第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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 積尸気冥界波という自分の技・能力を、デスマスクはとても気に入っている。
 それは例えば職人が自分の道具に抱く強い執着や愛着のようなものととてもよく似ていて、手に馴染む、よりももっと上の、もはや掛け替えのない身体の一部という感覚だった。
 そして自分の能力にそういった感情を抱いているデスマスクであるが、それは単に自分の能力であるから、というのが理由ではない。

 ──『死の舞踏』、という概念がある。

 中世末期の14世紀から15世紀のヨーロッパで流布した寓話、およびそれをもとにした一連の絵画や彫刻、もしくはそれから派生した音楽などの芸術表現様式である。フランス語ではLa Danse Macabre、英語ではDance of death、古フランス語ではLa Danza Macabra、ドイツ語ではTotentanz──と、多数の言語による呼び方が存在し、細かいところは違うものの、基本的には一貫した表現が多くの地方で行なわれた。
 そしてこの概念は、デスマスクが持つ能力を語るのに、まさにおあつらえ向きの概念である。
『死の舞踏』では、その名の通り、総じて『死』──いや、擬人化された死、すなわち死者が描かれる。そしてその死者達は主に骸骨の姿で表現されるが、時には一部肉や皮膚、髪が残っていたり、その腐敗を促すウジ虫などが描かれることもある。
 そんな風にして完全に個人性を取り払われた単なる骸骨の姿で描かれる彼らであるが、時にその骸骨の姿にまとわりつく服装、持ち物、髪型などで生前の姿を辛うじて判断することもできる。それは時に皇帝の王冠であり、君主の剣であり、法王のミトラやストラであり、修道士の頭巾であり、若者の帽子であり、美少女のリボンであったりする。
 そして彼らは何をしているのかといえば、行列を為し、踊りながら──墓場へ向かっているのである。
 “死の普遍性”。『死の舞踏』が掲げるテーマは、これに尽きる。生前は王族、貴族、僧侶、農奴などの身分や職業が存在し、それぞれの人生を生きている。しかしある日訪れる死によって、全てのものは身分や貧富の差なく腐敗し骸骨となり、そして同じく滑稽に踊りながら墓場へ向かう。
 そんな生死観を謳う『死の舞踏』と、あらゆる生きとし生けるものを積尸気の穴に放り込み、黄泉比良坂の行列に加えて死界の穴への行軍に加わらせる積尸気冥界波は、全く同じ様子を表している。
 どんな者も死によって等しく辿り着く場所、黄泉比良坂。そしてその場所を自在に訪れ、また生きとし生けるものをそこに落とし込み、あるいは誘い入れることの出来る己は死神と名乗って何ら差し支えない、とデスマスクは感じているし、事実、その通りであろう。
 王族、貴族、僧侶、農奴。皇帝、君主、法王、修道士、若者、美少女。老若男女も美男美女も醜男醜女も貧乏人も金持ちも、そして悪人も善人も、死の前では等しく無に統合されてしまうのだというその考え方、いや事実を、死神を自負するデスマスクは愛している。
 ──そして、彼は常に問うようになった。“では、神は?”
 鱶を思わせる広めの口元が、にいい、と大きく吊り上がる。……命じた通り、トレミーはその命を賭して、城戸沙織の胸に黄金の矢を打ち込んだ。黄金の矢に込められた最強の剣士の小宇宙は少年達の護衛をものともせずにまっすぐ娘の胸を射抜き、そして魔宮の麗人の小宇宙は白薔薇のように彼女の血と小宇宙を吸い上げながら肉を食み、そして死神の小宇宙は、その魂を肉体から引き剥がし、黄泉比良坂に引きずり降ろした。
「……くはっ」
 込み上げてくる笑いを、デスマスクは小さく吐き出した。自分の仕掛けた積尸気冥界波によって相手の魂が積尸気に吸い込まれたかどうか、デスマスクはどんなに離れていても感じることが出来る。かつてカノンが女候補生を襲った不届き者を殺した時のように。
 そしてデスマスクは、城戸沙織の魂が確かに積尸気の穴に吸い込まれたのを感じていた。──つまり城戸沙織は、わけだ。
『死の舞踏』は、描かれかたによっては『死の勝利』、『死の凱旋』と呼ばれる作品もある。このときは踊る骸骨ではなく、鎌などを振りかざした典型的な死神の図像が描かれる。累々と続く死体の列の上を進む戦車、それに乗って誇らしげに鎌を振りかざす死神。
 それが表現するものは、何か。それは死の舞踏と同じく“死は全てのものに等しくやってくる”ということであり、すなわち死はありとあらゆるものを打ち負かす最強の存在なのだ、という考え方だ。──そしてそれこそが、デスマスクが己の力を愛する理由だった。
 ありとあらゆるものを等しく哀れな亡者と化す力、“死”。そしてその力を振るう死神こそが最も力ある者、カードの中でも最強のジョーカーである、ということ。「力こそ正義」を掲げるデスマスクにとって、その考え方は何よりも理にかなっていて、そして自分の強さの証明にもなる愛すべき論理だった。
「……何が、神」
