2 Jumbo's Lullaby(象の子守歌)
<3>
祭りは、賑やかだった。
まず人や家の多さからして初めて目にする春麗は、始終目をリスみたいにさせていた。そして聖地と言われる場所から10年以上出ずに暮らしてきた少女は、村人たちの目にはとても不思議な雰囲気を持っているように見えるらしい。紫龍から見ても、実際そうだと思う。さすが仙人の子だ、とよくわからぬまま感心した村人たちは、何も知らない春麗に大層親切にしてくれた。特に、春麗が老師と紫龍という男所帯でたった一人暮らしていると知った女性たちはそれが顕著で、春麗を一時紫龍から引き離して女たちの輪に入れ、色々な事を教えてくれた。
二人は逸れないようにしっかり手を繋いで、祭りを見て回った。小さなお菓子を買ってそれを頬張りながら、人ごみを歩く。
春麗は、ずっと笑顔で、本当に楽しそうだった。
だがリスのようにつぶらな彼女の目が、祭りの火をきらきらと映しながらもずっと何かを探すようにしている事に、紫龍は気付いていた。
「とっても楽しかった」
夜になり、大人たちに酒が入って収拾がつかなくなってきた頃、紫龍は再び春麗を背負って、山を登っていた。手には村の人々からの土産や、童虎からの小遣いで買ったものがある。紫龍は春麗のものを買いに降りたのだと当然思っていたが、春麗は彼や童虎の服に刺繍する為の糸を、一生懸命選んでいた。それが、紫龍には嬉しい。
「みんな、とってもいい人たちだった。本当はね、来る前、少し怖かったの」
「本当に? 蹴っ飛ばしてやろうと思ってたんじゃないのか」
「もう!」
春麗は、くすくす笑った。
「村の人たちがどんなに親切だったか、早く老師にお話ししたいわ。とてもよくしてもらったもの」
「そうだな。きっと老師も喜ぶ」
「うん」
山の中。暗い森からは、様々な音がする。木々のざわめき、梟の声。だが仙人の子供たちは、それを恐れる事なく山を登って行く。
「見たことのない料理がたくさんあったわ。作り方を聞いてきたから、今度、私も作ってみるわね」
「楽しみだな」
「お菓子も、美味しかった。お菓子も作ってみたいな」
「今度降りたときは、砂糖も買ってくるよ」
「楽しみね」
「楽しみだ」
山の風は冷たいが、祭りの喧噪で熱くなった頬には、それが心地いい。
「雑技団は、やっぱり紫龍の方がすごいと思うの」
「確かに、いくつかできそうなやつがあったな」
「今度やってみてよ」
「ええ? ……まあ、気が向いたら」
「衣装がとても綺麗だった。きらきらしていて」
「うん」
最初は童虎から貰ったお金を使う事を渋っていた春麗だったが、村から貰ったお下がり以外に、彼女は新品の赤い服を一着買った。空中ブランコで見事な飛行を見せた女性は赤い服を着ていたが、もし青い服を着ていたらいま袋の中にあるのはきっと青い服だっただろう、と紫龍は気付いている。
「裏に居る虎も、あんな風に芸をしたら可愛いのに」
「捕まえて教えたら、出来るようになるかも」
「老師に聞いてみましょう。玉乗りをする虎がうちに居たら、きっと楽しいと思わない?」
「そうかなあ」
「……象は、いなかったわね」
平坦なトーンの声だった。
「象は、いなかったわ」
もう一度、春麗は言った。
「象は、どこにいるのかしら」
「…………」
聞こえる声はいつもより随分耳に近いが、おぶっているので、紫龍には、春麗の顔は見えない。
「私、ずいぶん刺繍が上手くなったと思うの」
「俺もそう思う」
「虎や龍だって、もう上手に綴れるのよ」
「村の人も、見事だって褒めてたよ」
畑で取れたもの以外に、紫龍は春麗が作った刺繍も時々持って行く。春麗が唯一の趣味としてやる刺繍は村でも評判で、そこらで売っているものよりよっぽど見事だと、随分褒められた。
「あの象ね、もう、すぐに縫えちゃうの。とても簡単だから」
「…………」
他のリアルな図柄と違って、デフォルメがきつく、平坦な象。
「何十枚だって簡単に縫えちゃうのよ、あんなの」
