第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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この戦いは、サガにとって相当なプレッシャーだろう、と、デスマスクは、おそらく正しく読み取っていた。
(……サガは、子供を殺せねえ)
それは、絶対的なものだった。かつて神の救いを求め、地獄のような少年期を送った彼は、その頃の自分と同じような年齢以下の子供を殺すことが出来ない。それに彼が教皇になりたかったのは、悲惨な境遇の中で死んでいく候補生達を救いたかったからだ。自ら掲げたマニュフェストを破るなど、統治者として最もやってはいけない事だ。
そしてこれこそが、城戸沙織という存在を知り、あの赤ん坊がこの少女ではないかとどれだけ疑っても、彼が彼女を殺せなかった理由である。
デスマスクとて、昔は、子供を殺さない事を心に決めていた。だがサガが殺せないので、殺すようになった。シュラもアフロディーテも、その事に対して躊躇はしない。だが彼らは命令がないと殺さないので、サガが殺せと言わないのであれば、殺さない。だからデスマスクが独断で、率先して殺すことになった。
盟に言ったように、サガと他との中間のポジションが気に入っているデスマスクであるが、この事だけは、他の事までデスマスクが責任を被っていた。それは即ち、“世の為とはいえ、子供でも躊躇いなく殺す、悪魔、死神のようなキャンサー”、そういう肩書きを背負うという事だ。デスマスクの名にあやかって死に顔の幻影の演出までする辺り、シュラやアフロディーテには「過剰演出」「悪趣味」という散々なコメントを頂いているが、こんな事、悪ふざけでもしなけりゃやってられるか、とデスマスクは開き直っている。実際、少し楽しく思っているところもある。性質として、デスマスクは根っこから悪党なのだ。
だがそれと同時に、デスマスクは、「自分と同じ立場のものは絶対に否定しない」という信条を持っている。子供を殺さなかったのは、自分が子供だったからだ。そして自分が神に抗おうとしているから、同じくそうあろうとする者たちに協力する。神を殺そうとしているサガを、誰よりも率先して助ける。
おかげで、白銀聖闘士最大の戦力である琴座ライラのオルフェを失うことになった。彼は恋人のユリティースを、いっそ異常な程に愛していた。彼は教皇がどこの誰なのかなど知らなかったし、興味も示さなかった。アテナに対してもきっとそうだろう。少なくとも、彼の口からは、アテナという単語すら聞いた事がない。そもそも彼がライラの聖闘士になったのも、ユリティースの母が得ようとしていた聖衣だったからというのが理由だ。
そしてユリティースが死んだとき、彼は狂乱した。後を追って死のうとした。だが彼はただ死ぬのではなく、あろうことか冥界に赴き、その名に違わず、神話の英雄オルフェウスが死した妻エウリュディケーを取り戻そうとしたように、彼女を地上に取り戻そうとしたのである。
そして冥界に赴く為、積尸気を開き、黄泉比良坂へ人を送り込む事の出来るデスマスクに、彼は詰め寄った。だが生きながらにして冥府へ向かうためには、セブンセンシズを超えたエイトセンシズを体得しなくてはならない。
エイトセンシズは、それこそ神の領域まで小宇宙を高めなければ辿り着けないものであり、黄金聖闘士では、神に最も近い男と言われるシャカしかその境地に至っていない。デスマスクはそれを何度も説明したが、彼は一向に聞き入れなかった。
彼が黄金聖闘士に匹敵する実力者というのは、大袈裟でもなんでもない事実だった。そんな男に毎日詰め寄られ、挙げ句の果てには実力行使に出ると脅しにまでかかった彼に、デスマスクはとうとう根負けしたのだ。
