組み分け
ホグワーツの駅は、予想に反して、小さな、暗いプラットホームだった。
周りは真っ暗な森で、虫の声や、フクロウの声がする。
九月初日ともなれば、少なくとも東京や神奈川あたりでは、三十度くらいになってもおかしくはない。だがイギリスは全体的に寒く、夏でも最高で二十五度もいかないのが普通らしい。
そしていま、地図に載っていない夜の魔法の森は、ずいぶん肌寒かった。おそらく、十五度もないのではないだろうか。
真っ暗なプラットホームに不安そうにざわめく生徒たちの頭上に、やがて、ゆらゆらとしたランプの光が近づいてきた。──ランプは、何の支えもなしに宙に浮いている。
もういいかげん驚くまい、とした弦一郎は、押し合い圧し合いしている生徒たちに揉まれてはぐれないように、紅梅の手を握り直して、ぐっとそばに引き寄せた。
寒いのかローブの前を片手で掻き合せている紅梅は、おとなしく弦一郎のそばに寄り、弦一郎の腕に肩をくっつけるようにして立った。
「一(イッチ)年生! 一(イッチ)年生はこっち!」
ぬっと現れた、信じられないほど大きな髭面の男が現れて、新入生を引率する。列が動き出したので、弦一郎と紅梅は、なるべくくっついて移動した。
「ハリー、元気か?」
引率の大男が、もじゃもじゃの髭面ににかっと豪快な笑みを浮かべて、弦一郎らのほう──正しくは、後ろにいるハリーに笑いかけた。「ハグリッド!」と、喜色の滲んだハリーの声が聞こえる。どうやら、知り合いらしい。
「さあ、ついてこいよ──あと、イッチ年生はいないかな? 足元に気をつけろ。いいか! イッチ年生、ついてこい!」
あの巨体であれば妥当な音量ではあるだろうが、なんともよく響く、大きな声である。
ハグリッドはあらゆる意味で、お世辞にもスマートとは言い難いためか、おののいていたりする子もいるようだ。しかし道場で祖父の大声を聞いて育った弦一郎は、その威勢のいいどら声を、どちらかというと好ましく感じた。
精市と友人になったらしいハリー・ポッターとも親しいようだし、きっと気持ちのいい人物なのだろう、と頷き、弦一郎は、自分たちの倍以上大きなハグリッドを目印にして、紅梅の手を引いてしっかり歩いた。
道はほとんど整備されておらず、狭くて険しく、つまずいたり、滑ったりしやすい。おまけに常に曲がりくねっていて、急な上り坂も、下り坂もあった。しかも右も左も真っ暗で、周りには木が鬱蒼と生い茂っている。
いかにもイギリス伝統的な滑り止めのない革靴は次々にその餌食になり、スニーカーを履いている者ですら、なかなか苦労しているようだ。
弦一郎も一見革靴に見える靴を履いているが、実はこれは編上靴といって、ブーツのように脛までは覆わないが、絶妙に足首までを覆い、靴底も非常に頑丈だ。編上紐で締めて調節するので、足にぴったりとする。
普通の革靴だと底が薄くて滑るが、スニーカーはきちんとしていないように見えることもあるのでは、ということで、弦一郎の父が薦めてくれたものであった。
実際、厳しい環境下での実用性と礼装を兼ねられる靴ということで、旧日本陸軍の歩兵に最も多く用いられたものである。
そしてその効果は抜群で、他の者達が新品の制服であるにもかかわらず滑ったり転んだりしたり、そうなるのを恐れて、小さな歩幅でちょこちょこと、そして黙々と歩いているにもかかわらず、弦一郎は大股で、一欠片の迷いもなく、ずかずか歩いた。
紅梅は彼にがっちり手を引かれている上、あっちを歩け、ここに足を置け、少しジャンプしろ、などと、まるで行軍時の上官よろしく指示してくるのに素直に従っているため、ぴかぴかの赤い靴は、暗い森の中でも、ちっとも汚れていなかった。
そして、汽車の中で出来た友達に気分を浮上させたものの、とうとうヒキガエルも見つからず、そしてこの真っ暗で不気味な森にまた半泣きになっていたネビルは、ぐすぐす鼻をすすりながら、転ばないように、少しずつ歩いていた。
