心に自慢なき時は人の善を知り
(五)
  花の外には松ばかり 花の外には松ばかり
  暮れ染めて鐘や響くらん
  鐘に恨みは数々ござる 初夜の鐘を撞時は
  諸行無常と響くなり

  後夜の鐘を撞く時は 是生滅法と響くなり

  晨朝の響きは生滅滅巳
  入相は寂滅為楽と響くなり 聞いて驚く人もなし
  我も五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん




 そろそろ年季の入ってきた、小さなDVDプレーヤー。そのやや画質の荒い再生画面を睨んでいた弦一郎は、ふと息を吐くと、静かに一時停止ボタンを押した。
 再生していたのは、上杉紅椿の十八番たる名舞台の一つ、『京鹿子娘道成寺』である。どこで一時停止を押してもそのまま名画にできるその姿を少し見つめてから、弦一郎は、傍らにあった、いくつか付箋がつけられた大判の雑誌を手に取った。

 それは、去年の夏のあとに発行された号。
 毎年夏恒例の、東京での日本舞踊講演会にて行われた、上杉紅椿と上杉紅梅による『京鹿子娘二人道成寺』の批評が、大幅なページ数を割いて掲載された号である。
 複数人の評論家や家元へのインタビューが行われたが、評価は概ねみな同じ結果だった。

 ──上杉紅梅は、未だ紅椿足り得ぬ。

 去年の夏といえば、弦一郎が下手な悋気を起こして紅梅との逢瀬をすっぽかし、挙句蓮二に尻を蹴り上げられて、六年越しで初恋を自覚した時のことである。
 弦一郎が逢瀬の機会をすっぽかしたばかりに紅梅が泣いたと聞いた時、弦一郎は心臓が止まるような思いをしたものだが、後日発行されたこの号をきっかけに、彼女が各方面の批評家やら同業者やら、そして紅椿のファンやらからさんざん批評されて大変だった、というのを景吾や蓮二から聞いて、またも落ち込んだものである。

 テニスで負けた時、彼女は必ず自分を励ましてくれる。次は勝つのでしょう、と当然のように言ってくれる。なのに己といったらどうだと、弦一郎は改めて猛省した。そしてそれからというもの、時間を作っては日舞のことを勉強し、彼女のしていることを理解できるように努力した。
 あいかわらず人間国宝の舞を見ても素晴らしさはいまいちよくわからないのだが、知識としてはそれなりになった、と思う。弦一郎が手紙の上で日舞の専門用語をちらほら出すようになったので、紅梅も、少し込み入った話を書いてくれるようにもなった。
 そしてそんな彼女の反応、彼女が深い話を自分にしてくれるのが嬉しくて、弦一郎は更に学んだ。日舞の素晴らしさに目覚めたというのではなく、彼女の一部を知りたくて、弦一郎は熱心に学んだ。
 元々努力という行為自体に熟れた弦一郎であるので、それなりの知識をつけるのにはさほど困らなかった。こんなことなら、もっと前からきちんと勉強しておけばよかった、と後悔するほどである。

 さてその紅梅に対する批評であるが、紅椿の何よりの特徴である“天衣無縫”、人の柵から開放されたが如き、人ならざる、神仏の化身のような動きと空気を、上杉紅梅は再現しきれていなかった。ところどころに片鱗は感じられるものの、天衣無縫にはまるで遠い。
 だが、若さと現在の実力、そして素質だけで言えば紅椿を凌ぐボディバランスからして今後に期待は充分抱ける、というのが、概ねの結論であった。この号が出た当初、蓮二にもこの話題を持ちかけてみたので、このは解釈は間違っていないだろう。

 いくら日舞の善し悪しが未だわからないとはいえど、実際にこの舞台を観た弦一郎であるので、その批評の意味は理解できたし、同意もする。
 しかし彼女がどれほど血を吐くような思いをして稽古に精を出しているか知ってもいるので、弦一郎は非常に歯痒い思いをした。努力は当然のことであり、結果が全てであると痛いほど理解している弦一郎であるので、下手な慰めは一度も伝えたことはない。そして、それもまたもどかしかった。

 ──しかし。
 弦一郎は、付箋を付けたページをぱらりとめくった。この号は何度も読み返したが、そのページは特にそうであるために、開いた折り目がついている。
 そこに掲載されているのもまた、上杉紅梅という二代目紅椿候補に対する批評である。だが紅梅を評価しつつもとにかく天衣無縫に届かぬ未熟さを嘆き失望するお歴々と違い、平成になってから設立された新日本舞踊の流派の家元だけは、他と少々異なる評価をしていた。

