第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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「────スカーレットニードル!」

 ミロが小宇宙を放った瞬間、瞬と氷河を思って天蠍宮を引き返そうとした星矢と紫龍が、絶叫を上げて倒れ臥す。
「他愛のない……とは言わん。この八番目の天蠍宮まで昇ってきただけでも大したものだ。その奇跡に近い事だけでも褒めてやるぞ……」
 それは、ミロの本心だった。
 正式に聖衣を得ているというだけで、本来ならば生身の実力的には雑兵程度でしかない青銅聖闘士、しかもつい最近そうなったという十代前半のヒヨッコが、十二宮の半分以上を突破。
 本来、彼らが束になったとしても、黄金聖闘士一人を倒せば奇跡と言って差し支えない。だからこの状況はまさに、ありえないと断言できる奇跡であった。奇跡に“近い”とミロが言ったのは、彼が少年たちにある程度の敬意を表したからだ。
 そしてミロは、口には出さずとも、いま目の前に居る彼らに感心していた。
 小宇宙が持つ他の小宇宙への反発性が異常なまでに高いミロの小宇宙は、少年たちに、肉体的感覚をも超えたレベルからの激痛を与えている。言うなれば第七感に訴える、もっと比喩的に言えば魂に与える痛みは、常人ならば一発で精神が崩壊する。──たとえ今のように、ミロが手加減して技を放ったとしても。
 だが彼らはいま、激痛に喘いでいるだけで正気はしっかりと保っている。こうして敵同士でなければ、非常に見どころのある後輩として手放しで褒めてやる所なのだが、とミロは胸の奥に苦笑を仕舞い込む。

 不殺の誓いを掲げるミロは、少年らを殺す気はない。

 また、彼らが新人の青銅聖闘士、しかも子供であるという事から、ミロは随分手加減をしている。その意思は、彼がヘッドパーツを装着せず、片手に抱えたままだという姿勢からも読み取れた。
 ミロに、彼らを殺す気はない。しかし、完全にここで歩みを止めてやる気だった。
「だが、青銅聖闘士はこの二人の他にもまだ何人かいたはずだが……」
 情報によれば、十二宮を登ってきている青銅聖闘士は四人、プラス、先程遅れて現われ、シャカとの戦いで行方が消えた一人。待っていれば上がってくるだろう、とミロが階下に意識を動かしたその時、その気配が現れた。
 そしてミロは、その姿に、目を見開く事となる。
(──バ……バカな……)
 ピキィン、と、独特の空気の緊張を伴う小宇宙は、凍気。カミュの周囲にも常にあるそれを纏った少年は、同年ほどの少年──瞬を抱えた氷河だった。
(バカな)
 声に出さずに、しかし純粋な驚愕をもって、ミロは繰り返した。
 氷河は、カミュ自ら天秤宮へ出向き──始末したはずだ。なぜどうやって、あのカミュが作り出した氷の棺から出られたのだ?
 ミロが驚愕の年をもって氷河を観察していると、スカーレット・ニードルの激痛からいくらか気を持ち直したらしい二人が身を起こし、氷河の姿を見て喜色を浮かべる。意識は戻ったのか、五感は大丈夫か、と確認する二人に、氷河は言った。
「ああ、瞬が自分の命をオレにくれたおかげでな……」
 どういうことだ、と星矢と紫龍が戸惑いを見せた瞬間、氷河の目から涙が溢れ、凍気使いであるにも関わらず、その小宇宙に熱いものが混じる。それは、背中を向けられているミロにもわかるほどのものだった。
 ミロと氷河は、面識が無いわけではない。カミュの親友であるミロは、彼らが過ごすシベリアの修行地まで出向いた事が何度かあるし、ごく親しく交流があったとまではいかないが、口をきいた事くらいはたびたびある。
 そういう関係の中で、ミロが氷河に抱く印象は、激しさとは全く逆のものだった。グラード財団から世界中に放たれた子供たちがどういう末路を辿ったか知っているミロは、そういう経験の末の性格なのか、とも思っていた。氷河は感情の起伏が緩く、あまり表情を変えない子供だった。造作が非常に整った子供であるだけに、余計人形めいた印象であったように思う。
 それは、感情を暴走させがちだったかつて子供時代のカミュとは正反対の性質で、そしてもしかしたら、カミュが目指す「COOL」の資質に近い。カミュはその資質こそを凍気使いとしての要・極意だと見出しており、だからカミュが師匠として全力を尽くしたなら、氷河はもしかしたら、カミュをも凌ぐ凍気使いになれるのではないか、とミロは思っていた。
「さあ、その程度の傷で脚が立たなくなるお前らじゃないだろう……立てよ二人とも」
 だが今ミロに背を向ける氷河は、熱気のようなものを纏い、仲間である少年二人に暑い激励の言葉を投げかけている。その姿は、かつて雪原の中で人形のように冷たく遠い海を見つめる小さな少年の姿とか、全く別のものだった。彼は今、涙さえ溢れる熱いまなざしで、目の前の友を見つめている。
「そして皆で、教皇の間まで乗り込むんだ!」
 何か、彼の中の何かを変えることがあったのだろう、とは、ミロにも容易く察せられた。そしておそらくそれは、彼が抱える華奢な少年がその要だ。
 ──しかし。
「夢だな……」
 ミロは、呟いた。決して音量は大きくないその呟きだが、しかしここ天蠍宮の主であり、生まれもって常に全ての動作に黄金の小宇宙が滲むミロの声は、全員の耳にはっきりと聞こえた。
「夢?」
 氷河が、低く返す。低いが、まだ声が変わって間もない少年の声は、ミロにとってどこか痛々しく響いた。

