組み分け
「弦ちゃん、起きて。もう着くえ」
「……む」
鈴を転がすような声が、耳元でやさしく囁く。
肩を小さく、ゆるやかに揺すられて、弦一郎は何一つ不快な思いをせずに目を覚ました。目を開けると、まず目に入ったのは長い黒髪。そしてその持ち主である紅梅が、顔を覗きこんでいた。
弦一郎が起きたのを確認すると、紅梅は、にっこりした。
「……どのくらい寝ていた?」
「二時間はないくらい」
「そうか。……ありがとう、ずいぶんよく眠れた」
車窓からの景色が、夕暮れと夜の堺というほどに暗いことを確認しながら、弦一郎は紅梅の膝から起き上がった。ひとつ欠伸をして、大きく伸びをする。
とても良く眠れた自覚がある。かなりすっきりしていた。そして、寝ようと思えばまだ寝れるが、動きまわるにも支障はない。
いい塩梅のコンディションに満足しつつ、腕を回したりして軽く体をほぐしていると、いつのまにか葛籠を引っ張り出してきていた紅梅が、その中から、弦一郎の制服とローブ、革靴を取り出した。かさばるので、魔法の葛籠の方に入れてもらっていたのだ。
「はい、制服。うち表に出とるえ、着替えたら呼んで?」
「うむ、わかった」
紅梅は弦一郎に制服を手渡すと、コンパートメントについた小さな目隠しカーテンを引いてから廊下に出ると、驚くほど音なく扉を閉めた。
廊下に出た紅梅は、ふう、と息をついた。
ずっと同じ姿勢でいることには慣れている。しかし、初めてした膝枕は、とても疲れるわけではないが、それなりに負担があった。人の頭はけっこう重い。
あんなに眠そうなのに、リクライニングがあるわけでもない椅子で座って寝るのは辛かろう、と思い、なんとなく思いついて提供した膝枕。
しかし、無防備に寝ている弦一郎を眺めるのはなんだかいい気分で、約二時間、紅梅は何もしなくても、全く退屈しなかった。
彼がしたいのなら、またしてもいい。
そんなことを思いつつ、紅梅は今のうちに化粧室に行っておこう、と身を翻し──、しかし、隣のコンパートメントの前の廊下に座り込んでいる巨体に驚いて、びくっと身体を跳ねさせた。
背丈は弦一郎くらいか。おそらく、貞治ほどではない。しかし元々ががっちりとしている上にかなり太っていて、体重は彼らの倍かそれ以上はありそうだ。
ホグワーツの制服を着込んでいるので、生徒なのだろう。
あまりにもぴくりともしないので、紅梅は恐る恐る彼の顔を覗き込んだが、完全に白目を剥いて盛大によだれを垂らしているその顔に、うっと呻いて後ずさる。
そして、坊主頭に近い髪型と、西洋人特有の特徴により縦に広い額を有効に使い、顔中いっぱいに、マジックで『心配ありません。そのうち起きるから放っておいて! 責任者はドラコ・マルフォイ』と書かれていたため、その指示通り、放っておくことにした。
精市と清純がいるコンパートメントの前でこうなっているのだから、十中八九、彼らと何かあったのだろう。そしてそういう場合、わざわざ自分が首を突っ込む必要はないのだと、紅梅は既に悟っていた。
そしてさっさと化粧室に行って用を足し、髪を直し、顔まで洗って戻ってきた紅梅は、またコンパートメントの前に立つ。
外はすっかり暗くなっている。明かりもなく、どんな風景が広がっているのかもよくわからない車窓を眺めながら、弦一郎を待った。
するといくらもしないうち、青白い顔色に、白く輝くプラチナ・ブロンドをオールバックにした男の子と、座り込んでいる大きな男の子と似たような様子の大柄な男の子が、なんだかいらいらしたように、しかし妙に物音を立てないように気を使った様子で、向こうの車両からやって来た。
「くそ……くそ。手間かけさせやがって」
ぶつぶつと悪態が聞こえる。
そして紅梅がそれに首を傾げたのと、座り込む少年の前で彼らが止まり、そして青白い顔色の少年──ドラコが紅梅に気付いたのは、ほとんど同時だった。
おそらく皆自分のコンパートメントで着替えているのだろう、誰もいない廊下。そこにぽつんと立っている女の子に、ドラコはびっくりした。
顔立ちからいって、あきらかにアジア圏の人種。肌はドラコのようなコーカソイドとはまた違う色合いで、白いのに、同時に暖かみがある。
