心に迷いなき時は人を咎めず
(五)
 一週間後。
 いかにも夏空の晴天とまではいかぬが、雨の気配のない薄雲の空である。

 再び、会場は東京。
 しかしギャラリー席の多くは立海大付属の応援、もしくは彼らを目当てに観に来た者がほとんどであった。東京、神奈川、いや関東という枠を超えて、全国から彼らの偵察にやってきている顔ぶれも、珍しくはない。
 土地柄的には青学のホームグラウンドのはずだが、雰囲気的にはまるきりアウェーである。
 だがそれも、当然であろう。何しろ立海は関東大会十五連覇、全国大会二連覇という輝かしい記録を持つ、まさに王者。対して青春学園は、今までいまいちぱっとしない中途半端な戦績しかない。しかも、学校の枠を超えて誰もが注目する部長、日本ジュニアテニス界の至宝・手塚国光は、怪我により不在。
 誰もが予想しない大穴として、ここまで勝ち上がってきたダークホースに皆それなりに興味はある。しかし、立海大付属の勝利を、誰も疑ってはいない。そんな雰囲気が、すっかり出来上がっていた。

《──只今より、関東大会決勝戦、神奈川・立海大付属 VS 東京・青春学園の試合を始めます!》

 ネットを挟んで、両校の選手が並ぶと同時に、アナウンスが流れる。観客席から、学生テニスの試合としては大きな歓声と拍手が上がった。
 立海のメンバーが全員どちらかというと長身なのに対し、青学は背丈や体格にばらつきがある。そして、中でも一等小柄な姿に、自然、弦一郎は目を向けた。
「ん?」
 その視線に気づき、リョーマが顔を上げる。その表情は、あっけらかんとしていた。
 あれほど手酷く弦一郎に負けておきながら、弦一郎を見返す目には、恐怖どころか、何の気負いも浮かんではいなかった。生意気を通り越して、図太いにも程が有るメンタルである。
 そして弦一郎以外にも、赤也はもちろん、その他のメンバーも、リョーマに注目していた。手塚国光がいない今、彼らが最も注目しているのは、やはりこの越前リョーマに他ならない。

 ──とはいえ、試合ができるかどうかはわからんがな。

 と、弦一郎は口に出さず、ただふっと息を吐いた。
 越前リョーマは、最後のS1。弦一郎もS1なのでもし戦うならば自分であるが、まずその順番が回ってくるかどうか、と、弦一郎はすっと目を逸らした。

《両校部長は、前へ!》

 アナウンスに従い、立海からは弦一郎、青学からは、秀一郎が進み出た。
 奇しくも、本来の部長が不在であるがゆえの、部長代理の副部長同士の挨拶である。

「宜しく」
「よ、よろしくっ」
 弦一郎の記憶通り、温和で善良そうだがそのぶんどこか遠慮がちな印象の彼は、弦一郎が差し出した手を握った。
 よく練習していることがわかる、豆が潰れては硬くなりを繰り返した手。しかし、弦一郎の手を握る力は弱い。せいぜい五センチくらいしか背丈が変わらないはずの秀一郎は、どこか背丈を丸め、おどおどした様子で弦一郎を伺うようにしていた。

「王者立海に、胸を借りるつもりで……」
 しかし、そこまで言った秀一郎は、ふと止まった。
 どうしたのか、と弦一郎が思った瞬間、彼はすうっと息を吸うと、まっすぐに弦一郎を見る。決意が篭ったその輝きに、弦一郎は、帽子の鍔に陰った目を、僅かながら見開いた。

「──俺達は、勝つ為に来た!」

 先ほどとは打って変わって、まっすぐに背筋を伸ばし、秀一郎は宣言した。
「青学は、キミら立海に勝って、──必ず優勝してみせる!」
 爽やかに響く声は凛々しく、観客席まで伸びやかに響いた。
 王者・立海大付属に向かって、堂々たる勝利宣言。しかも部長不在の状態で、代理の副部長が行ったそれに、誰もがぽかんと口を開けている。

「……ほう」
 手塚国光がいれば良いサポート役、副部長であるが、単独となれば頼りない、ダブルス向きの選手。手塚国光の後継とはなりえない器の男と思っていたが、なかなかどうして、それなりの覇気はあるようだと、弦一郎は、受けて立つ、という意思を込め、握手した手の力を強めた。
 とはいえ、我に返ったらしい秀一郎は、自分がやったことのくせに驚いた声を上げ、さっさと青学ベンチに戻ってしまったのであるが。

