第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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地中海に浮かぶ、無人の火山島。
常に噴煙を立ち上らせ、開発などひとつもされておらず、獣道でさえ存在しないカノン島に、一般人らは決して足を踏み入れようとはしない。だがそのカノン島、しかもその噴煙の中に、彼は居た。
一目でアジア人とわかる顔立ちをしてはいるものの、同時に彫りが深く、とてもはっきりした造作をしたその表情は険しく、いかにも手入れをしていない髪の間から見える眉間には、深い皺とともに、斜めの傷がくっきりと刻まれている。肌はよく日に焼けて、既に浅黒いを通り越していた。
彼──一輝は今年で15になるが、しっかりと鍛えられた体格も含め、見た目だけなら、少年という表現はとても当てはまらない。青年というのが妥当だろう。
聖闘士になろうとするものは、例外なく、過酷な修行を強いられる。まず身体を壊す確率はかなり高く、そうでなくても、心の弱い者なら精神を病むであろう修行。そしてそんな経験を経て小宇宙が目覚めると、今度はその小宇宙によって肉体の発育は早まり、強化され、また同じく脳の成長も著しくなる。つまり、精神年齢が非常に急成長するのだ。
よって、聖闘士たち自身にあまり自覚はないであろうが、だいたい、実年齢に5歳から10歳くらい上乗せして初めて、一般人の感覚と釣り合うくらいとみていいだろう。しかも、武術の修得や精神鍛錬によって磨かれたものを除いて、である。
そして一輝は、そんな聖闘士としての平均以上に大人っぽい雰囲気を纏っている。噴煙の中にどっかと腰を下ろしながらも360度隙のない様子は、繊細に磨き抜かれたというよりも、刃によって乱暴にこそぎとったが故の鋭さがある。ささくれて毛羽立った精神は荒々しく、近寄り難い。
そしてそれは、彼が聖闘士としても厳しい環境で力をつけてきたからに他ならない。最近の一連の経験で、彼は己だけが辛い思いをしたのではないと考えを改めているが、実際は決してそうとは言えない。それは彼にそう思わせた弟・星矢とてわかっているのだが、そういう究極とも言える謙遜によって、彼本来の、無骨で、古風で、愛すべき性格が戻ってきている現状から、わざわざ訂正しないだけだ。
その証拠に、傷つき、ささくれ、周りの者を傷つけてその痛みを晴らそうとしていた彼は今、その精神をゆっくりと立て直しつつある。
しかし、癒すよりも研ぎ澄ます事で精神の平定を得ているというのは、弟たちに言わせれば、何とも一輝らしい。笑みも誘うが泣きたくもなる難儀な性格をしたこの兄を、弟たちは愛している。母を同じくする瞬は、特にそうだ。
「…………」
一輝は、ゆっくりと呼吸をし、己の中を巡る血流、気、そして小宇宙の流れを整えている。
小宇宙による負傷は、単なる物理的なものとはわけが違う。今回食らった氷河からの負傷もそうだ。普通ならただ温めれば凍傷は防げるが、小宇宙によるものだとそうはいかない。ちょっとやそっとでは溶ける事のない小宇宙による氷は、湯に浸すぐらいでは逆に湯の方が凍ってしまうのだ。
小宇宙によるダメージは、外部から小宇宙を送ってもらうヒーリングか、自らの小宇宙によって打ち勝つかして、普通の怪我の状態まで持って行く他ない。
そしてヒーリングは熟練者による高度なテクニックのひとつであり、弟たちはおそらくその存在もよく知らないだろう。それが出来る知り合いにももちろんアテのない一輝は、氷河の助言に素直に従い、己の小宇宙を一時的に活発にする効果のあるカノン島へやってきた。
「何か用か」
一点を見つめたまま、一輝は静かに言った。その声もまた、15とは思えない堂の入り方である。この声で恫喝されたら、一般人なら腰を抜かしてもおかしくない。
「鬱陶しい。用がないなら失せろ」
「そんなに邪険にしなくとも良いだろう」
背後の自分を気にしつつも、広げて座った膝に腕を突き立て微動だにしない、そして小宇宙もひとすじと乱れさせない一輝の末恐ろしさに、ニコルは感心半分苦笑した。精神が弛み切った都会の人間では、たとえ道場師範であろうと、今の一輝ほどではないだろう。