喧嘩は弱いと自ら公言しているデスマスクは、オルフェと戦って勝つ自信がない事もなかったが、無傷で勝てる自信は全くなかった。だから、こっちが満身創痍になってまでただ殺すよりは、積尸気冥界波で黄泉比良坂に尻を蹴飛ばしてやる方がいくらか合理的であろう、と、彼はもう半ば自棄くそで判断したのだ。
それに、母の墓のある街に何としてでも帰ろうと数年間耐え続けたデスマスクには、たった一人の大事な女の為に全てを掛ける男の気持ちが、理解出来たのだ。「自分と同じ立場のものを否定しない」という信条を掲げるデスマスクにとって、それはオルフェの願いを叶えてやる理由になり得た。──誰にも言った事のない事だが。
貴重な自軍の戦力を減らした事に対してサガには散々雷を落とされたが、オルフェのユリティースに対する執着は聖域中で知らない者は居ない程に有名だったので、デスマスクへの処罰は最低限で、むしろ全体の空気はデスマスクに同情的だった。
──閑話休題。
兎も角、子供を殺す事の出来ないサガにとって、城戸沙織をはじめとして全員が十代前半という子供達を敵とするのは、相当やりにくい事態なのだ。
しかも彼ら全員が、人身売買のようなやり取りに巻き込まれ、地獄のような修行地に送られたのを相当な苦労をして救った、あの城戸の子供達なのである。少年達はきっとそんな事は知った事ではないのだろうが、少なくとも、三日飼ったどころか命を救って養ってすらやった犬に噛まれたような気分ではある。
聖闘士を見せ物にしたという壮絶なルール違反は、城戸沙織らを討伐するのに十分すぎる理由だ。それは、サガたちが教皇に成り代わっているという内情がなくとも。世界の機密を何十億円もかけて盛大にぶち破ったのだから、当然である。
子供が殺せないサガとって、彼らを殺す正当な理由がある、という事は、有利な事のはずだった。そしてそんな大義名分があるからこそ、自分たちはもっとはじめに、全力をもって城戸沙織を殺しておくべきだった。もしくは黄金聖闘士相当の実力を持つオルフェがこちらに居れば、また違っていたかもしれないと、デスマスクは眉を寄せる。
だが結局、サガは子供が殺せないという業故に、城戸沙織を迅速に殺すことが出来なかった。苦肉の策として、烏座クロウのジャミアンらに命じ城戸沙織の誘拐を試みたが、これもことごとく失敗。
(──俺が、やるべきだった)
デスマスクは非常に珍しくも、己のとった行動を悔やんでいた。悔やんでいるというには激しすぎる憤りの方が勝っているが、とにかく、あのときこうすべきだったのだ、と腸が煮えくり返っている。
子供を殺せないサガ。彼に変わって、参謀である自分が殺すと判断し、そして悪魔、死神と呼ばれるデスマスクの名に置いて、城戸沙織を殺すべきだった。だがデスマスクはそうしなかった。悲惨な環境にある子供達を救うというマニュフェストを掲げ、決して子供を殺さないサガの意思を尊重してしまった。
特に革命家にとって、掲げた信念を破るのは、絶対にやっていけないことであるので、デスマスクの判断は当然とも言える。だが同時に、政治は、戦略は、即物的な感情論に走った途端に崩壊するものでもある。そんな事は嫌という程知っており、そして多くの統治者が最も悩む部分であるそれを、デスマスクは「罪悪感を持たない」という特異な性質によって、冷徹に、残酷なまでに的確に行なえてきていたのだ。
──自分は、判断を誤った。
だが、今更悔やんでもどうしようもない。というのが、結局の答えである。
あのときああすべきだった、こうしていたらどうだっただろうかなどと考えるのは、所詮自分の心を落ち着ける為、感情の消化のための現実逃避に過ぎない。痴話喧嘩で女が「どうしてあの時こうしてくれなかったの」と喚くのは、そのせいだ。
だがデスマスクは参謀であり軍師であり、戦士である。過去は単なるデータとして捉え、これから先の事を考えなくてはならない。何よりも現実問題、敵は待ってはくれないのだ。孫子の兵法曰く、兵は神速を尊ぶ。至言である。
「デスマスク」
緩慢に歩きながら考え込んでいるデスマスクに、アフロディーテの声がかかった。彼の後ろには、シュラがどこかぼんやりした風情で立っている。わざと気を散らしているのだろう。
