心に曇りなき時は心静かなり
(三)
「いやあ、楽しい方でしたねえ」
朗らかな笑いとともに、比呂士が言った。
「楽しいちゅうか、……つかみ所のない女子じゃったのう」
「おや、仁王君がそこまで言うなんて、相当ですね」
面白そうな声色で言った比呂士に、雅治はジト目を作り、「……プリッ」と、いつもの謎の擬音で誤魔化した。
「真田のカノジョっつーからどんな堅物かと思ったら、むしろ柔らけえっていうか、冗談がわかるタイプだったな」
「だな。古風な感じは真田と同じだけどよ」
ブン太とジャッカルが、頷き合って言った。ちなみに、弦一郎と紅梅が正式にはまだ恋人同士ではないのだということは蓮二から告げられているが、「つまり付き合ってるようなもんってことだろぃ」とブン太がばっさりと切り捨てたため、皆紅梅のことを“真田弦一郎の恋人”と認識するようになっている。
「そッスよねー! 俺、紅梅先輩、好きッス! 優しーし、美人だし」
赤也が、あまり締りがあるとはいえない、機嫌の良さそうな顔で言った。
「真田副部長と違って、冗談言っても怒らねえし。癒し系っつーの? なんか、ホワーッとしてますよね。ずっとニコニコしてて、あとなんかいーニオイしたっス」
「においとか嗅ぐなよ、お前……」
「か、嗅いでねえッス! 流れてきたんスよ! ふわっと!」
引いたようなリアクションの精市に、赤也は必死で言い訳した。
「まあとにかく、これで弦一郎は大丈夫だろう。杞憂だったな」
天は落ちてこなかった。どころか、青天の霹靂。まさかの天女自らのご降臨だと、何かを色々とノートに書きつけていた蓮二が、ぱたんと表紙を閉じた。
そもそも皆がここに集まったのも、全国大会を前にして、この面子が揃ってからは初めてと言っていい弦一郎の不調の対策のためだ。
部長が復活したはいいが、副部長が沈んでしまってはどうしようもない。どうにかして弦一郎のテンションを上げようと、その策を出しあうため、弦一郎には言わずに集まったのが、今日の本来の目的だった。
だがその弦一郎本人が、何よりの特効薬を自ら連れて来たのである。まったく無駄な心配だった、と、蓮二は口の端を持ち上げる。
「あー、しかし真田のやつ、鉄みたいなメンタルしてやがると思っちゃいたが、……じゃあ何か、あいつ、ヘコむ度にカノジョに慰めてもらってたってワケ? かーっ」
「羨ましいこったなあ」
赤い髪をかき混ぜながら言うブン太と、苦笑して言うジャッカル。
「必死に隠しとったしのう。こーりゃ、明日からからかい放題じゃ」
「仁王君、ほどほどになさい」
「なぁんで、こんな面白い事。やなこった、ピヨ」
「仁王君!」
比呂士が窘めるが、雅治は頭の後ろで手を組むとそっぽを向き、ピューと鮮やかな口笛を吹いた。
「ううっ、正直羨ましいッス……! 真田副部長のくせに!」
「まったくだよ。真田のくせにね」
「幸村部長……!」
真顔で頷いた精市が座るベッドに、情けない顔で赤也が縋る。布団に突っ伏したもじゃもじゃの頭を、精市はポンポンと軽く叩いた。
「安心しなよ。もし真田がチューでもしてもらって浮かれて戻ってきたら、俺がぶん殴ってやるからさ」
きらきらしい笑顔でぐっと拳を握る精市に、「幸村部長……!」と、赤也が頼もしげな目を向ける。そしてそれを止める者は、誰もいなかった。
「まったく、……すまんな、騒がしかっただろう」
「へェ、賑やかで楽しおしたなァ」
病院を出て、日陰になった裏手の道を歩きながら。疲れたような、苦々しいような、そしていたたまれないような顔でぼそりと言った弦一郎に、紅梅はくすくすと笑った。
「……そやし、……せぇちゃんの事は、びっくりしたなァ。弦ちゃん、このこと知らせよ思て、うちんこと連れてきたん?」
「ああ、いい加減本当のことを言ったほうが良かろうと思ってな」
「そぉ、……」
