心に迷いなき時は人を咎めず
(一)
「あああ、も〜! 一週間も待ちきれねえ〜!」

 そう叫んで、降り続く雨を殴りつけるようにラケットを振り回す武──、桃城武の気持ちは、ここにいる誰もがよく理解できた。

 今年度の東京都大会は、数年ぶり、いや十数年ぶりに、彼ら青春学園が制した。
 そのテンションを保って挑んだ関東大会、一回戦目のvs氷帝学園、誰もがいい試合をすることが出来たものの、跡部景吾との対戦によって国光の腕の故障が再発してしまったのは思わぬ痛手。彼は早急な治療のため専門医のいる九州へ飛んで、今も不在である。

 部長不在という心もとない状態、それでも強敵・六角中学を下した。
 そしていよいよ決勝戦、対、王者・立海大付属である。かつて戦った好敵手である不動峰が惨敗した試合のビデオを見、そして竜崎スミレコーチから「手塚が七人いると思え」ととんでもないことを忠告され、今までにない緊張感とモチベーションを高めながら、この日まで練習してきたのである。それがまさかの土壇場の雨天で一週間も延期とは、出鼻をくじかれるとはまさにこのことだ。
 そして、常から感情表現がストレートな武は天に向かってラケットを振り回し、海堂薫はいつも険しい顔をさらに険しくし、他の面々もまた、各々の形で、発散しそこねたエネルギーを持て余しているのだった。
 いつものようにクールに振る舞うリョーマもまた例外ではなく、ラケットバッグの紐を意味なく握りしめてはゆるめ、といったことを繰り返している。

 いや、この中で、リョーマこそが最も、あふれるモチベーションを持て余していたといえよう。

 強がりでもなんでもなく、リョーマは、テニスに関して緊張するとか、テンションが下がるとか、ましてや怖気づくといったことはありえない。少なくとも、今までそんなことを思ったことはない。
 テニスに関して、リョーマは強い相手と戦えることこそ望むところである。もちろん戦うだけでなく、勝ちたい。だからこそ一度も勝てたことのない父親に何度でも挑み、いつか父を倒すため練習を続けるのだ。
 広いアメリカで活動してきたリョーマは、父・南次郎に言われて帰国し青春学園に入学したものの、狭い島国のテニスに、最初は全く期待していなかった。
 なぜなら日本はここ数年プロの世界で目覚ましい活躍がなく、テニス後進国と言われることもある。その上、欧米と違ってプロデビューの年齢が遅く、プロ養成所に通っているでもない普通の学生の部活動としてのテニスなど、まだまだどころか全然大したことはないだろう、と思っていた。そして、それならさっさと見切りをつけてアメリカに戻ってしまおう、とも。
 だがその予想はいい意味で裏切られ、部長である国光を頂点として、先輩となった他の部員たちも、今すぐプロというには甘いものがあるが、かなりの潜在能力を秘めた選手が揃っていた。皮肉屋のリョーマが本気で「やるじゃん」と笑みを浮かべたのも、一度や二度ではない。さぞ退屈だろうと思っていた毎日の放課後の部活を、リョーマは何より楽しみにするようになった。

 対戦した他校の選手たちもなかなかのもので、つまらない試合はほとんどなかった、と言っていい。リョーマは日本のテニスを見直し、そして、その中でも王者と呼ばれる立海大付属への期待値は、殊の外高くなっていた。

 ──だからこそ。

 対立海大戦を控え、今日から三日前。
 気合の入った練習のせいか一気に三本ともガットが切れたラケットを張替えてもらうため、リョーマはトレーニングがてらとパワーアンクルまでつけられて、往復すればフルマラソン以上になる距離にある、大型スポーツショップに走って向かった。
 片道23.8キロという距離は伊達ではなく、神奈川の境まで来てしまっていたらしい。無事にガットを張り替えてもらって来た道を戻る時、たまたま鉢合わせた立海大付属の二年生エース・切原赤也に、リョーマは、野試合という名の喧嘩を売った。

