心に迷いなき時は人を咎めず
(六)
「勝てない試合じゃなかった」

 いつ終わるかと思われた長いタイブレークの後、とうとう7−6で敗北して戻ってきた蓮二に、弦一郎はそう言って、ベンチから立ち上がった。
「私情を挟みすぎたな」
 的確な指摘である、と、彼の目前に立った蓮二は認めた。己は立海レギュラーとしてや、精市の快癒祈願に常勝を誓った友人としてではなく、ただ一己のデータマンとして、データのためにテニスをし、そして負けたのだ。
「申し訳ない……、精市との約束を無にしてしまった」
 だから蓮二は、言い訳をしない。
 しかしそれは潔いのではなく、弦一郎への甘えであることも、蓮二は自覚していた。例え負けても、罰則である弦一郎の鉄拳制裁でチャラになる。罰を覚悟して犯した罪がどれだけ計算高く卑怯なものか、蓮二はわかっている。わかっているが、やりたいようにやった。
「やってくれ! 他の部員に示しがつかない」
 だから自分がすべきことは、弦一郎からの制裁を正しく受けることだけだと、そう思っているからこそ、蓮二はただ無防備に立つ。
 ただその姿からは、敗北への悔しさや、やったことへの後悔は、全く感じられなかったが。

 そして、そんな蓮二を前にして、弦一郎は、ただ黙っていた。
 蓮二がただ負けたのではなく、自分のテニスのために常勝の誓いを無視したことを弦一郎は理解していたがしかし、そのことに、怒りや悲しみ、裏切られたというような失望などは、一切抱いていない。強いて言えば、「しょうがない奴だな」と思っている、というのが最も近い。
 常勝の誓いも、三連覇も、大事な事である。共通の目的のために共に戦うからこそ、仲間だとも思っている。
 しかしその一方で、その仲間たちが、個人的なものを切り捨てるのを、弦一郎は良くは思っていない。──口にしたことはないが。

 己は元々、物事の優先順位をきっぱり決められる人間なので、いい。しかし誰もがそうではないだろう、と、弦一郎は当たり前に思っている。
 何かを切り捨てて身を裂かれる思いをしながら目的を達成したとして、それは本当に正しいことなのか。未だそれにはっきり答えることは出来ないが、かつて彼女に言われた「病気の人に怪我した姿を見せて、元気になるわけがあるか」という言葉が、未だ弦一郎の胸に突き刺さっているのは確かである。
 蓮二が己のテニスを、信念を捨てて勝っていたとして、それは精市の力になるだろうかと考えると、それに是とは言い難い。もしかしたら、逆に怒るかもしれない。──とはいえ、自分が常勝の誓いを守るために好きな娘にふられたとしても、精市は全く屁でもなさそうだが──、とまで考えて、弦一郎は思考を一度打ち切った。

 蓮二は、仲間との約束よりも自分の信念を優先し、そして負けた。
 だから弦一郎がすべきことは、彼の敗北という失態を乗り越えて勝つために、彼に鉄拳制裁を見舞うことしか無い。そしてそれで、この話はお終いだ。

 弦一郎が、腕を振りかぶる。
 かつて、彼が精市の鼻を折ったことがあると聞いて震え上がっていたはずの蓮二は棒立ちのまま、微動だにしなかった。

 ──ガッ!!

「何だ……、赤也?」
 元々十センチほど身長差がある上、背を曲げている赤也をぎろりと見下ろして、弦一郎は低い声で言った。
 弦一郎が振り抜いた手の甲は、蓮二の頬ではなく、素早く二人の間に入ってきた赤也が掲げたラケットのガットにぶち当たっていた。手はじんと痺れ、少し網目の痕が残っている。

「別に、いーじゃないッスか?」

 赤也は弦一郎や蓮二を見ないまま、ラケットを肩に担ぐと、猫背のままどこかガラの悪い歩き方で、コートに進む。
「結果的に、立海ウチが三連覇すりゃ……」
 ちらり、と、会場に備え付けられている大きな時計を見て、赤也は顔を上げた。

