心に迷いなき時は人を咎めず
(四)
関東大会決勝が雨天延期になった翌日、夏休みに入ると同時に、精市の手術の日が決まった。
奇しくもそれは延期になった決勝戦が行われる当日で、精市の枕元にあるカレンダーには、『関東大会』と『手術日』のメモが、同じ七月二七日に書き込まれている。
免疫系の病気は、基本的に、長い時間をかけた薬物治療が用いられる。
しかし精市本人の希望により、とにかく即効性のある迅速な治療が求められた。最初は渋っていた医師たちであったが、様々な検査を半年近くかけてやり尽くした結果、悠長な長期治療よりも、まだ症状が重くない内に短期で治療したほうが良い、と意見がまとまって、手術という手段が選択されたのだ。
「上手く行けば、全国大会にも間に合う」
と、精市は半端な笑みを浮かべて言った。
行われるのは割腹する手術ではなく、骨髄への細胞移植と、脳の一部に繋がる神経への、微細な電気刺激というものである。
大きな傷を作る手術ではないので、確かに、上手く行けばさほど間もなく激しい運動もできるだろう、というのは医師たちも認めるところだ。しかし全国大会に間に合わせるにはそれなりに無理のあるリハビリと、それ以降の身体の具合への心配をある程度無視した決意が必要でもあった。
精市の半端な笑顔が、それによる恐怖からくるものであるのは誰の目にもあきらかであったが、さすがにそれを咎める者はいなかったし、弦一郎もまた、重々しく「そうか」と言っただけだった。
手術が決まった祝い、と称して精市の病室に集まった面々は、ことさら明るい顔を作って精市に声をかけた。うまくいくに決まっている、と全員が口にし、まるでもう病が治ってしまったかのように振る舞う。
それは弦一郎の信念の一つでもある言霊への信仰を守っている様でもあったが、特にそうしようとしてなったわけではない。どうにもならない現状から、なんとかして望んだ未来を引き寄せようとする、半ば本能に近い行動を取った結果、そのようになったのだ。
「……関東大会」
ダブルスペアの四人が先に帰り、三強と赤也のみとなった病室。
夏の赤い夕陽が差し込む中、弦一郎は、静かに言った。
「いつもどおり、勝つ。だから、お前も勝て」
「……言われなくても」
やたら重々しく言う弦一郎に、精市は、先程よりは半端さのない、にやりとした笑みを浮かべてみせた。
「お、俺も! 俺も勝つッス!」
椅子から腰を浮かせて、赤也が身を乗り出した。
「へえ。つい最近負けたって聞いてるけど?」
「うっ」
「しかも、青学の一年生に」
「うううっ」
目も合わせずちくちくと言う精市に、赤也は涙目になった。しゅん、と肩が下がると同時に、いつもはもじゃもじゃと威勢よくあっちこっちを向いているうねった黒髪の毛先も、一斉に下を向いてしょぼくれているようだった。
「……それについては、制裁は終わっている」
赤也をかわいそうに思ったわけではないだろうが、弦一郎は静かに言った。
「越前リョーマのことだが」
と切り出して、弦一郎は、彼に請われて野試合を行ったことを報告した。
「副部長自ら、公式試合前に野試合?」
「それについては、すまなかった」
呆れた目を向けてくる精市に、弦一郎は、素直に頭を下げたばかりか、自ら「罰則として、素振り一万回を行う」と誰に言われずとも宣言した。
「副部長まさか、俺の仇を取ろうと思って……」
「いや別に、売られた喧嘩を買っただけだが。あとはまあ、蓮二のデータになればと思ってな」
「あーそースか……」
そんなこったろーと思いましたけど、と赤也は半眼になった。
「そうか。では有り難くそのデータ、拝聴しよう」
蓮二がどこかうきうきとノートを取り出す。しかし彼だけでなく、リョーマと戦い敗れた赤也も興味津々であるし、精市もまた、面白そうな顔をしている。
弦一郎は、うむ、と頷いた。
