心に曇りなき時は心静かなり
(一)
「ど、どど、どうし、どうしたのだ」
 誘われるように、しかしぎくしゃくとした動きで紅梅の側まで寄った弦一郎は、まじまじと彼女を見、どもりながらも何とかそう尋ねた。
「へぇ。今日、登校日やったんやけど、弦ちゃんは?」
「ああ……、俺も、登校日だ」
「ほぅなんか。……良ぅおした」
 本当に、幻ではないのだろうか。目の前に立ち、弦一郎に微笑みを向け、相変わらず水のように耳障りの良い声で話す彼女に、弦一郎は夢現のような気持ちだった。

「……弦ちゃん、えろぅ背ぇが伸びたなあ」

 紅梅は、弦一郎を見上げながら、はあ、と息をつき、感心した様子で言った。
「去年からもう大きおしたけど、いま百八十センチて、『月間プロテニス』で見たえ。どんだけ大きいのやろ思とったん、実際見たら、やっぱりえろぅ大きおすなあ」
「そ、そうか」
 そういう紅梅は、チビという感じはしない。それこそ、越前リョーマよりは確実に背丈はあるだろう。女子としては、まあまあ一般的な背丈だ。それでも、弦一郎より二十センチは低い。完全に見下ろす形の視界では、上半分を後ろでまとめてリボンを結んだ黒髪にできた、見事な輪状の艶がよくわかった。
 しかし、初めて見る、腕や脚が露出されたセーラー服姿だからだろうか。薄くて丸い肩や、ほっそりとした首、片手で掴んでも指が余りそうな手首など、とても華奢であるように感じた。そしてそれは、おそらく間違ってはいないだろう。
 折り目が全く崩れていないスカートは、手紙に書いていた通りに膝を少し覆うくらいで、長めだ。しかし、黒いスカートの下から伸びる健康的なふくらはぎが白く、エンブレムのついたソックスとローファーを履いた足は小さく、足首がとても細い。
 ごくり、と、弦一郎はなぜか唾を飲み込んだ。

「そ、それで……なぜ、ここに? 今年は、来られないのでは」
「へぇ、そやけど」
 紅梅は、気恥ずかしそうな様子で、目を伏せた。身長差ゆえに上から見下ろすと、彼女の睫毛がひどく長いのがわかる。
「今日、登校日で」
「……ああ」
 先ほどと同じことを、紅梅は、もう一度言った。
 確かに、彼女は舞子坂の制服姿で、通学カバンを持っている。弦一郎と同じく、いかにも今学校から戻ってきた、という感じだ。だからこそ弦一郎も混乱したのであるが、確かに舞子坂は京都の学校で、当然のことながら、神奈川で偶然学校帰りに出会うことはありえない。
「朝、出て……学校、行くはずやったんやけど」
「うむ……」
「結局、行かんとな。そのまま京都駅から」
「は?」
「新幹線、乗って」
「……はあ!?」
 素っ頓狂な声を出して驚く弦一郎に、紅梅が苦笑する。
「びっくりした?」
 紅梅が、首を傾げる。かわいい。が、それどころではない。
「お、驚くに決まっているだろう」
「そやんねえ。そやけど」
 ゆったりした口調のまま、しかし少し、目が伏せられる。

「……今日逃したら、もう会えんような気ィして」

 呟くように言った紅梅に、口を開けっ放しにして驚いていた弦一郎も、はっとした。
「……そうか」
「へえ……」
 シン、と、言葉が途切れる。うるさく鳴き喚く蝉の声と、向こうの通りを走り抜けたスクーターと思しきモーター音だけが響いた。
「……突然、かんにん」
 沈黙をどう捉えたのか、紅梅が謝罪を口にする。
「おうちの前で待っとったら、帰って来はるかなあて……。新幹線乗ってもうてから、迷惑やろかとも思たんよ。そやけど、どうしても、……ひと目だけでも、て。思ったより、すぐ来てくれはったけども……」
 紅梅はばつが悪そうに話すが、弦一郎は、病院にもテニスにもついていかなかったことを、心の底から良かったと思った。もしそうしていたら、会えていてもごく短い時間だっただろうし、この暑い中、紅梅を一人立たせておくなど考えたくもない。
「ほんに、かんにんな」
「い、いや」
 再度、紅梅が謝罪を口にする。しかし弦一郎は、今度はすぐ否定した。
「あ、謝ることは、ない。迷惑でも、ない。俺は」
 ごくり、と唾を飲み込んだが、口の中はからからで、粘膜が張り付く感じがした。

