第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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「アルデバラン、久しぶりですね。角を修復してさしあげようか」
「おおムウ、いつ聖域に……!?」
 優雅な笑みを浮かべながら現れたムウに、アルデバランは目を見開いた。お互い、こうして顔を会わせるのは実に13年ぶりである。
「い……いやあ面目ない、すっかり星矢にしてやられたわ、ハッハハハ」
「フッ、何を言う」
 アルデバランが本気であれば、今頃ここは血の海のはずだ。下手な芝居をするアルデバランに、ムウは笑みを浮かべながらそう指摘する。
 今は戦いのまっただ中であり、そしてこの戦いが始まってから、ムウは優雅に振る舞いつつも、緊張感を保ち続けてきた。しかし久々に会ったこの友人の相変わらず包容力のある小宇宙にはどこか安らぐものを感じ、ムウは本物の笑顔を浮かべることが出来た。
 しかしムウはふと笑みを納め、神妙な面持ちでアルデバランに向き直った。
「なぜ、星矢たちに道を譲ったのです?」
 アルデバランは、実直で、自分の役目に忠実な、全てに対して誠実な男だ。13年離れていたが、彼のその性質は強固になりはすれど、決して変わってはいないだろう、とムウは確信していた。そしてそれは、外れてはいない。
 そしてそんな彼だからこそ、侵入者を撃退すべしという命令を、誰よりも忠実に成し遂げようとするだろう、とムウは読んでいた。しかしアルデバランは、星矢達にろくな傷も負わせないまま、負けを認めて道を譲った。
 ムウに問われたアルデバランは、やや俯き、星矢達と戦っているうちに、自分自身わからなくなってきたのだ、と重い声で話した。
 日本の城戸沙織を女神と奉じて、星矢達はここへ乗り込んできた。もちろんそんなものは偽物だと最初はアルデバランも思ったが、ペガサスの星の元に聖衣を纏う少年と拳を交わすうちに、迷いが生まれた。星矢たちが本当なのか、それとも教皇が本当なのか。
 アルデバランが繰り出す拳は、居合をもとにした必殺拳だ。そして居合は、迷いが生まれてしまったら、鞘から抜くことが出来なくなる。己に迷いが生まれた事を悟ったアルデバランは、星矢の力量を認めたというよりは、自分が自分自身に負けた事を察し、彼らに道を譲る事にした。迷いのあるまま戦ったとて、何もならない。そう思ったからだ。
「時々、聖域に雑兵や側近の死体が捨てられていると聞く」
 聞く、とは言うが、それは紛れもない事実である。そしてその事実は、ひとつの不穏な噂を沸き起こした。彼らは教皇の正体をみてしまった者たちであり、そして秘密を守ろうとした教皇に殺されたのだ、と。
「しかし俺には、どうも信じられん。近辺の貧しい人々に神のように崇められているあの教皇に限って……」
「だからそれらをはっきりさせるためにも、彼らの戦いはムダではないのです!」
 ムウの口調は強く、そして藤色の目には、真っすぐな光が宿っていた。そんな彼を見たアルデバランは、教皇の正体については未だはっきりとした確信は持てないまでも、少なくともムウは教皇が彼の師・シオンではないと確信しているのだということを悟る。そしてだからこそ、彼は星矢たちに協力しているのだろう。ムウが信じている事が本当ならば、今の教皇は彼の師を殺害し、成り代わっているということになるのだから。
(やはり、……そうなのか、シュラ?)
 アルデバランは、星矢たちを迎え撃つ為に自宮待機を命じられ、シュラに詰め寄ったときの事を思い出す。
 聖域中に広まっている不穏な噂について、教皇と彼ら三人は色々と対策を立てはするが、それらは力ずくのものであったり、物品であったりするもので、堂々としたあきらかな表明などは、殆ど行なわれはしない。そんな日々の上で、今度は真っ向からの迎撃戦だと命じられたアルデバランは、どういうことなのだと、とうとう彼の胸ぐらを掴んだのである。

