第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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──ガシャッ!

「な……、な……!?」
 それは、デスマスクが紫龍の手をとうとうけり飛ばした音──では、なかった。
 紫龍がしつこく繰り出していた手刀は、デスマスクが繰り出した足、……生身の横脛に、もろにヒットしていた。後方で、ガシャッ、と鈍い金属音がする。
「う、ぎゃああ!」
 もろに紫龍の手刀を食らったデスマスクの足は、完全に折れていた。折れたというよりも粉砕された、と言った方が正しいかもしれない、そのくらい凄まじい衝撃だった。
「バ……バカな!」
 キャンサーの黄金聖衣がひとりでに外れるという夢にも思わなかった事態への驚愕、そして気を失うほどの激痛から、デスマスクは喚き、地に崩れ落ちる。
 その隙を勝機と見た紫龍は、力を振り絞って穴から這い上がり、体勢を整えた。
「デスマスク、やはり黄金聖衣は正義の為のものだ!」
「な……何を」
 そのまま踏み込み拳を繰り出してきた紫龍に、デスマスクは激痛による脂汗をかきながらも、ガードのために腕を出す。
 避ける技量はない、だからこそデスマスクは、確実な防御のために黄金聖衣により多くの小宇宙を送る。……だが、その小宇宙が受け入れられなかったのを感じ、デスマスクは更なる驚愕に目を見開いた。

──ベキッ!

「ひっ……!」
 ぶわ、と、デスマスクの全身に大量の脂汗が浮かぶ。またも聖衣が外れた裸の腕が、足と同じく非常にグロテスクに潰れた。皮膚の下での大量の出血が、あっという間にその腕を赤とも紫ともつかぬドス黒い色に変えていく。
(こ……今度はアームのパーツまでもが……っ!)
 またも与えられた激痛に気を失いそうになりながらも、デスマスクは引きつった声を上げ、それに耐えた。歯の根がガチガチと鳴るのを堪える。
「な……、なぜだ、なぜだァ────ッ!?」
 痛みに耐えつつも他の部位に小宇宙を込めてみるが、しかし、やはりキャンサーはデスマスクの小宇宙を拒否し、全く反応しなかった。小宇宙を込めれば星が鳴るような軽やかな音を立てるはずのキャンサー、だが今やただの重い合金の甲冑と化したそれは、腕と足を潰されたデスマスクには、尚のこと辛い。
「……おそらく、黄金聖衣の意思だ!」
「な……」
 確信を持って言ってのけた紫龍に、デスマスクは折れた腕を押さえ大量の脂汗をかきながら表情を顰め、紫龍を見た。
「黄金聖衣の意思、だとォ……」
「そうだ。お前の悪の心に、もはや黄金聖衣がお前を黄金の聖闘士とは認めなくなったという事だ!」
 馬鹿を言うな、と、デスマスクは歯の根のあわない口の奥で怒鳴ったが、激痛の為、それは奇妙な呻きにしかならなかった。
(──俺を、認めないだと、……キャンサー!)
 そんなはずがあるものか、とデスマスクは歯を食いしばる。
「バ……バカな、」
 あの日、真っ赤な月が輝く夜、デスマスクはパンドラボックスの取っ手を引いた。そのとき、このキャンサーは応えたはずだ。お前は俺と同じ人間だと、同じ思いを持つ同志だと認め合い、そして十三年間そうしてきたはずだと強く問いかけ、再度小宇宙を送り、そして力を振り絞る。
「俺は……、俺は、最強を誇る黄金の聖闘士だァ────ッ!」

──バァン!