 フン、とデスマスクは嘲笑った。城戸沙織が黄泉比良坂に送り込まれたという事実、それは『死の舞踏』の概念において、彼女が死の前には他の亡者と等しいものに成り下がるという事、つまり死んでしまえば人間と何ら変わらぬ末路を辿るのだという証明である。
 そして彼女が神であることを本心では否定し続けてきたデスマスクであるが、今ではむしろそうであれ、と思っている。もし彼女が神の化身であったとしたら、デスマスクは長年の問いに対し、、という、非常に小気味いい答えを得ることになり、そして自分の力、死神の力は、はアテナさえ殺す最強の力なのだと証明することになるからだ。
“Memento mori”──ってか」
 メメント・モリ。ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「己は死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた警句。「死を想え」「死を忘れるな」などとも訳され、『死の舞踏』を語る時もよく用いられるその言葉を、デスマスクは聖句を唱えるかのような風情で、厳かに呟いた。
 ──そして今、デスマスクは、魂を積尸気の穴に吸い込まれ倒れ臥した紫龍を、何も感情の浮かんでいない目で見下ろした。周到な用意をするには時間がかかるが、そうであればあるほど、実際に対峙し勝負がつくまでの時間は短くなる。そして実戦において短時間で勝利することは、第三者の目には圧倒的に映るものだ。
 黄泉比良坂に魂を送り込んだものの、まだ魂が死界の穴に落ちきっていない紫龍はまだ細く呼吸をしているが、どうせすっかり亡者の列に並んでいる頃だから、そう長くないうちにこの寝息のような呼吸もなくなるだろう。念には念を入れてそれを見届けてからサガに報告をするか──とデスマスクが考えた、その時だった。
「……!?」
 デスマスクは、細めた目をぎょっと見開いた。
 カッ、と遠くで何かが輝いたような気配がしたと思ったとき、空間の隙間から、緒を引いた紫龍の魂が戻ってきたのである。
「な……何い!?」
 そんな馬鹿な、とデスマスクは思わず言った。
「紫龍が生き返った──……!」
 重い身体を何とか起こすようにして、紫龍が身体を持ち上げるのを、デスマスクは信じられない思いで見た。
 積尸気に吸い込まれた魂が再び現世に戻ってくるのは、あり得ないことではない。
 だが積尸気冥界波という技、そしてデスマスクの小宇宙の特性を分析して説明すると、それは、“魂を死に誘惑する力”と表現出来る。
 死に対する欲求や、憧れ。強くなればあからさまな自殺願望になるが、心の隅にそれは小さく、だが常に、誰の心にも存在している。そして文明、文化、高い知能を持ち哲学を考える人間は、特にその傾向が強い。
 デスマスクの小宇宙は、それに働きかけるのだ。心の隅にある、死に憧れる部分を誘惑する。すると魂はフラフラ肉体から離れていく──驚くほど簡単に。誰でも持っている部分だからだ。
 そしてそれを打ち破るのは、何か。単純な話、逆に生に執着すること。要するに、小宇宙を燃やす事である。
 ならば簡単に破れる技なのではないかと思うが、死に対する欲求とは、ありとあらゆる生物が持つ本能なのである。そして特にその傾向が強い人間という生き物は、その誘惑に打ち勝つことがひどく難しい。
 暗くて甘い、死の誘惑。眠るように安らかに、女の胸に顔を埋めて目を閉じる、うっとりと蕩けるようなその安らぎ。肉体を離れたが故に真裸の状態に近く理性を維持しにくい魂の状態で、そんな魅力的な誘惑に抗い、辛く苦しい生に戻ろうとし、死と正反対の生の力、小宇宙を最大限まで燃やすことが出来る者は、ほとんどいない。
 だから彼の周りの友人達やサガ等は、デスマスクの能力を「破れないこともないが、あらゆる意味で疲れるので一番相手にしたくない技」だと、うんざりと語る。身も蓋もない言い方をすれば、生きる気力を失わせる技とも言えるのだから、それもそうだろう。誰だって、陰気な気分にさせられるのは御免被りたいものだ。
 だからこそ、紫龍がこうして戻ってきたのは、本当に驚愕に値することだった。つまり彼は死の誘惑を振り切った──すなわち黄金聖闘士であるデスマスクが仕掛けた小宇宙以上に小宇宙を燃やしたという事に他ならないからだ。
「ざ……残念だが、俺は過去において二度も死の入り口から舞い戻ってきたことがあるんでね」
 どうやら死神には嫌われているらしい、と猛々しいことを言ってはいるが、やはり無防備な魂の状態での小宇宙の燃焼に疲労を感じているらしい紫龍は、汗を流しながら、やや危なっかしい様子で立ち上がる。
「さあデスマスクよ、俺には死の入り口より引き戻さねばならない人間がまだ二人もいる! 今度は逆にお前をあの世へ送ってやるぞ!」
 紫龍は、どうにか気合を入れて背筋を伸ばした。拳法の構えをとった少年の小宇宙が高まってゆく。
 デスマスクもまた、それに対して身構えた。しかしその表情には、つい先程まであった驚愕は既に欠片も残っていない。薄らと笑みさえ浮かべ、デスマスクは緩やかに右手を前に出した。
「なに!?」