 確かに上杉紅梅は紅椿のような人ならざる天衣無縫の演技は出来ておらず、紅椿と並んで舞うからこそ、余計にその人間臭さが目立っていた。前述した評価ではそれは単に欠点であったが、彼は、むしろそれが面白いと評価したのだ。
『京鹿子娘道成寺』は、ドラマである。愛した男に裏切られ、可憐な姿を変化させ、恋の炎に身を焼かれて死ぬ女の話である、と彼は言った。その世界観を思えば、まるで人とは思えぬ天衣無縫の姿で舞う紅椿と、未だそれに届かぬ人間臭い若い娘は、二人で一人の白拍子花子として、非常に完成度の高い結果になっていた、というのだ。
 清姫は、安珍が好きで好きでたまらず、しかし裏切られ、可愛さ余って化けて出た。紅椿ひとりが舞うそれは確かに素晴らしいが、その清姫はすっかり人ならざる者と化しているように思う、と彼は言った。
 その点、未だ人間臭く天衣無縫に届かぬ若い娘の姿は、未だ恋心を捨てられぬ少女であった清姫の姿として非常に魅力的であり、人ならざる姿を舞う紅椿の隣で、その姿は非常に可憐で、清姫・花子という役としては、この二人で舞ってこそ完成されていたというべきではないか、と彼は意見したのである。

 ──なるほど。

 と、弦一郎は、その批評に素直に感心したし、納得した。
 現在の上杉紅梅を肯定的に見る唯一の意見であったので、個人的に嬉しかったのもある。だが、他の誰もが紅椿、紅梅、舞手の個々のことばかりを批評する中、舞台そのものを評価する目線が新鮮、かつなんとなく真の玄人という感じがして、弦一郎は関心を持った。

 そしてその関心から調べてみると、現在の日本舞踊では、脚本はあまり重視されていないのが現状であることを、弦一郎は知った。
 ドラマ性や感情表現での共感を得る努力をしている者は殆どおらず、身体表現、テクニックを磨くのが基本概念である。侘び寂びの心を愛する日本人であるので徹底してそうというわけではないが、その場その場の情緒表現はあっても、明確なストーリー性は重視されない。
 つまり、演劇というよりは、コンテンポラリー・ダンスに近い立ち位置が、現代における日本舞踊の基本的な立ち位置なのである。
 それは現代人が、ストーリーを理解する唯一の手がかりである歌詞、古語でのそれを理解できなくなっているからこその自然な流れであり、また、海外からも高評価を得て世界的規模で伝統を存続していくための手段として、それが現実的なやり方であることが、弦一郎にも理解できた。

 しかし、弦一郎は、もや、とした気分になった。
 確かにそれが正しい、普通のやり方で、また多くの日舞ファンが求めるものなのだろう。そしてその最高峰こそが上杉紅椿の舞であり、だからこそ、いま、京舞の最高峰は紅椿以外の何物でもない。少なくともあと百年はそうだろう、と言われている。
 伝統とは、受け継いでいくこと。そこに不純物が混ざることは、その伝統の完成度が高ければ高いほど許されない。そして紅梅はそのために、若干十一歳で、名取になった。一差しだけとはいえ、紅椿と全く同じように舞える、という理由で。
 人間国宝の舞の完全トレースという行為が、そこに滲む狂気がどれほどのことか、日舞の良し悪しのわからぬ弦一郎でも、さすがにわかる。

 彼女は、紅椿になろうとしている。
 神のようになろうとしている。天衣無縫を纏おうとしている。

 だがしかし、と、弦一郎は、去年の二人舞を思い出す。

 あの家元の言うとおり、紅椿がすぐ横にいると、紅梅の動きが未だ人間臭いままだということが弦一郎にもよくわかった。
 多くの者はそれを未熟と捉え、あの家元は、紅椿との比較が興味深く、舞台として面白い試みであったと捉えた。
 しかし弦一郎は、どちらとも思わなかった。

 へたくそと言われていた少女から、次代の紅椿へ。清姫・花子から、大蛇の化身へ。人から、人ならざる者へ。地を這いつくばり泥にまみれながら、燃え盛る炎を宿した目で天を睨み据えながら天衣無縫へと手を伸ばす姿を、あの日、弦一郎はこの目で見た。
 その姿は、日舞などよくわからぬと感じ続けてきた弦一郎ですら素直に感嘆するほど美しく、蛹から蝶が羽化しようとするような感動と、──そして、切なさに満ちていた。