彼の母が古武道の道場の娘であり、また彼もごく幼い頃から孤児院に送られるまで手ほどきを受けていた事は、ニコルも知っている。彼の母が死ぬと同時に彼と弟の瞬を厄介者と見なした道場師範──つまり彼らの祖父は彼らを手放したが、今の一輝を見るに、彼はとてつもなく有望な才能を持つ跡取りをまんまと逃したということになるだろう。瞬とて、聖闘士の中では心優しい性格で特別視されがちだが、あの容姿もあるし、一般社会では沖田総司の再来くらい言われていても何らおかしくない。
そしてニコルもまた、普通なら数分で熱中症を起こし脱水症状で意識を失っているだろうこの噴煙の中、あろうことかスーツを着込んでネクタイを締め、それでいて汗一つかいていない。短いブルネットの髪も、ひとすじたりと乱れていなかった。ここまで来ると、異様な光景である。
「……それが、不死鳥星座フェニックスの聖衣か」
一輝の纏うそれを見て、ニコルは深く沈み込むような声で言った。
青銅聖衣はその名前とは裏腹に様々な色彩で構成されている事が多いが、フェニックスの聖衣は主に橙色をした聖衣だった。その名の通り、不死鳥の尾をそのまま象った、後ろの長い飾りが特徴的だ。猛々しさと神秘、雄々しさと優雅さが同居したその姿は、青銅聖衣でありながらその範疇に収まらぬという評価が事実である事を示していた。
「だから、何だ」
「いや、その聖衣には思い入れがあってね」
一輝が見ていないのをいい事に、ニコルは泣きそうな顔をした。苦々しい、と言い換えてもいい。
「君の師匠は、その聖衣を手に入れたがっていた」
「アルターが手に入らなかったからな」
即答でそう言った一輝に、ニコルは、正直驚いた。まさか一輝が知っているとは思っていなかったからだ。
「そうだろう、祭壇座アルターのニコル」
「……なぜ」
「あの男が言っていた。魘されるように」
一輝の声は重く、そして今にも爆発しそうな熱が籠っていた。──耐えている、という事を、ニコルは今気付く。噴火しそうな感情を抑え、一輝は精神を鍛えようとしているのだ。同じような感情を沸き上がらせているニコルは、素直に頭が下がる思いだった。
「あの男は強かったが、頭がおかしかった」
最悪だ、とはわざわざ口に出さず、一輝は出来るだけ淡々と言った。
一応一輝の師であるギルティは、妄執にとらわれた狂人だった。比喩的な意味でなく、どの医者に見せても気違いと診断される病人という意味でである。やる事為す事一貫性がなく、妄想や幻覚を見て暴れ、禍々しい面を絶対に外さない。会話が成り立った事は殆ど無かった。
「正気を失った狂人の言う事で理解出来るものは少なかったが、あまりにも繰り返すので把握出来る事もあった。アルターの聖衣の事と、貴様の事と、フェニックスの聖衣の事、そしてあの男の事」
「光政翁の事か」
初めて、一輝の小宇宙が僅かに乱れた。炎がひとすじ舞い上がったような熱。
一輝が戦う様を、ニコルは直接見た事はない。しかし彼の小宇宙が、フェニックスの聖衣に相応しい炎熱の性質を持つものだという事は知っている。
肉体が体温という熱を持つのと同じく小宇宙には元々熱があるが、発火の域にまでは達しない。炎の性質を持っている事と小宇宙のもと元の熱量は、全く別の次元の力なのだ。それこそが、フェニックスの聖衣に今まで一人も持ち主がいなかった理由でもある。生き字引とも言うべき天秤座ライブラの童虎によれば、フェニックスの聖衣を纏うことができたのは、一輝が初めてだという。
炎や熱の性質を持つ小宇宙は、珍しい。黄金聖闘士の中でも、発火能力を持つ者は居ない。白銀聖闘士の一人、ケンタウルス星座のバベルは炎を扱うが、あれは空気の摩擦熱で生んだ炎にすぎず、一輝のものとは根本的に違うのだ。
一般に、炎の発生には酸素が不可欠とされる。しかし一輝が生み出す炎は、発生に酸素を必要としない。科学史上のひとつの考え方として、燃焼は、燃える土とも呼ばれる燃素(フロギストン)という物質があらゆる可燃性物質の中に含まれており、燃焼はこれが他の物質と分離し放出される過程での現象だと説明される、フロギストン説という考え方がある。ちなみに、フロギストン、とはギリシア語で「火を灯す」という意味だ。