「俺は、……会えて、……会いに来てくれて、嬉しい」

 言った、と、どっと重たい達成感が、弦一郎の胸にのしかかる。しかしそれは決して不快なものではなく、むしろ言うべきことをしっかり言えた喜びが、じわじわと湧いてくるものだった。
 紅梅はちらりと顔を上げて、伺うように弦一郎を見ている。
「……ほんま?」
「う、うむ」
「ほぅか……」
 むにゃ、と口元を歪ませて、紅梅は頬を赤らめた。その仕草を、弦一郎は、死ぬほどかわいいと思う。
「うちも、会えて、うれしい」
「あ、ああ」
「会いとおしたん」
 紅梅は、しっかり顔を上げて、弦一郎をまっすぐに見た。黒目がちの、目尻が垂れた目に宿る切なげな煌めきに、弦一郎は頭がくらくらした。

「……会いとおしたんよ」

 きゅう、と、胸が締め付けられる、囁くような声だった。
 弦一郎は暑さのせいだけではない熱でぼーっとしていたが、やがて、こんなところにいつまでも立っているわけにもいかない、と気付いた。
 家の中に入れるか、しかし黙って出てきたであろう紅梅を部屋に上げて家族にどう説明すべきかと少し迷い、弦一郎は、紅梅を伴って自宅から離れた。



 住宅街であるので、喫茶店や、ファストフード店なども遠い。弦一郎が紅梅を連れて行ったのは、近くの公園だった。
 時刻は昼過ぎであるが、夏休み中であるため、近所の小学生たちが遊び回っている。
 二人は自動販売機で冷たいペットボトルの麦茶を購入し、濃い緑色の葉が日陰を作る、藤棚の下のベンチに並んで腰掛ける。今日の日差しは強いが湿気は少なく、日陰に入れば、風を涼しく感じることも出来た。

 蓋を開けたペットボトルを両手で持ち、口をつけ、少し喉を反らせて茶を飲む紅梅の横顔を、弦一郎は、つい、ぼんやりと眺めた。
 白く細い喉が、こくりと緩やかに動く。真ん中あたりで分けた、日本髪を結うために顎を過ぎるくらいまである前髪を、紅梅が細い指で耳にかける動作に、弦一郎はどきりとした。生え際のいかにも柔らかそうな細い後れ毛が、薄っすらと汗をかいて、白い額に僅かに張り付いているのが見えた。温度差の結露でできた水滴が、ペットボトルの表面できらきら光っているのが美しい。
 ああ、いつぞや竹林でも、こうして茶を飲む彼女の美しさに見惚れたものだと思い出を反芻しつつ、どぎまぎする胸を落ち着けるように、弦一郎もキャップを開け、豪快に中身を煽る。
 冷たい麦茶が喉を降りていく感覚が、心地よい。その冷たさにいくらか落ち着いた気がして、ぷは、と小さく息をつく。しかし、落ち着いたと思った心は、すぐ隣にいる彼女がじっとこちらを見ているのに気づけば、すぐに台無しになった。

「な、なんだ」
「うん? へぇ、弦ちゃん、身体も大きなったけど、お顔もえろぅ大人っぽくならはったなァて思て」
 紅梅のその発言に、弦一郎は、少し苦々しげな、見ようによっては傷ついたような顔をした。
 背丈や体格の成長の早さとはまた別のところで、弦一郎は、実年齢とはかなり上に見られることがままある。幼い頃からその傾向はあったが、せいぜい二、三歳くらいのもので、弦一郎も気にしたことはなかった。むしろ、しっかりしているという評価とセットでついてくるその言葉を、割と嬉しくも思っていたように覚えている。
 しかし特に三年生に上がってからというもの、弦一郎自身自覚のある急激な成長とともに、その“上に見られる”幅が、ぐんと上がったのだ。二十代に見られればまだいい方で、当然のように三十代と思われることすらある。テニス部の見学者や取材の者に、毎度毎度当然のようにコーチや顧問と間違えられるのには、ほとほと閉口していた。
「……まあ、……老けては見られるな」
「へぇ?」
 いじけたような色の混じった、うんざりした様子で低く答えた弦一郎に、紅梅は小首を傾げた。黒髪が、さらりと揺れる。

