心に迷いなき時は人を咎めず
(八)
それからは、弦一郎の独擅場であった。
皇帝にリョーマが勝てる要素など、微塵も見当たらない。千年早いと、その試合を見た誰もが感じていた。
(手塚よ……当てが外れたな!)
出し惜しみせず再度“火”を繰り出した弦一郎もまた、再度ラケットを弾き飛ばされてコートの上に倒れたリョーマを見て、そう感じていた。
こうして圧倒的な力量差を見せることによって、王者・立海はその誇りを取り戻す。
そのためにはリョーマを完膚なきまでにずたずたに叩き潰すことになるが、知ったことではない。この試合に、このテニスに、面白いことなどひとつもないのだと思い知らせてくれようと、弦一郎は畳み掛けるようにして“火”と“風”を交互に放つ。
リョーマは時に膝をつき、無様に転がり、地べたを這いずるようにして吹き飛ばされたラケットを掴み、弦一郎のボールを追いかけていた。
その様に、もうやめたほうがいいのでは、と、観客からちらほらと声が上がる。
──しかし。
(まだまだ、か)
一体どこまでクソ生意気なのだこの一年生は、と、疲労に苛まれ、汗だくで、膝が笑っていさえするくせにまだ不敵な笑みを向けてくるリョーマに、弦一郎は僅かに眉を顰める。
(何故、折れん)
この試合に、面白いことなどひとつもない。勝利を得るための、ただの作業。いかに効率良く殺せるかという、単なる屠殺。少なくとも弦一郎にとっては、そうだ。
(──貴様には、違うというのか? 馬鹿馬鹿しい)
「やっと弱点見つけたよ、風林火山」
そう言って帽子を投げ捨てたリョーマは、再度不敵に笑った。
「ちょっと打ってくんない」
「ほう……」
口の減らない奴め、と続けたが、実のところ、カチンときた、というのが正直なところだった。
弦一郎の奥義、風林火山。それでもって攻撃するのを恐れられたことはあれど、攻略してやるから出してみろ、と挑発されたことはかつてない。
挑発的な笑みを浮かべたまま、リョーマがボールを高く上げる。サーブが、放たれた。
「負けず嫌いもそこまで来ると、──見苦しいわ!」
難なくの、“風”でのリターン。迎え撃とうと、リョーマが再度前に出る。
(馬鹿の一つ覚えが……、効かぬわ!)
確かに、居合抜き、抜刀術がそうであるように、“風”は、放った直後にまた放つのは難しい。しかし長年をかけて計算され尽くしたフォームは、ラケットを振り抜いた姿勢から“火”、もしくはその他の技の構えに流すのにわけはない。
(風林火山を攻略することは、出来ん!)
真正面から食らうがいいと、弦一郎は、小柄な影に向かって、渾身の“火”を放った。
「……いてて」
ひっくり返ったリョーマは、呑気にもそんな声を上げた。
しかし弦一郎含め、いま何が起こったのか、すぐに理解することができていない。弦一郎が“火”を放ち、リョーマがそれを真正面から受け止めた。──そして次の瞬間、ボールは弦一郎の足元で跳ね、ポイントを掻っ攫っていったのである。
まぐれだと、誰かが言う。多くが、そうかそうだろうな、と同意する。それが当然だと頷き合う。だがしかし、次のサーブを放った後も、リョーマは再度前に出た。
(……ふざけるな。こんな形で、風林火山を攻略されてたまるか!)
そして、何をされたのか一人理解した弦一郎は、燃え上がる黒い炎で、己の肚の奥を焼く。
「──侵略すること、火の如く!」
そしてその激情のままに、先程よりも更に威力を増した、渾身の“火”を放った。
──ドッ!
