組み分け
「よーし、では、進めえ!

 ハグリッドがひときわ大きな声で言うと、オールもモーターエンジンもないたくさんのボートが、一斉に、まるで隊列を組むように並びながら、湖面を滑るように進んでいった。

「遊園地のアトラクションみたいだわ。でも、当然、下にレールはないのよね?」

 ハーマイオニーが、興奮を隠しきれない様子で言う。
 遊園地って何、うち行ったことおへんえ、弦ちゃんは? 俺は兄さんに連れられて行ったことがあるが云々。
 他のボートは、緊張しているのかそれとも呆然としているのか、城を見上げて黙りこくっている所も多いが、弦一郎ら四人のボートは、実にリラックスしていた。

 弦一郎は一瞬、静かにしていたほうがいいのでは、とも思ったが、三人とも根は真面目だからか、大声を出しているわけでもないし、賑やかというよりは、和やかな様子だ。
 それに、同性の友人が出来たからか紅梅も楽しそうだし、びくびくおどおどしていたネビルも笑顔を見せ始めている。
 その様子に、まあいいか、と判断した弦一郎は、時々潜る崖下のトンネルに彼らが頭をぶつけたりしないよう、辺りに気を配り、ハグリッドの指示を聞き逃さないように気をつけた。

 そして蔦のカーテンで隠されるようにしてある、ひときわ低い崖下のトンネルにさしかかり、全員が頭を低くして、そこを通る。

 出口に出ると、そこは地下の船着場になっていた。
 次々にボートが勝手に岸に留まり、全員が、岩と小石の上に降り立った。
 ネビルが一人で危なげなく船から降りたので、弦一郎は、よし、と感心して頷く。

「ホイ、おまえさん! これ、おまえのヒキガエルかい?」

 そしてなんと、全員が下船した後、ボートを調べていたハグリッドが、大きな手にヒキガエルを乗せて、ネビルに話しかけてきた。

「トレバー!」

 ネビルは、大喜びで手を差し出した。
「まあ、やっと見つかったの! 良かったわね」
 汽車でさんざんネビルのヒキガエル探しに付き合っていたハーマイオニーが、実に喜ばしい、といった顔で言った。

「……なぜ、ロングボトムのカエルだとわかったのだ?」

 カエルが見つかったのが、自分たちが乗ってきたボートではなかったのを見ていた弦一郎が、実に不思議そうに言う。
 するとハグリッドはもじゃもじゃの髭面でにやっと笑って、「俺は動物に詳しいんだ」と言った。
 詳しいだけでそんなことまでわかるのか、と言わんばかりの弦一郎らに、ハグリッドは非常に満足そうで、他にも何か聞かせたいことがありそうだったが、新入生たちの引率をするというとても大事な仕事があるため、やむなくランプを持ち、先頭に戻っていった。

 ハグリッドの持つランプの光を頼りに、全員がぞろぞろと続く。
 ゴツゴツした岩の道を登り、湿ったなめらかな草むらの城影の中にたどり着くと、皆、巨大な樫の木の扉に集められた。

「みんな、いるか? おまえさん、ちゃんとヒキガエル持っとるな?」

 茶目っ気たっぷりに聞かれたネビルは、はにかんで頷いた。
 道がきちんとしていたからか、明かりが多くなったせいか、──それとも本人が随分落ち着いたせいか、ボートを降りてからというもの、彼はずっと一人で、ヒキガエルも逃がすことなく、しっかり歩いてここまで来た。

 ハグリッドは何も問題がないことを確認すると、大きな拳を振り上げ、城の扉を三回叩いた。



 扉が開いて、姿を表したのは、エメラルド色のローブを着た、少し年配の魔女だった。

「……あのお人、諏訪子おばさまに似とおへん?」

 紅梅が、こっそり耳打ちするような声で、弦一郎が今まさに思っていたことを言った。

 諏訪子とは、弦一郎の母である。
 叩き上げの陸上自衛官で、長年教官をしていた経験もある。弦一郎に軍隊式、もとい自衛隊式の躾を主に施したのも、悪いことをしたら問答無用の鉄拳制裁を食らわせてきたのも、この母である。
 そして、マクゴナガル、という名前らしいその魔女──教諭は、自衛官とは比べるべくもないほどほっそりしているが、背が高くて黒髪で、とても厳格な顔つきをしている。年の頃は、弦一郎の母より一回りくらい上のようだ。

 弦一郎は紅梅に答えず、そして答えないことを答えとした。
 そして紅梅は、弦一郎が二年間、あの教諭に逆らうことは一度たりとてないだろう、と直感したのだった。

 マクゴナガルの案内で入ったホグワーツの玄関ホールは、それこそシンデレラの舞踏会も開けるほど広かった。
 重厚な石壁が松明の炎で照らされ、天上はどこまで続いているのかわからないほど高く、壮大な大理石の階段が、正面から上へと続いている。