近くにはハーマイオニーがいるはずだが、暗くてよくわからない。
「──わあ!」
もうイヤだ、と思った瞬間、履き古して靴底が削れ、なお滑りやすくなっているネビルの革靴が、思い切り滑る。
ひっくり返る、と思うも、暗すぎて地面がどんなふうかもわからず、受け身の取りようもない。ぎゅっと目をつぶって身体を固くしたが、しかし、ネビルが痛い思いをすることはなかった。
「大丈夫か」
低い声がして、ネビルは、自分の腕が、がっちり掴まれていることに気付いた。
ネビルが返事をする間もなく、その手はネビルの腕を思い切り引き上げる。肩が抜けるかと思ったが、思いの外すとんと安定して着地できたので、ネビルはぽかんとし、そして、ほーっ、と息を吐いた。
「よく滑る。気をつけろ」
「う、うん、どうもありがとう」
「礼には及ばぬ」
やけに古めかしい言い回しをする声は、少し見上げなければならない所から聞こえてくる。背の高い人物のようだ、ということがわかり、もしかして先生だろうか、とネビルは少し気が楽になった。
「お前、さっきからひどくふらふらしているが、具合が悪いのか?」
「体調が悪いわけじゃないよ。……でも、地面が全く見えないから……」
「なに? 全くか?」
低い声は、訝しげに言った。
「……ふむ。俺の顔は見えるか?」
「見えるわけないよ」
ネビルが当然のごとく即答すると、低い声は小さく唸り、「鳥目か」と言った。
「鳥目?」
「暗部において視力が著しく衰え、目がよく見えなくなる症状のことだ。自覚はあるか?」
問われ、ネビルは少し考えた。
昼だろうが夜だろうが自分は鈍臭くてとろいと思っていたので、今まで気にしたことがなかったが、言われてみれば、心当たりはある。
「あまり明るくはないが、ランプもある。俺はお前の顔も見えるし、少し先も見えるぞ。多分、皆そうだ」
そう言われ、ネビルは絶望した。
どうして自分はこう何もかもだめなのだろうか。明るいところでも鈍臭いのに、暗いところになるともっとだめだなんて!
心の底から情けなくなり、ぐす、と、ネビルは鼻を鳴らした。
「──男が泣くでないわ!」
ビシャン! と、雷でも落としたような声だった。
半泣きだったネビルは、潤んでいた目をまん丸く見開き、再びひっくり返りそうなほど背筋を伸ばす。ついでに、怖がるよりも驚きすぎて、涙が一瞬にして引っ込んだ。
まさに“泣く子も黙る”といったその声に驚いたのはネビルだけではなかったようで、見えなくても、周りが一斉に立ち止まり、こちらを見ているのがわかる。
「たわけ! 泣く暇があったら、解決策を探さぬか!」
「は、はい! 泣きません! ごめんなさい!」
びりびりと、肌どころか骨まで震えるような声に、ネビルは腰を抜かしそうだった。思わず謝ると、「反省したならいい。次からは気をつけろ」とあっさり返ってきた。
どうも、声は大きいが──、つまり、形振り構わず怒り狂っているわけではないらしい。
「そもそも、泣くほどのことでもなかろうが。そういう事情であればしかたがない。俺がこのまま手を引いてやるから、言うとおりに歩け」
「えっ」
「何だ」
「えっ……、いいの?」
「いいから言っている」
目が見えずにふらふら歩いている者を見捨てるほど薄情ではない、と続けられた声とともに、大きな手が、もう一度ネビルの腕を掴んだ。
「ただ、お前は見えないだろうが、もう片方に、もう一人いる。難しいところは順番だ。いいな」
「へぇ、よろしゅう」
おっとりとした、女の子の声が聞こえた。
そのやさしい声に、ネビルはなんだか随分ほっとして、今度は安堵のあまりに泣きそうになった。しかし掴まれていない方の手で目をこすり、なんとか涙を堪える。
見えない闇の中で、うむ、と満足気に頷かれたような気がした。
ネビルには見えない“彼”は、まるで軍隊の上官のようにきびきびと、そして的確に支持を出し、ネビルを導いてくれた。
