したまま外に出た。脚の裏まで覆うフルアーマーの甲冑を身に着けているにもかかわらず、アイオリアは砂粒を踏む音すらさせない。まだ夢を見ているのだろうかと思わせるほど人間離れした身のこなしである。
 ──みぞおちが痛い。
 しかし、その痛みが、シャイナにひんやりとした意識を呼び戻してくれた。
 これは弟子であるカシオスの拳によるもので、それはダメージの深い身体を押して星矢の為に獅子宮に向かおうとしたシャイナを止める為だ。御免、という、カシオスらしくない固い言い回しでの断りが、ぼんやりと耳に残っている。
 目覚める前の状況を思い出し終わったシャイナは、まだ少しふらつく足を進めながら、現在の状況を確認した。外は既に夕方に差し掛かっており、空気はどこかひんやりと冷たい。乾燥地帯であるギリシアらしい、空中に舞い上がった砂のにおい。

 ──そして、濃厚な血の匂い。

 シャイナは、呆然と戸口に立ち尽くし、地面に横たえられている己の弟子を見下ろした。みぞおちの部分に、抉ったような大きな傷が二つ。既に出尽くして止まっている出血はおびただしく、巨体の下に敷いてある厚手の白い布は真っ赤に染まっていた。
「……カシ、」
 最後まで呼べなかった事で、シャイナは己の唇が震えている事に気付いた。



 カシオスはシャイナを気絶させたあと、獅子宮に向かい、幻朧魔皇拳によって星矢を殺しにかかっていたアイオリアを、己の命と引き換えにして止めたのだ、と、アイオリア本人の口から説明された。
 シャイナは黙ってそれを聞き、何を言うでもなく、じっとカシオスを見ている。
 そんなシャイナに、アイオリアは、ほんの僅かだけ怪訝そうな顔をした。シャイナは性格が激しい質で、激昂し易く、頻繁にヒステリックな行動を起こす事も珍しくない、ということは誰でも知っている。そんな彼女が弟子の死を目の前にして何のリアクションも起こさないという事は、彼女がそれほどショックを受けているということなのか、それともカシオスに対してさほど情がなかったということなのかどちらだろうか、と、アイオリアは計りかねている。
「自分にとっての女神は君だといっていた」
「女神……?」
 シャイナは小さく怪訝な声を出し、それからまた、じっと黙った。
「……馬鹿な奴」
 台詞だけなら後者だったかと思うが、あまりにしんみりとしたその声に、アイオリアは余計わからなくなる。
 シャイナは三分ほどカシオスを見つめていたが、やがて、癇癪持ちの彼女にしてはいっそ気味が悪いほど静かに言った。
「アンタがここに居るってことは、星矢たちは無事に獅子宮を抜けたんだね」
「ああ」
 シャイナの様子を訝しげに思いながらも、アイオリアは生真面目に頷いた。黄金聖闘士の中でも一際抜きん出た力を持ち、最も神に近いと言われるシャカが星矢たちを通すかどうかはわからないが、とアイオリアは付け足した。するとシャイナは初めてアイオリアに顔を向け、やはり静かな声で言った。
「アンタは城戸沙織をアテナとして奉じる姿勢だって聞いたよ。なんで星矢たちの力になってやらなかったんだい」
「……俺は、聖闘士だ」
 アイオリアは、とても彼らしい、ずっしりとした様子で言った。
「そして星矢たちも、本物の聖闘士だ」
「…………」
「だからこそ、これは彼らだけで受けるべき試練だ」
 確かに、実際にシャカと千日戦争にまで持って行けるアイオリアが力を貸せば、星矢たちは無傷で処女宮を抜けられるだろう。
 しかし、それはしてはならない。少数派が多くに対して正当性を示すには強力な後援者を得る事が重要ではあるが、いざ戦う時には、その力に頼ってはならないのだ。そうでなくては、虎の威を借って勝利を得た狐として、あとでいくらでもケチをつけられてしまうからだ。
 だからこそ星矢たちは、黄金聖闘士であるアイオリアの力を借りてはならない。逆賊アイオロスの弟、その肩書きを13年間背負ってきたアイオリアだからこそ、なお重々しく言える台詞だった。
「それで星矢たちが負けたらどうするつもりだい。今の所、その確率は途方もなく高いよ」
「その時は、星矢たちに加担した側として責任を取る」
