心に迷いなき時は人を咎めず
(二)
「アレ、真田副部長、どこ行ったんすか」
赤也が、きょろきょろと辺りを見回しながら言う。
関東大会決勝戦の雨天延期が確実となり、立海大付属は自宅が神奈川であることから、現地解散を命じられた。
とはいっても、帰る方向は同じである。レギュラー全員もそもそと荷物をまとめる中、いつもなら率先して行動の指揮をとる弦一郎は、この場にいなかった。
「弦一郎なら、そこらで練習してから帰ると言ってどこかに行ったぞ」
ラケットバッグを背負いながら、蓮二が言った。「メールは入れておいたので、勝手にするだろう」と言って携帯電話をポケットに仕舞った彼は、和傘のようなデザインの傘を、やけに優雅な仕草で開く。
「えーっ! 何だよ、言ってくれりゃいいのに」
先日野試合をして敗れた越前リョーマがいる青春学園との対決に、赤也はかなりのモチベーションを持っていた。それが雨天で延期となり、闘争心を持て余しているのだろう。燃え盛るそれをぶつけ、そして無駄に発散もせず更に高める相手として、確かに弦一郎はうってつけだ。
「そんなに弦一郎と打ち合いたいなら、居場所を探してやってもいいが……。だが赤也、お前先日、越前との野試合で負けたことに対して、何もしていないだろう。いい機会とばかりに相当絞られる確率、100パーセントだぞ」
「うっ……、で、でも、鉄拳制裁はあの時受けたじゃないッスか」
リョーマに敗北した直後、現れた弦一郎に、赤也はキッチリと、裏拳での張り手を食らった。さらに監督不行き届きとしてジャッカルもまた裏拳を喰らい、さらにはリョーマを背負って家まで送るという罰則まで課せられたのだ。
「それはそれ、これはこれ、だ。罰則を受けるのと、敗北した無力を叩き直されるのは別のことだろう」
「うぐぐ、……あーっ、クッソ!」
赤也はいかにも不満気な声を上げ、いらつきとともに、近くにあった椅子の足を蹴飛ばした。
「切原君、施設の備品に乱暴はやめなさい」
しっかりと注意をする比呂士に、赤也はぶんむくれた子供そのものの膨れっ面になり、それでも「……スンマセン」と謝罪した。そしてそのやりとりでいくらか気が削がれたのか、「あーもう!」と一度叫んでから、疲れたように肩を落とす。
「そうそう。真田にも叱られるぜよ」
「……でも副部長も、最近ちょっとガラ悪くねっすか?」
比呂士の尻馬に乗った上に弦一郎を盾にした注意をかぶせてきた雅治を、赤也はじろりと見ながらそう言い返した。
「あん? 真田が?」
「ッス。俺ちょっとびびる時ありますもん」
風船ガムを膨らませながら問うてきたブン太に、赤也は頷く。
「なんか話しかけたらすんげえドスきいた声で“アァ?”って言われたり。あと、前は“ポケットに手を突っ込んで歩くな!”ってうるさかったのに、最近は自分がずっとポケットに手突っ込んだままなんスよね」
「あ、それは俺も思ってた。真田っぽくねえよな、あれ」
ジャッカルが、頷いて同意した。
「……部活のことでプレッシャー、は、ねえか。真田だもんな。……幸村のことか?」
「それはない」
やや不安げに呟いたジャッカルに、きっぱりと蓮二が断言する。そのはっきりとした声に、全員が彼に注目した。
「精市の経過は良好だ。手術の準備も順調に進んでいる」
「そっか」
ほっとした様子で、ブン太がガムを破裂させて噛み直した。
「じゃ、あれか。手塚がまた故障起こして辞退してもうたからのう、ピヨッ」
雅治が言ったそれに、ああなるほど、と皆頷く。
弦一郎が、精市に対するものとはまた別に手塚国光を宿敵とみなし、再戦を望んでいるのは、皆知っていることである。ほぼ三年待ってやっと訪れたチャンスがまたなくなってしまったとあれば、落胆するのも、苛つくのも納得である。
「まあ、それもあるだろうが」
蓮二が、静かに言う。