 それは、弦一郎がよく理解できた、あの、白龍の気分だった。
 ああ、天女が行ってしまう。羽衣を纏って、天の国へ行ってしまう。そしてそれだけでなく、弦一郎が見惚れた、闇の底から燃え盛るような炎もまた、天衣無縫の薄衣に覆われて消えてしまうのかと思うと、とても、──とても、惜しい気がした。

 雑誌のどこを見ても、弦一郎と同じように思っている批評家は、誰もいなかった。
 そもそも、弦一郎は、人間国宝の舞の良し悪しもわからぬ、素人以下の無粋者である。自分の感性こそが正しいのであると胸を張ることなどとても出来ず、どころか、これは自分が悪趣味なのであろうかと、いつもまっすぐな背筋を情けなく丸めるのみである。

 ──天衣無縫。

 縫い目すら見当たらぬ、完璧な、完成され尽くしたそれ。
 これ以外のものは許さぬと、そう言わせるだけの凄みを、弦一郎も理解している。

 だがそれでもなお、弦一郎が一番良く覚えているのは、天衣無縫の紅椿の舞でもなく、それになろうとしている紅梅の舞でもなかった。
 彼の脳裏に焼き付くのは、人間の男と知り合った天女としてこの部屋で振り付けを教えてくれた時の身近な舞であり、また懸命にボールを追いかけるときに見せた、いきいきとした見事なボディバランスの動きであり、そして、天衣無縫の舞を見つめるその目の、獄炎の中から睨みつけるような、烈しく生々しい眼差しであった。

 ──うちが、こうしたほうがええんやないか思て舞うても、
 それは紅椿とちゃうよって、へたくそやて言わはるんよ


 彼女がかつて小さな声で発した愚痴が、その世界を改めて学んだ今、理解できる。
 そして弦一郎は、今になって、彼女が言った「こうしたほうがええんやないか」と思ったという舞を、見てみたいと思った。“へたくそ”だと言われたという、紅椿の舞ではない、天女の舞、天衣無縫ではない、“彼女の舞”を。

 ──弦ちゃんは、……自分のテニス、出来てはる?
 ──うち、がんばるし、今はがまんするよって、……弦ちゃんも、約束して?


 彼女の震えた声を、今になって、思い出す。

 ──いつか、……うちのお舞、観て。
 ──それまで、弦ちゃんは、自分のテニス、してな?


(俺の、テニス、とは──)

 ──ピリリリリ、ピリリリリ……

 部屋に鳴り響いた、無機質で高い電子音。先ほどまで、ゆったりとした雅楽を聞いていたのもあって、余計に無粋な音に感じられる。
 目を閉じ、深い瞑想に入ろうとしていた弦一郎は、その無遠慮な音に、思い切り顔をしかめた。

 鳴っているのは、三年生になって持つようになった携帯電話だ。副部長であり、精市の代理、すなわち部長代理をこなすため、素早く連絡が取れるツールとして、必要にかられての所持である。
 毎月金がかかるものをそう簡単に中学生が所持も出来ない、と単に慣れぬ機械類に苦手意識のある弦一郎は渋ったがしかし、弦一郎の年代で携帯電話を持っていないことのほうが珍しいくらいだったのだ。試合で遠出をすることもある弦一郎であるので、家族はいい機会なので持っておけと、さっさと契約を済ませてしまった。
 携帯ショップにずらりと並ぶ最新機種を見るなりうんざりした弦一郎は、兄が昔使っていた携帯電話をそのまま使うことにした。昔の機種なので折りたたみ式ですらなく、通話とショートメールのみという最低限の事しか出来ない機種だったが、そのシンプルさが弦一郎にはむしろ有り難かった。

 無粋な高い電子音を鳴らす機械を手に取った弦一郎は、電話に出るときはここを押す、と兄に教えられた通りにボタンを押して、電話というには小さすぎて違和感のあるそれを耳に当てる。