 弦一郎もまた、ベンチに戻る。
 待っていた面々をすっと一文字に見渡すと、弦一郎は、一言告げた。

「──潰すぞ」

 途端、全員から、好戦的なオーラが立ち昇る。一切手加減せぬといわんばかりの、殺気に近いようなそれを平然とくぐった弦一郎は、悠然とベンチに腰掛けた。






 まずD2、丸井ブン太&ジャッカル桑原のベアは、割と危なげなく桃城武&海堂薫に勝利した。
 途中何度か食い下がられることがあったものの、最後まで立海レギュラーの鉛入りのパワーリストを外さないままの勝利は、余裕で勝ったと言っていい結果だろう。
 しかも、ジャッカルは体力勝負を真っ向から受けて立ち、ブン太もまた、そのテクニックだけでどこまでやれるかというようなやりあいをふっかけられたが、見事勝利した。
 いつもどおりのその結果と、そして自分好みの勝利に、弦一郎はウムと満足気に頷いた。

 片やブラジルハーフという恵まれた身体能力、片や天才的と本人も自称するスーパーテクニックと、生まれ持った才能での強さと思われがちな二人だが、才能だけではここまで来れない。
 四つ肺があるのではとまで言われるジャッカルの体力は、日々の弛まぬ鍛錬の賜物だ。一年生が洗礼として命じられる地獄の扱きのメニュー、皆が脱したと途端に清々したとばかりにやらなくなるそれを、彼は新入部員を脱しても、二年生になっても、そしてレギュラーになった今でも自主的にこなし続け、今では軽く三セットはこなしてみせる。
 そしてブン太、彼の練習量もまた異常である。ネットの上にボールを転がす綱渡り、ポールに当ててイレギュラーバウンドを狙う鉄柱当て。何万回と言っても足りないほどの練習があってこそ、試合で“天才的”な百発百中足りうるのだ。

 続いてD1、仁王雅治&柳生比呂士 VS 大石秀一郎&菊丸英二。ゴールデンペアとしてダブルスでは有名な二人を相手取ったがしかし、立海が勝利をおさめた。
 メンタル刺激を大きく絡めたゲームメイクは“詐欺師”雅治の十八番である。今回は入れ替わりという、今まででもなかなかトリッキーな作戦を用いるのは聞いていたが、目の前で見ると相手の動揺がよくわかる。
 集中を要する大舞台の試合で認識を大きく揺さぶられることをされると、非常に気が散り、調子が乱される。そして自らはそれに引っ張られて自滅しないメンタルが必要であるし、パートナーの柳生もそれについていかなくてはならない。
 さらに雅治はこの入れ替わりのために、比呂士の一撃必殺のレーザービームにごく近いレベルのパッシングショットまで打てるようにしてきていたのだ。地盤の実力の高さが、奇策をより万全に行わせるのだと、雅治はすっかり証明できるレベルになっていた。

「……思ったより、仕留めるのに時間が掛かりそうだな」

 それぞれ勝ったにしろ、思ったよりは時間がかかっている。
 S3は蓮二、三強の一人である。危なげはないだろう、と判断した弦一郎は、幸村に連絡を入れてくる、とベンチから立ち上がり、フェンスを超えて外に出た。



 病院に電話を掛け、受付に取り次いでもらう手順も慣れたものだ。
 もう馴染みになっている看護師の声に「お願いします」と答えてしばらくすると、聞き慣れた声が携帯電話から聞こえてきた。

「もしもし。どう、勝ってる?」
「無論だ。予定通り勝ち進んでいる」
「そうか」
 精市もまた、はっきりした──しかし、電話越しでも少し震えているのがわかる声で言った。
「こっちも、予定通り手術を受けることになった」
 ちょうどその準備を細々していたところ、と、精市は潜めた声で報告する。続いて、そろそろ両親も来ると思うとか、妹の顔を見たら元気になるかもしれないから連れてきてもらえるように頼んでいる、などと雑談に近い事柄に、弦一郎はうむと頷いた。

「それはいい。お前は妹が絡むとテンションが違うからな」
 中学二年生になる頃に生まれた精市の妹は、そろそろ一歳半になり、よちよちと歩き始め、ある程度の簡単な言葉も喋るようになっている。
 ベビーベッドに転がっているか抱っこされるだけの乳児の時から精市の溺愛ぶりはかなりのものだったが、歩いて話し、キャッキャと笑いかけるようになってからは、もうメロメロのデロデロだった。俺のお姫様だの妖精か天使かだのと、下にも置かない扱いである。
 にいに、と呼ばれるだけで、精市の顔がだらしなく蕩けるのを見る度に呆れているのは弦一郎だけではないが、同時に、そんな存在が精市にいてよかった、とも思っていた。