「弦一郎のあれは、……まあ、個人的なことだ。気にしないでおいてやれ」
気にするな、ではなく、気にしないでおいてやれ、と言って苦笑のような表情を見せた蓮二に、全員疑問符を浮かべて顔を見合わせる。
だが誰よりも信用できる立海の参謀の“データ”を信じ、彼らは言われた通り、それ以上何を問いかけることもないまま、駅に向かうバスに向かって歩き始めたのだった。
電車が通る高架下に近い、河川敷の、緑のフェンスで囲まれた、フリーのストリートテニスコート。かつて国光と試合をしたそこに、リョーマは弦一郎を連れてきた。
「本当に、いいんだな?」
鍵のかかっていないフェンスを開けて中に入ってから、弦一郎は、再三になる確認を取った。リョーマが、ちらりと振り返る。
「決勝戦前に勝手に試合をしたことがわかったら、お前もただじゃすまないだろう」
「怖気づいたんなら、やめてもいいけど」
──くそ生意気な。
噂通り、赤也にも引けをとらない生意気さに、弦一郎は、フンと鼻で嗤った。
決勝戦を行う予定だった会場のコートで自主練習中、ちょっかいをかけてきた──もとい喧嘩を売ってきたこの少年を弦一郎が見たのは、初めてではない。どころか、たかだか三日前の事だった。
赤也がまた問題を起こしそうだとジャッカルから連絡を受け、たまたま集まっていた面々とともに、赤也の行きつけのテニスクラブまで向かった。
弦一郎らが到着した時、野試合はちょうど終わったところだった。コートに入った途端、どこか虚ろな目をした小柄な少年がフラフラと歩いてきたかと思ったら、急に倒れたのである。
一瞬幸村が倒れた時のことを連想してぎょっとしたが、咄嗟に受け止めた軽い身体が寝ているだけだとわかると、ひとまず彼を蓮二に預けた。
少年が青春学園の生徒であることは着ているジャージで明らかだったし、ラケットバッグに名前が書いてあったので、個人特定は容易だった。あとは蓮二頼りである。それにしても、他校の、しかも初対面の少年の住所をものの二分で特定する蓮二の情報収集力は、いつもながらに恐ろしいものだ。
(手塚……)
やっと再戦かなうかと思っていたのに、跡部景吾との試合で国光が再度故障を起こし九州に治療に向かったと聞いて、「またか!」と、弦一郎は切歯扼腕やるかたない思いだった。
なぜこの三年間、いつもいつもこう間が悪いのか。また決着はお預けか、今度は何年先なのかと、弦一郎は頭を抱えた。その矢先での、赤也の勝手な野試合である。
この虫の居所が悪い時に問題を起こした後輩に、弦一郎はいっそ同情を抱いた。勝手な話だが、手加減できる余裕があまりなかったからだ。いつもなら次の試合に響くようなダメージは与えない制裁を心がけているのだが、今日はそれができるだろうか。三日後には決勝戦だというのに、と更に募る不愉快に歯ぎしりし、無意識に、ポケットに手を突っ込んだ。
赤也がボコボコにした相手をどう説得して決勝戦に響かせないか、と蓮二と打ち合わせたことは、まったくもって無駄になった。なぜなら、負けていたのは相手ではなく、赤也だったからである。
スコアを見れば、4−6。接戦ではあっただろう。しかし、負けは負けである。
「……負けちまいました」
と、ぼんやり立っていた赤也が発した瞬間、弦一郎は鉄拳を見舞った。
勝手なことをしたばかりかあろうことか敗北した赤也と、赤也を止めきれなかったジャッカルに制裁を下した弦一郎は、さらにジャッカルは先輩として監督不行届の責任が重いとして、少年を背負って自宅まで送り届けることを命じた。ジャッカルの体力なら、多少きついぐらいでなんでもないことだろう。
その後は解散しそれぞれ自宅に戻ったが、弦一郎は思うところがあり、巻藁を用意し、剣道着に着替え、刀を手に取った。
小学五年生から本格的に始めた居合は、こうして、特に精神統一をしたい時に行うようになった。
