心に曇りなき時は心静かなり
(四)
弦一郎さま

早速のお手紙、ありがとうございます。無事、帰宅いたしました。
新幹線で行き来すると、やはり神奈川よりも京都のほうが暑いことがよくわかります。四季の差が大きいことは豊かな情緒を感じやすいところでもありますが、夏暑く冬寒いということでもあり、実際に住んでいる地元の者としては、やっていられないと思うことも多くございます。

 …………

気持ちを告げていただけたことが言葉では表せないほど嬉しいあまり、帰ってからいろんな方からのお叱りもさほど堪えませんで、庇ってくれようとなさった姐はんたちに呆れられました。
とはいっても、想像していたより叱られず、むしろ「おまえでも突然休むことがあるのか」と言われたことのほうが多く、次からは気をつけろと言われるだけで済むのがほとんどでした。しかしこれが初犯であるからだというのもわかっておりますので、皆様からの信用を失わぬようより精進してまいる所存でございます。

 …………

せぇちゃんのことはとても驚き、また、病気の大変な時に私だけが変な勘違いをしたままであったことは、正直あまり良い気持ちではありませんでした。
難しい病気が快癒した喜ばしさに免じてもう結構ですが、今度から、へんな嘘はつかないでくださいませ。
弦ちゃんとせぇちゃんの仲がどのようなものか悶々としたのが本当にばかばかしい、と今は思っておりますが、私は、あなたの言葉をこれからも少しでも疑いたくありません。私を好きと言ってくださった言葉を、これからも信じさせてくださいませ。

 …………


 …………

今回は、弦ちゃんからのお手紙や、月間プロテニス、また蓮ちゃんから聞く立海の皆様と実際お会いでき、とても楽しゅうございました。
ひとつ気になったのが、立海では、制服のシャツの裾はズボンの中に入れないのが正しい着方なのでしょうか? 弦ちゃんが着崩しているだけかと思っておりましたら、みなさま誰もシャツを裾に入れていなかったので、ふしぎに思いました。
紅式部姐はんやクラスの方々などは、きちんとしすぎているのも野暮ったい、とおっしゃるのですが、私はお着物は着崩しの良し悪しがわかっても、お洋服はあまりよくわからないので、きちんと着ているのが一番良く見えます。
弦ちゃんは背が高くて体格も良く、立ち方がまっすぐなので、シャツを入れたほうが格好いいように思いましたが、他の方々にとってはそうではないのでしょうか。
でも、冬服ならばブレザーがあるのでシャツも入れるでしょうから、いつか冬服姿を拝見したいです。

 …………

別れ際のことは、別れるのがついたまらなくなって、ごめんなさい。忘れてください。でも嫌だと思わないでいてくれて、うれしいです。

 …………

本当に、会いに行ってよかった。
弦ちゃんが、これからも、自分のテニスができますように。
全国大会、おきばりやす。

紅梅 






「幸村ァアア──!! 俺を殴れ!!」
「よしきたそこへ直れ爆発しろ!!」

 紅梅を送った後、面会時間ギリギリに病室に飛び込んでくるなり真っ赤な顔で叫んだ弦一郎を、即座に精市が殴り飛ばした日から、数日。

 八月十四日。
 夏休み中であるがいつも通り早朝四時に起床し、朝稽古を済ませ朝食を摂った弦一郎は、一旦自室に戻り、登校のための準備を整えていた。
 持ち物をチェックし、ラケットバッグのファスナーを閉める。そこに付けられた新しい黒いお守りに指先で軽く触れてから、ふと弦一郎は右手を何度か握っては開き、を繰り返す。

(……イップス、か)

 イップス。極度のプレッシャーからくる緊張により、己の身体を思うように動かせなくなる現象のことだ。手足がしびれ、全身が硬直や震えを起こし、プレイのミスを誘発するという、テニスに限らないあらゆるスポーツ、またそれ以外の場面でも見られる現象である。
 精神的な問題が肉体へ影響を及ぼすという、まさに病は気からというべきその現象は、数多くの名選手をスランプに陥らせ、長引けば引退にすら追い込む恐ろしいものだ。
 先日、精市との試合でブン太が陥ったのはこのイップスであろう、と蓮二が断じ、そしてそれは、精市の経過を見ている医者たちも同意したことだった。