「見ているだけで頭が沸騰しそうだ。そんなに考える事があるかい」
「ある」
デスマスクは、言い切った。
薔薇の咲き誇る密談を終わらせてからも、勝てるだろうか、などとは、誰も口にしなかった。おそらく、考えてすらいない。デスマスク以外は。
参謀としてあらゆる結果を想定するのが、この4人の中での彼の役割である。
「……では聞くが、私たちは不利か? 有利か?」
「素人臭ぇ質問をするな」
「きみはプロだが、私は素人だ」
アフロディーテが、肩を竦めた。いっそ人間離れしたような壮絶な美貌のくせに、彼はこういう、下町の子供のように愛嬌のある仕草をよくするので、どうしても毒気を抜かれてしまう。
「……戦争に一番必要なのは、情報だ」
それは、デスマスクが子供の頃から言っている事だった。耳にタコができる程それを聞いているアフロディーテは、頷く。
「自分が持つ手札は、相手の持つ手札、手の内にあるものに勝てるのか。それを見極める事が最も重要。だが今回、わからない事が多すぎる」
「向こうの軍勢は、基準より随分出来はするが、所詮聖闘士になりたてのヒヨコばかり。なのに、何か不安要素があるのか?」
「ガキどもじゃねえ。問題は城戸沙織だ」
デスマスクの声は、真剣だった。
「城戸沙織……? 彼女に何か、強大な実力があると?」
「戦えるとか戦えないとか、そういう目先の問題じゃねえ。もっと根本的なところだ」
「根本的?」
「城戸沙織はアテナなのか、どうか」
アフロディーテは眉をひそめ、そしてシュラもまた、目だけを動かしてデスマスクを見た。
「……いや、違う。言い直そう。俺が言っているのは、アテナなんぞ本当に存在するのかということと、そしてそれが城戸沙織なのかどうか、という事だ」
なるほど、それならば確かに“根本的”な問題だ、と二人は沈黙し、デスマスクの言葉を肯定した。
「あの時の赤ん坊が城戸沙織だというのは、もう確かだろう。しかし13年前、サガはあの赤ん坊が何も出来ないただの赤ん坊であると判断し、そして無力な神など要らないと、それを殺害しようとした」
「なるほど」
アフロディーテは、何かを思い出すようにして、目線を宙に彷徨わせた。
「聖闘士、そして聖域という者が神話の時代から続いている事実を考えれば、神々、そしてアテナは存在する、と私は思う。だがそれがあの赤ん坊、即ち城戸沙織であり、そして“女神”アテナであるのかは」
「そうだ。そしてアテナであった場合、どういう力があるのか。俺たちはその事を全く知らん。サガはアテナを無力・無能の神として革命を起こしたが、──実際は、能力を発揮しなかっただけとも考えられるんだからな」
そしてそれはすなわち、力を持っていたくせに、自分たちの為にはそれを使わなかった、という事でもある。アフロディーテが、僅かに眉を顰めた。ただ無力であったという方がまだマシだ、という事がありありと現れている。
「それに、今回の事を抜きにしても──俺はここに連れて来られた時から、アテナっていう神が薄気味悪くて仕方がねえ」
「薄気味悪い?」
「そうだ。何もかもが不明瞭、何をしたいのか、どういう神なのか、さっぱりわからん」
「考えが読めないとか、そういう事か?」
「そういうレベルの話ですらねえ。存在のあり方からしてわからん」
首を傾げるアフロディーテに、デスマスクは一度思い切り眉間に皺を寄せて、また戻した。
「……アテナは、戦争と、そのための戦略を司る神、とされている。工芸なんかも範疇みたいだが──」
「何が言いたい」
「アテナは何故地上を守る?」
さらりと言ったその問いに、アフロディーテは僅かに目を見開いた。
「戦争と、そのための戦略を司る神。地上を守護する事なんぞ、アテナの仕事には含まれていないはずだ。それに聖闘士達の間でよく言われる“正義”」
シュラが、ぴくりと反応した。