「そりゃあ、何よりかわいい妹だから」
「……赤ん坊は、周りも元気づけてくれる存在だ。精々励ましてもらえ」
 祖母の、枝のようになった細い指を握った小さな手と、痩せ衰えてもこの上なく幸せそうに笑う顔を思い出して、弦一郎は静かに言った。
「お前、佐助くんが大きくなるに連れて言うことがおっさん臭くなるよな」
「やかましい」
 弦一郎は苦虫を噛み潰した顔をしたが、実際のところ、自覚はある。
 兄夫婦が忙しい時、もう五歳になる甥っ子の面倒を全面的に見ているのは弦一郎だ。来年には小学校に入る歳になった佐助は生意気盛りの元気盛りで、父方の血か口も達者だ。あまり言葉の応酬が得意ではない弦一郎はぐぬぬと黙らされることも多く、手を焼いている。
 その上、学校や部活では精神年齢は佐助と変わらないのではと疑う、しかし性格がチンピラで図体だけはでかい赤也の面倒を見ているのである。気持ちが老けもするわ、と、弦一郎は内心悪態をついた。

「まあ、……とにかく」
 精市は、ふう、と、深呼吸のような息をついた。

「もう、迷いはない」

 今度こそ、この上なくきっぱりした声。
 覚悟を決めたその声に、弦一郎の背筋も伸びる。
「……頑張れよ。手術前には、そっちへ向かう。関東優勝の土産を持ってな!」
「楽しみにしてるよ」
 少し笑いの混じった精市の声を最後に、弦一郎は通話終了ボタンを押した。携帯電話を右のポケットに突っ込み、前を向く。

 ──ガシャン!

 弦一郎は、足を止めた。試合会場に戻ろうとする弦一郎の目前にある屑篭に、炭酸飲料の缶が投げ入れられたからだ。
 コントロールが悪ければ、弦一郎に当たっていた。近くに人がいるのにゴミを投げるという行為は、弦一郎に某かの喧嘩を売ろうとしているか、単にマナーが悪い輩の仕業か、どちらかである。
 そして首だけで振り返った弦一郎は、それが前者であることを確信した。

「ねえ」

 見覚えのある、白い帽子を被った、小柄な姿。青春学園のレギュラージャージが、夏の風に翻る。──越前リョーマだった。
「だいぶ試合、急いでるみたいだね」
「お前の知ったことではない」
 一週間前、弦一郎にあれほど完膚なきまでに叩きのめされたにもかかわらず、リョーマの表情は不敵で、口元には笑みさえ浮かんでいる。改めて、生意気という言葉では到底足りないふてぶてしさと図太さに、弦一郎は、もはや呆れを超えて少々感心を覚えながら返答した。
「よしんばそうでなくても、次の試合で立海大の優勝が決まる」
 現在、立海の二勝。次に勝てば、ストレートで立海の勝利、関東大会優勝である。
 しかも、次の試合は蓮二だ。三強の一人であり、間違いなく精市と弦一郎の次に強く、常勝の誓いを立ててから唯一負けたことのないメンバーの一人だ。
 そして、気安い仲への多少の甘えもあるが、蓮二だからこそ、弦一郎は勝利を疑わず、こうして電話するために試合会場を出てきたのである。

「……ところで一つ、聞きたいことがある」
 少しばかり無言の時が流れたが、ふと思い至って、弦一郎は口を開いた。
「何スか?」
「お前は、本当に赤也に勝ったのか?」
 それは、先日から弦一郎が気になっていたことだった。
 一週間前のリョーマとの野試合で抱いた弦一郎の感想は、「一年生の時の赤也よりは強いかもしれない」程度のものだった。そしてだからこそ、一年間、打倒三強を掲げ、常勝の誓いをもって死に物狂いで強くなった赤也が、彼に負けたということに納得がいかなかったのだ。

