第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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少女が滝壺に落ちて行くのを感じると同時に、デスマスクは己の頭に昇った熱気が、するすると下がって行くのを感じた。久々の激昂は冷静になってみるとどこか居心地悪く、そして不快を発散しきった心地よさもまた同時に感じられる独特の感覚をデスマスクにもたらした。
──普段なら、気に障りはしても手は出さなかった、その程度の存在だった。
しかし黄泉比良坂にきたことで、デスマスクは小宇宙を高めざるをえない状況にあり、少し集中すればセブンセンシズの領域に入れるまでの小宇宙を常に保っている。
小宇宙を高めると、先ず肉体が劇的に活性化し、その能力も飛躍的に強化される。心拍数は上昇し、筋肉組織は活性化し、脳内を様々な分泌物が駆け巡り、結果的に気分を大きく盛り上げる。そしてそれがセブンセンシズの領域ともなれば、どうか。
デスマスクがかつて盟に体験させたように、最低でも、人間の身体機能の限界を遥かに超えた働きが可能になるその状態は、精神的な方面にも大きく影響を与える。
興奮している人間は、普段は気にも留めない些細なことにも、過剰に反応したりするものだ。
デスマスクは、常に冷静であるように努めている。だがそれは、彼が元々天才的に小宇宙のコントロールが上手かったからこそ辿り着いた極意でもある。小宇宙のコントロールが上手いという事は、感情のコントロールが上手いという事にも繋がる。カミュなどは逆に全くそうでなかったからこそ、クールであれという結論に達したが。
しかし黄泉比良坂に来たことにより強制的にほぼMAX値まで小宇宙を燃やすことを余儀なくされ、しかもデスマスクは、この場に来たことは初めてでもなんでもないが、“戦う”ことは初めてだった。
ただ小宇宙をMAX値まで上げるだけなら、まだコントロールがきく。だがその状態で戦いつつコントロールも完璧に行なうとなると、いくらデスマスクでも完璧にとはいかない。コップの水を表面張力ギリギリまで注ぐことは容易でも、それを持って水を全く零さず歩くことは至難の技であるように。
そして、小宇宙、ひいては感情のコントロールの緩んだ状態で感じた祈りがつい琴線に触れてしまい、別に取らなくとも良い駒を取ってしまったことに内心軽く舌打ちしながらも、デスマスクは冷静に回り始めた頭で、体制を立て直す。
「フフ、あの小娘、随分お前のことを思っているようだったな」
口元に浮かぶのは、余裕の笑み。それは単なる表情というよりも、もはやデスマスクの癖に近い。自分は余裕がある、といかなる時も見せかけるポーカーフェイス。保険としてのブラフ、そのための笑みだ。
デスマスクは掲げていた腕を、改めて振りかぶった。
「むしろ俺に感謝しろ、これで二人揃って仲良くあの世に行けるのだからな……っ!?」
──ボウッ!
「う、ぎゃああ────ッ!」
それは、熱だった。
炎というよりは焼けた鉄を思わせるような熱が、紫龍からいきなり感じられたのである。
「て……手が、燃える──ッ!」
デスマスクは思わず呻き、掲げていた紫龍の身体を離した。手のひらを覆う黄金聖衣のお陰で皮膚が全て焼け崩れるような事態には陥っていないようだったが、しかし無防備な五指はもろにその熱を受け、重度の火傷の激痛をデスマスクに与えていた。そしてそれだけに留まらず、ただ皮膚を焼いたというよりはまるでその皮膚の下に真っ赤に焼けた火掻き棒でもねじ込まれたような凄まじい激痛が走った。
──ガコォッ!
いきなりの現象に驚いたせいか、聖衣に小宇宙を十分に巡らしきれていなかった所を殴られ、響いた音は星の鳴るような音とはほど遠い、鈍い金属音だった。そしてほとんどただの重い合金と化していたキャンサーのマスクは、デスマスクをガードするどころか、外部からの衝撃を数割増してデスマスクの頬を殴打した。
その衝撃に思わず奇妙に歪んだ呻きを上げ、しかしなんとかデスマスクは殴り飛ばされそうになった身体を支える。
「デ……デスマスクよ」
目の前に立った紫龍の声は、ぶるぶると震えている。
(な……何い!?)