「アテナの為に、アテナの正義──なんて言葉が最早慣用句のように浸透しているせいで、アテナ、イコール正義、のような空気になっちゃいるが、アテナは正義を司る神でもなんでもない」
そもそも、正義を司る神はアストライアという女神がちゃんと存在している、とデスマスクは言った。
「なぜ戦争の女神は、地上を我が陣地と決めたのか? 人間が好きだからか? だがアテナは地上は守っても人間は救わない。なら違うだろう」
「…………」
「アテナの正義とは何だ? もはや一つの単語のように聖闘士の間で使われる“アテナの正義”、その中身は? 説明出来る聖闘士が一人でもいるのか? ──おかしいじゃねえか。戦争は大義名分、すなわち自分が掲げる正義の為に起こすもんだ。なのに、戦争の神であるはずのアテナには、それがない」
少し興奮気味に、デスマスクは続けた。
「それだけじゃねえ。大きな疑問はまだまだある。そうだな、例えば──なぜアテナは女で、そして処女神なのか?」
「? それはどういう──」
「どうでもいいことだろう」
言ったのは、シュラだった。先程まで意図的にぼんやりと焦点を結んでいなかった琥珀色の目が、射抜くようにして前を見つめている。
「あの娘がアテナでも、ただ頭の回るだけの人間でも、構うものか。あるのは事実だけだ」
シュラは二人を見遣り、この上なくきっぱりと断言した。
「13年前、サガは救われず、アイオロスは死に、カノンも死んだ。長年の間で、何の罪もない子供達は蟲毒の地獄の中で何百人何千人が死んでいっていた。ただささやかな幸福を求めて逃げ出そうとした者は、アテナに対する反逆として命を奪われていた」
アテナが存在するとしても、アテナは人間達、しかも自分の兵である聖域の人間達に何ひとつとして施しを与えなかった。聖域は、地獄のような箱庭でしかなかった。事実、今の聖域の地面の下には、おびただしい数の老若男女の死体が埋まっている。
「たとえ存在するとしても、アテナはあの時、確かに無力だった。そして俺たちはアテナに何一つ恩などない。……力こそ正義を名乗れるというのが、俺たちの信条だ。何の力も示さんものに、神を名乗る資格などない。──少なくとも、それは俺の神ではない」
ぎらり、と、琥珀の目が光る。
子供達を救ったのも、聖域の人々の暮らしを支えたのも、サガだ。目に見える確かな力でもって改善を施す彼に、三人はついてきた。得体の知れない女神などではなく。
「あの娘がアテナで、強大な力を持っていたとしても、俺たちの敵である事には変わりない。全力をもって斬り捨てるだけだ」
「……ま、結局そうなんだけどな」
ふっ、と肩の力を抜いたデスマスクが、ばりばりと頭を掻いた。
「確かに、さっき言った疑問を今考えたところで答えなんざ出ねえ。もっと時間のある時に、ゆっくり考えるとするさ」
「そうしてくれ、思慮深い参謀殿」
嫌味ったらしく言ったシュラに、デスマスクは半目になった笑みのまま青筋を浮かべて彼を睨んだが、既にシュラは再び気を散らしてぼんやりと立っているだけだった。余計に腹が立つ。
呆れたように、アフロディーテが鼻から息をついた。
「まあ、シュラの言う通りでもあるが……しかし城戸沙織が何をしでかすかわからん、というのも事実だ」
ジャミアンの烏を小宇宙によって撃退したという報告が来ているから、全くの無力というわけではないようだしな、と、アフロディーテは改めてデスマスクに向き直った。
「……それで、どう対処する? 参謀殿」
「ふん──」
デスマスクは笑みを消し、半眼のまま、ふんぞり返るような仕草をした。
「あの小娘は、弱い順から一人ずつ、端から少しずつこっちを崩しにかかった。最初はポーン、次にナイト……ってな具合にな」
「ふむ」
「そしてそれに気付いたこちらは慌てて陣地に篭城し、同じくその流儀にのっとった、もう不用意に駒を進めては来ない──といま思わせたところなわけだ。そこで」
すい、と利き腕を伸ばしたデスマスクは、何かを摘むような形にした手を、ふいと振った。