 そんなことはない、と言えるほどアイオリアは幼くもなく、楽天的でもない。どんなに潔癖であろうと、力がなければねじ伏せられてしまう事もある。逆賊の弟としての13年間、谷底からひたすら這い上がり続ける事を余儀なくした13年間は、彼から幼さや甘さを削ぎ落とした。そして高みに登った彼は、あえて星矢たちを助けず、谷底に突き落とす事を選んだのである。真の強さをつけさせる為に。
「老師も、ムウも、アルデバランも、おそらく俺と同じ姿勢でいるのだろう。ムウは聖衣の修復を行なったが、アテナはフェアな戦いこそを至上とする」
 もし聖衣を修復しないまま教皇側が勝ったとしても、その時は教皇側がケチをつけられる。よってムウがしたのは手助けではない。
 手助けはしない。しかしもしもの時は、共に責任を取る覚悟でもって戦いを見守る。それが年長の戦士としての役目だろう、と、彼らは口に出さずとも悟っているのだ。だからアイオリアは、星矢の骨折に対しても気休め程度の手当はしたが、ヒーリングを施してやりさえせずに送り出したし、シャカに関してもごく曖昧な助言しかしなかった。
「勝利を目指す事はもちろん大前提として、敗北と死の覚悟も持って戦いに挑むのは、戦士として当然の事。そして俺たちは、アテナの聖闘士としてそれをする」
「……アテナの聖闘士、ね」
 シャイナの表情は、毒々しいペイントの施された仮面に阻まれて伺い知る事は出来ない。それでも気性の激しいシャイナの機嫌はいつもすぐに知れるものだったのに、先程から、アイオリアは彼女がどんな気持ちなのかよく分からなかった。
「私はなんだかピンとこないよ。今まで必死に修行はしてきたが、アテナに対してどうこうとか言う事は殆ど言われて来なかったから」
 それは、事実だった。十二宮最上のアテナ神殿、そこにアテナがおわすということであったが──結局いなかったわけだが──その姿を見る事はもちろん口伝えで様子を知らされる事もなかった。修行の中にも、アテナに対する敬いを徹底する兆候は濃くなかった。それが教皇による意図的なものだったのかどうかは、シャイナの与り知らぬ所だが。
 ともかく、教皇に対しては具体的な敬意や畏怖があったが、アテナに対するそれらは本当にぼんやりとしたものでしかなかったのである。
「そうだな。アテナがごく幼い頃に姿を拝見し、腕に抱いた事もある俺ですら、そういう所はお前達とさほど変わらん」
「でももう、そうじゃないんだろう。アリエスも、タウラスも、あんたも、そして星矢たちも、アテナのために死を辞さぬ覚悟で今戦ってる。……私たちと違って」
 シャイナは、一歩引くような様子で言った。
「不敬を覚悟で言うけど、私は今の教皇に個人的な怨みなんて何もない。聖域を13年間──私がここに来る前から聖域を治めていたのが今の教皇であることは、紛れも無い事実だしね」
「それは──」
 アイオリアは、難しい顔で黙った。
 確かに、この13年間の間、水道整備や食料の確保を始めとする環境の改善など、教皇がもたらした聖域に対する恩恵は計り知れない。神様のような方だ、と、それ以前の聖域を知る年長者たちは口を揃えてそう言う。
「むしろ小さい時から才能を認めてもらって白銀聖闘士候補として授業をつけてもらえて、感謝すらしてる」
 シャイナに限らず、白銀聖闘士たちは殆どがその想いをもっていた。
 いくら聖闘士として修行を積んでいても、実際に自らの命をかけて戦う為には個人的な感情がなくてはできない、と、どうしてもシャイナは思う。見知らぬ誰かの為に命をかけることは、簡単な事ではない。
 世界平和の為に、世界中の罪のない人々の為に、などという、壮大で、一見崇高に見える理念を掲げる事も出来る。しかし口ではどうとでも言えるが、やっている事は脇目もふらずに己の武を極めている者と何ら変わりない。そうなればそれは個人の心の中の指針に過ぎない、とシャイナは思っている。
「ねえ、アイオリア。星矢たちと戦って死んだ他の白銀たちは、あの教皇だから、恩のある教皇だから命を掛けて戦ったんだよ。もし仮に、今の教皇が偽物だってもっと前からあきらかになっていても、私たちは教皇の為に戦ったかもしれない」
 恩がある。助けてもらった、とても感謝をしている。それは、命をかけるのに十分な理由だ。
