第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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城戸沙織をアテナと奉じ、ここ十二宮へ攻め込んできたという少年たち。彼らの小宇宙が双児宮を抜けたことを察知したミロは、すっと目を細めた。
13年前、アリエスを正式に賜る試練を受けにジャミールに出向いたままそれきり一度も聖域からの招集に応じなかったムウは、城戸沙織とあの少年らを、おおいに手助けしていたという。
13年間全くの音信不通だったとはいえ、幼少の頃、友としてこの聖域で共に過ごし、12人きりの黄金聖闘士という絆は決して浅いものではないと思っているミロにとって、それは信じ難いことであった。
しかし報告によれば、彼らがここに来た時、ムウは彼らの破損した聖衣を修復すらしてみせたという。……つまりムウは、完全に聖域の敵となったのだ。
沈痛な表情で、ミロは唇を噛む。デスマスク、シュラ、アフロディーテ、この三人が何らかの秘密を持っていることは昔から気付いては居たものの、それがとんでもないものなのではないかと思い始めたのは、ここ一年ほどの間だ。
二十歳を超えた今となってはたった三つしか変わらないと思うのだが、かつて彼らは自分たちよりも随分と大人である、というような認識が強くあった。
実際、そうだったと思う。17の時にシュラに付いて城戸の屋敷に向かった時も、彼は自分よりも確かに大人だった。そんな風だから、彼らが何か隠していても、子供が大人の話に口を出さずに居るように、ミロ達は黙っていたのである。
だが傷の膿がじくじくと深くなるように不穏な噂が広まる中、彼らが何を隠しているのか知りたい、と思うようになった。それは自分たちがもう子供ではなく、既に彼らと同等な働きができる一人前だという自負であり、そしてそんな自分たちを彼らはいつまで頼ってくれないのだろうか、というもどかしさでもあった。
一部では紛れもなく神のような方と言われる教皇、そして“下”の人々や子供たちの為の環境を整えるために精力的に動いてきた彼ら三人の実績を思えば、まさか悪いことをしているのではなかろうなと詰め寄ることも出来はしない。そして実際、彼らは常に聖域をより良くする為に働き、それによって、聖域は13年前以前とは比べ物にならない程よく治められている。
城戸沙織とあの少年たちが、いっそわけのわからぬ化け物かなにかであればどんなに気が楽だったか、とミロは思う。しかしあのアルデバランが道を譲ったという事は、そうではないのだろう。
アルデバランは、少年たちに金牛宮を通り抜けさせた。彼の力強い小宇宙が爆発したのを何度か感じたので、戦闘をしなかったわけではあるまい。しかし、彼は己と殆ど同じ心境と考えを持っている。おそらく少年たちと直に接し、何か思うところがあったのだろう。
そして彼が少年たちに道を譲ったということはつまり、お前達も見極めろ、という事なのだ。ミロは更に眉を顰める。
彼らはミロたちと同じく聖衣を纏う聖闘士であり、しかもまだ年端もゆかぬ少年で、そしてかつてグラード財団とやらから人身売買まがいのルートで各自に飛ばされたのを必死でミロたちが救った、あの100人の子供たちの一部だ。しかも、その一人は自分の友人の愛弟子である。
はあ、と、彼の性格では珍しく、ミロは憂鬱な息を吐く。
(──……?)