デスマスクは、ぎょっとした。
紫龍の身体から立ちのぼるのは、小宇宙だ。しかも一定の程度を越した為に視認すら出来るようになったそれは陽炎のように揺らめき、そしてやはり凄まじい熱を持っている。
紫龍は“勇”と“智”タイプの戦士であり、それは間違いない。しかし彼の小宇宙は今、熱という特性を持って揺らめいている。
小宇宙が熱を持つのは、珍しいことではない。一定以上に一点に集中して錬られた小宇宙が視認出来るようになり、そして熱を持つのはごく自然な現象であり、そしてその現象が存在するからこそ、小宇宙を「燃やす」という表現が使われるのだ。
だが他人の肉体に実際に大火傷を負わせるほどの熱量など、聞いたことがない。炎熱関連の“仁”の力を持つ聖闘士は現在確認されていないが、紫龍がそうだったのだろうか。だとすれば、紫龍は“仁”・“智”・“勇”の全てを揃えた希有なタイプの戦士と言える。そして全てのゲージが低く小さな三角形のラインしか持たないといえど、三要素が揃ったタイプの戦士を倒すのは、相当骨が折れることだ。
「この紫龍、いくら敵とは言ってもここまで相手を憎いと思ったことは生まれて初めてだ! ──もはやお前に対してひとかけらの情け容赦も持たん!」
怒りのあまり震えた声で、“憎い”、と紫龍がはっきりと口にしたことに、デスマスクは目を見開いた。
アテナの聖闘士として優秀な素質とは、何か。自分の命を捨ててでも、挑まれた戦いは必ず受けて立つこと。そして全ての私情を捨て、ひたすらに神の為に盲進することのみがその為に必要なことであるはずだ。
そしてデスマスクが五老峰でであった紫龍は、まさにそのアテナの聖闘士であったはすだ。だからこそ、実際に盲目であることがデスマスクにはとても皮肉に、そして滑稽に映った。何も見えていない、自分の考えなど何も持たずにただ神に従い、レミングのように死地に突き進む愚か者。
だが今、黄泉比良坂にて目を開き視力を取り戻した紫龍ときたら、どうだ。
「バカな……」
既に力尽き、亡者も同然の状態だったはずの紫龍から、黄金聖闘士をも凌ぐ小宇宙を感じる。
彼はいま、自分の為に祈っていた小さな人間の少女のために、文字通り小宇宙が燃え上がるほどに怒っている。そしてデスマスクにはっきりと“憎い”という言葉を発し、さらにそれを理由にデスマスクに拳を向けようとしているのだ。
せいぜいワンペア・ツーペア程度だと思っていた相手の手札から結構な組み合わせの役が飛び出し、デスマスクは火傷の痛みとともに顔を顰める。
デスマスクは、思考を巡らせた。そして次の駒運びについて考えた。だが不確定要素の多すぎる緊急事態を前にして、再び緻密な策を立て直すには時間が足りなさすぎる。
──デスマスク、お主のやり方は冷静で確実じゃが、先程お主自身が言ったように、気合で押し負けてしまえばいくら綿密な策を練ろうと元も子もなくなってしまうでな
かつてデスマスクも教えを受けた、──そして目の前の少年の師でもある老人の声が、遠く頭に響いた気がした。
「くたばれ、デスマスク!」
彼の性格からすると随分と口汚い雄叫びを上げながら、紫龍は迷いのない勢いでデスマスクの懐に踏み込んだ。拳法の型を守った、そしてその上に全力の力が籠った素晴らしく正確な踏み込みを、デスマスクは避けることが出来なかった。
デスマスクは、戦争に勝つ為の力を十数年間かけて磨いてきた。生まれもっての希有な“仁”の力、そしてそれを最大限に生かす為、全てを費やして黙々と積み上げてきた“智”の力。それらの力は確かに強大で、彼を悪魔のように頭の回る、死神の如き参謀と言わしめるまでに強くした。
しかし、それらはあくまで、“戦争”の為の力だ。彼は自ら明言しているように、“ケンカ”には弱い。拳法の達人・童虎老師に教えを受け磨いてきた体技を持つ紫龍と殴り合いをして勝てる技量は、デスマスクにはないのである。
一番最初の一撃は、本当に感情任せの、滅茶苦茶な一打だった。しかし紫龍は今、きちんと拳法の構えをとり、すばらしい体技でもって息つく暇もない連続技をデスマスクに畳み掛けている。それは彼が、頭に血が上った状態でもきちんと構えが取れるほど格闘技を体に染み込ませているか、という証しでもあった。
(くそっ──!)