「十三分台で終わらせりゃあ、幸村部長の手術、間に合いますって!」



「……殴られ損ねたな」
 ネットを挟んで、さっそく対戦相手──不二周助を挑発している赤也を見ながら、弦一郎の斜め後ろに立った蓮二は、ぼそりとそう言った。
「そうだな。赤也がいかにお前に懐いているか、ということだろう」
「そういう話なのだろうか、あれは」
 単に、自分たちの中で敗北の象徴である鉄拳制裁を見たくなかっただけでは、と蓮二は苦笑した。データが第一で勝ち負けはそれに付随するものでしかない蓮二と違い、赤也はテニスに限らず単に勝敗というものにこだわる、筋金入りの負けず嫌いである。仲間の敗北も自分の敗北となる団体戦で、敗北の事実をきちんと認識したくなかった、というのはあるだろう、と蓮二は冷静に分析していた。

「まあ、いい。また改めてやってくれ」
 そう申し出た蓮二に、「いや……」と、弦一郎はほんの僅かに首を振った。
「気が削がれた。それに、何だ。あのままであれば勢いでやれただろうが、お前を殴るのはどうにも気が引けるところがある」
「何だ、それは」
「あー、でも、それはわかんねーでもねえわ」
 ガムを膨らませながら口を挟んできたブン太に蓮二が振り返ると、その横で、ジャッカルもウンウンと頷いていた。
「幸村クンとか柳はなー、やっぱなー、顔がなあ、キレーじゃん」
「男に男が綺麗と言われても、微妙なだけなのだが」
「いや俺も微妙だと思うけどよ、柳の顔が腫れ上がってたら、謎の罪悪感があんだよ」
「何だそれは……」
 珍しくも困惑を全面に出した表情で蓮二は肩を下げたが、他の皆も、否定するどころかそれぞれ僅かに頷いている始末だったので、蓮二は更に微妙な顔をした。

「そう言われても、俺の気が済まんのだが」
「なら、むしろ罰になっていいだろう」
「む、……しかしだな」
「やかましいぞ、蓮二」
 弦一郎は、初めて振り向いた。有無を言わさぬ、という顔をしている。
「黙って、次は勝て」
「……無論だ」
「ならばいい。この話は終わりだ」
 そう言って弦一郎は再びコートに向き直り、本当にこの話を終わらせるつもりだという意思表示をした。他の面々も特に何も言うことはなく、弦一郎の判断に従う姿勢なのは明らかだ。
 こうなっては、もう覆せまい。そう判断した蓮二は、はあ、とため息をつく。

(顔、ときたか。……まさか、俺が“似ている”からではなかろうな?)

 散々、彼女と似ている、兄妹に見えると評され、弦一郎にもそのお墨付きをもらったことのある蓮二は、ジト目で弦一郎の後ろ姿を見た。
 顔が綺麗だから、などと、精市と血みどろの喧嘩をし、しかも顔を狙って殴る弦一郎に言われても、まるで説得力がないというものだ。

「それはそうと、大丈夫か、赤也は」

 空気を変えることも目的だろう、ジャッカルが言った。
「不二周助。天才、だっけ?」
「まー、俺よりは天才的じゃねえだろぃ」
「そうですねえ。青学では手塚君に次ぐ実力の選手、とは聞いていますが」
 ブン太が茶化すと、比呂士が眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら口を開く。息が整い始めた蓮二が、静かに頷いた。
「……柳生の言う通りだ。そして、強い、というよりは、上手い、というテニスをするタイプ。見た目に違わず、パワーよりは超絶的なテクニックを駆使する選手といえよう。メンタル面も、強いとか柔軟というよりは、相手や周囲に流されない、淡々とした感じに見受けられるな」
「ペテンにかけづらそうじゃき、俺はやりあいたくないのう」
 プリ、とお馴染みの謎の擬音を発しながら、一人脚を投げ出して座っている雅治が言った。



