第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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「……氷河、残念だが」
 覚悟していた以上の衝撃の弱さに、ミロは僅かな悲しさと安堵、両方を感じ、そして目の端の視界で長い尾のついたヘッドパーツが遠くに飛ぶ様を感嘆とともに眺めながら、くるりと宙返りをして体勢を整える。
「スカーレットニードルによって全身が麻痺した状態で撃っては、お前のホーロドニースメルチとやらも何の効果も無いな」
 フッ、と僅かな笑みを漏らしてから、着地寸前でミロは言った。
「それよりも、自分の体を見てみろ!」
「なに!? ……!?」
 氷河の声は、そこで途切れた。

 彼の身体に空いた14の傷痕、針の穴ほどに小さかったスカーレットニードルの傷痕が大きく穴を広げ、一斉に血を噴き出したからである。

 今まで、その小さな傷痕に相応しく殆ど流血が無かったのにも関わらず突然このような症状が現われたのは、やはり14発目のスカーレットニードルによるものだ。
 そもそも、小宇宙の反発現象によって血流はひどく乱され激しくなっており、その分流血もしやすい。しかし生物の肉体とはよく出来ているもので、血が流れようとすると筋肉が膨張、もしくは収縮し、傷痕を小さくして流血を防ごうとするという機能が働く。
 針の穴のような小さな傷痕はその動きによって閉じられ、殆ど流血することはない。しかし、麻痺・脱力の効果を強く持つ14発目のスカーレットニードルを撃たれると、筋肉が緊張を失い、そして小宇宙の反発現象によって相変わらず激しい血流が、緩んだ傷痕から一気に吹き出してしまうのだ。傷痕が小さいだけに勢いよく吹き出す血液は、針の穴ほどの傷痕を大きく広げる事にもなるだろう。
 感覚の全てが一気に異常な症状を表してきた事に氷河が呻くと、ミロは氷河の目前まで歩み寄った。聴覚が薄れた氷河に聞かせる為だ。
「それは、スカーレットニードルによってお前の五感が薄れて行っているからだ」
「な……なにい」
 小宇宙という不可視のエネルギーを蓄える体液・血液を大量に失う事で、五感もどんどん薄れて行く。小宇宙の闘法を操る者にとって、小宇宙の貯蓄媒体である血液を失う事は、最も致命的なダメージであるのだ。
「残念ながら、血が流れて行くに従い、お前の視覚や聴覚、嗅覚・触覚・味覚はことごとく失せて行く」
「うう……」
 淡々と話すミロに氷河は呻き、しかし何とか片膝を突くだけに留め、体を震わせながら、そして殆ど見えぬ目を必死に開けてミロを睨み上げた。
(大したものだ……!)
 ミロは既に、氷河に対する評価を手放しで改めていた。
 しかし、やはり氷河はカミュの弟子なのである。確かに氷河は立派な戦士として大成するかもしれない器だが、氷河をああまで気にかけている親友・カミュの気持ちを無碍にするまでの要素では無かった。少なくとも、不殺を信条とする、ミロという男にとっては。
「な……ならばその前に……五感ことごとく失われる前に……、ミロ……あ……あなたをたおさねば……」
「ムダだ!」
 既にやや呂律も回っていない氷河に、ミロは目を閉じて言い放った。全身が麻痺し、特に触覚の殆どが失われた状態では、何を撃っても通用しないと今わかったはずだ、と。
「……くう!」
 もはや喉も麻痺しつつあるのだろう、声を出す事も無くただ空気の呻きを発した氷河は、もはや技でもなんでもない、子供が勢い任せに殴り掛かるような拳を突き出してくる。
 その拳を、ミロは目を閉じたまま撥ね除けた。衝撃で、キグナスのヘッドパーツが氷河の頭部から外れ、床に落ちる。小宇宙が薄れたせいで、ガラン、と無骨な金属音が響いた。
 そしてミロは、己に当たらずそれた少年の拳を、ぐっと握る。
「……分からず屋め。お前にはカミュの気持ちがわからんのか!」
「な……なに!?」
 氷河は、困惑した。
 それはミロが、敵であるはずのミロが、攻撃を受け止めたわけでも、カウンターに転ずるわけでもなくただ腕を握ってきた事、そして突然その口調が、親友の弟子という、近しい者に対する温かなものが籠った口調に転じたからである。
「カミュがわざわざ天秤宮までで向いていってお前を氷の棺に閉じ込めたのは、お前を死なせたくなかったからだぞ!」
 氷河が、ハッ、としたのを、ミロは感じた。
 ミロはもう、ここまで来ればもはや正面から諭すしかない、と判断していた。小細工を労して己の戦士としての魂に見切りを付けさせるには、この少年の心根は強すぎる。心を折るのではなく、正面から和らげる事で納得させる、ミロはそのやりかたを選んだのである。
「例え仮死状態のままでも、幾星霜ののちきっと蘇る日も来よう……。……カミュはそんな思いを込めて、お前を戦いから外してくれたのだぞ……」
「カ……カミュ……」
 氷河の声が震えているのも、そしてその表情が歪み複雑な困惑に彩られているのも、スカーレットニードルのせいではない。

