部長・副部長2
さっさと着替えた一同は、コートの外のスペースで、太郎の作った基礎メニューを行う。最初は柔軟、軽い筋トレ。そして最後に、ホグワーツの外周を一周する走りこみ。
たかが一周と侮るなかれ、巨大な城であり、クィディッチ場や他の細々とした周辺施設も含めた外周ともなれば、それなりの距離になる。だが普段からテニスだけでなく体力づくりも欠かしていない少年たちは、それに文句を言うこともなく、揚々と出て行った。
「……嬉しそうだな、千石?」
やたらにこにこしながら、いや、にまにましながら走っている清純に、並走している蓮二が、呆れ半分で話しかけた。すると清純は、よくぞ聞いてくれました、とでもいうように、その笑みを更に輝かせる。
「だって、グラスコートに、至れり尽くせりの設備! しかもカワイイマネージャーが二人だよ!? これを喜ばなくて何を喜ぶのさ!」
「はっ。人の女じゃねえか」
近くを走っていた景吾が、呆れたように言った。
「うん? 別にいいよ、カワイイし」
「……アーン?」
どういうこった、と景吾が若干不審げな目をする。が、清純はけろりとしたものだ。
「別に彼女になって欲しいとかじゃないし。カワイイ子が! そばに居てっ! 世話を焼いてくれる! そんだけでいーの!」
「目の保養、ということか?」
まあそれならわからなくもないな、と、蓮二がくすくすと笑った。
「二人共、確かに美人だ」
「ねー! 二人共タイプは違うけど、それぞれいいよね! ……っていうことだよ跡部君! 何もやましいことなんかないね! わかった!?」
「……ああ、テメエが筋金入りの女好きだってことは分かったぜ」
景吾は、そう言って肩を竦めた。
苦笑しているが、その苦味はごく薄いものだ。清純の“女好き”が、思ったよりもずいぶん素直でピュアなものだということを理解したからだろう。
性的なものが全くないとは言わないが、どちらかというと“人間好き”からの延長で、その上で単にかわいくてきれいな方がより好き、というような感じなのだろう。その証拠に、清純は男にも分け隔てなく親切に接している。
「ま、いい人材だってことは認めるぜ。藤宮はおどおどしちゃいるが鈍臭ぇわけじゃねえし、紅梅は芸妓舞妓の修行をしてるだけあって、人をもてなす、世話するってことがわかってる。執事かメイドに欲しいタイプだな」
「うわー根本から視点が違ェー。……あれ? “紅梅”?」
紫乃は苗字呼びなのに紅梅は名前で呼ぶ景吾に耳敏く気付いた清純が、首を傾げる。すると景吾は、何でもないように言った。
「あいつの祖母さんの紅椿殿と区別してるだけだ」
「あ、会ったことあるの?」
「うちの家族にファンがいて、舞台は前から何度かな。たまたま八月半ばにパーティーがあったんで、そこで個人的に顔も合わせたぜ。紅梅もいたしな。お互いに家族がいたんで、区別するために、呼び方が名前になっただけだ」
「へー」
なんだか上流階級の話だなあ、と、清純はぽやんとした表情でのたまった。
話しながらもしっかり走って戻ってきた頃には、太郎が監督者用ベンチに座り、紅梅と紫乃に何か指示を出していた。
二人は何度か頷き、揃って出て行く。ふと見ると、風通しの良さそうなフェンス前に、先ほど消臭剤をスプレーしたローブが陰干ししてあるのが見えた。コートには三面とも既にネットが張ってあり、黄色いボールの籠も出してきてある。
少年らが外周を走っている間に、彼女たちもしっかり仕事をしていたらしい。
「集合!」
太郎の号令に、全員が素早くその前に整列する。
いつの間にか、フェンス外の観客席にも、ちらほらと見学者がいる。いや、一部スリザリンの生徒、特に女子が固まって熱っぽく視線を向けている団体がいる。景吾目当てだろう。
「基礎は終わったな? 今日は初日なので、コートに慣れるための練習を行う。グラスコートの未経験者は手を上げなさい」
清純、弦一郎、蔵ノ介、貞治が手を挙げる。うむと頷いた太郎は、経験者と未経験者を分け、未経験者を重点的にコーチし、経験者は交代でラリー練習をするように、と命じた。計画的かつてきぱきと迅速な指示に、全員が何の文句もなく従う。