「…………」
「全然大したものじゃないのよ」
春麗の声は、震えていた。紫龍はそれを山の風の冷たさのせいにするようにして、春麗が風に当たらないよう、軽く背負い直した。
「……紫龍」
だが、春麗がずずっと鼻をすすりながら彼の名を呼んだので、紫龍の気遣いは無駄になった。
「私、また、置いて行かれるの」
「えっ?」
紫龍は、初めて立ち止まった。首に当たる春麗の息が、熱い。
「紫龍はとても強くなったわ。まだ大滝を割れないけど、でも近いうちに出来るようになる。そうしたら、あなた、ここを出て行っちゃうんでしょう」
紫龍は、心底驚いた。
そしてその驚きは、春麗はそんなことを心配していたのかということと、そして、自分がここを出て行くなどと全くもって考えていなかった事、この二つの驚きだった。だが春麗は、激情のままに続ける。
「紫龍の部屋にいた人は、聖闘士になったから出て行ったのよ。私と遊んでくれたあのきれいな人だって、聖衣を直すお仕事がきっとお忙しいんだわ」
「…………」
「わかってるわ、わかってるの。仕方のない事だって、わかってるの」
春麗は、もう完全に泣いていた。
「他の人がそうしたように、紫龍は聖闘士になったら、ここからいなくなってしまうんでしょう。そして、私の事なんか、もうすっかり忘れてしまうのだわ」
「そんなことない」
「嘘よ」
春麗は、大声を出した。耳元で叫ばれたので、紫龍は頭がきぃんとした。
「刺繍がきれいに出来たって、お料理が美味しく出来たって、象はいなかったわ。象はいなかったの。みんな私を置いて行くの。紫龍もいなくなっちゃうんだわ」
堪え切れなくなったのか、わあん、と春麗は泣いた。
「ばか、もう知らない。どうせいなくなっちゃうんなら、私、もうお料理なんかしないわ。象も縫わないわ。もう知らない」
「春麗」
「ここからいなくなっちゃうんなら、聖闘士になんかなれなきゃいいんだわ!」
わあわあと大泣きをしてしまった春麗を背負い、紫龍は途方に暮れた。慰めようにも背中に背負った春麗の顔を見る事は叶わないし、実を言えば、泣いてしまった春麗を真っ正面から見るのを躊躇した。
だが森の中から獣の声が聞こえたので、紫龍は慌てて再度山を登り始めた。春麗は、相変わらず泣いている。
背負った春麗は、紫龍より歳下で、女の子で、小さい。ただでさえあんまり軽い春麗が、こんなに泣いたらもっと軽くなって消えてしまうのではないかと思い、紫龍はとてもはらはらした。
童虎の邸に着いた時には、春麗は泣き疲れて眠っていた。
春麗は、稀に見る最悪の気分で目を覚ました。
泣いたせいで頭はがんがんと痛み、目が酷く腫れているのが、鏡を見なくてもわかる。そしてそんな風なのに、ちゃんといつも通り日の出とともに起きてしまう自分の体内時計が疎ましかった。
更に、春麗は自分が昨日の服のままである事に気付く。泣いて寝てしまった自分を紫龍がここまで運んでくれたのだろう事を悟り、春麗は更に落ち込んだ。
(私、なんて嫌な子なのかしら)
今すぐ詳しくは思い出せないが、自分は彼にとても酷い事をたくさん言ったはずだ。聖闘士になれなきゃいいのだとか、何とか。胃に石でも詰まっているような気の重さで、春麗は溜め息すら吐けなかった。
だが起きてしまったからには朝食の用意をしなくては、と春麗が寝台から足を降ろしたその時、コンコン、と控えめなノックが扉から聞こえてきて、春麗は肩を跳ねさせる。
「春麗、起きているか?」
──紫龍だ。春麗は慌てて上着を羽織り、扉に駆け寄った。
「あ、な、なあに、紫龍。朝ご飯なら──」
「うん、それはいいんだ。疲れているだろう」
なんて事だ。
春麗はショックを受けて、頭がくらりとした。物心ついた時からやってきた自分の仕事だというのに、気を使われてしまった。
だが紫龍はそんな事はおかまいなしに、続けて言った。
「昨日買った赤い服を着て、裏まで来てくれないか。待ってるから」
「えっ──でも」