 ──ああ……我が師カミュよ……!!

 叶うならば天を仰いで、しかし実際は脱力した身体で足下を睨みながら、氷河はつくづくと師の名を心で呼ぶ。
 己の師であるカミュが、師匠という立場以上の感情を己に向けてくれた事を、氷河は深く感じている。親子というには歳が近すぎるが、父親という存在に嫌悪と絶望しか抱いていなかった氷河にとって、とても温かで、頼れるものだった。
 そしてミロから伝えられた言葉で、今、氷河は、カミュの大きな思いを心の奥まで深く感じ入っていた。
 カミュは、愛情深い男だ。しかし戦士の師弟としてそれだけではならぬと「COOL」の心得を掲げ、兄というには懐大きく、父というには厳しく、そしてただ師匠というには暖かすぎる情をかけてくれた。母ナターシャが与えてくれたものに似ていながらにして、頼もしく、時に厳しい腕。
 氷河にとって、カミュは何よりも偉大な師であり、そして父親の居ない少年にとって、師というものは父親以上の存在であった。

 そして、複雑に顔を歪める少年を見遣ったミロは彼の腕を離し、くるりと踵を返して背を向けた。
「カミュに免じて、命だけは助けてやる」
「な……なに」
 離れて行く黄金の気配に、氷河は声を絞り出す。ミロが手を離したせいでよろめく身体を必死に奮い立たせながら、薄くなった五感で、必死に金の煌めきを逃さんとした。
「数日もすれば、五感は再び戻ってくる」
 アンタレスさえ撃ち込まなければ、スカーレットニードルは、決して相手の命を奪う事は無い。まして氷河ほどの小宇宙の持ち主、時間さえ置けば、大した後遺症もなく日常生活を送ることが出来るだろう。
「バ……バカな……」
 遠ざかって行く煌めきに、氷河は唖然とし、そしてついで、ギリリと唇を噛み締めた。
「そ……それこそカミュ同様余計なお世話という事だ、ミロよ……」
「……なに」
 力の入らない拳を握り締め、折れそうになる膝を奮い立たせ、見えぬ目を必死に見開く。
「兄弟である星矢たちが必死で闘っている中、生き伸びんが為の眠りなどについていられるか……」

 ──そうだ、こうして立っているのは、ただ生き延びる為じゃない……!

 少年は、力の入らない拳を握り締め、膝を奮い立たせる。
「たとえ何十年後、何百年後に氷の棺から生き返ったとしてそれが何になる!」
 この氷河にとって、今この時代に生きているという事に価値があるのだと、少年は何の迷いもなく言い切った。辛くとも、苦しくとも、熱き血潮を分け合った素晴らしい奴らと同じ時を歩んでいるという事が喜びなのだと。
「かつては、不運な出生に神を呪った事もある……! だが、今は神に感謝している。やつらと兄弟として、同じ時に生まれた事をな……!」
 母が海の底に消えたとき、自分は一人になったと思っていた。だが今は、そうではない。
 兄弟たちの顔を思い浮かべながら、麻痺したからだとは信じられない力強い声でもって、氷河は言い切った。
「──例え五感が全て失われようとも、この命尽きるまで戦いは止めん!」
 そう叫び、力任せに殴り掛かってきた少年の拳を、ミロは目を閉じたまま避ける。
 しかしその行為は、少年の拳を甘く見ているせいではない。少年が振り絞ったその言葉を、しっかりと噛み締めているせいだ。