少し伏目がちな垂れ目で、しかし睫毛は長い。傾けると目を閉じるからくりの、眠り目人形のような目だ。眉毛も少し下がりがちだが、濃い血色の小さめの唇が柔らかく微笑んでいるので、おっとりとは見えるが、気弱そうな感じではなかった。
長く垂らされ、まっすぐ切りそろえられた髪は真っ黒で、一筋の乱れもなく、つやつやと光っている。ハーフアップの髪型に、上品な小花柄の、赤いリボンが飾られていた。
そして着ているものは、ドラコが見たことのない、幅広の帯を後ろで華やかに結んだ、全く露出がないのにドレスのようにも見える、きれいな花柄模様の、不思議な服。
履物も同様で、作りは簡単なサンダルのようだが、真珠のようにきらきらした美しい織りの布が使われていて、安っぽさの欠片もなかった。
彼女が首を傾げ、こちらを見なければ、大きな人形かと思ったかもしれない。そのくらい、浮世離れした感じの雰囲気を、ドラコは感じた。
「……ミスター・ドラコ・マルフォイ?」
女の子が突然自分の名前を呼んだので、ドラコは心底驚いた。
それにしても、鈴の音を転がすような声だ。しかも喋り方がゆっくりで、発音が不思議にまろやかなので、とてもやさしく聞こえる。
おそらく日本の訛りなのだろうが、単に訛りと嘲ることのできない、抑揚のある、上品な響きに聞こえた。
「あ、ああ、そうだが、なぜ僕の名を──」
「へぇ、あの、そこんお人の、お顔に」
どぎまぎしていたドラコは、彼女が指差した先、座り込んだゴイルの顔を見て、一気に表情を歪めた。ひどい汚物でも見たような顔である。
しかし、全身脱力しているせいで巨体が弛緩し、白目を剥き、変な方向に首が傾けられ、盛大によだれを垂らしている上に落書きがされたゴイルの顔は、本当にひどい。しかも、『責任者はドラコ・マルフォイ』とでかでかと書かれている。
この汚い顔に自分の名前が書かれているということに、ドラコは本当にいらいらした。
「……ああ、うん、僕がドラコ・マルフォイだ……」
苦虫を百匹ぐらい噛み潰したような顔で、ドラコは名乗った。ハリーたちにふんぞり返って名乗った時とは、大違いである。
「へぇ、よろしおした。ちぃとも動かはらへんから」
紅梅が歌うように言ったので、ドラコはぽーっとした。
日本人形がそのまま動いているような容姿と、古い京ことば──いや花街ことばをゆったり使うせいで、紅梅は日本でも、周囲にどこか浮世離れした印象を与える。
しかし、英語を話すときも、ゆったり、花街ことばのイントネーションが滲むまろやかな抑揚と、主に童話や児童文学、シェイクスピアなどの舞台劇で培った語彙のせいで、どうにも物語の朗読でもしているような話口調なのだ。
「……あの、君は?」
「うち? うちは……」
紅梅が名乗ろうとした時、彼女の後ろのドアが、がらっと勢い良く開いた。
「紅梅、すまん。テーブルを片付けていて遅くなった」
上まできっちりネクタイを締め、長いローブを着込んだ弦一郎は、少し慌てたように言った。
しかし紅梅はにっこりすると、「まだ時間あるえ、大事おへん」と言って、弦一郎と入れ替わりにコンパートメントに引っ込む。
結局名乗らぬまま消えてしまった紅梅に、ドラコは「あ」と言って僅かに手を伸ばすような仕草をするが、すぐに扉は閉められてしまった。目隠しのカーテンが引いてあるので、中も全く見えない。
「……ん? 誰だ?」
──今更。
紅梅と入れ替わりに廊下に出た弦一郎は、隣のコンパートメントの前にいるドラコとクラッブを見てそう言い、そして、あんまりな状態で座り込んでいるゴイルを見て、顔を顰めた。
「幸村か」
苦々しいような、呆れたようなその言葉に、クラッブがびくりとする。
「おい。余計な世話かもしれんが、無闇にあいつに喧嘩を売らんほうがいいぞ」
「……本当に余計な世話だよ。放っておいてくれ」
ドラコは、吐き捨てるように言った。
しかし、後ろのクラッブは、太い首がもげそうなほどガクガク頷いている。その様に憐れを感じたのか、弦一郎は気の毒そうな顔をして、「何か手伝おうか」と親切に申し出た。
しかしその態度に、ドラコのいらいらは、最高潮に達した。
ハリーやロンの無礼な態度、精市からの仕打ち、更には今、めったに見かけないような女の子の名を聞きそびれたこと、そしてその原因に憐れまれたような態度を取られたこと、どれもこれも、すさまじくドラコの癇に障って仕方がなかった。