「だから、正直な所、星矢たちがどうしてアテナの為にああまでするのか、私にはよく分からないんだよ。命令されて色々調査をしたから知っているけど、星矢たちは孤児として扱われて、城戸光政やあの沙織って娘に散々な目にあわされてきた。恩があるどころか怨みがある方が自然だ。いくら城戸沙織がアテナの化身でも、命までかける気になるっていうのが」
 それに、星矢たちとて、アテナに対しての敬意に冠しての教育は、シャイナたちと同じくさほど受けていないはずだ。それなのに何故、と、シャイナはどうしても思ってしまう。
「あんたは、あんたの兄さんの事があるけど」
 シャイナは、他の誰もが腫れ物扱いする事を、けろりと言った。アイオリアは、彼女のこういうところを割と好ましく思っている。敵対すると気に触る無神経さだが、そうでなければ清々しくさえある。
「でも13年前、アテナはあんたの兄さんに対して何もしなかったんだろう? 何故今になって、とか、どうしてあの時、とか思わないのかい」
「ああ──」
 アイオリアは、若干きょとんとした風に相槌を打った。そういえばそうだ、とでも言うような。
「兄さんの罪が晴れたという感動が大きすぎて、そこまで考えていなかったな」
 基本的に、アイオリアは単純であり、そして素直である。戦士としては弱点になり易いそれだが、13年間の逆境で甘さが削ぎ落とされた上でのそれは、まだ不完全ではあるが、立派な美点に昇華しつつある。
「しかしあの頃、アテナは幼くあった」
「神なのに、幼いからどうこうとかあるの?」
「そうはいってもな。単に、そういう神であらせられるのだろう。今でないと力が発揮出来なかった──人間の肉体をもって現世に化身される弊害なのかもしれないな。推測でしかないが、そういう事であれば仕方のない事だ。恨んでもしょうがない」
 そりゃあ随分頼りない神だな、とシャイナは思ったが、口には出さなかった。あんまりアイオリアが素直なので、己が捻くれ過ぎているような恥を感じたからだ。
「それに、我々はアテナを敬う理由がある。神話の時代から続いてきた聖戦は、アテナが居なくば勝利し続ける事は出来なかった。アテナが我々を率いていなければ、今頃人類は存在していない」
「……壮大な話だ」
 だが、正論だ。根本的で、壮大すぎて反論のしようのないレベルの。
「私らは、器が小さいんだろうね。あんたたちに比べて」
「どういう意味だ?」
「もう知ってるだろうけど、私は女聖闘士の掟にかこつけて、日本へ星矢を助けに行った」
 シャイナは、はっきりとした口調で話した。何も後悔していない、覚悟を決めた声だ。
「星矢を庇ってあんたの拳を受けて、無様にあんたにここまで運んでもらって。……そして星矢が獅子宮に居て幻朧魔皇拳をかけられたあんたと戦ってるって聞いて、また同じような事をしようとした。……カシオスは、そんな私の代わりに死んだんだ」
「…………」
「好きとか嫌いとか、恩があるとかないとか、そういう個人的なレベルでしかものを見ることが出来ないんだよ、私たちはね。人類がどうとか、世界がどうとか、神が何だとか、そういうでっかい話じゃ心が動かない。……でもそれを、私は恥じてないよ、アイオリア。小さいものの方が頑強な事だってある」
 澱みのない声だった。美しくさえある。
「……そうだな。どちらがより正しいという事ではないのだろう」
「でも、師弟揃ってアテナの聖闘士としては失格だね。カシオスは、ペガサスの聖衣を得られなかった上に、アテナの聖闘士にもなれなかったわけだ。私なんかを女神なんて言っちゃってさ」
「そうだな」
 アイオリアは、肯定した。
 正直な所、アイオリアは今まで、シャイナのこともカシオスのことも、あまり良く思っていなかった。
 シャイナはイタリア出身で、南部らしい黒髪と肌の色がそうと知らせるが、あの地域の人間にしてはかなり華奢な体格をしている。しかしシャイナは、相当の才能に恵まれていた。
 サガやデスマスクが考案した、“仁”・“智”・“勇”の小宇宙の特性を重要視した新体制の育成方法を受けた白銀候補生たちの中でも、シャイナは一際抜きん出た存在だった。