 ──いっそ聖闘士としてじゃなく、ただの子供として面倒を見ていれば良かったのに。

 つい一時間ほど前、親友に、カミュに言った言葉は、ミロの本心だ。単なる子供とその保護者という関係が、カミュと氷河、彼らにとってあるべき姿なのではないか、とミロは感じている。
 そしてミロは、彼らを殺す気はない。しかし、完全にここで歩みを止めてやる気、──その目的を阻み、そして、聖闘士としての魂を完膚なきまでに殺す気であった。彼が戦士として再起不能となれば、あの悲劇の城戸の子供たちの生き残りであるという身の上、そして氷河に対するカミュのただならぬ情を訴えれば、保護対象になる可能性も無くはない。教皇は子供に対して温情が深いというのは、13年前から特に顕著で、誰もが知っている事だ。
 だからこそ、氷河が言うのは、夢でしかない。ここで今、ミロがその道を阻むのだから。
「──食らえ! リストリクション!
 指先に精密に調整した小宇宙を集中し、それを放つ。
 先程星矢と紫龍にも放ったその技は、相手の動きを封じる拘束技だ。しかし痛みはなく、ただ痺れを与えるだけで、口もきける。甘い技と言われればそれまでだが、戦場にて完全に動きを封じられる事は、殺意を込めた攻撃を受ける事よりも屈辱的なことである。
「ミロよ、まさか夢とは不可能という意味と同じだと思っているのではあるまいな」
「なに……?」
 しかし氷河の反応は、屈辱を受けたそれとは全く正反対のものだった。堂々と、そして真正面から立ち向かうその声に、「ミロの技が効かないのか」と星矢が驚愕を示す。
 氷河はミロを睨み、夢を不可能な事と考えるのは、もはや人生を諦めた老人に等しい、と告げた。自分たちにとって、夢とは決して不可能な事ではない、と。

「どんな夢だって、信じて貫けば、必ず現実のものになるのだ!」

 少年らしい、青臭い台詞。しかし戦争においてそれが至言である事を、氷河は知らない。どんな思いも勝ち抜けば正義になるのだと、己の敵たちが信念をもって謳い上げている事も。
 氷河は片手を空ける為に瞬を抱え直すと、ミロがしたのと同じように、指先に小宇宙を集中し、そしてミロに向けて放った。

──キン!