 不二周助は、強かった。

 赤也の目はすぐに充血し、激しい応酬が始まる。
 彼らが通称で“赤目”と呼ぶ赤也の目の変化は、彼の飛び抜けた集中力と、闘争心の上昇の合わせ技によるものだろう、というのが蓮二の見解である。
 つまり、これ以上なく集中力を高めた上で更に闘争心も極限になっているという、“ごく冷静に頭に血が上っている”という、稀有な状態だ。メンタル面の大きな変化が身体にも影響をおよぼすことはままあることで、赤也の赤目はその典型でもあった。
 闘争心の上昇、すなわち“キレた”状態が、集中力を維持したまま続くというのは、赤也の大きな強みだった。闘争心というのは、勝負の上で最も大事な事のひとつである。闘争心はその勢いによって時に十全以上の力を発揮でき、なおかつ冷静にそれが行える、それが赤也の“赤目状態”である。

 赤目になった赤也は、冷静ながらも、普通より容赦なく残酷な、スポーツマンシップに唾を吐くような行動を取ることもままある。
 そしてそれは今回も如実に現れ、赤也は一度ネットを乱暴に蹴り上げて審判に注意を受け、そしてその後、周助の一瞬の隙をつき、鋭いスマッシュを彼の頭にわざと叩き込んだ。
 周助はなんとか立ち上がったものの、明らかに様子がおかしい。その様に、青学サイドが心配の混じった声援を送っている。

「ありゃあ……、見えちょらんのじゃなか?」

 一人座り込んでいる雅治が、上半身を乗り出すような姿勢で、目を細めて言った。ブン太が、きょとんとした顔をする。
「ハ? 見えてない?」
「先ほど頭部に直撃した赤也のスマッシュ。脳震盪に近い現象だろう」
 蓮二が、頷きながら言う。マジかよ、とジャッカルが驚愕した。

 そしてその驚愕は、さらに大きくなることになる。なぜなら周助は、最初こそおぼつかない動きを見せていたものの、何度かの応酬の後、ボールを打ち返してみせたからだ。

「──バカな!?」
 サーブなら慣れで打てないことも無いが、目の見えていない状態でリターンを返すのは不可能だと、誰かが言った。まぐれだ、と、赤也も思った。
 しかし周助はそれからも、赤也が打ち込んでくるボールを打ち返し続けた。しかもただ拾うのではない、きちんと赤也がいない場所に、ポイントを取れるところに、勝つためのリターンを叩き込んでいるのだ。

 周助の目が見えていないことが広まると、皆が驚愕に目を見開き、息を呑む。
 手塚国光ばかりが有名で、それ以外の選手はぱっとしないと思われていた、青春学園。しかし先ほど三強の一人・柳蓮二を下し、そして今、立海のスーパールーキー・切原赤也を目の見えていない状態でなお圧倒する不二周助はもしかしたら、手塚国光をも凌ぐのではないか。

 ──天才、不二周助!

 神懸っている。青学はなんという逸材を眠らせていたのかと、立海一色だった観客の空気が変わっていく。

(クソッ、俺は……)

 観客の関心を集め、アウェーの空気を変え始めた周助を前に、赤也は歯を食いしばる。十三分はすでに過ぎ、精市の手術はもう始まってしまった。──間に合わなかったのだ。

(俺は、もう二度と負けるわけにはいかねーんだよ……!)

 ここで一番になるのだと、勇んで立海に入学した一年前。
 平部員とはいえ上級生たちを軒並み負かしていい気になっていた赤也を絶望のどん底にたたき落とした三強を再び倒すために、絶望の底から這い上がるために、赤也は何でもやってきた。
 そして今、その目標のひとつである部長・幸村精市、彼の快癒のため、赤也は何としてでも勝たねばならないと、極限の集中力と闘争心がない混ぜになっている代償として視野狭窄に陥った思考の中で、強く思い込んでいた。
 自分が、再度あの鬼才たちに挑戦するには──

(もう、勝利しかねーんだよ!)

 資格を失った周助を翻弄するため、赤也はラケットで地面を擦って音を出し、音と気配でボールを追う彼を翻弄する。
「──うらぁ!!」
 そして畳み掛けるように放たれる、全く容赦の無いリターン。
 音による妨害にやや狼狽えつつも、なんとかボールを返した周助もまた、驚愕していた。
(何て精神力の強さだ、……切原赤也!)
 これが勝ちへの執着かと、それを感じたことのない、天才・不二周助は理解する。──彼を倒せば、自分はもっと上に行けるのだと。

 ──ゲーム切原、5−5!
 ──ゲーム不二、6−5!