 対六角戦の合間、別コートで行われていた立海大付属vs不動峰中の試合。しかも、この切原赤也と不動峰中部長の橘桔平との試合を少しだけ見ていたリョーマは、過去何度か姿を見せたことのある彼の言動や態度、そしてあの超攻撃的な試合から、さぞ喧嘩っ早い性格だろうと当たりをつけていた。
 その予想は外れず、赤也はリョーマが売った喧嘩を躊躇いなく買った。しかし、赤也はリョーマが思ったよりも冷静で、チンピラよろしくおうおうと凄んでくるのかと思いきや、冷ややかにリョーマを見下ろし、「高くつくかもよ」と言い放った。
 その声色は静かなだけに凄みがあり、戦うことに慣れた獣のような風情があった。これが単なる殴り合いの喧嘩なら、“こいつはやばい”とすぐに思うような雰囲気だ。

 だが、戦い方は殴り合いではなく、テニスである。ならば相手が猛獣だろうが怪獣だろうがリョーマに恐れることは何もなく、むしろあの立海大付属中の選手と公式試合前にやりあえる喜びに興奮を覚えた。
 部長や先輩たちにばれればさぞ叱られるだろうが、──その時はその時。と即座に切り捨ててしまう程度には、越前リョーマは年齢相応に幼く、向こう見ずで、そして何より筋金入りのテニス狂いだった。

 そして赤也もまた、売られた喧嘩を買わない選択肢などありえない様子で、近くに自分の行きつけのテニスクラブがあるのだ、と当然のようにリョーマを誘った。
 赤也と一緒にいた、明らかにラテン系の血を感じる容姿の、スキンヘッドの三年生──ジャッカル桑原は、公式試合、しかも関東大会決勝直前にその相手校の選手と試合をしようとする赤也を一応窘めたが、結局ため息をつき、「ほどほどにしとけよ」と言っただけだった。
 その、問題児の面倒を見慣れた疲れと呆れのこもった様子と、そして髪型というか頭部のシルエットから、リョーマは己の先輩であり副部長である、大石秀一郎をなんとなく思い出す。
 しかし、心配症で胃を傷めがちな彼と違い、ジャッカルは、赤也が勝つことを疑っていないようだった。ジャッカルはリョーマのことをよく知らないようであったし、またリョーマは見た目小学生にも間違われる体格の持ち主なので、はっきり言ってなめてかかっている、ということだろう。
 その態度にも戦意が刺激されたリョーマは、絶対に勝ってやる、と二人について行く。

 結果から言って、──赤也は、強かった。

 日本に来てから、父親と国光以外でならば、最も強かったと言っていいだろう。
 特にゲームが接戦となり、赤也の目が充血し始めてからは、凄まじいものがあった。それまでの赤也もかなりレベルの高い実力の持ち主であることが知れる技術を見せてきたが、目が充血してからの彼は、がらりと様相が変化したのだ。
 言うなれば、手負いの獣の獰猛さ。それまでの、喧嘩というじゃれ合いで相手を脅かしてからかうような悪ふざけの延長でなく、はっきりとした殺し合いのような、完全にリョーマを潰しにかかる戦い方だった。
 リョーマは膝の同じ所に何度もボールをぶつけられ、正直、これ以上やられたら危なかった。不動峰の橘桔平との試合でも、赤也は容赦なく桔平の脚にボールを食らわせ、冗談抜きで病院送りにしているのだ。

 リョーマも今まで、チンピラまがいの選手に絡まれ、喧嘩をする代わりにテニスをするがゆえに、卑怯な手を使われたり、怪我をすることを狙っての行為をふっかけられたことも、何度もある。
 だがそれは性格もテニスの実力も程度の低いまさにチンピラ相手ばかりだったので、リョーマも、これはまずいと思うような怪我を負わされたことはない。
 だからこそ、ここまでレベルの高い選手が、スポーツマンシップなど糞食らえというように、形振り構わず、その場の試合の勝敗を飛び越え、選手生命を奪うやりとりを仕掛けてきたことに、リョーマは動揺した。
 喩えるならば、いつもの喧嘩だと思っていたら、本気で刃物を振りかぶられたような感覚に近い。