「さあ……、あまりよく覚えてない」
 初めて、リョーマが、バツの悪そうな、不貞腐れたような声を出した。負けてたのは覚えてるけど、とぶつぶつ小声でつぶやくのを聞いた弦一郎は、なるほどやはり、と確信する。
 無我の境地は、極限の集中力が生み出す現象である。それは心身ともに追い詰められている時に発現しやすく、そしてスポーツの場においては、これ以上なく疲れ果てて思考が朦朧としている時にも起こりやすい。
 スコアと、赤也とジャッカルという当事者という動かぬ証拠から、リョーマが勝ったのは事実。しかしこの性格のリョーマが、自分の勝利を覚えていないというのは考えにくい。
 リョーマは赤也との試合で相当追い詰められ疲れ果てているところ、無我の境地を発動させた。そしてただでさえ疲労しているところの発動で力尽き、気絶したのではないだろうか。かつて自分も体験したことを根拠に、弦一郎はそう当たりをつけた。
 そして、無我の境地に詣れる己に気付いたからこそのこのふてぶてしいまでの態度なのかもしれない、とも見積もった。無我の境地には、限界を超えたが故、強い万能感も付随するからだ。

 生きるか死ぬかの一瞬だけ現れる火事場の馬鹿力ならともかく、スポーツや芸術といった分野で無我の境地まで到れる人間というのは、多くない。まだまだではあるが、精市や国光以外で、そのレベルに達することの出来るセンスを持っているリョーマに、弦一郎は興味が無いわけではない。
 そしてまた、無我の境地への道を選ばず、己のテニスの道を進み続ける弦一郎だからこそ、無我の境地の万能感に浸っているだろう少年の心を折ってやりたい、残酷な闘争心が沸き起こってもいた。
「まあ、……お前のその鼻をヘシ折れなくて残念だ」
 しかし、このまま行けば蓮二の勝利によって立海が優勝、S1に設定されている弦一郎とリョーマが戦うことはない。
 そう断じた弦一郎は、止めていた足を動かして、リョーマを振り返らず歩き始める。

「ねえ……」

 再び、リョーマが声を発した。
 完全に声変わりをしていない少年の声は、少し低い。

青学ウチを、あまりナメない方がいーよ」

 僅かな激情が含まれたその声に、弦一郎は振り返らなかった。






 わざわざベンチの背に尻を置き、本来腰を落ち着ける場所に土足をつけていた赤也の耳を引っ張って退かしている弦一郎を視界の端に置きながら、蓮二は目の前に立つ幼馴染を見た。

 ──乾貞治。
 青春学園中等部三年十一組二番、六月三日生まれのAB型。現在の身長は184cm、体重62kg。利き腕は右。背が伸びてから現在のプレイスタイルは、完全にサーブ&ボレーヤー。出身小学校は、かつて蓮二も通った緑川第一小学校。

「久方ぶりだな、貞治」
 他の誰より詳細な“データ”がある、彼に会うのは──
「四年と二ヶ月と十五日ぶりだ」
 蓮二の持つデータと相違ない返事をした貞治に、蓮二は僅かに頷いた。

 蓮二の急な転校で、小学校五年生の時に別れた幼馴染は、蓮二が教えた“データ”という概念を理解できる、数少ない人間だった。
 それどころか、あらゆる面から、どちらかと言えば文系的な捉え方でデータを分析する蓮二と違い、貞治はどこまでも理系的で、数字にこだわるデータの捉え方をする。別れた頃には、彼はもはや蓮二とは全く違うタイプのデータマンになっていた。

 彼と、これからもダブルスを組むことが嫌だったのではない。むしろ、タイプの違う二人のデータマンが組むことで、より盤石なデータテニスが出来るだろう、とも思っていた。
 しかし蓮二は、貞治のことを誰より近くで知れば知るほど、彼がダブルスよりもシングルスに向いていることを確信したし、それよりも、──思ってしまったのだ。自分のデータと、貞治のデータ、勝つのはどちらだろうか、と。
 それは、まさにデータマンだからこその、強い好奇心によるもの。

 業が深いものだ、というのは、蓮二にも自覚がある。
 柳の血筋は、趣味人の血筋だ。己がこだわるひとつの道を極めんがため、他のものを躊躇いなく切り捨てる。蓮二はことさらその血が濃く、“データ”を何よりも信じ、愛し、その全てを捧げてきた。
 そんな蓮二にとって、中途半端な試合を最後に、初めて出来た親友に何も言わずに姿を消すことも、データのためとあらば、躊躇いは少なかった。多少罪悪感はあったが、あくまで多少である。
 しかし同時に、確信もしていた。同じデータマンである貞治なら、己の意思を予想できるはずだ、と。