ふと、ミロは、上から馴染みのある気配が降りてくるのを感じた。友人のひやりと冷たい小宇宙が、天蠍宮を涼やかに抜ける。
「……自宮待機の命令だぞ、カミュ」
シュラは一体何をしているんだ、と、ミロは顔を顰める。ここまで降りて来たという事は、磨羯宮も通ったはずだ。しかし、シュラ自身は命令に忠実だが、他人に対してそれを強制しない。不殺の意思を貫くミロを否定しないように。だから待機命令を無視して降りてきたカミュにも、何をしに行くんだくらいは聞いたかもしれないが、きっとそれだけだろう。
彼は強固な目的や意思を持った人間に対して、基本的に見守る方針を取る。自分が何かする時はとても有り難い存在であるシュラだが、こういう時はもどかしい。勝手なことであるが。
「…………」
アクエリアスの聖衣を纏ったカミュは、無言だった。
そして、どこへ行く、と言ってはみたものの、ミロはこの友人がどこへ行こうとしているのか、大体の見当はついていた。彼の弟子に対する執着が尋常でないものであるのは、もはや黄金聖闘士全員が知っている。
「氷河が、次元の狭間に飛ばされた」
「なに……?」
彼独特の静かな声で発された言葉に、ミロは怪訝な顔をした。
「確かに、双児宮に入ってから氷河の小宇宙が感じられんとは思っていたが……。……次元、だと? だが……」
ミロが、眉を顰める。いま聖域に居る人間の中で、次元がどうこうという技を使えるのは、一人しか居ないはずだ、と。
「サガが戻ってきたようだ」
ミロがシャカの気配を探ろうとしたのを察知したカミュが、間髪入れずに言った。ミロが目を見開く。
「なっ……!? 本当か!?」
「姿は見ていないが、シャカはずっと処女宮に居たのだからそうとしか考えられんだろう。あの人が今までどこで何をしていたのか私たちには知らされていないが、この事態だ。緊急という事で呼び戻されていても不思議ではあるまい」
「そうかもしれないが……」
ミロは、そわそわとした。年齢が離れているせいか、シュラたちに対する以上に兄分として慕い、そしてもう13年も会っていない、しかもムウと違ってどこに居るのかさえわからなくなっていたサガが帰ってきているというのである。確か28歳になっているはずだ、とミロは場違いに浮かれた気分になりかけ、慌てて気を引き締める。気が散り易いこの性格は、なかなか直らぬものらしい。
「それで……? サガの技に、氷河が?」
「……ああ。他の三人の小宇宙は双児宮を抜けたようだ」
カミュはいつも通りの無表情を、険しいものにした。だがその表情に、ミロも眉を顰める。
「何をするつもりだ、カミュ」
「……氷河は私の弟子だ。私が始末をつける」
「具体的に何をするのだと聞いているんだ」
いつになくきつい調子でミロが言うと、カミュはいっそう表情を硬くした。
カミュは、感情と小宇宙がかなり直結しているタイプである。感情が小宇宙に現れるのはごく自然なことであるが、カミュはそれが顕著すぎるのだ。しかし、デスマスクやサガ、シャカなどは、誰に教えられずとも物心つく頃には既に小宇宙を理性によってコントロール出来ているので、これは生まれつき備わった質であると言う他ない。
そしてカミュは、泣いたり悩んだり、また怒ったりという、特に負の方面に関する感情が、兎角小宇宙に表れ易い。そのため、誰もが例外なく感情をコントロール出来ない幼児期に置いてかなり苦労をした末、自然に「常に冷静であること」──すなわちクールであることを、己をしっかりと確立させる極意として確信し、そうあろうと努力した。
しかし、小宇宙こそ完璧以上にコントロール出来るようになったものの、三つ子の魂百までという諺もあるように、カミュは根本的に感情が上下し易いのだ。一見表情があまりないように見えるが、少し付き合えば全くそうでないことがすぐに知れる。泣いたり喚いたりしなくなっただけで、無表情の固さの度合いが、彼が今どういう状態なのか、すぐに知らせてしまうのである。
そういうカミュの性格は、ミロだけでなく全員が愛嬌のあるものとして捉えているが、こういう時ともなると、少し滑稽にも見える。この深刻な戦いの現場において、カミュがしているのはやはり弟子の心配なのだ。