 殺される、と思った。
 選手生命を、これからのテニスを殺される。それはすなわち、呼吸をするのと同じようにテニスをしているリョーマにとって、本当に殺されるのと同じことだった。
 そしてリョーマは、刃物を振りかぶられて恐怖で動けなくなるような、やわな肝の持ち主ではなかった。リョーマは自分の命を、自分のテニスを守るため、歯を食いしばって必死に抗い、──限界を超えた。

 それから先のことを、リョーマはよく覚えていない。

 気が付いたら、自分の家のベッドで寝ていた。
 赤也との試合に結局勝ったのか負けたのかもわからないし、どうやって家まで帰ってきたのかも、さっぱりわからなかった。同居している従姉の菜々子曰く、「リョーマさんったら、他の学校の方に背負われて帰ってきたんですよ。ちゃんとお礼を言わなくちゃ」とのことだ。
 リョーマを背負ってきた人物については「外人さんっぽい、スキンヘッドの男の子」という証言から容易に特定が為されたが、同時に、あの場所からリョーマの家まで、荷物を背負いパワーアンクルを装着したリョーマを運んだというスタミナに気づき、驚愕した。ジャッカルについてはビデオでしか試合を見ていないが、四つの肺を持つとまで言われるほどのスタミナは、ハッタリではないようだ。

 ──金色の世界を、見たような気がする。

 何度も拳を握っては緩めと繰り返しながら、リョーマはあの時、生きるか死ぬかの瀬戸際のような状態で、なにか突き抜けた所に出た感覚を覚えていた。
 それまでさんざん感じていた重い疲労も、流れる汗も、そして膝の痛みも全く感じなかった。コートの感触、ボールが跳ねる正確なポイントや軌道が、今までになく精密に把握できた。グリップから感じるインパクト時のボールの重力感は、かかっているスピンの程度まではっきりと認識できるほどに冴え冴えとしていた。

 言うなれば、己と、テニスしか存在していない空間。

 あの感触をもう一度、と、リョーマは焦がれるかのような渇望を抱いた。そしてそのために、もう一度赤也と──、いや、強い選手と。できればあの立海大付属の選手とやりあいたい、と強く思った。
 切原赤也は強かったが、二年生だ。学年で強さが決まるわけではないと誰よりリョーマが知っているが、データマンである乾貞治の情報で、赤也が他の立海三年レギュラーに勝てたことがない、ということは把握している。
 あの赤也でさえ、立海では一番下なのだ。ならばその頂点は、と考え、リョーマは震えた。言うまでもないが、武者震いである。
 自分より上にいるかもしれない彼らは、あの金色の世界を知っているのだろうか。

 ただでさえモチベーションが高い上、赤也との野試合をこなしたリョーマは、早く彼らと試合がしたくてたまらなかった。
 それなのに、土壇場で、雨天延期。腹の中でぐるぐると渦巻く熱いものを持て余しながら、リョーマはチームメイトたちと立ち上がる。大して激しくもない夏の小雨はじっとりとぬるく、彼らの中の熱を冷ますには、全く足りないものであった。

「おい桃城。一週間後、あっさり負けたら承知しねえからな」
 準決勝で立海大付属に惨敗し、不動峰中学の神尾アキラが、正学の面々にも負けないほど持て余した熱を滾らせた声で言った。
 試合に負けただけでなく、部員たちから尊敬どころか崇拝されていると言ってもいい存在の部長の桔平が病院送りにまでされたのもあり、彼らの立海大付属への、というよりは切原赤也へのマイナス感情は根深いようだ。桔平の妹である杏も、いかにも浮かない顔でやや下を向いている。
「言われなくても、ゼッテー勝つ!」
 威勢よく言った武に、「その意気だ。学校に戻ったら、一週間後に向けて早速練習だ」と、顧問、兼コーチの竜崎スミレが発破をかけた。はい! と、全員から揃った声が上がる。