しかし、真田の流儀は、他の流派とは異なる。ただひたすらに刃を研ぎ澄まし、余計なものをギリギリまで切り捨てることを、真田はしない。それどころか、ありとあらゆるものを認識し、把握し、支配し、何をどうするのかしっかり答えを出したその上で、事を成すことを良しとする。
夏風の音、床のきしみ、湿った空気。舌先の、普段は感じぬ己の唾液の味。道着ににじむ汗、風に揺れる髪、自らの心臓の音、耳を流れる血潮の音でさえ拾い上げ、そしてその全てを隅々まで把握する。
どうやって斬るのか。なぜ斬るのか。その全てに答えを出す。五感に認識できる全てを把握し、支配し、
──その上で、斬る。
ばさり、と、巻藁の上半分が落ちた。
思い通り、畳の縁から出ないところに転がった巻藁は、きちんと藁屑を飛び散らせることなくそこにあった。どうやって斬るのか、そうして斬り飛ばしたものが転がる先までも支配下に入れてことを行った弦一郎は、にやり、と笑う。
──手塚。随分と、面白いモンを残してくれたじゃないか。
雨の中、ラケットバッグから、ラケットを取り出すと、ネットを挟んで、少年と向かい合う。
150センチあるかないかの少年と弦一郎では、大人と子供くらいの体格差がある。とても国光とは似ていない、と思う。だが。
「ワンセットマッチだ。いいな」
「OK」
青春学園は、手塚国光に頼りきったメンバーしかいない。彼がいない青春学園など、恐るるに足らぬと、すっかり思い込んでいた。蓮二ですら、その可能性はあまり重視していなかっただろう。
だがしかし、あの年功序列を重視する青学で、伝統と決まりを無視してでも国光が採用した一年生は、赤也を負かしたのである。
いわばリョーマは、手塚の名代であると、弦一郎は捉えていた。部長を代行しているのは副部長の大石秀一郎だろうが、そういう実務的なことではない。彼は彼でいい選手だと思うが、国光に並び立つ存在ではないだろう。
越前リョーマこそが、手塚国光が己の大事なものを託した存在であると、弦一郎は、ごく正しく把握していた。
だからこそ、弦一郎は、リョーマに強く興味を持った。
一週間もお預け食わされるなんて、我慢できないんじゃないの、と、リョーマは弦一郎を挑発した。
実際には、そんなことはない。一年に一度だの、三年経っても一度もだの、弦一郎はお預けを食わされることには慣れている。我慢が効かない子供は、どう見てもリョーマのほうだ。
「青学の一年生レギュラーとは、お前のことか。噂は聞いている」
知っていると示すと、リョーマは少し嬉しさをにじませた。その得意げな様は、それなりに年齢相応である。
「噂ね。どんな」
「一年にしてはやるほうだ、とな」
そう、あの手塚国光が、己と同じものを持っていると認め、後を託した少年。彼の名代。弦一郎たちが鍛え上げている赤也を、4−6で負かした少年。
その強い興味は、規則にうるさいはずの弦一郎が、公式試合前の野試合を了承するに足るものだった。
サーブは、弦一郎からとなった。
「名前を、聞いていなかったな」
ベースラインの外まで下がった弦一郎は、構えを取りながら、低く言った。名前は知っているし、おそらく向こうも知っているだろう。だが、きちんと名乗り合わないのは少しすっきりしないような気がした。
「人に名前を聞くときは自分から。常識でしょ」
相変わらず、くそ生意気な言葉が返ってきた。どいつもこいつも、この世には礼儀正しい後輩というものは存在しないのだろうか、と弦一郎は呆れる。少なくとも、弦一郎は己を含め、そんな存在を知らない。
弦一郎は目を閉じ、雨音を聞きながら、名乗った。
「立海大付属三年、テニス部副部長、真田弦一郎」
「青学一年、越前リョーマ」
名乗りあった瞬間、弦一郎はボールを上げた。
──ドッ!