おまけに、そのいらいらをぶつけてやろうと目の前の弦一郎を睨んでも、彼はドラコよりずいぶん背が高く、それこそゴイルやクラッブぐらいある。
そのくせ、どう見てもスポーツをやっている引き締まった体をしていて、腕っ節も強そうだ。
紅梅と同じ色合いの、しかし彼女とは比べるべくもないほど、すっかり日に焼けた肌。髪も彼女と同じように真っ黒で、少し無造作に短く切っている。
顔立ちはアジア系にしては彫りが深く、鼻も高くて眉が太く、いかにも男らしい感じだ。先ほど聞いた声も、すっかり落ち着いて低い。
そして話し方も、全く子供っぽくなく、どころか、まるで古典劇のような話し方をする。紅梅は童話などの柔らかい物語を彷彿とさせる話口調だったが、こちらはやたらくっきりした発音で、例えば軍記物とか、時代劇などのような、厳めしい口調である。
ドラコたちと同じく、まだ寮の決まっていない新入生の制服を着ているので間違いなく同い年のはずだが、少なくとも、二、三歳は上に見えた。
セイイチ・ユキムラといい、誰だ、アジア系は幼く見えるなんて言った奴は! と、ドラコは歯ぎしりをしながら、内心で力いっぱい悪態をついた。
「……行くぞ! クラッブ、ゴイルを連れて来い!」
ドラコはヒステリックに叫び、肩を怒らせて、ずんずん廊下を戻っていった。
クラッブはおろおろとしていたが、すぐにゴイルを肩に担ごうとし、しかしすぐさま無理だと悟ったのか、足を持ってずるずる引きずっていく。
廊下にゴイルのよだれの跡が点々とついていくのを、弦一郎はさすがに嫌そうに見送った。
ドラコたちが行ってしまってから、弦一郎は番犬よろしくコンパートメントの前に立っていたが、紅梅はいくらもしないうち、がらっと扉を開けて出てきた。
女の支度は長いというが、紅梅はどうもそんな所があまり見られない。
曰く、舞妓や芸姑は“支度”から既に仕事の一環であり、だらだらしているわけにはいかないからだそうだ。そのため、支度をする前にどんな格好をするのかすっかり決めてしまっていて、それをさっさと着てしまうだけ、という習慣が根付いているらしい。
そんなわけで、いつも紅梅は完璧な身支度で弦一郎の前に現れるのだが、今日は少し違っていた。
正真正銘、とても珍しい洋服姿。
アイロンがかけられたシャツのボタンは上まできっちり留められており、同じくぱりっとプリーツの折り目がついたグレーのスカートは、膝をすっぽり覆う程度の、やや長めの丈。
黒い厚手のタイツを履き、足元は、真っ赤なエナメルの靴が華やかだ。髪も綺麗に梳かされ、靴と似た色で統一感を持たせたリボンが飾られている。
「弦ちゃん、ネクタイ、どないして結ぶん?」
完璧な装いの中、唯一抜けた首元のそれを手に持ち、紅梅は途方に暮れたように言った。
「習ってこなかったのか」
「お姐はんらァも、知らんて。うちんとこ、男はんおらんし」
なるほど、女性ばかり、和服ばかりの環境では、ネクタイを結ぶ機会どころか、ネクタイを結ぶところを見る機会すらないだろう、と、弦一郎は納得して頷いた。
ちなみに、弦一郎は別に普段からネクタイをする機会はないものの、自衛官の両親はいつもネクタイであるし、進学予定の立海大附属中の制服がネクタイであるという理由もあって、基本のプレーンノットだけではあるが、結び方は完全にマスターしていた。
「弦ちゃんに教えて貰いー、て言われたん……」
「構わん。寄越せ」
「おおきに」
それぞれそういう環境なのだから当たり前ではあるが、いつもきれいな格好をしている紅梅に対し、弦一郎は基本的に動きやすさ重視の格好で、さんざん泥まみれ汗まみれになっている。
そのことを恥じたことなどないが、そんな紅梅に、身だしなみのことで頼られるというのは珍しく、悪い気もしなかった。
弦一郎は紅梅から太いストライプ柄のネクタイを受け取ると、襟の下を潜らせ、左右の長さを合わせ、くるっと一度ねじった。
「……む」
しかし、対面で人のネクタイを結ぼうとすると、自分のものを結ぶ時と逆になるので、どうにもうまくいかない。
弦一郎は数回四苦八苦してから、やがて観念して、紅梅の後ろに回り、自分のものを結ぶ時と同じ要領で、紅梅のネクタイを締めた。
──それにしても、信じられないくらい首が細い。それになんだか、とてもいいにおいが──