 接戦、まさにそう表現すべき応酬が続く。
「だから、勝つのは……」
 俺だ、ボクだと、そう言ったのは、どちらか。

 ──アドバンテージサーバー!

 とうとう、周助のマッチポイントとなった。
「赤也ぁーっ! まだイケる!」
 ここを粘りきるんだ、と、ジャッカルがよく通る声援を送る。

 だが赤也の耳には、彼の声だけでなく、誰の声も届いてはいなかった。それほどに、神経を研ぎ澄ませていたからだ。
 高い集中力と強い闘争心のせめぎ合いが起こす赤目が、いつの間にか引いている。それは、我武者羅な闘争心よりも、針の穴を通すような極限の集中力が勝っていることの証明だった。
(なんて強い精神力……)
 終盤に来て尚集中力が高まっているらしい赤也に、周助は素直に感嘆した。
(その精神力の糸、──断ち切る!)
 周助の得意技である、カウンター。その三種の返し球のひとつである“つばめ返し”が、これ以上ない威力で放たれる。

「ウゼェ!」
 全くバウンドしないため、跳ねることを想定しての追い付きでは間に合わない技。蓮二に事前に教えられたデータどおりに、赤也は走った。つまり、跳ねないボールなら、跳ねる前に、
「──打つ!」
 全身の筋肉が、ミシミシと軋むのを感じる。限界いっぱいの運動能力を使い、赤也はボールに追いついた。

 だが、己の打ったボールを目で追いかけた赤也は、そこにあった光景に、ぎょっとした。ネットの向こう、赤也が必死に返して浮いたボールを叩き落とそうとするかのように、周助が高く跳んでいたからだ。
(しまった、“つばめ返し”は囮か!?)
 全く跳ねないボールを打ち返すには、着地点よりも前に出て、バウンドする前に叩かなければいけない。そしてそれを必死で成し得たとしても、無理に打ち返して崩れたフォームから、次の動作へのつなぎにもたつく。──そこに、鋭いスマッシュを打ち込まれれば?

 目前に迫る対戦相手に、敗北に、赤也の背筋に怖気が走る。
 飛び上がってラケットを振りかぶる周助の姿が、あの日のリョーマの、夕日を背負って真っ黒になった影に重なった。

(ちくしょう……また同じ結末……)

 負ける、──負ける? 勝たなければいけないのに?

(──限界を超えるんじゃねーのか、俺はよう!?)

 周助がラケットを打ち下ろすのが、ゆっくりと見える。
 ボールが、放たれる。

 ──集中力を極限まで高めた状態や、もしくはそれを咄嗟に発揮しやすい生きるか死ぬかの瞬間──例えば車に轢かれそうになったりした時、周囲がスローモーションのように見え

 蓮二の言葉が、走馬灯のように過っては消える。いや彼の言葉だけはない。赤也の中の全てが、たったひとつのことだけを残して、全て削ぎ落とされていく。

 ──そのために、傍から見ると常にないようなものすごい動き、要するにファインプレー的な動きができたりする

 あのボールさえ打ち返せれば、──勝てる!

 そう思った赤也は今、ボールしか見ていなかった。
 対戦相手である周助さえ、見ていない。

 ──テニスしか、見ていない。



「まさか、赤也……」
 目の前で繰り広げられる応酬に、思わずベンチから立ち上がった弦一郎は、半ば呆然とした様子で呟いた。
「たどり着いたというのか」
 対戦相手である周助の“羆落とし”に始まり、今また戦った選手たちの技を次々に繰り出すと同時に、不規則に変化するプレイスタイル。限界を超え、他の何もかもを切り捨てて、目の前のボールのみを追う姿。
 頭で考えて動くのではなく、身体が実際体験した記憶なども含め無意識に反応してしまう、いわば己の限界を超えた者のみが辿り着くことのできる場所。

 ──無我の境地!