「──俺は言ったはずだな、シュラ」
 アルデバランは、ぎりぎりと歯を食いしばりながら、シュラに言った。
「俺たちは黄金聖闘士で、仲間だ。だが貴方がこれ以上仲間である俺たちに隠し事をし続けるのであれば、俺はもう黙ってはいないと、俺はあの時そう言ったはずだ、シュラ」
「…………」
 シュラは、無言だった。そして、揺るがぬ目をしていた。
 アルデバランは、彼のその目に絶望した。きっと彼は、もう何を言っても、それこそ殴り掛かったとしても、自分に打ち明けることはないのだと理解したからだ。
(いつ、道を違えた)
 自分たちは仲間であり、同じ黄金聖闘士だ。アルデバランは今でも変わらずそう思っているし、それは事実だろう。しかしシュラは、デスマスクは、アフロディーテは、完全に自分とは違う道を歩いているのだという事を、アルデバランはこの時、完全に理解した。
 自分がして嬉しいことだからお前にもやると、惜しげもなく、自分の宝をお裾分けしてくれた彼。この花は甘いのだとどこか誇らしげに教えてくれた、そして一人で静かにオルゴールを聞いていた、黒髪の、三つ年上の少年。彼は今、花も小さな音楽さえも冷たい墓の下に打ち捨てて、研ぎ澄ました剣を手に、揺るぎなく立っている。
 その姿は凛々しく、強く、揺るぎない。だがアルデバランは、彼のそんな姿が、どうしようもなく悲しかった。
「シュラ、」
「好きにするといい」
 詰め寄ってから彼が初めて発した言葉は、そんな風に、とても固く、突き放した内容だった。
「俺たちが何をしているのか、何をしようとしてきたのか。それはこの聖域という場所そのものが既に表している」
「何を……」
「……俺は、自分で言った事を撤回したりしない」
 揺るぎない目。アルデバランは、あの時と同じように、泣きたくなった。墓穴に叩き付けられた赤い花、小さな小箱。
「約束したんだ」
 シュラの琥珀の目は、アルデバランの方を向いてはいても、どこか遠くを見つめていた。
「……俺は、聖闘士だ」
 それだけ言って、シュラは磨羯宮に消えた。
 凛とした後ろ姿が見えなくなるのを、アルデバランは、ただ拳を握り締め、見送る事しか出来なかった。

 ──この先も同じように行くと思ったら大間違いだぞ、と、アルデバランは星矢に忠告した。
 わかっている、と星矢は言ったが、おそらくわかってはいないだろう。この上にいる彼らの恐ろしいところは、黄金聖衣を纏い、凄まじい実力を持つことではない。迷いを生まれさせてしまった自分と違い、彼らは一切の迷いを持たない。そしてそれは、ただ強いというよりも、もっと重大で、おそるべき事だ。
 ──あの年若い少年たちは、何年も、十年以上も、己の信念を少しのぶれもなく頑として持ち続けるということの凄まじさを、どれだけ理解しているのだろうか。
「……しかし次の双児宮は、いかに彼らでも抜けることは不可能だぞ、ムウよ」
「双児宮……」
 気を取り直して、アルデバランは、ムウに言った。
 ムウが呟いた通り、双児宮はずっと無人の宮だ。神の化身とまで言われ、しかし13年前、突如として姿を消した、双子座ジェミニの黄金聖闘士、サガ。双児宮は、彼が守護する宮である。
 この13年間、サガの姿を見た者は、雑兵からアルデバランたち黄金聖闘士たちまで、誰も居ない。もちろん突然姿を消した彼を心配し、皆、彼はどこに行ったのだとデスマスクたちや教皇に聞いた。返ってきたのは「詳しい事は言えないが、敵になりうる他勢力の偵察に向かわせている」という、ひどく曖昧なものだった。だが、嘘だと反論する事も出来ない。そのまま、13年が経過した。
 しかしアルデバランは、先程、双児宮に小宇宙が存在するのを感じていた。そしてそれは懐かしい、彼の小宇宙だった。
「──双子座の聖闘士は、確実に双児宮に来ている!」
 そう言い切ったアルデバランに、ムウが目を見開き、驚愕する。
 ひとすじの汗が、彼の輪郭できらりと光った。






