心に曇りなき時は心静かなり
(二)
「……まあ、とりあえず部屋に入りなよ」
他の人に迷惑だしね、と続けた精市に従い、皆ぞろぞろと精市の病室に入っていく。弦一郎だけは一歩後ろに下がり戦略撤退をしようとしたがしかし、常にチームメイトたちの誰かが見ているという状況で、それを為せるわけもない。
どうするのか、という顔で自分を見上げる紅梅とチームメイトを一度見比べた弦一郎は、なんとも言えない、覚悟とは程遠い情けない顔のまま、結局流されるように病室に足を踏み入れたのだった。
真田弦一郎が突然連れてきた、謎の女子。
その姿に皆がまじまじと視線を向ける中、その本人は怯えるでもなく、緊張している風でもなく、ほわんとしたマイペースさで、蓮二に勧められた丸椅子に、きちんと背筋を伸ばして綺麗に腰掛けている。その隣に座った弦一郎のほうが、よほど居心地が悪そうだ。
「弦ちゃん」
「な、なんだ」
話しかけられて、びくり、と、弦一郎が肩を揺らす。
「お見舞い、渡して」
言われて、弦一郎は、そういえば、と、すっかり忘れていた、いかにもお土産、見舞い品といった風情の、アイスクリームの詰め合わせの袋を持ち上げた。
見舞いなどいらんと弦一郎は言ったのだが、アポイントメントもなしに出向くのならば余計に必要だと紅梅が頑として聞かず、ここに来る途中で彼女が購入したものである。
「何だ、わざわざ買ってきたのか」
弦一郎からアイスクリームを受け取った蓮二が、中を覗き込みながら言う。
「冷凍庫あるて、弦ちゃんから聞いたし。今日、暑おすしなァ」
「気を使わなくても良かったのに」
精市が言った。最初の頃はまだしも、最近はわざわざ見舞い品を持ってやって来る者の方が少なかったし、むしろその度何か持って来られても消費に困るしお返しにも気を使う、と、精市も家族も遠慮していたので、いかにもという感じの見舞い品は久々だった。
「そういうわけにも……」
「ありがとう。人数分あるし、いま食べようか。みんな、梅ちゃんにお礼言って」
途端、あざーっす、サンキュな、ごちそうになります、と声が上がり、紅梅はにこりとして小さく頭を下げた。病室の中は涼しいとはいえ、真夏の日のアイスクリームの差し入れは皆嬉しいらしく、それぞれ好みのフレーバーに手を伸ばした。
「……で」
チョコレートのカップアイスをひとくち食べた赤也が、プラスチックのスプーンをくわえたまま、じろじろと紅梅を見て言った。無遠慮な態度であるが、アイスクリームのせいか、警戒している、というほどではなくなっている。
「副部長。結局、このヒト誰っすか?」
「う」
全員の目線が、弦一郎に集まる。潰れたような声を出した弦一郎は、左手に抹茶アイスのカップ、右手にプラスチックのスプーンを持ったまま斜め下を向いて黙りこくっていたが、やがて視線に耐えられなくなったのか、口を開いた。
「………………うえすぎ、こうめ、だ」
「お初にお目にかかりおすえ、よろしゅうお頼申しますぅ」
唸るような声で紹介された紅梅は、弦一郎とは対照的ににこりと微笑むと、椅子に座ったまま、深く、そして美しく頭を下げた。「あ、ども」と、律儀なジャッカルがスキンヘッドに手を当てて頭を下げ返す。
「や、名前はわかったけどよ。どういう関係なんだよ」
ブン太が口を出すと、何人かが、うんうんと頷いた。しかし弦一郎は追い詰められた犯人のように目を逸らし、冷房が効いた中で妙な汗を流すばかりで、一言も口を開かない。
「彼女は」
だんまりの弦一郎への助け舟か、それとも単に痺れを切らしたか、そう言ったのは、大納言小豆のアイスクリームを手に持った蓮二だった。