デスマスクは、そんな紫龍とは正反対に不得手である“勇”──小宇宙による肉体強化によって紫龍から繰り出される打撃の雨をしのいだが、小宇宙によって何とか防御はできるものの、拳法を修めた紫龍の怒濤の打撃を避ける技量はやはりない。
小宇宙の絶対量に置いてどうしてもデスマスクより劣る紫龍が彼に確実にダメージを与える為に最も有効なのは、この単なる殴り合いである。デジタル画面の中、広範囲で魔法を炸裂させる強力な魔法使いがレベルの低い戦士の短刀であっさりゲームオーバーになる、そんな風にならないように、だからこそデスマスクは常に彼から距離を取り、そして彼が何か行動を起こす前に積尸気冥界波を叩き込んできた。
しかし今、体に刻み込まれた体技に、感情によって極限まで燃え盛った小宇宙を込めて猛然とラッシュを叩き込んでくる紫龍は、デスマスクが喧嘩相手として最も厭う、“勇”と“智”タイプの戦士としてこれ以上ない動きを見せている。
──デスマスクは、待(・)っ(・)た(・)。
紫龍の打撃を見切って避けるのは、はなから諦めている。小宇宙の闘法に置ける最も重要な極意は“智”、すなわち小宇宙の絶対量だというデスマスクの考えは揺らがないが、しかし、絶対量は大きくなくとも、小宇宙に目覚めた聖闘士が何年もかけて習得した体技をいなせるかどうかというと、答えは否だ。
よってデスマスクは、今自分がすべきは、やはり小宇宙を燃やし、己の肉体と、そして己が纏うキャンサーの黄金聖衣により多くの小宇宙を巡らせることで防御力を出来る限り上げることだと判断し、殴られるままになりながらそれに徹した。
だが、決定的なダメージにはならないとはいえ、それなりに衝撃は受ける。
(あー、これだから喧嘩は嫌いなんだ)
好き好んでこんな痛くて疲れる思いをしようとする奴の気が知れん、と、デスマスクはかつて手足の骨を折り、血まみれになりながらも喧嘩相手の山の上で笑顔を見せていた黒髪の友人の顔を思い浮かべた。
(……あいつなら、この小僧に楽に勝てるかね)
同じく“勇”と“智”タイプ、しかしそのレベルは天と地ほども違う。しかも元々“恐怖”を持たず、そして感情というものを常に頭の別の所に据え置いているシュラという男は、いくら小宇宙を高めようと感情に流されることがない。一度に二つ以上のことが出来ない不器用な男であるが、その孤剣は今では四肢全てに宿り、そしてひたすら研ぎ澄まされている。
──ドガァッ!