「ワンセットマッチ。ワンポイントも取らせず、ラブゲームで俺の勝ちだ」
「……あー、やっぱり?」
いい気味、と言いたいところだが、そもそも打倒三強を掲げた上でリョーマに負けている赤也は、面白くなさそうに下顎を突き出した。
「しかし、あれは」
弦一郎は、あの時、どれほど圧倒的な敗北を喫しても決して絶望の色を浮かべない、それどころか弦一郎を観るよりもひたすらにボールだけを追い続ける、きらめく目を思い出す。
「あれはおそらく、無我の境地の使い手だ」
「……へえ」
「何スか、むがのきょーちって」
少し興味深げに嗤った精市と、きょとんとしている赤也。そこに、蓮二がすっと切れ長の目を開き、口を開いた。
「“無我の境地”。主に仏教における哲学的表現を用いた名称と思われるがつまり、極限の集中力が成せるZONE現象のことだ」
「ぞーんげんしょう」
いかにも馬鹿面を晒す赤也に、弦一郎は眉間の皺を深め、精市は生暖かい目をする中、蓮二だけはいつもどおりの涼しい顔で続けた。
「集中力を極限まで高めた状態や、もしくはそれを咄嗟に発揮しやすい生きるか死ぬかの瞬間──例えば車に轢かれそうになったりした時、周囲がスローモーションのように見え、そのために、傍から見ると常にないようなものすごい動き、要するにファインプレー的な動きができたりする」
「あ、なんかわかるッス」
赤也は、顎に手を当てて、こくこくと頷いた。弦一郎と精市は、本当にわかっているのかこいつ、と疑わしい顔をしているが。
「それを踏まえて、“無我の境地”とは……テニスに限らず、全てのスポーツや芸術表現の場などで起こりうる現象だ。極限の集中力が成し得る、今まで蓄積した経験や潜在能力を一時的にすべて発揮し、普段出せる数倍の能力を使えるようになる状態」
「……赤也」
弦一郎が、低い声で問いかけた。
「越前リョーマとやりあった時、奴が光ったように感じなかったか?」
「なんで、知ってんスか!」
「無我の境地の特徴だ」
原理はよくわからんし、錯覚かもしれんがな、と弦一郎は言った。そのやたらに落ち着いた声に、赤也は浮かせた腰を再び椅子に落ち着かせると、しかめっ面をして黙りこむ。
だがしかし、そう言われれば、赤也にもそれなりに納得がいった。その他にも弦一郎は、急に汗が引く、今までにないような、予想外の動きを次々に見せるなどの特徴をつらつらと述べたが、その全てに、越前リョーマは当てはまっている。
「……って、なんでそんな色々知ってんスか。先輩たち、無我のキョーチ使える奴と試合したこと……」
「あるよ、……っていうか、できるしね、俺たち」
「ハァ!?」
けろりと言った精市に、赤也が目を丸くする。
「正しくは、俺と、真田ね」
「み、見たことねえんすけど!?」
「あえてやらんからな」
弦一郎が、息をつきながら言った。
「な、なんでっすか? そんなスゲーもんなら……」
「性に合わんというのが一番の理由だが、……それに、凄いといえば凄いが、無我の境地は弱点も大きい」
「弱点! 何スか!?」
目を爛々とさせる赤也に、精市がくすっと笑う。
「まず、今までにないことをいきなり次々やるわけだから、心身ともにものすごく疲れる。つまり、バテるのが劇的に早まる。その子、試合終わった途端に気絶したりしなかった?」
「……しました」
「試合の途中で倒れてたら、お前の勝ちだったね」
しれっと言う精市に、赤也は唸った。
「ジュニア選手のうち、無我の境地が使えるのは、精市と弦一郎、あとは……、九州、熊本の千歳千里だな。しかも奴は無我の境地に大層な興味を持ち、色々と研究しているらしい」
「柳先輩は、しないんスか? 無我の境地」
赤也がそう言ってちらりと見ると、蓮二は、涼しい顔で肩をすくめた。
「原理はわからんでもないから、しようとすれば出来るかもしれん。……が、興味はないな」
「なんで?」