普段和服で暮らしているが故か、普通の女子よりも更に歩幅が小さい紅梅は、大股でずんずん歩く弦一郎にぴったりついていくのは難しい。弦一郎も多少はゆっくり歩いているのだが、それでも、紅梅は時々小走りになりながら、弦一郎の斜め後ろを歩いていた。
「……うち、弦ちゃんとせぇちゃん、付き合うとるんかなて思とった」
「……………………は、ア!?」
あまりのことに、紅梅が何を言ったのかすぐに理解できず、たっぷり間を置いて、それから盛大にひっくり返った大声を出した弦一郎は、思い切り後ろを振り向いて立ち止まった。その表情は、おぞましい死体でも見たような、ひどい顔つきだった。
「な、何を気色の悪い事を言っとるんだ!」
「そやかて、女の子や思とったし。弦ちゃん、二言目には幸村、幸村やし。他の人は褒めるんに、せぇちゃんの事はあんまり褒めへんやろ? 特別なんかなあ、とか。ほら、今流行どすやろ、つんでれ、いうの?」
「馬鹿も休み休み言え」
苦虫を百万匹噛み潰したような顔で吐き捨てた弦一郎に、紅梅は苦笑する。そして弦一郎は、このややこしく滑稽な誤解を解いておいて本当に良かった、と思った。まさか彼女がこんなことを思っていようとは、まさに想像もしていないことである。
「しかし、幸村の性別を誤解していたといっても、それはない。お前、ちょっとおかしいぞ」
「おかしゅうないえ」
俯いた紅梅がやたらはっきりと言ったので、弦一郎は、困惑に表情を歪める。
「おかしゅうない。そやかて、……そやかてうち、遠いもん」
「……遠い、とは」
「遠おすやろ。京都と、神奈川。普段顔も合わされへん、声も聞かれへん。一年に一回会うんかて、今年みたいになる時ある」
苦しげなその声に、弦一郎もまた、同じ感情を宿した表情を浮かべた。
「そやから、……近くにおる子ォのほうがええて思うかもしらんて」
「ない」
紅梅の言葉尻に被せるようにして、弦一郎は、素早く、そして鋭く、この上なくはっきりと言った。その声に、紅梅が顔を上げる。
「そんなことは、ありえない」
まっすぐに紅梅の目を見て、弦一郎は、言った。少し怒ったようなその声と表情に、紅梅は不安そうな顔を赤らめてから、またそっと俯いた。
「……お前のほうこそ」
俯いて顔の見えない紅梅に向かって、弦一郎は、ぶすくれたような声で続ける。
「お前のほうこそ、……お前の周りは、……何だ。なんというか、……風流とか、流行りとかがわかる、華やかな男が多いだろう」
弦一郎の頭に浮かんでいるのは、跡部景吾のぼんやりした姿だった。彼と紅梅の間にビジネスパートナーである以上の感情がないこと、どころかそれこそ自分と幸村のような間柄だというのは聞いているし理解もしているのだが、やはり彼らは男と女である。心の奥底で、どうしても、納得いかないものがくすぶっていた。
それに、紅梅が通う舞子坂は、京都やその近隣の伝統文化を担う流派や職人の子息などが多く通う事でも有名な私立である。自分のように無骨な者とは比べ物にならない、風流を解し、日本舞踊のことも詳しく批評できるようなセンスの持ち主がゴロゴロしているのは、実際に蓮二や景吾からも聞いていた。
「側にそういう奴らが揃っていれば、心が動くのではないのか」
「そんなん……」
紅梅は、少しだけ顔を上げた。その表情にどきりとして、弦一郎は息を呑む。小さな唇はきゅっと噛み締められ、下がりがちな眉が更に下がり、しかし眉間には僅かに皺が寄っている。恨めしげな上目遣いに見つめられ、弦一郎は、息をするのを忘れそうだった。
「そないなお人がいくらおったかって、……おらんもん」
「何が」
「うちの、側には」
白い指が、きゅっと握られた。
「うちの側には、……テニスが上手で、剣道しとって、優しゅうて、……仰山お手紙くれて、……背ぇが高ぅて大人っぽいお人、……おらんもん」