 “勇”の才能に特に恵まれた彼女は、非常に小回りが利く。加えて華奢な体格を逆手に取って、大柄な体格をもっていることが多い聖闘士候補生たちの懐にすばやく入り込んで急所を狙うのが基本的な戦法だった。しかも、爪を強化して凶器のようにする技を編み出した彼女の一撃は打撃よりも致命傷になる。そんな動きはまるで稲妻のようだと言われ、繰り出す技は稲妻の爪、サンダークロウと呼ばれるようになる。
 才ある者として幼い時に白銀聖闘士候補として取り上げられ、その中でも飛び抜けて才覚を示した、しかも女性であるシャイナには、憧れや尊敬からであれ単なる摺り寄りであれ、とにかく、男女を問わず取り巻きがついた。そしてそれ故に、彼女は聖域の女性が常に危惧している類いの暴力の被害に、一度も遭遇した事がない。
 シャイナの周りにはいつも舎弟が居て、そして彼らの多くはシャイナの威を笠に着ていた。それは、生まれもっての飛び抜けた才能がない者、それ故に暴力の犠牲になる者、聖域に関わる歴史の浅い地域出身の者を嘲るシャイナの態度を大いに反映したものでもあった。それにいい顔をしないものも少数派ながら存在するものの、しかしその姿勢は聖域全体でも珍しいものではない上に、シャイナは余所者には辛辣だが自分の舎弟の面倒はよく見るので、仲間の白銀聖闘士も、多少呆れるような目は向けるものの、肯定であれ否定であれ、はっきりと何かを言った事はない。
 そんなシャイナに弟子として迎えられたのが、カシオスだった。地元の出身だというカシオスは、シャイナに預けられた頃から、年齢にそぐわぬ大柄な体格と腕力を持った子供だった。
 そういった成長の早い身体は、“勇”の小宇宙の才覚の証明でもある。生まれもっての才能を重視するシャイナは、そんなカシオスの師匠となる事を引き受け、なかなか熱心に面倒を見た。
 シャイナは、才能こそを重要視する。だからシャイナは、カシオスの持つ才能である“勇”の小宇宙を徹底的に伸ばす修行を課した。彼女本人も、“仁”・“智”・“勇”をバランスよく伸ばせという指導にひっそりと逆らい、己の最も大きな才覚である“勇”を優先的に伸ばし、そしてそれによって頭角を現すことが出来たという実績もあって、彼女の才能至上主義は、彼女の中でかなり硬直的なものになっていた。
 シャイナがカシオスに課した修行の成果は、主に彼の身体と腕力にそのまま現れた。他の二要素をほぼ無視し、身体強化の“勇”を徹底的に鍛えた彼の身体は、凄まじい怪力とともに、13歳にして200センチを超える身長と120キロを超える体重という、驚異的なものにまで成長した。
 しかし、いくら小宇宙という超常的な力の影響といえど、急激に成長させられた育ち盛りの子供の身体には、歪みがあった。分厚く岩のような上半身や丸太のような腕に対して脚が短く、体毛は生え際から抜け落ち、眉が消えていた。肥大した眼球はぎょろりと突き出しており、それだけでなく、虹彩自体がひどく小さくまるで爬虫類のように縦に細い瞳孔は、もはや人間離れしていると言っていい。
 美醜で言えば、間違いなく醜い姿だった。しかしシャイナはそれを才能を伸ばした結果なのだと褒めこそすれ、醜いとは言わなかった。顔は仮面で見えないものの、華奢で女性らしい肢体や意外にかわいらしい高い声をした師匠にそう言われれば、カシオス少年がどういう心理状態に陥るか、誰でも察することが出来るだろう。
 ──兎も角。
 取り巻きたちを従わせ、才のなさを努力で補おうとする者たちを嘲笑うシャイナたちや、それに付き従うカシオスの事を、アイオリアはよく思っていなかった。自分が何か言っても何ら解決しない、という無力感を感じる事も含めて。
 そして、“仁”・“智”・“勇”の小宇宙のバランスは、肉体と精神に如実に現れる。特に“智”は精神面に大きな影響を及ぼすが、それを怠り、肉体強化の“勇”ばかりを磨くシャイナは、確かに精神的に幼かった。癇癪持ちな性格も、それに大きく関係しているだろう。
 “智”の修行で最も効果的なのは、心を無にする瞑想とされる。心を無にするというのは精神状態を極限まで素直にする事とも言い換えられ、その悟りがセブンセンシズにも繋がる。アイオリアも精神を鍛える事で13年間の仕打ちに耐え、むしろその中で“智”の小宇宙を鍛える精神鍛錬によって、より成長する事が出来た。