 ──その時、リョーマはぴくりと顔を上げ、茂みの向こうを振り返った。

(誰か、打ってる)

 ぬるい雨音に紛れて聞こえてくる鋭い音を、リョーマが聞き違えるはずはない。それは確かに、ラケットがボールを打つインパクト音だった。
 音がする間隔からして、試合をしているのではないようだ。壁打ちかとも思ったが、それにしては音と音の間隔が長い。どちらかというと、サーブ練習くらいだろうか。その上、軽快なインパクト音の後、“パシュン!”と、奇妙な音が必ず続くのだ。

「越前?」
 リョーマの前を歩いている、荷物持ちでついてきている一年生トリオのうち、堀尾聡史が足を止めた。自分たちの後ろ、不貞腐れたように最後尾をとろとろと歩いていたリョーマが立ち止まり、茂みの向こうをじっと見ているのに気づいたからだった。
 どうしたの、と加藤勝郎もまた足を止めて声をかけるが、リョーマは彼らに振り向くことなく、どころか、「先に行ってて」と踵を返した。
 どうしたんだ、トイレか、と三人は首を傾げたが、リョーマが勝手な単独行動をするのは、珍しいことではない。いつものことだ、と慣れた様子で肩をすくめた三人は、とりあえず先輩かスミレに報告・連絡・相談をするため、小走りに駆けていった。



 道に従って少し遠回りをし、音がする場所まで行ってみれば、そこには予想通り、テニスコートがあった。
 しかし、芝生を模して緑色の素材が使われたハードコートはたっぷりと水を吸い、とても試合をするには向いていない状態である。
 そして“彼”はコートではなく、本来コーチはチームメイトが控える屋根付きのベンチエリアに立っていた。
(立海大、付属)
 その、辛子色に黒の特徴的な横ラインが入ったジャージに、リョーマはしっかりと見覚えがあった。背丈が高いと同時に、絞られているが厚みもある佇まい。また、トレードマークと言ってもいい黒い帽子と、その陰になった、年齢からするとかなり年嵩に見える顔立ちにも。

 ──確か、真田弦一郎、って言ったっけ。

 と、リョーマは彼の情報を引っ張りだした。
 嫌というほど見せられた、いや見た、立海大付属レギュラーの試合のビデオ。中でも、副部長・真田弦一郎の試合を、リョーマは最も多く繰り返して見た。
 間違いなく今の中学テニス界で最も強いという彼の試合は、その名に違わず圧倒的だった。アメリカにいた頃でも、これほどの選手はそうそういない。
 立海大付属レギュラーとは、すなわち手塚国光が七人いると思え、とは顧問のスミレの言葉だが、真田弦一郎のは、国光とはまた違う──どこが違うのかまでは、リョーマにはまだよくわからなかった──高みを目指しているような、そしてリョーマもあまり見たことがないタイプのテニスをする男だった。

 王者・立海大付属。その中で最も強く、皇帝と呼ばれている彼に、リョーマはひそかに強く注目していた。実力的にはレギュラーの中でも最も下だという赤也でさえ、あの強さなのだ。その頂点とはいかばかりのものかと、リョーマは止まらない武者震いを覚えていた。

 ──そしていま、その皇帝が、目の前にいる。

 ああ、戦ってみたい、試合してみたい。リョーマの中に湧き上がるのは、ただひたすらにそればかりだ。
 しかし弦一郎は、ずいぶん近くに来ているリョーマに見向きもせず、ひたすら前を見据えている。
 黒い帽子で陰った、静かな目がどこを見つめているのか、リョーマにはすぐわからなかった。まっすぐになにかを見ているようなのに、その目線を追っても、なにもない。ただ同じような何万粒もの雨が、無人のテニスコートに、次から次へと降り注いでいる。
 その様子から、弦一郎は、何かを見ている、というのとは違うようだということに、リョーマは思い至った。見ているというよりは、見渡している。多くの中の一つを見つけようとしているのではなく、幾多のもの全てを見渡し、その全てを把握しようとしているかのような。
 まったく迷いなく、堂々と、全てを支配しようとするその姿は、まさしく皇帝のそれだった。間違いなく、彼はこの空間を、残らず全て把握している。