「……天秤宮に氷河を降ろす」
「ということは、お前、氷河が十二宮に来てからずっと氷河の小宇宙を追いかけていたな?」
ミロは呆れた。とんだ過保護である。
小宇宙、また気配を探るというのは第六感を使った能力であるが、セブンセンシズに目覚めているレベルの使い手であれば、個人差はあるものの、結構な広範囲でそれが可能となる。これは“仁”“智”の小宇宙が大きいほど得意となる能力で、シャカやムウが本気を出せば地球規模で対象をサーチすることが可能であり、また対象の場所を把握すれば、その場を動かずに、小宇宙による接触、例えばテレパス、またはサイコキネシスなどによる攻撃をしかけることも可能だろう。ミロとて、本気を出せばギリシャ全体をサーチすることくらいは朝飯前だ。
だが、できるのと実際にするのはまた別の話である。そして特定の対象の動きをずっと探り続けるなど、聞いたことがない。必要ないからだ。しかも彼は、氷河が異次元に飛ばされても未だその気配を見失っておらず、しかもそこから引きずり降ろせるほどしっかりと彼の居場所を把握しているという。どれだけ全力でつけ回しているんだと、ミロは再度ため息をついた。
「フリージングコフィン……。戦線離脱させる気か?」
その闘法ゆえ、ミロとはまた違ったやり方で不殺の戦いを可能とするカミュは、フリージングコフィンという技で、それを行なう。SF小説などでよく見る、だが未だ実際には行なわれていない冷凍睡眠。カミュはこの技によって、対象をまさにそれそのものの状態にすることができる。
そしてカミュの小宇宙によって作られたフリージングコフィンはダイヤモンドよりも硬度があり、溶鉱炉に放り込んでも溶けないが、『水と氷の魔術師』の異名を取るカミュ自身の手にかかれば、その解凍は簡単だ。
「氷の眠りにつかせたところで、既に氷河は重大な謀反人だ。戦いが終わってからお前が氷の棺から救い出す、などという事は許されんぞ、カミュ」
「わかっている。……だが生きていることには変わりはない。私が生きている間は叶わぬかもしれんが、幾星霜の後、何らかの手段で蘇ることもあるだろう」
「……お前」
はあ、とため息をついて、ミロは言った。
「……いっそ聖闘士としてじゃなく、ただの子供として面倒を見ていれば良かったのに」
「…………」
カミュは硬い表情のまま、斜め下に視線を流した。
氷河を、ただの子供として育てていれば。それは、ミロの心からの思いだった。
城戸沙織が銀河戦争(ギャラクシアン・ウォーズ)というとんでもない見せ物を開催し、それを粛清する為の刺客をとなった時、氷河を推薦したのはカミュだった。
氷河もまた、グラード財団が世界に散らばした100人の子供たちの一人である。他の少年たちが聖域に対する謀反の罪で処分された時、もし氷河が城戸沙織の招集を無視し続けてシベリアに居たとしても、その経歴から、氷河は聖域から良い目で見られないだろう。監視くらいはつくかもしれない。だからカミュは直ぐさま氷河を刺客として推薦したのだ。彼が決して悪い立場にならないように。
そしてカミュは保留にしてきた白鳥座キグナスの聖衣継承をかなり略式で終了させ、氷河を日本へ向かわせた。──ここまでは、まだいい。
子供だけでなくその周囲・環境についても逐一把握し、迅速に対処するカミュの氷河に対する行動は、親、保護者としては完璧すぎるほど立派なものだ。だがカミュは氷河の親ではなく、師匠なのである。しかも、聖闘士の。
被保護者を大事にすることは、尊い義務である。それについてはミロも同意するが、カミュのやっていることは、師匠としてはあきらかに過保護が過ぎる。親と師匠は似ているようで、決定的なところで非なるものだ。
仮に氷河が非戦闘員のただの子供であるというなら、カミュの対応でいい。しかし氷河は正式に聖衣を得た聖闘士なのだ。その上で敵勢力に加わって聖闘士の総本山に特攻を掛ける、その意味がわからないほど氷河も馬鹿ではないだろうし、ということはそれなりの覚悟があってそんな行動をとったのだろう、とミロは思っている。