 デスマスクがそう叫んで小宇宙を発した瞬間、その小宇宙を全て拒否するようにして、彼の体を覆っていた残るの全ての聖衣が離脱した。そしていつもデスマスクが聖衣を脱いだ時と同じく、ひとりでに蟹座のオブジェ形態に合体していく。
「あ……ああ」
 裏切られた、と、思った。
 人の手で作られ、そして人の血で鍛えられ、人の思いが詰まった聖衣。13年間を共にしてきた同志に今見放された事実に、デスマスクは絶望の呻きを漏らした。
「こ……こんな……、あ……ああ……」
 激痛、そしてまさかの裏切り。デスマスクは物理的・精神的両方の重大なショックに、地を這うような呻きを発し続ける。
「終わりだな、デスマスク! 聖衣がない今、お前はもはや丸裸も同然」
 ピンと背筋を伸ばして軽く構えを取り、先程まで死界の穴へ小宇宙を吸い取られ続けていたようにはとても見えない紫龍を前に、デスマスクは痛みなどからどうしても呻きを漏らしながら、それでも何とかファイティング・ポーズをとり、身構えた。
 しかし、所詮は本業ではない。精々基本が守られた体裁が取れているだけのそれは、聖闘士の、小宇宙覚醒者の戦いにおいては、何とも稚拙で頼りない。
 小宇宙を肉体強化に用いる“勇”の技は、超人的な怪力・スピード・身のこなし・打たれ強さを得ることが可能になるほか、肉体の活性化によって、結果的に傷の治りも早くなる。
 “勇”の技が不得手なデスマスクは、未だ粉砕された手足の激痛と闘っていた。つまり彼は、他の聖闘士よりも物理的な攻撃に非常に打たれ弱く、怪我が治りにくいのである。いくら不得手といえども黄金聖闘士、命に関わる負傷ではない。だがやはり正直な所、立っているのが精一杯だ。
 聖衣を失った今、彼は今度こそ本当に背水の陣に立たされたと言っていい。
 しかし、いきなり頼りのカードを失うことになっても、ハッタリのブラフの構えを崩してしまっては、策士、参謀の名折れである。デスマスクは激痛に耐えながら、そしてそれを限界まで表情に出さず、基礎のものでしかないが、しっかりと構えを取る。
 デスマスクの、“勇”のスキルの欠如。今まで聖衣による強力なサポートで補われていたそれが一切なくなった今、デスマスクはもうあと一撃でも紫龍の攻撃を食らうわけにはいかない。何とか時間を稼いで怪我の回復を図り、また距離を取って肉弾戦を避けなければ……と、窮地に立たされたが故に自然に小宇宙が高まり、回転の早まった頭脳が訴えかける。
 そんなデスマスクに気付いているのかいないのか、紫龍はやや半身に構え、きりりと表情を引き締め、言った。
「俺はお前を許すわけにはいかない。……この場で倒す! ……しかしいくら悪とはいえ、そんな無防備な相手に手を下すなど、この紫龍の誇りが許さない!」

──パァン!

「な……」
 信じられない行動に出た紫龍に、デスマスクは本気で目を見開いた。
「自ら聖衣を脱ぎ捨てるとは、気でも狂ったか紫龍!?」
 なんと紫龍は、自らその身に纏うドラゴンの聖衣を脱ぎ捨てたのである。デスマスクの体から離れオブジェ形態になったキャンサーと同じく、ドラゴンもまた少し離れた所で、オブジェの形態となった。
「これで対等という事だ! あとは互いの小宇宙の力のみが勝敗を分ける!」
 まずデスマスクが思ったのは、「何のつもりか」ということだった。つまり紫龍が聖衣を脱ぐことによって得られる利点は、勝機は何なのかと、デスマスクは考えたのだ。その思考回路は参謀として当然のそれであり、そして紫龍の取った信じられない行動に理由が欲しいという、性格的な感情の流れでもあった。
 だが紫龍の目を見た時、デスマスクはただ、ぞっとした。
 一目でアジア人であると知れる紫龍だが、その髪と目には、最近のアジア系によくある茶色みや赤みの色素が一切ない。黒の色彩のみを持つ彼の目に、デスマスクはぞっとした。
 ──それはかつて、夏の空よりも果てがない鮮やかなターコイズ・ブルーの目を観た時に沸き上がった感情と、まったく同一のものだった。