「いいから」
「どうして……」
「いいから、来るんだ。いいね、絶対だ」
強い口調に、春麗は頷くしかなかった。
すぐには目に入らなかったが、寝台の周りには、昨日村で貰ったり買ったりしたものの包みがそのまま置いてあった。間違ってけり飛ばしたりしないようにという事か、そっと壁際に置かれた包みからは、祭りで売っていた派手な色の飴の棒が飛び出している。祭りの灯の下で見た時はとても綺麗に見えたはずのそれだったが、水の匂いが濃厚に漂う静かな五老峰で見ると、少し無粋すぎるような気がして、春麗は物悲しい気持ちになった。
手に入れたものを一つ一つ思い出せば心ときめかない事もないのだが、いかんせん春麗の心は沈み過ぎていた。しかし約束してしまったのだから、為さねばなるまい。
春麗は赤い服を丁寧に包みから取り出して、綺麗に整えた寝台の上に、そっと広げた。つやつやと光る生地はとても綺麗で、桃色の花の刺繍はやはり最高に可愛かった。
この服を着るのだから、せめてこの瞼の晴れだけはなんとしてもどうにかしなくては、と春麗は気を取り直し、覚悟を決めて、常に汲み置いている瓶の中の水を豪快にたらいで掬いとり、息を止めて顔を突っ込んだ。
何とか無事に顔の腫れが引いた春麗は、慎重に赤い服を着て、いつもより丁寧におさげを編んだ。靴を履いて外に出て、裏に回る。
「あれ、思ったより早かったな」
「そう?」
「女の人は仕度が長いものだって、昨日教わったよ」
「そりゃあ、為になる事を聞いたものね」
「そのようだ」
少し明るい返答をした春麗にホッとしたのか、紫龍は微笑んだ。そして春麗の手を取ると、行こう、と身を翻す。
「どこへ行くの」
「すぐにわかるさ」
大瀑布からは、大きいものから浅い小川まで、たくさんの支流が地面を区切っている。二人は流れの中にある石を足場にして、ひょいひょいと何本もの川を渡って行く、ぐらついた石を踏んでしまったら直ぐさまひっくり返ってしまうだろう危なげな道程だが、二人の足取りに迷いはない。聖闘士になる為の訓練を受けている紫龍はもちろん、春麗とて、童虎から普通の護身術以上の動きを手ほどきされているのだ。
そして紫龍に手を引かれるまま、春麗は、少し開けた場所に出た。
そこは、岩場だった。多分、大昔、雨で水が大量に流れ出た時に濁流が地面を抉ってこうなったのだろう。しかし今は深い所でも膝下くらいの水位しかない小川が、地面を這うようにして流れているだけだ。
「ほら」
紫龍は春麗の手を握っていない方の手で、網目状に流れる川の向こう岸を指差した。
一体何だというのだろうかと、春麗は首を傾げながら、指差された方を素直に見た。だがその光景はいつもと変わらない、ごろごろと巨大な石が転がっているだけのもの──そう思ったとき、春麗の目が、リスのようになった。
「えっ……」
春麗は、言葉を失った。川の向こう岸に居たのは、紛う事なき象だった。
「行こう」
驚いている春麗の手を再度引き、紫龍は川を渡り始める。春麗は象に目が釘付けだったので、一度も転んだ事のない浅い川だというのに、何度も転びそうになっては紫龍に支えられて立ち直した。
そしていよいよ間近で、春麗はぽかんと口を開けたまま、それを見上げた。
「……大きい」
「うん。一番大きいのを探したからな」
──それは、巨大な岩だった。
ここは大瀑布の流れる上流、いや正しくは水源そのものである。よってそこら中に人間の背丈をゆうに越える巨大な岩がごろごろしているのだが、それはその中でも一層大きい岩だった。
そして、紫龍の背の四倍くらいはありそうなその岩はいま、あの見慣れた、デフォルメのきつい、平坦な象になっていた。
色を付ける手段がない為、それは墨だけで描かれていた。そして岩の形に合わせた為かただでさえ短い足は更に短くなっており、妙に頭が大きい。だが長い鼻や三日月のようなラインの牙はちゃんと描かれている。真っ黒な丸い目も、正しい位置にちゃんとある。これは紛う事なく、春麗が何十枚も刺繍をした、あの象だった。