ドイツ人科学者のベッヒャーが提唱したこの説は決して非科学的ではないものの、現象をより有効に説明する酸素説が提唱されたことで淘汰され忘れ去られていったが、一輝の炎はその小宇宙自体を燃素として生み出されるものと言える。
「その名を出すな。虫酸が走る」
火山にも劣らぬ程の熱気が、一輝から感じられる。強い憎悪などの感情はしばしば炎に例えられるが、一輝の場合は例えでもなんでもない。フロギストン説が一輝に当てはまるのであれば、彼の小宇宙は身体から離れ、放出された時点で炎に変化するはずだ。それが熱気に留まっているというのは、彼が感情によって迸りそうになっている小宇宙を押さえ込んでいるからだ。大した精神力である。
「まだあの方が許せないかね」
「許せると思うのか」
「思わないとも。君の感情はまっとうだ」
真っ赤に焼けた鉄のようになっている一輝に、ニコルは言った。
「光政翁は非人道的極まる行為を為した人だ」
「…………」
「だが私には恩人であり、沙織お嬢さまにとってはかけがえのない祖父だった。それは覚えておいて欲しい」
「そんな義理などない」
あまりにも余地のない即答、しかも筋の通ったそれに、ニコルは表情に出さないながらも、ぐっと詰まった。一輝は己の魂の傷から沸き上がる凄まじい熱に耐えながら、じりじりと言った。
「あの男は俺にとって殺しても殺し足りん男で、それ以外はどうでもいいことだ。貴様等がどう思っていようが知った事ではない」
「しかし」
「黙れ加害者」
メルトダウンを起こしそうな小宇宙が、噴煙の中に満ちる。
「あの男に限った事ではない。貴様も、城戸沙織も、俺たちを地獄にたたき落とした加害者だ。女神の為だろうが平和の為だろうが、貴様らが90人もの子供をいたぶり殺した殺人犯であることは正当化などされんのだ。少なくとも俺はしてやらん」
「…………」
「あの男が生きていたら、俺は弟たちにどう思われようと絶対に殺したし、永遠に後悔などしない。貴様等にも同情しない」
どんな事情があろうと、意思を持って罪を犯した加害者に同情の余地などない、と一輝は言外に強く言った。ニコルは目を伏せる。
「……否定はしない」
「だが、見苦しい言い訳ばかりだ」
凄まじい憎悪の籠った皮肉が、ニコルの内腑を焼き焦がすようだった。
「真実も言わない。貴様、あの男が俺たちの父親である事を隠し通そうと思っていただろう」
「…………」
「まさかそうして事実を伏せる事が、俺たちへの慈悲だと思っていたのではあるまいな?」
図星だった。ニコルは黙る。沈黙する事が、彼に出来る精一杯の誠意だったからだ。
「ガキだと思って舐めるのもいい加減にしておけ。それが俺たちを格下に見ているが故の傲慢である事にも、そしてその隠蔽がまた罪のひとつになっていることに気付いていないとは言わせんぞ。殺し、それを隠し、更に隠蔽し、ついにばれたら“私たちにとっては必要な事だったのです、わかって下さい”か? 寝言は寝て言え」
「…………」
「……貴様らは、どこまで傲慢になれば気がすむ」
はあ、と、一輝は深い軽蔑と諦めの籠った息を吐いた。
「子供の頃から、城戸沙織は傲慢だった」
一輝は現場に居なかったが、星矢たちを馬に見立てて這わせ、その背に乗って尻を鞭打って遊び、笑い声を上げていたと聞いた時、一輝はあまりのことに、すぐ意味を理解することが出来なかった。そして沙織たちは自分たちの事を同じ人間としては見てはいないのだという事を、深く思い知ったのである。
「だが、それは」
「しかも、あれは環境によるものではない。生まれつきだ」
先回りして断言され、ニコルは怪訝な顔をした。
「何故そう言い切れる」
「もし、例えば下劣な誘拐犯かなにかに勾引されて暴行を受けようとしているとしよう。貴様らが助ける事は不可能だ」
例えば、と言いつつも考えたくもないそれに、ニコルは眉を顰める。だが一輝は淡々と続けた。