 いかにも中世の城らしい石畳のホールを横切っていくと、入り口の右手の方から、おそらく何百人ものざわめきが聞こえた。
 ひとりひとりの声は判別できないが、なんだか場に慣れた様子の騒がしさに、在校生たちが向こうに揃っているのだろう、と弦一郎は理解する。

 だがマクゴナガルが新入生を案内したのはそちらではなく、ホールの脇にある、小さな空き部屋だった。
 生徒たちは窮屈な部屋に詰め込まれ、大方の子は不安そうにきょろきょろしながら、互いに寄り添って立っていた。

「ホグワーツ入学おめでとう」

 マクゴナガルが、やはり厳格な声で挨拶した。弦一郎の背筋が、思わず伸びる。

 マクゴナガルが説明するところによると、今から新入生のための歓迎会が始めるが、その前に、入る寮を決める組分けの儀式を行うという。

「寮の組み分けは、とても大事な儀式です。ホグワーツにいる間、寮生が学校での皆さんの家族のようなものです。教室でも寮生と一緒に勉強し、寝るのも寮、自由時間は寮の談話室で過ごすことになります」

 弦一郎は、その言葉を、厳粛に受け止めた。
 そして紅梅は、ちらっと横の弦一郎を見上げたが、すぐに目線を戻す。

 マクゴナガルは、次いで四つの寮について説明し、更に在学中、良い行いは自分の属する寮の得点になるし、反対に規律に違反したりした時は、減点になること。そして学年末にその特典が集計され、最高得点の寮には、大変名誉ある寮杯が与えられることを説明した。
 日本の学校にはまずないシステムだったので、これには、弦一郎も紅梅も感心し、頷いた。

「どの寮に入るにしても、皆さん一人一人が寮にとって誇りとなるよう望みます」

 今までで一番厳粛にそう言い、マクゴナガルは、組分けの儀式が始まる間、できるだけ身なりを整えておきなさい、と命じた。
 去り際、何人かの生徒を素早く見たので、おそらく身なりが乱れた生徒がいたのだろう。ああいう目で見られることの居心地の悪さを弦一郎はとくと知っていたので、見られた生徒に同情した。

 紅梅はネビルが着ているマントの結び目が左耳の下の方にずれているのを指摘し、ハーマイオニーのローブにいつのまにか葉っぱがくっついているのを見つけ、弦一郎の髪にまだ寝ぐせが残っていることを、こっそり告げた。
 そういう紅梅はといえば、チェックするまでもなく、身なりは完璧だった。髪の毛一本ほつれておらず、赤い靴は一点の曇りもなくぴかぴかだ。さすがは舞妓の卵である。

「──弦ちゃんは、やっぱり、グリフィンドールどっしゃろか」

 合わせ鏡があるわけでもないので、寝癖で跳ねた弦一郎の後ろの髪を櫛でとかしながら、紅梅は静かに言った。身長差があるので、弦一郎はしゃがんでいる。
「さあ──どうだろうな。確かに、幸村から特徴を聞いた限りでは、そうかもしれん」
「うちは、グリフィンドールだけはなさそやなあ」
 弦一郎の髪を最後に手櫛で少し散らし、「綺麗なったえ」と紅梅が言ったので、弦一郎は立ち上がる。
 振り返って彼女を見ると、いつもどおりの菩薩のような微笑みを浮かべているが、少し寂しそうな、残念そうな様子が見て取れるような気がした。

「うちは勇敢でもないし、……ふふ、京女やし。騎士道やら武士道やらとは、真逆や」
「……そんなものか」
「そや」

 紅梅は、少し首を傾げた。長い黒髪が、さらりと揺れる。

「うちも、弦ちゃんはグリフィンドールやと思うわ。弦ちゃん、いっつも堂々としたはるし。うち、弦ちゃんのそういうとこ、ほんに好いとぉよ」
「……む」
「うちにはできんこと」

 初めて言われたことではないが、はっきり好きだと言われ、むず痒そうな照れを見せた弦一郎に、紅梅はくすくす笑った。

「そやから、ここで離れ離れかもしらんね。……ここんとこ、ずぅっと一緒におって、えらい楽しおしたよって……」

 なんや寂しなあ、と言った紅梅は、微笑んでいる。
 だがその微笑みは、本当に、心の底から残念そうだった。

「寮が違っても……、同じ学校であることに変わりはないだろう。授業が合同になることもあると聞いた」
「そやね」
 ふふ、と、紅梅は今度は明るく笑う。
「京都と神奈川で、三年もおったんやもん。それと比べたら、えろぅ近おすわなあ」