グラスコートはバウンド後の球速が他のコートよりも格段に速く、しかし同時に低く滑るように飛んでくるのが特徴だ。これは日本に多いクレーコートとは全く逆の特性で、また全員が最も経験の多いハードコートの特性とも異なる。
よって未経験者のみならず、経験があるといっても片手で数えるほどしかない面々はなかなか苦労したものの、ウィンブルドンでお馴染み、かつ憧れのグラスコートということ、そして太郎の的確な指導と本人らの才覚・勤勉な努力により、一時間も経つ頃には、全員が大体のコツを掴んできていた。
「怪我をした者はいないな? 少しでも不調があれば言いなさい。テーピングを行う」
息を切らした少年たちに、太郎が言う。
ホグワーツには、マダム・ポンフリーという校医が務める、一般病院レベルの保健室があるので、怪我をした時の対処も万全だ。
しかし二年後は基本的に魔法薬の恩恵のない日本に帰ることを見越して、大きな怪我以外はテーピングや応急処置などで間に合わせる、と太郎は告げた。怪我をした時、自分の身体の治りの速さを自覚することも、アスリートの重大な仕事である、と言われれば、返す言葉はなにもない。
「たろセンセ、ドリンク出来おしたえ」
「うむ、ご苦労。──水分補給! 集合!」
号令に従い、汗だくの面々が集まってくる。
紅梅と紫乃は氷の入ったクーラーボックスに詰めたドリンクボトルを出し、皆に配った。皆同じボトルだが、名前の書かれたラベルが貼ってある。
「ありがとう。今日はただの水だと思ってたんだけど、……なんかさっきから、色々混ぜて作ってたよね?」
ひんやりと冷えたボトルを受取り、精市が言う。二人は頷いた。
「魔法界には、スポーツドリンク、ってないんだって。でもただの水っていうのも吸収が悪そうだから、厨房から色々もらってきてね……」
「一応、ちゃんと専門のレシピ貰て、その通りにしたんやけど……」
「へえ、気が利くじゃねーの」
先ほどまでのニンニクの悪臭とは比べるべくもない、二人から漂う爽やかな柑橘系の香りに、そう言った景吾だけでなく、全員がほほ笑みを浮かべる。
それに、彼らが練習している間、二人が四苦八苦してレモンを絞っているところも見えていた。
涼しいとはいえ、湯気が上がるほど汗をかいている少年らには、冷えたドリンクボトルは天の恵みにも等しい。その上中身もわざわざ苦労して作ってくれたというのは、非常にありがたいことだった。
予想以上に有能なマネージャーを得られたらしいということに全員が満足しつつ、皆が一斉にボトルの中身を煽る。──が。
「──ゴフッ!?」
「ぐぇ!?」
「ブッ、げほっ、うぇっ」
ドリンクを煽った全員が一斉に中身を噴出し、盛大に咳き込む。
「かっ……辛ァ! な、なにこれ!?」
涙目、いやあまりの刺激にぼろぼろと涙を流しながら、清純が叫ぶ。彼の他にも、「辛っ、てか痛ッ!」と叫ぶ蔵ノ介、無言で口を押さえて固まる景吾や国光、蹲ってぶるぶる震えている弦一郎。そして、無表情のまま固まっている精市。
ドリンクの刺激は彼らの想像だにしないもので、口にした途端、まずその刺激が口内の粘膜を焼き、僅かに気化したものが鼻腔から、また外から伝わって、目に来る。強烈な辛味と酸味が肌を泡立たせ、体中の毛穴から汗が噴出し、寒気にも似た感覚が襲ってくる。
悶絶するテニス少年たち、そして見学者たちがざわざわとする中、申し訳なさそうな顔をした紅梅と紫乃が、「ああ……」と、溜息のような声を漏らす。
「ああー……、やっぱり」
「やっぱり、とはどういうことだ、お梅」
まだドリンクに口をつけていなかったために無事な蓮二が、尋ねる。すると紅梅は少し首を傾げ、頬に手を当て、困ったように言った。
「レシピ通りいうても初めて作るもんやさかい、もちろんうちらも味見したんえ?」
「めっちゃくちゃ辛かったよね……ていうか酸っぱ辛かったよね……」
味を思い出したのか、紫乃が顔を顰め、酸っぱい顔をした。
「これはどう考えても人に出したらあかん味やし、せっかくレシピ貰たのに失敗してもうた、て思て、謝りに行ったんよ? そやけど、これでええんやて言わはって」
「……もしや、そのレシピをくれた人物というのは」
「乾はん」
──やっぱりか。
尋ねた蓮二だけでなく、全員が、一斉に貞治を見る。