弦一郎が放ったサーブが、センターサービスラインぎりぎりに突き刺さる。
全く反応できなかったリョーマが、猫のように目を丸くしていた。
「フィフティーン・ラブ」
当然ながらセルフジャッジのため、弦一郎がコールする。リョーマはより好戦的な笑みを浮かべると、再度ベースラインにつき、ラケットを構え直した。
なるほどこういうタイプか、と、弦一郎は冷静にリョーマを観察する。赤也なら、ここで限界まで警戒心を高めるところだ。だがリョーマは、今から面白いことが始まるぞと言わんばかりの目をしている。
(これはこれは、──叩き潰しがいがあることだ)
これから始まることに、面白いことなどひとつもない。
それを思い知らせてやろう、と、弦一郎は二度目のトスを上げた。
(──右コーナー!)
一度めのサーブをまんまと入れられたリョーマは、集中力を高め、弦一郎の手元を観察していた。
弦一郎の目線を追っても、ボールの行く先はわからない。しかし腕やラケットの動きを見ていれば読みきれぬことはないのだと、先ほどの練習にちょっかいを出した時にわかっている。
だからこそ、間違いない、とリョーマは動いた。ボールが来るはずの、右コーナーへ。
しかし、インパクトのごくわずか一瞬前に、弦一郎のラケットが角度を変えた。それに気付いた時にはリョーマはもう右コーナーに向かって走りだしており、ボールはすでに放たれた後だった。──右コーナーではなく、先ほどと同じ、センターラインぎりぎりど真ん中へ。
──ドッ!
(速い……!)
インパクト直前でラケット面の角度を変えるテクニックも相当だが、それと同時に、サーブの速さが尋常ではない。先ほどの練習が、いかに“練習”であったかがよくわかる。
「サーティー・ラブ」
「さすがッスね」
練習の時よりは試合を意識しているようだが、まだまだ本気には程遠い力しか出していないらしい、弦一郎への挑発。そして、正直、なりふりかまっていては勝てないという確信から、リョーマは左手に力を込めた。
「でも……、これからっすよ」
そう言って、独特のリズムのステップを踏み始めたリョーマを、弦一郎はちらりと見る。
(スプリットステップか……)
テニスの技術としては基本にして、非常に大事な要素のひとつだ。これができるかどうかで、ボールに対する反応が大きく変わってくる。小手先の派手な技に固執しがちな赤也に、徹底して叩き込んだテクニックの一つでもある。
ステップがいかに重要か理解した赤也は、片足でのスプリットステップをも完璧にマスターしたおかげで相手の打球への反応速度を武器とし、スピーディーな試合運びが得意になったのだが、リョーマも同じことが出来るらしい。同じことが出来る二人の試合はどのようなものだったろうか、と、弦一郎は少し興味をもった。
──だからこそ。
その反応が見たくて、弦一郎は、わざと大きなフォームでサーブを放った。トスを高く上げ、元々180センチある身長を活かし、さらに大きく伸び上がって高い打点から最短距離のネット際に叩き込むサーブ。千石清純が得意なサーブでもある。
打つ時の大きなモーションのせいで見破るのが容易くもあるが、ネット際まで走らされるがゆえに、相当な反応速度がないと返すのが難しいサーブである。
そして、期待に違わず、リョーマは優秀な瞬発力で飛び出し、ネット際に突き刺さろうとするボールに追いついた。──しかし。
カラカラカラ……と、ラケットがコートを跳ねて滑って行く音が虚しく響く。
「フォーティ・ラブ」
淡々と、弦一郎はコールする。
