2 Jumbo's Lullaby(象の子守歌)
<1>
 くじ引きの時、ただでさえ無駄に恐ろしげな顔をした辰巳たちの口から発されるのは、この世の地獄だ何だのという、至極物騒な事ばかりだった。だから紫龍は自分はどんな酷いところに送られるのだろうかと内心びくびくしきっていたので、辿り着いた先が自分の修行地だという事を理解するのに、間抜けにも結構な時間がかかった。
 そのくらい、五老峰は美しく、雄大で、穏やかな場所だった。



「今度、聖闘士になる為にはるばる日本からやって来たのは、おまえかな」
「はい、紫龍です!」
 最初見たときは雄大すぎて腰が抜けそうになった大瀑布の前に座す小さな老人に、紫龍は精一杯の大声で返事をした。でなければ、滝の音で掻き消されてしまいそうだったからだ。
 しかし、普通の音量、いやむしろゆったりとして静かなはずの老人の声は、必死に張り上げた紫龍の声よりも不思議と通り、よく聞こえた。
「聖闘士になる為には想像を絶するつらい修行が必要じゃが、耐えられるかの、紫龍とやら」
「はい! 強くなる為ならどんな事にも耐えてみせます、俺は強くなりたいのです!」
 脅し文句とも取れる問いかけに、紫龍は用意していた言葉でもって、必死に声を張り上げて返事をした。
 ──はるばるここまで来たのだ、何としてでも弟子にしてもらわなければ。
 そんな風にして紫龍がずっと張っていた緊張の糸を断ち切ったのは、クスクスと密やかに笑う声だった。
「?」
 きょとんとして紫龍が振り向くと、背後にある大きな木の影に半分身を隠して未だくすくすと笑っている、黒目がちの大きな目が特徴的なお下げの女の子が居た。

 少女の名前は、春麗といった。
 春麗は生まれて間もない赤ん坊の頃、この盧山に捨てられていたのを童虎老師に拾われたのだと、紫龍は本人から、ごく軽い調子で聞いた。滝の前から動かない老人がどうやって山中の赤ん坊を拾ったのだ、と後々になってから紫龍は気付いたが、それは最早永遠の謎である。

 簡単にお互い自己紹介をしたあと、彼女はまず、ややいきなりここに来ることになった彼の為に、老師の邸の一部屋を素晴らしい手際の良さで掃除し、半日ですっかり整えてしまった。おまけにその晩の夕食はおかずが4つもあって、紫龍は感動を通り越して唖然とした。生きるか死ぬかの覚悟をしてきたというのに、個室を宛てがわれ、暖かい手料理を振る舞われたのだ。拍子抜けもいいところである。