心臓を握りつぶされたような、がつんと頭を殴られたような衝撃が、弦一郎を襲った。本気で息ができなくなりそうな衝撃、夏の日差しよりも眩しい何かに、弦一郎は目眩を覚える。かっ、と、頭や顔だけでなく、首や背中まで熱い。ぶわっと湧き上がった汗が、夏物の薄いシャツを肌に張り付かせた。
「そういう人やないと、好きに、ならんもん……」
震えた声に、弦一郎は、たまらなくなる。小さく縮こまった肩が、俯いて顔は見えないが、痛々しいほど赤くなった耳が、つらいほどにいとおしい。
「お、お、……俺、とて」
弦一郎は、わなわな震える唇を持て余しながら、滝のような汗を流しながら、言った。顔がとても赤いだろうことが、自分でわかる。
「お、俺の、側にも、……おらん。日舞をしていて、美人で、黒髪の……」
弦一郎は、目の前の彼女を見つめながら、たどたどしく形容した。
「肌が白くて、美しい字を書く、……凛とした、」
紅梅が、顔を上げる。長い睫毛の下の黒目がちの目が、潤んでいる。頬が、目尻が、赤い。艶やかな黒髪がこぼれ、夏の光を反射して光る。
ああやはり、眩しいほどに美しい。天に昇っていく天女よりも、咲き誇る夏の花よりも、どんな古都の景色よりも、国宝の観音菩薩よりも、自分にとって一番美しいのは彼女だと心の底から思いながら、弦一郎は、言った。
「お前でないと、……好きには、ならん」
どっどっどっ、と、心臓が、胸の内側から殴りつけてくるかのような音を鳴らしている。耳の中の血潮の音が、嵐のようにざあざあと流れていた。うるさいはずの蝉の声が、ひどく遠い。
「…………ぅん」
数秒してから、紅梅が、己の顔を手で覆った。黒髪から覗く耳が、血が出そうなほど赤い。頬を覆う細い指先が、小さく震えていた。
「す」
小さくなって震える彼女の可愛さに、いとおしさ、いじらしさに、弦一郎は、胸いっぱいに息を吸い込む。そして、言った。
「好きだ」
本当は、もっと格好のつく言い方をするつもりだった。この七年間手紙を交わし、想いを積み重ねてきたその集大成を告白しようと思っていた。一世一代の恋文にしようと、語彙をひねり、工夫をして、もう何度手紙を書き直しただろう。
だがいま弦一郎の口から出てきたのは、飾り気も何もない、たった一言。しかも無様に震えた、稚拙なまでの一言しか差し出すことが出来ない己に、弦一郎はもどかしさと情けなさを覚える。
だが、どんな熟れた言葉も、弦一郎からは出てこなかった。次から次へと湧きだすのは、ただただ彼女が好きだという、ひたすら愚直な、灼けるように熱い想いだけだ。
「お前が、好きだ。紅梅、お前だけが」
「うん……」
紅梅がこくりと頷いてくれただけで、弦一郎の胸に、爆発しそうな喜びが溢れ出す。
「……うちも」
蚊の鳴くような声が、顔を覆った掌の向こうから発された。細い指の間から、潤んだ目が弦一郎を見る。まっすぐな目。心臓が、掴まれる。
「うちも、弦ちゃんが、すき」
泣くのではないかと思うほど真っ赤な顔で、だがとても嬉しそうに微笑んでそう言った紅梅に、弦一郎の中で、大声で喚き散らして走り出したいような衝動が生まれる。
そしてその衝動が促すまま、弦一郎は、手を伸ばした。セーラー服の襟が被さる細い肩に指が触れる、その瞬間。
──ブロロロロッ、
と、マフラーを改造した無粋な音を響かせたバイクが、ガードレールの向こう、二人の横の道路を横切っていった。排気ガスの不快なにおいが、鼻をかすめる。
しかしそのにおいのおかげで、弦一郎は、ここが人の少ない裏道とはいえ、天下の往来であることを思い出すことが出来た。
「……行くか」
「うん……」
二人して真っ赤な顔のまま、どこかぎくしゃくと歩き出す。しかしふわふわとまさに浮足立った足取りは、不快どころか、どこまでも満たされていた。