手からラケットを弾き飛ばされたリョーマは、呆然とした顔をしていた。無理もない、ある程度の実力がつくと、手からラケットを取り落とすなどということは、あまりないことだ。リョーマにとって、かなり久々のことだったのだろう。
だが、いくらスピードがあっても、パワーで負けては意味が無い。テニスは、総合力だ。サーブだけが強くてもいけないし、走るのばかりが早くても意味が無い。力ばかりでも、必ず負ける。
弦一郎は、元々、これといってきらりと光るもののない素質の持ち主である。そのまま普通にプレイするだけであれば、良く言えば堅実、悪く言えば器用貧乏な、どっちつかずのプレイヤーになっていただろう、凡庸な素質。
だが弦一郎は、その全てを、岩に齧り付くようにして、常に限界を超える気で伸ばし続けてきた。弦一郎が唯一持てる才能であった故障しづらい頑丈な肉体が許す限り、比喩でなく血反吐を吐きながら神の子を追いかけてきたその積み重ねは、滅多なことでも小動もしない。弦一郎の器用貧乏は、今では万能の皇帝として君臨しているのである。
そして中でも、テニスでもよく鍛えられる力のひとつでもあるが、剣道・居合でもってさらに鍛えられた弦一郎の握力は、本当に群を抜いている。今では90キロにまで達している握力は、テニスの分野に限定しなくても、全国でトップレベルであろう。
その握力から生み出されるパワーは尋常ではなく、頑強にグリップをホールドする握力があるからこそ、インパクト直前でラケット面の角度を変えようとも、球速が落ちることはまずない。
だから本来ならば弦一郎は、大きなモーションをそれほど用いずとも、強力なサーブを打つことが可能なのだ。わざわざ大きなモーションのフォームをとってみせたのは、リョーマに、そこに打つぞとわかりやすく知らせるためでしかない。
そしてリョーマはまんまとそれにおびき寄せられ、パワー負けしてラケットを取り落とした。
ぎしり、と、弦一郎は、自分のラケットのガットを指で鳴らした。弦一郎が思い切り握ればガットが緩むどころか破れかねないので、無論、手遊びの範囲でのことだ。
「おい越前、ボールを取ってくれないか」
目を閉じたまま、弦一郎が話しかける。返事がないのでちらりと見ると、リョーマは、まだ呆然としていた。
「越前。ボールだ」
強めに弦一郎が言うと、リョーマはハッとした様子で動いた。まずラケットを拾い上げ、ボールに向かって、急いでいるふうでもなく歩き出す。
すぐ走り出さず、ゆっくりと歩くことを意識した冷静さは、弦一郎も評価した。
「……慌てなくっても、ボールはなくならないッスよ」
しかも、まだ生意気な口を利く。ここまでやられて、はったりであろうともなお余裕ぶってみせる精神力は、なかなか持てるものではない。
ポンポンとラケットの上で弄んでいたボールを、振り向きざま、リョーマは先程の練習のように、まっすぐに弦一郎に向かって放った。
顔面に飛んできたボールを、弦一郎はラケットで難なく受け止め、左手に落とした。
「アンタ、結構やるじゃん」
そう言って、リョーマは、センターマークあたりに立って、再度スプリットステップを踏み始める。だが、面白いことが起きそうだという煌めきは、もはやその目には見られない。そのかわり、ぴりぴりとした緊張感で追い詰められた雰囲気が、リョーマから感じられた。こめかみから流れるものは雨の雫か、それとも、冷や汗だろうか。
弦一郎は何も言わず、再度サーブを放った。サイドラインとサービスラインの交わるコーナーぎりぎりに入ったサーブを、今度こそリョーマは捉え、打ち返した。
真っ向から受け止めると手を弾かれるほどのパワーは相変わらずだが、手首のクッションを使って多少勢いを殺せば、思惑通り、何とか打ち返すことが出来た。
(よし!)