「……おまえ、ほんと、なにやってんの……」
いつの間にか廊下に出てきていた精市が、呆れどころか、もはや冷えた声で言った。
後ろにいる清純は、口を尖らせ、「ピューゥ」と軽快な口笛を吹いている。後ろのハリーとロンは、少し赤い顔でもじもじしていた。
皆、弦一郎たちと同じく、制服とローブを着込んでいる。
「うん? ああ、ネクタイが結べないというのでな」
「だからってさあ……だからって……」
何やら呻いている精市の肩を、生暖かい目をした清純がぽんと叩く。
そして無事ネクタイを装着してもらった紅梅が、そんな精市を見て、きょとんとした顔をした。
「せぇちゃん、制服までズボンやのん?」
「え? どういう意味?」
紅梅の質問の不可解さに、清純が疑問符を飛ばす。
しかも、精市は気まずそうにあさっての方向に目線を飛ばしており、弦一郎は珍しくも口に手を当て、何やら笑うのを堪えているようだった。
「あー……うん、まあね。あっ、そうだ梅ちゃん、彼、ウィーズリーがね。これをくれたよ。カードのお礼だって」
誤魔化すようにして、精市は、ローブのポケットからカードを出して、紅梅に渡した。
紅梅はそれを受け取り、表面を見ると、目を丸くする。
「ひゃあ、お祖母はんや」
「わあ、ほんとにお祖母さんなんだ……」
紅梅の反応に、ロンが、感心したように言う。
小さなカードの中でころころ姿を変える紅椿に紅梅は笑い、そして弦一郎もその様子を横から覗きこんでは、興味深そうに目を見張っている。
「カードになっとるなん、知らんやったわ。おおきに、ミスター・ウィーズリー」
「あ、うん。こちらこそ、どういたしまして」
にっこりした紅梅に、ロンがひょろりと高い背を縮めるようにしてもごもご言い、頭を掻く。
見たことがないほどきれいな黒髪だ、とハリーは思った。顔もきれいで、清潔感もある。靴やリボンもおしゃれだし、話しているのを見る限り、穏やかで人当たりもいい。
しかし、精市と同じく、雰囲気がありすぎて、軽々しく「キュート」などとは言えない感じの女の子だ、というのが、ハリーの印象だった。きっとロンも同じだろう。
だが、あのミステリアス極まる『紅椿』の孫だと思えば、実に妥当な印象だ、とも思った。
それに対し、ネビルが話だけで半泣きになっていた弦一郎は、ゴイルやクラッブぐらい背が高く、しかし全く太っておらず、いかにもスポーツをしている体つきだ。
更には真っ黒な髪に、少し黄色っぽい茶色の目、日に焼けた肌をしているので、野性的というか武骨というか、確かに、いざとなったら力ずくで言うことをきかせそうである。
そして規律に厳しいということを証明するかのように、制服を生真面目にきっちりと着込んでいる。しかもその具合といったら、軍隊の規則にでも添っているのか、とでもいうくらいで、どこにもだらしないところがない。
「というわけで、お前の分のカードも彼にあげちゃったけど、いいよね? 真田」
「うむ、構わん。必要としている者の手元に収まって何よりだ」
精市の確認に、弦一郎は重々しく頷いた。
そのいかにも厳めしい口調と、同い年とは思えない堂に入った声に、ハリーもロンもびっくりしたが、気前よくあっさりとした弦一郎の反応に、まだ少し怖いが、悪いやつではないようだ、という印象を抱いた。
「えっと、……どうもありがとう、ミスター・サナダ。ずっと欲しかったカードだったんだ」
「それは重畳。礼には及ばぬ」
やはりいちいち厳めしい。
まるで中世の騎士、いや古代の剣闘士(グラディアトル)や将軍のようだ、と二人は思った。
最初にちゃんと顔を見た時は、少なくともふたつかみっつは年上に見える、と感じたが、話してみると、同じ時代に生きているのかどうかも怪しく思えてくる。
《──あと五分でホグワーツに到着します。荷物は別に学校に届けますので、車内に置いていってください》
その時、アナウンスが響き渡った。
ハリーは緊張で胃がひっくり返りそうになり、ロンはそばかすだらけの顔を青くする。──が、日本人組は揃ってまったく動じておらず、「やー、いよいよだねえ」と、清純が呑気な声を上げた。
制服姿の群れが通路に溢れ始め、汽車がますます速度を落としていく。
そして列車が完全に停車すると、弦一郎と紅梅は、しっかり手を繋いで列車を降りた。