しかし、その炎がリョーマを焼くことはなかった。
どころか、返されたボールは弦一郎の足元に突き刺さり、鋭く後ろへ飛んで行く。
(……コイツ)
リョーマの得意技である、一本足でのスプリットステップ。最も熟れた自分自身の技を軸に反応し、小柄な身体全体を絶妙に引いてクッションにし、彼は“火”のボールを受け止めた。
(あの一瞬だけ無我になって、風林火山に風林火山をぶつけてくるとは)
まずこれほど意識的に無我の境地のオン、オフができるというのは、素直に驚嘆に値するといえよう。しかし、“火”の攻略に、同じ風林火山の“風”をぶつけて攻略されたのは、どうしようもなく弦一郎の琴線に触れた。
オールラウンダーとは本来、相手の弱点を狙ってプレー内容を変えることができることを指す。しかし弦一郎が目指したのはそんな通常の概念でのオールラウンダーではない。あえて相手の得意なところを、それを上回る同じもので叩き潰す、非常に挑戦的で、勝ち方を選ぶ、真っ向勝負のテニス。
オールラウンダー中のオールラウンダー、どんな選手と当たろうとも、わざわざ真正面からぶつかって勝てるテニスを、真田弦一郎は目指してきた。
そして風林火山こそ、その真骨頂であり、象徴、集大成だった。
思考を放棄し、無意識からの反射で技を繰り出す無我の境地とは、正反対の技。相手は何が得意なのか、どうすればいいのかを考え、そして長い時間何万回と繰り返した練習によって、完璧に自分のものとして身につけた技でもって、相手を叩き潰す、弦一郎のテニスの集大成。
ぎり、と、弦一郎は、グリップを握りしめる。
自分は今、本来と違うやり方で、“風林火山”を用いている。真っ向から相手とやりあうのではなく、相手の弱点をつくような形で“風林火山”を使った。
不本意、ではある。しかし、とにかく確実に勝つために、弱点を突き、幾つもの保険をかけて、完璧に仕事を遂行するために、弦一郎は自分のテニスを、本来の風林火山をいま、捨てたのだ。
しかしそのせいで、見破られた。
最強の基礎にして究極奥義、風林火山。真っ向勝負ではなく、凡庸かつ勝率の高い使い方をしたからこそ、リョーマもまた、それに気付いたのだ。
スピード、テクニック、パワー、ゲームメイク。どれが欠けても一流とはいえないとされる、オールラウンダーのあり方はすなわち、三竦みよろしく、お互いを打ち消す、または打ち勝つという特性がある。
テクニックはスピードやパワーに押され、しかし巧みなゲームメイクで無為になることもある。だが逆に、綿密な試合運びに、テクニックで隙を作ることも出来る。
──すなわち、“火”は“風”に弱いなど、風林火山には、互いの技を打ち消し合う効果がある。
リョーマは、己のテクニックを打ち消す“火”、“風”をぶつけられたからこそ、それに気付いたのだろう。弦一郎が、本来の真っ向勝負を、自分のテニスを捨てて戦ったがゆえに、彼は風林火山の攻略法を見つけたのである。
(……落ち着け)
はあ、と、弦一郎は、燃え上がりそうになる真っ黒な炎のような激情を収めた。
真正面から喧嘩を売られると真正面から買ってしまう、己の悪い癖だと、弦一郎は反省した。生来のものはなかなか変えられないとはいえ、これでは赤也をどうこう言えない。
(今は、真っ向勝負を、捨てるのだ)
己の信念とプライドをもってして作り上げてきた技、風林火山。それを貶められたような気がして思わず頭に血が昇ったが、──何の事はない。勝利のために自分のテニスを捨て、最初に風林火山を貶めたのは、己である。
なんて面白くない試合だ、と、弦一郎は冷静になるどころか醒めきった気持ちだった。
この試合に、面白いことなどひとつもない。勝利を得るための、ただの作業。いかに効率良く殺せるかという、単なる屠殺。──だというのに。
「俺は……」
ラケットを構え、ここにきてなお挑戦的な笑みを浮かべ、真正面から己を見上げる、小柄な少年。
「俺は、アンタを倒して、全国に行く!」
なぜ貴様はそんなに楽しそうなのだと、弦一郎は息を呑んだ。
──ゲーム越前! 2−5!