(──私の象だわ)
「きみの象だ」
まさに今そう思っていたので、春麗はびっくりして紫龍を見た。
「これ、紫龍が描いたの」
「春麗の刺繍ほど上手くは行かなかったが」
照れくさそうに、紫龍は頭を掻いた。よく見れば、上半身に何も着ていない紫龍の身体には、そこかしこに墨や泥がついている。
「俺はちょっと絵が下手なようだ」
「一晩中やってたの」
「月が明るかったからね」
「昨日、私を背負ってあんなに歩いたのに?」
「いつもの訓練に比べれば、どうってことない。ほら、上に乗ろう」
まだ呆然としている春麗を引っ張って、紫龍は少し遠回りをした。そして安全なところをきちんと選んで迂回して、春麗を象の背中に導いた。
大きな象の上からの景色は、とても高い。
「きみの象だ、春麗」
「…………」
「どこにも行ったりしないさ」
春麗は、ハッと顔を上げた。横に居る紫龍の横顔は、高い位置にある。彼がここに来た頃は同じ位の身長だったのに、もう今は頭半分くらいの背丈の差があった。
「色はついてないが、墨にたっぷり膠を混ぜたから、大雨が降っても大丈夫なはずだ」
「…………」
「俺だって」
紫龍は、春麗を見た。微笑んでいる。
「俺は、ここの子だ、春麗。きみが言ってくれた事だ」
──だって紫龍はうちの子だもの!
ぽかんとして自分を見上げる春麗に、紫龍は笑った。
「俺は老師の弟子で、ここの子だ。聖闘士になったら、老師の弟子で五老峰に住む聖闘士になる、それだけだ。……そうだな、確かに、聖闘士になったらどこかに出掛けなければならない時があるかもしれないが」
紫龍は、足下の象を見た。
「その時は、この象と一緒に、俺を待っていてくれたら嬉しいかな」
「待ってる?」
「うん」
紫龍は、頷いた。
「俺はここの子だから、聖闘士になっても、ここに帰ってくる」
きみと、老師と、この象と。
それが自分の家で、そして帰るべき場所なのだと、紫龍ははっきりと言ってのけた。
「それでも不安で泣きたくなったら、そうだな、歌おうか」
「……紫龍」
「昨日の祭りで覚えたやつしか知らないけど。きみが泣いたら、この象の上で歌ってやるよ」
「紫龍」
「本物の象がどこに居るのか、きみの親が子守歌を歌ってくれたのかどうかは、わからないけど。でもこの象はずっとここに居るし、歌なら俺が歌ってやるよ」
「紫龍」
象の頭に、ぽたり、と小さな染みが出来た。
「歌おうか?」
紫龍が苦笑して言うと、春麗はふるふると首を振った。
「紫龍、ごめんなさい。私、昨日ひどいことを言った」
「どうってことない」
「ありがとう」
嗚咽をこらえながら、春麗は、一生懸命に、はっきりと言った。
「ありがとう、紫龍」
「うん」
「私の象は、この象ね」
春麗は、泣きながら笑った。
「私の象は、ここにいるのね」
「うん」
ずず、と春麗は洟をすする。
そしてしばらく黙っていた紫龍だが、突然、あっ、と声を上げた。
「? なに?」
「その服、似合ってるよ」
それが、いかにもすっかり忘れていました、というような口調だったので、春麗は思わず吹き出した。
「……ありがとう!」
今度こそ掛値なしに笑って言った春麗に、紫龍も微笑んだ。
暫く、嬉しそうに何度も象の頭を撫でている春麗だったが、朝の仕事を朝食も含めて全てさぼってしまったので、二人は籠を背負い、傷薬になる薬草を摘みに行くことにした。
薬草を籠の中に放り込みながら、二人は丘だか崖だか、とにかく大河の見える場所に出た。山の壁面が崩れ、木々が丁度隙間を作っているその場所は、時々船が渡って行くのも見える、とっておきの場所だ。
「紫龍、疲れてない? 一晩中起きていたんでしょう?」
「平気だよ。訓練も休みになったし」
連続して訓練が休みになるのは紫龍が五老峰に来て初めてのことだったが、赤くなった春麗の目を見た童虎は、特別じゃぞ、の一言で全て済ませてしまった。
この老人は、森で拾った孫娘に、なんだかんだでとても甘いのである。