 ──そうだな。それがアテナの思し召しなら。

 それはもう、当然というよりも自然に、笑みさえ浮かべて言ったアイオロス。
 アテナが死ねと言ったのなら死ぬのかという問いに、ぞっとするほど鮮やかに深い目で、事も無げに、それなら死ぬと少年は言った。
 自分に何の得がなくとも、アテナが言ったのなら、それが正義だというのなら、命さえも手放すと、そう言った。
 そしてデスマスクは、あの時と同じく、ぎりりと歯を食いしばる。
 無知が故に神に助けを乞う為に祈る少女、そして神を盲信し、言われるままに命を捨てる少年達。女神の下に牙を剥き、自分達に向かって悪よ滅せよと、まるで聖なる句でも唱えるように、一切の陰りのない目をして階段を昇ってくる、かつて助けた子供達。
 そして同志だと、同じ想いをもって血を流してきたのだと認めあい、そして13年間一心同体となって返り血を浴びてきたはずが、いま突然謎の裏切りを見せたキャンサーの黄金聖衣。
(──どいつも、こいつも、気色の悪いッ……!)
 デスマスクは、これ以上ないほどに苛々した。理解出来ない、気色が悪い、──どいつもこいつも!
「バカめ、お前は俺を倒せる唯一のチャンスを無にしたのだぞ! ──小宇宙の勝負なら、黄金聖闘士の俺の方が遥かに上に決まっているだろうが!」
 ハッタリを効かせる為にあえて潰れた方の腕を持ち上げ、デスマスクは紫龍を指差してそう言った。だが紫龍は涼やかな表情で、すっと目を閉じさえしてみせる。自分の判断に何の疑いも持っていない、当然、という反応だ。
(……やはり、アテナの聖闘士だな、紫龍!)
 先程少女を滝壺に落としたことで激昂した紫龍に、デスマスクは不覚にも──同情した。自分と同じ思いを持つ者だと、そう思った。だが目の前の紫龍を見て、デスマスクはその考えを捨てるべきだと考える。
 五老峰に出向いた時、童虎老師とムウを前に撤退するデスマスクに対し、愚かにも吠えた紫龍。今の彼はその時と全くもって変わらないではないか、とデスマスクは確信したのだ。
 アテナが掲げる、防戦のみ、そして素手での一対一での対等な戦いのみという、戦争をやる気があるのかと横っ面を引っ叩いてやりたくなるような掟。何の罪もない子供達を端から地獄に送っておきながら、いかにも善人じみた主張を掲げる女神。
(──殺してやる)
 罪悪感が抜け落ちているが故に、無感情のまま大量殺戮兵器のボタンを押すことが出来るデスマスク。だがたった今彼が抱いているのは、己の歯を全てむしり取って手当り次第に投げつけたくなるような苛つきと、憤りと、そして殺意だった。
「どうかな……。俺たちはムウに小宇宙の真の意味を語ってもらった」
 ムウ、という旧知の名前に、デスマスクはほんの僅かにだけ眉を動かした。
 サガの革命の礎となった前教皇、そしてムウの師である、シオン。彼が既に死んでいること、そしてサガに殺されたのだろうことを、ムウは既に確信しているだろう。
 彼は、師を尊敬し、そして子が親にそう思うのと同じように愛していた。ならば彼がいまその立ち位置に居るのは、何の為だろうか。殺された師の為か? それとも、師が殺されたことで今の教皇は偽物だと知ったが故か?
 彼が再び聖衣を纏ったのは、聖闘士となったのは、アテナの為か? それとも、師の為か?

 ──アテナは、います

 弟子が聖闘士になろうとしたのは、アテナの為か? 妹の為か?