 それから、他の生徒達の間で、きっと試験で寮を決めるのだという噂が一瞬にして流れ、青ざめる者、慌てる者、余裕綽々の者など、様々な反応が見られた。

 しかし弦一郎は、どんな試練が与えられようとできることをするだけだという腹が、改めて覚悟するまでもなく、普段から決まっている。
 ただ黙って腕を組み、壁に背を預け、目を閉じて、瞑想するかのような体をとった。

 ネビルは最初慌てていたが、弦一郎の落ち着き払った姿を見て覚悟を決めたのか、ただ、またヒキガエルのトレバーを無くさないように気をつけることにした。

 ハーマイオニーは今までに覚えた全ての呪文について早口で呟いたり、魔法の歴史や薬草の名前を繰り返し復習していたりした。
 だが、ローブにくっついていると指摘された葉っぱがあまりに大きくて驚いたのと、それを指摘した紅梅の身なりがあまりに完璧なので、自分の姿がおかしくないかのほうが気になってきてしまったらしい。
 だんだん気もそぞろになってきて、終いには、単にそわそわし始めた。

 紅梅はそんなハーマイオニーに気が付き、彼女を座らせると、あまり手入れをしておらず広がった栗色の髪に櫛を入れた。
 量がとても多い上、独特の癖のあるハーマイオニーの髪を今すぐにつやつやのさらさらにするのは無理だったので、紅梅は彼女の髪の絡まりだけをなんとか梳かすと、きれいな編みこみにして、ローブのポケットに入れていたピンと、簪でまとめる。

 ぼわんと広がっていたハーマイオニーの髪は、量が多いだけに編みこみにすると大きく目立って、きっちりしている上、なかなか様になった。それに、編むことで編み目ごとに艶が出て、傷んでいるのを誤魔化すことも出来る。簪には小さい花の飾りが付いているので、女の子らしくて、かわいらしい感じにもなった。
 紅梅の手鏡でその出来を確認したハーマイオニーは、感動して、思わず紅梅に抱きついた。

「ハーちゃんのことやから、復習せんでも、きっと完璧に覚えたはるやろ?」
「そうね! 髪の毛をまとめたら、頭もすっきりした気がする。ありがとう、コウメ」

 ハーマイオニーは、たいへん上機嫌になった。この様子なら、今から全教科のテストをしますと言われても、満点をとってきそうである。

 もう一度ハーマイオニーが紅梅に抱きついたその時、周りの生徒の全てが息を呑み、次いで、悲鳴を上げた。
 なぜなら、後ろの壁から、真珠のように白く、少し透き通ったゴーストが、二十人くらい現れたからだ。
 紅梅に抱きついていたハーマイオニーは、ひいっと声を上げて、ますます強く紅梅に抱きついた。

「あらぁ。こっちの幽霊ゆうれんはんは、えろぅはっきりしてはるのやねえ」
「……こっちの、とは」
 大声こそ出さなかったものの、さすがに驚いて心臓をばくばくさせている弦一郎は、ハーマイオニーの編みこみの頭を撫でている紅梅に、恐る恐る聞いた。
「京都にもいてはりますえ? もっとぼんやりしとおすけど」
 そやし、うちそない霊感あらへんよって、こないはっきり見たん初めてやわあ、と、紅梅はのほほんと言った。
 曰く、祖母の紅椿は、紅梅には全く見えない存在でも、はっきり見えて会話も出来るらしい。「妖怪……」と弦一郎は小さく呟いたが、まるで“名前を呼んではいけないあの人”の名前でも口にしたかのように口を覆い、そのまま黙った。

 幽霊、ゴーストたちは、このホグワーツに憑いていて、驚くべきことに、半ば職員でもあるようだ。
 特に各寮に憑いている四人のゴーストは別格のようだが、スリザリン寮憑きのゴーストである、『血みどろ男爵』というゴーストが、リッツ・ロンドンで知り合ったあの跡部景吾に執事のごとく挨拶したので、皆が驚いていた。

 場所が遠かったのでよく見えなかったが、伝え聞こえてきたところによると、跡部の血筋が血みどろ男爵の君主筋だから、ということであるらしい。
 そうか、幽霊というからには生前の事情というのもあるのか、と、弦一郎は納得した。

「──失礼。こちらはもしや、蛇姫殿のご縁者ではないですかな?」

 たった今壁に消えたと思った『血みどろ男爵』が、弦一郎が背を預けている壁からぬっと現れたので、弦一郎は思わず声を上げかける。
 ハーマイオニーが「きゃあ!」と言ってまた紅梅に抱きついたのもあり、弦一郎は、その失態を犯すことは免れた。しかし、落ち着きかけていた心臓の鼓動は、またばくばくと大きくなっている。
 少し離れたところにいるネビルは、青くなって口をぱくぱくさせていた。といっても、ネビルのようになっているのは、他にもたくさんいるが。