──パァン!

「うわあ──っ!」
 真正面から撃った盧山昇龍覇は、デスマスクの手のひらでそのまま真正面に返された。
「ぐっ……!」
 まんまと自分の技を食らった紫龍はそのまま吹っ飛び、背中から巨蟹宮の壁に叩き付けられる。神殿の分厚い石壁が砕けるほど叩き付けられても重症と言えない程度で済むのは青銅といえど流石聖闘士といった所だが、数年をかけて盧山の大瀑布を逆流させるまでに磨き上げた技がたった片手で返されたことに、紫龍は強いショックを受けていた。
「バカめ! 同じ技が二度も三度も黄金聖闘士を相手に通用するか!」
 昇龍覇は、既に一度五老峰で見きっている。
 おそらく紫龍は、中国拳法の達人である童虎老師に指導を受け、体術の“勇”と、中国数千年の英知を学ぶことによって“智”の小宇宙を磨いてきた、ごくスタンダードなタイプの聖闘士だろう。だがシュラのように桁違いのものなら話は別として、いくら体技に優れていようとも、その拳に込められた小宇宙は、所詮青銅聖闘士レベルのものでしかない。一度どういう技か見切ってしまえば、あとはどうとでもなる。
 大瀑布を逆流させる力は、確かに人ならざる規模の力だ。しかし生まれつき小宇宙に目覚めセブンセンシズを体得している黄金聖闘士は、その何倍も上、神に近いほどの力を持っているのだ。
「黄金聖闘士と青銅聖闘士の違いは雲泥の差! 所詮は勝負にならんのだ! ──お前が俺に勝つ為には、黄金聖闘士の域まで小宇宙を高めねばならん!」
 デスマスクは、“勇”の修行をほとんど行なっていない──おそらく純粋に生身の格闘戦ならば紫龍の方が上かもしれない──が、生まれつきの才能である“仁”の技、この死神の力は、何度目にしようと紫龍にはどうしようもないものだ。
 何故と言って、デスマスクが持つ死神の力、積尸気冥界波を打ち破り死への誘惑を断ち切るには、デスマスクの小宇宙以上の小宇宙、すなわち“智”の小宇宙を燃焼させなばならない。そして幼少の頃から体術訓練の時間を全て脳の活性化、“智”の修行に費やしてきたデスマスクの小宇宙の絶対量を紫龍が凌駕することは不可能だ。いくら水道を精一杯ひねろうとも、ダムの水量に対抗できるわけがない。
 油断していたことは認めよう、とデスマスクは殊勝に思考した。全力で兎を狩る猛獣の如く周到な用意を重ねてきたつもりであったが、いざその小さな獣を目の前にして、実際に出した一撃が緩いものとなった。──だが、今度はそうはいかない。
「だがそれも、所詮は不可能!」
 デスマスクは、先程よりもさらに高密度に練り上げた小宇宙を、高く掲げた人差し指に集中した。
「さあ紫龍よ、今度こそ確実に送ってやるぞ亡者の国へ……! 二度と戻って来られんぐらいダメージを大きくしてな!」
 黄金聖闘士として、そしてあらゆるものに打ち勝つ“死”を司る死神として相応しい、強大な力。神さえも地の底に引きずり堕とす、禍々しいほどの力が膨れ上がり、積尸気の穴が大きく開いてゆく。
 深く深く、底の見えない真っ暗な穴を覗き込んでしまった時のように、得体の知れない不安が紫龍を襲う。だが、同時に吸い込まれるような魅惑がある。真っ暗な穴の底には、自分が求める何かが確かにあって、覗いてみろと誘うのだ。