「男はんなんやから、上に見られる方がよろしおすのやないん?」

 紅梅がさらりと言ったそれに、弦一郎は、少し目を丸くして彼女を見た。紅梅は小首を傾げたまま、幼い頃から変わらない、菩薩のような微笑を浮かべて弦一郎を見ている。
「──そ」
 弦一郎は、思いもよらぬところから胸に風穴を開けられたような気持ちで、やっと声を出した。
「そう、だろうか」
「子供っぽい男はんよりは、大人っぽい男はんのほうが、格好ええ思うけど」
 そう言われればそうだな、と、まさに目から鱗が落ちる心地でもって、弦一郎は素直に納得した。そして、格好良い、という評価に、安堵と喜びと照れくささが混ざったものが、じわじわと染み出してくる。
「…………そうか」
 涼しい風が、汗をかいた肌を撫でていくのが心地よい。彼女が開けた胸の穴に、風がすっきりと通って行くようだった。
 おそらくこれから先、弦一郎は、誰に老けていると言われようとも全く気にならないだろう。なるほど、男たるもの、子供っぽいよりは多少老けている方が良い。まったくもってその通り、道理だと、弦一郎は内心何度も頷いた。

「うちは、そう思うえ」
「う、うむ」
「そやし弦ちゃん、元々お顔が整ってはるし」
「え、あ、そ、そう……そうか……?」
 また一口飲んだ麦茶を噴きそうになりつつも、弦一郎は困惑気な返事をした。弦一郎は自分を醜男だと思ったことはないが、特別顔の造作が整った人間であると思ったこともない。精市をはじめ、かなりのレベルで美しい男が周りにいるので、余計にだ。
「うち最初に弦ちゃんに会うたとき、えろぅきりっとした子やなァて思たえ」
 確かに、それは当時よく言われていた。しかしそれはどちらかというと幼い顔で難しい顔をしていることが多かったせいで、笑い半分に言われていたことでもある。それに何より、当時と今とではまるで顔つきが違うと評判でもあるため、弦一郎はやはり微妙な表情をした。

「いや、俺は……整っているというなら、……連二のほうが、そうだろう」
「確かに、蓮ちゃんはいかにも美男子いう感じやねえ」
「そうだな。しかし女っぽいというわけでもなく」
 身近な存在で一番美男子なのは誰かと言われれば、弦一郎は真っ先に蓮二を思い浮かべる。顔立ちが整っているのはもちろんのこと、品があって涼やかな立ち振舞をしており、それでいてなよなよしているわけでもない。
 その点、弦一郎はこの年齢になってから特に男っぽく、というよりは男臭くなり、涼やかさとか爽やかさとは遠い風貌であるという自覚がある。
 さすがに毎日限界まで鍛えているので、体つきの方にはそこそこ自信があるし、気に入っている。それこそ百八十センチあり、まだ伸びる気配のある背丈や、腹筋はもちろん背筋まで割れているのが、実は少し自慢だ。
 だがそれは機能的な話であって、見た目の話ではない。マッチョは一部でかなりモテるが、もう一部では絶望的にモテない、ということも、部活仲間からもたらされる情報で一応知っている。

「そやけど、蓮ちゃんと弦ちゃんは、ええと、たいぷ? が、違おすやろ」
「まあ、それはそうだが」
「蓮ちゃんは美男子やけど、弦ちゃんは、……へぇ」
「なんだ」
 弦一郎はどぎまぎして、少し身を引いた。