 ──精市は、対戦相手をイップスに陥らせることができる。

 以前から、その兆しはあった。かつて幼いころ、精市は、己と対戦した者達がテニスを辞めてしまうことが相次いだため、その圧倒的な才能を伸ばせるだけの環境がないからというのを建前の理由にして、弦一郎がいるテニススクールにやって来た。
 精市のあまりの強さ、あまりの才能は、凡人たちに「この先に行っても意味は無い」と思わせる。いくらやってもあの頂に至ることはできないのだという絶望が、テニスを始めたばかりの子どもたちの心を折り、時には努力を始めた選手たちの志をも叩き潰す。
 試合の途中で心が折れ、戦意を喪失してしまい、最後まで試合ができず膝を折る者たちを、弦一郎は何度も見てきた。泣きながらコートから逃げる者、その場で蹲る者、ラケットを地に叩きつける者。いずれも、二度とスクールには現れなかった。試合をせずとも、そのプレイを見ただけで来なくなった者すらいた。

 そこまでのものを人に与える、神の子と言われるまでの天賦の才に加え、生きるか死ぬかという経験を乗り越えた彼のテニスには、想像を絶するほどの凄みと、また実際に人にはっきりと、イップスという形で影響を与える、もはや呪いと言ってもいいほどのものが備わったのである。
 テニス自体を失いかけて蘇った精市のテニスは、相手から、生きるための五感を、テニス自体を奪うことができるようになっていたのだ。

 驚くべきその事実を受け入れるのに弦一郎たちも時間がかかったが、精市が対戦する相手全てがそうなっては、認めるしかなかった。
 しかもそれは、腕が動きにくくなるとか、走るのが遅くなるとか、その程度のものではない。目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、鼻がきかず味もわからず、何も感じない暗闇に放り込まれたようになるのだと、精市と対戦した全員が、絶望の滲む怯えた声で言った。

 イップスは原因がメンタルにあるため、本人がどうにかして乗り越えるしか治る術がない。幸い、ブン太は元々の気持ちの強さとダブルスパートナーであるジャッカルのおかげで一時的な症状で済んだが、元々実力差のある下級生などは未だに立ち直れていない者もいる。

 そしてこのイップスに、手塚国光も陥っているのではないか、と、60パーセントほどの確率だが、と前置きしてから、蓮二は言った。

 イップスに陥る原因はそれぞれ千差万別であるが、故障をきっかけとしたイップスは実際に多い。
 体を痛めた時の記憶、そして肉体的に完治しても、また再発したらという恐怖から体をうまく動かすことが出来ず、そしてそのぎこちない振る舞いが、結局また怪我を呼びこむという悪循環。
 国光本人に聞いたわけではないが、彼の怪我の頻度を客観的に見ると、その悪循環にはまりかけていると言っても納得できる有り様である、と弦一郎も思う。
 そして今、国光は未だ九州から戻ってきていない。蓮二曰く、九州のスポーツ医学の権威である病院で専門の治療を受けるのならさほど時間もかからず復帰できるだろう、という具合だったのにもかかわらず、だ。
(たるんどる)
 何事もまず気持ちの強さが第一だと、弦一郎は当然のこととしてとらえている。気持ちがなければ全力の練習もできず、また強い気持ちがあればこそ、時に試合で実力以上の力が出せることもある。
 気持ちが弱くては、何に勝てもするものか。そう思っている弦一郎にとって、身体が万全であるのにメンタルが原因で本調子を取り戻せないというのは、まさに“たるんでいる”と評して余りある、けしからぬことであった。
 それは、つい先日まで、関東大会決勝での敗北によって、イップスとまではいかないが、あきらかに調子を失っていた弦一郎だから言えることでもあった。

 だからこそ、精市とはまた違うところでの最大のライバル、倒すべき相手、最も注目している選手と思っていた手塚国光が、よりにもよってイップスによってまたも全国大会に現れないかもしれないということに、弦一郎はぼんやりとした失望を抱いていた。──勝手なことである、という自覚もあるが。