 そしてシャイナの方針に従って修行を積んだカシオスも、身体ばかりは異常なほど立派だが、精神は一際未熟だった。彼は星矢と戦うまでに対戦した9人の候補生を、全て一撃で首を飛ばすという方法で殺害した。身につけた力を楽しんでいるとしか思えないその様子は、子供が虫や小動物を笑いながら殺すのと同じものだった。無駄な殺生を好まないアイオリアは、そんなカシオスを嫌悪していた。
 そしてあの壮絶な死の瞬間まで、カシオスの心根は全く改善されていなかっただろう。愛する者のために命をかける事と、他の命を軽んずる事は全く別の事だ。
 アテナイ、そしてここ聖域では、殺人もコソ泥も、全て情状酌量の余地なしにドラコンが適応され、死刑となる。それはまさに器の大きい、大きすぎる神の視点が下す判決だ。
 だが、小さな器に善悪を同時に抱え込む、それが人間だ。そしてそれは、何ら特別な事ではない。残忍な犯罪者に目に入れても痛くない子供が居てもおかしくはないし、恋人の為に何も知らない子供を殺す者もいる。腹を空かした赤ん坊の為に、パンを盗む者もいる。
 善は善であり、悪は悪なのだ。善は悪を肯定する材料にはなり得ず、悪は善を覆さない。カシオスがシャイナの為に命を張った事は、愛情という、人間が持つ尊い要素から来る行動だが、彼が残虐に9人の候補生を殺し、今まで他の候補生を迫害してきたことの免罪にはならない。
 だがカシオスの最後が壮絶なものであった事もまた事実だった。ああまで命を掛けて誰かを愛する事は、そうそう出来る事ではない。それがいいか悪いかはまた別の問題だが。
「彼はアテナの聖闘士ではなかった」
 アイオリアは、肯定した。だが、そのまなざしは、やさしい。
「だが、立派な最期だった」
 女神の聖闘士。そうあるには、アテナの為に戦わなければならない。だがそうでなく戦う者たちを、何かを守る為に、自分にとってかけがえのない事を為す為に命をかける者たちの事を、アイオリアは否定しない。そこまで彼は傲慢でも愚かでもないし、戦士の高みに登った者が持つ寛容さも兼ね備えている。真の戦士は、敵ながら天晴、という精神を持ち合わせているものだ。
 それに、難しく考えずとも、例えば子供を守る為に命をかける親の気持ちは、若いアイオリアにも自然に理解できるものだ。それは、人間という生物として。
「君の弟子は、君の為に、壮絶な最期を遂げた。誰に恥じる事もない、立派な最期だった」
 アテナの聖闘士としてではないが、同じ戦士として、そして誰かを愛した事のある男として、アイオリアはカシオスを賞賛した。
「……アテナは、平気なんだろうか」
 しばらくの沈黙のあと、シャイナは、ぼそりと言った。
「カシオスは、私の為に死んだ。それは私にとって、とても重い事だ」
 それは、カシオスがシャイナの弟子であるからでもある。シャイナがカシオスをもっとよりよく鍛えることが出来ていれば、カシオスは死ななかったかもしれない。力のないものは、自分の力量よりも上の問題を消化しなければならない時、形振り構っていられなくなる。食べるものがなくなれば地面に這って犬の真似もするし、命を脅かされた女は身体を差し出す。子供の命を乞う為に、自分の命を投げ出す親もいる。
 配偶者や子供を持つ事を良しとしない聖闘士たちの間では、師弟というものは特別な絆だ。親子や、兄弟や、友人や、どんな関係ともまた一線を画する独特の絆。
「いくら私の器が小さいといっても、人ひとりの死の責任を持つのは、すごく重い事だよ。心の中に、そいつの墓が永遠に刻み込まれる」
 シャイナは、師匠である。実績のあるその言葉に、弟子を持った事のないアイオリアは何も言う事が出来ない。
「神話の時代から、アテナの為にと言って死んだ聖闘士は、どのくらいいるんだろうね。数千人か、数万人か」
「…………」
「それって、敵を数千数万殺すのと、また違うだろう?」
「我々がアテナの為にと言うのは、我々がそれぞれ勝手にやる事だ。アテナがお心を痛める事ではない」
「わかってるよ。私だって星矢の為に死ぬことがあっても、それを星矢に背負って欲しいとは思わない。カシオスだって、私に対してそう思って死んだんだろう。言われなくたってよく分かってる。私が言いたいのは──」
 シャイナは、ぐっと拳を握り締めた。