 セブンセンシズの域まで高まったデスマスクの小宇宙が、大きく弾けた。

「積尸気冥界波────!」
「うわあああ────っ!」

 がばりと開いた大きな穴は、まるで地獄の番犬が大きな口を開けたようだった。
 再び魂を引き剥がされ、足下に俯せに倒れ込んだ紫龍に、デスマスクは高めた小宇宙を一旦沈めた。小宇宙を燃え上がらせたことで一気に上昇した心拍数、筋肉組織の活性化、脳内を巡る様々な分泌物。デスマスクはセブンセンシズがもたらすそれらをひとつひとつ把握しながら、大きく、ゆっくり呼吸をしつつ鎮めてゆく。
 だがもう少しでセブンセンシズの域から小宇宙が鎮まろうとした時、デスマスクはぴくりとこめかみを動かした。
「なんだ、このうっとうしい“気”は……?」
 この戦いが始まってから、参謀・デスマスクは常に十二宮全体、時によってはそれ以上の規模で気を配り、誰がどこにいるのかを把握している。先程積尸気冥界波を放つ為に小宇宙をセブンセンシズの域まで高めつつ、同時に冷静に広く小宇宙を行き渡らせるという繊細極まるサーチ作業も行なうことを可能にしたのは、さすが一切の暴走制御修行を必要としなかったデスマスクといったところだろう。器用さにおいて、彼の右に出る者はなかなか居ない。
 だがデスマスクがいかに繊細な小宇宙のコントロールが出来るからといって、こんなに小さく些細な“気”を捉えることはなかっただろう。積尸気冥界波を放つ為にセブンセンシズまで高めた小宇宙が、たまたまそれに気付いたのである。
 しかし、それが小さく些細で、そして黄金聖闘士であるデスマスクの感覚が鋭敏すぎるとはいっても、十二宮まで届いているという事だけでも、一般人レベルのそれではない。場所を探るとその出所は五老峰だったが、童虎老師のものではないことは確かだった。
「俺に対する攻撃的小宇宙というものでもないが、なにか、祈りのような……」
 気になるととことん気になってくるのはデスマスクの性格でもあるが、たった今倒した敵の家から正体不明の小宇宙が感じられれば、どうしても気にかかってしまう。
(……まさか紫龍の奴、また積尸気を抜けて冥界から戻ってくるのでは……)
 デスマスクは眉をひそめ、遠く五老峰の方角を見た。戦いにおいて、得体の知れないものが存在することほど参謀にとって鬱陶しいことはない。だが紫龍が完全に死んでいない今、同じ黄金聖闘士の童虎が居る五老峰まで喧嘩を売りに行くのはあまりいい考えではない。
「やはりこの俺自身の手で……完全に死の国へ突き落とさねばならんかな」
 ならばここはひとつ更に慎重になるべきか、と考えたデスマスクは、もう一度小宇宙を集中して積尸気の穴を開けると、自分は生身のままその中に入って行った。魂ではなく生身のままで積尸気を通るのは、あの日琴座の聖衣を取り損ねて死んだ娘を引き戻しに行った時に初めて行なった技であるが、今ではもうすっかり慣れたものだ。
 白いマントが翻ったその時、真っ暗な穴が、音もなく閉じた。