 薄いグラスを鳴らした時のような音は、幻か。
 だがその音とともにミロの身体を取り巻いた氷の結晶のリングは、決して幻ではなかった。
カリツォー。……ミロよ、今度はお前が動けなくなる番だ!」
「バカな!」
 カリツォーというらしいその技は、カミュのものではない、ミロが見たことのない技だ。というのも、
(児戯だな)
 とミロが判断したように、それは、対象の周りに輪状の凍気を纏わせ、それによって周囲の空気中の水分を凍結させる事で拘束を試みる技であろう。凍気はどんどん空気中の水分を凍らせ、その輪を増やして行く。しかし普通の氷とは比べ物にならない凍気による凍結とはいえ、たかが霜程度の氷では、黄金聖闘士どころか白銀聖闘士の拘束とて難しい。
 だがミロは、その児戯を振り払うでもなく、ただじっと少年たちを見た。ミロが身動きせぬ間に、少年たちは何やら言葉を交わしていた。どうやら氷河だけがここに残り、ミロと闘う気であるらしい。
 そして、ぐったりと意識を取り戻さぬままの瞬を氷河から受け取り、心配そうな目線を残しながらも天蠍宮を抜けて行く星矢と紫龍を、ミロはあえて言葉すら発さず、ただ見送った。意識を失った仲間を更なる激戦地までわざわざ背負って連れて行く姿が、痛々しかったからかもしれない。
 次の宮は無人の人馬宮であるので、実質、次の宮はシュラが守護する磨羯宮。ミロの不殺の信念を見守りつつも正反対の姿勢を貫くあの男ならば、少年たちを躊躇い無く殺すだろう。
 だがミロは、それも致し方ないかと考え、あえて彼らを行かせた。なぜかといえば、星矢はアルデバランと闘い認められ、そして紫龍はデスマスクを倒したという事実があるからだ。戦士として既に実績のある彼らを、単なる子供として見る気は、さすがのミロとてなかった。意識を失っている瞬は保護すべきかとも考えたが、さすがにシュラも戦闘不能者にとどめをさすような真似はすまい。甘いという事ではなく、情報を得る為の捕虜を得るという意味で。
 だが氷河は違う。氷河は序盤の双児宮で異次元に飛ばされ、そして落ちた──正しくはカミュによって引きずり落とされた天秤宮にて凍結されたため、何の戦績も残していない。白銀聖闘士との戦いでケンタウルス星座のバベルを葬ったとも聞いているのでその咎は必ず受けることになるだろうが、逆に言えばそれしかないのだ。
 一人殺せば殺人者、百人殺せば英雄だという言葉があるが、聖闘士の別称は、英雄、でもある。
 つまりは、そういうことなのだ。氷河はこの天蠍宮にまで来て居ながらにして、戦士、聖闘士としては半人前もいい所の少年で、また師匠であるはずのカミュは、彼をただ保護対象として扱い、氷の棺に閉じ込めた。
 だからミロは、氷河の戦士としての魂を、ここで今終わらせるつもりだった。ひとり殺した殺人者程度ならば、まだ普通の子供に戻れるから、と。
 ミロもまた、甘いのかもしれない。しかし誰一人殺す事無く、それでいて百人どころでない命を奪っている“英雄”たちと肩を並べるミロにとって、氷河はまだまだ戦士とは遠い所に居る子供でしかなかった。氷河に倒されたバベルが気の毒ではあるが、そこは戦士として、負けた者が勝った者にどうこう言う権利は無い。しかも、死人に口無しでもある。いくらミロとて、その程度にはシビアな考えをもっている。

 星矢たちが完全に天蠍宮を抜けてから、ばさり、とミロはマントを翻し、氷の輪をあっさりと振り払った。ぱらぱら、と崩れた霜が落ちて溶けた。あまりにもあっけない、積もった雪を振り払うのと何ら変わらない手応えに、ミロはいっそ切なくなる。
「笑止な……この程度の凍気で俺の動きを完璧に封じ込めたつもりか」
「別に……」
 静かな、しかし熱いものが籠った声で氷河は返し、そしてこの天蠍宮に来て初めて、ミロと正面から向き合い、まっすぐな目を向けた。アイスブルーの目が燃えている。
「ただ、星矢たちがこの天蠍宮を去るまで、邪魔をしないでもらいたかっただけさ」
「なるほど、二人だけで心置きなく闘う為というわけか……フッ」
 ミロが発した笑いは、いっそ優しくすらあった。この戦士になり切らない少年にとって、おそらく自分は最後の敵。──ならば。
「よかろう、望み通り相手をしてやるぞ──この蠍座スコーピオンのミロが全力をもってな……!」
 最後の相手が聖闘士の最高峰・黄金聖闘士としての姿を示してやれば、この少年も心残り無く戦士の道から外れるだろう、ミロはそう考え、脇に抱えていたヘッドパーツを装着する。装飾としての意味合いが強い、蠍の長い尾がついたスコーピオンのヘッドパーツは非常に特徴的で、そしてそれだけに、ヘッドパーツを装着しているのとしていないのでは、醸し出す雰囲気ががらりと変わる。
「……さあ、どうした氷河。かかって来んのか!?」
 小宇宙さえ攻撃的ではないものの、戦闘体勢に入って真正面に立ったミロ。しかし氷河は、直立したままぴくりとも動かない。ただ、真正面からじっとミロを睨んでいるだけだ。
 ミロはカツンと踵を鳴らし、先程氷河が自分にしたように、背を向けてみせてやった。白いマント、そしてヘッドパーツの金の尾が優雅に靡く。
 あきらかな挑発。しかしやはり、氷河は眉ひとつ動かさない。
 それはカミュが極意とするクールの構えともいえたがしかし、ただ熱くなっているだけの根拠の無い余裕とも取れた。
「……まずはそこから一歩も動けんようにしてやるぞ。先程は上手く躱したようだが、二度もまぐれは続かん!」
 言いながら、まるで子供相手のごっこ遊びだ、とミロは内心ため息をつく。いや、実際それと変わらないだろう。光の速さを至高とする聖闘士が、こんなにも悠々と会話を交わしている事自体があり得ない。