全く見えないせいで、しかるべきところに足を踏み出すことが出来ないこともあったが、がっちり腕を掴んだ手が絶対に引き上げてくれるので、ネビルは何度も転びそうになりながら、しかし一度も転ぶことはなかった。
それにしても、少し太り気味のネビルを軽々引っ張り、時に持ち上げすらする腕力は、相当なものだ。腕を掴む手の握力もとても強く、正直少し痛かったが、もちろんネビルは文句など言わなかった。
そして“彼”は何度も転びそうになるネビルに一度も声を荒げることはなく、次は右だ、少し待っていろ、と、変わらぬ調子で言ってくる。
先ほどネビルが“ぐずった”時の怒鳴り声は凄まじかったが、きちんと理由があれば、ネビルが何度とちっても、全く気にしないようだった。
また、先ほどまでは暗闇の中でパニックを起こしていたせいで──こうして落ち着いてから、ネビルは自分がパニックに陥っていたことに気付いた──わからなかったが、目が見えない分、耳を澄ますと、いろんなことがわかってくる。
“彼”は右手でネビルの左腕を掴んでいるが、左手では、さっきおっとりした声を上げた女の子と手を繋いでいるようだ。
女の子はこの暗さでも目が見える上、運動神経も悪くないようで、言われた指示に素早く従い、軽やかに歩いている。
そしてその女の子の足跡を、「参考にする」と言って、ハーマイオニーが歩いている。女の子同士だからか、既に仲良くなったようで、「コウメ」「ハーちゃん」と呼び合っているようだった。
また、いつの間にか彼の作る“道”を「参考にしている」のはハーマイオニーだけではなく、ネビルらの後続は、皆“彼”の示す道を伝言ゲームで伝えながら歩いている。
格段に安全になった道のりに笑い声も聞こえるようになり、それを聞いて、わざわざ立ち止まり、ネビルらの後ろに回る子も出てきたようだ。
「あの、本当にありがとう。僕、ネビル・ロングボトム。名前を聞いてもいい?」
女の子たちの会話を聞いて、自分が名乗ってもいなければ、“彼”の名前を聞いてもいないことに気付いたネビルは、腕を引かれながら声を張り上げる。
真っ暗で何も見えないせいで、つい大声になってしまった。あまりにも普段出さない声だったので、ところどころの発音がひっくり返ったが、ネビルは恥ずかしいとは思わなかった。
「ああ、こちらこそ名乗らずに失礼した。真田弦一郎だ、よろしく頼む」
「えっ」
ネビルは驚きのあまり頭が真っ白になり、そのおかげでまた転びかけ、弦一郎に思い切り引き上げられた。
「みんな、ホグワーツがまもなく見えるぞ」
弦一郎がずんずん歩くお陰で、いつのまにか、ハグリッドの大きなだみ声がすぐ聞こえるほど前に来ていた。
「この角を曲がったらだ」
そう言ったとおりに角を曲がると、「うぉーっ!」と、一斉に歓声が上がった。
狭い道が、急に開けたところに出た。
大きな湖の畔である、ということが、ネビルにも、水の音でわかる。そして先程までは鬱蒼と木が生い茂っていたのでさっぱり周りが見えなかったが、あんまり星が明るいので、ネビルにも、夜の景色が何とか見えた。──もちろん、隣に立っている弦一郎の姿も。
彼は予想通りに背が高く、ローブを着ていてもわかるほど、明らかに肩ががっちりしている。なるほど、この肩なら、ネビルを引っ張り上げることも出来るだろう。
だが彼はネビルを見ておらず、目の前に広がる、壮大な光景に目を奪われているようだった。
「まぁー。お城や」
のんびりした声は、弦一郎を挟んで向こうにいる女の子、コウメ・ウエスギのものだ。汽車の中でチラッと見たとおり、長い黒髪をしている。あんまり真っ黒なので、闇夜に溶けて、むしろ今はよく見えないが。
そして彼女が、シンデレラのお城みたいやねえ、と続けた声に、ハーマイオニーが「本当だわ……」と、呆然と呟く。
その意見には、ネビルも全く同意だった。
星が映った湖の向こう岸には高い山がそびえ、その天辺にあるのは、なんと、壮大な城だった。