《カミュ、聞いたか……》

 宝瓶宮に居るカミュに、ミロは強いテレパスを飛ばした。聞いたか、と尋ねるまでもなく、親友がこの少年の挙動を逐一見守っているのはわかっている。しかしミロは、尚も言った。
《今の氷河の声が聞こえたか!》
 カミュからのはっきりとした返事は、無い。しかし彼がミロの思念を受け取った事、そして黙って頷いた事、また宝瓶宮の入り口に佇み、天蠍宮をじっと見下ろしている事がわかった。
《命を助けてやろうなどという甘い考えは、かえってこの男を侮辱したことになるのだ! むしろ正々堂々と戦い、この男の命を奪う事こそ、氷河を男として認め、真の聖闘士として遇したことになるのだ!》
 興奮したミロの思念は、震えさえも伝わってくる。──武者震い。戦いに挑むとき、如何にして相手を生かすか、いつ殺す覚悟を決めねばならぬかという気を最大限に張っているミロにとって、殆ど初めての経験であった。

《俺は今から、全力をもって氷河にとどめを刺す!》

 繊細に気を配り、毒の程度を常に調整されているミロの小宇宙が膨れ上がり、ピシリ、と空気がひび割れたような現象を起こす。十二宮、天蠍宮の中にある、空気中にさえ滲む歴代聖闘士の小宇宙とミロの小宇宙が、反発現象を起こしているのだ。

《それは俺が氷河を認めたからだ! 良いなカミュ!》

 ミロは、言い切った。
 本気で不殺の誓いを破るというその覚悟を、ミロは宣言した。
 そしてその声には、喜びと、誇り高さが濃く滲んでいる。ミロもまた、この誓いを破るときはいよいよ非情に徹し、相手の命を奪う事だけを考えねばならぬ時だとばかり覚悟していたので、それがこうして、戦士として誇り高い存在に報いる為に破ることになるというのが──嬉しかったのである。
《ミロよ……》
 そのミロの震えを、カミュも感じ取っていた。そしてカミュも戦士として、その喜びを確かに感じていた。
 確かにカミュは、弟子の事を、ただ父兄が子弟を思うように見ている部分が多くある。しかしそれと同時に、弟子として、師匠として、戦士という身の上の先輩後輩として見守る部分も、確かにあるのだ。
《氷河という男の素晴らしさをわかってやってくれて、このカミュからも礼を言う》
 己の無二の親友であり、戦士としても一流と認める男に我が弟子が認められ、またそれが、彼の誓いまでもを破らせたという事実にいま、カミュも震えを感じていた。
 そして、確信した。
 氷河はもう、一人前の戦士であるのだと。
(氷河よ)
 だがそれを確信した時、カミュの胸に沸き上がるのは、涙さえ溢れるような誇り高さと、そして寂しさだった。かつて氷原にぽつんと佇んでいた小さな弟子は今、一人前の戦士として、男として、羽ばたこうとしている。その白鳥キグナスの翼で!
(お前は死すとも進むのだろう)
 女神の為に、そして友の為に。
(ああ、氷河よ……!)
 カミュは宝瓶宮の高みから天蠍宮を見下ろし、胸の震えを噛み締めた。