「う……」
 そして再び積尸気の穴に叩き込まれた紫龍は、目が見えることで己の状況を把握した。一切の言葉を発することなく進む人々の無気力な列が、岩の向こうに一直線に並んでいる。
 そして今度は身体の力がほとんど入らないことから、黄金聖闘士・デスマスクの小宇宙の強大さが言葉の通り身にしみた。
 小宇宙を燃やすことと正反対にあるのが“無気力”であることは、紫龍も老師から教えられ、それ以上に、小宇宙を体得している者として感覚で知っている。
 そして積尸気冥界波を食らった時に感じた、風船に穴が空いてするすると空気が抜けて行くような感覚──眠くなるような、熱が下がるような感覚で、紫龍はデスマスクの小宇宙が相手の小宇宙を発動しにくくする特性を持つこと──つまりあそこで死んだ目をして無気力に歩いている亡者達と同じような状態にする特性を持っていることに気付いていた。それに対抗するのが、無気力の反対の作用である生命力、すなわち精一杯小宇宙を燃やし続けることである、という事も。
 だがデスマスクの強大な小宇宙を食らった紫龍は今、小宇宙を燃やすという事がひどく億劫だ。少しでも気を抜けば、もう何もかもがどうでも良くなってしまいそうな気配がすぐ背後に迫っているように感じられた。
 しかしこのままもたついていては、先程自分を助けてくれた沙織や氷河までもが完全に亡者と化し、あの列に加わってしまう。
 流石神の化身といった所か、沙織は逆に自分を助けるほどではあったが、氷河の方は既に列に加わっていた。自分までもがああなるわけにはいかないと、紫龍は何とか小宇宙を燃やそうと、気を奮い立たせようとし──そしてふと、ぴくりと反応して振り向いた。
「春麗……?」
 小宇宙を高めたせいだろうか、紫龍は懐かしく柔らかな気配を感じた。
(春麗が、俺の為に遠い五老峰で祈ってくれているのを感じる……!)
 聖闘士の自分はいつか遠くに出向いていってしまうかもしれない、しかし必ず戻ってくるから無事に帰れるように祈っていてくれと言った紫龍に頷いてくれた、そして己の意思とはいえ盲目となり、慣れない生活にどうしても苛立ってしまう紫龍に辛抱強く付き合い、あらゆる世話を焼いてくれた、優しい幼馴染み。
 彼女が、祈ってくれている。
 そのことが、紫龍の心を劇的なほどに奮い立たせた。黄金聖闘士という強大な敵を相手取り、なんと肉体から引き剥がされ、ただひたすら死に向かうだけの空間で一人きり。その中で生を諦めずに居なければいけない紫龍にとって、彼女の祈りは涙が出るほど心強いものに感じられたのだ。

──ドカッ!

