マッチポイント。リョーマのサーブである。
(勝たねばならぬ)
しかも、圧倒的に。王者立海として、無敗の皇帝として。なのにこのざまは何だと弦一郎は奥歯を食いしばりつつ、しかし焦ることなく、ネットの向こうの小柄な姿を見つめた。
リョーマは躊躇うことなく直ぐにトスを上げ、思い切り腕を振りかぶる。一瞬見えた、きらりと光る黄金の輝き。
(──ツイストサーブか!)
トップスピン気味に跳ねる、スライスサーブと逆の回転をするサーブ。右手で打てばレシーバーの顔面めがけて跳ねるが、左利きのリョーマの打つそれは、ワイドに打ってコートの外に追い出すこともできる。今の、とにかく攻撃一辺倒な状態のリョーマにふさわしいサーブでもあった。
弦一郎の足元近くに突き刺さったボールが、鋭く外側に跳ねる。しかし、逃すわけはない。
「微温いわ!」
ライジングに近い、跳ね際での返球。無我の境地の間で、そして考えることを放棄して勢いだけになっているリョーマならまず返せないはずの、ネット際への絶妙な返球だった。
だがリョーマは待ち構えていたかのように既にネット際に走り寄って来ており、しかも、今までのような攻撃的なリターンをしなかった。
──ドロップボレー!
外へ逃げるツイストサーブは、囮であった。
(こいつ……、冷静だ!!)
何が無我の境地、何が思考の放棄であるものか。
黄金の輝きを秘めながら向かってくる少年に、弦一郎は、強くグリップを握りしめる。
会場が、静まり返っている。
そこにいる誰もが、目を疑っていた。マッチポイントまで追い込まれている無敗の皇帝、そして、追い込んだ一年生のルーキーに。
「Well, I got you cornerd...
*
さあ、追い詰めたよ 」
にやり、と、不敵な笑みがリョーマの口元に浮かぶ。
強い黄金の輝きが、その身体から放たれた。
(限界を超えてまだ来るか……無我の境地!!)
無我の境地とは、無我の境地とは、滅私に徹することで目的を成す極意。そのはずだ。
しかし越前リョーマにそれは当てはまらないと、弦一郎はここに来て認めた。どういうことなのかは厳密にはわからないが、リョーマは無我の境地を、どういうわけか自分の“意思”でもって使いこなしている。
──ならば。
「……俺は、それを使いこなせる奴を三人知っている」
まっすぐに自分を見ているリョーマに背を向けて、弦一郎は、センターライン近くに歩を進めた。
「我が立海大付属部長の幸村……、九州の千歳、……そして」
弦一郎は、無我の境地に至ることが出来ても、あえてその先を目指すことをしなかった。己の行く道を、自分で考え、わざわざ剣を持つ意味を、なぜそのように剣を振るうのか答えられなければならない、そんな道を選んだ。
しかし、今は。
(勝たねばならぬ)
己の道を違えても、たった一つの約束を裏切っても。
──我が心、既に空なり。空なるが故に無。
「──俺だ!」
明確な、その意志をもって。
弦一郎もまた、今一度、黄金の輝きに足を踏み入れた。
リョーマは目を見開き、驚いているようだった。
そしてそれが、弦一郎の狙いでもある。弦一郎は、無我の境地に無我の境地でもってぶつかる、という気はない。ただこのマッチポイントの土壇場で、無我の境地に到れるのは己だけではないということで、少しでもリョーマのテンションをぐらつかせようとしただけだ。
無我の境地には、極限の集中力がもたらす万能感が付随する。その万能感を叩いてやることは、心理的にかなりのショック、絶望の淵に立たされるような気持ちだろう。かつて、死に物狂いで無我の境地に至り、しかし精市にあっさりと同じことをされた弦一郎がそうだったように。
「へえ」
だがしかし、それでも、越前リョーマは絶望しなかった。
それどころかやはり不敵な笑みを浮かべ、さあ面白くなってきたぞ、と言わんばかりの顔をしている。その様にもうはっきりと不気味なものを感じながらも、弦一郎はラケットを構える。
リョーマが、トスを上げた。
「──つぁっ!」
裂帛の気合で放たれたリョーマのサーブは、これまでのどれよりも鋭かった。
(素晴らしい攻撃だ、……だが)
リョーマのこの、無我に振り回されず、むしろ無我の境地をはっきりとした意志でもって利用したプレイには、最大の欠点が潜んでいると、弦一郎は気付いていた。
「──いけぇーっ! これで決まれ!!」
スマッシュを放ったリョーマが、叫ぶ。
しかし、浅い。
(やはり)
と、弦一郎は確信した。
やはり本来の無我の境地は、思考の放棄によって限界を超え、爆発的なパワーを発揮することにある。明確な意志を失わず、思考することをやめずに無我の境地を利用するというリョーマのプレイは驚くべきものだがしかし、己の思考を捨て切っていないことで、本来得られるはずの爆発的能力を活かしきれていない。
そのため、弦一郎のレベルの選手相手ともなれば、その隙を突き、致命傷となる反撃を食らわせることも可能なのだ。
弦一郎もまた、黄金の世界で、極限の集中力の中、スローモーションで、跳ねるボールを見ていた。
──そして、一瞬、迷った。
黄金の世界で、リョーマと同じく思考を棄てきっていないからこそ、弦一郎は、迷った。──風林火山。この超攻撃的スマッシュを、同じく真正面から、真っ向勝負で、“火”のグランドスマッシュで叩き返してやろうかという思いが、弦一郎の頭に、心に、不意に浮かんだからだ。
なぜならこの道は、無我の境地へ至る道は、己の道ではない。自分のテニスでは、ない。
──弦ちゃんは、……自分のテニス、出来てはる?