(──考えるな)
 デスマスクは、再度自分に言い聞かせる。黄泉比良坂において絶対にしてはならないのは、小宇宙を弱めること。後ろ向きになること、弱気になることだ。でなければ、あっという間に死界の穴に引っ張られてしまう。
 そしてそれをもういいかげん理解したからか、何らかの腹を決めたからか、紫龍もまた、今までになく小宇宙が高まっている。
(究極の小宇宙とは、セブンセンシズ)
 デスマスクの持つ天賦の才の一つ、相手の表層意識をまるで呼吸するように滑らかに感じ取るエムパス能力。そしてそれの究極形態であるユビキタス、どこに居ようともその心の内を見通す神の力、聖戦の際それに備える為に思考を深層意識のみで行なうという高度なことなどおそらく知りもしないのだろう紫龍の思考は、小宇宙を高めているだけに、デスマスクには丸聞こえだった。
 そしてその内容から、デスマスクら黄金聖闘士にはもはや日常的な、手垢のついた言葉であるセブンセンシズをまるで天啓でも受けたかのように捉えている紫龍に、デスマスクは口の端を歪める。──やはり紫龍は、聖闘士になりたての新兵なのだ。そんな子供に、死神のような、悪魔のような参謀と呼ばれた自分が負けるわけにはいかないと。
(……俺達の小宇宙は、今はまだ確実には青銅聖闘士の域を出ないかもしれない。だが、この俺が正義を守る為に選ばれた真の聖闘士なら──)
 真の聖闘士。笑える単語だ、とデスマスクは嘲笑し、そして皮肉という太鼓判を押してやった。あのクソ女の狗ということであれば、お前ほど優等な奴もいないだろうよ、と。
(──悪を倒す為、例え一瞬でも、黄金聖闘士の域まで小宇宙が高められるはずだ!)
 フン、と、デスマスクは鼻で嗤い、そして彼の十八番である、大きめの唇の端をつり上げる、チェシャ猫のような、ジョーカーの如き笑みを浮かべてみせた。
「よぉ〜し、ならば俺も小宇宙を最大に燃やして冥界波を繰り出してくれる!」
 デスマスクは、にやにやと笑った。
 手の内にいかに強いカードを集めておくかという事は、確かに勝利の為の基本中の基本だ。だがしかし、それはビギナーが運だけで成し遂げてしまうこともある。真のプロは、例えたいした役を持っていなくとも、いかにも切り札のジョーカーを持っているのだと、いつでも平然とそういうハッタリをかませる物腰、度胸を持っていることにある、とデスマスクは主張する。
 ブラフ、ハッタリ、脅し、見せかけ。喧嘩に弱い者が使う手段として、そして時に卑怯と罵られることもあるその手法を、デスマスクは知略として、堂々と用いる。引っかかるほうが馬鹿なのだ、と。
「まさか、こんな黄泉の入り口まで来て使ったこともなかったが……」
 相変わらず、潰れた手足は気絶せんほどの痛みをデスマスクに与え続けている。だが冷静になったデスマスクは、既に名役者もかくやというほどの構えを整えていた。
 淀みなく台詞を発し続ける彼は今、笑みを浮かべ、両足に均等に体重をかけてしっかりと立ち、肘を90度以上曲げて拳を握り、上半身が全て露になった肌にも、一滴の汗すら浮かべてはいない。
「死への入り口へ引き込む積尸気冥界波を、既に死の入り口へ来ているこんな場で放ったら、一体どうなるのか……。おそらく魂はズタズタに見知らぬ次元に飛散し、未来永劫二度と現世に転生することもあるまい!」
 ククク、と、喉を鳴らして笑い、人差し指をゆっくりと紫龍に向けてやる。
 デスマスクの持つ小宇宙の特性は、生命体が持つ本能的な死への憧憬、それを強めることにある。つまり、死界の穴が亡者に及ぼす効果、それそのもの効果を、デスマスクの小宇宙も持っているのだ。そして空間全体にも影響を及ぼしたそれが積尸気の穴を開き、その場に居る生命に対し更に黄泉への旅路を畳み掛けて誘う、それが積尸気冥界波という技の概要である。