 ──己もまた、覚悟を決めねばならない。氷河という男の、師として。

 そしてカミュは、天蠍宮を見つめ続けた。我が弟子と親友の神聖な戦いを見守る為、また、己の覚悟を決める為に。



(い……いくぞ、ミロ! おそらくこの氷河にとって、もはや最後の一打になるであろう拳……!)
 さすがに、後一撃放てば力尽きてしまうであろう事を、氷河も自覚していた。しかしだからこそ、五感がことごとく失われて行く中で、小宇宙を高める事だけに意識を集中し、今までで最も強力な一打を放ってやる、と氷河は前を睨み据える。
 感覚がなくなりつつある身体で、それでも、氷河はできるだけ精密に構えを整えた。氷河のとる前動作は、先程からと同じく舞いにも見えるほどに洗練されているが、それとは対照的に、ミロの構えはあくまで力が入っていない。半身の体勢で、スカーレットニードルを撃つ左手だけが僅かに持ち上がっていた。
 しかし両者とも、小宇宙を高めている、という点では全く同じだった。
(──来い、氷河!)
 もう、子供相手のあしらいなどではない。約束通り、最後のとどめ・アンタレスをお前の身体に撃ち込んでやる、とミロも小宇宙を高めていた。本番の戦いでアンタレスを本気で撃つのは、ミロも初めてである。
 氷河の小宇宙は凍気となり、周囲の空気中の水分を片端から凍らせようとしている。細かい結晶となった水分が、周囲にきらきらと舞い始めた。そして反発性の高いミロの小宇宙が、その性質によって、凍気の結晶を壊して行く。静電気のような弾音が、そこら中で細かく発生していた。
 両者の小宇宙が最大限まで高まった時、爆発は起きた。

「──ダイヤモンドダスト────ッ!!」
「スカーレットニードル──アンタレス!!」

 勝負は、一瞬。
 聖闘士にとっての一瞬は、星の瞬きにも似ている。実際には星が燃え上がるまでの何万度のプロミネンス、コロナ、フレアであるのに、地上の者にとっては、瞬きをするよりも僅かな輝きにしか見えず、ただ美しい煌めきであるという事しかわからない。
 そして今、白く輝く星と真っ赤な蠍座の星がぶつありあったのも、また一瞬の出来事であった。

 ドシャ、と、ミロは背後で少年の身体が倒れ臥す音を聞く。

「……氷河、正々堂々と闘って死ねて本望だろう……!」
 お前ほどの戦士ならばそうだろう、とミロは感慨深く呟く。──ミロは完全に、微塵の狂いもなく、氷河の身体にアンタレスを撃ち込んだ。わかりきっていた事だが、勝負はついたのだ。
「これで、……!?
 ぎょっ、とミロの青い目が見開かれた。振り返ろうとしたその時、いつもは動く度に星のなるような高い音を響かせる黄金聖衣が、ぎしりと強ばった音を立てたからである。
「な……なにい!?」
 己の現状を確認し、ミロは驚愕の声を上げた。

 スコーピオンの、15の星。
 スカーレットニードルの軌跡であり、そして蠍座スコーピオンの黄金聖闘士・ミロの星命点であるその場所に、完璧に撃ち込まれていたからである。

 ──それは、凍気!

「い……一体いつの間に……!?」
 ミロは、もはや驚愕よりも困惑に近いような表情を浮かべ、呆然と、血塗れで倒れ臥す氷河を見つめた。
 最後の一撃として、氷河がホーロドニースメルチではなくダイヤモンドダストを選んだのはなぜか。それは、ダイヤモンドダストが“静”の技だからであった。
 ミロと闘った氷河は、ミロがかなりのスピードファイターで、更には遠距離型の間合いを得意とする戦士であると判断していた。もちろん組み合っても強かろうが、主力となるスカーレットニードルという技の性質上、どうしても遠距離型にならざるを得ない。
 そして、遠距離タイプの戦士は、どうしても気が緩みやすい。剣の切っ先を目の前に突きつけられる事の少ない弓兵がそうであるように、攻撃を食らいにくい場所に居るという安心感は、有利であるという過信に変わりやすく、またミロのように非常に実力の高い黄金聖闘士であれば、相手を完全に下に見ているだけに、その油断も大きいのだ。
 もちろん、油断を誘ったくらいで勝てるような相手ではない。しかしそこを最大限に利用して、氷河はミロの足を凍らせ、そして今、彼の急所を完璧に撃ち抜いてみせたのである。
 つくづく、ダイヤモンドダストは、“静”の技である。
 宝石のように美しい結晶が音もなく降り積もり、そして緩やかかつ確実に生命の温度を奪うように、この技は静かなのだ。