 もう十数年赴いていない自宮に、サガは異次元の裂け目をループさせる事による幻影を作り出し、少年たちを翻弄していた。
 二手に分かれた彼らのうち、盲目であるドラゴンのおかげで、彼とペガサスの少年は双児宮を抜けた。サガはそちらはもう捨て置く事にして、残ったキグナスとアンドロメダ少年を確実に仕留める事に意識を向けた。ジェミニの聖衣を用いたダミーに向かって技を放ったキグナスが懲りずに同じことを繰り返すのを感知したサガは、嘲笑うようにして、喉を鳴らす。
(キグナスは、カミュの弟子であるはずだが)
 彼が信条とする“クール”の精神は受け継がれていないのだろうか、とサガは内心首を傾げる。元々小宇宙の制御が下手で、そのせいで凍気をまき散らしてしまう事が多かったカミュは、いつ如何なるときも落ち着いている事、冷静である事を心がける事こそ自分が成長する極意だと、正しく見極めた。そしてその極意を自分の弟子にもきつく教えていると聞いたことがあるのだが、今のキグナスの様子を見る限り、彼は師匠の教えを完全に体得していないらしい。
(やはり、所詮はヒヨコか)
 フン、と鼻を鳴らして笑ったサガは、玉座に腰掛けた姿のまま、小宇宙を高める。脳に作用する事で増大する“智”の力、サガは瞑想の形を取り、己の頭脳に集中する事で小宇宙を高め、教皇宮に居ながらにして、双児宮の少年二人を相手取った。

「氷河! しっかりして、氷河!」
 ダイヤモンドダストに続き、自ら放ったホーロドニースメルチの威力を真っ正面から浴びて昏倒した氷河を、瞬は必死に呼び起こす。しかし完全に気を失った氷河は、目覚める兆しをみせなかった。
 このままではやられる、と、瞬は目の前のジェミニにチェーンによる攻撃を繰り出すも、チェーンはぴたりと動きを止めてしまう。瞬は困惑したが、しかし彼の対処はなかなかに迅速だった。攻撃が駄目なら防御とばかりに、瞬は自分と氷河の周りに、鉄壁の防御と名高いネビュラを張り巡らせる。
 このネビュラは、未だかつて破られた事のない、無敵の陣である。だからこそ、死ぬ気があるなら入ってこい──と、瞬にしては珍しく、挑発までしてみせた。しかし、
「な……」
 堂々と瞬が張り巡らせたネビュラを渡ってくるジェミニに、瞬はぎょっと目を見開く。しかも、チェーンはまるでジェミニに反応しない。
 窮地に追い込まれた故か、むしろ普段よりも明晰になった瞬の頭脳は、無駄に狼狽する事なく、ジェミニの聖闘士が目の前の聖衣ではない事を見抜く。しかし効果的な打開策を考えつくまでには至らなかった。ただ、目の前のジェミニの聖衣の中から、背筋がぞっとするような強大な小宇宙が、一気に膨らむのを感じる。

 ──アナザーディメンション!