「げはあっ!」
そしてそんな彼とは正反対に器用な男は、そんな風に頭では全く違うことを考えながら、特にいい踏み込みでもって放たれた一撃を受けてあえて吹っ飛び、大きな声を上げながら、背中から派手に倒れた。ダメージを受けて弱っているふりをして、デスマスクが待っているそのとき、紫龍がより油断するように。
喧嘩が強い相手にそうでない者が勝つには、やはり知略による奇襲しかないのだ。
デスマスクが頭の中で何を考えているのかなど知らぬまま、紫龍は仰向けに倒れた彼を見て、ぎりぎりと歯を食いしばりながら、震える息を吐く。そして底冷えのするような青い炎──燐光のようにも見える小宇宙を体から立ちのぼらせながら、怒りのあまり歯の根の合わない口から言葉を発した。
「……おまえは、俺の最も大切なものを無惨に踏みにじった!」
僅かに、デスマスクのこめかみが動く。
(……やめろ。流されるな)
デスマスクは、自制した。紫龍の攻撃に耐える為に限界まで高めた小宇宙は、デスマスクの体を、脳を、──そして感情を高ぶらせている。しかし、もうそれに引きずられてはならないと、デスマスクは強く自制した。
激昂しても型通りの拳法を披露出来る“勇”に優れた紫龍と違い、特殊な“仁”を膨大な“智”でもって操るデスマスクにとって、感情による暴走は自分を追い込む事にしかならない。
「そうだ……」
(──くそっ……!)
紫龍の小宇宙が、再び高まる。デスマスクは内心舌打ちしつつ、それに対抗する為に同じく小宇宙を高めた。同時に、それに流されないようコントロールする行為も忘れてはならない。だがMAX値まで小宇宙を高めることとそれをコントロールすることを同時に行なうのは、いくらデスマスクでも骨の折れることだった。
「おまえは、この紫龍の逆鱗に触れたのだ!」
──ガコォッ!
「おまえの命が絶えるまで、俺の怒りが消えることはない!」
紫龍の拳はデスマスクの顎を直撃し、思い切り上にかち上げた。
「がはっ……!」
今までの中で一番強烈な一撃、しかも急所、更に言えばよりにもよって顎──つまり脳を揺らす箇所に重い一撃を食らったデスマスクは、演技ではない呻きを漏らした。
デスマスクが極意とする“智”の小宇宙は、脳の働きこそが要だ。彼が最大の武器とする知略、そして小宇宙、感情のコントロールも全て脳が行なっており、それを物理的に揺らされるというのは、デスマスクにとって特に致命的なことだった。
(もっとも大切な、だと)
考えるな、と、頭の違う所で自分の声がする。しかし表面張力ギリギリまで注がれた所を大きく揺らされた水は、いくらコップを押さえても盛大に溢れてしまう。
(──良い子のアテナの聖闘士が、“最も大切なもの”だと?)
大きく揺れた脳は、感情のままに思考する。──してしまう。
紫龍は、言った。あの少女こそ自分の最も大切なものだと。それを奪ったデスマスクを許さないと、お前の命を絶やすと、──殺してやると、そう言ったのだ。
(アテナの為に戦うんじゃなかったのかい、小僧!)
──だが男にとって、……特に戦士にとって本当に大事なのは、竃の前に居る女さ
料理長の言葉が、脳裏に蘇る。
どうしても帰りたかった、──もう、どこにあるのか、どこにあったのか、名前すらもわからなくなってしまったあの場所、愛しい女の墓は行方知れずで、もうきっと二度と会えない。
だがいま目の前で怒りを滾らせている少年は、自分がかつて失ったものを持っているのだろうか。家の中で、炉の前で自分の帰りを待つ、誰よりも愛しい女が居るのだろうか。そしてそれをたった今、失ったのだろうか。
──ああ、ならば、
火の消えた冷たい暖炉、その前で突っ伏して泣いたあの気持ちをいま、この少年は味わっているのだろうか。
(……駄目だ、考えるな)
デスマスクは、自分の性格を知っている。
身内、自分と同じもの、同類、理解出来る存在。……そういう彼らに甘く、味方をしてしまう自分を、デスマスクは知っている。
(考えるな、考えるな、考えるな! ──考えたら、負けだ!)