「──奇襲によるチェック」
「取る駒は?」
デスマスクは、唇を釣り上げた。
「キングだ」
何をしでかすかわからん駒は、何かをする前に身動き取れんようにすればいい。デスマスクは、にやりと笑った。
中東の空気を思わせる、少し鋭い顔立ちをしたその青年は、トレミーという。矢座サジッタの白銀聖闘士である彼は、生まれて初めて、教皇宮に呼び出されていた。
そんな彼の表情には聖域の最奥に通された緊張とともに、非常に暗いものが宿っている。
「来たな」
「はっ」
新しく纏ったマントを翻して姿を見せたデスマスク、アフロディーテ、シュラの三人に、トレミーは素早く跪いた。
「近く、愚かにも女神アテナの名を騙る小娘の一団が、ここ聖域に乗り込んでくる」
「……!」
トレミーの顔色が、劇的なまでに変わった。そしてそんな彼を見たデスマスクは、絶妙のタイミングで、次の台詞を発する。
「他の白銀聖闘士は」
デスマスクの台詞は、それだけで十分であった。トレミーは歯を食いしばり、表情を強ばらせて俯いている。
最初に蜥蜴星座リザドのミスティがやられ、また続いて白鯨星座ホエールのモーゼス、猟犬星座ハウンドのアステリオン、ケンタウルス星座のバベルが倒された時、残った白銀聖闘士達の憤りは相当なものだった。
白銀聖闘士達は、殆どが同じ時期に聖域に集められ、サガやデスマスクらが定めた試験をクリアして候補生になった同期である。小宇宙が発現し易い6歳という年齢を目安に集められたため同い年でもある彼らは、辛い修行を共に乗り越えた戦友であり、その結束は非常に強いものだった。
「地獄の番犬座ケルベロスのダンテは、俺の弟子だった」
「あ……」
はっとして顔を上げたトレミーに、デスマスクは、ゆったりと頷いてみせた。途端、青年の表情が、近しいものを見る目に変わる。自分の弟子の死まで演出のネタに用いるとは、相変わらず何という悪党か、と、悪友二人は内心で呆れる。
「矢座サジッタの白銀聖闘士、トレミー。おまえに任務を命ずる」
「は……何なりと」
頭を垂れて言った彼の顔を上げさせてから、デスマスクはその手の中から、黄金に輝く短い矢を取り出した。弓で引くようなものではなく、ダーツの矢のような形をしていた。
「これは……?」
「我ら黄金聖闘士が纏う黄金聖衣と同じ素材で出来た矢だ」
それは、本当だった。
スターダストサンド、ガマニオン、オリハルコン。聖衣に用いられる合金、それで作られた矢であった。かつて、聖域に居た頃のムウが習作として作ったものである。
聖衣を形作る合金、その特性は、小宇宙の伝導率がこの上なく高く、また小宇宙を蓄積するという性質である。装着者が発した小宇宙、また修復の際に用いられた血液から、この合金は小宇宙を得て、更に強度を増す。
「これに、俺たち三人の血……小宇宙を染み込ませてある」
メインは、アフロディーテの小宇宙だ。しかも彼が込めたのは、彼の必殺技の中でも奥義である、ブラッディローズに込めるものと同じ性質の小宇宙だ。
ブラッディローズは彼の小宇宙で品種改良した特殊な白薔薇を用いる技で、アフロディーテの手から離れた瞬間、必ず相手の心臓に突き刺さる。そして相手の血を吸い上げて殺す、というものだ。そして血を吸い上げる、というのは、即ち、小宇宙を吸い上げる、という事でもある。小宇宙とは血液に宿るものだというのは、既に生物学的な見地からも明らかな事実だった。
アフロディーテの血液を吸う事でそんな性質を与えられた黄金の矢は、ブラッディーローズと同じく、相手の小宇宙を吸い上げる特性を持つ事に成功した。ただし、正式な黄金聖衣用の合金を用いているとはいえ、所詮もとは子供のムウが作った練習作品である。必ず相手の心臓に突き刺さる、という特性までは与えられなかった。
そしてそれをカバーするための、デスマスクとシュラの小宇宙である。シュラの小宇宙は矢に相当の貫通力を持たせ、当然周りにいるだろう青銅の少年らの防御をものともしないだろう。そしてデスマスクの小宇宙は、いざこの矢が心臓に刺さった時、城戸沙織の魂を肉体から引き離すという呪いじみた効力を持たせた。