 ──そしてそれは、凍気使いの小宇宙の特殊性にある。

 どう特殊かと言えば、それはきっぱりと説明できる。どの小宇宙にも共通する特徴として、ミロが強く持つ反発性と同じく、もうひとつ。それは、“熱”だ。
 生命エネルギーである小宇宙は、燃やせば燃やすほど原子の動きを早め、物体の温度を上げるという特性がある。紫龍がデスマスクの手に火傷を負わせたのも、極端に燃え上がった小宇宙の熱によるものだ。
 しかし、凍気使いはそうではない。凍気使いの小宇宙は、燃やせば燃やすほど原子の動きを止め、温度を下げて行くのである。小宇宙というものの基本性質から全く逆の性質、これを特殊と言わずして何と言おう。
 そして生命というものは、温度のあるものを気配として感じる感覚がある。本能として備わった、ある程度のサーモグラフィ的なセンサー機能だ。熱を持った小宇宙はそのセンサーに必ず引っかかるため、燃やし、威力を高めた分だけ察知されやすくなるという欠点がある。たんぽぽの綿毛が身体についていてもなかなか気付かないが、火の粉が降ってきた時は、肌に当たる前にその温度によって存在を察知することが出来、もっと具体的に言えば、闇に潜む刺客の気配は掴むことが出来ても、機械仕掛けの罠に直感だけで気付くのは非常に難しい。
 しかし、凍気の性質は、他の小宇宙が出来ない事を可能にする。空気が冷たい、と感じた時には既に周囲は凍り付いており、そして原子の動きを止められる事は、小宇宙が燃え上がるのを遠回しに阻む効果もあるのだ。
 ダイヤモンドダストは、その凍気の小宇宙ならではの性質をふんだんに利用した技である。熱くなく冷たくもない温度を保ち、緩やかに原子の動きを緩めて行き、そしてその原子が周囲に行き渡ったのを見計らって、一気にその動きを止める。熱量の無い小宇宙は非常に察知されにくく、上手くやれば、身体に当たっても気付かない事さえある。煮立った湯や氷水に指をつければその温度がわかるが、冷たくも熱くもない温水であれば、濡れた事にも気付きはしない。
 この技は、水と氷の魔術師と呼ばれるカミュの得意技でもある。水と氷の魔術師、その字名には、温い水から凍てつくような氷まで、精密な温度操作──すなわち原子の動きを自在に変える事が出来るという、凍気の小宇宙に関する、壮絶なまでの調節テクニックを讃えたものなのだ。

 また、星命点というものは、聖闘士独特の急所である。小宇宙に目覚めた事によって、血液内に流れる小宇宙の流れから、新たな肉体的急所が発生する。それが星命点だ。その位置が与えられた星座の形であるというのは未だ理由が解明されていない神秘であり、聖闘士たちが星の守護という曖昧なものを心から信じ確信する理由のひとつでもある。

 ──そして、今。氷河は先程何度もミロに向かってダイヤモンドダストを撃ち続け、ミロの、そしてスコーピオンの黄金聖衣の“平熱”を計っていた。触れても絶対に気付かれないその温度を、氷河はいまコンマ何度のレベルで精密に調節して放ち、15もの急所を正確に撃ってのけた。
 しかも、ミロは氷河を一人前の戦士として認めたものの、それは心構え、精神的な面での話であって、実際の実力の面ではまだ氷河を甘く見ていた。つまり、全力でアンタレスを撃つ事には執心したが、氷河から己の身を脅かすような強烈な攻撃が襲い掛かってくる心配については、まるで気を配っていなかった、ということだ。遠距離タイプの戦士特有の油断も相俟って作られたその隙を、氷河はまんまと逆手に取り、見事に突いた。
 そして、実力を下に見られ、しかしそれにムキになって力を見せつけようとはせず、あくまでそれを利用さえして強烈かつ確実な攻撃を食らわす事だけに専念する、これを“COOL”をいわずして何と言おう。
 氷河は、ミロがアンタレスを撃つ事に集中しているその一瞬のうちに、15の急所を完全に凍り付かせてみせたのである。

「くう……」
 さすがの黄金聖衣も、15もの凍気、しかも星命点を凍らされた事によって凍り付いていた。
(……俺の纏っているのが黄金聖衣でなければ、先に絶命していたのはむしろ俺の方だったはず)
 冷や汗を流しながら、ミロはよろめく。それは、凍って動かない黄金聖衣のせいだけではない。ミロの身体には傷ひとつついていないが、凍ってミロの小宇宙を通さなくなった黄金聖衣は凄まじく冷たく、キリキリとミロの肌を刺す。
 すぐそこに、俯せに倒れ臥す氷河の姿がある。致命傷と言っていいだろう量の血液が、じわじわと天蠍宮の石床に広がりつつある。

 ──生き死にの戦いには、勝った。しかし、この勝負──

(……俺の、敗北だ──!!)