「うーん、男前、いう感じ」

 紅梅が自分の顔を眺めながら目を細めて笑みを浮かべた──、惚れ惚れするような様子でそう言ったので、弦一郎は、がっと顔に血が昇ってくるのを感じた。
「鼻が高ぅてまっすぐやし、口元きりっとしてはるし。耳から顎のとこががしってしとるんとか、彫りが深い上に眉毛とか目元がはっきりしてはって、いかにも男の人いう感じどすやろ。あれ、ちょっと昔の俳優さんみたいな」
 弦一郎が固まったまま無言になっているのを、自分の評価を信じていないと思ったのか、紅梅がまじまじとこちらを見ながら、具体的なことを言ってくる。きりっとしている、と言われ始めたばかりの口元がだらしなく歪みそうになるのを堪えながら、弦一郎は何とか口を開いた。
「ほ、褒め、褒めても、何も出んぞ」
「へぇ? まあ、見たままやけど」
 憎らしいほどけろりと、紅梅は言った。
 京の人間はとにかく回りくどいと言われるが、弦一郎は、彼女がそうであると感じたことはあまりない。むしろ、こうして素直すぎるほどに自分のことを直球で褒めるところは初めて会った時からまったく変わらないところで、そしてそこがたまらなく可愛いと思うし、叫び出したいほどに好きなところでもあった。

「男子三日会わざれば、て、ほんまやなァて、弦ちゃんに会うたんびに思うえ。そやし、うちはいっつも代わり映えのないことばっかりしとるんに、置いて行かれそぉな気ィするぐらい……」
 照れ臭さと、喜びと。どうしようもなく膨らんだ様々な感情が限界に達し、弦一郎は、紅梅を見た。眉間に思い切り皺が寄った険しい表情であったが、口元がわなわなとしている上に、頭から湯気が出そうなほど顔が赤い。

 ──俺などより、お前のほうが!

 と、弦一郎は、心の底から叫びたい気持ちだった。
 毎年毎年、こんなに美しかっただろうかと、これからもっと美しくなるのだろうかと、眩しい気持ちで彼女を見てきた。天に登っていく天女をどうしようもない気持ちで見つめるようだったのは自分のほうだと、どれだけ言ってやりたいか。
 しかし、吸い込まれるような目とはまさにこういうものか、という、まっすぐに己を見る彼女の黒く美しい目の前に、弦一郎の言葉が全て消えていく。
 かつて弦一郎は、彼女を美しいと言ったことがある。咲き誇る夏の花よりも、どんな古都の景色よりも、国宝の観音菩薩よりも、彼女が一番美しいと、何の他意もなく言えたあの頃が懐かしい。──今も変わらずそうであると、本当に思っているがゆえに。

 無言のまま、ただ、見つめ合っていた。
 照れくさそうな顔で先に目を逸らしたのは、紅梅だった。弦一郎は結局ひとことも言わなかったが、もしかしたら、その目線に色々と篭っていることが、彼女にもわかったのかもしれない。もじもじとしたような彼女の様子に、弦一郎は、なぜだか少し落ち着いた。
 ぐい、と、麦茶を一口飲む。ぬるくなり始めていた。

「……暑いな」
「ほんまに……」

 みん、ジジッ、と、近くにいるらしいセミが、失敗したような鳴き声を上げた。
 それからぎこちなく、今日は本当に暑いとか、京都と神奈川ではどちらが暑いか、ここに来るまでに迷わなかったのかなど少し雑談をしたのち、紅梅がふと言った。

「せぇちゃん、元気?」
「む? あ、……ああ、幸村か。ああ、元気だ」
「お兄はん、良ぅならはってよろしおしたなァ」
 色々とこんがらがった流れを経て、紅梅は精市のことを“せい子”という女子だと思っており、精市という双子の兄がいて、そしてその双子の兄がテニス部の部長であるという、ややこしい理解の仕方をしている。
「うむ。全国大会に間に合うよう、リハビリをこなしているところだ」
「全国……。そない急いで、身体に負担はあらへんの?」
「万全を期すため、普段から専任の看護師がつくことになっている。女性ばかりなので、やにさがった顔をしているから全く悲壮感はないぞ」
「ふふふ」
「まったく、幸村はいつも──」
「ん? せぇちゃん? お兄はん?」
「……ああ、」
 やはり面倒だな、と、弦一郎は少し目を泳がせた。
 そして数秒黙って思案した後、やがて、弦一郎は軽く己の膝を叩いた。
紅梅。病院へ行こう」
「病院?」
「ああ」
 弦一郎は頷き、そして、なにか企むような笑みを浮かべながら言った。