無我の境地がもたらす、走馬灯のような世界の中で、彼女の姿が過っていく。
──いつか、……うちのお舞、観て。
──それまで、弦ちゃんは、自分のテニス、してな?
震えた声。顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた、幼かった彼女。自分の知らないところでぽろりとひと粒、袖の向こうで流れた涙が、見えた気がした。
しかし己は、勝たねばならぬ。
一瞬にも満たない、刹那の逡巡を振りきって、弦一郎は前を見据えた。
「──さらばだ、越前リョーマ!」
別れを、告げて。放たれたのは、風林火山ではなかった。ネット際ギリギリにいるリョーマの隙を完全に突く、強烈かつ完璧なトップスピン・ロブ。
絶対に、間に合うはずがない。
高く高く上がったボールを見て、誰もがそう思う。
──しかしリョーマは、諦めなかった。
リョーマが、走る。限界を超え、骨を軋ませ、千切れんばかりに筋肉を撓らせ、血を滾らせて、黄金の輝きを纏いながら、ボールを追いかける。
リョーマの足が、審判台の梯子にかかった。審判が、観客が、誰もが目を丸くする中、リョーマが梯子を蹴って、──跳ぶ!
「──COOLドライブ」
輝く太陽を背負い、ボールよりも高く飛んだリョーマが、ラケットを振り下ろす。
(ドライブBじゃない……!)
そして弦一郎もまた、冷静だった。絶対に返すことは出来まいと思って放ったショットでも、それを返された今でも、全く油断してはいなかった。完璧なフォームで、そのショットを迎え撃とうとした。
だが、それでも。
「俺の、勝ち、……だね」
百球に一回できるかどうか、というイレギュラーバウンドを起こしたボールが、全く跳ねずに足元を駆け抜けていくのに、弦一郎は目を丸くする。
疲れ果てた、しかしやはり不敵な笑みをとうとう最後まで崩さないまま、リョーマがコートに崩れ落ちた。
──ゲームセット! ウォンバイ、青学・越前、7−5!
青学、関東制覇の宣言が響き渡る。
ものすごい歓声が、会場を支配した。
──ああ、暗い。何も見えない。
と、精市は、絶望し尽くして疲れたような、遠い気持ちで思った。
暗闇の中、何の音も聞こえては来ない。耳鳴りさえ起こらない、完璧な静寂。
何も見えないだけでなく、香りも、音も、味も、何もかもを感じることが出来ないと理解するごとに、底冷えするような恐怖が足元からどんどん登ってくる。
(嫌だ、……いやだ)
電車がやってくる。耳にうるさいはずの轟音はまったく聞こえず、すうっと静かに、精市を素通りして走り抜けていく。
高いヒールを履いた女性の脚が、横を通り過ぎる。しかしその鋭利な踵は、少しも音を立てていない。沢山の人々の声、足音。電車の音、アナウンス、様々な音の一切は消え、景色が真っ暗な闇に飲まれて消えていく。
見上げた階段を、赤也が元気よく駆け上っていく。
(待って、赤也)
しかし、脚は動かない。それどころか、自分に脚がちゃんとあるのかもわからなかった。
(助けて、──助けて!)