「そして犯人たちは、金を払えば、もしくはその身体を差し出せば、犬のような振る舞いをすれば命だけは助けてやる、と言うかもしれない。だがあの女は、絶対にそんな事はしないだろう」
「……そうだろうな」
誇り高い方だから、と言いかけて、ニコルは一輝の言いたい事を悟った。
沙織は誇り高い。それは、女神アテナとしてこれ以上なく相応しいものだ。その性質が環境によるものではなく生まれもってのものだという事はニコルも彼女の側で何度も体験しており、それ故に彼女を従うべきカリスマとして敬っている。
彼女の誇り高さは誰に対しても変わらぬ態度であり、ある意味分け隔てがない。だが相手によって変化しない誇り高さは、時に弱者に対しては傲慢極まる態度となる。
「奴隷が合法である土地には、奴隷を持つ事に罪悪感がない。己が上位だと思い込み切っているからだ。そして城戸沙織は生まれながらにして王者のような性質を持っている。時に慈悲も見せるかもしれんが、それはあくまで上位者としてのものだ」
王者が膝を折り、泥に汚れるのも厭わず弱者を抱き上げる事などない。高見から食い物や金を投げ配るのが王者の慈悲なのである。
優秀な王は、民衆の居ない王はただの傲慢な阿呆に成り下がるだけだという事を知っており、それ故に民衆たちにより良いものを提供しようとする。子供の頃の沙織はそれがなかったので、ただの傲慢な子供にすぎなかった。今はどうだか知らないが、とりあえず弟たちを兵隊として雇う事には成功したようだ、と一輝はせせら笑う。どこまで維持出来るか見物だ、と。
結局の所、女神という肩書きがついたので傲慢さが誇り高さと言えるようになっただけであり、沙織の本質はあの頃と何一つ変わっては居ない、一輝はそう思っている。
「それをまるっきり悪いとは言わん。誇り高い事は美徳でもあるし、王は時に群衆にとって必要になる。しかし俺たちにそれは理解出来ないし、する気もない。特に俺には必要ない」
「王者は孤独でしかるべき、と?」
「いちいち美しく言い換えるな、鬱陶しい。ただ、見えない所で勝手にやっていろというだけだ」
本当に鬱陶しそうに、一輝は言った。
「俺たちは、血反吐を吐く思いをして聖闘士になった。それは、貴様らの奴隷になったという意味ではない」
「わかっている」
「どうだか。戦争で死んだ民衆など、王にとっては、良くても数の損失にすぎない」
「決めつけないでくれ。お嬢様は神であるが、人間でもあ」
「では、90人の子供の名前を言ってみろ」
一輝がさらりと寄越した言葉に、ニコルは今度こそ絶句する。すると、一輝はわかりきっていたとでもいうように、フッと鼻で嗤った。
「そらみろ。貴様らの謝罪など所詮そんなものだ。王を悪者にしない為の、政治的な建前としての謝罪にすぎん」
「…………」
「玉座の上で謝られたところで許すどころか余計に憎たらしいだけだという事を、あの女は根っから理解出来ない頭の持ち主なのだ。誇り高く、そして傲慢であるが故に」
だが、それ故に王たり得る。そういう個人の心情を理解できる王もいるが、王として優秀であればあるだけ、決して頭を下げる事はない。威厳が保てぬからだ。
「王として、女神としての誇り高さを捨てて、あの女が地面に降りて頭を下げる事など、永遠にない。そして俺は、永遠に貴様らを許さない」
「……どうしても?」
「理解しあえないのでは努力のしようもない」
一輝の声は冷静だが、しかしその身から溢れる小宇宙は、やはり灼熱のごとしだった。
「ついこの間まで、俺は貴様等と同じ上位のもの、大勢を治める王になろうとしていた」
「暗黒聖闘士か」
「そうだ。貴様等以上の位置に上り詰め、そうして下のものを踏みにじる事で憎しみを晴らそうとした。目には目を、歯には歯をきっちり返してやる、思い知れ、と」
はっ、と一輝は強い自嘲を零した。
「俺は憎しみに取り憑かれ、貴様等と同じものになることでやり返そうとしたのだ。実に恥ずべき事だ、顔から火が出る」
己を蔑みつつニコルらを更に罵倒するその言葉は、胸ぐらを掴んで引きずり込むような荒々しさだった。