「──リストリクション!」

 今度は、三発。上段・中段・下段を同時に拘束する為に発されたリストリクションを食らえば、もはや身動きは取れないだろう。しかしその予想は、外れた。
 ピシッ、ピシッ、と実際に音を立てて、リストリクションが弾かれる。
「これは、凍気……? ……なるほど、さっきもおまえにリストリクションが通じなかったのはその為か!」
 凍気が氷河の前面を覆い、ガードの役目をして、ミロの放った小宇宙を弾き返したのである。そのために高めた小宇宙、すなわち凍気が、空気中の水分を凍らせて、目に見える氷の結晶を次々と生み出していた。先程のカリツォーは相手の身体に凍気を纏わせ拘束する技だったが、これは逆に自ら纏う事によって、防御の壁と為している。
「さすがは水と氷の魔術師と呼ばれる水瓶座アクエリアスのカミュに指導されただけの事はあるようだな……フッ」
 その言葉は、笑みは、本心だった。氷河の戦士としての魂を潰す気のミロではあるが、親友が育てた弟子が力をつけていること自体は、嬉しいのだ。ミロはその感情を表に出さぬようにして、厳しい顔を作る。
「ならば、おまえの動きを止めてからなどという悠長な事はやめだ! スカーレットニードルで、その凍気ごとお前の体に深紅の針を突き刺してくれるわ!」
 その程度の力があるのならば、こちらもそれ相応の力を見せてやるのが礼儀だろう。そう判断したミロは、指先に小宇宙を集中した。
「……残念だが、あなたの毒針にやられるまでおとなしく待っているわけにはいかない!」
 しかしそんなミロに、氷河もまた、初めて戦闘の構えをとる。舞にも似た身のこなしは、白鳥座キグナスの名を冠するに相応しい優雅さがあった。
「その前に、このキグナスの凍気によって倒れてもらうぞ、ミロ!」
「小癪な……受けろ! 赤い衝撃を!」
「──舞え、白鳥!」
 ミロが踏み込み、氷河が飛び上がる。そして両者、大概に狙いを定め、そして叫んだ。

「ダイヤモンドダスト!!」
「──スカーレットニードル!」


──クワァ!

 凍気と毒、両者から発された小宇宙のぶつかり合いは、衝撃波のぶつかり合いとはまた違う、奇妙な波動を生み出した。

 ──ピシ!

 ィイイイン、と、金属が震えるような音波が緒を引いた。そして着地した氷河は、踏み込んだ姿勢から一瞬でもとの立ち姿になっているミロの身のこなしに冷や汗をかきつつも、確かな手応えを感じていた。
「や……やった!」
 氷河は、歓喜の声を上げた。防御の為の凍気を纏いつつ全力のダイヤモンドダストを放つのは今までに無い集中力を要し、魔術師と呼ばれるカミュのコントロール技術を必死に思い浮かべながらの挑戦だった。そしていま、氷河は一切衝撃を感じていない──すなわち凍気の防御によってミロのスカーレットニードルを跳ね返し、そして真正面からミロに凍気を浴びせる事に成功した、そう思った。
 しかし次の瞬間、氷河は見た。ミロが、氷の向こうですっと目を閉じ、にやりと笑ったのを。
「なに!?」
 ピッ、とひび割れる音がしたと思えば、あっけなく、ミロの体を覆った氷が崩れて行く。
「……フッ、この程度の凍気で俺の動きを止める事など出来んと言ったはず」
 氷河は、ぞっと血の気が引いた。夏の空のように濃く青い目から、太陽のような黄金の輝きが漏れる。不敵に笑うミロの身体には、もはやひとかけらの氷さえ張り付いては居なかった。
「それよりも、自分のことを心配したらどうだ!? 氷河」
「うっ」
 その強い目が送った視線の先にある違和感に、氷河はハッとした。
「な……なんだ」
 右肩に纏った聖衣についていたのは、針の先で突いたような穴。永久氷壁の中に封じ込められ、青銅聖衣の中でもかなりの強度を誇るキグナスの聖衣に穴を開ける事だけでも驚愕であったが、真に驚くべきは、その衝撃を全く感じなかった事だ。いっそ不気味ですらある現状に、氷河は背中に汗が流れるのを感じた。
 対象を原子レベルで破壊する事が極意である、小宇宙の闘法。その極みともなれば、食らったとき、物理的な衝撃を然程感じないのだということを、氷河は身をもって知らない。もし仮にスカーレットニードルを吊るした紙に向かって撃ったとして、紙は全く揺れないまま穴が空くだろう。
 刺された事にすら気付かず、そして気付いた時には、もう蠍の毒は既に身体に回り始めているのだ。食らった瞬間は全く気付かなかった衝撃はいま、氷河の肩でじわじわと違和感を発し始めている。
スカーレットニードル。──それが、蠍の深紅の針の傷痕だ!」
「……う、わああああ────!!」
 小さな違和感の突然の爆発に、氷河は絶叫した。
 激痛、いや痛みであるかどうかですらもはや判別できない凄まじい衝撃が、氷河の肉体を襲う。
 他者の小宇宙に対する反発性、どの小宇宙も必ず持つその特性が桁外れに高いミロの小宇宙。それを更に練れるだけ練って凝縮し、もの凄い濃度の猛毒の弾丸のようになったそれを、ピンポイントで、しかも超能力によって追尾能力を付加し、百発百中120パーセントの命中率で身体に撃ち込む。身体の奥までねじ込まれた猛毒の小宇宙が凄まじい反応現象を生み、それが肉体のみならず小宇宙や魂にまで響き、この世のものならぬほどの激痛を生む、それがスカーレットニードルの蠍の毒の正体だ。
 スカーレットニードルの激痛は、肉体、主に小宇宙を実際に濃く有する血液が強烈な反発現象を起こすが故のもの。しかも、主だった血管があるところイコール急所であり、最も痛みが強い。そして、肉体で毛細血管がない場所など爪や髪くらいしかない。つまり全身で痛みがないところがないという状態は、まさに想像を絶する。
 そしてその衝撃が赤い衝撃・真紅の衝撃と呼ばれるのは、あまりにも強い反発現象が、多くの場合レッドアウトを起こさせる為だ。
 レッドアウトは主に航空機のパイロットに見られる症状で、体に対し上方向の大きなGがパイロットにかかった際、眼球内血管に血液が集中するため、視野が真っ赤になる症状を指す。更に脳内での各器官における血流量に偏りが生まれると、眩暈、チカチカしたものが見える、などの症状も起こる。
 小宇宙が反発現象を起こした際、防衛本能から指令器官である脳に血液が集中、その結果、このレッドアウトを起こす場合が多いのだ。目の前が真っ赤に染まる中での激痛、それはまさに「赤い衝撃」の名に相応しい。
 そして氷河もまた、真っ赤に染まった視界の中、身体の中を荒れ狂う激痛に耐えた。
 しかしミロはすっと目を細めると、すぐさま構えをとる。
「そら! もう一度食らってみろ!」

