2 Jumbo's Lullaby(象の子守歌)
<2>
紫龍は薪割りと掃除と畑の世話を何とか一人で出来るようになり、童虎に教えを受けるようになって、約一年が経過した。
修行はとても厳しかったが、しかし春麗が毎日欠かさず身の回りを整えてくれた。星矢や氷河、一輝や瞬、世界各国に散らばった他の者たちが今どうしているかを知る術は紫龍にはなかったが、当時からして、紫龍は己が恵まれた環境にある事を痛感していた。
そして、過酷な修行の前後に薪割りや畑の世話などをするのも一日の流れの一部としてすっかりこなせるようになってきた頃、紫龍は初めて休息日として与えられた一日を使って、自分の部屋の整理をする事にした。
紫龍の寝床や部屋全体の掃除は春麗が完璧にしてくれたが、その他についてはほぼそのままにされている。当たり前だ。いくら世話焼きな春麗とて、そこまでやるほど暇ではない。
だから紫龍は、休日を利用して、自分の環境を改めて整える事にした。それに、以前住人が居たというこの部屋には、気になるものが沢山あったのだ。
かつてこの部屋には、紫龍と同じく聖闘士を目指していたものが身を置いていた、と紫龍は童虎から聞いた。確かに部屋には誰かがいた形跡が残っており、荷物も色々と置いたままにしてあった。今紫龍が着ている服も、彼が残していったものの一つである。春麗が丈を詰めてくれているが、紫龍の身体より二、三周りほど大きい紫色のチャイナ服。お下がりを受け継いでいる事からも、紫龍は見知らぬ先達の存在がとても気になっていた。
(随分と読書家だったのだな……)
埃を被らないように布を被せられた棚には、ぎっしりと本が納められていた。棚に入りきらなかった分は、行李に入れられて横に積み上げられている。
そしてそれらは殆どが歴史書、哲学書、兵法書などの固い内容のもので、紫龍にはチンプンカンプンなレベルの難解なものだった。
そして特筆すべきは、どの本にも、内容をまとめたり整理したり、また意見を書き込んだメモ紙が所狭しと挟まっていることだった。そのメモもまた紫龍が見て理解出来るような内容ではなかったが、しかし書いた者がその本をいかに読み込み、深く内容を吟味しているかは十分伝わってきた。後々わかった事だが、そのメモの内容はあまりに的確で、むしろその本の別冊付録の注釈としてもいいくらいの出来だった。
更に驚くべき事に、本の言語は中国語だけに留まらない。手書きのメモ群も、書かれているのは漢字であったりアルファベットであったりした。
そして、なぜだか漢方医学書や薬膳をはじめとする料理の本もそれなりの数があり、やはりこれもまた、これは塩を多めにした方が美味い、これは他のものでも代用出来る、これは書いてあるよりも置いた方が良くなるなどの細かいメモがたくさん挟まっている。春麗に見せれば喜ぶかもしれない、と紫龍は料理関係の本を取り分けて、別に置いた。
結局、まともに本を読んだ事のない紫龍がこの中で読めそうなものは三国志ぐらいだった。これとて、本の途中途中で挟まっている、その時々の勢力や戦陣の解説などがわかりやすく書かれたメモがなかれば、きちんと内容を理解するのは無理だったかもしれない。
(どんな人だったのだろう)
メモ群の文字は速筆である事が良く伝わる続け文字で、そしてどの字も迷いがない。用いられているのはボールペンなどの消せないペンであったが、どれもこれも、修正が殆ど無いのだ。
字には人柄が良く現れる、という。膨大な文字たちから、紫龍は頭の良さそうな、もの静かで凛とした様子の少年像をぼんやりと思い浮かべた。
奥に行けば行くほど、その内容も砕けたものになっていくのが何だか楽しくて、更に何かないかと、紫龍は行李を漁ってゆく。小さめの碁盤は老師ならやり方をご存知だろうとこれも脇に取り置き、丁重に包まれた中から日本の女性歌手のレコードが出てきたのにのには驚いた。
だが艶かしい姿の女性の写真ばかりの薄い冊子が出てきた時は、紫龍は慌ててそれを奥に突っ込んだ。
「紫龍、はかどってる? お昼を持ってき……」
「わあ!」
「?」
湯気の立つ丼をお盆に載せて現れた春麗は、真っ赤な顔で飛び上がるようにした紫龍に、不思議そうにコテンと首を傾げた。
「春麗は、俺の部屋に前住んでいた人のことを知ってる?」
卵とじの丼を食べ終わり、紫龍はお茶を飲みながら、“ここ”の先輩である春麗に尋ねてみた。しかし、彼女はふるふると首を振る。
「いいえ、知らないわ。あの部屋に居た人が出て行ったのは、私が老師に拾われる前の事だから……。あ、でも、他にもここにいらっしゃった方がいたわ。住んでいたわけじゃないけど」
「……住んでいたわけじゃ、ない?」
紫龍は、訝しげな表情で首をひねった。ここから一番近い麓の村まででも、丸一日はかかる。ここに住んでいるのではなく通いで来ていたというならば、その人物は一体どこからやって来ていたというのだろう。
「いつも老師と何かお話をされていたわ。そのためにいらっしゃっていたから」
難しい話で私にはよく分からなかったけれど、と春麗は少し懐かしそうな顔をした。
「薄い金色の長い髪をした、とても綺麗な男の人だった。ときどき、私とも遊んで下さったわ。いつの間にか全然いらっしゃらなくなってしまったけれど」