「誰だ」
《うわ何、機嫌悪ッ。なんか取り込み中?》
 電話で話すとき特有の声質になってはいるが、その陽気な声に、弦一郎は聞き覚えがあった。
「──千石か?」
《そうそうオレオレ。実はちょっと事故っちゃって、今から言う口座に》
「切るぞ」
《ごめんなさい》
 悪乗りをしてもすぐにやめて謝るのがこいつのいいところだ、と弦一郎は思う。それなら最初からやるな、とも思うが、怒鳴るか殴らないと止まらない上に不貞腐れる赤也と比べれば、ずいぶん付き合いやすいほうだ。
《いやあ、真田くんが携帯持ったっていうから》
「必要にかられてな。少々煩わしいが、……いや、そういえば、なぜ番号を知っている」
《柳君が教えてくれた》
「蓮二……」
 相変わらず自分の個人情報を勝手に扱う友人に、弦一郎は眉間にしわを寄せた。
 無闇矢鱈に流出させるのではなく、ちゃんと信用のおける相手にしか渡さないというのがまた小憎らしいところである。もう気にしたら負けだというのは重々わかっているのだが、やはり戸惑ってしまうのはしかたがないだろう。

「……まあ、いい。それで、突然どうした」
《いや、最近会ってないし、調子どうかなって。そうそう、地区予選優勝おめでとう》
「ああ……、そちらの、都大会は……明日からか」
《そ! 関東大会ではヨロシク》
「ああ」
 当然勝ち抜くことを前提とした言葉に、弦一郎はフッと笑みを浮かべた。相変わらず、剽軽なようでいて抜け目のない曲者である。

《そうそう、知ってる? 青学の一年生レギュラー》
「ああ」
 手塚国光が選び出した、青春学園らしからぬ、年齢ではなく実力重視のレギュラーメンバーのことは、主要出場校の全てが注目している。そしてその中でも飛び抜けて目立つ、おそらく青春学園初の一年生レギュラーにして、アメリカ帰りの天才少年・越前リョーマは、注目の的だ。

《俺、昨日偵察がてら見に行ったんだけど、ほんっとちっさいの。150センチあるかなって感じ》
「そんなにか……小さいな」
 150センチならば、弦一郎より30センチも小さいことになる。二学年しか違わないはずだが、まるで大人と子供だ。
《でも、クソ生意気さは巨人並ってカンジだった。あれは真田君とこの切原君と張るね》
「それはそれは」
 ふん、と、弦一郎は鼻を鳴らした。

「大層、張っ倒し甲斐のあるクソチビなんだろうな」

 獣の唸り声のような低い声に、おお怖、と、電話の向こうの清純がおどけた。
 どんなに小柄であろうと、あの手塚国光が、伝統をねじ曲げてまで推した選手である。弦一郎も当然注目しているし、蓮二も「データを取らねばなあ」と薄く目を光らせていた。
 全国大会決勝で戦おうと、国光は弦一郎と約束をした。あれは約束を破る男ではない。ならば必ず勝てる選手を揃えてきているはずだと、弦一郎は確信していた。

《そう、それはそうと──》
 清純は、軽い、しかし軽薄ではない様子で言った。
《幸村君、どう?》
「問題ない。全国までには間に合う」
《そう》
 良かったね、とも、本当か、とも、清純は聞かなかった。──こういうところがこいつのいいところだ、と、弦一郎は思う。

《あ、もうこんな時間か。悪いね》
「いや……」
 有意義だった、というのもなんだか変な気がして、弦一郎は言葉を濁す。
《最初はメールにしよっかなって思ったんだけど、真田君、なんかメール好きじゃなさそうかなって」
「ああ、その通りだ。ちまちま文字を打つのが性に合わなくてな……読むのはまだいいのだが」
《あはは、やっぱり。……手紙は得意なのにねえ》
 からかうような色が混じった清純の声に、むぐ、と弦一郎は唸る。そうだ、そういえばこいつは彼女のことを知っている数少ない知り合いなのであった、と思い返しながら。

《彼女とは、どうなの? 順調?》
「じゅ、順調とは」
《仲良くしてる?》
「て、手紙は週に一、二通といった感じだ」
 馬鹿正直に、弦一郎は答えた。清純の、軽いようで軽くない絶妙なテンポの話術にかかるとすらすらと白状してしまうのだということは、ジュニア選抜の時にさんざん思い知っている。しかも、それで嫌な思いをさせないところが清純の凄いところだ。
《ほーほー。じゃあ、届いたらすぐ返事って感じだよね。順調じゃん》
「順調、か?」
《順調だと思うよ》
「そうか……」
 どこかホッとしたような、しかしそわそわしたような様子で、弦一郎は小さく言った。