そうでなくとも、一挙一動を保護者に見守られ、密かに命綱すらつけられて危ない時は助けられ、更にこれ以上傷つかないよう戦線離脱させられる兵士など、聞いたことがない。情けない、滑稽だ、と言いきってもいいだろう。
──生きてさえいれば、とカミュは言い、そのために命令違反をしようとしている。それは尊い親心だが、師匠がやるべきことではない。
(……カミュは、“親”としては本当にこれ以上ない男だ)
だが“師匠”にはあまり向いていない、というのが、ミロの評価だ。
氷河だけでなく、かつて氷河とともにカミュの弟子であったアイザックが事故で行方知れずになった時のカミュの錯乱ぶりも、相当なものだった。何十回、何百回と、黄金聖闘士の身が限界に来るほど彼は冷たい海に潜り続け、アイザックを探した。その激情のせいで子供の頃のように小宇宙を制御し切れなくなり、身体に氷を纏わりつかせたまま一心不乱に海に潜る彼の姿は痛々しく、子供を失った親そのものだった。
「……しょうがないな」
ミロは、呟いた。聖闘士としての修行をつけ、聖衣を継承する許可まで出しておきながら親が子供にするような情をかけ続けるカミュは、師匠としてはとても褒められたものではない。
だが氷河を我が子のように愛しているカミュにとって、フリージングコフィンによる凍結は、親心と師匠としての義務の狭間での、精一杯の譲歩なのだろう。カミュの行動は師匠としては甘すぎる、しかし親としては過酷極まる決断なのだ。
ミロは、カミュの親友だ。自分の親友が、血の涙を流す思いで我が子を氷の中に閉じ込める決断を下した。そのことを聖闘士だから云々で阻止しようとするほど、ミロは非情な男ではなかった。
「行け」
脇にずれることで、ミロは道を譲る意を示す。カミュの表情が、ほんの僅かに崩れた。
「……すまない」
命令違反に付き合ってくれた親友に、カミュは深い感謝の意を示し、彼の横を静かに通り抜けた。
(……あの弟子馬鹿め)
デスマスクは堂に入った舌打ちをかまし、後ろから二番目の宝瓶宮からわざわざ降りてきたカミュに悪態をついた。
カミュが弟子の小宇宙をつけ回していたことはカミュが宝瓶宮から降りて来るまで気付かなかったが、まさかああまで過保護が過ぎるとは、と、同じく弟子を持つ身としても、デスマスクは呆れた。
ミロはカミュの親友であるし、シュラには最初から期待していない。それに、止めるといってもカミュがそう簡単に止まるわけはないので、この状況の中、味方内で千日戦争(ワンサウザンドウォーズ)を起こすよりは、カミュの好きにさせた方が被害は少ない。
自分たちに対する懸念が限界に来ているアルデバランが、少年たちとの戦いの内容如何によっては道を譲るだろうことは想定内だ。しかし、遠隔操作という大きなハンデがあるとはいえ、サガがひとりしか倒せなかったというのは意外だった。しかもそのキグナスも、カミュに助けられようとしている。相手が子供だからかとも思ったが、黒髪のサガに限ってその理由は当て嵌まらないだろう。
ということは、今頃黒髪を振り乱して教皇の間で機嫌の悪さをあからさまにさせているに違いない、とデスマスクはフンと鼻を鳴らした。
(アンドロメダ、だったか……)
この戦いが始まってから、デスマスクはチェス盤の全ての駒の動きを見回すように、常に十二宮全体、時によってはそれ以上の規模で気を配り、誰がどこにいるのかを把握している。デスマスクはただの戦士ではなく、参謀としての役目を担う。バトルフィールドを十二宮に移した時点でその心配は格段に減ったものの、目の前しか見ていなかったために、思わぬところから出てきた伏兵に駒を取られる、などということがあってはならない。
カミュの弟子であるキグナスは凍気使いで、小宇宙が独特である。よって彼が異次元に吸い込まれたのはすぐに知れたので、サガの攻撃を撥ね除けたのはアンドロメダ少年のほうだろう、ともわかっていた。
(ダイダロスの弟子か)
ならばここへ来た動機は敵討ちか、とデスマスクは予想し、殿(しんがり)に控えている無駄に美しい友人の容貌を思い浮かべた。そして、アンドロメダ少年に同情する。よりにもよって最後の宮とは、と。