「私の為にって死んだ奴の事を、必要以上に背負っていくのは、死んだ奴の意思に反する。でもその名前を自分が死ぬまで忘れない事くらいは、自分の為に命を張ってくれた奴に対しての、最低限の礼儀だ。自分の為に命を張ってくれた奴がいたって事は、決して忘れちゃいけない事だ。そうだろ」
「そうだな。もっともだ」
 アイオリアは、深く頷いた。
「……アテナは、覚えているんだろうか、本当に」
「……どういうことだ?」
「わかっててもこれだけ重いものを、アテナはどうやって受け止めているんだろう。数千だか数万だか、それだけの数の人間が自分の為に死ぬってことを」
「…………」
「聖域には、慰霊碑なんてものはない。それどころか、墓すらまともに作られない。アテナの為にって死んでいった奴がどれくらいいるのか、アテナは本当にちゃんと覚えているんだろうか」
 それは、信用ならない、と言っているのと同じことだった。しかし、アイオリアは眉をひそめただけで何も言わなかった。反論材料がないからだ。
「不敬は、承知だけど。……気が知れないよ。想像を絶する。もしアテナが自分の為に死んでいった奴の事なんか気にもかけてないなら、こうして戦い続けてる事に納得できる代わりに、私はアテナを好きにはなれない。そしてもしちゃんと覚えている上で戦いを繰り返しているっていうなら、もうそれは人間としてはあり得ない、わかりあえない存在だってことだ。人間は、そんな状況で正気でなんて絶対にいられない。……実際、私は城戸沙織の小宇宙を感じたことがある。あれは人間の小宇宙じゃなかった。だから、城戸沙織がアテナだとしたら、それは人間じゃないってことだと私は思ってる」
 崖の下から感じた雄大な小宇宙は、絶対に、人間の器に入り切るものではなかった。シャイナはそれを断言することが出来る。絶対に。
「でも、どっちにしたって、きっと私は、心からアテナの為になんて戦えない。──もし星矢がアテナの為に戦ってくれって言うんだったら、そうするかもしれないけど。でもそれは星矢の為に戦ってるんであって、アテナの為に戦ってるんじゃないだろう?」
「正論だな。……だが、幼い理屈だ」
 アイオリアは、子供に言うようにやさしく、穏やかに言った。シャイナはしばらく黙ったが、少し俯いた。そう言われる事はわかっていたのだろう。
「ふん。ご立派なこった」
「だがそれでも構わない。君が星矢の為に戦っていても、実質的にはアテナの為に戦うことになるのであれば」
 シャイナは、アイオリアを見た。仮面の下では、きっと半目になっているだろう。
「大人って汚いよね。利用してさ」
「寛容と言ってもらおうか。幼い者は放っておいてもいずれ成長する。俺もそうだったように」
「あんたみたいにはならない」
「子供は皆そう言うんだ。……なあ、俺だってまだ20歳なんだが」
 アイオリアは、情けない顔をした。ククッ、と小さく笑う声とともに、仮面が小刻みに揺れる。
「──ともかく、私が言ってやる事はひとつさ」
 シャイナは、カシオスの遺体の側に膝をついた。そして急激な成長で骨格が奇妙に歪んだ顔立ちの頬に、そっと手を添える。乱暴に叩いたり尻を蹴りあげた事はあっても、彼女がこうしてやさしく弟子に触れるのは、初めての事だった。だがどちらにしても、彼女の動作に躊躇いはない。

「よくやった、カシオス。──さすが、私の弟子だ」

 それは皮肉であり、そして手放しの賞賛だった。
 アイオリアは、そんな彼らの様をじっと見ている。
 アテナの聖闘士としては、彼らは確かに失格であるのだろう。
 だがカシオスは今、きっと最大限に報われた。女神と讃えた女に、その死を賞賛されて逝く。それは戦士として、男として、間違いなく羨ましい事であるように思われた。



「……アイオリア。魔鈴は今どこにいるんだい」
「魔鈴?」
 カシオスの遺体を家に入れてから、シャイナは言った。
「あいつがいつから教皇に疑いを持って動いていたのかはわからないけど、星矢たちの討伐で裏切ってから、あいつは姿を消した。あんたが匿ってるのかとも思ってたんだけど」
「いや……知らん。俺が日本に行くとき、魔鈴が姿を消した事は知らされていたが……。それにしても、お前が魔鈴の事を聞くなんて珍しいな」