「ぐわっ……!」
 突然背中を襲った凄まじい衝撃に、紫龍は呻いた。背後に居たデスマスクに思い切り踏みつけられたのだという事に気付き、春麗の祈りの小宇宙に勇気づけられたはいいが気配を探ることをおろそかにしていたことに、紫龍は歯噛みする。
 足蹴にされて蛙のように地に伏せさせられながらも、紫龍は首をひねり、デスマスクを睨みつけた。
 そして開けた目でしっかりと自分を睨んだ紫龍に、どうやらここでは視力が戻っているらしいことにデスマスクは気付く。盲目になったのはつい最近のことであるので、魂、精神の方は身体が盲目であることにまだ慣れきっていない故だろう。これは、部位によっては幻肢痛などの症状にも繋がる現象でもある。
(これで小宇宙がどうなるか……まあ、大した変動ではないか)
 六感のうちのどれかを塞ぐことは他の感覚を大きく鋭敏に鍛え、そしてそれはセブンセンシズへの近道でもあり、即ち小宇宙を高めやすくなる。魂のみの状態であり積尸気冥界波の効力が未だ大きく働いている紫龍にとって目が見えるようになったことがプラスに働くのかマイナスに働くのかはまだわからないが、どっちにしろここまで弱っているのだから大きな要素ではないだろう、とデスマスクは判断した。
「お……お前までがなぜ積尸気に……」
「フッ、今度はお前が二度と舞い戻って来れんように……」
 デスマスクは、一度言葉を区切った。
「この冥界の入り口ではなく、確実に死の国へ堕としてやるためさ!」
 キィン、と、黄金聖衣が装着者の小宇宙に反応して鳴る星のような音がする。しかしそのきらきらしい音とは裏腹に、装着者のデスマスクの目は、血溜りの底のような色をしていた。小宇宙が最も現れる目であるが、デスマスクのそれは血で出来たマグマのように濃厚に赤く輝いている。
 アルビノでもなく、むしろオリーブ色に近いような肌色をしておきながら銀髪と赤い目という容姿は、この、死の為だけに存在する空間において相応しい異形であり、またより際立って見えるような気がした。
「俺は自ら作り出す故に、積尸気の穴は自由に出入り出来る。だがそんな俺でも一度落ちたら二度と這い上がっては来れん所……。見ろ! それがあれだ!」
 容赦なく紫龍を踏みつけたまま、デスマスクは紫龍の頭を掴んで乱暴に反らせる。頭を掴む指の凄まじい力と無理矢理首を反らされた痛みに、紫龍は顔を顰めつつ、しかし見えるようになった目で、目の前に広がる光景をはっきりと見た。
「うっ……!」
「黄泉比良坂!」
 その声は、まるで舞台役者のようによく響いた。
「この冥界の入り口に来た亡者どもが黙々と行き入って行く、あの黄泉比良坂!」
 一言も声を立てず行列を為し、ただぞろぞろと無気力に進んで行く亡者達。そして彼らの行き着く先がどうなっているのか、紫龍は今、まざまざと目にした。
 火山の下降にも似た大きな穴に死者達がどんどん自ら落ちてく様は、心の底からぞっとするのに十分な光景だった。
「この場所が生と死を分ける場所だとすれば、あの黄泉比良坂こそがまさしく死の国への落とし穴! あそこに落ちたら二度と蘇生することはない! 確実に死ぬのだ!」