「弦一郎の幼馴染だ。俺とも面識があって、今では家族ぐるみで付き合いがある。京都に住んでいるので、実際に会う機会は多くないが」
「古風な言葉遣いだと思っておりましたら、やはり京都の方でしたか。……はて、京都というと確か、柳君のお姉さんは京都で舞妓さんをしていらっしゃると……」
推理小説やミステリーを愛する比呂士が、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら言う。蓮二が、頷いた。
「その通り、彼女は俺の姉が所属する置屋の娘だ。というか、姉は弦一郎経由で彼女に口を利いてもらって舞妓になれたようなものでな。姉や俺たちにとっては大恩人でもある」
ほおお、と、比呂士だけでなく、他の面々からも声が上がる。
「それはそれは。ああ、申し遅れました。わたくし、柳生比呂士と申します」
「へぇ、ご丁寧に」
そのやりとりを皮切りに、一人ずつ名乗り、自己紹介が始まった。紅梅はそれにいちいち頭を下げ、最後にうんと頷く。
「やぎゅはんと、におはんと、丸井はんと、ジャッカルはん、赤也どすなァ」
京ことば独特の発音、さらに「はん」という接尾語をつけて呼ばれた一同、なんだか新鮮な気持ちになった。ちなみに、赤也は年下だということで、呼び捨てでいい、と、赤也ではなく、周囲が言ってその呼び方になった。
紅梅は男性を呼び捨てるのが初めて、というよりも男の後輩を持ったことが無いため、新鮮な気分であるらしい。珍しげに自分をジロジロ見回す赤也に嫌な顔もせず、むしろにこりと笑いかけた。
「な、何スか」
自分の目線に怯まないどころか笑いかけてきた紅梅に、赤也は困惑したようだった。
「へぇ、話には聞いとったん、本物やァと思て」
「は?」
「弦ちゃんが、えろぅ手ぇ焼くて言うてはったん」
「ちょっと副部長! 何言ってんスか!」
「うるさい。事実だろうが」
目を細めて、どこか面白そうに言う紅梅に、赤也は弦一郎に声を上げた。
「そやけど後輩の中ではいちばん見どころある、厳しゅうすればするほど上達するし嬉しいいうんも、よう言わはるえ」
「えっ」
にこにこと微笑みながら言った紅梅の言葉に、赤也がきょとんとする。その他の面々も、目を丸くしていたり、興味深そうな顔をして弦一郎を見ていた。
「え、……いやいや、嘘っしょ。真田副部長がそんな事」
「嘘とちゃうえ?」
「えええええ、でも副部長、俺を褒めたことなんか一回も……」
「ほぅなん? 弦ちゃん、よう人のこと褒めはるえ? 他にも……」
「──紅梅!」
弦一郎が、声を上げた。一応は怒鳴り声と分類される音量であったがどこかへなへなとしたその声は、まったく迫力がない。同じくその表情も、思い切り眉間に皺が寄ってはいるものの、顔色が赤くては全く意味を成していなかった。
「よ、よ、よ、余計なことを、い、言うな」
「へぇ、かんにん」
紅梅はにこにこ顔のまま、あっさりと黙った。「えー? 興味あっけど」と、ストロベリーのアイスクリームを食べながらブン太が言う。
「そうだな、弦一郎が裏で俺たちをどう評価しているのか……実に興味深いデータだ。お梅、あとで聞かせてもらおう」
「蓮二……!」
弦一郎が睨むが、蓮二は実に涼しい顔である。むしろ、口の端が持ち上がり、にやにやしていると言ってもいい。「弦ちゃん、アイスが溶けるえ」と、紅梅が呑気なことを言った。
「それで……、ええと……」
少し会話が途切れた時、紅梅が、ちらりとベッドを見ながら言った。
その視線に気づいた精市もまた、彼女を見返す。視線が、かち合った。
「…………ゆきむら、せいいちはん?」