「……うむ、よし」

 用意を整えた弦一郎は、玄関先にある姿見に映った己の姿に、ひとり頷く。
 何の変哲もない、夏の制服姿。しかし、襟元こそ一つボタンが外されネクタイは緩めてあるが、“R”の文字をデザインした立海大付属のエンブレムが胸についた半袖のシャツは、いつもと違い、ベルトを締めたズボンに、きちんと裾が入れられていた。

 立海の男子制服は、ネクタイを締め、冬はブレザーを羽織るタイプだ。
 一見するとスーツに酷似したそれを弦一郎が着ると、「サラリーマンにしか見えない」とか、深緑のそれが陸上自衛隊の標準服と似ているために「自衛官が一人混ざっている」などと飽きるほど言われる。
 そしてそれは、サラリーマンや自衛官なら絶対にしない、シャツの裾を出すという、いまどきの学生らしい、だらしない着こなしで軽減できた。
 厳密に言えば校則違反に当たるその着方は弦一郎も好きではないし、もちろん式典などの時はきちんと着るが、あまりにもからかわれすぎるのにうんざりし、あえて集団に埋没することを選んだのである。

 だがしかし、最高学年になり、厳しい立海の中でも最も厳しい男子硬式テニス部の副部長、全国トップクラスの実力で“皇帝”と呼ばれる弦一郎を軽率にからかってくる者は、もうほとんどいない。
 それに、自分は風紀委員長である。皆の見本になる姿をするべきであるし、それがサラリーマンや自衛官に見えたところで、男たるもの多少老けて見えるのは魅力の一つであるともはや確信している弦一郎は、真新しい黒いお守りが括りつけられたラケットバッグを背負い、悠々と家を出た。






 ──第XX回 全国中学生テニストーナメント全国大会 組み合わせ抽選会場

 旧校舎一階、大教室にて。
 と、立海大附属中学の正門から敷地の所々に置かれた手書きの案内板を見て進む他校の生徒や関係者たちの中、勝手知ったる、という様子で、弦一郎は迷いなく歩いていく。
 夏休み中ともあって人の少ない敷地内を進み、弦一郎は、ひとまず荷物を置きに部室に向かう。部室に入ると、居たのは同じく制服姿の蓮二だけだった。

「お早う、蓮二」
「おはよう、弦一郎。……何だ、今日はきちんとしているな」
 シャツの裾をきちんとズボンに入れている弦一郎を見て、蓮二は言った。
「うむ。一応、外部の者も集まる場であるからな」
「そうか」
 弦一郎がどこかどや顔で言うと、蓮二はさっと携帯電話を取り出し、おもむろに弦一郎の写真を撮った。ピローン、と間抜けな音をたてた携帯電話のボタンをカチカチと操作する彼に、弦一郎は怪訝な表情を浮かべる。
「おい、なぜ写真を撮った。何をしている」
「姉の携帯電話に送信している」
 そう言いつつ、やけに操作の早い蓮二の携帯電話から、シュワー、と、何かが飛び立つような音が鳴った。メールが送信された音である。
「……なぜ」
「お前がおに制服の着こなしを指摘されて直した確率、72パーセント──」
「なっ」
「……だった。言う通り、公式の場であるので今だけ服装を正すのも十分ありえたからな。だが今のお前の顔を見て、100パーセントと踏んだ。“きちんと着たほうが格好いい”とでも言われたか」
「だっ、なっ、」
 見てきたかのように言い当てるデータマンに、皇帝は金魚のように口をぱくぱくとさせた。次いで、顔色も金魚のように赤くなる。

(まあ、一時はどうなることかと思ったが、何よりだ)

 真っ赤になった弦一郎を見ながら、蓮二は、ふっと笑みをこぼした。
 関東大会決勝での敗北から調子を崩した弦一郎を、紅梅は見事立ち直らせてみせた。
 先日の、道場破りのような跡部景吾の訪問も、弦一郎は正面から受けて立ち、絶好調で迎え撃ったほどだ。今まで彼女との中を邪推したことのある相手だからというのも多少あるだろう、少々調子に乗りすぎ、危うく負けそうな兆しを作り、精市に止められていたが。