指一本動かせないまま、何もかもが闇に消えていく。
恐怖で気が狂いそうになりながら必死で助けを求めるが、喉は全く音を発さない。
ポォン、と、何かが跳ねる音がした。
黄色い軌跡が、見えた気がした。
だがそれが何なのかすら、精市にはもうわからない。
(たすけて、いやだ)
何も見えず、何も聞こえない。
家族の顔もわからないし、声も聞こえない。耳鳴りさえも響かない静寂。唾液の苦味も、自分が垂れ流した汚物の匂いさえもわからず、己の指が何を掴んでいるかもわからない。育てていた花の香りも、何一つ思い出せない。
ただひたすら何もない残酷な暗闇だけが、精市を支配する。絶望という名の暗闇の中、精市は恐怖を前にただ竦み上がる。
──テニスなんて、もう無理だろう
テニス、──テニス?
(テニスって、なに)
何か、大事な事だった気がする。しかし何も思い出せず、ただ、ポォン、ポォン、と、精市が気が狂わんばかりにもがき苦しむその横で、お構いなしに、何かが交互に跳ねるような気配がする。
その勝手な気配に、精市は絶望した。
(──ああ)
──あれは、俺を救ってはくれない。
こんなに自分が助けを求めているのに、死ぬかもしれないと思っているのに!
そう思うと、精市は、どうしようもない、憎悪や怨念のような憤りが肚から沸き起こるのを感じた。
(何が、テニスだ)
暗闇の中、何も見えず、何も聞こえず、何もかもを感じられない精市にとって、己から生まれ出る、呪いにも似た熱が全てになった。
──俺は、勝つぞ
ぴくり、と、指先が動いた気がした。
──俺は、勝つ。勝ち続ける。どんな相手でも、お前がいない間、誰にも負けん
ああ、忌々しい声だ。力強い、己を奮い立たせる、とてつもなく腹立たしい幼馴染の声。
──だが、お前は負けるのだろう
誰が。
──下らんことを言っている暇があったら、這ってでもその可能性に食らいつけ!
うるさい、くそ真田。黙れ、ぶん殴るぞ、殺してやる。
──戦う前から負けるぐらいなら、今死ね!
(死んで、たまるか……!)
忌々しい、絶望めが。
負けるものか。俺が見えないなら、みんな見えないようにしてやる。俺が聞こえないなら、みんなも聞こえなくなればいい。俺が苦しんでいるんだから、みんなも同じように苦しむべきだ。
(俺が死ぬなら、みんな死ね!)
それは、呪詛だった。
恐怖の果て、闇の中でのたうち回ってもがく精市から生まれたそれは、巨大な蛇のようにぐるぐるととぐろを巻いて、逆に闇を支配していく。
精市は、ぎろりと闇を見据える。──
見(・)据(・)え(・)た(・)。
明るい蛍光灯の光に、精市は、ぼんやりと空を見つめた。
ぱちぱちと、二度まばたきをする。指を動かし、手を何度か握ってみた。膝も曲げてみる。
(動く)
そのことに、精市は、笑い出したいような気持ちになった。
(俺は、勝った……!)
──生きている。
それすなわち己が勝ったということだと、精市は、生に、勝利に酔いしれた。どんな試合で勝った時とて、これほど、泣きたくなるほど嬉しく、安堵したことはない。
輝く光に、窓から聞こえる音に、シーツの感触、唾液が乾いて苦い口内、部屋に飾ってある花の香り。
目尻から溢れるものの熱さでさえ、精市にとっては歓喜の対象だった。
ああ、目が覚めた! 精市、よかった! と、母の声がする。わななく唇で、「母さん」、と呼んでみる。母を呼んだだけなのに、とても尊いことをしている気がした。
決勝戦を終えて病院に来た頃、手術は半ばを過ぎた頃だった。
そして手術が終わってから数十分、そろそろ面会時間も過ぎるかという頃、精市の意識が戻ったと、精市の母が告げてくれた。
今回の手術は、まず手術後に意識がすぐに戻るかどうかが肝だった。そこをクリアすれば、つまり手術は成功した、といえる。
だからこそ、皆その報告に心から安堵し、赤也など涙を浮かべてしゃがみこんでいた。全国大会までに身体のコンディションが整うかはまだわからないが、とりあえず、命の危機は脱したのである。
遠慮すべきかとも思ったが、精市の母が是非にと言うので、全員、精市に会いに行くことになった。