 相手の命を奪わず、しかし戦士としての魂を完全に折る事によって“倒す”、不殺の誓い。それを破ったいま、皮肉にも、ミロ自身が氷河によってその敗北感を味わうことになっていた。
 今まで、スカーレットニードルによって何百という相手の心を折り、戦士としての道を断ってきたミロだからこそ、この勝負に置いて本当に敗北したのは自分なのだという事を、潔く認めていた。
 セブンセンシズ、いかに集中力を高め、深いZONEによって濃密な時間短縮を実現し、星のまた滝のような攻撃を行なうことが出来るか。氷河は、命が尽きんとする最後の一瞬、黄金聖闘士のミロよりも遥かに小宇宙を高めてそれを為し、そして見事ミロに勝利したのである。
(──見事だ、氷河……!)
 しかし今、ミロの胸にあるのは、完全な敗北感がいっそもたらした感嘆であった。もちろん、敗北した事に対する悔しさ、またあれだけ頑に貫いてきた不殺の誓いを破ったのちに敗北を期したというやるせなさも、確かにある。しかし、それを上回るようにして、氷河という少年に対する感嘆が、ミロの胸一杯に高まっていた。
 この男にならば、この敗北も甘んじて受けよう。こういった心持ちになれる時が、戦士の一生で何度あるだろうか。そして、不殺の信念で敵を倒し続けてきた己は、今まで対峙した敵たちに、こんな気分を与えてやれていたのだろうか──ミロはそんな事を深く思いながら、じっと氷河を見遣る。
 ──その時だった。
「……な、」
 ぴくり、と氷河の俯せの身体が僅かに震え、そしてそれだけでなく、何とその指先に力を入れ、石床に爪を立てたのである。
 そして驚くべき事に、ほんの数センチほどではあるが、氷河の身体が、ずず、と前に這いずる。ミロは、唖然とした。
「ま……まだ無意識のうちに……」

 ──これ以上、どこへ行こうとする、氷河……!!

 兄弟の元へか? それともカミュの元へか?
 それとも、お前達が邪悪の化身として倒そうとしている教皇の元へか……?

 年端もゆかぬ少年が見せる凄まじい執念を目の前に、ミロは熱い感情が、震えが、足下から全身に登ってくるのを感じていた。この感情が何なのか、名前を付ける事は難しい。ただ熱く深い感動が、ミロの身体を支配した。
 そしてそれは、氷河がここまでの執念を見せてはいても、しかし彼にはもはやその力は残っておらず、スカーレットニードルの傷痕から血が流れ尽くし、もはや後数分の命であるということからでもあった。

 あと、僅か。数分の命を、延命の為ではなく、氷河はあくまでも、前進の為に使っている。

 それは、己の命の灯火が後僅かだという自覚が無いからか? いや、そうではないだろう。たとえ無駄でも、こうして命を賭して進む事に、この少年は命を掛け、そしてそれに違わず、命尽きるまでそれを貫こうとしているのだ。

 ぐしゃり、と、ミロの表情が歪む。
 ミロは唇を噛み締め、そしてとうとう氷河に駆け寄り、ガッと強い力で氷河の身体を起こした。
 それはもはや衝動的と言っていい行動で、ミロの胸には迷いが浮かんでいた。それは、──たった今、あの不殺の誓いを破る覚悟を決めたと言うのに、この少年の命を救ってやりたいという強い思いがそれを覆さんとしている事への迷いだった。
(ああ……)

 この、少年たち。
 こうまで心を揺さぶる戦士たち。
 ならば、彼らが守っているあの城戸沙織こそが、本当に女神なのだろうか?