 だが、彼らの反応も無理は無い。
 なぜなら、血みどろ男爵は身なりこそ貴族らしいものの、血だらけでげっそりとしており、加えて目は虚ろという、ひときわ恐ろしい風貌をしているのだ。

「へえ、孫の紅梅どす」

 しかし紅梅は最初に少し目を見開いただけで、すぐにいつもどおり、おっとりと言う。しかも、「よろしゅうお頼申します」と続け、深々と頭を下げた。
 本当によろしく頼んでもいいのか、と弦一郎は若干心配になったが、男爵は血だらけのげっそりした顔をほころばせ、「これはこれは、ご丁寧に」と、空中で、恭しい礼を返した。

「蛇姫殿──紅椿殿は、それはそれは、もう。まさにスリザリンの中のスリザリンであらせられた。貴女もそうなりますかな?」
「さあ、どうどすやろ」
 紅梅は、にっこりした。
 だがその“にっこり”は、京女特有の、礼儀正しく何かを誤魔化すときのそれである。

 そしてそんなやりとりに、「蛇姫?」「紅椿?」「あの、カードの?」と、周囲からさわさわと声が上がる。

 弦一郎は、今男爵が言ったことを、黙って反芻した。

 ──スリザリンの中のスリザリン。

 あの紅椿がそうである、ということは、何となく分かる。
 だが、菩薩のように微笑み、また弦一郎をいつもさりげなく、押し付けがましくなく助け、支えようとしてくれる彼女が、“スリザリンの中のスリザリン”になり得るだろうか?

 正直言えば、狡猾、という要素が紅梅の中に存在することは確かだ。
 やんわり、おっとりしていながら決してとろいわけではなく、するりと静かに、要領よく、しかも品よく目的をこなしてしまうところは、ちゃっかりしているというか、確かに狡猾と言えなくもない。
 しかしそれは決して悪い意味ではなく、誰も嫌な思いをしないようにという深い気遣いを伴って行われるそれには弦一郎は常に感心しているし、尊敬すべき、また皆が見習うべきところだと思っている。

 だが、精市の説明や、そしてどうも周りから漏れ聞こえる評判を見る限り、スリザリンを表す“狡猾”という言葉は、間違いなくいい意味で使われてはいない。
 スリザリンの“狡猾”という言葉がそういう意味ならば、紅梅がスリザリンの中のスリザリンである、とは、どうも思えないのだ。

(──いや、紅梅なら、そんな中でも上手く切り抜けてやっていけそうだが)

 と弦一郎は思い、そして、ああ、そういう意味ならば、紅梅はスリザリンかもしれない、と一周回って納得してしまった。
 足元がどんな泥道でも、彼女は器用に品よく歩いて、裾に泥の一滴も跳ねさせることなく、素知らぬ顔で微笑んで、ひょいと進んでいくのだろう。

 それは、弦一郎には、絶対にできない所業だ。

 紅梅が品よく、おっとりひっそり、しかし確実に目的を為すことができるように、弦一郎は真正面から堂々と、全ての者にはっきり知らしめるようにして有言実行を遂げることに長けている。
 そして紅梅は真正面から人目も憚らず、時に形振り構わず我武者羅になったりするのが不得手で、弦一郎は、ただじっと口を噤み、密やかに事を為すことが出来ない。

 だから、もし紅梅がスリザリンに組み分けられるのならば、弦一郎が彼女の側にいることはなく、そして弦一郎がグリフィンドールに組み分けられたら、紅梅がそこに来ることもないだろう。

 弦一郎がそんなことを思っていると、「さあ行きますよ」と、厳しい声がした。
 背筋を伸ばして顔を上げると、マクゴナガルが戻ってきている。血みどろ男爵は、「おお、では、これにて」と言って、すうっと壁の中に消えた。
 次いで、ふわふわ浮いていた他のゴーストたちも、ひとりずつ壁を抜けて部屋から出て行く。

「組分け儀式がまもなく始まります」

 そう言って身を翻したマクゴナガルの後に続くべく、弦一郎は、紅梅の手を取った。──なんとなくぎゅっと強めに握ると、紅梅も握り返してくる。表情は見なかった。

 整然と整列するわけではないが、だいたい一、二列に並んで部屋を出る。
 再び玄関ホールに戻り、そこから二重扉を通って、──とうとう、さきほど在校生たちの騒がしい声が聞こえていた、大広間に入った。
組み分け1/3//終