しかし、仇討ちの強い思いがサガの攻撃すら撥ね除けた、と思えば、納得も行く。感情が小宇宙に現れないようにコントロールを極めるのは小宇宙の闘法の極意の一つだが、小宇宙と感情が直結しているのは覆しようのない事実である。感情は小宇宙による戦いの中でマイナスになることが多いが、しかしそれがプラスに働くこともある。例えば怒りは全体を見渡す冷静さを損なうが、反面、小宇宙が一時的に増大したりもする。よって仇討ちのために気が高ぶっているアンドロメダが火事場の馬鹿力を出したとて驚くことではなかろう、とデスマスクは判断した。
(ペガサス、とドラゴン……か)
いま全速力で階段を駆け上り、巨蟹宮に突入しようとしているふたつの気配を、デスマスクは感じ取る。
《星矢、この巨蟹宮は俺に任せて、おまえはまっすぐあの獅子宮へ進め!》
小宇宙を広げ、デスマスクは誰よりも得意とするエムパス能力によって、少年らの思考を拾う。
近代の戦争の要は情報、しかも事前の情報である。戦いの前にいかに情報を制しているかで、勝敗の確実性の七割以上は決まるとデスマスクは確信している。
そしてゲームにおいては、プレイヤーが手札をあきらかにした時に勝敗が決まる。しかし実際には、カードが配られた時にもう運命は決まっているのだ。だからこそ、彼は城戸沙織の情報がないことを懸念し、そして戦いが始まってからは戦場以外にまで目を光らせ、こうして敵の会話を盗み聞くことで、強力なカードを手の内に集めているのだ。
衛星によるサーチや、敵勢力内の通信盗聴。近代の戦争においてよく使われる強力なツールを、デスマスクはその小宇宙によってたった一人で実現させているのである。しかも、それは実際の機械類で行なうよりも遥かに精密だ。
《双子座の火時計が消えた以上、残りは9時間しかない! 沙織お嬢さんも大事だし、氷河の小宇宙が消えたことも気にかかる》
(なるほど、やはりその程度の察知は出来るか)
少年らの実力が青銅聖闘士の規格外レベルであることは、デスマスクも既に認めている。しかしこうして考えていることと口に出していることが全くもって同じであり、また自分のような能力を持つ者がいることを全く考慮していないところからしても、彼らがまだまだ未熟な新兵であることが知れる。
また行軍の途中で兵自身が策──策とも言えない稚拙なものだが──をひねり出しているという事は、指揮官、すなわち城戸沙織が未熟な証でもある。指揮官は、戦いが始まる前に戦略の全てを組み上げておかなければならない。行動の指針がなくては兵がばらつき、結果的に統率が取れず、最悪の場合足を引っ張り合うことにもなりかねない。
そして優秀な指揮官の下にこそ、優秀な兵士が生まれる。優秀な兵士は、戦いの最中で無駄口を一切叩かず、黙々と任務を全うすることのみを考える。そしてそれは、次にどうするかを、戦いが始まる前に既に指揮官がきちんと定めてくれているから実現出来ることだ。またこれは、紀元前からの兵法の基礎の基礎と言える。
例えばシュラなどは、兵士の気質の典型だ。もし仮に相手がペガサスとドラゴンでなくシュラやサガであれば、エムパスによる思考の盗聴もさほど役に立たないだろう。いざ戦いとなれば相手を倒すことしか頭に置かない聖剣の使い手であるシュラはもちろん、小宇宙のコントロールにおいてデスマスクを凌ぐサガは、自分の思考を表層意識に出すようなへまはしないだろう。
人間同士の普通の戦争ならば、心の中までは読まれない。衛星や無線、WEB情報、物理的なものにだけ気を配っていればいい。しかし、神との戦争の為に存在する聖闘士は、心の中やその思考までも気を張っていなければならない。なぜなら神はユピキタス──どこにでも存在し、常に全ての思考や感情の動きを読むことが可能だからだ。
戦いが始まる前には既に全ての覚悟を決めて臨み、戦いの最中には一切の迷いがなく動けること。それが聖闘士として一流である極意なのだ。
(──さて)