 まったくお前には驚かされる、と、蓮二の得意技である高速スライス“かまいたち”を繰り出す赤也を見ながら、拳を握りしめる。
 かつて自分が通ってきた色々なことを自覚なく踏襲し、弦一郎に頭を抱えさせる赤也だが、ここまでとは、と、弦一郎は、かつての精市との試合を思い出す。
 赤也はもう、ボールしか見ていないだろう。何のために今テニスをしているのかも、もしかしたら精市のことももうはっきりと頭になく、本末転倒の状態なのかもしれない。
 だふが弦一郎は、知っている。
 勝たなくてはと、何としてでも勝たなくてはと、そう思ったからこその今の赤也であるということを、病床にいる祖母のために必死になった弦一郎だからこそ、今の赤也のことが、誰よりも理解できた。

「──勝て、赤也っ! 立海大の関東優勝は、お前の手で決めろ!」

 唖然としているチームメイトを置き去りに、弦一郎は、まっすぐに声を張り上げる。

 その時、ぴくり、と、ラケットを握る赤也の指が、わずかに震えた。
 目の前に、ボールが迫る。打ち返さなければ、打ち返せないように打ち返さなければ。ならばどう打てばいい? 最も効果があるのは、一番強い技は──!

 赤也の脳裏に浮かぶのは、何をしても勝てなかった、圧倒的な三人の姿だった。



(あれは……!?)

 獲物の喉笛に飛びかかる前の虎のように、ぐっと屈めた姿勢をとった赤也に、弦一郎がハッとする。跳ね上がったボールに対し、待っていたかのように、赤也が高く飛び上がった。
 全身のバネを使い、渾身の力を乗せて放つグランドスマッシュ。しかし周助も負けてはいない。ギリギリではあるが、それを捉える。──だが。
(しまった、ガットが……!)
 どれほど強い球だというのか、単なる威力、そして強烈なスピンのせいで、周助のラケットのガットがブチブチと千切れた。

 しかも、やっとのことで返した球を目で追えば、そこには、再び喉笛を狙って地に沈む、虎の姿があった。
「駄目だ、またアレが来る! 不二のガットじゃ……!」
 英二が叫ぶ。周助のガットは、一本二本千切れたどころか、完全に穴が空いている。このガットで、先ほどの強烈なグランドスマッシュを返すのは、誰の目から見ても不可能だった。双方のデータマンが、返せる確率は2パーセント、と揃って呟く。
 虎が、飛び上がる。わあ、と、観客が声を上げた。
「……やはり、あのグランドスマッシュは、真田君の……」
 比呂士が言ったそのとおり、先程から赤也が繰り出しているのは、弦一郎の技のひとつ。

 一番強い技を、絶対に返せない球を!
 それのみをひたすらに思い、我を無くして戦う赤也が無意識の最中選んだのは、一年前、赤也をこてんぱんにした、風林火山の“火”に他ならなかった。

「──不二先輩っ! フレームだっ!」

 リョーマの高い声が、渦巻く完成を裂き、周助の耳に届く。
(ありがとう……、越前!)
 真っ暗な視界の中で、強烈に重い衝撃を感じる。天才・不二周助。彼は全く見えない暗闇の中、絶妙に手首を返し、フレームでボールを打ち返した。
(来い……何度でも!)
 返したとはいえ、強引な返球であることはわかっていた。赤也は容易く打ち返してくるだろう、しかし何度でも受けてみせると、周助もまた、疲れた体を起こして走る。

 だが、周助が覚悟していたインパクト音は、いつまでたっても聞こえてこなかった。



 赤也は、周助の打ったボールに追いついていた。しかし、その手は、無手。
「……暴走しすぎたか」
 コートの端に吹っ飛んでいる赤也のラケットを一瞥して、弦一郎は呟いた。
「お前の握力では、まだ“それ”は扱えまい」
 赤也が繰り出した“火”は特にそうだが、風林火山の全ては、弦一郎の、現在は最大90キロ以上にもなる握力が大きな基礎になっている。赤也は全身のバネを使うことで握力の不足をカバーし“火”を放ったが、やはりそれでは足りなかった。

 ──ゲームセット! ウォンバイ不二、7−5!

 限界を超えても、我を無くしても。
 全ての指をへし折ろうと、絶望は容赦なくやってくる。

 ネット越しの握手の直前、無我の境地の反動で崩れ落ちた赤也に、弦一郎は、目を細めた。
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BY 餡子郎
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