貞治はちろちろと少しずつドリンクを舐めるようにすると、口元に満足気な笑みを浮かべながら眉を顰めるという器用な表情をし、言った。
「うん、完璧な調合だよ二人とも。これぞ疲労回復の特効ドリンク、『乾汁・酸っぱ辛ムーチョデラックス』!」
「おい、ふざけんなよ」
まだ若干涙目な景吾が、やや赤くなっている唇をへの字に曲げて凄む。しかし貞治は“わかってないなあ”とでもいわんばかりのドヤ顔で、深夜のアメリカの通販番組の司会のごとく肩を竦めた。非常にイラッとするポーズである。
「確かに味はアレかもしれない。──だが、体の疲れは吹っ飛んだだろう?」
そう言われ、ドリンク、もとい乾汁の刺激に悶絶していた面々は、はっと目を見開く。
──確かに、疲労がまったく消えている。酷使した筋肉に感じていただるさも全くなく、むしろ体が軽いぐらいだ。……口内の惨状を除いては。
「しゅ、周ちゃん、だいじょうぶなの……?」
一人平然とした顔でぐびぐび乾汁を飲んでいる周助に、紫乃が信じられないものを見るかのように話しかける。しかし周助はきらきらした王子様然とした笑顔で、
「うん? いやこれけっこうイケるよ、オススメ」
とのたまった。彼の手にあるボトルの中身は劇物だが、見た目だけなら、まさにスポーツドリンクのCMのごとき爽やかさである。
その反応に、全員が、“不二の味覚はおかしい”と認識する。
「レシピを見せなさい」
太郎が言ったので、紅梅は貞治から貰ったレシピを彼に手渡した。
材料と調合方法が細かく書かれたそれを太郎は隅々まで眺め、ふむ、と小さく唸る。
「魔法薬の類は一切使っていないようだが……。材料も特に怪しい物はないな」
と言い、太郎は、紅梅から味見用の小さいコップに取り分けられた乾汁を受け取り、そっと口にした。
──途端、太郎はまるで苦悩する哲学者のごとく難しい顔になり、ぐっと目を瞑ると、頭痛を堪えるように指先で眉間を揉み始める。目にきたらしい。
「……魔法薬も化学薬品も使わず、単なる食材の調合でここまでのものを……?」
「ありがとうございます」
──褒めてない。
どや顔の貞治に対し、皆の心がひとつになった。
「なんだい。効果は確かなんだから、いいじゃないか」
皆のじっとりとした恨みがましい視線を受け、貞治は不満気に口を尖らせる。
「ちなみに、炭酸水で割るとジンジャーエールっぽくなってなかなかイケるよ」
「なら初めからそうせえ!」
思い切り突っ込んだ蔵ノ介に、「でもそうすると効果も落ちるんだよ〜」と、貞治はのほほんと言った。
「……ええと、一応、普通のお水も……」
「口直しに、飴ちゃんもあるえ」
おそるおそる、余ったレモンを少し垂らした水のピッチャーとコップを持ってきた紫乃と、キャンディーを手にした紅梅に、全員が一斉に群がる。
全員にキャンディーを配り終わった紅梅は、不二のぶん以外は殆ど残ったままの『汁』のドリンクボトルを集めなおし、クーラーボックスに仕舞った。
「ほな、これは明日にでも炭酸水で割って出しましょか」
「捨てろ!」
景吾が、いらいらと怒鳴る。
「そやかて景吾(けご)はん、効果は確かやし、せっかく作ったんに、もったいないやないの」
が、紅梅は特に堪えた風もなく、おっとりと言った。ちなみに、どうせ多くは飲めないだろうと思い、最初からボトルにはコップ一杯ぶんも入れていないらしい。
つまり明日、ここに炭酸水を足して割れば良い、というわけだ。どこまでも用意の良いことである。
「乾はん、これ、割ったら普通に飲めるんどっしゃろ?」
「うん、その点は保証するよ。効果が落ちるのは残念だけど」
貞治はにこやかに言い、『汁』の始末を手伝った。
その様子を見た清純が「最初から美味しくて効果が高いものをつくる気はないわけ……?」と、疲れが取れたのにもかかわらず曇った顔で言ったが、貞治はホヨッとした顔をして、頭上に疑問符を飛ばしていた。──どうやら、その気は根本からないようだ。
「……思わぬアクシデントがあったが、改めてミーティングを始める」
太郎は、必死にキャンディを口の中で転がす少年たちに向かい、改めてそう言った。
普通はお菓子を口に入れながらミーティングを受けるなどもっての外だが、今回に限っては特例、と太郎は言った。慈悲である。