「無我の境地は、“何も考えないこと”でリミッターを排除するやり方だからだ」
蓮二は、きっぱりと言った。
「無我とはつまり、我を無くすこと。知能のある生物が行動する時、まず思考し、実際に行動に移すというのが通常の流れで、その思考プロセスができるからこそ知能がある、我があると見なされる。我思う、故に我有り。しかし無我の境地はその“思考”というプロセスを排除し、いきなり行動に移す。もしかしたら日常的に抱える意識までも無視し、今までの鍛錬で得た技を無意識かつ全力以上に発するようになる状態が無我の境地だ」
「えーっと」
「……つまり、ブルース・リーの「考えるな、感じろ」であり、お前の好きなゲームでいうところの「ガンガンいこうぜ」による、あらゆる手段を出し惜しみしない、攻撃重視のオートモード戦闘のようなものだ」
「あ、よくわかったッス」
「だが“考えない”ので、リミット解除で攻撃力のブーストはかかるものの残存体力などを考慮しないため、消耗が早い」
「なるほどー」
蓮二が持ちだした例えでの説明に、赤也は、本当によくわかった、という感じで頷いた。しかし今度は逆に弦一郎が疑問符を浮かべて首をひねっており、精市は「蓮二は本当に説明がうまいなあ」と感心している。
「俺は、データマンだ。データマンが“考えるな、感じろ”などとやってどうする」
この上なく説得力のあるその言葉に、今度は三人ともが頷いた。
「とはいえ、……無我の境地の中でも、“才気煥発の極み”には多少興味があるがな」
「ああ、なるほど。お前なら、そうだろうな」
「ううっ、またなんかコムズカシー言葉出てきた……」
今度はまた逆に、弦一郎が頷き、赤也が頭を抱える。
「……無我の境地を極めると、その向こうに、三つの扉があるとされる。“才気煥発の極み”、“百錬自得の極み”、そして──“天衣無縫の極み”」
「はあ」
「無我の境地は、大雑把に言えば他のすべてを犠牲にして、全力以上の全力を手当たり次第に出しきる技だ。しかしそれを用途別に絞ればより強力な威力が発揮できる上、無我の境地よりコントロールがきく。つまり、無我の境地を意図的にコントロールしたパターンだが、これが三種に別れる」
無我によるブーストを身体技術のみ、あるいはもっと狭めて身体の一箇所のみに絞ることで無駄な体力のロスを減らすとともに、さらに爆発的なパワーを得る事が出来る“百錬自得の極み”。
無我の境地では一切捨てていた“思考”にあえて全てを集中させる。己の持つ手札そのものを強化するのではなく、今の状況を冷静に見極め、囲碁や将棋の手のように何手先までものシミュレートも可能にし、最小限の力を組み合わせての効果的な行動を選択できる“才気煥発の極み”。
「なんとなくわかったッス。確かに、その、さいきかんぱつ? っていうのは、柳先輩っぽいッスね。でも、ひゃくれんじとく? とかは、真田副部長使えそうじゃないッスか?」
「……無我の境地を極めていけば、おそらく俺はそちらに辿り着くだろうな」
弦一郎が言うと、精市と蓮二も、「まあそうだろう」と頷いた。
「だが、俺は無我の境地を極めるつもりはない」
「なんで?」
「うちの流派の道義と反する、というのもあるが──、俺のテニスは」
ひとつ、弦一郎は言葉を区切った。
「俺のテニスは、真っ向勝負だ」
相手の得意分野でもって勝つ。皇帝の名にふさわしい、傲慢で、ただ勝ちを求めるだけではない、あえて勝ち方を選ぼうとするテニスこそが己のテニスだと、弦一郎はいつからか、はっきりと言えるようになってきた。
「無我の境地は、あらゆる潜在能力を総動員して、何が何でも勝とうとする故に成せることでもある。勝ち方を選んで戦う俺のテニスとは、合わん」
「……ソーデスカ」
重々しく言った弦一郎に対し、赤也のリアクションは軽い。