住所としては東京になる病院からなら、神奈川に戻って新横浜まで行くより、東京駅のほうが近い。蓮二が調べてくれた新幹線の時刻も東京駅のものだったため、二人は電車を乗り継いで、平日だが人がごった返す東京駅までやって来た。
一連のやりとりを経て、何より彼女のことを気にするようになったせいか、紅梅が時々自分に追いつくのに小走りになっていることに今更気づいた弦一郎は、それ以降、とても気を使って、そろそろと歩くようになった。
おかげで紅梅は少し早足なくらいで弦一郎と並んで歩けるようになり、距離が近くなり、顔がよく見えるようになり、そして逆に、会話は減った。ただ目が合うと紅梅が嬉しそうに笑うので、弦一郎は、しょっちゅう紅梅を見ては笑みを向けられ、笑い返すまではいかずとも、自然、口元が緩んだ。
手を繋いでいるわけでもなく、ただ並んで歩いているだけで、弦一郎は驚くほど満たされた気持ちだった。
「新幹線の時間は、早いのか」
「ううん、そうでも」
紅梅が告げた時刻は、確かに、だいぶ余裕のあるものだった。
「……みぃんな、ええお友達やねえ」
「なんだ、いきなり」
不思議そうに首を傾げた弦一郎に、紅梅はにっこりして首を振った。
蓮二から渡されたメモには、新幹線の時刻だけではなく、弦一郎が関東大会の敗北から調子が悪いこと、皆それを懸念していること、そしてどうにか元気づけてやってほしいということが、蓮二の整った字で書かれてある。
(責任重大やなあ)
そのためにかなり早めに送り出された紅梅は、弦一郎の広い背中を見つめながら、ゆったりと目を細めた。
そうして、結局朝から何も食べていないことに気付いた二人が東京駅で名物のカツサンドを食べ、みどりの窓口で切符を買い、ここに来る時に行き先を告げ、そして実は背中を押してもらったのだという紅芙蓉と紅式部に何やらいかにも女性向けといった感じの洒落たお菓子の土産を買っても、まだ時間は余っていた。
その話を聞いて、紅梅に協力者がいたことを知った弦一郎は、ほっとする。彼女は、本当にたった一人でここに来たわけではなかったのだ。彼女の側に自分以外の男がいないのはおおいに歓迎だが、誰も支えてくれる人がいないというのは受け入れ難い。
「いっつも良ぅしてくれるんよ」と、本当に感謝しているという声で言った紅梅に、弦一郎も安心し、そして同じように、二人に対して感謝を抱いた。
「今日、学校だけやのぉて、お稽古もさぼってもぅたし」
「そうなのか」
「へぇ。……一日お稽古せんかったん、はじめて」
苦笑して、紅梅は言った。だからこそ、一日くらいサボったところで誰も文句は言わないだろう、と今回豪快に背を押したのが紅式部であったこと、普段から彼女は紅梅の制服のスカートが長すぎて野暮ったいとか、もっと遊んだほうがいいとか言ってくるのだ、という紅梅に、弦一郎は大きな共感をもって頷いた。
「そうか。俺の兄も、俺に同じようなことをよく言う」
「信兄はんが?」
「ああ、お前は真面目過ぎる、もっと遊べと。時々は実際に引っ張り回されるな」
映画や、サーフィン。時に名前も知らないバンドのライブにまで連れて行かれたこともある、と肩をすくめる弦一郎に、紅梅はくすくすと笑う。
「ほんま、おんなじやねえ。……ありがたいことや」
「そうだな」
そんな話をしながら、二人は改札からそう遠くない、外であるがショッピングモールの冷房が吹き込んで少し涼しい、壁際に立った。距離を開けて、トランクを持って携帯電話をいじっている人が何人かいる。
ちらり、と弦一郎がまた紅梅のほうを見ると、紅梅もまた、弦一郎を見ている。しかも彼女が不意に手を伸ばしてきたので、弦一郎はぎょっとして目を見開く。
だが彼女が触れたのは弦一郎ではなく、弦一郎が背負っているラケットバッグにぶら下げられた、黒い小さなお守りだった。
「──負けたんやて? 関東大会」