リョーマのドライブBが決まり、ゲームを奪取する。
風林火山を使用しなくなった弦一郎に対し、リョーマはやはり様々な技を用いることで対抗し、それは確かに結果に現れていた。あの“皇帝”から2ゲーム取ったリョーマに、青学サイドから興奮しきった声援が上がる。
だが、リョーマの身体は、感じ取っていた。
一瞬でも攻撃の手を緩めたら、一気に試合を決められてしまうだろう、ということを。
風林火山を利用しなくなったとはいえ、相手は皇帝。戦えば戦うほど、リョーマは、弦一郎の、小動もしない頑強な基礎力を思い知っていた。
まるで何十年、何百年もの間綿密な基礎工事を経て築かれた要塞のような頑強さが、真田弦一郎の一番の強みだということを、リョーマは理解していた。そして、どんな嵐が来ようと頑と揺るがぬ基礎力あってこそ、風林火山という多彩な技が生きてくる。
そして逆に言えば、風林火山を封じたところで、見上げるような要塞を易々と崩すことは出来ない。リョーマにできるのは、ただただ持てる限りの技術を用い、あらん限りの力で、真正面から攻撃をぶつけるということしか無いのである。
そして弦一郎もまた、そんなリョーマを最大限まで警戒していた。
風林火山という攻撃手段を迂闊に使えなくなったがゆえ、弦一郎は今、リョーマの攻撃をいかに凌ぐかという、いわば防戦に徹している。
風林火山の“山”にあたるその姿勢は、弦一郎の素に近いあり方でもある。相手がどんな攻撃を仕掛けてこようと、山のように、巨大な要塞のように揺るがぬ頑強さ、屈強さあってこそ、弦一郎には“皇帝”の二つ名がついた。
そして、その要塞を崩さんと、真正面からぶつかってくるリョーマに、弦一郎は密かに歯を食いしばる。
(この俺に臆することなく、真っ向勝負を挑んでくるとは)
皮肉なものだ、とも思う。弦一郎が捨てた真っ向勝負を、よりにもよって、無我の境地の使い手であるリョーマが挑んでくるとは。
(だが、遅すぎたな)
怒涛の勢いで次々と技を繰り出してくるリョーマを注意深くいなしながら、弦一郎は冷静に判断する。
さすが無我の境地の使い手だけあり、リョーマの集中力はかなりのものだ。だが、気力が肉体の力を上回り、限界を超えるにも、限度がある。
(いつまでも、そのハイテンションが続くワケがない)
いくら集中力に優れ、無我の境地を使えるといっても、体力が無尽蔵になるわけではない。限界を超えるのと、奇跡が起こるのは別の話だ。
そして、奇跡など決して起こらないのだと、弦一郎は知っている。
限界を超え、我を無くし、全ての指をへし折って泣き叫んでも、絶望という名の現実は、平等に容赦なくやってくるのだ。
(そのハイテンションが途切れた時こそ、──お前の最期!)
──ゲーム越前! 3−5!
青学側から、大歓声が上がる。
リョーマは、粘った。
ドライブBを主とした怒涛の攻撃は、緩まない。──それどころかだんだんと打球のスピードが増してきていると気づいた弦一郎は、今度こそ怪訝な顔で眉を顰めた。
(何なんだ、この一年は……)
試合の後半から打球のスピードが上がる、というのは、奇跡、と言うまでではない。あり得ることだ。しかし少なくとも、世界のトッププロの芸当である。
弦一郎はネットの向こうの少年を、注意深く見た。奇跡など、起こらない。しかし認めよう、越前リョーマには、明らかに他の奴らとは違う何かがある。
──越前リョーマのテニスとは、何だろうか。
弦一郎は不意に、そんなことを思った。
無我の境地を用いるタイプは、とにかく我武者羅で、集中力に優れると同時に闘争心にあふれたタイプ、と、弦一郎は思っていたし、その見解は間違っていないだろう。
赤也はその典型で、赤目はある意味無我の境地の前段階ではないか、と予想もしていたので、今回赤也が無我の境地に達したことは、正直なところ、そこまで驚くことでもなかった。
しかし、越前リョーマは、どうだ。
呆れるほどの負けず嫌いなのは確かだが、闘争心がある、というのとは、彼はまた違う。我を無くして思考を放棄し、感じるままに動いているかと思えば、明らかに考えて技を出している瞬間も決して少なくない。
(無我の境地とは)
──無我の境地とは、滅私に徹することで目的を成す極意である
剣であれば、相手を殺す、倒す、そのことのみに極限に集中することで、今までの鍛錬で得た技を無意識かつ全力以上に発するようになる状態のことである、と、祖父の声を思い出しながら、弦一郎は考える。
なぜなら自分は無我の境地を目指すことをしなかった、真田の剣の道を選んだ者であるからだ。己の行く道は、自分で考えねばならない。わざわざ剣を持つ意味を、なぜそのように剣を振るうのか、答えられなければならないからだ。
──サムライであれば、無我の境地こそがまさしく極意であろうな
己が選ばなかった、黄金に輝く道の向こう。
弦一郎は、越前リョーマに、サムライの幻影を見た気がした。
──ゲーム越前! 4−5!