思わず、笑みが浮かぶ。だがそれも、一瞬だった。
リョーマが打ち返したボールの先には、すでに弦一郎がいた。
いつ動いたのか、リョーマ自身どこに返せたか正確にはわからないボールの行く先に、なぜぴったりと移動できているのか。考える暇もなかったし、おそらく考えてもわからないだろう。
あっけないほどに打ち返されたボールは、リョーマが動こうとするときには、すでに逆のサービスコート、ライン際に突き刺さっていたのだった。
「今度は、お前のサーブだ」
(──サーブで、流れを変える!)
もはや憎まれ口を叩くこともせず、リョーマはグリップを握りしめる。
パワーでは勝てないし、今すぐどうこうできることではない。ならば、スピードだ。方針を決めたリョーマは、極限まで集中し、持てる限りのテクニックをもって、サーブを放った。ぎりぎりまでフェイントをかけ、ボールの行く先を読みにくくし、それでいて最速の、斬りこむようなサーブである。
リョーマは確かに、己の実力を、最大限まで引き出したサーブを放った。リョーマ自身、今までで最高のサーブだといってもいいほどのものだった。
だがそのサーブは、あっさりと返されたばかりか、次の瞬間にはリョーマの横をすり抜けて、後ろで虚しく転がっていた。
リョーマのサーブはそれから一度もポイントを取ることなく、すべてリターンエースで返された。リョーマにとって、ラケットを取り落とすのと同じく、テニスを始めてからめったにない、実に数年ぶりのことである。
もはやリョーマに余裕など全くなく、はぁはぁと荒い息をつきながら、目ばかり大きく見開いている。
(──だが、まだ絶望はせんか)
相当なものだ、と、弦一郎はリョーマを評価する。普通ならここまで真正面から迎え撃って手も足も出させなければ心が折れるものだが、リョーマは驚愕し呆然としてはいるものの、絶望はしていない。
だからといって弦一郎も、面白いとも、ましてや楽しいとも思ってはいない。単なる作業だと思っていたら、少々の工夫のやりがいがあった、というぐらいの感覚である。
そしてその作業とは、リョーマを絶望に叩き落とすことに他ならない。
ゴロ、と、心臓に響く轟きが聞こえた。
雨足はさほど強まっていないが、雷雲がやってきたようである。先程から、この時刻にしてはひどく暗いことに、弦一郎は気付いていた。
毎秒何万と降る雨粒、湿った風、少し遠い電車の音。荒くなってきた河川の水音や、雨で濃くなった土と草の匂い。試合に集中していても、弦一郎は、そのすべてを感じ、把握している。
カッ! と、雷光が輝く。強い光に、一瞬、世界がモノクロになった。音速が少し遅れてやってきて、ゴゴン、と雷鳴が轟く。
「──マッチポイントだ」
センター付近にまっすぐ突き刺さるはずのボールがライトサービスコートのサイドラインぎりぎりに入ってから、弦一郎は、静かに言った。
弦一郎は、大きなモーションをせずとも強力なパワーショットが打てるし、インパクト直前でラケット面の角度を変えても威力の落ちないサーブが打てる。そしてそのパワーとテクニックをもってすれば、本来センターに向かうと思われるフォームとラケット面の角度のまま、右側に飛ぶスピンを掛けたショットを無理やり打つことも、さほど難しいことではないのである。
リョーマは、相変わらず呆然としている。しかし煌めきの失せたその目には、少なくとも、楽しさなど一欠片も浮かんではいなかった。
続いて、最後の、リョーマのサーブ。
──リョーマは、動揺していた。
ここまで圧倒的にやられるのは、どのくらいぶりだろう。父の南次郎もリョーマとは比べ物にならないくらい強いし、国光にも、まだ勝てる気はしない。
だが弦一郎の強さは、彼らとは全く質の違うものだった。何が違うのかと言われれば明確には答えられないが、決定的に、根本的に、何かが違うのだ。