「だが、弟たちのお陰で目が覚めた。だから俺はここまでそちらの事を考え、殴り掛かる拳をおさめ、“生まれつきこういう輩なのだから仕方が無い”というところまで考えが至った」
今こうして話している事も含め、それが精一杯の譲歩、妥協という精神的な努力だと、一輝はきっぱりと言った。
「とにかく俺は、そして弟たちも多分もう、貴様らに謝って欲しいという気はない。謝ってもらった所で建前でしかなく、貴様らが俺たちの望む罪の意識を持つ事などどうやってもあり得ないのだという事を理解したからだ。正しい理解だ。そうだろう?」
ニコルは何も言わなかった。反論の余地がなかったからである。
「俺たちはもう貴様らに一切期待しない。期待するだけ無駄だと理解したからな」
「祈らない、と?」
「そうだ」
一輝の背は、微動だにしない。ただその内側にある熱が溶岩のように蠢いており、それを押さえようとしていることだけが、彼の唯一未熟らしいといえる部分だった。齢15にして、一輝は既に殆ど完成されている。皮肉にも、父による、そして神による過酷な仕打ちの中での悟りによって。
「俺はもう、父にも神にも祈らない。望みがあるとすれば、ただ邪魔をしないでくれと、見えない所に消えてくれと思うだけだ」
行く所まで行った感情は、熱を失い無になるということを、一輝は悟った。愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。憎しみを抱いていた頃は、一輝もまだ父や神に期待をしていたのだと、一輝自身わかっている。しかし彼は今、そう思っていた事を恥じてすら居た。
だから一輝は、己の中で渦巻く熱を鎮火する事こそが、父に、神に、そして己に打ち勝つ道なのだと、はっきりと見出していた。無関心で居る事、彼らに何も求めない事こそが虐げられない無敵の道なのだと。そしてそれは間違っていない。
「だが貴様等は、まだ足りないらしいな」
「…………」
「謝罪どころか俺たちに力を貸せと要求し、隠蔽がばれれば事情を理解してくれと開き直り、どうしても許してくれないのかと非難がましく睨みつける。王者の厚顔としても度が過ぎている。恥を知れ」
「わかっている。だが我々には力が必要なのだ」
今度はニコルも、きっぱりと言った。
「沙織お嬢様が、女神アテナが君たちに頭を下げる事は確かにあり得ない。あってはならぬからだ。そして光政翁も既に亡くなった」
「…………」
「だから私が代わりに頭を下げよう。90人の子供たちの名前を、毎日唱えよう。決して忘れない。それが私に出来る精一杯の供養だろうから」
煙が動いた。それがなくても、気配を読む鍛錬を積み、しかも小宇宙を高める効果のあるカノン島に居る一輝には、背後でニコルが膝をつき、頭を下げている事がわかった。だか一輝は、振り返らない。言った通り、興味がないことを示す為だ。
「確かにこれは私のエゴだ。理解してくれとも、もう言わん。聞き流されても仕方が無いが、悪い事をした、とは思っているんだ」
しかし、仕方のない事だった、ともきっちり思っている。それを見抜いているが故に一輝はやはり振り返らず、頭を下げるニコルを見ない。見ない事で、彼の行為を単なるエゴという範囲から出さなかった。謝罪すらさせない冷徹さは、これ以上なく堅牢だった。
だが、ニコルは形振り構わなかった。神に生け贄を捧げる祭壇を象ったアルター、その星の下、彼は90人の子供を捧げた。そしてアルターの使命を背負った彼は、己のプライドを祭壇に掲げる事にも躊躇いはなかった。既に30代も半ばの身で、その半分も生きていない一輝に土下座をする事さえ、彼は一切厭わない。
しかし、一輝の身体から発される熱は、下がる一方だった。彼の心を冷ましているのは失望という冷やかさであり、大人に対する更なる侮蔑であった。誰にも頼らぬアウトローであろうとする反面でどうしても崇高さを求める、彼の唯一15の少年らしい感性を、ニコルは感じ取れていないのかもしれない。忠実な女神の戦士である故に。
「いま女神アテナは刺客が放った黄金の矢に射抜かれて倒れ、星矢たちがそれを救う為に十二宮に昇っている。力を貸して欲しい」
「あの女が死のうが生きようが、俺の知った事ではない」