 舞台の台詞のように朗々と響く、デスマスクの声。そして目の前に広がる光景は、生々しすぎて現実離れしているような胸の悪さを紫龍に与えた。春麗の存在を感じて回復した気持ちが、その不快感でまた萎んで行きそうになる。
「さあ立て! お前もあの亡者達と同じように黄泉比良坂に落ちるのだ!」
 紫龍から足を退け、奴隷をこき使う領主のような口調でもってデスマスクは怒鳴った。
「フッ、……といっても、二度も冥界波を食らって立ち上がる気力も無いようだな」
 一度めだけならまだしも、全力の二発めを食らって少しでも話せたというだけでも、青銅聖闘士としては規格外の小宇宙ではある。しかし目にした圧倒的な光景にとうとう最期の気力を削がれたのか、紫龍はぐったりと岩場に臥し、ぴくりとも動かない。デスマスクはその様を見て、一瞬だけ目を細めた。
(──これは、本当に力尽きたな)
 芝居がかった口調とは裏腹にそう冷静に判断して、デスマスクはまた笑みを浮かべる。そろそろ仕事が終わりそうだという笑みだ。
「よかろう、この俺が引きずって行って落としてやる」
 位が低い聖衣であるが故に黄金聖衣と比べると随分軽装な青銅聖衣、その間から見える紫龍のアンダーシャツの首根っこを、デスマスクは乱暴に引っ掴み、言葉通りに彼を引きずって歩き出す。
「まさしくこれこそ一歩一歩が死への一里塚だ! さあ紫龍、念仏でも唱えろ!」
 紫龍と違って生身、そして死神と自称する力を持ってして自らやって来たとはいえ、デスマスクも人間であることに変わりはない。黄泉比良坂という死の為の空間で正気を保つには、いくらかの小宇宙を保ち続けていなければならないのはデスマスクも同じだった。
 そして小宇宙を高めることによって上昇した心拍数、筋肉組織の活性化、脳内を巡る様々な分泌物は、結果的にその者の気分を大きく盛り上げる。その結果は個々人で酔い方が違うのと同じく様々であるが、デスマスクが先程から発しているどこか芝居がかってよく回る口調や役者のように見事に響く発声は、小宇宙を高めたことによる肉体への影響の一つである。
 無自覚ながら小宇宙に目覚めている本物の芸術家が、気分が乗れば素晴らしい表現を生み出すのと同じく、デスマスクの強化された肉体が朗々と声を発し、普段より更によく回るようになった頭が、より劇的な言葉を豊富な語彙の中から選んでいるのだ。
 そして少しも衰えぬ歩調で紫龍を乱暴に引きずり続け、デスマスクはとうとう死界の穴の淵まで辿り着いた。火山の火口、形としてはカルデラにも似たその場所であるが、大きく口を広げる穴は果てがないほどに深く、底の見えない真っ暗な闇を広げている。
 その縁に立ったデスマスクは、細身とはいえ170センチ以上身長のある紫龍の身体を片手で持ち上げ、大きく口を開けて高らかに笑った。死界の穴に近付くほど、死へ誘う力は大きくなる。大笑い出来るほど気を大きくしていなければ、いくら死神・デスマスクといえど、のだ。
 そしていよいよ少年を死界の穴に放り込もうと、デスマスクは彼の身体を軽々と振りかぶる。
「さらばだ! 紫龍──」
 はっ、と表情を動かしたのはデスマスクだけでなく、持ち上げられた紫龍もだった。