「紫龍、雨の日も風の日も、激しい練習はつらいでしょう」
「いいや」
並んで大河を眺めながら、二人は話した。
「確かに老師の教えは厳しいけど、あたたかさがある」
紫龍は大河を眺めたまま、言った。その表情には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「……俺は、この五老峰に来て、初めて人間的なあたたかさを知ったんだよ」
その声には、ずっしりとした実感がこもっていた。声変わりをしてまだ間もない紫龍の声だが、それは目の前に流れる大河に、とてもよく似合っているような気がした。
「老師や、春麗、きみのおかげだ……」
紫龍は籠の中から、薬草ではない、だが美しく咲いた花を取り、春麗に渡した。
「ありがとう、春麗」
「紫龍……」
にこりと笑んだ紫龍に春麗も微笑み返し、貰った花を髪に挿した。新しい赤い服に、綺麗な花、大きな象、美しく雄大な五老峰、そして優しい養い親と幼馴染み。
春麗は、自分がこの上なく満たされていること、幸せであることを実感した。
「……そういえば、紫龍はなぜ上着を着ていないの?」
泥は乾いて落ちたものの、まだ身体のそこかしこに墨がついている紫龍に、春麗は首を傾げる。墨は紫龍が更に膠を混ぜたせいか、なかなか落ちないらしい。紫龍は、きまり悪そうに頭を掻いた。
「……いや、汚しそうだから」
「ばかねえ」
春麗は、ころころと笑った。
「汚れたら、私がいくらでも洗濯してあげるわ!」
だから風邪をひかないように、帰ったらちゃんと着てねと朗らかに言った彼女に、紫龍は笑って頷いた。
その後の、とある日。ふと童虎は、修行に励む紫龍に尋ねた。
「改めて聞こう。お主、なぜ聖闘士になりたい」
「俺は、強くなりたいのです」
紫龍は、はっきりと言った。まだ十を超えたばかりの子供とは思えない、重々しい調子の声だった。
物心ついた時から、紫龍の側には誰もいなかった。父の腕の記憶も、母の胸の思い出も、紫龍にはない。気付いた時には、高い塀に囲まれた城戸の屋敷に居たように思う。8つになる紫龍が持っている記憶は、ただそれだけだった。
星矢たちという、自分と同じ境遇の子供が山ほど居たので、自分以外の誰かと比べて恵まれていないとか、そういう卑屈な考えにはさほど至らなかった。しかし、なぜ自分はこんな風なのだろうか、そして一生自分はこんな風にして生きて行かねばならないのだろうかと考えた時、紫龍は心底ぞっとしたのだ。
紫龍が引き取られた城戸の家は大金持ちだったが、聖闘士にさせる為にかき集められた彼らに対する処遇は、お世辞にも良いとは言えなかった。言われた事をこなせば最低限の衣食住の面倒は見てもらえるが、体罰は当たり前だし、しかもその度合いが酷い、というのは、紫龍は後になって知った事だ。素手で叩かれたり殴られたりするのは当たり前で、酷いときはわざわざ棒や鞭で殴られる。おまけに脱走防止のために屋敷の周りの高い塀には電流が流されていて、まるで収容所のような暮らし、いやそのものだった。
おまえたちは奴隷なのだと、鞭を振り上げたあの少女は言った。冗談ではない、と紫龍は直ぐさま思う。そんな理不尽なことがあってたまるものかと。紫龍は年齢を経るごとに、そのことに強い憤りを感じるようになっていた。
「どんな運命にも負けないくらい、強く……」
偉くなりたいとか、誰かを負かしたいとか、そういう気持ちは、紫龍にはない。しかし彼はただ、誰かの言うなりになって生きて行くのが、どうしても嫌だった。奴隷のように、道具のように、ただ言われた事をやって、最低限の生活を保障される。それが一生続くくらいなら死んだ方がましだと、弱冠8歳の紫龍は本気で考えていた。
だから紫龍は、グラード財団から出された命令を利害の一致と考え、あえて応じた。聖闘士になりたいわけではない。聖闘士になるには、途方もない程強く在らねばならないと聞いたから、紫龍はそれを目指す事にした。