静かな声で言った紅梅に、弦一郎は、「……ああ」と、沈痛な声を出す。紅梅は全く弦一郎には触れていないのに、肩口の後ろでお守りをいじっているのが、どうにもこそばゆいような感じがして、弦一郎は色んな意味で居心地が悪かった。
「しかも、何や変なテニスしたて」
「……うむ」
「あほやなあ」
しょうがないなあ、とでもいわんばかりの柔らかい声に、弦一郎は、肩の力が抜けるようだった。
──ああ、甘えている。そしてこうしてもらえるのを自分は欲していたのだと、弦一郎はいいかげんはっきりと自覚した。他人に厳しく、そして自分には更にどこまでも厳しい弦一郎が唯一求める、無様なほどの甘ったれた部分に、彼女が優しく触れてきてくれることの、なんと情けなく、そしてなんと心地いいことか。
「ほな、次は、勝つな?」
そう言った紅梅に、弦一郎は、息を詰まらせた。難しい顔で何も言わない弦一郎に、紅梅は笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「なんや、どないしたん」
「……あの試合」
弦一郎は、ぼそぼそと話しだした。
常勝の掟を守るために、必ず勝つために、自分のテニスを捨てたこと。そしてそうまでしても勝てなかったこと。今考えても明らかに格下の相手だったのに、未だになぜ負けたのかよくわからないこと。
喧騒の中、内緒話をするような、低い声で話す弦一郎の言葉を、紅梅は黙ってじっと聞いていた。
「……弦ちゃん、ちょっと、しゃがんで」
「は?」
「うまいこと届かん」
突然の紅梅の要望に疑問符を浮かべつつも、弦一郎は素直に腰を落とした。紅梅の顔が、近くなる。そしてその柔らかい笑みが目前になったとき、白い手が顔に伸びてきて、どき、と、弦一郎の胸が鳴った。
──べちっ。
「……あ?」
間抜けな音を立てて打たれた自分の頬を、弦一郎は、呆然とした様子で押さえた。
「自分のテニスする言うたに、約束破ったし。鉄拳制裁や」
そう言った紅梅は、どや顔だった。しかし鉄拳というにはあまりにも柔らかい感触、むしろ初めて紅梅に顔に触れられたことに、弦一郎はどきどきして顔を赤らめる。
「あほやな。ぐだぐだ言うて」
「む……」
「負けてもうたら、次勝ったったらええのや」
「しかし」
口答えをしたら、また、べちっと反対側の頬を叩かれた。ふわふわの手のひらの感触。癖になりそうである。
「自分のテニスせんで、負けたんやろ」
「……そうだ」
「ほな」
紅梅は、まっすぐに弦一郎の目を見た。至近距離、吸い込まれそうな目。
「次は、自分のテニスして勝ったらよろしおすのやないの」
その言葉に、弦一郎は、はっとした。目の前が開けたような気持ちになった。
「……そう、か」
そうだ、自分は本当に、何をぐだぐだとくだらないことを言っていたのだろう。考えてみれば、これほど簡単な話もないではないか。
「あんたはんは、誰やの。王者立海大付属の、皇帝、真田弦一郎はんどすやろ」
「……ああ」
「しっかりしぃ」
まったくだ、と、弦一郎は苦笑した。
彼女との約束通り、己の信念を貫き、己のテニスでもって、勝つ。そうすれば、何も問題はない。ただの勝利ではない、何の曇りもない完璧な、栄光に溢れた勝利を得てこそ王者にふさわしいのではないのか。
考えれば考えるほど、これ以上の答えはないと、弦一郎は確信した。霧が晴れ、真っ直ぐな一本道が見えるような心地。だからこそ、金色に輝く道に、弦一郎は、今度こそ何の未練も感じなかった。
そうだ、自分の道は、この道だ。
「……ありがとう、紅梅」
弦一郎が心から言うと、彼女が、満足そうに微笑む。
「ほな、次は、勝つな?」
「ああ」
弦一郎は、紅梅の目を見て、はっきりと頷いた。
「次は、勝つ。必ずだ」
勝たねばならぬ、ではない。勝つと、弦一郎は、今度こそ宣言した。
──俺達は、勝つ為に来た!