「それでその人は、どこから通ってきていたんだ?」
「インドのほうの遠いところだとおっしゃっていたわ。ジャミールというんですって」
「インドって……」
ますますわからない。ジャミールというのが正確にどこなのか紫龍には見当もつかなかったが、少なくとも、インドからここまで日帰りの通いで来るなど、不可能だ。
紫龍が疑問符をたくさん浮かべた顔で首をひねっていると、春麗はクスクスと笑った。
「それだけじゃなくて、とっても不思議な方だったわ。すごく高いところに引っかかってしまった布を手を翳しただけで取ってしまったり、あとはそうね、あまり濡れるのは好きじゃないと言って、水の上を歩いたりするの」
「はあ!?」
「すごいでしょう? 私、とてもびっくりした」
びっくりした、どころの話ではない。紫龍は茶碗を取り落としかけた。
「私、ずっとあの人の事を仙人様かなにかだと思ってたの」
「いや、本当にそうなんじゃないのか……?」
紫龍が殆ど本気でそう言うと、春麗は、少し悪戯っぽい感じで笑った。
「聖闘士の存在は世の中に秘密のものだから、歴史の中で、英雄とか、仙人とか、天才とか──そんな風に呼ばれている人が、実は聖闘士だったりするそうよ。老師も、麓の人には仙人様って呼ばれてるわ」
「……あ」
少し間を空けてから、紫龍は春麗が言わんとしている事を悟った。
「その人、聖闘士……?」
「多分ね。聖闘士だってはっきり聞いた事はないけど、壊れてしまった聖衣を直すお役目をされているんだってお聞きしたわ」
「へえ……」
そんな役目があるのか、と、紫龍は興味深そうに頷いた。
(俺は、何も知らないな……)
──あの部屋に居たという、自分と同じ思いで聖闘士にならんとしていたという少年。部屋にあった本の殆どは、紫龍にはさっぱり理解出来ない難しいものだった。
紫龍は、ぐいとお茶の残りを飲み干した。
「……あの部屋に居た人は、聖闘士になれたのだろうか」
風が吹いて、五老峰の豊かな木々を一斉に揺らした。滝の音にも負けないざわめきが収まってから、春麗は、鈴が鳴るような声で、言った。
「──ここから出て行ったのだもの。きっと、なれたんだわ」
──それから、また、数年。
春麗の背を追い抜いた紫龍は、大瀑布を逆流させるまでは未だ到達出来ないまでも、一日かからず麓の村と老師の邸とを往復出来るようになった。
紫龍も春麗も、成長期だ。今まではあの部屋に残された服を着たり、また春麗が手製で拵えたりするので何とかなっていたが、それにも限界が来る。色々な道具とて、一つ一つ寿命を迎えようとしていた。そもそも邸にあるものは全て童虎のもので、百年以上の年代物もザラなのだ。ガタもくるというものである。
そこで紫龍は、主に畑で取れたものを背中の籠に背負って、麓の村まで行くようになった。村の人々と物々交換ですめば良し、そうでない時は商人と交渉して、貨幣にして溜めておく。
まだ子供で聖闘士としてはまだまだ半人前以下の紫龍であるが、それでも、そこいらの大人には負けないくらいの力はついた。そしてその力で親切に村の手伝いをしたりする紫龍は、村の人々から当然のように可愛がられた。元々、童虎が「仙人さま」として非常に敬われているので、そこから来た子供として特別視された、という背景もある。
だがそれとは関係なく、紫龍は身につけた力が人々のためになる事や、山を下りた事のない春麗に小さなお土産を持って帰ってやれたりする事が、とても嬉しかった。
そんなある日、紫龍は顔見知りになった村人から、近々祭りが催されるのだ、という話を聞いた。
「お祭り?」
「ああ。雑技団も来るそうだ」
「雑技団?」
春麗は目をくるくるさせながら、聞いた事のない単語を鸚鵡返しに繰り返した。紫龍ほどではないものの同じく成長期に伴って背が伸びた春麗だが、黒目がちの瞳はちっとも変わっておらず、相変わらずその表情はリスに似ていた。
「こう、アクロバットとか、色んな芸を見せるんだと。火の輪を潜ったり、虎を操ったりするんだそうだ」
「アクロバットなら紫龍の方がきっと上手よ。それに、虎なら裏に居るじゃない」
けろりと言った春麗に、紫龍は苦笑した。確かに、今更火の輪を潜るくらいなら朝飯前であるし、虎ももう恐くはない。
「でも春麗は、山を下りた事がないだろう?」
紫龍が言うと、春麗は少し間を置いてから、おずおず、というふうに小さく頷いた。
「春麗を連れて下に降りるくらいなら、もう出来る。祭りは俺も見たことがないし、老師にお願いして、行ってみないか? 麓の人も、遊びにこいと言ってくれたし、困ることはないはずだ」
「…………」
春麗は、考え込むそぶりを見せた。紫龍は黙って待っている。
「雑技団……」
しばらくしてから、春麗はぼそりと言った。
「……虎が居るなら、象も、居るかしら」
頬が、桃のように赤かった。
童虎は、二人が麓に降りる事を、快く許してくれた。どころか、年頃になりつつある春麗に、必要なものを好きに買っておいでと小遣いを渡しすらしたので、春麗は目を白黒させていた。
反面、紫龍は春麗に怪我でもさせたら承知しないと重々釘を刺され、そして彼は春麗を背負って山を下りた。
春麗は、紫龍より歳下で、女の子で、小さい。だが初めて背負う春麗があんまり軽いので、紫龍はとても驚いた。