「うわあああ────っ!」
 それは、瞬にとって、未だかつてない程強大な小宇宙だった。今まで戦った敵の小宇宙に気圧された事も何度もあるが、しかし、それは例えば拳であったり蹴りであったり、規模の小さい、目に見えるものが対象だった。
 しかし今食らった攻撃は、そんなものとはとても比較できない。空間そのもの、まるで小宇宙で出来た海に全身叩き落とされたような感覚だった。
 あまりにも桁の違う規模の小宇宙に、今まで狼狽える事のなかった瞬もさすがにパニックに陥りかける。それを助けたのは、アンドロメダのチェーンだった。完全オートで持ち主を助けるチェーンは、素早く伸びて双児宮の太い柱に巻き付き、命綱のように瞬の身体を引き止めた。それにハッと正気を取り戻した瞬は、慌てて氷河の姿を探す。
「ヒ……氷河、ぼくの手につかまって! 氷河……!」
 必死に呼びかけ手を伸ばすが、しかし未だ気絶している氷河は、瞬の手を取る事はなかった。
 小宇宙の海、星の彼方へ消えていく兄弟へ未練がましく手を伸ばしていた瞬だが、しかし、突然フッと小宇宙が消えて、瞬は勢いよく石の床に叩き付けられた。
 氷河は一体どこに消えたのだと言い募る瞬に、あの空間は異次元だと、ジェミニは言った。もはや抜ける事の出来ない異次元の空間を、氷河はこの先ずっと、未来永劫漂い続けるのだと。
 そして瞬が驚愕に目を見開いたその時、サガは間髪入れず、再びアナザーディメンションを仕掛けた。再びチェーンが命綱の役割を果たすが、瞬の腕から伸びる二本の鎖に、サガは高めた小宇宙によってサイコキネシスの圧力をかける。一本のチェーンがあっさりと砕けた。
「うわっ……!」
「そうら、異次元の入り口がぽっかり口を開けて待っているぞ」
 フフフ、と低い笑いを漏らしたサガは、残る一本の鎖も断ち切ってやろうと、再び小宇宙を高める。万事休すの状態だからか、火事場の馬鹿力の効果で小宇宙が高まっているのだろう、先程よりも時間がかかる。だがミリミリと少しずつ砕けていくのが止まる事はなく、ついに鎖が完全に千切れた、その瞬間だった。
「──なにい!?」
 突如頭脳に与えられた妨害に、サガは声を上げた。遠隔操作を可能にする為、玉座に座しつつも小宇宙を高める瞑想状態、即ち肉体的にはほぼ完全な無防備であった為に、それはこれ以上なく的確に、サガを妨害した。
「──誰だ!?」
 教皇宮にいる自分の瞑想を思念によって邪魔するなど、相当な小宇宙の持ち主しか出来る事ではない。
 直ぐさま思ったのは十二宮の下にいる女神の仕業かという思いだったが、トレミーが命をかけて打ち込んだ黄金の矢は、デスマスクら三人の小宇宙によって、順調に効果を発揮しているはずだ。城戸沙織の魂は今頃黄泉比良坂にあり、そして魂が抜けた肉体に残っている小宇宙、生命力は、アフロディーテが込めた小宇宙によってどんどん吸い上げられているはずだ。
 城戸沙織ではないと判断したサガは、おそらくジェミニ聖衣の姿が消えて驚いているだろう瞬をひとまず放置し、聖域内、そして外界に小宇宙を、まるで衛星のサーチのように巡らせた。ペガサスとドラゴンの少年は巨蟹宮へ向かっている最中、ムウは白羊宮、アルデバランも金牛宮を動いていない。童虎老師も五老峰の大滝の前に座したままだ。サガの邪魔を出来そうなものなど、どこにもいない。
(それでは、誰が……!?)
 ムウや老師以外に、教皇宮にいる自分の頭脳に直接ショックを与えるというマネが出来る者がいるというのか。サガは更に小宇宙を広げ、自分に与えられたショックの軌跡を辿り、犯人の居所を突き止めた。
(地中海……)
 それは、さほどここ聖域から遠くない場所だった。噴煙をゆっくりと吐き出している島の姿が見える。これは、カノン島。──ここだ、ここにいる。
(……何だ、おそろしく挑戦的なこの小宇宙は……!?)
 噴煙の中に、座す者が居る。サガは煙の向こうに見えるその姿を、はっきりと見た。
(──不死鳥フェニックス!)
 その正体に、サガは思わず玉座から立ち上がった。
 青銅聖闘士でありながら、たった一人で暗黒聖闘士らを叩き潰し、配下に置いたという少年。神官たちが作った不正の修行地にして、脱走兵たちの吹きだまりであるデスクイーン島で見事生き残り、青銅最強といわれる不死鳥座フェニックスの聖衣を得た彼、一輝という少年の事は、サガも報告で聞いている。
 ──大した少年だ、とは思っていた。しかし、ここまでとは。
 サガが驚いているうちに、一輝の小宇宙は薄らぎ、再び噴煙の中に溶け込んでいった。
 カノン島は、傷ついた聖闘士がその噴煙に身を浸し、再び復活する、要するに聖闘士専用の療養地である。
 療養地と言っても決して穏やかな場所ではないのだが、要するにこの火山島には、小宇宙をより活発に増大させるという力がある。小宇宙が活発になることは、肉体にも多大な影響をもたらす。よって小宇宙覚醒者は一般人よりも格段に傷の治りが早く、また菌やウィルスに対する抵抗力も強い。
 そして更に怪我の治りを早めるには、他の小宇宙覚醒者にヒーリングを施してもらう、つまり小宇宙を分けてもらう事でも可能だが、カノン島の場合、己の小宇宙を一時的に活発にする事で、傷の治りをより高めるのである。酸素カプセルのようなものだ。
 サガの瞑想を邪魔するまでの小宇宙を得ることが出来たのも、ここカノン島の効果だろう。カノン島で傷を治すにはじっと身体を休めていなければならないが、思念波を飛ばす事は出来る。一輝は、カノン島の効力により小宇宙が普段の何倍にも膨れ上がっていたおかげで、サガの邪魔をする事が可能になったのだろう。
 しかし、カノン島の効力があるとはいえ、それでも青銅聖闘士の身で教皇宮のサガの邪魔をするなど、相当な事である。
(一輝、か)
 この少年ばかりは甘く見る事は出来ないな、と、サガは表情を引き締めた。