──俺は、絶対に負けない
──勝つのは、ボクだ
弦一郎は、自分たちに勝った青学のメンバーの言葉を思い出す。
大石秀一郎、乾貞治、不二周助。そうだ、彼らは皆、己が勝つのだと、はっきりと口にしていたではないかと、弦一郎は今になって気付いた。
言霊。口に出して宣言することで、それを実現し、運を呼び寄せる、奇跡などではない確かな力を、彼らは確かに引き寄せていたのだ。
──俺は、アンタに勝ってやる!
そして、越前リョーマもまた、そうだった。
ああ、だから己は負けたのだと、弦一郎はストンと納得する。そして今、必ず勝つと魂の底から宣言した今、次に己が負けることはないと、強く確信した。
そう、何故負けたのかさえわかれば、次に負けることはない。土台が崩れかけた城が、蘇る。弱点を払拭し、強いところをより強くして、次の敵を迎え撃つ。
「うちは、勝っても負けても、弦ちゃんのこと好きやけど」
蕩けそうなほどに甘い、彼女の黒い目が、細まる。
どこまでも心地よい柔らかな甘さに溺れそうになる中、彼女は続けた。
「そやけど、まあ、勝ったほうが、格好良ろしわなァ」
「……ふ」
弦一郎は、思わず笑った。
いつもこうだ。彼女はこうしてどこまでも心地よく自分を甘やかし、そしてその柔らかい手で、自分の背をしっかりと押してくれる。無闇矢鱈なポジティブというわけでもなく、正面から反論するというのでもなく、むしろ全てを肯定した上で、さらりと、そういえばそうだと素直に納得できるような考え方でもって、彼女は絶望を覆す。覆してくれる。
ああ、彼女がいるから、自分はここまで来れたのだと、弦一郎は、今まで歩いてきた道を振り返った。そしてこれからも、己は己の道をゆくのだと、弦一郎は覚悟を決めた。
勝っても負けても、彼女は己を好きでいてくれる。
そしてそんな彼女にこそ、誰よりも格好いいと思われたい。ならば見事勝ってみせようではないかと、弦一郎は、己の中の炎が燃え上がっていくのを感じていた。
──三番線に到着の電車は……
新幹線のアナウンスが響き渡る、新幹線のホーム。
見送りのための入場券だけを購入した弦一郎は、紅梅と並んで立っていた。
「弦ちゃん、このお守り……」
「ああ」
弦一郎は、自分のラケットバッグから、この一年間も散々世話になった、黒いお守りを外した。同時に、紅梅が鞄の中から、大事そうに袱紗に包んだものを取り出す。言わずもがな、新しいお守りだった。
新しいお守りを持っている紅梅に、古いお守りを渡す。彼女は、まるで何かの作法か儀式のような仕草で、端のほつれたお守りを、袱紗の中にそっと仕舞って鞄の中に入れた。
「……実際、このお守り、あんまり効果はないと思うんよね」
突然、紅梅が言った。
「神様んこと信じとおへんわけやないけど、お願いを叶えてくれるもん、ていうふうには教わっとおへんしなあ」
彼女曰く、神へ捧げる祈りとは、宣言であるという。これからこのように頑張りますので見ていてくださいませ、と誓う行為。
それを聞いて、弦一郎は、なるほど、と思った。弦一郎も、神頼み自体には全く期待をしていない。しかし、漠然とだが偉大で神聖な存在に目標を宣言するというのは、言霊の力を信じる弦一郎にとって、とても納得の行くものだった。