 そのことに気づいたリョーマは、今までにないほどの武者震いが、大きな波のようにして、背骨の髄を昇ってくるのを感じた。
 サーブを打つとき、選手は普通、どこに打とうか、どこなら打たれにくいかと、“目的の一点”を探そうとする。──が、それは普通の選手がすることだ。その目線を読まれてしまえば、相手は当然警戒し、その方向に走り、打ち返してくる。
 だからといって、フェイントがどうのとか、目線を向けないようにとか、そういう小手先の話でもない。

 言うなれば、オーラ。

 この年齢で多くの選手とやりあってきたリョーマは、選手が放つそれぞれの気配、雰囲気、オーラともいうべきものを、実感として知っている。
 一流の選手は、まさに、オーラが違うのだ。
 選手によって、とにかくこちらを威圧してくる圧倒的なもの、動向を全く読ませないもの、鋭く攻撃的なもの、様々ある。父の南次郎などは、ふわふわと軽いのに、天辺も底も見えない、コートが無限に広く感じるようなオーラをしている。それはきらきらと輝き美しく、そのくせ、リョーマをとことんおちょくってやろうとする気配が濃厚なのが、ひどく腹立たしい。コートの上で走らされていると、まるで釈迦の手の上の孫悟空のような気持ちになるのだ。

 そして真田弦一郎のオーラはといえば、リョーマが知っているどれとも違っていた。

 感じるのは、とにかく、重厚だ、ということ。軽やかさの欠片もないオーラは、燃え盛ることをやめないまま水の底を侵食する、黒い溶岩のようだ。燃え盛っているくせに重厚で静か、それでいて何もかもを灰にする力。

 ポン、ポン、と、全く手元を見ずにテニスボールを数度バウンドさせた彼は、軽くボールを上に投げる。ここまできても、彼がどこにどう打とうとしているのか、全くわからない。
 そして、当然のように、振った。これ以上のものはないと思われる、綿密で、そして無駄な力が一切ない、完璧なフォームだった。

 バシュン! と音がして、コートを挟んだ向こう、茂みに植えられた木の枝から落ちた大きめの雫に、ボールがぶち当たる。雫は破裂するかのように飛び散り、消えた。

(──やるじゃん)

 次から次にぞわぞわと背を昇ってくる武者震いを押さえつけながら、リョーマは笑みを浮かべる。
 テニスコートの長さは、23.77メートル。さらにベンチ席まで下がっていることもあり、的までの距離は、ゆうに25メートルを超えるだろう。その距離を全く速度が落ちない直線で撃ちぬいたパワー、その上、的にするには小さすぎる雫に正確にボールを当てる、まさに針の穴に通すかのようなコントロールは、それだけでも相当なものだ。
 しかしそれよりもリョーマが震えたのは、この、毎秒何万粒降っているのか考えるのも馬鹿馬鹿しい雨の中、いつ落ちるかもわからないひとしずくに、正しくサーブを当ててみせたことだ。ラケットを振りかぶっても、いや振りかぶってボールを打ったその瞬間までも、リョーマにその目的を一切悟らせずに。
 それはつまり、彼が、この空間のすべてを把握し尽くしているという証明に他ならない。まさに皇帝、その名に相応しい姿である。

 そして、この空間のすべてを把握している彼は、当然、リョーマの存在もきちんと把握しているだろう。しかし彼は、リョーマには一切目を向けない。把握していて、なお無視しているのだ。
 そのことに、リョーマは率直に言ってカチンときたし、──絶対に振り向かせてやろう、と思った。

 リョーマは弦一郎と6メートルほど距離をとって真横に並び、まったく同じようにコートの向こうに身体を向ける。そしてラケットバッグからテニスボールを取り出すと、ポン、と跳ねさせた。
 ちらり、と、弦一郎がこちらを見たのを感じたが、リョーマはあえて見返さない。