──これは、万がいち城戸沙織が本当に女神アテナの化身であり、そしてそれに見合う小宇宙を持っていたときの為の保険である。折角矢が刺さっても、ジャミアンの烏がジャミアン以上の小宇宙によって逆に支配されてしまったように、城戸沙織の小宇宙が矢の威力に勝ってしまう可能性を考慮したのである。
神と人間の小宇宙で顕著に異なるのは、仁・智・勇のうちの“智”の力、即ち小宇宙全体の絶対量である。そこで、デスマスクは神に最も近いと言われるシャカを1とし、その5倍の小宇宙を想定して、この矢を作成した。アフロディーテの小宇宙だけならその大きさの小宇宙を吸いきるには2日ほどかかろうが、デスマスクの小宇宙によって魂を黄泉比良坂に叩き込むことで、城戸沙織の肉体はより無防備になる。これならば、城戸沙織が神の小宇宙を持っていたとしても、おそらく半日、12時間程で全ての小宇宙を吸いきるはずである。
それぞれ全く違う特性であるが故に、三人の力を合わせて作られた矢は、互いの弱点を補い、そして長所をより効果的なものとして支え、神をも殺す力を持ったのだ。
「おまえの技の事は聞いている。その技をもって、女神の名を騙る小娘の胸を、必ずこの矢で射抜いてこい」
こう言われて矢を渡されたその時、トレミーは、今まで生きてきた人生の中で、最も強い衝撃を感じた。
それは聖闘士の最高峰・黄金聖闘士三人の小宇宙が込められた黄金の矢の存在感に対しての恐れであり、またそれを手にした無敵感であり、そしてその矢を用いることになったのが、矢座サジッタの聖闘士の自分であると言う、運命じみた使命に対する感動だった。
近く乗り込んでくるという城戸沙織が、本物のアテナなのではないか、という噂が聖域中に広まっている事は、トレミーも十分承知である。
しかしトレミーは、もはや城戸沙織がアテナであろうがそうでなかろうが、どうでも良かった。どちらにしても、彼女はトレミーの兄弟とも言える戦友達をことごとく殺した相手、それだけである。
「女神なら、……自分の戦士を、殺すはずがない……」
ぼそりと呟いたトレミーの声はぶるぶると震えており、そして自分がそんな言葉を呟いた事を、本人は気付いていないようだった。滾る小宇宙によってぎらぎらと輝く彼の目の光は、憤りによって普段より数倍も大きい。デスマスクは笑みを浮かべそうになるのを堪え、神妙な表情を作る。
「サジッタ。任せた」
命じられ、トレミーは、完璧な佇まいで跪いた。
「──この命に代えましても、必ずや」
「そういえば、盟はどうした」
日本には行かなかったのだろう、と不意に尋ねたシュラに、デスマスクは特に反応を示さなかった。教皇宮にてトレミーに黄金の矢を与え、十二宮を降りて行った彼の後、自分たちもまたそれぞれの宮にいよいよ待機すべく歩き出したときの事である。
「コーマの試練を受けに行かせた」
「……このタイミングでか? 聖衣がなくとも、盟ならそれなりの働きをするだろう」
「馬鹿だね、シュラ」
ため息をつきつつ言ったアフロディーテに、シュラはむっと眉を寄せた。しかし一番険しい顔をしているのは、馬鹿呼ばわりされた彼ではない。
「盟は城戸から寄越された子だろう」
何もかもお見通しだという目をしたアフロディーテに、シュラは、ああ成る程、と手を打つ。そして苦虫を噛み潰したような顔をしているデスマスクは、これ以上何か言われる前にいっその事、と、半ば自棄のような気持ちで口を開いた。
「──城戸から、じゃなくて、城戸の、だ」
「は?」
「盟は城戸光政の嫡子だ。城戸沙織とは兄妹のように育った時期も数年ある」
城戸沙織は光政の孫として籍が入っているので、実際は叔父と姪の間柄になるが──と、デスマスクは続ける。しかしこれには二人ともが本気で驚き、目を見開いた。