《で、その順調なとこで、今年も会うんでしょ!? この夏に》
「あー……」
《何その生返事。ダメだよ、ここでビシっとキメないと》
「な、何のことだ?」
 告白するのを未だ引き伸ばしにしている弦一郎は、どぎまぎとする。しかし清純が言ったのは、それを上回る内容だった。
《貴重な、直に会える機会じゃん! ここでチューのひとつぐらいしときなよ!》
「ばっ……」
 弦一郎の目が丸くなり、次いで、みるみるうちに顔が赤くなる。

「──たわけ!!」

 大音量の割にどこかへなへなとした怒鳴り声を上げて、弦一郎は電話を切った。
 この、普通の電話ならガチャンと受話器を叩きつけるところ、ピッと小さなボタンを押して切らなければならない間抜けさも、弦一郎が携帯電話を嫌いな理由の一つである。
 弦一郎がふぅふぅと息をついていると、ピロン! と、また気の抜ける電子音が響く。メールだった。

  title:応援してるぜ!☆彡
  牡牛座の恋愛運は、来月が絶好調!
  ゚+。:.゚(*´ω`)bガンバ!゚.:。+゚
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 やたら星マークの多い文面を表示した弦一郎は、イラッ、とこめかみあたりを過ったむかつきの衝動のままに携帯電話を畳に叩きつけようとしたが、何とか思いとどまり、軽く放り投げるのみとした。
 ──こういうところが、こいつの非常に悪いところだ、と思いつつ。

(だが、まあ、気分転換にはなったか)

 はー、と疲れた様子で大きく息をついた弦一郎は、座布団にどっかと座って、そう思い直した。
 立海の仲間の誰もがしない態度で己に接する清純との会話は、あらゆる意味で常に新鮮だ。そして、驚きはするが、その実、不快ではない。凝り固まりやすい思考をほぐすのにはうってつけである、と、弦一郎にも自覚があるので、彼と直通の連絡方法が出来たのは、それなりに歓迎すべきことかもしれない、と弦一郎は思った。特に、誰に言うつもりもないことではあるが。

 そして、清純には調子は万全だ、と返したが──、と、弦一郎は思考に耽る。
 万全なのは、本当だ。万全というよりはいつもどおりであるといったほうが正しいが、少なくともレギュラー全員、体調に問題はない。地区予選ではS1まで試合が回らずに勝つことのほうが多かったし、赤也が最短試合記録を大きく塗り替えたことでも注目を集めた。

 何も、問題はない。──だが。

 あの手塚国光が推した一年生、越前リョーマ。
 その存在に対し、弦一郎は、いや三年生レギュラーたちは、総じて薄っすらとした危機感、とまではいかない、薄靄のような不安を抱く。

 なぜなら今年、立海大付属には、有望な一年生が、全く入ってこなかったからだ。

 入部希望自体は、非常に多かった。まあ、多かろうと、地獄のシゴキによって振り落とされる人数が多くなっただけではあるのだが。
 希望者が激増したのは、すっかり“王者”と呼ばれるようになった立海大付属のネームバリュー、そして三強たる弦一郎たちの存在によるものだ。
 いや、それだけなら、赤也もそうである。しかし今年の一年生は、弦一郎たちに憧れは抱けど、赤也のように我こそが三強を倒すのだという気概の者は、ひとりもいなかった。

 部長である幸村精市の闘病、それを共に背負い支えようとする現三年生と二年生、そしてそれに感化される新入生たち。
 下手に有望だったり、我の強い一年生が入ってこなかったぶん、元からいる部員たちの結束は、これ以上なく強まった。だがそれと同時に、背水の陣である──、と、蓮二ははっきり評価した。正直なところ、弦一郎もそう思う。
 手負いの獣が火事場の馬鹿力を発揮するように、追い詰められた自分たちは、更なる力を発揮することが出来るだろう。だが、後がない。

 赤也は、二年生ながらレギュラーになったほどの実力がある。
 しかしそれは、幸村がいないことが大きい。なぜなら赤也は、他の三年生に、誰一人として勝てたことがないからだ。
 幸村がいれば、レギュラーは八人全員三年生で埋まり、赤也は準レギュラーの筆頭といったところだろう。
 幸村精市、真田弦一郎、柳蓮二。この三強を筆頭に、丸井ブン太、ジャッカル桑原、仁王雅治、柳生比呂士と、今期の立海大付属は最大の黄金期であるとさえ言われている。
 だが、すなわちそれは彼らが一気に卒業するということでもある。そして卒業したあとに残るのは、彼らに一度も勝てなかった赤也と、彼らに憧れるばかりで倒そうとすら思わなかった下級生たち。