 シャイナと魔鈴の不仲、というよりも、シャイナが魔鈴の事を一方的に嫌っているのは有名な事だ。
 シャイナと違って、魔鈴は生来の才能に恵まれていなかった。だが彼女は、ある説においては最も重要であるとされる“智”の修行を誰よりも行なっており、小宇宙の絶対量をとにかく増やす事に専念した。そしてその結果、彼女は本気を出せば誰にも読む事の出来ない無の境地、セブンセンシズに肉薄した所まで達することが出来るようになった。
 才能のなさを小宇宙の絶対量を増やす事で補った魔鈴は、一撃が重い。よって一撃必殺を基本とし、拳よりも数倍力を込めることが出来る蹴り、しかも飛び蹴りという最も威力のある蹴りを必殺技にする事を選んだ。だがそれだけではやはり限界があり、アイオリアに教えを乞うて、ライトニングプラズマを元にした流星拳を編み出した。今では星矢の方がより効果的に使えている技ではあるが、流星拳のルーツはここにある。
 才能至上主義であるシャイナの目には、魔鈴は才能のない日本人の分際で、才能の権化とも言える黄金聖闘士の男に媚びて技を手に入れた女と映ったのである。その上“智”の修行によって静かな湖面のようなものに研ぎ澄まされた彼女の性格は、シャイナにとって取り澄ましているように感じられ、殊更気に入らなかった。
 才能を認められて候補生に取り上げられたシャイナたちと違い、ひたすらの努力であとから白銀聖闘士候補に食い込み、しかも魔鈴が本当に鷲座イーグルの聖衣を獲得してしまってからは、尚更そうだった。
「……まあ、今だって気に食わないのは変わらないけどさ。もうそんなこと言ってたってしょうがないだろ」
「少しは成長したようだ」
「うるさいよ」
 シャイナは、苦々しく言った。いつもの彼女らしい態度だ。アイオリアは僅かに笑む。
「まあ、星矢たちに味方してるのは確かなんだから、その為に動いてるんだろうけどさ。あいつ、なんだかんだで星矢に甘いし」
 吐き捨てるように、シャイナは言った。シャイナはカシオスに対して、才能がある故の信頼があり、その範囲でギリギリの修行を課した。しかし魔鈴は、自分と同じように才能のない星矢に対し、死にそうな修行を課しつつも、絶対に死なせなかった。それは例えば、壮絶な修行のあとの手厚い手当であったり、どうしても疲れている時は座学の授業に変更したりするやり方であったりする。
「無理をして身体を壊したら、どうしようもないだろう。魔鈴のやり方は適切だ。それにあれは甘いんじゃなく、優しいと言うんだ。教えを授けるものは、強くあると同時に優しくあらねばならないのだから」
「惚気は結構だ」
「なぜそうなる。見たままを言っているだけだ」
 アイオリアは怪訝な顔をしたが、シャイナといえば、天然ってどうしてこう質が悪いんだろう、と心底うんざりしていた。
「多分魔鈴は、……真実を確かめに行ったんだろう。戦いの最中に重要な事が有耶無耶になってしまうことは避けたい」
「知らないくせに、やけに自信ありげだね」
「あれはそういう奴だよ」
「……あんたたちのさあ」
 シャイナは、じろりとアイオリアを見た。仮面をしていても、誰にもわかるほどにわかりやすく。
「そういうとこが、すごくうざい」
 絶句するアイオリアに対し、シャイナは背を向けた。一方通行の思いを抱える者にとって、お互いに何もかもわかっている、というような彼らははっきり言って目の毒だ。しかもお互いにあくまで自然体でそうであり、おまけに恋人を名乗らない辺りが更に神経を逆撫でする。
 ただの妬み嫉みだという事は自覚しているが、むかつくものはむかつくのだ。
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Annotate:
次の話を読む前に、【Children's corner - 子供の領分】の星矢・アイオリア・魔鈴の短編『グラドゥス・アド・パルナッスム博士(全3話)』をお読み頂けると、なお一層お話が盛り上がって楽しめるかと思います。もちろん読む順番は自由ですが、書き手より、ご参考まで。
BY 餡子郎
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