 そんな考えが、ぐるぐると、ミロの頭を駆け巡る。
(だとしたら、俺たちは……)
 現教皇が、大胆で極端な手段をとることもあれど、常に下々の者たちによいように取りはからってきた事を、ミロは知っている。子供が死ななくなった事、聖域の人々の笑顔が増えたその事実を、その目で見て知っている。
 しかしだからこそ、真実を知りたい、とミロは今、初めて強く思った。
「氷河……」
 ミロは抱え起こした氷河をじっと見、そしてこれ以上の迷いはこの少年をすぐにでも死なせることになると判断し、──そして、再度覚悟を決めた。
(フ……)
 覚悟を決めれば、もはや可笑しいような気持ちすら沸き起こる。この短時間で、戦士としての信念を二度も覆されることになろうとは! しかも、一度ひっくり返したものをまた戻すような形で!
 しかし、ミロの胸にあるのは、己が認めた戦士に対する、見事だという感嘆のみだ。その清々しさは、既にミロから迷いを一切消し去っている。

 ──ス……

 片腕で氷河を支えたミロは、人差し指を振りかぶる。
 小宇宙を錬り、調節し、そしてその指先に集中。スカーレットニードルを放つ際の動作と全く同じ行為、しかし今ミロが作り上げているのは、氷河の小宇宙と極限まで反発する猛毒ではなかった。
 そして、小宇宙の調整が終わったミロは、その指先を、一点の迷いなく振り下ろす。

 ──ビシッ!!

 鋭くまっすぐな一撃が、氷河の身体の中心に撃ち込まれた。

 ──トクン、

 途端、スカーレットニードルによってひどい不整脈を起こしていた心臓が、血液が、トクン、トクン、と、穏やかで正常な鼓動を打ち始める。だらだらと溢れていた血液も、驚くほど顕著に止まり始めている。
 ミロが指先を突き立てたのは、星命点とは逆に、上手く突けば血流、即ち小宇宙の流れを整える事の出来る要所、真央点であった。小宇宙の乱れ、即ち血流を整えるという意味で、単に血止めの急所とも呼ばれる。
 星座の星の形そのままの星命点とは違い、皆同じような場所でありながら、心臓の場所によって僅かずつ位置が違うため、真央点を突くのは非常に難しい。しかしそこは、さすがにミロである。スカーレットニードルによって乱れきった小宇宙と血流であるにも関わらず、ミロは正確に氷河の真央点を突いた。
 そして込めた小宇宙はスカーレットニードルではなく、凝縮したヒーリングだ。極限まで反発する猛毒を作ることが出来るミロは、同時に、どこまでも馴染む小宇宙を調合し、非常に効果の高いヒーリングも得意としている。
 普通、ヒーリングは時間がかかるものだ。性質上、常に本来の波長に戻ろうという力が働く小宇宙を維持しながら、少しずつ相手に送り込む、それが普通のヒーリングのやり方である。それほどに、他人の小宇宙に自分の小宇宙を調整するというのは難しいのだ。
 しかしミロは、指先で突く一瞬のみで、多大な小宇宙を氷河に送り込んだ。小宇宙が乱れきり、波長が読みにくく、普通の状態ではないのにも関わらず、である。

 そして、まさに特効薬と言っていいだろう小宇宙を与えられた氷河は、うっすらと目を開けた。

「あ……」
「気がついたか、氷河……」
 今血止めの急所・真央点を突いた、これで止血とともに五感も少しは回復するはずだ、とミロは淡々と告げる。
 こうまですぐに意識が戻るのは驚異的な事だが、しかしヒーリングの達人であるミロは、当然とでもいう風にあっさりと言ってのけた。
「な……なぜ……」
 ミロは我が師の親友であり、またその心根や性格も悪いものではないということは氷河も重々わかっているが、しかし本気でやり合った敵であるという事もまた事実。その相手に抱き起こされているという現状に、氷河が戸惑うのも無理は無い。
 そしてミロは、そんな少年に、フッと笑ってみせた。
「……見てみたくなった。お前達が、どこまで行けるのか」

 そして、この戦いの行方を。

 自分たちに何か重大な隠し事をしているシュラ、デスマスク、アフロディーテ。下々の者たちの為の政策を常に打ち出し神のようなと言われる傍ら、13年前から殆どその姿を見せない教皇。

 ──彼らは、悪なのか? そしてこの少年たちが崇める女神は、本物なのか?