だが弦一郎が言うやり方が、ただ我武者羅に勝ちを求めるよりもはるかに難しく、いかに圧倒的な力を付けないとできないことか、赤也も重々わかっている。
そしてだからこそ、弦一郎と自分の実力がいかに遠いのかということも改めて理解できてしまい、ふてくされたように、苦々しげに、ただ首をすくめた。
「あー……、で、“てんいむほーのきわみ”っていうのは?」
「これはよくわかっていない」
話を切り替えるように言った赤也に、蓮二は、長い脚を持て余すように組み替えながら答えた。
「だが、……先程も言ったが、無我の境地も、その先の三つの扉も、テニスだけで使われる言葉ではない。厳密な説明ができるのは無我の境地と才気煥発、百錬自得だが、単にプレイスタイルや芸風を例える表現にもよく用いられる」
要するに、とにかく技術的に優れているとか、スーパーテクニックが目立つ者を百錬自得タイプ。思いもよらない戦略を組み、その時その時の技術やパワーよりも作戦で勝つ者を才気煥発タイプと呼んだりする、と蓮二は説明した。
「映画監督や小説家などもそう表現されることがあるな。表現力が高くその場その場の修辞技法や演出に優れているのが百錬自得タイプ、全体の脚本やトリック、伏線などが巧みなのが才気煥発タイプ、といったところか」
「うむ、よくわかる」
「わかりやすいね」
三強の残り二人が感心して頷いているので、赤也もとりあえず頷いておいた。
「そして“天衣無縫の極み”だが、これはなんというか……誰も追いつけない、百年に一度の天才とか、とにかく説明できない独特のもの、というタイプを表現するのに使われるな」
「はあ」
「あとは、とにかく楽しそうで、観ている側にもそれが伝染する──といったような特徴も挙げられる。熱狂的なファンがつきやすいタイプでもあるな。天衣無縫の二つ名で親しまれている有名人といえば、人間国宝の上杉紅椿だが」
ぴくり、と、弦一郎の片眉がわずかに動いた。
「天衣無縫という言葉の本来の意味は、天女の衣服には縫い目のあとがない、転じて、技巧のあとが見えず自然であり、なおかつ完全無欠で美しいことをいう。上杉紅椿の舞は、まさに天女のそれ。何をどうやっているのか、駆使しているはずの技術も仕組みも一切わからず、まるで人ならざるものの魔法を見ているようと言われる」
「……そうだな。あれは、確かに」
「真田副部長、観たことあるんスか?」
「何度かな」
へー、と、赤也が、聞いたくせに興味のなさそうな声を上げる。
「そして、上杉紅椿のファンたちの感想は総じて“幸せな気分になった”、“もっと観ていたかった”、“魔法のよう”というところだ。まさに“天津風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ”……というやつだな」
「え〜〜〜〜〜っと、あ、なんか! なんか聞いたことあるそれ!」
「百人一首、良岑宗貞。お前、国語が得意なんじゃなかったの」
「こ、古文は国語じゃねえし!」
呆れた目を向けてくる精市から、赤也は焦った様子で目をそらした。
「とにかく、まあ、……おそらく、どこまでも感覚的なものなのだろうな。百錬自得や才気煥発と違い、やろうと思ってできるものではないと思われる」
「でも、無我の境地、自体は、やろうと思えば……?」
「出来る」
弦一郎が、きっぱりと断言した。
「集中力を極限まで高めればいいだけだからな。己の限界を超えるのは簡単だ。しかし無我の境地はとにかく体力面で無駄が多いので、試合で発揮するには博打が過ぎる。だが練習においては効果的だな。常に限界を超えて己の潜在能力を確認し、試合では素で発揮できるようにする、という使い方が向いているだろう」
「……弦一郎。お前、そういう使い方をしているのか?」
「ああ」
「へー、なるほどね。そういうことならいいのかもね、無我」
なんでもないようにけろりと言う弦一郎、そして精市に、蓮二は呆れた。恐ろしくもある。