「い……今、にいさんの小宇宙を感じたような気がしたけど……」
 ジェミニの聖衣の姿も、双児宮内の幻影も姿を消した中、瞬はきょろきょろと辺りを見回していた。そして、ハッとする。
「そういえば、氷河に凍らされた右腕を治すには、地中海のカノン島へ行けと氷河が言っていた……」
 そうだ、兄もこの聖域の近くに来ているのだ、と瞬は気付き、そして確信した。そしてその地から、何らかの形で自分の危機を救ってくれたのだろう、と。
 兄が居るとわかった途端に勇気がわいてくるのだから、自分も現金だと心のどこかで思いつつも、しかし確かに勇気づけられた瞬は、背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「にいさんのおかげで、ジェミニの聖闘士も、双児宮の迷路も消えている……今ならこの宮を突破出来る……」
 ──でも、そうしたら、氷河はどうなる。
 瞬は、ぐっとチェーンを握り締めた。自分だけこの場を抜けるわけにはいかない、何とかしてこの幻覚をつくりだしている張本人に一矢報いなければ、と意思を固める。

 ──一方サガは、自分が一輝に構っている間に双児宮を抜けていなかった瞬に、驚きつつも呆れていた。サガが戻ってきた事によって、双児宮には再び迷路が構築され、逃げ道はない。なぜ迷路の消えているうちにここから逃げなかったのだと尋ねれば、氷河の為だという答えが返ってきた。
「ここを出るときは、氷河も一緒だ!」
「……笑止な!」
 青銅聖闘士の身で、しかもたった四人で攻め込んできておきながら脱落者を見捨てることが出来ずに自滅の道を選ぶ瞬に、サガは声を上げた。愚かとしか言いようがない。
 そしてサガは、今度こそ異次元の彼方に瞬をたたき落とすため、アナザーディメンションを仕掛けた。一輝の助けはもうない。ついにこれで終わりだ、と、サガはほくそ笑む。

──ピキィン!

「な……」
 しかし、目の前に広がる異次元を通して見た瞬は、サガの予想と違う姿を見せていた。前二回、発動直後すぐにアナザーディメンションに引きずり込まれていたはずの少年は今、びくともせずにそこに立っている。
 自己修復を遂げたチェーンが彼の身体の周りを取り囲み、瞬をアナザーディメンションが発するブラックホールのような重力から守っているのだ。
「ジェミニの聖闘士よ! このアンドロメダのチェーンがなぜ2本あるか知っているか」
 瞬の小宇宙は、明らかに増大していた。そしてその小宇宙は、サガが破壊したはずのチェーンを完全に修復させている。
 ──瞬は、人を傷つける事が、どうしても嫌いだった。まだ13歳の瞬が抱くその思いは、確固たる思想や倫理観に基づくものではなく単に生理的なものといったほうが相応しかったが、だからこそ強い思いでもあった。
 そんな瞬は、聖衣を得て正規の聖闘士となった今でさえ、出来れば己の身を守るだけですませたい、そう思っている。
 アンドロメダのチェーンは本来、左が防御を担うサークルチェーン、右が攻撃を担うスクエアチェーンと、はっきりと分担が別れている。
 しかし根本から戦う事が嫌いな瞬は、普段、殆ど2本ともを防御の為に使っている。それは単に攻撃する事を好まない瞬自身の癖でもあるが、最強とも謳われるアンドロメダのチェーンならば、発するのがそれなり程度の小宇宙でも、結構な威力を発揮してくれるからこそ成り立つ戦法でもある。完璧に守る事で戦う事をやり過ごすという、武人らしい精神を持った者に聞かせれば十人中十人が腰抜けと言うだろう瞬の理想を、このチェーンは可能にしてくれるのだ。
 言い換えれば、チェーンの力に甘えきった、依存した戦い方を、瞬は常用している。しかしチェーンを2本とも簡単に破壊されるという窮地に追い込まれ、そしてその上で兄の存在に勇気づけられた瞬は、久方ぶりに、迷いなく小宇宙を燃焼させた。
 今までぐずぐずと防御ばかり続けてきたチェーンは今、使い手である瞬の小宇宙が増大したことにより、本来の性質がはっきりと現れてきていた。要するに防御の為のチェーンはより防御力を増し、そして防御に徹して瞬を守り、そして攻撃の為のチェーンは、攻撃の為の様相を濃くしている。
 そしてまた瞬自身も、己が先程までと比べ物にならない程確りとした小宇宙を維持出来ている事を自覚していた。
(──にいさんが、ぼくを見守ってくれている)
 それだけで瞬は、異次元に吸い込まれた氷河と現在の状況に混乱し、ぐずぐずと防御ばかりを繰り返すという中途半端な状態を、はっきりと振り切ることが出来た。
 友であり兄弟である、氷河。彼を救う為、瞬はいま、敵に全力で攻撃する事を心に決めたのだ。
「──行け! スクエアチェーンよ!」
 何光年の彼方に隠れていようとも、敵を見つけ出して倒すのだと。
「サンダーウェーブ!」
 完全に攻撃の形態をとったチェーンが、稲妻のように鋭く一直線に動いた。今までゆるゆると雲のような動きばかりであったチェーンが為した信じられない動きに、不覚にもサガは目を見開く。