だが気になったらとことん気になって考えてしまうという性格も、デスマスクは自覚している。
苛々する。ストレスで回転が詰まり熱を持ち始めた脳が、感情を吐き出そうとしている。
「クッ……ク……」
言うな、と警鐘が鳴っている。デスマスクの口からは、揺れた脳を、小宇宙を、感情を制御しようと足掻いているがための荒い息が漏れている。そして同時に、同情を誘う己と同じ境遇をちらつかせながらも矛盾したことを喚く少年の顔に唾を吐きかけてやりたい、という、こちらも同じく矛盾した感情が、彼に嘲笑めいた笑みを浮かべさせた。
「……小僧、あの春麗とかいう小娘を滝に落として死なせたことが、そんなに悔しいか……」
余計なことを言っている。切るカードを間違えている。
自覚はあった。だが、──感情が、止まらない。
「命など、塵芥と同じように次から次へとこの宇宙へ浮き出てくるものを……」
蟲毒の壺の底でどんなに子供たちが死のうとも、また集めてくればいい。おまえの女神が言っていることだろうと、デスマスクは皮肉を言った。
(言うな、黙れ、自分の手の内を見せるな、演技をしろ! ──本音を言う必要などない!)
MAX値に小宇宙が高まった状態で揺れた脳での葛藤は頭痛すら引き起こし、デスマスクは荒い息をつきながら、片目が閉じた引きつった笑みを浮かべた。
「女々しい奴よ……ククク……」
「──立て!」
デスマスクの皮肉は皮肉として通じてはいなかったが、紫龍は不快げな表情を濃くして、怒鳴った。おそらく、ひどくダメージを受けているように見えるデスマスクが笑ったことが不気味だったのだろう。そうでなくとも、紫龍は元々怒りが持続するタイプの性格をしていない。おそらくここまで激昂したのは、生まれて初めてだったかもしれなかった。
更に言えば、やはり青銅聖闘士であり初めて自分より格上の敵と戦う新兵が、常に小宇宙を吸い取られるような黄泉比良坂という空間で、あの灼熱のような小宇宙を持続させるのは無理があったのだろう。
だが紫龍はキッと目つきを鋭くし、己を奮い立たせて尚も叫ぶ。
「その黄泉比良坂の穴は、死界への落とし穴! 二度と蘇生することが出来ないと言ったな! ──デスマスク、今度はお前自身がそこへ落ちる番だ!」
おそらく偶然だろう、デスマスクのすぐ背後は、巨大な火口のような真っ暗な穴だった。背水の陣と見える──いや明らかにそうとしか見えない状況だった。そして紫龍は、先程何度もしたように、打撃によってこのままデスマスクを後方へ打ち飛ばして穴に落とすつもりなのだろう。……デスマスクのエムパス能力が、そんな紫龍の思考を、はっきりと読み取った。
「死界へ行って、今までお前が殺した罪もない人々に詫びるがいい! ──食らえ、盧山昇龍覇!」
──だが、思考が読めるということは、感情が鎮まったという事だ。
(きた)
デスマスクは小宇宙を高め、セブンセンシズの域に入る。──彼は、この時を待っていた。
──ガカァッ!