「そんでな、全力で練習して、全力で本番こなしても、……運、いうのは、あるえ。そういう時、やっぱり、大事なんは気持ちやから。強い気持ちが運を呼ぶことて、あるやろ?」
「そうだな」
わかる、と、何度も大試合をこなしてきた弦一郎は頷いた。そして紅梅もまた、紅椿の後継として何度も舞台に立っているからこそ、その言葉には実感を伴った重みがある。
「そやからこのお守りは、……うちの、気持ち」
紅梅は、自分の手のひらの上に、そっとお守りを乗せた。
「百回、弦ちゃんが勝てますようにて、思った気持ち」
「……ああ」
「戦うんは弦ちゃんやけど、うちも応援しとるて、思い出して」
「ああ」
弦一郎は、震えた。彼女の百度の祈りが、側にある。万人に平等だろう、あるのかないのかわからない神のご利益に比べ、彼女が渡してくれたそれは、自分だけと心が通じているからこそ発揮できる、確かなものだ。そのことの、なんと心強く嬉しい事か。
弦一郎が差し出した右手に、紅梅が、そっとお守りを乗せる。そしてその柔らかな白い両手で、弦一郎の手を包んでお守りを握らせた。陽に焼けた己の肌と彼女の白い手の、冗談のようなコントラストを、弦一郎は、貴重なものでも見るかのようにじっと見つめる。
「──勝てますように」
お守りを握った弦一郎の拳に額を近づけ、紅梅が目を閉じた。その仕草こそ、まさしく祈りだった。最後の祈りを込めるその儀式を、弦一郎は、神聖な気持ちで受け入れる。
「弦ちゃんが、ずっと自分のテニス、できますように」
紅梅が祈りを呟くと、その僅かな吐息が、拳にかかる。その度に、弦一郎は祝福されているような気がして、どうしようもなく高揚する。まったく負ける気がしない。
じっと、紅梅はそのまま動かない。例年よりも明らかに長い祈りの時間を、弦一郎は壊さぬように黙った。
(……離れたく、ない)
次会えるのは、いつになるだろう。一年後の夏、また会えるのだろうか。だがもし会えるとしても、一年の、なんと長いことか。冗談抜きで気が狂いそうだと、彼女も、そう思ってくれているのだろうか。
「紅梅……」
何か、言おうとした。しかしやはり何の気が気が利いたことも浮かばず、ただ熱っぽく名前を呼ぶことしかできない。
──まもなく、発車いたします……
アナウンスが響いた、そのとき。
弦一郎の手の甲に、ふわりと、途方も無いほど柔らかい感触が降った。まるで暖かな雪が落ちたかのようなそれが何か、弦一郎はすぐ理解できず、目を丸くし硬直する。
顔を上げた紅梅は、真っ赤だった。涙目に近いほど潤んだ目。そして、いま弦一郎の手に触れただろう、ふっくらとした小さな唇の艶やかな赤さが、弦一郎の脳裏に焼き付いた。きっと一生焼き付いたままだろう。
白い手が、離れていく。美しい折り目のついたスカートが、黒髪が翻り、小走りに新幹線のドアの中に吸い込まれていく。
弦一郎は、ただただ呆然と、お守りを握ったままそれを見送った。
ジリリリリリ、と、発車ベルが鳴る。ドアが閉まった。
ガラスの向こう、真っ赤な顔を両手で覆った彼女が見える。新幹線が、ゆっくりと動き始める。
轟音をたてて新幹線が西へ走り去った後、ホームに残されているのは、顔どころか全身真っ赤になって硬直している弦一郎だけだった。