「本日早めに練習を切り上げたのは、初日ゆえ、連絡事項が多いからだ。まずはお前たち日本留学生に課した大きな課題のひとつである、『日本の文化と魔術に関する特別講義』について」
途端、ビクーン、と、紫乃が、驚いた子猫よろしく、垂直に三センチほど飛び上がったような気がした。それだけでなく、だらだらと冷や汗を流している。隣にいた紅梅が、安心させるように、背中を穏やかに擦りはじめた。
「昨日も大広間で説明したように、スピーチ、実演などによって、お前たちの技術、技能を紹介してもらう。月末に一人ずつということになるが、夏休みやクリスマスなど、月をまたいでの長期休暇がある場合は、次の月になる。順調に行けば、最後の発表者は再来年の二月。ちょうど中学受験の前の月になる予定だ。昨日の今日なので今すぐ決めろとは言わんが、最低でも今月中には、頭から三人めまでの順番を決めなさい」
太郎は何一つ曖昧なところなく、はっきりと説明した。
「無論、最初の発表者ほど準備期間が短く、後になればなるほど長くなる。よって、既に一芸に自信がある、もしくは準備期間がさほどいらないテーマの者は早めに。また準備に時間がかかる者や、テーマを決めかねているものは後の順番にしておくのが良いだろう。質問は?」
すると、口々に、どれくらいのことならやってよいのか、本番はどれくらいの時間が貰えるのかなど、積極的な質問が次々に飛び出す。
太郎はしっかりとそれに答え、込み入った質問には、順番が決まってから打ち合わせようということになった。
──この時、唯一黙っているのが、国光、そして紫乃であった。
国光は完全なるマグルであり、壇上で発表できるような特技がないがゆえ。そして紫乃は、ひたすら緊張し、もはや死刑台に登るような心持ちであったがゆえである。
「だいじょぶやって! お題目は大袈裟やけど、隠し芸大会か、自由研究発表みたいなもんや! せやろ、センセ?」
青を通り越して白くなり、今にもさらさらと砂にでもなりそうな紫乃にはっと気がついた蔵ノ介が、慌てたように言う。
「そうだな、その認識で構わない。お前たちはたまたま特に見栄えのする分野をそれぞれ持っているが、あえてそれをしないというのならそれでもいい。日本の文化、日本の魔法。それらを伝えるテーマならなんでも良い。もちろん、私も随時相談に乗るので、気軽に訪ねて来なさい」
太郎は、穏やかに頷いて言った。
その頼り甲斐の有りそうな佇まいに、国光と紫乃が、少しだけ肩の力を抜く。
「さて、この件は以上だ。また、お前たちに対する連絡事項は、今回のようにテニス部ミーティングで兼ねさせてもらうので、聞き逃さないように」
はい、と、全員が良い返事をする。
「では次、今も見学者がいくらかいるが、体験希望者の声も上がってきている。こちらもまだ様子を見ながらの部分があるので、本格的な受け入れは来週からということになる。無論お前たちの練習を損なうようなことはしないが、留学生として恥ずかしくない態度で接するように」
これにも、はい、と躊躇いのない返事が返ってくる。太郎は満足気に頷いた。
「では次、というか、最後に。テニス部の部長と副部長を決めるように」
太郎のその言葉に、今度は、全員が目を丸くした。
部長、副部長。意味はわかるが、全く馴染みのない言葉であった。とはいっても、ここにいる全員、今まで“部活”というものをしたことがなく、大人が経営するテニスクラブでテニスをしてきたのだから、当たり前といえば当たり前だが。
「部長はテニス部の代表、副部長はそのサポート、また部長不在時の代理も行う。具体的には、ミーティングを取りまとめたり、責任者として矢面に立ったり、あらゆることの最終的な決定権を持つリーダーだ」
その戸惑いを察したのか、ぽかんとしている子供たちに、太郎は丁寧に説明した。
「これは、早急に決めなければいけないことなのでな。明日の朝練で誰になったか聞かせて貰うので、今日中に決めてしまうように」
まだ戸惑いを浮かべる子供たちに、太郎は、今度は容赦なく、てきぱきと言う。
「まだ付き合いの浅い間柄だとは思うが、この者なら、という者をリーダーに据えなさい。またそうなった者は、当たり前だが責任感を持って職務をこなすように。それでは、以上! 行ってよし!」