ふたりの少年の気配が巨蟹宮に差し掛かろうとしたとき、デスマスクはすっと目を細め、巨蟹宮全体に、静かに小宇宙を広げさせた。
異次元の扉を開くサガの技は、異なる次元への扉を開くという点で、デスマスクの持つ特性と似ている。そして彼は自分の小宇宙を双児宮全体に行き渡らせることで、双児宮を迷宮と化すことができる。サガが開いた異次元と双児宮が混ざり合うことで、双児宮はそこかしこにワープゾーンの地雷が組み込まれた迷宮と化すのである。
これが普通の建物であればなかなか難しいのだが、十二宮は神話の時代から人類最強の黄金聖闘士たちが守り、その小宇宙を受け止め続けているという、特殊な存在だ。よって十二宮もまた聖衣と同じく小宇宙が浸透し易く、だからこそ小宇宙による激しい戦いにもある程度耐え得ることが出来、また、守護者の小宇宙を行き渡らせればより顕著な効果を発現させることが可能な媒体としても使うことが出来る。
守護者にとっての自宮は、ただ単に割り当てられた砦ではない。自分の小宇宙を行き渡らせることで己により有利なフィールドにいくらでも改造することが出来る、ホーム・グラウンドなのだ。だからこそ、黄金聖闘士は外に打って出るよりも、ここで敵を迎え撃つ方が何倍も実力を発揮出来る。
兎も角、積尸気の穴を開くというデスマスクの小宇宙を巨蟹宮に行き渡らせれば、どうなるか。
ぞわぞわと、病による寒気のような感覚が、空間全体を支配する。それは死者の葬列が生み出す足音、死の匂い。黄泉比良坂の気配である。
そして間もなくして、人の顔が床から浮き出ている、と喚く少年たちの声が盛大に響いてきた。まずこの声の大きさからして既にプロの兵士らしからぬと思うが、あそこまで驚くならいっそやり甲斐がある、とデスマスクは思わず笑った。
星矢の言う通り、壁、天井、床、宮の全ての面に、死仮面が浮き上がっていた。シチリア・パレルモの死少女ロザリア・ロンバルト、ルルドの聖女ベルナデッタのように安らかで美しい面もあれば、ある者は恨めしく、ある者は悲しげに、またある者は苦痛の表情をしている。どこかカタコンベを連想するような光景だが、しかしそれらは単なる死仮面ではなく、呻いたり泣いたりといった動きを見せているため、その光景はより一層不気味極まるものとなっていた。
──これは、黄泉比良坂を行軍する死者たちの面である。
デスマスクが小宇宙を発揮させた際、黄泉比良坂という異空間と周囲の空間が混ざり、死者たちの行軍が見え隠れする。かつて彼が幼かった頃、積尸気の穴は隙間のようなものでしかなく、それを取り付けられた相手は数日間悪夢を見たという。それは、積尸気の穴から覗いた黄泉比良坂の死者たちの光景に違いない。
そしてデスマスクは、緻密な小宇宙のコントロール技術によってその現象を調整し、このように、死者たちの顔だけを出現させることを思いついた。デスマスクがデスマスクと呼ばれるのはこの現象によるものである──と言われているが、実際は逆だ。これはデスマスクという名にあやかって思いついた、後出の演出である。
──そう、演出だ。
戦いに於いても対話に於いても、ある程度必須のスキル。すなわち、相手の腹を探って制するという行為。己を相応しく演出してみせることについて、デスマスクは役者レベルで多彩、かつ巧みな腕を持つ。それだけでなく、彼は敵という名の観客の情報を事前に徹底的に集め、そして舞台装置から本格的に演出する。そして死者という裏方たちによって作り上げた舞台の上で、死神は観客を翻弄するのだ。
事実、精巧な舞台装置で先ず驚かされた子供たちは、デスマスクの登場に必要以上の警戒を見せていた。
「紫龍、こいつが蟹座キャンサーのデスマスクか!?」
「そうだ。教皇の悪の素顔を知りつつあえて仕えている、黄金聖闘士の風上にも置けん奴だ!」
なんて子供じみた罵倒だ、と、デスマスクは笑い出しそうになるのをこらえた。
(よりにもよって、「聖闘士の風上にもおけない」ときた)
それは、デスマスクにとって褒め言葉でしかない。子供の頃から、デスマスクは良い子と言われるのが大嫌いだ。
「フッ、相変わらず口の減らんガキめ」