「うん。久し振りだね、梅ちゃん」
「梅ちゃん……」
紅梅は、首を傾げた。その傾いた頭の周りに、疑問符が沢山飛んでいるかのようだ。
「せぇちゃん、せい子ちゃんは……、妹はん、どすな? 精市はんは、お兄はん……」
「いや、それ違うんだ。ごめんね」
「へぇ?」
ますます疑問符を増やして首を傾げる紅梅に、事情を知らない面々も首を傾げ始める。そして、助け舟を出したのは、やはり蓮二だった。
「お梅。幸村せい子という人間は、存在しない。お前が“せぇちゃん”と呼ぶ幸村せい子は、この幸村精市だ」
「へ?」
「つまり、……“せぇちゃん”は、男だ」
紅梅は、きょとんとした顔で精市を見た。そしてしばらくまじまじとその姿を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……ほぅなんか。へぇ、びっくりしたけど、ほぅか」
「うん。わかりにくい嘘ついて、ごめんね」
「ううん、ええんよ。言いにくいことかもしらんし」
その発言に、「ん?」と、精市を含めて皆が僅かな違和感を感じた。が、紅梅はにっこりしたまま、続ける。
「男はんでも、相変わらず別嬪はんやしなァ」
「あ、え、うん、そぉ?」
「へぇ」
紅梅は、何もかもを受け入れる菩薩の笑みを浮かべている。そんな彼女のリアクションに、いま頭の周りに疑問符を浮かべているのは、精市のほうだった。
「男はんでもおなごでも、せぇちゃんはせぇちゃんやし」
「……お梅。ちょっといいか」
蓮二が、会話に割り込んだ。
「お前、何か勘違いをしていないか?」
「勘違いて?」
「……精市は、男だ」
「そない何度も言わんでも、さっき聞いたえ」
紅梅が頷く。しかも、蓮二の発言を窘めるような声色だった。
「そうか。念のため聞くが、そのことについてどう思う?」
「どうて……。世の中いろんなお人がいてはるよって」
「ちょっと待って」
今度は、精市だった。何かを察したらしい彼は、頭痛をこらえるようにこめかみに指先を当てている。
「……梅ちゃん。言っとくけど、俺は、身も心も、男だからね?」
「へぇ?」
紅梅の目が丸く見開かれ、再び疑問符が飛ぶ。
「え? ええと、……身体は男はんやけど、ていう事とちゃうかったん?」
違う! と精市が叫ぶのと、他の全員が盛大に噴出したのは、同時だった。
「……どういうことなん?」
弦一郎を含め、全員が腹を抱えて爆笑する中、今度こそ困惑した顔の紅梅が言う。精市は、爆笑している面々をじろりと睨みながら、「ごめん」と再度謝罪を口にする。
「梅ちゃんと最初に会った時、俺、ほら、ああいう格好だっただろ」
首を傾げたままの紅梅に、精市が、苦笑して言った。
「母親の趣味で、断じて俺の趣味じゃないんだけど、えーと、恥ずかしくてさ。変な嘘ついて、真田に話合わせてもらって、後から言うに言えなくなっちゃって……。あと色々あって話っていうか設定が膨らんじゃって、その……」
だんだん尻すぼみになる精市の声に、紅梅は、呆れたような顔をした。
「なんでそないややこしいことになっとるんや」
まったくである。返す言葉もない、という感じで、精市は頭を掻いた。
「新たな勘違いが生まれるところだったな」
「ああ蓮二……感謝する。……ごめんね、梅ちゃん」
もう一度謝罪した精市に、紅梅は、ふう、と小さく息をついた。
「まあ、改めて見ると、男はんにしか見えんけど」
「そうだろ? あの時はともかく、もうどこからどう見ても男だよ、俺は」
「……さっき“別嬪さん”と言われていたではないか」
「うるさいよ、真田」