 そして仕組みがわかっているのだから、どうなるのかなどという事も、本当は当然わかっている。
 常に生命力を奪う黄泉比良坂の中、いま小宇宙という生命力を燃やすことによってしっかりと立つことができている紫龍は、空気の湿った闇の中、手持ちの蝋燭の炎を懸命に絶やさないようにしているような状態にある。彼は今まで何とかその身を挺し、今にも消えそうになる炎を絶やさぬようにしてきた。
 だがデスマスクの小宇宙、そして積尸気冥界波はつまり、その炎を弱める湿った風に等しい。ただでさえ湿った空気の充満する黄泉比良坂という闇の中、小さな炎ならあっという間に消してしまう積尸気冥界波というその風を、全力で吹きかける。
 紫龍がそれに耐えるには、その風に負けぬ程の炎を燃やすしかない。つまり、デスマスクの小宇宙を上回る小宇宙を発さなければならないわけだ。
 だが、生まれながらにして小宇宙に目覚めていた“黄金の器”であり、意思の力で容易にセブンセンシズにまで到達出来る黄金聖闘士のデスマスクと、修行によって奥の奥に眠る小宇宙を何とか引き出した紫龍とでは、やはりダムと水道ほどその絶対量に差があるのだ。ダムの水量を一気に浴びせられれば、水道がいくら全開に蛇口をひねろうとも意味はない。
 ──紫龍が聖衣を脱がず、そしてその体術にものを言わせてデスマスクをタコ殴りにしていれば、間違いなくデスマスクは負けていた。
 だが紫龍は、そうしなかった。聖闘士たるもの小宇宙が真髄、そう“教えられた”通りにしようとし、結果的に墓穴を掘っている。デスマスクに言わせれば、それはやはり愚行としか言いようがなく、そして小宇宙の対決になったことでもはや紫龍には勝機はない、とほぼ確信していた。
 だがそこまで確信していてもなお、デスマスクは紫龍に「自分にもどうなるかはわからないが」、と前置いて、だからこそ防ぐ手段などないのだと脅しをかけた。
 それは、紫龍が持つ炎を完膚なきまでに消す為の、更なる畳みかけだ。どうせどんなに小宇宙を燃やそうと、“黄金の器”に満たされた小宇宙に紫龍が敵うはずはない。だがこうして不安を呼び起こし心を折れさせることはつまり「怖じ気づく」ことに繋がり、そしてそれは小宇宙を燃焼させることにおいて最も致命的なことである。
 ──容赦、油断、余裕。
 強者であることを示す悪魔の笑みとは裏腹に、デスマスクはそういったものを、既に一切取り払った心持ちでもって、紫龍に対峙していた。
 そして、彼は小宇宙を燃やした。黄金の器、その中に出来得る限りの小宇宙を満たしていく。ダム級の巨大な容量の器に目一杯溜め込まれたそれは、やっと水道を引いた青銅聖闘士ごときが対応出来るものでは決してない。
「さあ紫龍、お前の魂さえも引き裂いてやる! これが最後だ!」
 この台詞ばかりは、嘘ではなかった。黄金聖闘士たる規模の小宇宙、しかも死への本能を増幅させることで小宇宙を燃焼する働きを弱めるデスマスクの小宇宙に呑まれれば、小宇宙だけでなく、それを生み出す魂までも完全に機能を停止しかねない。
 そしてデスマスクは、本気で、容赦なく、油断なく、そうしてやろうとした。
 真っ赤な目。血溜まりの底のような色をした、煌々と赤い瞳孔の奥、ぐらぐらと煮え滾るような、深い深い真っ暗な闇。そして血と炎のマグマに溶けてマーブル状に混ざる、黄金の輝き。
 デスマスクが、目を見開いた。闇の中の血色のマグマから、金色の閃光が迸る。