「む……う……」
シュウウ、と小宇宙がより強大な小宇宙とぶつかって消え行くその音は、炎が水で消されたような、情けないものに聞こえた。クッ、とデスマスクが喉を鳴らして笑う。
「言ったはずだ、既に見切っている昇龍覇などこの俺には通用しないと……」
不得手とはいえ、デスマスクがMAXまで高め手のひらに集中した小宇宙は、怒りのボルテージの下がった紫龍の昇龍覇より上であった。
そして長い年月をかけて習得した格闘技の連続技を見切ることはデスマスクには出来ないが、軌道がすっかり決まり切っている盧山昇龍覇なら、避けることなどわけはない。必殺技よりも小技の連続の方が効果があるなど紫龍は全く気付いていないが、デスマスクはあえて打撃を受けながら、紫龍がトドメとしてこの大技を出すのを待っていたのである。
「いくらお前の全小宇宙を燃やして攻撃をしようと、所詮はここまでよ!」
「う……っ!」
デスマスクの小宇宙に真正面から止められた紫龍の腕を、デスマスクは強く掴んだ。だが彼の腕には少しだけ高い体温しか感じられず、先程デスマスクに大火傷を負わせた灼熱など、全く存在しなかった。
「俺の肉体にどれだけ痣をつけようとも、決定的なダメージを与えることは出来ん!」
ニタァ、と、デスマスクは悪魔のような笑みを浮かべてみせた。
「なぜなら俺が究極の聖衣、黄金聖衣を纏っているからだ」
ジャミールの民、人間によって作り出され、かつて死んでいった聖闘士達、その何百何千という血を吸って鍛えられてきた黄金聖衣。そして生まれながらにして容易にセブンセンシズまで到達出来る強大な小宇宙、更にそれが操るのは、神ですら死の舞踏に堕とし込む死神の力。
デスマスクは、悪魔の笑みを深くする。最強のカード、ジョーカーズ・ワイルドは、やはり自分の手の内にあるのだと。
「──このキャンサーの黄金聖衣を纏っている限り、お前が何千何万発の拳を繰り出そうと、俺にとどめを刺すことは不可能なのだ!」
──ドガァッ!
先程紫龍がデスマスクの脳を揺らしたアッパー、それと全く同じものを、デスマスクは紫龍に食らわせた。彼に放ったそれはやはり本職ではないだけに威力はさほどでもなかったが、黄泉比良坂に怒りと小宇宙をこそぎ取られ、更には散々打撃を加えたはずのデスマスクに奥義・盧山昇龍覇をまたも真正面から止められたせいで揺らいだのだろう、小宇宙があるだけで動き自体は素人めいた拳をまともに受け、紫龍は宙を舞った。
「うわああ────!」
そして紫龍が落下した先は、真っ暗な死界の穴。目の前に広がる果てのない闇は、差し掛かった紫龍の小宇宙を更に引き寄せる。あらゆる意味でぞっとした紫龍は、死に物狂いで死界の穴の縁をなんとか左手で掴んだ。危機一髪の緊張と、自重と落下の勢いが一気にかかった腕の痛み、そして死界の穴が小宇宙を吸い取って行く感覚に、紫龍は呻く。
「一気に形勢逆転だ! これがお前と俺の違いなのだ!」
片手のみで穴の縁にぶら下がった紫龍をデスマスクは笑いながら見下ろし、このまま突き落としてやる、と宣告した。
「──くたばれ、紫龍!」
はからずも、それは紫龍がデスマスクに言った言葉と同じだった。
そしてデスマスクは、今度こそもったいぶらず、紫龍が必死に穴の縁を掴んでいる手をけり飛ばすため、思い切り小宇宙を込めた蹴りを放とうと、足を振り上げようとした。
──ガシッ!