身体をくの字に折り曲げて笑いつつ突っ込んだ弦一郎の脛を、精市が、短く蹴る。
「……や、実は、妹はほんとにいるんだけどね。まだ一歳なんだ」
「一歳? そら可愛らしやろなァ」
「そうなんだよ! あ、写真見る?」
スイッチが入った精市に、今度は弦一郎だけでなく、全員が「ああ……」と声にならない声を上げる。
──こうして、せい子こと“せぇちゃん”に関わる、七年にも渡る誤解が溶けたのだった。
アイスクリームのせいか、一斉に爆笑したせいか。以降、紅梅に対する一同の距離は縮まり、各々、和やかに彼女を交えて談笑した。
「まー、そやの。弦ちゃん、部活でそない怖おすの」
「そ! 超怖ェんッスよマジ。何とか言ってやって下さいよ紅梅センパァイ」
「赤也貴様……」
その筆頭が赤也で、最初は警戒心あらわな野良猫よろしく紅梅をじろじろ見ていたものの、あの三強をちゃん付けのあだ名で呼び、常ににこやかで優しげな、京言葉を使う美人の先輩、という存在に、すっかり懐く気配を見せている。ガタガタと椅子を引いて近くに陣取り、真田副部長は普段から厳しすぎるだの何だのと、密告に近いことを次々と紅梅に報告し、猫なで声を出していた。
弦一郎は赤也が何を言うかとその度にヒヤヒヤとし、その度に赤也を睨んだが、さっと紅梅の陰に隠れてしまえばぐぬぬと唸るばかりで何も出来ない、というのをすかさず見抜いた赤也は、小狡くも言いたい放題だった。
「何とかて言われてもなァ、うち、弦ちゃんに怒られたことおへんし」
「え、マジっすか」
「へー、怒らねえんだ、真田」
「意外じゃのう」
じっ、と、全員から興味深そうな、そして生暖かい視線を向けられ、弦一郎がたじたじとなる。
「な、何だその目は! お、俺とていつも怒鳴り散らしているわけではない!」
「いや、怒鳴り散らしてんじゃん」
「それは、お前がいらん事をするからだろうが!」
「怖ー、紅梅先輩タスケテー」
「赤也ァアアア!」
椅子から立ち上がって怒鳴る弦一郎に、紅梅の陰に隠れた赤也は、べぇと舌を出した。そして二人に挟まれた紅梅はにこにことしたまま、あらぁ、とおっとりした声を出す。
「そやけど赤也、弦ちゃんは理由もなしに怒らはるお人とちゃうえ?」
にっこりして、紅梅は言った。まるで、小さな子供に言い聞かせるような声だ。
「ええ子にしとったら、怒ったりせんえ」
「えー……」
疑わしげな声を出し、実際に半目でじとりとした目を向けてくる赤也に、弦一郎はとうとう手を振り上げる。しかし紅梅は、腕を振りかぶった弦一郎を背後に、ふるふると首を振った。
「そや。ほんまは、えろぅ優しいお人やよってな」
きっぱりそう言った紅梅に、弦一郎は振り上げた拳をへにゃりと下ろし、微笑みを浮かべた彼女の横顔をじっと見る。
しかし、他の面々がまた生温かい顔で──精市に至っては滑稽に足掻く虫か何かを見るような目で自分を見ているのに気付くと、また眉間に皺を寄せた。
「……そういえば、お梅。今回はいつまでこちらにいられるんだ」
空気を仕切りなおすように蓮二が言うと、「へぇ」と、紅梅は頷いた。
「学校行かんとこっち来てもうたさかい、暗くなる頃には新幹線乗らんとなァ」
「えっ、じゃあ紅梅先輩、学校サボってきたんスか? 京都から?」
赤也が、目を丸くする。
「へェ、そやの」
「マジっすか。やばいじゃないスか」
「へェ?」
紅梅が、首を傾げる。
「学校サボって京都から神奈川来るとか、相当悪いッス。真田副部長に怒られるッスよ」
「なっ」
話を振られた弦一郎は、ぎくりとした様子で肩を揺らす。しかし紅梅はといえば対照的に、「あらぁ」と呑気な声を上げた。