「──積尸気冥界波!」

 それは、まさに、ダムの決壊にも等しかった。
 ギリギリまで一杯になった“黄金の器”を力任せにひっくり返したような規模の積尸気冥界波。闇の中から迸り、黄金の熱を持つ血色の濁流は、まさにマグマ、溶岩のようだった。
 町を、人を、生きとし生けるもの、そして時に小さな女の墓さえも容赦なく飲み込み、そしてその後の土地に作物の一つも宿らせなくする、地下からの灼熱。全てのものを死に至らしめ、等しく髑髏の姿を晒させ地面の下に葬る技が、究極形態でもって紫龍に迫る。
 だが、紫龍は、微動だにしなかった。
 彼は俯き、拳を握り締め、頑としてそこに立っている。それは確かに今までで最も急速な小宇宙の高まりではあったが、やはり、どう見ても、“黄金の器”から迸る濁流に耐えられるような大きさではない。
「バカめ、本気で小宇宙を俺の位まで高められるつもりか!?」
 デスマスクは、高笑いの勢いで言った。このままだと、紫龍は死の溶岩に呑まれ、そしてデスマスクが言った通り、永遠に転生することも出来ないほどに完全に死ぬだろう。
 ──だが、デスマスクは、ぎょっと目を見開いた。
(……なんだ、あれは!?)

 ──それは、龍だった。

 紫龍の体から、無数の龍がオーラとなって、立ち昇っているように見えるのだ。
 一定の所まで練り込まれ凝縮された小宇宙は、物理的な形態を持つようになる。大概それは熱となり、低くは体温のように、高くは灼熱のようになる。紫龍は先程、他が何も見えなくなるほど激昂する事によって小宇宙を一点に集中し、燐光のごとき青い炎を立ちのぼらせた。
 そしてその炎が今、更に龍のようになっているのだ。
 つまりそれは、彼が自らの小宇宙を、これ以上ないほど一点に練り込んでいる、ということを表す。
 デスマスクがその黄金の器たる我が身に小宇宙を最大限溜め込んでいるとき、紫龍もまた、同じように小宇宙を整えていた。
 だが彼がしていたのは、デスマスクのように出し得る全ての小宇宙を溜め込むことではない。デスマスクの言う通り、黄金聖闘士の彼の小宇宙の量は、青銅聖闘士である自分の小宇宙の量をどうしても上回り、そしてそれは今だけでなく、例え何十年修行しても覆せるものではないのかもしれない。だからこそ黄金聖闘士は強大であり、そしてそれが生まれ持ったもののどうしようもない差というものだ。
 しかし、デスマスクと戦い、そして何度も必殺技である盧山昇龍覇をあっさりと受け止められてしまう事を繰り返した上で、紫龍は悟ったのだ。──いや、思い出した、と言ってもいい。
 盧山昇龍覇とは、その名の通り、盧山の大瀑布を割る昇竜のような一撃を放つ技であり、そしてその修行法と免許皆伝の条件は、そのまま本当に大瀑布を拳で割ることであった。
 そして紫龍はそれを成し遂げ、龍座ドラゴンの聖衣を得て聖闘士になった。
 聖衣とは、小宇宙の闘法を用いる聖闘士にとっての、これ以上ない補助具でもある。現代科学の粋を集めても再現出来ない特別な合金は滑らかに小宇宙を伝導し、それによって生身の時より更に小宇宙を放出しやすくなり、またそのことでじわじわと小宇宙の絶対量も増大していく。
 だが紫龍は、なまじ聖衣を纏うようになり、小宇宙の絶対量が増えてからというもの、忘れていたのだ。
 聖衣を持たない生身の修行生であったあの頃、割るどころか普通の人間なら指一本突っ込んだだけで全身が滝壺に引きずられるような盧山の大瀑布は、紫龍にとって、絶望するほど偉大だった。
 だが紫龍は、それを成し遂げた。そしてそれは、大瀑布に相当するような巨大な量の小宇宙を身につけたからではない。
(慢心していた)
 今では本当に大瀑布を力技で割れるくらいの小宇宙を身につけてしまった、それ故に、紫龍は忘れていたのだ。
 だが、黄金聖闘士。自分より遥かに巨大な力、小宇宙を持つデスマスクという敵と対峙し、紫龍は今、初めて大瀑布を割った時のことを思い出していた。
 デスマスクが滝だとすれば、自分は小さな小川ほどでしかない。そして何十年もの月日をかけても、小川は滝にはなれないかもしれない。