 リョーマは、自分の立ち位置の延長線上、大きめの葉に溜まった水が、今にも落ちようとしているのに気付くと、ボールを真上に放り投げた。
 小柄なリョーマが、コートの全長よりも遠いところまでボールを届けるには、体全体のバネを使わなければならない。しかし自分よりも大柄な選手と戦った経験など数えきれず、さらに技術面ではかなりの自信があるリョーマは、見事、落ちた雫にボールを当ててみせた。

 どうだ、と言わんばかりに、しかしはっきりとそうするのは癪なので、リョーマはちらりと弦一郎を横目で見る。だが弦一郎はまるでリョーマを見ておらず、ポン、ポン、と、次のボールを地面で跳ねさせていた。
(にゃろう)
 ただでさえ強いリョーマの負けん気が、更に膨れ上がる。
 ──が、リョーマも、正直、わかってはいた。弦一郎はボールが雫に当たるまでその雫が狙いであったことを一切悟らせなかったが、リョーマは、落ちそうなあの雫に当てるぞ、と定めてボールを打った。
 些細な違いだ。だが、決定的な差である。具体的には、リョーマのサーブは相手に打ち返される可能性があるが、弦一郎のサーブは、必ず相手の死角に突き刺さるだろう。

 ポン、とボールを上げた弦一郎が、ラケットを振りぬく。相変わらずどこに打つのか全く読めないそのフォームから繰り出されたボールは、先ほどのところとは別の、自重に耐えかねて落ちた水の塊を、精密に粉砕した。
 その様子に、リョーマはもはや形振り構わず、弦一郎の姿をじっと見た。

 ──次は、どこに打つ?

 おそらく、彼は目を閉じていても思うところに打てるだろう。ならば目線を追うのは無駄と考え、リョーマは、弦一郎の腕に注目した。
 黄色いボールが、真上に浮く。ラケットが振り抜かれる、──その瞬間。

(──左!)

 インパクト直前、わずかにラケット面が傾いたと察知した瞬間、リョーマもまたボールを上げ、ラケットを振りぬいた。コンマ何秒のその世界、弦一郎が放ったボールの軌跡に、リョーマの放ったボールがぶち当たる。

 ──バシュ!

 空中で水を含んだからだろう、水分が弾ける音を立てて、二つのボールはあらぬところにそれぞれ飛んでいった。直後、弦一郎が当てるつもりだったのだろう、大きな水の塊が、葉の間からざばんと落ちた。
 ガッツポーズをしそうになるのをこらえて横を向けば、今度こそ、弦一郎がリョーマを見ていた。これだけちょっかいをかけられれば当然だろうが、リョーマは好戦的な笑みで彼を見返す。
 あの赤也の先輩なのだということからして売られた喧嘩には敏感な方かと思いきや、弦一郎の様子はひどく平静だった。無表情にこちらを見てくる様は、国光にも少し似ている気がする。

「何か用か」

 見た目に違わず、いかにも男らしい低い声だった。
「今日、試合延期だってさ」
「やはりな」
 今日は雨ですね、そうですね、というくらい、馬鹿馬鹿しくなるほどなんでもないような様子で、弦一郎はそう返した。
 対立海大付属戦への熱を持て余している自分たちとはまるで違うその態度に、リョーマは、己の腹の中の熱が燃え盛るのを感じた。

「──アンタも、一週間もお預け食わされるなんて、我慢できないんじゃないの?」
「……何が言いたい?」

 決まりきったことだ。
 リョーマは、好戦的な、そして嬉しそうな笑みを浮かべた。
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リョーマと赤也の野試合は原作、その後関東大会決勝の雨天延期&リョーマと真田の野試合はアニメ。
ここから原作ベース+アニプリの好きなシーンやエピソード っていうスタンスになりますが、よろしくおねがいいたします。
BY 餡子郎
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