「な……」
突然自分の体にへばりついてきたものに、デスマスクはぎょっと目を見開いた。
「──なんだ、こいつらは!?」
目玉は腐り落ち、鼻は削げ、髪も抜け落ちた姿は実に醜悪だった。ミイラのような、ぼろぼろの茶色をした皮膚、そしてその下から浮き上がる肋骨、不自然に出た下腹。
──ここ黄泉比良坂で死の舞踏を踊る彼らは、既に生前の面影など一つもなく、皆一様にそんな姿を晒し、そして一斉にデスマスクにへばりついていた。
「は……、こ……この亡者達は……、今までデスマスクに殺された、何の罪もない人たちか……」
紫龍は力の入りにくい体を何とか少しずつでも押上げつつ、異様かつ不気味極まる目の前の光景に冷や汗を流した。
「な……なんという恐ろしい光景だ! デスマスクに対する怨みで、未だに成仏出来ずに現世と死界の間のこの場を彷徨っているのだ!」
あの世へ行けぬのだ、と、紫龍は恐ろしげに呟く。
「死んでも死に切れぬとはまさにこのことか……」
(フン)
動く遺骸、しかも決して綺麗とは言えない状態のそれらにまとわりつかれる不快さはかなりのものだが、デスマスクは紫龍がそう言った途端に顔を歪めた。
当然のように紫龍は「デスマスクに殺された人々」が、彼に何らかの怨みを晴らそうとしているのだと思ったが、実際は違う。黄泉比良坂にやってきた死者は、死界の穴に生気、つまり小宇宙を吸い取られ、無気力に列に並び、そして自ら死界の穴に堕ちるのである。
ここ黄泉比良坂は、死に至る為だけの場所なのだ。死界の穴は常に生きる気力を、小宇宙を吸い込み、死者達を死界に誘っている。
仮に、死んでも死に切れない、などという根性、気力があるのなら、先程紫龍が現世に戻ってきたように、この黄泉比良坂を抜けて自分の肉体のある現世へ戻っているはずだ。
──あの日、あの時。仮面の下から涙を流し、どうか娘だけはとデスマスクに縋った彼女は、「死んでも死に切れない」ということであればこれ以上ない思いを持っていたはずで、ならば今頃は足がなくとも元気に暮らしているはずだ。しかし、彼女はとっくにこの世に居ない。
だからいま亡者達がデスマスクに群がっているのは、単に彼の小宇宙に惹かれたからだ。
亡者達は既に生きる気力、生気を完全に死界の穴に奪われている。完全に生前の姿がみられない姿をしているのが、その証拠だ。王族、貴族、僧侶、農奴。皇帝、君主、法王、修道士、若者、美少女。老若男女も美男美女も醜男醜女も貧乏人も金持ちも、そして悪人も善人も、死の前では等しく皆一様に骸骨の姿をとる死の舞踏、彼らはその踊り手なのだ。
そしてひたすらに死を願って踊り行進し続ける彼らには、デスマスクの持つ死神の力が、何よりも魅力的に見えるのだ。
深く深く、底の見えない、恐ろしさと同時に吸い込まれるような魅惑がある真っ暗な穴の底には求める何かが確かにあって、覗いてみろと誘うのだ。暗くて甘い、死の誘惑。眠るように安らかに、女の胸に顔を埋めて目を閉じる、うっとりと蕩けるようなその安らぎ。
第六感、シックスセンス、優秀な霊感、エムパス能力を持つデスマスクには、彼らの声がよく聞こえる。早く死なせてくれ、楽になりたい、彼らが願うのはただそれだけだ。
「デスマスク、自分の罪の重さを思い知れ! この亡者達の怨念が恐ろしくはないか!?」
紫龍が叫ぶ。その問いかけは、恐怖を孕んでいた。ただそれが亡者に対してなのかデスマスクに対してなのか、それともこの現状に対してなのかは、紫龍自身にもよく分からなかった。
そしてデスマスクは、──笑った。
余裕綽々の、強いカードを手の内に持つ者の笑みだった。
「……ククク、言ったはずだ。こいつら亡霊の数は俺の強さの証しだと!」
実際にはこの亡者達はデスマスクが殺した人間でもなんでもないが、実際にそうであっても、デスマスクは笑っただろう。もしかしたら、今よりももっと盛大に笑っていたかもしれない。