言うなれば、南次郎も国光も、テニスをしよう、とするプレイヤーだ。リョーマの動きを、ショットをきちんと見て、ならばこうだ、これはどうだと、色々なことをしてくる。それがリョーマには面白くて、楽しくてたまらなかった。負ければ悔しいが、今度は勝とう、と思う。
それは、愛情だ。テニスを愛する者同士がテニスをする時の、テニスへの愛情の共有が、真剣勝負での敗北に絶望を生み出さず、次への希望に繋がっていく。
そしてリョーマは照れくさくて直視できていないが、父から息子へ、先輩から後輩へという、好意に属する、リョーマへの直接的な愛情もある。
しかし、──真田弦一郎、この男は。
リョーマが何をしようともまるで興味が無いとばかりに、ただ真正面からリョーマを叩き潰しに来る弦一郎は、これまでリョーマがやりあったことのないタイプの相手だった。
国光や南次郎と違い、弦一郎には、リョーマとテニスをしよう、という気がまるでない。ただ淡々と仕事をこなすように、飛んでくる羽虫を潰すかのように、向かってくるリョーマを迎え撃つ。
三日前に赤也とやりあったとき、リョーマは、まるで獣どうしの喧嘩をしているようだと思った。だがしかし、真田弦一郎とのやりあいは、強大な肉食動物と対峙した、小さな草食動物のような気分にさせられる。相手は絶対的な強者であり、自分を毎日の糧のひとつだとしか思っていない。殺し食らうのは単なる作業で、戦いですらない。
まるで屠殺を行うかのような、作業だからこその容赦の無さに、ぞっとする。対等どころか、同じ人としてすら見ていないような目。
そして、南次郎や国光には、テニスに対する、深い愛情がある。しかし弦一郎は、テニスに対する敬意はあっても、好きでたまらないというようなものは感じられない。どちらかといえば、その道の高みにいる者として、──王者として、皇帝として、完璧に仕事を遂行しようとしている。そんなふうに見えた。
弦一郎に何とかして食いつこうとリョーマが一点に集中すればするほど、テニスに夢中になるほど、彼が、テニス以外の何もかもを見渡していることに気づく。
リョーマが弦一郎の一挙手一投足に注目している時、彼はリョーマのことなどまるで見ておらず、橋の上を通る電車の車両の数を把握している。リョーマが土や草の匂いを鬱陶しく思う時、弦一郎は、その間にわずかに香る、花の香を嗅ぎ当てているのだと、リョーマはだんだん理解していた。
他のすべてを切り捨てて集中し、弦一郎を知れば知るほど、彼が常に全てを把握し、支配しようとしていることがわかってくる。
弦一郎にとって、リョーマの動きは風の動きのひとつでしかなく、苦しげな息遣いは、雑多な音のひとつでしかない。
皇帝にとって、支配下の有象無象の存在など、毎秒何万粒と地に落ちる雨粒のひとつだろうがリョーマだろうが、さほど変わりはしないのだ。
「──あああああああ!!」
まさしく、手も足も出ない中。
リョーマが、サーブを打つ。それしかできない、何の面白みもないサーブを放つ。天から放たれた雷光が、世界をモノクロにした。
だがそんな世界でも、皇帝は雷よりも早く、それでいて悠々と動き、難なくリョーマのサーブを打ち返した。
フォームも何もなくがむしゃらにサーブを打ったリョーマが、体制を崩し、再度ラケットを取り落とす。醜態だ。だがそれを醜態だと思うほどの余裕さえ、もうリョーマにはなかった。実際、打ち返されたボールが自陣のコートのどこに入ったかも、もうよくわからない。
「ゲームアンドマッチ」
辛うじて膝をつき、手で肩を支え、四つん這いになったリョーマに、弦一郎は、やはり淡々と宣告した。
無言のまま、それぞれ、ラケットバッグにラケットを仕舞う。
俯いてもたもたとラケットを仕舞うリョーマに対し、さっさと支度を整えた弦一郎は、ラケットバッグを肩にかけて背を向ける。
「壁を相手にするよりは、有意義だった」
そう言って、弦一郎は、リョーマを置いてコートを出て行く。振り返りすらしない。
雨足が、強くなってくる。なにもかもをじっとりと重くする雨の中、リョーマは俯いたまま、一言も言葉を発しなかった。