 ──スカーレットニードル!

 今度は、パアン! という派手な音がして、氷河の身体が衝撃で飛ぶ。
 大きな音や衝撃があるというのはすなわち原子破壊の力が低い、手加減した一撃であったという事なのだが、小宇宙の闘法の特性をよく理解していなければ、この二撃めの方が威力があるように見えなくもない。
「……スカーレットニードルは人間の中枢神経を刺激し、激痛とともに全身を麻痺させるのだ」
 受け身も取れずに落下し、激痛に呻き続ける氷河を、ミロが長く赤い爪で指す。
「しかし、スカーレットニードルは一発でとどめを刺すようなものではない。降伏か死か、15発の激痛の間に敵に考えるゆとりを与えるのだ」
 正しくは、激痛を与える事により心を挫き降伏に導く技、と言った方が正しい。考えるゆとりを与える、という事ならば、今のミロの行動の方がまさにそうだ。スカーレットニードルだけをひとつずつ撃ち込むなら普通だが、戦いの途中、こうして交渉とも取れる言葉を投げかける事がどれだけナメられた待遇か、氷河はわかっているだろうか。
 蠍座の、15の星。それを撃ち込まれるまでに答えを出さなければ死ぬぞ、と、ミロは出来るだけ固い声で言う。──そして、再度構えた。
「降伏か、死か……」
 先程よりも練られた、威力の高めの毒。激痛を与え、しかし決して死なないように精密に調整された毒が、ミロの指先に集中する。

「さあ、どっちだ氷河よ!」

 今度は、一気に三発。手加減され、威力が低い事をカモフラージュするための連射。しかしその激痛が甘いものであるかと言えば決してそうではなく、氷河は真っ赤に染まりつつある視界の中で絶叫した。そして、最初の一発よりも激しい痛みに、今度は膝を折って顔面から倒れ臥す。
 ミロは、痛みに耐え、石の床に爪を立てる氷河を見下ろした。
「……ただし、過去においてスカーレットニードルを15発全て受けた人間は居ない。せいぜい五、六発までの激痛に耐えられず、発狂するか、……息絶えるか、命乞いをするかのどれかだ」
 真実と嘘を混ぜて、ミロはそう言う。スカーレットニードルを最後まで受けた人間が居ないのは本当で、もちろん命乞いが一番多く、激痛と血液による脳への負担により、人格が変わってしまったという事実もある。だが、息絶えるというのは嘘だ。
 スカーレットニードルによって命を落とした人間は、今の所、一人も居ない。