「限界を……超える」
その時、ごく小さな声で、赤也が呟いた。
彼の脳裏には今、赤い夕陽を背負い、逆光になった小さな影が思い出されている。そしてそのとき強く、切実に思った、「限界を超えたい」というその意志も。
何かを掴もうとするように、赤也は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「お梅は、やはり今年来られないか」
病院からの帰り道、どこかで打ってくるという赤也と別れて弦一郎と二人帰路につく途中、蓮二が言った。
「ああ、公演が中止になったからな」
「どうにかならんかと姉と色々策を練ってみたのだが、難しいな」
「……ありがとう」
すでに手を打ってみてくれたらしい友人に、弦一郎は苦笑いとともに感謝の意を述べた。
「では来年、は……、どうなるんだ?」
「さあな……」
ぼんやりと言って、弦一郎は、左手をポケットに突っ込んだ。
今年、彼らも、彼女も、中学三年生である。卒業すれば義務教育は終わり、進学するか、就職するかに大別される。弦一郎たちは全員、進学である。大学附属でありつつもエスカレーター式ではなく、成績が悪ければ容赦なく振り落とされる立海であるが、このまま行けばスポーツ推薦、あるいは特待生枠も狙えるだろうから、まず心配はないだろう。
しかし、彼女は──
「このままいけば、中学卒業後に店出しか」
「おそらく、そうなるのだろう、……な」
店出しとは、見習いを卒業して舞妓として正式にデビューする、ということである。つまりは中卒で就職するということでもあるが、若ければ若いほど良い舞妓としては、理想的でもある。
本来、舞妓は今で言う未就学児、六歳からの子供時代に見習いをし、十二歳前後で店出しするものだ。それが戦後から改正された法律によって、義務教育のため年齢が引き上げられた。それでも、古都の特別条例として、他の県では芸妓は十八歳からでないとできないが、京都のみ十六歳からの店出しが認められている。
このご時世、高校を卒業してから置屋の門を叩く他県からの見習い志望は珍しくもないが、紅梅は置屋の家娘である。中学どころか小学生、もっと前から、見習いとしての修行は十分に積んでいる。ならば高校には通わず、誕生日が来ればすぐに店出しというのが通常の流れであろう。
そして、正式に店出しして舞妓になればなおのこと、気軽に遠出することは難しくなるだろう。文通は続けられるとしても、今までのように、一年に一度であろうと会うことが出来るのかどうか、弦一郎もわからなかった。
本人に聞けばいい、ということはわかっている。しかし、会えないと言われるのを想像すると、どうしてもペン先が止まってしまうのだ。
「だが今は、三連覇。それが第一だ」
「そう、……だな」
「逃げているのではない」
「わかっている」
真田弦一郎は、ものごとの優先順位を、残酷なまでにきっぱり決められる男である。
そして彼は、全国制覇を第一に置き、彼女のことを後回しにした。いくら彼女が自分に甘くても、時期が時期だ。今度こそだめになるかと身を裂かれるような思いをしても、割り切って、そう決めた。
これで彼女が自分に愛想を尽かしても、咎めることは出来ない。なぜなら弦一郎は、迷わなかった。迷わずに、彼女への想いを後回しにした。
顔をぐしゃぐしゃにして泣く、幼かった彼女を思い出しても。自分の知らないところでぽろりとひと粒、袖の向こうで流れた涙を想像してもなお、弦一郎は迷わなかった。──かつてのように。
──関東大会決勝まで、あと一週間。
ポケットの奥に沈む、黒い小さなお守り。
いつもそばにあるそれからそっと手を離して、弦一郎は、前を向いた。
原作で、真田が関東決勝前に何かとポケットに片手突っ込んでるのがキャラ的に(風紀委員)気になって、勝手に理由付け。