 その予想通り、調べればすぐわかるはずの蓮二の居場所に、貞治は一度も会いに来なかったし、連絡もしてこなかった。
 お互いのデータのどちらが上回っているのかというデータを得るためだけに、その好奇心のためだけに、二人は四年と二ヶ月と十五日を費やした。

 ──そして、その長い実験の結果。その“データ”が今日、明らかになる。



「……名残惜しいが、宴はおしまいだ」

 僅かな失望、そして無念をもって、蓮二は静かにそう言った。
 ゲームカウントは、3−2、蓮二の優勢である。予め収集していたデータの確認を兼ねて最初こそ様子見をしていたが、その後は蓮二が貞治を圧倒した。
 相変わらず貞治のデータは数字に偏っており、それに固執した柔軟性のない動きが、貞治を束縛している、と蓮二は結論づける。
「ふ……ふふふ」
 涼し気な佇まいの蓮二に対し、滴るほどの汗を書いて大きく息を整えている貞治は、低い笑い声を上げた。
「そうか、お前も本気だったって事だな、……教授」

 教授、懐かしい呼び名だ。データに拘る自分たちに、二人はお互いに、博士、教授、とあだ名を付けて、度々ふざけて呼び合った。
 遊び心の象徴でもあるその呼び名を向けられて、当然だろう博士、と、蓮二は思った。──が、口には出さない。

 蓮二は、データマンだ。
 勝つことそのものよりも、なぜ勝ったのか、なぜ負けたのか、このショットはどのようにして、どうしてここでああ走ったのかと、“データ”を収集し分析する事こそを本意とするデータマン。勝利を目指すのは、己のデータの正確さを証明するためでしかない。
 だから本来ならば、貞治が集めたデータがどういったものなのか、わざと色々な打球を試してみたくもある。
 しかし今、視界の端には、ずんと腰を下ろし、試合を見ている弦一郎がいる。その後ろには、精市の手術開始の時間に間に合うように、ラケットバッグをすぐ近くに置いて素早く移動できるようにした仲間たち。

 蓮二は、データマンである。教授という、遊び心に溢れたあだ名もある。
 ──しかし今、柳蓮二は、常勝を掲げた、王者立海の三強の一人、達人、参謀、柳蓮二であった。勝たねばならぬ、その時だった。

(タイミングが良くなかったか)

 と考えて、いや、と、蓮二は自分の考えを振り払う。
 いくらデータがあっても、考えてもどうにもならないことがあるのを、蓮二はよくよく知っている。起こったことは仕方がないし、それが時の運、運命というものだ。そしてだからこそ、今まで集めてきたデータでもって運命に抗いどうにかして攻略することに、プライドを持ってもいる。
 だから自分が今すべきは、持てるデータで持って完膚なきまでに貞治を叩き潰すことである。
 そう改めて腹を決めた蓮二は、弦一郎たちを背に、幼馴染に向き直ると、計算通りのサーブを放った──が。

「……自分のプレイスタイルを捨てた者に、勝利はない」

 僅かに眉を顰めて、蓮二は言った。
 データどおりなら、貞治は、蓮二が打ったサーブを、ネット際へのドロップで返すはずだった。しかし彼はそれをせず、どころか、明らかに“何も考えていない”、ただ向かってきたボールを全力で真っ直ぐ打ち返しただけだったのだ。
(データを捨てたか、貞治)
 己のデータが通用しないならばと、動物的カンでもってプレイする。その安易なやり方をとった貞治に、蓮二は自分でも驚くほどに落胆した。
 とにかく向かってきたボールを手当たり次第に拾って返す、といった様子の貞治のプレイを、青学メンバーは絶賛しているようだったが、蓮二は全く逆だった。

(お前は、俺と同じデータマンではなかったのか、……博士)

 “データ”を何よりも信じ、愛し、その全てを捧げるデータマン同士。だからこそ親友と思っていた幼馴染が、データを捨てて己に向かってくる姿を、蓮二は冷ややかに見遣る。
 貞治は最初こそ勢いで幾らかのポイントを取っては見せたが、カンでプレイしているだけあり、フェイントも何もない単純な動きしかしない。そのため“データ”はすぐに揃い、再び蓮二は貞治からポイントを毟り取り始める。
「柳蓮二の勝率、92パーセント……」
 計算しつくし、温存していたパワーを、スピードを上げていく。
「柳蓮二の勝率、94パーセント」
 更に上げる。蓮二が打ち返したボールがネット際に鋭く突き刺さろうとするのを、貞治が長身の姿勢をめちゃくちゃに崩し、必死に拾う。
「柳蓮二の勝率、97パーセント……、否……」
 完全にフォームが崩れ、次の動きに対応できないことが確実な貞治の姿を目の端に見ながら、蓮二は返ってきたボールを、易々と拾い上げる。