「見舞いに行ってやろう。喜ぶぞ」






 電車に乗り、精市がいる病院へ紅梅を連れてきた弦一郎は、慣れた様子で院内を歩く。
 精市はもう学校に通ってはいるが、入院中でもあるという特別処置中である。例のない病気であるため学校にも看護師が付き添い、経過を細かく観察しているのだ。無論、蓮二もそれによく協力している。
 それは完治に向けての治療の一環でもあり、今後同じ病気に罹るかもしれない誰かのため、未知の病気を解明するための研究でもあった。

「一回も会うたことあらへんお人やのに、うちなんも言わんで来てもぅて、ええんやろか」
 実際には何度か会ったことがある者である、と知ったらどうなるだろうかと、弦一郎はこみ上げる笑いをこらえた。
 この機会に、七年間の勘違いというか認識間違いを正してやろう、と考えた弦一郎は、ここ数日の陰鬱な気分が吹き飛ぶくらいうきうきとしていた。精市がどういうリアクションをするかは全く見当がつかないが、何にしろ面白いに決まっている。
「構わんさ、蓮二もいるしな。それに、驚かせるのも一興だろう?」
「さぷらいず?」
「うむ。それに、蓮二も驚くだろう。驚いた蓮二を見たくはないか」
「……それは、見とおみおすなあ」
 目を細めて、紅梅は、笑みを浮かべる。その笑みは、集めたデータを実践する前の蓮二ととても良く似ていた。

 杖をついた老人や、車いすの人々などに礼儀正しく会釈をしながら廊下を進むと、幸村精市、と書かれた大きめの引き戸の前に辿り着く。
 ノックをすると、「はあい」と、精市の声がする。弦一郎は、がらりと引き戸をスライドさせた。

「俺だ。邪魔する──」

 ぞ、と言い終わる前に、弦一郎は、電光石火の速さで扉を閉めた。
「どないしたん、弦ちゃん」
 弦一郎の斜め後ろに立っていた紅梅が、目をぱちくりとさせて尋ねる。弦一郎はだらだらと変な汗を流しながら、扉を閉めたポーズのまま固まっていた。
「……いや。すまん。やはり改めよう」
「へぇ?」
「よし、行こう。早く」
「え? なんで?」
 たくさんの疑問符を浮かべている紅梅の背をぐいぐい押しながら、弦一郎は忙しなく引き返そうとした。
(何故だ。何故いる)
 病院に同行したのは蓮二だけで、他のメンバーはテニスをするなり何処かに出掛けるなりしたはずだ。それがなぜ、と、弦一郎はひたすらにぐいぐいと紅梅の背を押して退場を促す。
 ──しかし。

「──なんか今女子いたんスけどォ!?」

 閉じたドアを超えて、赤也の、病院にあるまじき大声が聞こえてきた。
「ねー先輩! いましたよね女子! セーラー服の!」
「え、俺見てなかった」
「俺もー。っていうか、真田が女連れってマジで? 柳生、見た?」
 続いて聞こえたのは、ジャッカルとブン太の声である。
「ええ、見えましたよ。白いセーラー服で黒髪の、何やら雰囲気のある……」
「ピヨ。真田の斜め後ろに立っとったな。幽霊みたいじゃった」
「ちょっとやめて下さいよ!」
 比呂士、雅治の発言に、怪談話があまり得意ではない赤也が叫ぶ。

 がやがやと彼らがドアから出てこようとする気配に、弦一郎は病院であることを忘れて走ろうか、と思う。しかしその一瞬の逡巡のうちに、ガラッ!! と、勢いよく引き戸が開かれる音がした。