 ──だが。

 鉄砲水。急激な出水・増水によって、小川も時折、頑丈な建造物でさえ破壊することもある。ごく短い時間でしかないが、凄まじい勢いとスピードによって為し得られるその現象。

 小川でも、一時だけ限界以上に勢いをつければ、滝を割ることができるのだ。

 それを思い出したからこそ、紫龍はあえて聖衣を脱ぎ、自分を追いつめた。何も持たなかったあの頃に戻り、慢心を振り切り、黄金の器から迸る、絶望すら感じるほどの巨大な濁流を割る為に!
「──この紫龍が極限まで高めた小宇宙で、──昇れ、龍よ! 天高く!」
 カッ、と、紫龍の黒い目が見開かれる。その輝きには、龍の放つ青白い燐光が感じられた。

「盧山昇龍覇────!」

 ──大滝が、割れた。

 濁流を割って昇ってきた青白く輝く一閃、それが目の前で輝いたと思った時、デスマスクの体は宙を舞っていた。
「うわああ────!」
 背中に感じるのは、死界の穴。火山の火口、カルデラにも似たその上空に居る事によって、あらゆる生命の熱を奪うその穴が、デスマスクを飲み込もうとしているのがはっきりと感じられた。
(くそっ、くそっ、くそっ────!)
 デスマスクは、叫びながらも、再度小宇宙を燃やした。
(考えろ、考えろ、考えろ! 岸はあそこだ、手を伸ばせ、小宇宙を燃やせ、次の手を考えろ、状況を打破しろ、──勝ちに行け、──そのために考えろ!)
 小宇宙が、頭脳をフル回転させる。正真正銘死の窮地に立たされることによって高まった小宇宙はデスマスクをセブンセンシズに導き、人知を越えたレベルで高まった身体感覚は時間の進みを遅くさせ、スローモーションになった周囲から、状況の情報を光速でかき集める。
 一番近いのは五時の方向、縁までは14.56メートル。深い闇に隠れているが、崖は下方向1092メートルまで視認出来る。無様でも、小宇宙を燃やして大気を掻けば、それまでに壁を掴むことが出来るかもしれない。
 紫龍がガクリと膝をつき、倒れる音を聞いた。小宇宙を燃やし尽くして気を失ったのであろう。そのまま紫龍も死界の穴に引きずられるのかそれとも現世に戻れるのか、それはデスマスクにも、今度ばかりは本気でわからない。しかし、今はもうそれどころではない。
 デスマスクは、腕を伸ばした。それだけが、助かる道だった。
 ──しかし、セブンセンシズによってなまじ極限まで高まった感覚は、存在する全てのものを認識してしまった。
 ZONE、小宇宙の究極、セブンセンシズ。時間の感覚が遮断された超スローの世界、その端に、デスマスクは、を見た。
(──あれは、)