たわけが、と、弦一郎は己を罵った。
(余計なことを考えて隙を作るとは)
苛つきが、沸き起こる。ネットの向こう、ポイントを取った直後に珍しくガッツポーズをしたリョーマは、笑っていた。
しかしその笑みは、今までのような、弦一郎を挑発する、不敵な笑みではない。
(……こいつの奥底に潜むモノは、何だ!?)
リョーマのその目は、弦一郎を見ていなかった。見えてきたかもしれない勝利に、希望を見出した顔というわけでもなかった。
その顔に、弦一郎は、不気味なものを覚える。──しかし。
(……否。今は、余計なことを考えるな)
スッと己の心の温度を下げた弦一郎は、鋭く斬り込んでくるかのようなリョーマのショットを、軽やかなまでに打ち上げた。
今まで、リョーマの怒涛の攻めを真正面から受けていたのとは、全く違う。正確無比なトップスピン・ロブは、リョーマのあらゆる技巧を受け流し、試合の流れを一気に引き戻してみせた。
──15−0!
──30−0!
──40−0!
三回連続、同じライン上に正確なロブを上げて落とした弦一郎に、歓声が上がる。
弦一郎には、練習しなくても出来るような才能はない。しかし彼は、単に百戦錬磨だった。このロブに限らず、全てのショットを何万回、何十万回と練習し、千回やっても同じ所に落とせるまでに仕上げている。三回連続で同じことをするなど、まったく訳もないことである。
──マッチポイント!
再びの、皇帝コールが沸き起こる。
「諦めろ……、お前ら青学の優勝など、最初から存在すらしていないのだからな」
絶望せよと、弦一郎は言った。
今までのようにただ防戦に徹するだけでなく、ロブで受け流されるとあれば、勢いに任せて前にも出れまい。ならば、終わりだ。
(そうだ、諦めろ)
この試合に面白いことなど、何一つ無い。勝利を得るためだけのただの仕事の、何が面白いものか。──ああ、
──己のテニスが出来もせず、何が面白いというのか!
だがリョーマもまた、諦めなかった。
ロブが来ることもわかっているだろうに、怒涛の勢いで前に出るリョーマに、無謀だ、と誰かから声が上がる。しかしリョーマは、攻め続けた。
弦一郎が上げたロブを、全速力で追いかける。
──アウト! 40−15!
(球威に圧された……!?)
弦一郎は、百回でも千回でも、連続して同じショットを打つことが出来る。しかし今、不規則に強まるリョーマのショットを読み切ることが出来なかった。
リョーマが追いつくことも出来なかったが、ラインの外に出てしまったボールはアウトとなり、リョーマのポイントとなった。
「……まだまだ、まだーッ!!」
普段のクールな様子からは考えられない声を上げるリョーマからは、絶望の欠片も感じられない。その目は、弦一郎など見ていない。ボールしか、見ていない。
──まだまだ、もっとボールを!
──もっと、テニスを!
「俺は……」
リョーマが放ったその球を、弦一郎は、ただ受けた。
受けようとして、受けたのではなかった。受けることしか出来ず、弦一郎は、ただ受けた。
「──俺は、アンタに勝ってやる!」
──ゲーム越前! 5−5!
トリプルマッチポイントを凌いだリョーマが、とうとう追いつく。
堅牢な要塞に、僅かな罅が入り始めた。