「この間のおの訪問は、俺にとっても予想外だった。それに、単純にちゃんと帰宅出来たか心配だったからな。あのあと姉にメールをして、おが無事に帰ったかどうか確認した。その返信で、弦一郎が制服をひどく今っぽく着ていたのが意外だったとおがしつこく言っていて面白かったというのが」
 着崩しているといってもシャツを出しているだけのものだがなあ、と、蓮二は薄く笑いの滲んだ声で言った。
「お固いお前ですら制服を着崩しているのだから、自分もスカートを短くするべきかどうか、と言っていたそうだ。紅式部さんは推奨したそうだが」
「ならん!!」
 鬼の形相で叫んだ弦一郎に、蓮二は薄く笑みを浮かべたまま、グッ、と息を詰まらせた。噴き出しかけたようだ。
「……安心しろ。弦一郎の好みではないぞと返信しておいたので、せんだろう」
「そ、そうか。……いや、そうではない。なぜ写真を」
「姉に送ればおも見る」
 蓮二は、パタンと携帯電話を閉じた。弦一郎は、嫌な予感がした。
「おに、お前の一言で弦一郎が現金にも身なりを変えた証拠を見せてやろうと」
「蓮二きさま」
 弦一郎が赤い顔を険しくしたその時、「はよーッス」と言いながら、ユニフォーム姿のレギュラーたちが部室に入ってきた。

「あれ、真田なんか気合入ってんな。いいくじ引いてきてくれよ」
 と、真っ先に言ったのはジャッカルであるが、その一言を皮切りに、他の面々が一斉に弦一郎に目を向ける。
「うわー、真田副部長、キチッとするとマジ中学生に見えねえッスね」
 よく通る声で言い放ったのは、やはり赤也だった。ビキ、と、弦一郎のこめかみに青筋が浮く。
 続いて、「また保護者と間違えられんぞ」とブン太、「どこからどう見ても自衛官じゃ」と言うのが雅治である。ここまで言われ放題言われれば、比呂士の「きちんとしていらして良いではありませんか」というフォローも耳に入らない。

「──やかましいぞ貴様ら! たるんどる!!」

 弦一郎はひときわ大きな声で怒鳴ったが、言う方も言い飽きたような今更の指摘で怒った弦一郎に全員がきょとんとし、蓮二はとうとう噴き出した。
 ちなみにそういう蓮二は、いつもどおりシャツを出したままである。とはいっても、スラリとした涼し気な姿に、だらしなさは全くない。モデルがいくら服を着崩してもそういうファッションなのだとしかならないように、つまりは脚が長くスタイルが抜群に良いだけだが。正真正銘の美男子にとって、シャツの裾が出ていようが出ていまいが関係ないようだった。



 要らぬひと騒ぎを起こしたせいで、弦一郎と蓮二は、抽選会が始まったぎりぎりに会場に入ることになった。
 会場に足を踏み入れると、去年の全国大会でも見た顔が多く揃っている。しかし後ろからそっと入室した二人を振り返る者は殆どおらず、弦一郎は静かに辺りを見回した。
「そういえば、結局、幸村はどうした」
 ここにいるべき部長の姿がないことに、弦一郎はなるべく小さい声量で蓮二に尋ねる。
「ああ、検査が長引いていてな」
「……何か、問題が?」
「大したことはない、検査の計器の調子が悪いだけのようだ。それに、精市が復帰することはまだ他校に知れていない。ならばわざわざ教えてやる必要もあるまい」
「なるほど」
 ならばいい、と弦一郎は頷きつつ、くじが入っているのだろう、壇上の大きな箱を眺める。
「難しい病から回復した幸村ならば、運も良さそうだったのだがな」
「そうだな。だが、恋人ができたばかりのお前もなかなかなのではないか?」
「なっ」
「そういうわけだ。任せたぞ」
 そう言って、蓮二はさっさと最後方の席に腰掛けるとノートを開き、集まった全国の顔ぶれを眺めながら何か書き付け始めた。
 全国大会に向けての早速のデータ収集を邪魔するわけにも行かず、弦一郎はしかめっ面のまま通路を進む。