 とにかく赤也を徹底的に鍛えねばならない、と、弦一郎のみならず、全員の見解は一致している。いや鍛えるだけでなく、来年はおそらく部長になるであろう彼に、大勢をまとめる心得などを叩き込み、実務についても引き継ぎしなければならない。部長たるもの、普段の勉学の成績も良くないと示しがつかないから、そこもどうにかせねばならないだろう。
 自分のスコア表も尻を蹴り上げなければようよう提出してこず、レギュラー全員で面倒を見て泊まりがけの勉強会を行ってもまだ赤点をとる赤也のことを思うと目眩がしてくるが、やらなければいけないものは仕様がない。

(……だが、まあ、それは後だ)

 いつかは考えなければいけないことである。が、今は全国三連覇を成し遂げることだけを考えなければ、と、弦一郎は軽く頭を振った。
 おそらく精市や蓮二、他のレギュラーたちも、時折こんな風にしているだろう。それほどに、今が黄金期であるだけに、立海大付属の来年以降には不安が多かった。

 しばらく思案に耽っていた弦一郎は、ふと、机の上の文箱を、静かな仕草で開ける。
 そして、中に入っている開封済みの白い封筒を取り出すと、更にその中の、薄紅色の便箋を、そっと開いた。



弦一郎さま

日を追うごとに増す暑気と蝉の声の中、いかがお過ごしでしょうか。
京の夏の蒸し暑さは、情緒など味わう余裕もございませんで、毎年うんざりいたします。ただ静々と歩くだけでも参ってしまいますのに、この中でテニスをする弦ちゃんを、本当に尊敬いたします。

 …………

以前から申し上げておりました、東京での夏の公演でございますが、残念ながら、やはり今年は中止となりました。
年齢もございますが、おばあはんの調子があまり良くなく、主治医の先生とよく相談した結果でございます。またこの暑さでお母はんも辛そうなところがございまして、私どもの大柱二本が一気に倒れては大変ということで、今回は見送ることになりました。
毎年紅椿が主役のようになっているとはいえ、それだけの公演ではないので今年は紅椿抜きでやってはどうかとも申し上げたのですが、紅椿抜きでチケットが売り切れるかどうかとのことで、中止となりました。
また、相変わらず抜け目のない景吾はんが代わりに私を舞わせれば良いとも推して下さったのですが、断られました。情けないことではありますが、去年の二人舞からこっち、私は二代目紅椿として到底足りぬという評価がすっかり根付いてしまいましたので、私が代役であるとむしろ力不足の感が目立ってしまうとのことです。
ここまではっきり言われてはしかたがありませんし、何より、私自身もそう思います。


 …………

おばあはんはまだまだお元気で、この暑さの中でもぴんぴんしていらっしゃいますが、やはりお年でございます。かの舞が見られるのも、あとどれくらいだろうかと、こちらの界隈ではよく話題になるようです。

 …………

というわけで、公演はなくなってしまいましたが、どうにかそちらに行けまいかと思っている私は、馬鹿で、親不孝者なのでしょう。あなたにも、たるんどる、と怒鳴られるでしょうか。
真田副部長の一喝は、皆様に恐れられているそうですね。蓮ちゃんに聞きました。でも、私は、怒鳴り声でもなんでもいいので、あなたのお声が聞きたいです。
今年も、あいたいです。

あなたがテニスに打ち込むように、私も舞に打ち込みますので、あいたいと言っても良いでしょうか。あさましい気持ちを露わにするために頑張るというのも、あさましいでしょうか。ごめんなさい。
今年はあえないかもしれないと思うと、自分でも、よくわからない、泣きたいような気持ちになってしまって、何度か書き直しましたけれど、まとまりのない文章になって、ごめんなさい。

 …………

紅梅



 届いてから、もう何度も読み返したそれを、また数度読み返す。
 かさかさと便箋がこすれあうとほんの僅かに香る、花のような香り。──残り香が鼻先に届く度に、消えていく香りを惜しみ、弦一郎は一瞬ずつ動きを止めた。

「……俺も」

 みぃ──ん、みんみんみん、と、うるさい蝉の声に隠れるようにして。
 あいたい、と、弦一郎は呟いた。
- 心に自慢なき時は人の善を知り -
(自惚れない人は、他人の長所や善さがわかる)


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BY 餡子郎
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