──紫龍

 それは鈴のような、少女の声だった。

──どうか
──神様、どうか紫龍をお守り下さい

 デスマスクの眉間に、盛大に皺が寄る。

──紫龍を

「ま……まただ、この祈りは一体どこから……」
 やけに気に触るうっとうしさだ、とデスマスクは苛々と唸り声を上げる。
 強い声でもないし、攻撃的な要素も一切感じない少女の声は、耳元をさわさわとくすぐるような、ごくささやかなものだった。だがそれは、死のみが濃厚に立ちこめるこの空間では、凪の日のそよ風のように、むしろよく際立った。
「シ……春麗……」
 岩場を引きずられ、その間ぐったりとしたまま一切言葉を発しなかった紫龍が、小さくではあるが声を上げ、デスマスクは更に顔を顰める。

──紫龍……
──紫龍……
──紫龍……

 祈りが強くなっているせいか、それとも死界の穴の淵に立つ為に小宇宙を高めているせいか、デスマスクは少女の小宇宙を逆に辿り、その姿をはっきりと視認することに成功した。
 赤いチャイナ服を着た、おさげの少女。
(──この娘か、先程から俺の神経を苛つかせているのは!?)
 場所はやはり五老峰であった。大きな滝の前で膝をつき、目を閉じ、小さな手を胸の前で組んで、彼女は一心不乱に祈っている。
 苛々とした様子を隠しもせず、デスマスクは舌打ちをした。
(さっさと死界の穴に放り投げてやれ)
 そう、その駒運びが正解だった。切るべきカードだった。

 ──だが、デスマスクは、しくじった。

──神様、お願いします

 先程も発されたその一言が、デスマスクの神経を逆撫でした。
 ──“神様”。
 サガが身を削って祈っても、何千人という子供が無惨に死に至ろうとも、何もしなかった神。
 娘の為に自分の全てを捨てる母に、何一つ手を差し伸べなかった神。
 死ねば人間と同じく黄泉比良坂に落とされ死の舞踏に加わる、無力な神。
 だからもし祈るなら邪魔だけはしないでくれと祈れ、デスマスクは弟子にそう教え込んできた。
 だがこの少女は、神に祈っている。助けてくれと、祈っているのだ。

──紫龍をお守り下さい

 守ってくれと、助けてくれと、身が裂けるほど切実に祈る思い。
「う……」
 デスマスクは、知っている。どんなに祈りを捧げようと、神は応えることはない。だからこそ彼は一度としてアテナを奉じず、神を否定し、サガ達とともに革命を起こした。だが何も知らない少女は、ただ純粋な思いで神に祈っている。守ってくれ、──助けてくれ、と。
 そしてそれが、デスマスクの感情を、どうしようもなく逆撫でした。
 己の歯を全てむしり取って手当り次第に投げつけてやりたい、そんな激情が、彼の脳天から爪先までを激流のように駆け巡る。
 いつ如何なる時も冷静であること、隅々までに目を向け、全てを把握し、決して視界を狭く持たないこと。それがデスマスクが長年の間で得た極意であり、また信条だった。

──紫龍をお守り下さい

 ブツン、と頭のどこかで線が切れる音を、デスマスクは聞いた。
 冷静であること、感情に流されないこと。それこそが勝利の極意であるとデスマスクは確信し、その信条に従ってきた。
 感情に流されると、視界が狭まる。進める駒を間違える、切るカードを見誤る。
 そしてデスマスクは、──しくじった。
 次の瞬間にはもう、デスマスクは少女を殺すことしか考えていなかった。

「──失せろ、小娘!」

 デスマスクは、超能力に置いては黄金聖闘士の中でも上位の実力を誇る。しかし、ギリシャ・聖域十二宮、しかも黄泉比良坂という異次元の中から五老峰にいる少女に働きかけることの出来る念動力ともなれば、シャカやムウに匹敵するほどの力であり、普段のデスマスクが出来るレベルの力ではない。
 感情の高ぶりは冷静なコントロールを失わせるが、しかし全力の小宇宙の燃焼を可能にする。ことで珍しくもリミッターの外れたデスマスクの力が、そんな行為を可能にしたのである。
「うっ……!」
 ふわりと身体が浮き上がり、あり得ない現象に狼狽える少女の姿が、紫龍にも見えた。デスマスクに持ち上げられていること、そしてデスマスクが手当り次第に小宇宙を発していることから、自然にテレパスの要領となり、デスマスクの見ているものが紫龍にも見えたのである。
「よ……よせ、デスマスク!」
 極限に怠い身体に鞭打って、紫龍は叫んだ。
 しかし少女は高い叫び声を上げ、──大瀑布の滝壺の中に、吸い込まれて行ってしまった。
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Annotate:
次の話を読む前に、【Children's corner - 子供の領分】の紫龍の短編『象の子守歌(全3話)』をお読み頂けると、なお一層お話が盛り上がって楽しめるかと思います。
もちろん読む順番は自由ですが、書き手より、ご参考まで。
BY 餡子郎
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