 そして春麗の用意した部屋の寝台で眠りに着き、目を覚ました紫龍は、目の前に広げられたものに、呆然と立ち尽くした。
「…………」
「どうしたの、紫龍」
 目の前に並ぶのは、とても美味そうな、湯気の立つ朝食。どうぞ召し上がれと言っても、食卓をじっと見つめて微動だにしない紫龍に、春麗は訝しげに首を傾げた。
「なあに、きらいなものでもあった? だめよ、すききらいしちゃ」
 先輩ぶってそう言ってみたが、紫龍は俯いて唇を噛んだまま、椅子に座ろうとしない。不安になってきた春麗は食卓の脇を通って、心配そうに紫龍に近寄った。
「どうしたの? おなか痛いの? 老師に言ったほうがいい?」
「……ちがう」
「おなかじゃないの? あたま?」
「どうして、」
 絞り出すような声は、震えていた。
「どうして春麗は、」
「うん」
「俺に、……」
 紫龍の声はとても不明瞭だったが、春麗は一生懸命それを聞き取った。そしてぼそぼそと話すのを解読したところ、なんと彼は、自分に寝床や食事が与えられるのが不思議らしいという事を理解した春麗は、また目をぱちくりさせて、リスみたいな表情になった。
「だって紫龍、あなたはここに来たばかりで疲れているだろうし、それに、おなかがすいているでしょう」
「そうだけど、でも、俺は何も持っていないし、していないよ」
「……ええと。それってつまり、どういうこと?」
 紫龍が気を悪くしないように、春麗は精一杯気を使って尋ねる。紫龍は更に俯き、またぼそぼそと言った。
「……俺はお金も持ってないし、何も役に立つ事をしていない」
「そんなの!」
 春麗は心底吃驚して、これ以上大きくならないだろうというくらい目を見開き、そして、気がついたら大声を出していた。
「紫龍はここに来たばかりなんだから、何もわからなくたってしょうがないわ。それにお金なんているはずないじゃない、だって紫龍はうちの子だもの!」
「えっ……」
 春麗が高い声で言った言葉に、紫龍は初めて顔を上げた。その表情は、先程の春麗に負けず劣らずのびっくり顔だった。
「紫龍は、老師のお弟子になったんでしょう?」
「……うん」
「ならうちの子だわ。家族にはお金なんてはらわないものよ」
 にこにこして言った春麗に、紫龍はぽかんとしている。
「それに紫龍は、聖闘士になるんでしょう? 今日から修行が始まるし、ええと、“はらがへってはいくさはできない”、って老師がいってたもの。おなかがすいていたり、眠かったりしたらちゃんと修行出来ないでしょう」
「……うん」
「あのね、私の仕事は、紫龍が修行をするときに、ちゃんとおなかがいっぱいで、眠くなくて、疲れていないようにすることなの。そう老師に言われたわ。だから紫龍はなにも気にしなくったっていいのよ。あっ、でも、薪割りと掃除と、あと畑の世話は出来るようになってほしいな」
 言うべき事を全てきちんと言えた、と満足した春麗は、とてもにこにこしている。紫龍はぽかんとした顔で暫くそんな春麗を見ていたが、ふと、また俯いた。
「……紫龍? どうしたの?」
 急にまた俯いてしまった紫龍を、今度はどうしたのかと春麗はもう一度覗き込む。そして見えたものにぎょっとして、飛び上がるようにして叫んだ。
「どうして泣いてるの!」
 着ている服のみぞおち辺りの布地を両手で握り締め、紫龍はぼろぼろ涙を零していた。泣いてしまったのは不本意だったのか、必死に声が出ないように堪えている。しかし我慢をしている分だけ、顔が耳まで真っ赤だった。
「どうしたの!? そんなに薪割りがいやなの!?」
 春麗はおろおろして言ったが、紫龍はぶんぶんと首を横に振るだけだった。
「だいじょうぶよ、薪割りだって掃除だって、最初は私がちゃんとてつだうわ! 畑仕事だって、慣れればきっと楽しいし、あのね、とっても甘い大根が採れるの。紫龍、大根好き?」
 春麗は、最早必死だった。泣いてしまった男の子を何とか泣き止ませようと、思いつく限りの楽しい事を説明した。川で泳ぐととても気持ちがいい事や、二階の窓から鳥の巣がよく見えること、魚を捕るのは難しいけれどやりがいがあること。だが紫龍は、てんで泣き止む事はなかった。
「う────」
「……どうして泣くのよう!」
 泣き止むどころかとうとう声を上げて泣き出してしまった紫龍に、万策尽き果てた春麗も、その大きな目を濡れさせ始めてきてしまう。そして紫龍がまた、うう、と声を上げたとき、春麗の顔もぐしゃりと歪んだ。
「うわぁあん」
「うあ────」
 二人の子供は互いにもらい泣きを繰り返し、相乗効果の末にこれ以上ない程の大泣きをすることになった。そして泣き疲れて涙が涸れた頃には、朝食はもうすっかり冷めてしまっていた。