デスマスクがそれを調べた時には、既に盟は城戸の籍から完全に抜けていた。しかし、「盟坊ちゃんはとてもよい息子さんでいらっしゃいました」と言う人間はそこら中に存在し、それが事実である事を完璧に証明した。
「あいつは自分の為じゃなく、他の何かの為に聖闘士になろうとしていた。それはおそらく、城戸沙織だったんだろう」
「……だから、彼を戦いから遠ざける為、君は盟を試練に向かわせたのか? 彼が私たちではなく、城戸沙織につくかもしれないから?」
「そうだ。どっちに動くかわからん駒は、どっちに動けもしないようにする」
静かに、デスマスクは言い切った。少々の沈黙が降りる。
「……盟は、とても良い子だ。師匠に恵まれて」
「完全なる反面教師でな」
「そう。おかげで盟は嘘もつかないし、親切だし、素直だし、飲みも打ちも買いもしない」
阿吽の呼吸で、アフロディーテとシュラが言った。デスマスクは黙っている。嫌みにすらならない事実だからだ。当たり前すぎて、今更腹も立たない。
「……しかし盟は、何よりも君によく懐いていたではないか。あの盟が我々の敵に回るなど考えられないが」
「お前ね。お前だったら師匠と妹、どっちを取るよ」
「妹かな」
「即答してんじゃねえよ」
さらりと言ったアフロディーテを、デスマスクは下顎を突き出して、チンピラそのものの風情で睨みつけた。
「でも、君もそうなのだろう。だからこそ君は、盟を遠ざけた」
デスマスクは悪党極まるような性質を持つと同時に、先述したように、“自分と同じもの”に甘い。そしてそれと通じるものとして、多くのホロスコープ、星占いで示される蟹座の性格としてそのまますぎるその性格を持っていた。要するに、他に冷酷な分、身内に甘いのである。
先程デスマスクは盟と同じく弟子であるダンテの死をも、トレミーのポテンシャルを上げる為に利用した。しかしダンテの死を聞いた時の赤い目はまるで輝きがなかったのをアフロディーテもシュラも知っているし、そしておそらく、盟を試練に向かわせたというのも、タイミング的に、ダンテの死を聞いてすぐくらいではなかろうか。
シュラの言うように、確かに盟は聖衣がなくてもそれなりの働きをするだろう。だが城戸沙織についてもサガたちについても、盟は無事ではすまないだろう。だから、デスマスクは彼を遠ざけた。
「お優しいナニーだねえ」
「黙れ」
獣が唸るようにしてデスマスクが言ったが、アフロディーテはどこ吹く風である。シュラは、呆れた風に半目になっていた。
そして更に、根っからのアンチ&ヘイト・アテナであるデスマスクが、アテナの存在の可能性を高い、いやもはや断定と判断して動いているのは、盟のせいでもある。
──アテナは、います
真っすぐに自分を見て言った少年の眼差しは、どこまでも真摯だった。
自分と同じ立場や考えを持つ者や身内に甘いデスマスクは、自分の主張を曲げて、彼の言葉を重用した。城戸沙織がアテナであるという可能性に重きを置いた前提で、戦陣を置いた。
そして更に、デスマスクが思っているのが、
(──あれの聖戦は、今ではない)
と、いうことだった。
それはもはや直感に近いものだったがしかし、第六感に優れ、霊感とともに勘に鋭いデスマスクだからこそ、先を読む参謀職が勤まっている。
コーマの聖衣は、エトナに封じられたかの大怪物テュポンを封じる役目を持つという。──余談だが、ダンテの纏うケルベロスの聖衣。ケルベロスの名は「底無し穴の霊」を意味し、これはテュポンの子の怪物である。その地に縁ある聖衣の候補生だからこそ、ダンテはデスマスクの元に預けられた。
話が逸れたが、オリュンポスの神々とテュポン・ギガスとの戦いを、ギガントマキアと呼ぶ。それは神話の時代から続いてきた数多の聖戦と違うもので、人間はテュポンと戦った事が無い。
だが神が去り、人間だけになった地上に封じられた大怪物が噴火とともに蘇るときを想定して、コーマの聖衣は作られた。他の聖衣とは先ず素材からして全く違う、異端の聖衣。