 一歩間違えば世界の生きとし生けるもの全てを拒絶する猛毒の小宇宙を持ちながら、いやだからこそ、周囲に何一つ傷つける事無く小宇宙をコントロールできるミロの技術は、彼の親友であり、氷河の師匠であるカミュが憧れて止まないものでもある。
 しかしそれは、もちろん彼の努力もあるが、どちらかというと、猛毒の小宇宙を持って生まれたが故の自然な進化──才能の面も大きい。彼は自身が子供であった頃から己の小宇宙をコントロールできており、己の小宇宙の暴走で誰かを傷つけた事は一度もなく、それどころか黄金聖闘士の中でも最も人なつこく、親しみやすいと言われている。
 しかし、正直を言えばミロも、初めて自分の小宇宙の特性をはっきりと知ったとき、その力に恐怖した事もある。やろうと思えば、ミロは自分の小宇宙を周囲に充満させるだけで、まるで毒ガス室か硫酸の雨のようにして、相手を殺すことが出来る。しかも、魂のレベルからの、残酷極まりない激痛を伴って。
 だからミロは、己の力を自覚してから、尚一層、才能だけに甘えない努力をし、そして不殺の誓いを掲げた。己の小宇宙の特性とは最も遠い、決して相手を殺さないという誓い。その結果、小宇宙のコントロール技術において、ミロはトップクラスの技術を誇る。
 その成果の証明として最もわかりやすい例としては、彼が子供にまで完璧なヒーリングを施せる、という事実がある。
 子供は総じて小宇宙が不安定で、自分でコントロールが殆ど出来ない。だからこそ子供は感情を暴走させやすく、知恵熱なども出しやすい。そしてそんな存在に小宇宙を同調させるヒーリングは、小宇宙のコントロール技術の粋、最もレベルが高い行為だ。
 そして、子供のみならず乳幼児・新生児にまで完璧なヒーリングを施せるのは、黄金聖闘士の中では、サガを除けば実質ミロだけだ。赤ん坊はごく些細な異常だけでもあっさりと死に至り、医者の中でも、赤子を対象とする治療が最も繊細な技術を要する。それと全く同じ要領で、ミロは対象の微細な小宇宙の変化を見切り、そしてそれにあわせる技術──すなわち相手を癒すヒーリングに長けているのだ。
 しかも本来猛毒と言っていいレベルで反発性の高い小宇宙を持つ彼の場合、ほんの僅かでも波長をずらしてしまえば、子供に限らず大人でさえ死に至りかねない。そんな小宇宙を持ちながら赤子にさえヒーリングを施すことが出来る彼の技術の凄まじさが、理解できるだろうか。必然的に絶対の精度を求められる分、サガよりもミロのほうが、小宇宙の波長調整コントロール精度は上であろう。
 そしてそんな最高峰の技術を持つミロだからこそ、スカーレット・ニードルという技が可能になる。激痛は与えても決してショック死はさせないというのは、非常に難しい技術であるのだ。
 一見は、単なる拷問技にも見える。しかし真紅の衝撃とも呼ばれる、この世にある最高峰の痛みを与え、それによって心を挫き戦意を失わせるというのが、スカーレット・ニードルの本来の目的だ。この技に降参してしまったその時、決して命は取らずとも、戦士としての魂は完全に砕かれ、もう決して戻っては来ない。そういう意味で、スカーレット・ニードルは非常に慈悲深く、そして同時に残酷極まる技だ。
 そして、ミロは今、その繊細極まりない技術でもって、少年たちに対し、細心の注意を払った手加減を加えていた。優れた薬師が毒薬を正しく治療に用いるように、彼は激痛は与えるがぎりぎり死には至らないだろうくらいの毒の小宇宙を、しかも子供の彼らに向かって、複数打っている。それがどれほどの高度な技術であるか、少年らは知らないが。
 リストリクションとて、ただの拘束技というには高度な技だ。対象が痛みを感じず、しかし拘束だけを完璧にするという非常に微妙な小宇宙の波長を見極めて発する事は、非常に難しい技術なのである。兵器を上回る黄金の小宇宙の持ち主であるなら、それは尚更。
 生かすか殺すか、極端などちらかならば、容易い。しかしなまじ強大な黄金の小宇宙をもっていながらにして、生かさず殺さずを絶妙のコントロールによって行なえるのは、このスコーピオンのミロだけだ。