お前らもこの無数の死に顔の仲間に加わることになるのだぞ、ともったいぶった前置きから死仮面についての口上を述べてやれば、少年二人は面白いように怯んだ。本当は、いま巨蟹宮に浮かんでいるのは実際にはデスマスクが殺した者ではなく、黄泉比良坂を行軍している死者たち──すなわち現在世界中で死んだばかりの人々の顔なのだが、デスマスクがここにある死仮面の数ほどの人間を老若男女問わず殺してきたのは、紛れも無い事実である。
そしてペガサス少年が、幼い子供ばかりの顔が浮かんだ一角に気付く。二人の少年は驚愕の表情を浮かべているが、開発途上国の子供達を中心として、毎日三万人近い5歳以下の子供が死亡しているのだ。よってここに子供の顔が無数にあっても不思議でもなんでもないのだが、ここにあるのが全てデスマスクが殺した人々だと思い込んでいる二人──特に紫龍は、強い憤りを感じたようだった。
「デスマスク……おまえ、そんな小さい子供たちまで殺してきたというのか」
「……フッ、知らんな。まあ敵を追いつめる際に巻き添えになったガキが結構居たかもしれんが、これも悪を懲らしめる為の些細なことだ! 戦争でもいちいち女子供を避けて爆弾を落としているわけでもあるまい」
「黙れ! そんなものが勝利の証しや強さの勲章になどなるか!」
──ああ、嫌味も通じやしねえ。
激昂する紫龍を前に、デスマスクはため息をつきたい気分になりながら、聖域に連れて来られて放り込まれた牢から逃げ出し、森の中でアイオロスに捕まったあの時のことを思い出した。
カラー映画が出始めた頃の古い映画でしかもう見られないような、濃い、ターコイズのようにはっきりした青緑の目。夏の空よりも果てのない、ぞっとするほど鮮やかに深い目で、少年は事も無げに言った。アテナの思し召しであれば、自分の死も仕方のないことだと。
「聖闘士は常に正義の戦いをしなくてはならないはずだ! デスマスク、やはりおまえには黄金聖衣を纏う資格などひとかけらもない! 聖闘士の名にかけてこの紫龍、全力をかけておまえを倒す!」
自分のことを棚に上げて何言いやがる、とデスマスクは呆れた。
敵を追いつめる為、悪を懲らしめる為に巻き添えになった子供が居ることに、紫龍は激昂した。
しかしそれは、アテナのために戦う聖闘士を育て上げる為に90人の子供が惨たらしく惨めに死んでも、アテナの正義を守る為ならばやむを得ないことなのだ、と言い換えても通じることなのだ。
片っ端から子供を蟲毒の壺に放り込み、生き残った者が聖闘士になるという、昔ながらの、乱暴で残酷な、人を人とも思わぬ手段。サガが最も改革すべきと唱えたそのやり方こそ、グラード財団が行なったやり方そのものである。
聖闘士という強力な兵士を城戸沙織というアテナに与える為、数打ちゃ当たるのやり方でグラード財団から各地へ飛ばされた、紫龍たちと同じ境遇の孤児たち。
五老峰は、聖闘士の修行地としては最も恵まれた環境が整っている。その中で修行をした紫龍は、彼らがどんなに凄惨な状況で死んでいったか、もう忘れてしまったのだろうか。それとも、知らされていないのだろうか。その境遇を考えれば自分の兄弟とも言えるような子供たち、彼らの死の上に君臨する城戸沙織というアテナを、彼は心の底から正義だと思ってこの戦いに臨んでいるのだろうか。
(これだから、筋肉馬鹿は嫌いなんだ)
小宇宙を仁、智、勇の三要素で構成されているものと分析したデスマスクは、今まで最もおろそかにされてきた智の小宇宙を強化することこそ極意と考えた。小宇宙を脳の活性化に使い、小宇宙の最大量を増やすこと。そしてその為の修行は瞑想、即ち“考えること”にある。
自分の頭で考えろと、デスマスクは口を酸っぱくして弟子たちに教え込んできた。神に頼らぬよう、自分だけの正義を胸を張って主張出来るよう、人として生きる修行をしろと言い続けてきた。
そしてそれがアテナの聖闘士としては邪道極まるものだということも、デスマスクはもちろん承知の上である。