「──やあ」
ベッドに寝たままだが、首をこちらに向け、笑みを浮かべてそう言った精市に、皆が安堵と喜色を浮かべる。
「幸村、──すまん」
しかし開口一番、弦一郎が苦虫を噛み潰したような顔で謝罪を述べたので、精市はきょとんとした。
「え?」
「負けた」
至極情けなさそうな、悔しそうなその表情と声色。後ろにいる面々もまた気まずそうに黙りこくる中、精市は、しばらくぽかんとしていた。
「負けた、って? お前が?」
「ああ。最後のS1」
「相手、一年生じゃなかったっけ」
「そうだ」
弦一郎は、重々しく頷いた。
「我々立海大付属は、此度の関東大会、準優勝だ」
「準優勝」
「お前との約束を無にしてしまった。すまない」
「……っく」
「……幸村?」
俯いた精市を、弦一郎だけでなく、皆が覗きこむようにする。
「──あっ、ははははははは!!」
顔を上げ、満面の笑みで大笑いを始めた精市に、皆が呆気にとられて目を丸くしている。しかし彼はひたすらげらげら笑い続け、しまいには「ひー、お腹いたい」と言って文字通り腹を抱え、ベッドの上で丸くなりながらひたすら爆笑していた。
「ゆ、幸村クン、大丈夫かよ」
「どっかおかしくなたんじゃねーだろうな……」
ブン太とジャッカルが、本気で心配そうな顔で呟く。精市はひいひいと引きつった声を出していたが、やがてそっと顔を上げて、困惑した様子の表情をした弦一郎の顔を見る。しかしまた、「ぷーっ!」と頬を膨らませて、盛大に噴出した。
「な……何なのだ」
「負けた! 真田、負けたんだ!」
さすがに顔をひきつらせる弦一郎だが、負けたのは己であるため、怒ることは出来ない。精市はげらげら笑いながら、続けた。
「あれだけ俺にでかい口叩いといて、負けたんだ!?」
「う……」
「クッソカッコ悪いなあ! ふ、くくく、はははははは!」
「おい、精市」
容赦の無い謗りに、さすがに蓮二が苦言を呈しようとした。精市が不在の間、弦一郎がどれだけ皆をまとめ率いてきたか、一番良く知っているのは蓮二だったからだ。
「ふふふ、……俺は、勝ったよ」
「精市?」
「俺は、勝った」
蓮二は、言おうとしていた言葉が全て引っ込んだ。
そう言って顔を上げた精市の目に、あまりにも力があったからだ。少し青みがかった黒い目の奥底に秘められた何かが、蓮二の言葉を、口を封じ込めた。蓮二が何か言おうとしても、指を動かそうとしても、不思議とそうすることが出来ない。
「俺は、勝ったぞ。真田」
「……そうだな。おめでとう」
ふう、と肩を下げて、こればかりは素直な声色で、弦一郎はそう告げた。
「ふふ、気にするなよ、真田。……俺が勝って、お前が負ける。よく考えればいつもどおりのことだよ」
「ぐ」
さすがにカチンときたのか、弦一郎のこめかみに青筋が浮く。
しかし今回ばかりは負けた己に非があると理解しているため、弦一郎はそのまま否定も肯定もせず、ただ歯を食いしばって黙り込んだ。
「……準優勝ね、いいさ。全国で勝てばいい」
「幸村」
凄みのある声に、全員が顔を上げて彼を見る。
だが精市は、皆を見ていなかった。ただ前を向き、何かに挑むような、喉笛を狙っているような、思わず息をひゅっと吸い込んでしまうような凄みのある目をして、どこかを見ていた。
「俺は、勝つよ」
精市は、宣言した。
次いで、弦一郎を見る。そして挑戦的に笑った。いつもの、彼が弦一郎に向ける笑みだった。
「安心しろよ、真田。今度お前が負けても、俺が勝ってやるからさ」
「……上等だ。今度は俺も負けん」
「そう」
一度目を閉じて、精市は、黙った。
目を閉じれば、暗闇。しかしもう、恐ろしくはない。
たとえ何度暗闇に閉じ込められても、こじ開けて戻ってきてみせる。必ず勝ってみせると、精市は、今までとは比べ物にならないほどの強さでそう思った。
「──全国、三連覇だ」
勝ちに行くぞという精市の言葉に全員が頷き、改めて闘志を燃やした。
王者・立海大付属の、関東大会十六連覇をくじいてしまった致命的な黒星は、全国三連覇でしか覆せない。
──負けは、許されない。
「もう、迷いはない」
精市は、拳を握った。