紅梅が「シンデレラのお城」と言ったそのとおり、大小様々な塔が立ち並び、きらきらと輝く窓が、星空に浮かび上がっている。
「四人ずつボートに乗って!」
美しい景色にそぐわないハグリッドのだみ声で、皆の意識が引き戻された。
星のお陰でもうネビルは随分周りが見えるが、弦一郎はまるで最後まで責任を持つとでも言わんばかりに、ネビルの腕をがっちりと掴んだままだ。
右手にネビル、左手に紅梅を連れて、彼はさっさとボートに乗り込んだ。紅梅が声をかけ、ハーマイオニーもそれに続く。
四人ともがボートに乗ると、弦一郎はやっとネビルの腕を離した。
強い力で掴まれすぎていたせいで、腕が痛い。おそらく痣になっているだろう。だがネビルは、弦一郎に感謝する気はあれど、恨む気はもちろんない。ただ、こんなに力があって凄いなあ、とだけ思った。
「ご苦労だったな、ロングボトム」
脚を開いてどっかと座った弦一郎は、ふんぞり返って言った。
見えない時は先生かと思ったが、こうして顔を見ても、どうも同い年とは思えない。
だがそれだけに、まあ散々世話になったのもあるが、偉そうな態度を取られても、ネビルは不思議と嫌な気はしなかった。どころか、なんだか軍の上官に褒められでもしたようで、誇らしくさえある。
汽車の中で、ネビルは彼のことを、腕っ節が強く、規律に厳しく、曲がったことや卑怯なことが大嫌いで、間違っていると思ったら何が何でも押し通し、そのためには時に暴力も辞さないが、決して不良ではなく、真面目の権化と言うに相応しい、警官と軍人を排出した剣道道場の生まれ──と聞いていた。
更には、決まり事を守って、礼儀正しくしてさえいれば、むしろ全力で味方になってくれる人間である、とも。
その時は、なんて怖い人だろうかと心の底から震え上がったが、実際会ってみると、まさにそのとおりでありながら、まったく悪い人ではない、どころか、どこまでも正しいような人で、しかもとても親切だったので、ネビルは自分のびびりと思い込みを反省した。
「う、うん、本当にありがとう」
「全然見えはらへんかったんやろ? 偉おすなあ」
「そうね。あの道を見えずに歩くのは、かなり骨だわ」
女の子たちにも言われ、ネビルは赤くなった。弦一郎は、うむ、と、やはり厳しく頷いている。
彼の杖は清純らと同じあのテニスラケットで、腰のベルトにそれを差しているが、本人のキャラクターとこの暗さのせいで、ローブからのぞく持ち手が、もう剣の柄にしか見えない。
「そやし、鳥目は食べるもんで治ることもありおすえ」
「えっ、本当!?」
紅梅がおっとり言った言葉に、ネビルは喜色を滲ませた。鈍臭いのと同様に、生まれつきのものだとすっかり思っていたからだ。
「正式には、夜盲症っていうのよね。パパとママは歯科医だけど、聞いたことはあるわ。先天性と後天性、生まれつきのとそうでないのがあって、そうでないなら、コウメの言ったとおり、食事療法で治る場合も多いわよ。生まれつきでも、改善方法はあるはず。調べておくわ」
ハーマイオニーが、毅然とした態度で言う。
心強すぎてネビルは感動し、少し震えた。
「ああ、それとも、魔法界の薬で一気に治ったりもするのかしら?」
「む、……そうならば、素晴らしいことだな」
弦一郎が、非常に重々しく言う。
そして紅梅も、「そやねえ。ほな、うちも、蓮ちゃんに聞いときますえ」と続けた。
ネビルはその時、弦一郎がネビルの腕は離しても、紅梅とは手を繋いだままだということに気付いた。そういえば、彼は汽車の中で、彼女の膝枕でぐうぐう寝入っていた──ということを、ネビルはたった今思い出す。
ならば、自分たちの歳ではあまりぴんとこないが、もしかして、恋人同士というやつなのだろうか、とネビルはぼんやり思う。
だがしかし、三人ともがまだネビルの夜盲症についての改善策を真剣に話し合ってくれているのを見て、ネビルは、そんなことはどうでもいいか、と気を取り直す。
そして、今日何度目かわからない「ありがとう」を、もう一度、心から言った。