デスマスクに言わせれば、アテナの聖闘士として優秀な素質とは、“考えないこと”にある。アテナイコール正義という、思考回路も糞もない直結論理のみを携えた戦士は、自分の意思で倒すべき敵を選んでいくことはない。アテナの敵しか敵と見なせない彼らは、ただ、アテナを害する為に向かってきたものを一人残らず倒そうとするだけだ。──たとえ、自分の命を失おうとも。
聖闘士がよく口にする、「アテナを守る」という言葉は、的確だ。考えることをやめ、ただ仁や勇の力を磨いてきた、昔ながらの聖闘士。アテナさえ守れれば命も何もいらぬと豪語し、“智”の概念を軽んじた挙げ句に能無しの筋肉馬鹿になった彼らは、更には自らが暮らす聖域の統治さえ投げてしまい、欲まみれの神官に食い物にされてきた。
だが同時にアテナのみを徹底して守る最強のボディーガードとなることに特化したとも言えるそのあり方は、アテナの聖闘士としての至高のあり方でもある。
そしてそこには、人間の尊厳、アイデンティティ、個人の意思。そういったものは、全くないのである。
「──星矢! 約束通りおまえは次の獅子宮を目指せ!」
「し……しかし、大丈夫か、ひとりで」
すっかり気を高ぶらせている紫龍に対し、星矢はこの巨蟹宮の不気味な様と友の勢いに押され気味のようだ。しかし紫龍に再度まくしたてられた星矢は、慌てて巨蟹宮を抜けようと走り出す。
「どこへ行く、ペガサス!」
「おっと、おまえの相手は俺がすると言ったはずだ、デスマスク!」
「むっ」
すかさずデスマスクの進路を塞いだ紫龍に、デスマスクは僅かに眉を顰める。ペガサスの名に相応しくなかなかの俊足を持っているらしい少年は、既に結構な距離を行ってしまっていた。
目の前に立ち塞がる紫龍は、五老峰で会った時よりも小宇宙が増大している。最近失明したことで小宇宙が増大した上、感情の高ぶりでまた一時的に小宇宙が燃え上がっているのだろう。
もちろん、ペガサスを追いかけられないこともない。それに、ホームグラウンドとして完璧に整えた巨蟹宮、自分の調子、冷静極まる自分に対し感情が乱れた紫龍、そして小宇宙と聖衣の差と、自分の持つ手札は決して悪くはない。しかし、デスマスクは完全に、言い換えれば楽に勝てる喧嘩しかしない主義だ。少しでも事前情報と違う要素がある場合、優秀な参謀はそれを恐れず、そして決して軽視しない。
「……なるほど紫龍とやら、お前とは五老峰での因縁があったな。よかろう、あの時の決着を今ここでつけてやる!」
ギャンブルは、その場その場の勝利よりも、最終的な儲けが重要だ。その場の負けん気に流されたり、調子に乗って掛け金を増やし、結局最後に身包み剥がされて痛いめを見るのは素人のやることだ。そして相手を挑発しまんまと激昂させた挙げ句に思う様陥れることにかけて、デスマスクの右に出る者はいない。子供の頃とて、かつて名前のなかった頃のシュラを煽り、牢を壊して脱出することなど朝飯前だったのだから。
そして紫龍が言っていた通り、巨蟹宮はまだ4つめの宮だ。おまけに、誰も彼もデスマスクより喧嘩の強い猛者ばかりである。ここで欲を張って自分の負担を増やすよりも確実にドラゴンを殺す方が得策だと、デスマスクはペガサスというチップをあえて見逃し、ゲームの流れを冷静に眺める。
──相手はアマチュア。自分はプロだ。そして相手が誰だろうと決して油断せず確実な勝利を得るのがプロである。
「蟹座の積尸気とは、地上の霊魂があの世へと昇る穴だと教えてやったな!」
手札からカードを抜いて出して見せるような仕草で、デスマスクは右手の人差し指を掲げた。デスマスクだけが手の内に持つ、正真正銘本物の死神のカード。指先に高圧度で集中させた小宇宙は、既に青白い光となって視認出来るまでになっている。
先程から充満している病の寒気に似た感覚、しかし今紫龍が感じているそれは、今までとは比べ物にならないものにまで強くなっていた。
「そうだ紫龍よ、今度こそこの積尸気を通ってあの世へ行くのだ!」
「うっ……!」
セブンセンシズまで高まったデスマスクの小宇宙が、指先一点に集中し、積尸気の穴を大きく開いてゆく。金縛りにあったように動けなくなった紫龍に、デスマスクは死神のカードを叩き付ける。
「──積尸気冥界波!」