「…………」
「だが」
凛と熱い声で、一輝は言った。
「俺は決して、貴様らやあの男のようにはならないと決めた。だからこそ俺は行く」
幼い息子たちを地獄へ送り、それを神への尊い犠牲だと言った父。それと同じものにだけはなってなるものかと、一輝は初めて拳を握り締めた。
「俺はあいつらの兄だ。兄として、あの男のように弟たちを見捨てる事だけは、俺は絶対にしない。いま死地に居る弟たちを助けるために、俺は行く。決して貴様らの為ではない」
「ああ、それでもいい」
結果的に、利害は一致する。ニコルは己の魂の端、聖域を出てからずっと冷め切ったままの部分がそう呟くのを感じた。この冷徹な一部がある限り、自分が一輝たちに本当の意味で誠実な謝罪が出来ない事もまた、自覚している。しかしすっかり壊れてしまったそこは既に血が通う事はなく、そしてその部分があるからこそニコルは非情に徹し、神に生け贄を捧げる事に躊躇いを持たずに居られるのだ。
「時間がない。ヒーリングをしよう、その分だと回復する頃には全てが終わってしまう」
「…………」
「ヘリを待たせてある。ここにどうやって来たのかは知らないが、テレポートはまだ十分には使えんのだろう? 聖域まで送って行く」
一輝は、嫌そうに顔を歪めた。ニコルの言っている事が事実だったからだ。
凍った腕は、未だ完全に治ってはいない。随分ましになっているし、腐って落ちる心配はもうない。だがやはり、星矢たちの元に駆けつけるには間に合わない。
すぐに処置をしなかったにもかかわらず大事ないのは、一輝が非常に自己治癒力に優れているからだ。実際、氷河は七日七晩身を置けと言ったが、ここまで回復するのに一日もかかっていない。不死鳥に相応しいのは炎熱の小宇宙だけでなく、“勇”に属する身体強化に優れ打たれ強いという所も含まれる。フェニックスの聖衣もまた、全ての聖衣の中で唯一自己修復機能を持ち、それこそが、黄金、白銀、青銅の枠に収まらぬ特別な聖衣と言われる所以である。
まだ母が生きていた頃から、彼は小宇宙への覚醒の兆候があった。それは黄金聖闘士と同じように生まれつきの才能という他ないものだし、そして古武術を習う事によってそれをコントロールする術を身につけることが出来たのもまた、天性のセンスがあったからこそだ。そのままであれば恵まれ過ぎた才能でむしろ彼は伸び悩んでいたかもしれない、とすら考えられる。しかし彼はデスクイーン島に送られ、そして命のかかった努力をせざるを得ない状況に陥った。皮肉な事に、その過酷な環境こそが、彼の才能を凄まじく飛躍させたのだ。
生まれ持ったパワーを最大限まで伸ばし、血を吐くような努力でテクニックを磨いた彼の実力は、その身に纏うフェニックスに相応しく、青銅聖闘士という枠にはとても収まらない、誰が見てもきっとそう言うだろう。
また、超能力関係の技は、一輝も得意だ。それは、聖域内で噂になっている僅かな情報のみで幻朧魔皇拳を模倣し、鳳凰幻魔拳という非常に高度な技を完成させたことだけでもあきらかだ。さらに、つい先程も追っていた弟たちの小宇宙のうち、瞬に非常に攻撃的な小宇宙が向いたので、急遽小宇宙を燃焼させて飛ばし、妨害した。このときかなりの力を使ったので、腕の回復が遅れた、というのもある。
炎熱という非常にレアな性質、巨大な小宇宙を生まれ持ち、そして更に古武術を基礎とする身体強化に優れた一輝は、仁・智・勇のバランスに優れた非常に優秀な戦士と言っていい。さらに繊細なコントロールを必要とする鳳凰幻魔拳を完成させるまでの生来の器用さは、才能を暴走させる事なく伸ばしている。
──要するに、一輝は天才だった。だがそれでも、彼は若い。故に、万能ではない。
はあ、と、一輝は溜め息を吐いた。力及ばぬ己に対する憤りを発散させる為の息である。
それを合図として、ニコルが立ち上がり、一輝の右側に立つ。驚くべき事に、凍傷はもう半分以上治っていた。放っておいても半日もすれば治りそうだが、ニコルがヒーリングを施せば、一時間もしないうちに完治するだろう。そうすれば、星矢たちが処女宮に着く頃には一輝を聖域に送り届けることが出来る。