「……喧嘩でもしたのかの?」
 随分と予定より遅れて、しかもなぜか揃って目を盛大に腫らせて現れた二人の子供に、童虎は首を傾げた。



 ──五老峰では、生活の全てを自分でやらなければならない。
 よって紫龍がまず老師から課せられたのは腕立て伏せでも腹筋でも格闘技の型でもなく、生活する為の全てだった。
 紫龍はすぐに修行を付けてもらえない事に、最初は少しだけムッとした。しかし侮るなかれ、ここは電気もガスも存在せず、そして麓の村までは山一つ下らなければならないという、秘境も秘境なのである。一般家庭の子供と比べれば城戸邸で過酷な訓練と体罰を受けてきた紫龍は十分根性のある方だったが、大自然の中での暮らしは、そう甘いものではなかった。
 そして紫龍は、そんな五老峰で生きて行くのに必要なことのほとんど全てを、春麗から教わった。つまり紫龍が初めて教えを受けたのは老師ではなく、春麗となったわけである。
 自分より一つ歳下のはずの春麗は、料理も出来るし、手で洗ったはずの洗濯物はとても綺麗だし、破れた服も繕えるし、薪も割れるし、傷の手当も出来た。どれもこれも紫龍には何一つ出来ない事で、春麗はとても頼りになる子だ、と紫龍は思った。
 自分と同じ孤児であり、また女の子というものになまじ触れ合った事が無いせいか、歳下の女の子に一からものを教わることになっても決して偉そうにしたりせず、素直に春麗の言う事を聞く紫龍をすっかり「良い子」と認識した春麗は、彼を全面的に受け入れ、最初以上に、色々と世話を焼いてくれるようになった。