 黄金の、輝き。

 デスマスクが13年間纏っていた、その輝き。そしてその横に立っているのは、一人の少女だった。
 彼らは死界の穴の縁に佇み、落ちて行くデスマスクを見下ろしている。
(──城戸沙織!)
 ぎょっとした。
 三人の小宇宙を呪いのように込めた黄金の矢、そしてデスマスクの死神の力によって死の舞踏の輪にたたき落としたはずの、女神の化身を名乗る少女。彼女は今、黄金に輝くキャンサーにそっと指先で触れながら、デスマスクをまっすぐに見下ろしている。
(──何もかもあの小娘のせいか、畜生が!)
 よりにもよってこの死界の穴の縁を覗きこみ、その上でああまではっきりと自我を持っているあたりからして、彼女の小宇宙は、おそらく黄金聖闘士であるデスマスクよりも遥かに巨大であるに違いない。もしかしたら、サガをも凌駕するほどの。
 ということはおそらく、最初に紫龍を現世に送り返してきたのは彼女だろう。ヒーリングの要領で紫龍に一時的に多量の小宇宙を分け与え、そうする事によって半ば紫龍を弾き飛ばすようにして現世へ戻したのである。
 そして、突然デスマスクを裏切ったキャンサー。その理由もやはり、彼女だろう。
(俺より、女ってか)
 とんだ相棒だ、とデスマスクは悪態をついた。
 だが13年前、元は同じ人間であり同じ思いを抱いたもの同志として一緒にやってきたものの、彼らは──キャンサーは、やはりデスマスクとは違う。彼らは確かにデスマスクと同じ“元”人間だが、やはり──やはり、“女神アテナの聖闘士”なのだ。
 少女の指先に撫でられながら自分を見下ろすキャンサーに、デスマスクは唾を吐いてやりたくなる。しかし落ち行く自分がそうしても、まさに天に唾する事にしかならないだろう。
 城戸沙織というカード、理由はわからない、しかし時にジョーカーをも凌駕するエース、その存在こそが、デスマスクの敗因だったらしい。
 だが、解せない。
(──なぜ、ここにいる)
 紫龍を現世へ送り返すほどの、そして死界の穴の深淵を覗いてなおそうしていられる程ならば、黄泉比良坂を脱出するのは容易いはずだ。黄金の矢に込められた三人分の小宇宙は確かにサガを上回るほど強力だが、この娘なら、直ぐさまとは行かなくても、いい所まで抵抗し、12時間のリミットを大幅に伸ばせるはずだ。
 ならば、どうして、それをしない?
(何──……?)
 デスマスクは、見た。
 可憐な少女の口元が、何事かを呟いている。
(何と、言った)
 神という生物が持つ七つ目の感覚、セブンセンシズ。超人的に全ての感覚を増大させ、光速の動きを可能にし、千里の距離を見渡すその力を持ってすれば、この距離で少女の声を聞き届けることも、唇の動きを読むことも、容易いはずだった。
(何、と、言った)

 ──頭が、回らない。

 生まれて初めてその状況に陥ったことに、デスマスクは気付いた。
(駄目だ、考えろ、……考えろ、考えろ、……考えろ、)
 ずんと重くのしかかり脳の動きを鈍くするそれは、ひどい眠気にも似ている。
 ──それは、暗くて甘い、死の誘惑。眠るように安らかに、女の胸に顔を埋めて目を閉じる、うっとりと蕩けるようなその安らぎ。
(いま、何と、言っ、た……?)
 瞼が、閉じかけている。
 唇が動いたのを、見たはずだ。読唇術くらい習得している、すぐにわかるはずだ。考えれば、すぐにわかるはずだ。
(考えろ)
 そして、その時には既に、死界の穴は穴ですらなくなってしまっていた。下方向1092メートルまで視認出来ていた死界の穴の壁はもうとっくに過ぎていて、果てのない闇が広がっているだけだった。
 掴めるものは、もう、何もない。
 少女とキャンサーに気をとられ、彼は、危機を脱する為のたったひとすじの髪の毛のような道を、すっかり逃してしまっていた。
(考え、ろ、考え────)
 思えば、ずっとそうしてきた。どうすればいいか、どうすべきか、何を為すべきか、デスマスクは23年間、ずっと考え続けてきた。そうして、生きてきた。
(考え、)
 頭が、回らない。
(もう)

 ──何も、考えられない。

 黄金の輝きの傍らで、少女が笑ったのを、見た。
 だがそれにももう、デスマスクはその意味を考えるどころか、何らかの感情すら一切湧いて来なかった。

 ──“Memento mori”

 自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな、そのことを人々に思い起こさせるために使われた警句。
 “死”、それは、全てに等しくやってくる。

 ──そしてそれは死神とて、例外でなく。
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BY 餡子郎
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