ニコルが手を翳し、一輝の小宇宙に同調し、小宇宙を送り込む。
どんどん傷が治っているにも関わらず、一輝は凄まじく不快そうだった。無理もない、小宇宙を分け与えるヒーリングは輸血にも似た直接的な回復法であり、知らない相手だというだけでもあまり受けたくないものだというのに、それが最も厭わしい人間の一人であれば、その不快さはかなりのものだ。
しかし、一輝は、耐えた。この不快さは己の力が及ばぬせいであり、また弟たちを助けるために耐えねばならないと割り切ったからだ。ただ、更なる鍛錬で二度とこのような事がないようにしようと強く誓う。これが、己の傷を慰めるより研ぎ澄ます事で克服しようとする彼の性格だった。
「……ひとつ、聞いていいか」
大急ぎでヒーリングを進めながら、ニコルは言った。噴煙の中汗一つかいていなかった彼であるが、繊細なコントロールを必要とするヒーリングの為に集中しているからか、ブルネットの髪の生え際が、薄らと濡れ始めている。
「奴は、……ギルティは、死んだのか」
「殺した」
死んだ、ではなく、殺した、と、一輝は即答した。90人の子供の事を、決して自分たちから殺したと言わないニコルらへの皮肉であろう事は、ニコルとてわかっている。
ふと、ニコルは彼を見上げた。しかし一輝は相変わらず前を見据えたままで、ニコルの事をちらりとも見ようとはしない。
「俺が、この手で、殺した。心臓をひと突きにして」
「…………」
「悔しいか」
言われて、ニコルは歯ぎしりをしたいのを堪えた。叶うなら、この手で殺してやりたかった。トニと自分を陥れ、人生を狂わせたあの男を、憎悪をもって殺してやりたかった。
だがギルティは、狂っていたのだという。何も悔いては居なかったのだという。一輝に殺された時でさえ、笑っていたのだという。
「…………」
やりきれなさに乱れそうになる小宇宙を、ニコルは必死に堪えた。元々反発性のある小宇宙の波長を同調させる事で分け与えるヒーリングの最中、波長をずらしてしまったら、回復どころか内部から組織を破壊してしまう。
ニコルは初めて、この大人顔負けの少年の気持ちを、建前だけでなく、心から、冷えきって血も通わなくなった魂の底から理解した。殺しても殺し足りない相手が既に死んでいたという虚無感、しかも苦しまず、笑って死んでいったのだという凄まじい憤り。
人が他人の事を思いやるには、想像力と感受性が不可欠になる。自分だったらどうする、そういう想像をリアルに出来、なおかつそれに自己投影できること。優しさや慈悲にも通じるその機能は、聖闘士になる過程に置いて削ぎ落とされてしまいがちだ。そしてその礼に漏れず、ニコルもそうである。
その冷徹さが、アルターとして非常によくはたらいた事も数知れない。しかしこうして同じ目にあってでしか相手の事を理解出来ない想像力のなさを、心の貧しさを、ニコルは久々に恥じた。
「……すまない」
謝らずにはいられなかった。こうしてきちんと理解してなお、まだ“しかし、仕方が無かった”という思いが消えていない事を含め。
「俺は、俺の兄弟たちの名を決して忘れない」
一輝は、ニコルを見ない。しかし、ただひとりごとのようにそう言った。
「今でも言える。顔も思い出せる。俺の部下になったデスクイーン島の奴らの事も、同じだ。だが、俺の未熟さのせいで奴らは死んだ。だから俺はもう二度と、何かの上に立つ事はない。それが責任というものだ」
その言葉に、ニコルは、一輝に沙織と似たようなものを見た。人の上に立つ才能、カリスマ、民衆を引きつけてやまない誇り高さが、彼にはあった。むしろ一度失敗している分だけ、経験の面では沙織よりも深いものを持っているかもしれない。
「俺は群れない。これから先、俺はひとりで道を行く」
王の資質を持ちながらにして王の座を自ら降りた不死鳥は、本当の意味で孤独の道を行こうとしていた。それは華やかな王道ではないが、孤高という、紛れもなく誇り高い道だった。殉教者にも通じるほどの、厳しい道。
一輝は、まっすぐに前を見据えている。今にも爆発しそうな熱を抱え、それでも彼は、最後まで微動だにしなかった。