「ほんまやねぇ。うちえろぅ不良やわァ」
不良とは程遠い、のほほんとした様子で、紅梅は弦一郎を振り返る。しかもその顔はいたずらっぽく微笑んでおり、何かを期待するかのようにキラキラした目をしていた。
「な、……何だ、その目は」
「怒る?」
紅梅は、首を傾げた。
「……怒る?」
椅子に座っているがゆえ、必然的に上目遣いでもう一度尋ねた紅梅に、弦一郎は、うっ、と情けない呻きを上げた。
確かに学校をサボるのは良くない、たるんどる、しかしそこまでして自分に会いに来てくれたことは嬉しく実際そう伝えたわけでいやしかしけじめとして、と弦一郎はぐるぐると思考を巡らせる。もはや、皆がどれだけ生暖かい目で己を見ているのか把握する余裕もなく、弦一郎は彼女に向き合った。
「が……」
やっと弦一郎が発した声に、皆が耳を傾ける。紅梅は、わくわくした顔で弦一郎を見上げていた。
「学校を、さぼるのは、……いかん」
「へェ」
「……うむ」
シン、と、静寂が訪れる。
「え、終わり?」「あっま……」と、ひそひそと声が上がる。しかも、紅梅はどこか残念そうな顔をしていた。
「やべえな。真田、超おもしれえ」
笑いを通り越したのか、真顔で、ブン太が言った。
「そうじゃのー、ここまで面白い真田は久々じゃ」
「皆さん、失礼ですよ」
ブン太と雅治を窘めた比呂士であったが、彼もまた、口の端がひくりと引き攣るのを押さえきれていない。
「なぁ。えーと、念のため聞くけどよ、あの二人……」
こちらはひそひそ声で、ジャッカルが、蓮二に声をかける。
「ああ、まだ正式に交際しているというわけではないのだがな。殆どそれに近いようなものだ」
「へ〜、真田がねえ」
「そう、真田のくせにね」
感心した様子のジャッカルに対し、ひじ枕をついてベッドに横向きに寝転がった精市は、心底白けたような声を出した。
「ねー紅梅先輩、メルアド教えて下さいよ! 俺、紅梅先輩ともっと話したいッス!」
三強をちゃん付けアダ名呼びという時点でただ者ではないことは明らかだったものの、特に弦一郎に対して彼女がどれだけ影響力があるのかを確信した赤也は、ずいと身を乗り出してそう言った。
「めるあど? ああ、携帯電話。かんにんなァ、うち、持っとおへんの」
「え、マジで? 真田副部長ですら持ってんのに!?」
「どういう意味だ赤也」
ぎろりと弦一郎が睨むと、紅梅の後ろに隠れた赤也は、しゃあしゃあと言った。
「だって副部長、色々ジジ臭すぎるっつーか、むしろ戦国時代からタイムスリップしてきたみてーな事言う時あるじゃねッスか。一年二年から、時々真田副武将って呼ばれてるッスよ」
「俺は平成生まれだ!!」
弦一郎がむきになって怒鳴るが、紅梅はやはりのほほんとしたまま、「あらぁ」とゆったりした声を上げる。
「そない言われてもなァ。うち京都人やさかい」
「……いや、何スかそれ。京都の人でも携帯電話ぐらい持ってるっしょ」
呆れた顔で赤也が言うが、紅梅は全く変わらないトーンの声のまま、続けた。
「赤也、知らんの? 京都で“先の戦争”言うたら、応仁の乱の事え」
「えっ」
赤也が、思わず蓮二に振り返る。蓮二は、ウムと頷いた。
「確かに、京都は幕末の戦乱、第二次世界大戦でもほとんど被害を受けていないからな。京の街が壊滅的な被害を受けたのは、応仁の乱が最後だ」
へえ、と、赤也だけでなく、他の皆が感心したリアクションをする。
「そう、そう。そやから京都はまだ黒船も来とらんよってなァ、携帯電話もあんまり普及しとおへんのや」
「へえ〜、そうなんスか」
「赤也、信じるんじゃない。お梅、これの成績は壊滅的なんだ。紛らわしいことを吹きこまないでくれ」