 紫龍が何とか薪割りを終わらせて邸に戻ると、春麗は明かりの下で、刺繍に精を出していた。そっと手元を覗けば、そこには動物の絵柄が鮮やかに浮き上がらんとしている。
「……それ、象?」
 邪魔にならないようにひっそりと話しかけると、春麗は、勢い良く振り向いた。そんなに激しく反応されるとは予想していなかった紫龍は、思わずびくりとする。
 驚かせてしまったのかと思った紫龍は謝罪を口にしようとしたが、それより先に、春麗が言った。
「紫龍、象を見た事あるの?」
 その声は少し興奮気味で、心なしか頬が赤かった。紫龍はきょとんとしたが、一拍あとに首を振る。
「いいや、図鑑で見た事があるだけ」
「そう……」
 控えめではあるが明らかに気落ちした春麗に、紫龍は何だか悪い事をしたような気になった。
「春麗は、象が好きなのか?」
「私、象は見たことがないの」
 春麗は、ふるふると首を振った。おさげが揺れる。
 象を見たことがない、というよりも、春麗はこの五老峰から出た事がないらしい。拾われたときは乳飲み子だったので、暫く麓の村の赤ん坊の家に預けられていたらしいが、それ以後、春麗は山を下ったことはないのだという。今過ごしているこの場所は穏やかだが、この山自体はとても子供の足で超えられるものではない険しいものだ。無理もない。
「とても大きいんですってね」
「そうらしいな」
「虎より大きいかしら」
「とら?」
「時々、裏に出るの」
 紫龍は聞かなかった事にした。
「ええと、……あ、これが手本?」
 はぐらかすようにして、紫龍は春麗が横においている布を指差した。白い布に、完成した象の刺繍が浮き上がっている。
「……これはね」
 春麗は、そっと象の鼻の部分を指でなぞった。その手つきがとても慎重なので、紫龍はその刺繍が彼女に取ってとても重要なものである事を察した。
「私が拾われた時、私を包んでいた布なの」
 その言葉に、紫龍は少し目を見開いて、改めて刺繍を見た。手本になる刺繍が納められている薄い箱の中には、他に何枚もの図柄の布がある。牡丹の花や、鳳凰、麒麟、龍、それに虎。それらはとても見事なものだったが、どれもどちらかというとリアルな描写が用いられている。しかし象だけはデフォルメがされた平坦な図柄で、あきらかに一つだけ浮いていた。しかしお包みだったと言われれば、なるほどいかにも赤ん坊に合わせた感じの可愛らしい象だ。
 ここらでは、刺繍は買うものではなく、自分で縫うものだ。この象も、きっと人の手によるものだろう。おそらくは、春麗を生んだひとの手によって。
「……私、象の居たところで生まれたのかしら」
「…………」
「私が泣いたら、歌を歌ってくれたかしら。私、なにも覚えてないの」
「……春麗は、」
 思わず大きい声が出てしまい、紫龍は慌てて音量を調整し、言い直した。
「……春麗は、自分の親を恨んだ事が、ある?」
 二人とも、親に捨てられた孤児である。故に多少は予想していた質問だったのだろう、春麗は驚かなかった。
「恨むというのはよく分からないけれど、……どうして捨てたのかしら、とは思うわ」
 山には、虎が出るという。老師に拾われなかったら私どうなっていたのかしら、とどこかぼんやりした調子で呟いた春麗を、紫龍は黙って見ている。
「春麗の親は、とても損をしたな」
「えっ?」
 突然紫龍が言ったので、春麗はきょとんとした。
「だって、俺は俺たちくらいの年の子をたくさん知ってるけど、君くらいの子で、料理とか裁縫とか、こんなに色んな事が出来る子は見たことがないよ」
「そうなの?」
「そうさ」
 紫龍がこくりと頷くと、春麗は、ふうん、と曖昧な返事をして、指し掛けの針を引いた。丸い頬と、ほつれた黒髪がかかる耳が赤い。
 春麗にとって、紫龍の世話をする事は、童虎から与えられた新しい仕事のひとつだった。同じ位の年の子と一緒に暮らすという事にも春麗はわくわくしていたが、やり甲斐のありそうな仕事を与えられて、春麗は大層張り切っていた。しかも自分が何かする度に、紫龍は今のように、とても珍しくて貴重なものを見るような反応をする。どんなに上手く出来ても、直ぐさまそれを見てくれてしかも褒めてくれる者など今まで居なかったので、春麗はとても気分が良かった。
「これだって、とても細かくて綺麗だし」
 紫龍が示したのは、彼の服の裾についている、少し小さい龍の図柄である。自分の名前は紫の龍というのだと教えたら、春麗が綴ってくれたものだ。
「すごいな、春麗は」
 紫龍が素直にそう言うと、春麗は、大きな目を見開いた。黒目が酷く大きいので、見開いても上下に白い部分がほとんど出ない。紫龍は、先日林の中で見かけたリスを思い出した。
「……すごいの?」
 口までぽっかり開けて驚いた春麗がようやく言ったのは、それだった。物心ついたときから自分の事はすべて自分でしていたので、彼女は自分が出来る事がどのぐらいの事なのか、よく分かっていなかったらしい。
「……紫龍は、良い子ね」
「……そう、かな」
「そうよ」
 紫龍の顔も少し赤くなったが、春麗もほっぺたを林檎のように赤くしたまま、力強く頷いた。そして素早い手際で糸の端を玉止めにしてから、にっと笑顔をみせて、紫龍を見る。小さめの口元から覗く歯は、まだ一本だけ背が低い。生えかけのかわいい永久歯が、笑顔の中にちょんと鎮座していた。
「うふふ、あのね。本当は、いばりんぼうの嫌な子だったら、蹴っ飛ばしてやろうと思ってたの」
 その笑顔は間違いなく、城戸の屋敷で仲の良かった星矢たちを思い出させる、いたずらっ子の笑みだった。
 大勢での集団生活をしていた紫龍だが、その全ては男の子だったので、同じ位の年の女の子と全く接した事がない。だから春麗と話している時は少し緊張していたのだが、彼女がみせたその笑みに、紫龍は今度こそ、肩の力をすっかり抜いて笑うことが出来た。

 ──ちなみに、春麗はこの大自然の中で暮らして行くにあたって、老師から護身術程度の格闘技も仕込まれていたので、「蹴っ飛ばしてやろうと思っていた」という言葉は冗談でもなんでもなかったが、紫龍がそれを知るのは、初歩の組み手で彼女とやり合って実際に蹴り飛ばされた時であったりする。
----     NEXT
BY 餡子郎
トップに戻る

各メッセージツールの用途と使い方
拍手 Ofuse Kampa!