デスマスクは、真綿に包まれるようにして育てられてきたのだろうあの坊ちゃん臭い少年を、そんな大層な役目を持つコーマの聖衣に見合うまでに育て上げた。彼がコーマではなく、他の白銀聖衣かなにかを得るつもりであったなら、もうとっくにそれは為されているだろう、そのくらいの実力はついているはずだ。
──俺、強くなります、師匠。でないと何も始まらない
かつて自分も抱いた、痛い程わかるその思い。自分は師匠として、そしてかつて同じ思いをした人生の先達として、それに十分協力してやったはずだと、デスマスクは無表情のまま目を細めた。だからコーマの聖衣を得たBambinoが後々どういう戦いに臨むのか、それは自分の責任外だ、とも思いながら。デスマスクにデスマスクの聖戦があるように、盟には盟の聖戦があるのだから。
「しかし、坊ちゃんぽいと思っていたら本当に坊ちゃんだったのだな」
アフロディーテが頷きながら言ったので、デスマスクは思考を打ち切らせた。
「しかし……デスマスク」
「何だよ」
返事はするが、デスマスクは振り返らない。しかしアフロディーテは構わず、その後ろ姿に言う。
「私だったら、師匠と妹なら妹を取るが、師匠と女神なら、師匠を取るよ」
デスマスクが、顔だけ振り返った。横顔とも言えない角度で表情は少ししか見えないが、眉を寄せ、嫌そうな顔をしている。
「盟は、どちらの為に聖闘士になろうとしていたのだろうな。女神の為か? それとも、妹の為か?」
「──知るかよ」
本当に、それはデスマスクにも読めない事だった。
強大なエムパス能力を持つが故に、デスマスクは周囲の人間の思考の断片をいくらか自然に拾うことが出来る。そして盟と過ごした中で彼の思考を時々拾い上げると、その中には赤ん坊に近い幼女の事が多くあり、付随する愛しげな感情から、おそらく妹か何かなのだろう、と思っていた。そしてそれが、詳しい事は知らないが、盟が聖闘士になろうとする理由なのだろう、と思っていた。
しかし銀河戦争(ギャラクシアン・ウォーズ)が開催されるということになって改めて城戸を深く調査した時、デスマスクは、盟がかつて城戸光政の嫡子であり、城戸沙織と兄妹同然に育った少年なのだという事を知った。
そしてその時、デスマスクは、軽く絶望しかけたのを覚えている。
「……知るか」
もう一度、今度は独り言のように、デスマスクは呟いた。
──人生の、人として生きる修行をしろ
神に縋る余地がないように、精一杯人として生きろ。
それはデスマスクが盟に、何よりも重きをおいて教え込んだ事だった。
妹の為に、愛すべき肉親の為に命をかけようとしている彼の気持ちを理解出来ると思ったからこそ、デスマスクは、口には出さないものの、自分が出来得る限りのことを盟に叩き込んだ。温室生まれの彼が厳しい修行で壊れてしまわないように、細心の注意を払って、彼に教えを授けてきた。
──しかし、もし盟が妹ではなく、城戸沙織という名をつけられた女神アテナの為にそうあろうとしていたならば、どうだ。
(俺があいつに付き合った6年は、全くもって無駄骨だったというわけだ)
むしろ、自分の敵を育てたことにもなりかねない。同志だと思っていた子供は、カッコウの雛だった。そうだとしたらと考えると、デスマスクは絶望を覚え、心が傷つくのを感じた。これ以上の失望はない。
神へ祈るとするなら、助けてくれと祈るのはやめておけ、とデスマスクは盟に教えた。もし祈るなら、どうか邪魔だけはしないでくれと祈っておけと。
そしてデスマスクは今、盟に対してそういう気持ちだった。自分の味方になれとまでは言わないが、自分たちの人生、──人間としてのプライドと命をかけた戦いを邪魔して欲しくなかった。
「……あいつには、あいつの戦いがあるはずだ」
自分はもう、出来る限りの事をやった。育てた雛がカッコウだったとしても、もう巣立ちはさせたのだから、もう自分の手を離れたのだから、もう何もすることはないはずだと、デスマスクは無理矢理結論づけた。
デスマスクは前を向き、今度こそ思考を打ち切った。