「うっ……!」
 そして派手な音を立てて、サガが被っていた翼龍の兜が石床に転がり、千切れた首飾りのパーツがそこら中に散らばった。サガが、思わず立ち上がる。
「バ……バカな!」
 今までそちらに行くまいとばかりしていたチェーン。しかしチェーンは迷いのなくなった瞬の命令を忠実に実行し、自らアナザーディメンションの中に飛び込み、そしてサガの小宇宙を逆探知した。そしてどこに敵が潜んでいようとも必ず見つけ出すという謳い文句に違わぬ結果を、チェーンは出したのだ。次元の裂け目を飛び越えて、瞬はサガを直接攻撃することに成功した。
 それはサガにとって、まさに予想だにしない事態だった。次元の裂け目から飛び出してきたスクエアチェーンがサガの顔面を逸れたのも、次元を介したためにさすがのチェーンも目測を誤ってしまったからであり、サガが避けたからではない。
 完全に不意をつかれたその醜態に、サガはぎりりと歯を鳴らした。次元の裂け目を繋いで聖衣を遠隔操作した戦いは、サガの全力の三分の一も発揮出来ない戦い方ではある。しかし相手は青銅聖闘士、しかも聖衣を授けられて間もない少年なのだ。
「おのれアンドロメダ、嘴の黄色いヒヨコと思って侮っておれば……もはや容赦はせん!」
「──よさないか!」
 怒りに任せて叫んだ声に負けず劣らず発されたそれは、鐘楼を打ち鳴らしたようによく響き、“サガ”は唸った。あまりにもよく響いたそれは彼の頭を刺激し、歩み出そうとした足を留まらせる。長く豊かな黒髪が振り乱れた。
「……ここまでくれば、この勝負はお前の負けだ。見苦しい真似はよせ……」
「う……」
 びりびりと響く声に、サガは忌々しいとばかりに、ますます表情を険しくする。しかしここで激情を発散させても格好がつかないのは確かで、彼は頭に登った血を、ゆっくりと息を吐きながら、何とか下げる。
「……よかろう、ならば双児宮は通してやる……」
 だがこの先二度と手加減はせん、全力をもって皆殺しにしてやると、サガは真っ赤に染まった目を、ぎらりと光らせた。
 子供を殺せないという“サガ”の性癖、そして出来るだけ少ない力で城戸沙織らを撃退せねばならないという対外的な面子の問題が、自分たちに全力を出させることを惜しませていた。
 しかしこうなってはもう構うものかと、“サガ”は口角をつり上げ、笑みを凶悪なまでに深くする。
 ──そんな彼を、“サガ”は眉を顰め、悲痛な表情で見遣っていた。
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BY 餡子郎
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