「……お主の前にも、お主と同じことを言って、ここに居た子供がおる」
呟くようにして言った童虎に、紫龍はハッと顔を上げた。
「それは、俺の部屋に以前居たという人の事ですか?」
「そうじゃ」
伸び放題に伸びてもはや眉にも見えない毛と被った笠の影でよく見えないが、童虎はどこか遠いところを見遣っているようだった。
「星に定められた運命なんぞに従うものかと、そしてその為には力が必要じゃと、彼奴は必死に抗っておった」
「……俺は」
紫龍は真っすぐに童虎を見上げ、話しだした。
「俺は、何か欲しいものややりたいことがある時は、お金とか、身分とか、殴る強さとか、頭の良さとか、……そういうものが必要なんだと、思っていました」
物心ついた時からたった一人だった紫龍は、それが世の中の理なのだと、太陽が東から登って西へ沈むのと同じぐらい当たり前の事として認識していた。食べ物を得るには金が居るし、寝床を確保するのにも、言いたいことを言うのにも、何らかの代償や、もしくは力が必要なのだと。
だからこそ紫龍は、他の誰かに無理矢理ねじ伏せられたりしないように、強くなろうと思ったのだ。
「でも、……春麗や老師は、違いました」
童虎は、黙って少年の言うことを聞いている。
「春麗は、老師に拾ってもらった事を、とても感謝していました。何の得もないのに私を引き取って下さったのだと。そして春麗も、何の得もないのに、俺に食事を作ってくれたり、服を繕ってくれたりします」
紫龍の声は、興奮が滲んでいる。
あなたは老師の弟子でうちの子なのだから当たり前だと、春麗は当然のごとく紫龍を世話した。そして紫龍は、そのことにひどくショックを受けた。何かを得るには何かを差し出さねばならないという、紫龍の中にある世の中の大前提が、根底から覆されたのである。
──そしてその事を、紫龍はこの上なく素晴らしい事だと、強く感動したのだった。
その結果不覚にも大泣きしてしまったのであるが、殆ど生まれて初めてと言っていい位泣いてしまった事で、紫龍は自分が一体何を求めていたのか自覚した。
「老師、俺は」
少年は、迷いのない目で、堂々と言った。
「俺は、何も持たない人の為に何かしてあげられるような人間になりたいのです」
どどどどどど、と、大量の水が落ちる轟音は、力強くもどこか柔らかく、優しい。そしてここに来た時のように無闇に張り上げない静かな少年の声は、不思議と、その轟音に掻き消されずに、はっきりと響いた。
「そしてそんな風になるには、やっぱり強くないといけないと思います。だから俺は、強くなりたい。たくさんの人に、出来る限りたくさんの事をしてあげられるように」
その言葉を聞いた童虎は、ふと思いを馳せた。
(動機を同じくしても、出した結果は正反対、とな)
紫龍と同じく運命に抗う為に力を求め、力こそ正義である、と主張したあの少年は、ここを出るまでとうとうその考えを変えなかった。
「あの、老師」
「何じゃ」
「あの部屋に居た方は、その後どうなさったのですか? 聖闘士になったのですか?」
自分と同じ目的の為にここに居たという先達に、紫龍は興味が在るらしい。どこか目がきらきらしているように見える。
「……さあて。今頃どうしておるのやら」
酷く遠い目をして、童虎は呟いた。
その声がどこか儚く感じられたので、紫龍はそれ以上質問するのはいけない事なような気がして、そのまま黙る。そして、ピイ────……、と名前のわからない取りの声が高く響いたその時、童虎は紫龍に向き直った。
「まあ、聖闘士になったのは、確かじゃ。……いつか、まみえるときもあろう」
「はあ」
曖昧な返答に、紫龍もまた曖昧に相槌を打った。
「さて、兎も角、お主の意思はよく分かった。より精進するが良いぞ」
「はい!」
これ以上なく背筋を伸ばし、紫龍はここへ来てから習った抱拳礼でもって、師を仰いだ。
その、一年後。
紫龍は大瀑布を逆流させ、日本に戻ることになった。