「くうう……」
 痛みに震え、反発を起こして荒れ狂う血液がもたらす頭痛と心臓への負担に耐えながら、氷河は身を起こした。そして赤く染まる視界を無理矢理に開け、目前に立つミロを睨み上げる。
「い……言っておくが、オレはどれも選ばない……」
 歯を食いしばり、力を振り絞って、氷河は構えを取った。
「この、白鳥キグナスの翼がある限り……!」
 激痛に耐えながらも、羽ばたく白鳥を模した、舞にも似た優雅な構えをとる少年の姿は、悠々と水に浮かびながらも水面下で必死に水を掻く白鳥、そのものであった。
「……よせ。翼が折れる前に発狂するぞ!」
 予想外とも言える氷河の足掻きに、ミロは僅かに眉を顰める。しかし氷河は、あらん限りの気迫を込めた小宇宙を、ミロに向けた。
ダイヤモンドダスト────ッ!!
「……おまえの凍気など、俺の薄皮一枚凍らす程度に過ぎんと諦めたのではないのか……」
 氷河は猛攻をしかけてきているというのに、それを向けられたミロは、静かに呟き、そしてそっと目を閉じる。感情の燃え上がりによって膨れ上がった氷河に合わせ、新しく毒の程度を調整された赤い小宇宙が、ミロの指先から飛ぶ。

──ビッ、ビッ、ビッ、ビッ!

 今度は、同時に四発。
 全て食らった氷河は、大きく口を開け、しかし声も出ずにそのまま倒れた。石床にキグナスの聖衣がぶつかる、盛大な音が響く。
「これで9発……」
 これ以上受けたら、たとえ助かっても廃人になる、とミロは脅しをかけた。死ぬというよりも、その方が脅しになる場合は多い。最低限、いっそ殺してくれと思う程度には、スカーレットニードルの痛みは壮絶なのだ。
「さあ、答えろ。降伏か死か……」
「う……う」
 痛みに呻きながら、しかし呻く余力があるだけ大したものだ、と、ミロは思い始めている。子供相手だと手加減して撃っているとはいえ、銃で撃たれるよりも痛のは確かなのだ。
「な……、何度も言わせるな、オレはどれも選ばない」
 しかも、こうしてはっきりと話し、そして明確な意思を表明し、──更に、こうして立ち上がることなど!
「オ……オレの答えはただひとつ。……闘う事だけだ……!!」
 激しく息をつきながら、しかしまっすぐに自分を睨むアイスブルーの目を見て、ミロは氷河という少年を、ただの甘やかされた子供から、非常に骨のある少年へと見方を変えた。……それは、今から彼に行なおうとする処置とは正反対の思いである事は、わかっていたけれど。
「──よかろう!」

──ビッ、ビッ、ビッ!

 そうして撃った三発は、今までと違い、手加減の度合いが僅かに薄れたものだった。それは、氷河という少年にミロが感じた感情──敬意、それに伴うものだった。
 そしてその込められたものを知るはずも無かろうに、氷河はそれに応えた。今までよりも威力が高い三発を食らったというのに、氷河は痛みに耐える唸り声を低く発しただけで、膝を折らず、そして目も閉じずにミロを睨み続けている。
「……あと三発で確実に死に至るが」
 ミロは、感嘆した。
「その様子では、気は変わらんな……」
 この少年は、単なる甘ったれの子供ではない。
 ミロはいま、それを認めざるを得なかった。今まではカミュの側からでしか氷河を見る事がなく、しかもそのカミュが非常に氷河を甘やかしていたせいで、氷河自身も甘ったれた子供だと思い込んでいたが、こうして直に対峙してみれば、その評価は見事に覆された。親はなくとも子は育つ、そういうことなのであろうか。
 そして我が親友は、この少年のこの姿を、知っているのだろうか。
 ミロは僅かに目を伏せると、再度指先を氷河に向けた。

──ビッ、ビッ!