「愛知代表、六里ヶ丘、前へ」
 と呼ばれて前に出たのは、六里ヶ丘部長の牛田鉄夫と、副部長の宮瀬智則である。
 六里ヶ丘は全国の常連校であり、また、取材班と呼ばれる戦前のデータ収集を専門に行う者を駆使することで有名な学校だ。データマンである蓮二が興味を持って一時期調べた学校でもあるがしかし、情報に頼り過ぎるあまりに実際の実力はいつもさほどではない、とそれこそ蓮二が解明してからは、立海ではあまり脅威とはみなしていない。
 その上、先日立海のデータを取りに来ていた取材班には、蓮二の指示で実際とは異なる適当なデータを持ち帰らせたので、もし当たったとしても楽に勝てるだろう、と弦一郎も確信していた。
「ギャハハ、今年の立海、恐るるに足らず」
「地に堕ちたな」
 ──とはいえ、そう言われて良い気はしない。

「……そういう事は、真正面向いて言え!」

 ずいと姿を表して言ってやれば、「げえっ、真田!」と声を上げて、六里ヶ丘の二人が明らかにたじろいだ。
 弦一郎がテニスだけでなく剣道をはじめとした格闘技を嗜む武闘派であることは、常勝の掟とそれに伴う鉄拳制裁が有名になり始めてから、もはや誰もが知っている。情報収集を要とする六里ヶ丘なら、更に良く知っていることだろう。
 怯えたように肩をすくめた二人は、こそこそと逃げるようにして、遠くの席に戻っていった。それにフンと鼻を鳴らした弦一郎は、彼らとは違い、中央の通路を通って、適当な席に着こうとする。

「──しんけん、中学生だばぁ?」

 響いた声に、弦一郎はぴくりとこめかみを震わせる。──落ち着け、子供っぽいと言われるよりははるかに良いことなのだから、と魔法の言葉を頭の中で自分に言い聞かせながら振り向けば、長髪なのもあって毛量の多い茶髪の上からツートンカラーのキャップをかぶった少年と、見覚えのある、黒髪をリーゼントぎみにセットした、鋭い目つきに眼鏡を掛けた人物が腰掛けていた。
「やめなさいよ、甲斐クン。ゴーヤ食わすよ」
(木手永四郎……)
 丁寧だがどこか底冷えのする口調の彼を、弦一郎は知っていた。
 全国出場経験こそ無いが、九州地区の、まず出場校自体少ない沖縄の学校である比嘉中学に所属する、ひとり非常に目立っていた選手である。試合のビデオで見た彼の隙のない動きから格闘技経験者であることを弦一郎はすぐに見抜き、蓮二の調査で実際に沖縄武術でかなりの有名人であることが明らかになった。
(今年の九州地区は、沖縄が制したようだな)
 永四郎の脅し、なのかよくわからない言葉に「あれまー」と緊張感のない声を上げた甲斐という選手は弦一郎の知らない顔だったが、その体つきや、拳に出来た独特の胼胝などから、彼も格闘技を収めているのだろうことを弦一郎は察した。

「立海大付属中学、前へ」

 何校かがくじを引いた後、いよいよ立海大付属が呼ばれた。
 はい、と返事をして、弦一郎は壇上に登る。そして、いかにも厳粛な様子でくじを引けば、見事、一回戦は不戦勝で勝ち上がれる調整枠だった。言わずもがな、全員が求める有利な枠である。
 引いたくじを係に渡した後、弦一郎は目を閉じ、右手の甲を左手でそっと覆った。

 ──やはりこの手は、祝福されている。

 と、精市あたりが聞けば口をひん曲げそうな、そして蓮二でさえ呆れ果ててデータの一片にすら加えなさそうなことを、弦一郎は半ば本気で思っている。
 あの日、手の甲に降ってきた柔らかい感触を反芻しては悶えたりにやけたりしてきたが、最近は一周回って厳かな気分にすらなってきている。この手でラケットを握れば全く負ける気がしなかったし、とにかく彼女が“触れた”この手で行うことは、何もかもうまく行くのだと、弦一郎はそう感じていた。

「──東京代表、青春学園! 青春学園、いないんですか!?」
「あっ、ハイ……、スイマセン、すぐ行きます!」
 慌てた声を上げたのは、大石秀一郎である。明らかに緊張して司会の声を聞き逃し、急に立ち上がったせいでどこか打ったらしい彼に、ドッと笑いが起こる。
 その姿に、たるんどるわけではないがどうにも覇気が足りん男だ、と、弦一郎はため息をつく。関東大会で「勝つために来た」と弦一郎に真正面から宣言し、菊丸英二との見事なダブルスを見せた彼に、弦一郎はあれ以來密かに一目置いているのだが、実際の姿を見ると、どうしても頼りなさが目立つ気がする。