「……さあ、もう立てるはずだ。行け、時間が無いのだろう」
「ミロ……」
 腕をもって引き上げられ、氷河は言われる通りに立った。
(……身体が、軽い)
 必死だったとはいえ、氷河とて自分が食らったダメージの程度は戦士として自覚しているし、あれだけの出血をしてきちんと立てるというのは、いくら聖闘士とてあり得ないという事はわかっている。
(もしや……瞬が俺にしてくれたのと同じものか)
 未熟で無駄の多いやり方だったとはいえ,先程天秤宮で瞬からもヒーリングを受けた氷河は、血の中に温かなものが宿り、肉体を温めながら巡るような独特の感覚に、ミロが自分の施した行為の正体を見極めていた。
 まただからこそ、氷河は感動していた。瞬が命を掛けて自分の小宇宙を分け与え命を救ってくれたように、ミロもまた、敵でありながら己を認め、その力を貸してくれた。
 父の正体を知ってから、そして母が居なくなってから、己はずっと一人だと思ってきた。しかし師カミュ、兄弟子アイザック、そして星矢たちという兄弟を得、そして今、ミロが氷河の手を引き上げた。
(──俺は)
 どれほど恵まれ、助けられているのだろうかと、氷河は己の幸運に深く感じ入る。こうまでくれば、もはや父親がどうだろうと些細なことではないか、とすら思え、笑い出したいような気にさえなる。
「……ありがとう、ミロ」
「いや……」
 素直に礼を言った氷河に、ミロもまたやや驚き、苦笑とともに、気にするな、と告げた。
「……氷河」
「?」
 神妙な表情で話しかけてきたミロに、戦士の常識として自然に己のコンディションの確認をしていた氷河は、ふと彼に目線を向ける。
「お前の言うように余計な世話かもしれんが……、……覚悟を決めろ」
「覚悟ならもう決めている」
「次の敵はカミュだ」
 はっきりと言ったミロに、氷河がびくりと戦いた。
「俺はお前を殺さず行かせることを選んだが、それは慈悲も同情でもない。むしろ、お前にとってもっと辛い試練を課すことになったと思う。師と闘う、というな」
「…………」
 氷河は、俯いた。カミュがどれほど己を気にかけてくれたかを痛いほど感じた今、確かにミロのいう通り、その事実は胸が壊れるほどに痛い。
「だが、氷河。……カミュは覚悟を決めたぞ」
 言われ、ハッ、と氷河は顔を上げた。ミロは、夏空のような青い目で、まっすぐに氷河を見遣っている。
「カミュは、戦士としてお前を迎え撃つだろう。氷河、お前を戦士と認めた故に」
「…………」
 そう言われ、氷河は、悲痛に表情を歪める。
 そしてミロもまた、カミュの名を出した途端に普通の子供のような顔を見せる少年を前に、己が彼に課した試練の過酷さを思う。──だが、
「後悔だけは、するな」
「……わかった」
 氷河は、重々しく頷いた。そして小さくもう一度礼を言うと、踵を返し、走り出す。──天蠍宮を抜け、人馬宮へ。そして、カミュの居る宝瓶宮へと。
 ミロはその後ろ姿を見送りながら、あの男の言葉を思い出していた。「それがお前の正義なら」と、他人の正義を決して否定せず、ただ黙々と剣を振るうあの男は、己の預る磨羯宮にて、今もじっと立っているに違いない。

 ──ただし、お前が殺さなかった事で、何か取り返しのつかないことが起こるかもしれない、という事は覚悟しておけ

「……そんなへまはしない」
 あのとき返したのと同じ台詞を、ミロは小さく呟き、拳をぎゅっと握り締めた。
 このあと、氷河とカミュは闘うことになるだろう。命を賭して、闘うことになるだろう。そしてその結果、ミロは無二の親友か、もしくは初めて敵ながら天晴と認めた戦士を失うことになるだろう、それもまた、どちらかの手によって。
「……お前の正義は、何なんだ、シュラ」
 デスマスク、アフロディーテとともに、長い間隠し事をし続けてきたあの男が掲げる正義とは、一体何なのだろう。そしてこの戦いの決着がつけば、それを知ることが出来るのだろうか、とミロは思いを馳せる。

「──後悔など、しない」

 しかし、戦いが終わったとき、少しだけなら。
 ──泣いても、いいだろうか。失ってしまうだろう、かけがえのない星の為に。
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BY 餡子郎
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