 とうとう14発までが撃ち込まれたが、氷河は倒れなかった──いや、今回の場合、倒れることすらできなかった、というほうが正しいだろう。これまでは、激痛とともに、まだ身体器官を動かす為の感覚の様々も生きていたはずだ。しかし今現在、おそらく、五感、特に触覚がことごとく薄れてきているはずだ。
 そして実際、実戦にてこの14発までを撃ち込んだのも、実のところミロは初めてであった。確実にとどめを刺すアンタレスの直前の一発を、こうして確実に動きを止め、激痛ではなく、麻痺を与える効果を付与したということこそ、スカーレットニードルを慈悲深い技だと評することが出来る最も大きな要素であろう。
「……もはや全身が痺れて何もわからないだろうが……」
 重々しい声で、静かに、ミロは言った。
「君の闘志に免じて、最後のひとつ、アンタレスを撃ち込んでやる!」
 アンタレスとは、蠍座を形作る15の星の中心に位置する赤い巨星のこと。位置的に心臓にあたることからも、スカーレットニードル最大の致命点である、とミロは解説する。
「……さらば氷河。このミロに、スカーレットニードル最後のアンタレスまで撃ち込ませたのはお前が初めて……褒めてやるぞ」
 ミロがこうして無駄にながながと話しているのも、意味がある。
 14発めのスカーレットニードルは、感覚を奪い、麻痺させる。このまま放っておけば意識が失われ、そして死ぬ事はとりあえずない。アンタレスというとどめの為の予備動作でありながら、ギリギリまで生存の道を残しておく14発めは、やはりもっとも慈悲深い一発だ。
 そしてやはり氷河を殺す意思の無いミロは、スカーレットニードルの14発めによって氷河が意識を失うのを待っていた。気絶で誤摩化し、アンタレスを撃った事にする為の時間稼ぎ。
 それは、戦士としての最後の戦いであろう少年への線別、また手加減したとはいえスカーレットニードルを14発目まで撃たせた事への敬意を評し、不殺を掲げるミロが初めてアンタレスを撃たされ、それで居て生き延びたという栄誉が、この少年を未練無く“英雄”への道から足を洗わせることに繋がれば、と思ったのだ。
 甘いとも、温いとも言われ続けてきた、ミロが掲げる不殺の誓い。しかしそれは、何百人を殺す“英雄”たちと肩を並べながらも決して折らなかった、強い誓いでもある。
 しかしミロは今、その誓いを破らせたという栄誉を、目の前の少年に惜しげ無く与えようとしていた。
 初めてアンタレスまでを撃ち、しかしそれでいて相手が、しかも遥か格下の青銅聖闘士が生き延びたというのは、黄金聖闘士のミロにとって、とんでもない恥となる。
 しかしミロの不殺の誓いは、己の為のものであると同時に、あくまで相手への思いやりでもある。戦士でなくば、英雄でなくば、もっと別の道があったのではないか、出来得るならばその道に戻れはしないだろうか、そういう思いでもって、ミロの誓いはある。だからこそ、この少年が心残り無く戦士を辞められるのならば、ミロは己が守ってきた誇りを捨て、恥とされる結果を甘んじて背負うつもりだった。

 ──しかし。

「ざ……残念だが」
 ぎょっ、とミロは目を見開いた。
「その体勢で、最後の一発が撃てるのか……ミロよ」
「な……、なに、まだ口がきけるとは……」
 そしてはっきりと意識を保ちミロを睨む氷河を、ミロは今度こそ、本気の驚愕でもって見遣った。まさか、手加減しているとはいえ、ここまで来てこうまではっきりと意識があるとは──……!
「一体!? ……うっ!!」
 一歩後ずさろうとしたその時、ミロは異常に気付いた。
「……なんだ、これは!?」
 ミロの両足は、脛・脹ら脛の中程くらいから、しっかりと床に縛り付けられていた。小宇宙の凍気によって作られた鉄よりも頑丈な氷が、ミロの足と床を凍り付かせていたのである。
「バ……バカな、一体いつの間に!?」
「い……一体何度ダイヤモンドダストを撃ったと思っている……」
 だてに撃っていたわけじゃないんだぜ、と言ってのけた氷河に、ミロは唖然とした。
 対象を原子レベルで破壊する事が極意である、小宇宙の闘法。その極みともなれば、食らったとき、物理的な衝撃を然程感じないのだということを──氷河は、身をもって知らないはずだ。
 空気中の水分を凍らせる児戯を発する様ばかり見てきたミロは、そう思い込んでいた。そしていま、あれほど軽んじていた氷河の凍気は、ミロの気付かないうちにその足下を寝食していたのである。
(──まさか、全て、……囮!)
 カリツォーなど、わざとレベルの低い技を見せておいて油断を誘い、そして往生際悪く馬鹿の一つ覚えのように技を放つ。あくまで己を軽んずるように仕向け、しかしその裏で、小宇宙の真髄とも言える技を積み重ね、地道にミロの動きを奪う為に駒を進めていたというのか──この、青銅聖闘士になりたての、甘やかされたこの少年が!
 しかし、ミロは知らない。本来ダイヤモンドダストは、“静”の技だ。儚く小さな氷の結晶が音もなく降るようにそっと、しかし確実に大地を覆い凍らせる。そして氷河は今、その真髄を、真の意味で掴んでみせたのである。
「……最後の一発は、オレが撃たせてもらう!」
 氷河の小宇宙が高まる。雪崩の間の地響きにも似た気迫が、薄れ行く意識と闘いながら脂汗を流す少年から膨れ上がる。
「受けろ、ミロ! これがキグナス最大の拳!」
 バキ、と音がして、しかしすぐには砕けない氷に、ミロはうっと声を上げた。その氷の強靭さが、翻ったマントで散らされた脆弱な氷の輪、やはりあれは囮であったのだと知らしめる。

 少年が、飛び立つ寸前の鳥のように低く構えた。
 ダイヤモンドダストが“静”ならば、この技は“動”。「冷たい竜巻」を意味するその名の通り、相手を巨大な凍気の竜巻で飲み込んで凍結させる技だ。

「──KHOLODNYIホーロドニー SMERCHスメルチ !!」
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BY 餡子郎
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