すかさず突っ込む蓮二に、えっ嘘なんスかと薄ら寒いことを言う中学二年生のはずの赤也と、にこにこした顔のままの紅梅。
「……とぼけた女子じゃのぅ」と、雅治が目を細めた。
「あー、でも、紅梅先輩も、あんまりイマドキっぽくねえッスよね」
失礼なことをさらりと言う赤也だったが、それには誰もが同意だった。
全く染めていない、ストレートの黒髪をハーフアップにしてリボンでとめた髪型と、膝を覆うくらいの丈のスカート、オーソドックスなデザインのセーラー服。モノクロ写真を撮って、大正時代の女学生と紹介すれば、誰も疑う者はいないのではないか、そんな風情である。
「おい、赤也」
いつもいつも古臭い、じじ臭い、何時代の人間だとからかわれては怒鳴るを繰り返している弦一郎は、紅梅が同じことを言われようとしているのにむっとして、前に出ようとした。
「まァ、うちは特別古臭い生活しとるよってな。学校でもよぅ言われるえ」
しかし紅梅はまったく気を悪くした様子なく、むしろなにか重要な事を発表するような様子で言った。
「なんて?」
「……戦前系女子、とか」
ぶはあ、と、全員が一斉に噴出する。紅梅はにっこりしたまま、ごくフラットな口調で続けた。
「失礼な話や。さすがのうちも、応仁の乱の前には生まれとおへんえ」
ふう、とため息を付いて、紅梅はいかにも嘆かわしげに言う。
「そやけど何しろ応仁の乱から時間が止まっとる京都に住んどるさかい、早すぎる時代の流れについていけんのや」
「ひー」
「そこのとこ、弦ちゃんは戦国時代まで追いついとるし、携帯電話も持ってはるん。戦国時代は生き馬の目を抜く勢いやさかい、情報が命やよってな」
「ちょ、紅梅先輩かんべんして下さい腹痛い」
当人が、ひたすら真顔なのがおかしい。赤也はもう床に座り込んで笑っているが、他の面々も同じようなものである。
そして弦一郎はといえば、時代錯誤を笑われるのではなく、逆手に取って笑わせた紅梅にぽかんとし、そして素直に感心していた。
先程も、自分は老けていると言った弦一郎に、彼女は、男なのだから大人っぽく見えたほうが良いではないか、と言った。
無闇矢鱈なポジティブというわけでもなく、正面から反論するというのでもなく、むしろ相手の言う事をも肯定した上で、さらりと、そういえばそうだと素直に納得できるような考え方でもって場を覆すという、今まで知らなかった彼女の一面に、弦一郎は感動に近いものを覚える。──惚れなおした、とも言うが。
しかも今回の話題は、弦一郎が今まで散々からかわれてきた内容だったので、非常に痛快な気分だった。なるほど、次からは堂々と、そうだ戦国時代生まれであるがそれがどうした、とでも言ってやろうか、とすら思う。
「……お梅」
皆が笑っている中、蓮二が一歩進み出る。そして、何やら折りたたんだメモを紅梅に手渡した。
「新幹線の時間を調べておいた。まだ余裕はあるが、念のためそろそろ向かったほうが良いだろう」
「へェ……」
「弦一郎、送ってやれ」
声をかけられた弦一郎は、ああ、と言って、ラケットバッグを肩にかける。紅梅は、渡されたメモを開き、じっと見つめていた。
「紅梅先輩、また遊びに来てください! 今度はもっと遊ぶッス!」
大きく手を振る赤也に微笑んで、紅梅もまた、立ち上がった。
「へェ。ほな」
ドアまで進んだ紅梅は、最後に、皆を見渡す。そして特に、精市の方を見て言った。
「──全国大会。応援しとるえ、お気張りやす」
真っ直ぐなその声に、全員が頷く。
笑みを深くした紅梅は、弦一郎とともに病室を出ると、静かに扉を閉めた。