「あっ、いた! 副部長いた!」

 びしりと指を差してくる赤也に、弦一郎は素早く身を翻し、その背に紅梅を庇うようにして立つ。
「ちょ、いまなんか隠した! 後ろにいんの誰ッスか副部長!」
「だ、だだだだ誰もおらんぞ」
「何ウソついてんスか! 誰ッスかその女子!」
 ぐいぐいと近寄ってくる赤也とやりあっていると、「え、マジでいたの」「誰、誰」と、皆がどやどやと病室から出てきた。無論、全員、弦一郎が不自然に腕を広げて後ろに庇うものに興味津々である。
 弦一郎は、赤くなればいいのか青くなればいいのかといった様子で、ひたすらだらだら汗を流しながら、必死に紅梅の姿を隠そうとしている。
「く、来るな! 誰もおらん!」
「いやいましたよ、っていうかカバンと傘はみ出してるッス副部長。脚も見えてます」
「誰もおらんと言っとるだろう!」
 背に紅梅を庇いつつ、赤也とじりじりとした攻防を繰り広げる弦一郎に、比呂士が「ナウシカでこういうシーンありましたね」と呑気な声を上げた。

「おい真田、自分から来といて何じゃその反応。誰じゃそれ」
「な、な、な、何の話だ」
「何のて……。ほんまに幽霊とでも言うつもりか」
 だらだら汗を流して目を逸らす弦一郎に、雅治が半目になって呆れた声を上げる。

「あ」

 赤也が、目も口も丸くして指を差した。弦一郎の背後から、紅梅がひょいと顔を出したからだ。
「ほらいた! ちょっとアンタどこ中のヒト? ってか誰?」
「誰もおらん!」
「真田、さすがにそれは往生際が悪いんじゃねーかな……」
 ジャッカルが、苦笑して言う。あの真田弦一郎が必死で隠そうとしている女子、という存在は、全員でじっと注目していると、おもむろに肘を曲げ、胸の前で手首をぶらんとさせるポーズをとった。
「ええと、……うらめしやー?」
「疑問形じゃねーか」
 わかりやすく幽霊を装ってきた紅梅に、赤也がツッコミを入れた。「割とノリのいい女子だな」と言いつつ、ブン太が風船ガムを膨らませる。
「んで幽霊サンよ、あんた誰」
「えーと、うちは、弦ちゃんの……」
「ゲンチャンて誰スか」
 赤也が、首を傾げる。鬼の真田副部長の名前が弦一郎であるということは知っていても、まさか彼がちゃん付けのアダ名で呼ばれていようとは、まったく想像の範囲外であったらしい。
 しかも、「……もしかして、真田君のことですかね」と比呂士が言うまで、誰も“ゲンチャン”が“弦ちゃん”であることにまったく思い至らなかったため、皆赤也と似たり寄ったりの認識だったようだ。

「は!? 弦ちゃんて! 副部長が!? ありえねえええええ!!」
「ありえないとは何だ赤也ァアア!」
 叫んだ赤也に、弦一郎が怒鳴る。ほとんど逆ギレの様相である。
「いやありえんじゃろ……。ますます何もんじゃ」
「普通に考えて、お付き合いなさっている方では?」
「いや、フツーに考えて一番ありえねーだろぃ……」
「え、真田の彼女!? マジで!?」
 ダブルス組である。失礼極まりない、しかしごもっともであるという自覚もあるため、弦一郎はこめかみをぴくぴくとさせた。

「ちょっとみんな、うるさすぎ。病院だよ」

 その時、顔をしかめて、入院着姿の精市がドアから顔を出した。申し訳ありません、すまねえ、とすぐに謝ったのは、比呂士とジャッカルだけであったが。
「部長! 真田副部長に彼女とかいるわけないッスよねえ!?」
「怖いもん知らずじゃのう、赤也は」
「は? 彼女?」
 恐ろしいものを見るような顔をする雅治と、見たことのない虫でも見たような顔をする精市。しかし弦一郎のうしろから顔を出している彼女を見て、「あっ」と声を上げ、目を丸くした。

「──お? なぜここに?」

 そして精市が何か言う前に、最後に部屋から出てきた蓮二が、開眼してそう言った。
 うらめしや、のポーズのままの紅梅もまた、彼の姿を認めると、親しい者に久々に会った時の表情を浮かべる。

「へぇ。蓮ちゃん、お久しゅう」

 レンチャンて誰スか、と呆然と言った赤也の声が、廊下に響いた。
 / 目次 / 
BY 餡子郎
トップに戻る