「大石……、それは俺に引かせてくれないか」

 ざわついた空間だったからこそ、その凛とした声は、大きくないにもかかわらずよく聞こえた。
 聞き覚えのある声に、弦一郎は振り返る。
「──手塚っ!!?」
 一番後ろのドアを開けて立っているその姿に、誰かが言う。彼がまた怪我を抱え、治療のために東京を離れたことは、テニス関係者なら誰でも知っていることだった。そしてだからこそ、国光抜きの青春学園にもはや勝利はありえないと誰もが思っており、そして王者・立海大付属を倒し見事優勝したのは、ダークホースもいいところだった。
 しかも、秀一郎が驚きの後に喜色を浮かべ、「手塚、お前いつ東京へ……?」と言っているあたり、彼は誰にも知らせずいきなり戻ってきたらしい。
 国光は黙って中央の通路を降り、前に進む。その堂々とした姿に、「アイツあれだろ、プロからも注目されてるって奴!?」と、彼を初めて見るらしい一、二年生あたりから声が上がる。

「バーロー、手塚国光がなんぼのもんじゃ」

 やたら大きな暑苦しい声で言ったのは、弦一郎らが立海に入る前の王者であった牧ノ藤学院の部長、門脇悟である。
「ワシのスーパーテニスをもってすれば……」
「止めておけ」
 割り入ったのは、相反して清涼な声である。景吾だった。氷帝学園は関東大会の一回戦にて青春学園と対戦し敗退したが、開催地からの推薦枠として選ばれ、全国への切符を手にしている。
「テメェじゃ十五分もたねぇぜ、門脇。なぁ樺地?」
「ウス……」
「じゃかーしい、跡部」
 集まった選手たちの中、特に三年生、時に二年生は、昨年同じく全国大会を戦ったことから面識があることも多い。彼らもそれに当てはまり、この程度の軽口は珍しくなかった。
 そしてほうぼうで国光に対するやりとりがされる中、当の国光が、トンと軽く跳ぶ。何かを避けたような動き。
「……随分長い脚だな」
 国光が向けた目線の先には、浅黒い肌にドレッドに近い髪型、さらに太いフレームの個性的な眼鏡をかけた、明らかに日本以外の血の濃い容貌をした男が座っていた。聖イカロスの、リチャード・坂田である。「AHAHAHAHA!」と日本人らしくない笑い声を上げた彼は、国光を転ばせようと通路に付き出した脚を、隠そうともしていない。彼としては、ちょっとした“ちょっかい”のつもりなのだろう。
 いよいよ役者が揃ってきたって感じだね、と言ったのは、清純だ。

「どうやら、手塚は間に合ったようだな」
 壇上に進む国光を見ながら、蓮二が言った。
 イップスは乗り越えたらしい、と暗に言う彼に返事をせず、弦一郎は一度目を閉じて、右手の甲に、左手で触れた。震えが、背中を駆け登るのを感じる。武者震いだ。
(やはりこの祝福は、俺に運を呼ぶ)
 あの日手塚国光に敗北してから、彼と戦うチャンスを何度も目前で逃し続けて、結局三年待った。そして今年もだめかと思い、だがこうしてギリギリで、そのチャンスがついにやってきたのだ。
(俺は、勝つ。今度こそ)
 心に炎が湧き上がり、浮き立つのを感じる。ああいかん、抑えなければと、弦一郎は右手を握り直しながら歓喜を抑えこむ。

 そして弦一郎は、国光を見た。壇上に上がろうとしている彼の姿には、不調を押して無理に出てきた、という様子は特に見受けられない。
 しかしやはりここまでぎりぎりになったということは、何かあったのだろう。そして、ぎりぎりになって立ち直ったのだろう。──己が、彼女によってそうしてもらったように。
 フン、と鼻を鳴らして、弦一郎は踵を返した。

「……たるんどる」
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BY 餡子郎
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