「──100パーセントだ」

 ショットとも言えない、ただラケットで拾って跳ねさせただけといったやり方で小さく山を描いたボールが、ポトリ、とネット際に落ちて転がった。
「何だ、これは?」
 膝を付いている貞治を、蓮二は見下ろした。
「お前の四年と二ヶ月と十五日は、こんなものか……」

 過去を凌駕すると言った、蓮二が教えたデータを捨てた、幼馴染。
 そんな彼に、過去に、蓮二は背を向けた。

「あまり失望させるな……、貞治」

 自分のプレイスタイルを、データを捨てた時点で勝利は潰えると、蓮二は思っている。なぜなら彼はデータを信じ、愛し、他のすべてを捧げてきたデータマンであるからだ。
 幼馴染に背を向けて見えるのは、ただ勝利を望む、今の仲間たち。──このセットを取れば、蓮二の、立海の勝利。関東大会優勝である。
 蓮二の、四年と二ヶ月と十五日のデータが正しかったからこその勝利ではない。ただ貞治が、同じだけの年月、離れていても共有していたはずの年月録ったデータ、信念。己の、自分たちのテニスを捨てたがゆえの勝利。

 ──目の前の栄光に感じる虚しさに、蓮二は人知れず、深く落胆した。

「決めろ」

 弦一郎が低く言った一言に機械的に頷いて、蓮二はサーブを打つため、ライン際に立つ。

「行くぞ貞治、覚悟!」
「……俺は、絶対に負けない」

 絶望的な状況のはずだ。それなのに、まだ“根拠の無い”こと──データマンにあるまじきことを言う貞治に、蓮二は怪訝な顔をする。──だが。

(この、台詞は)

 そうだ、と、蓮二は思い出した。そして、驚愕に目を見開く。
 四年と二ヶ月と十五日前、自分は同じことを言ったのではなかったかと。

(あの時と同じ……、あの時も確か、5−4で)
 ものすごいスピードで、蓮二は自分の頭の中のデータを掘り返す。それは、膨大なページ数のノートをめくる感覚に似ていた。
 蓮二の特技は、文字情報ならば一度覚えれば決して忘れないこと。だから蓮二はデータをノートに書きつけさえすれば、それを忘れることはない。
(違う……、それだけではない、この試合展開は……まさか)
 あの日も、蓮二はノートにデータを書き付けた。四年と二ヶ月と十五日前の試合展開。スコア、ポイントを取ったショット、サーブの順番、ラリーの数。

「貞治……、お前ワザと」

 乾貞治、青春学園中等部三年十一組二番、六月三日生まれのAB型。現在の身長は184cm、体重62kg。利き腕は右。背が伸びてから現在のプレイスタイルは、完全にサーブ&ボレーヤー。出身小学校は、かつて蓮二も通った緑川第一小学校。
 蓮二が“データ”を教えた彼は、どこまでも“数字”を重視する、蓮二とは全く違うタイプのデータマンになった。

「続きは、ここからだったはずだな」

 スコアボードに大きく提示された5−4の“数字”を横目に、貞治は、立ち上がった。
 蓮二がもう遠く忘れてしまっていたデータを、彼は何度も何度も洗い直していた。それはこの日のため、自分たちのデータの正確性を証明するために他ならない。
 彼はデータを捨てるどころか、死に物狂いになって、この大舞台でもってなお、実験のためのデータを揃えていたのだと、蓮二はその時思い知る。

「あの時のデータ通りに、俺は打たされていたというのか!? あの時と、全く同じゲーム展開になるように……!」
 蓮二が、叫ぶ。その声には、驚愕と、そして、同じ志を、データを愛する者にしかわからない、これ以上ない歓喜が混じっていた。
「だが、それも、ここまでだ……」
 その歓喜を正しく感じ取った貞治は、ほんの僅かに口元に笑みを乗せる。そうだ、やっと正しく準備が整ったのだと。

「蓮二、ここからのデータは無い。決着をつける!!」
「──返り討ちにしてやるぞ、貞治っ!!」

 四年と二ヶ月と十五日をかけた、実験の結果。
 新たなるデータをお互いに得られる喜びに、二人のデータマンは向かい合った。
 / 目次 / 
BY 餡子郎
トップに戻る