神でさえこの醜く哀れな亡者達と同じものにする、世界で最も強い力、“死”。最強のジョーカーズ・ワイルド、デスマスクはその力を生まれ持った死神であり、そしてこの亡者達の生を感じさせない哀れな姿こそが、己の強さの証である。
デスマスクは、演技のハッタリ、ブラフではなく、本気でそう思っているのだ。彼らこそが、巨蟹宮に浮かぶ哀れな無数の死に顔こそが、自分が勝ち続けて手に入れてきたチップの山なのだと。
「──何が恐ろしいものか! こんな亡者どもに何が出来る!?」
一際大きな、オペラのクライマックスよりもよく通る声でデスマスクは言い、まとわりつく亡者達を一気に全て跳ね飛ばした。あっけなく宙に舞った亡者達は、そのまま死界の穴に消えていく。
「死に切れぬというのなら、この俺自ら死界へ放り込んでくれるわ! そらそら落ちろ落ちろ!」
黄泉比良坂の全てに響くような笑い声を上げ、デスマスクは周囲に居た亡者を全て死界の穴へたたき落とす。
「──何という強靭さだ!」
この男には、死者に対する恐怖も自分が犯した罪にも、いささかも心が動揺していない。
それを確信した紫龍は、目の前で繰り広げられている凄まじい光景に冷や汗を流しながら、恐怖にも似た感情に目を見開く。
しかし彼の言葉は、デスマスクにとって褒め言葉意外の何ものでもなかった。
──“罪悪感”の欠如。
罪の意識を感じないというその特異な性質は、デスマスクの強みだ。
ある意味「思うだけで人を殺せる」彼がそんなものを持っていたら、デスマスクは死神たり得なかった。
だが彼は罪悪感というものの欠如により、悪魔のような、死神のごとき参謀となり得た。
彼は、“喧嘩”には弱い。一人の強者に一人で向かって行く力量はない、しかし小宇宙さえ磨けば人間に対し核兵器並の殺傷力を持ち得る死神の力を振るう、つまり大量殺戮兵器のボタンを躊躇いなく、特別な感情すら持たずに押すことが出来る彼は、“戦争”というものには誰よりも強い。国の為に敵国の多くの弱者を躊躇いなく一掃することができるのは、善悪は兎も角、ひどく希有な力である。
(わ……わからない)
紫龍は、この上なく困惑していた。
正義を守るべき聖闘士、しかもその究極に位置する黄金聖闘士に、なぜこのような男が居るのだろうか。そして神はなぜ、このような男に力と黄金聖衣を与えてしまったのだろうか。
(い……いや、その為に俺たちは戦っているのだった……)
聖域にはびこる悪を一掃する為に、女神の下において真の聖闘士の時代を始める為に。
ぎゅっと目を瞑り、紫龍は半ば無理矢理考えなおす。
「だ……だが、俺の力では……」
「そうだ、お前の力では無理だったということだ!」
「ぐわっ!」
あらかた亡者を振り払い、紫龍の呟きを聞き留めたデスマスクは、またも高笑いをしながら、穴の縁を掴んでいる紫龍の手を思い切り踏みつけた。そしてそのまま更に容赦なく力を入れて踏みつけられた紫龍の手は、ミシミシと音を立てている。
「うう……」
「待たせたな、さあお前の番だぞ」
「──くっ!」
ガッ! と音を立てて、紫龍の右手の手刀が、左手を踏みつけるデスマスクの横脛に炸裂する。しかし不自然な体勢の上、死界の穴の縁にぶら下がっている紫龍はかなりの勢いで小宇宙を穴に吸い取られている。そんな状態で繰り出した手刀が、黄金聖衣を装着したデスマスクに効くはずはない。だがそれでもひっきりなしに同じ攻撃を繰り返す紫龍を、デスマスクは笑った。
「なんて往生際の悪い奴だ!」
今度は正真正銘かほども効かないその攻撃を、デスマスクは避けない。
「俺の体は黄金聖衣に守られていると言ったろう! 今更そんな手刀などでびくともするか!」
──黄金の器に満たされた強大な小宇宙、
──悪魔のような知略、
──死神の力、
──罪悪感の欠如、
──そして、蟹座キャンサーの黄金聖衣。
己の手の中に揃っているカードはやはり最強なのだと、デスマスクは確信とともに笑う。ジョーカーズ・ワイルド、最強であるが故の余裕の笑み。
そして今度こそ確実なる勝利をと、彼は足を振り上げた。
「さあ、亡者達とともに落ちろ紫龍────ッ!」