心に自慢なき時は人の善を知り
(四)
「やあ、久しぶりだなあ、手塚君」
「井上さん、ご無沙汰しております」
フランクに手を上げて笑顔で挨拶した守に対し、国光は、まるでお固いビジネスマンのような礼を返した。その生真面目な様に、相変わらずだなあ、と守は苦笑する。
小学生時代から、日本ジュニアテニスの至宝、と呼ばれ始めた国光が月刊プロテニス記者の守と面識を持ってから、何年か経つ。初めて会った時、今よりもずいぶん小さく華奢だった身体で、今と同じくきっちりと折って挨拶をした国光の姿を、守は今でも思い出すことが出来た。
少し久々に会った国光は、さすがの成長期で背も伸び、守と同じぐらいの身長になっていて、声もすっかり低い。
大きくなった、どころか、とても歳相応には見えない成長ぶりは優秀なスポーツマンによくあることだ。そうして見た目からもおおいに期待できる彼の成長と、そして若者ならではの成長の早さに、守は感嘆して数度頷いた。
「部長になったんだって? おめでとう」
「ありがとうございます。まだ至らないところが多いですが、全国に向けて全力を尽くします」
「頼もしいね。それにしても、手塚君も三年生か。若者の成長は、ほんとうに早いなあ。真田君も、すっかり大人みたいになっていたよ」
「……真田? 取材ですか」
国光の目に僅かな輝きが宿ったのを見て、守は面白そうに笑った。
お世辞にも表情豊かとはいえない国光であるが、テニスに関することだけは別であることを、守は同じ筋金入りのテニス馬鹿だからこそ、彼と出会った早々から理解していた。
国光もまた、守に対してそうだった。天才的なテニスの才能を持って生まれたにもかかわらず、家族にテニス経験者がろくにいない一人っ子。そんな環境のせいか、すさまじいテニス知識を持ち、なおかつ大人と子供の年齢の垣根を感じさせず、単なるテニス馬鹿同士としていろいろな話をしてくれた守は、当時の国光にとって、非常に興味深い大人だったし、今も変わらずそうなのだった。
「うん。午前中は、立海の取材をしててね」
「そうですか」
「青学の校内ランキング戦も、全部取材したかったんだけどなあ」
明日は全部見させてもらうつもりだから、今日はとりあえず竜崎先生に挨拶をね、と守が和やかに返したその時、彼のワイシャツの肘辺りを、くいくいと小さく、しかし何やら忙しなく引っ張るものがあった。
振り返ると、砂織が何やら目をギラギラと輝かせて、無言ながらも、「紹介しろ!」と言っているのがありありと分かる様子で守を見上げている。
「あ、手塚君、紹介するよ。コイツ、芝沙織。これから取材には同行するんで、よろしく」
「よろしくお願いしまぁす!」
「よろしくお願いいたします」
輝くような笑顔の沙織に対し、国光は、目上の人間に対してふさわしい、文句のつけようもない礼を返した。
「手塚君は、部長さんなのね! ねね、ちょっとこれからお茶でも飲みながら話を」
「は……」
「こら芝、今日はいかん。青学の選手取材はまだ決まってないだろ」
「だって先輩! こんな! 逸材! 取材! しないとか!」
「うんうん、気持ちはわかる。わかるからちょっと落ち着こうな芝」
暴走している、と言ってもいいほどに興奮しきっている後輩を、守はもはや慣れた様子で宥めた。
国光は、守から見て、日本ジュニアの中でもひときわ強く輝く、まさに至宝と呼ぶべき存在である。そしてそれは、違うベクトルで金の卵を性格に見抜く彼女の価値観でも同じであるらしかった。
しかし、それもわからなくはない。やや華奢な細身であるがすらりと背丈は高く、脚も長い。美形と言って差し支えのない、鋭さのある端正な顔立ちに、縁のない眼鏡がとても良く似合っていた。とても中学生には見えないという点は真田弦一郎と同じだが、涼やかで、男性的なのに全く暑苦しくない風貌は、今もこれからもさぞモテるだろう、と守も確信を持つことが出来る。
しかもこの上、いますぐプロになってもおかしくないほどテニスが強く、勉強もトップクラス、しかも責任感も強く、道行く老人の荷物を持ってゆっくり歩いてやるほど──実際に守はその場を目撃したことがある──性格も非常にいいのだ。つまり、天に二物三物どころでなく与えられまくっている。モテないほうがおかしい。
「すまないね、手塚君。悪気はないんだ」
「はあ」
いつもどおりの無表情ながらも、どこか困惑したような様子の国光に、守は、これから月刊プロテニスが学生テニスへの取材に力を入れていくことや、また、新規購読者獲得とこれからのテニス界の未来に向けて、より選手を身近に感じられる取材をしていく、というような説明をした。
「……なるほど。そういうことであれば、まず見栄えがして実力も確かな氷帝、次いで二連覇王者の立海というのは妥当ですね。次は山吹あたりですか?」
「おっ、鋭いね」
国光の言うとおり、芝沙織による次のミーハーインタビューのターゲットは、創部七十年以上の伝統と実績を誇り、特にダブルスにおいては古豪とも言われる、山吹中学校である。
このミーハーインタビューは、取材の順番を実力を反映して守が決め、砂織が実際に切り込んでいく、というスタイルだ。見た目の良い選手を優先的にしないからこそ、ミーハー方面にシフトした取材に、お固いテニス雑誌としての『月刊プロテニス』読者も、ある程度ついてきているのである。
そして、実力と見栄えの良さを兼ね備え、跡部景吾という超カリスマが率いる氷帝学園は“掴み”としてはこれ以上なく、その結果は売上として、しっかり反映されている。
非ミーハーな古参のファンも、氷帝学園二年前から破竹の勢いで実力をつけてきた理由こそが彼であると知り、驚きと納得をしたようである。跡部景吾は、どんなタイプのファンをも問答無用で黙らせ納得させる、まさに王様というべき力の持ち主であった。将来が恐ろしい、と守はつくづく思っている。
この波に乗って、王者立海大付属の特集を組み、続いて古豪・山吹というのは、古参の読者も納得してくれる流れだろう、と守は確信していた。
それに、山吹は歴史が古く堅実な実力を誇る古豪ではあるが、長く顧問をしている伴田幹也は優秀でありつつ茶目っ気のある人物であるからミーハーな取材にも寛容な姿勢だし、また、エースである千石清純は、こういう取材に喜ぶだろう。何より、実際向いている。紙面が盛り上がるネタを提供してくれるに違いない。
「……真田は、元気でしたか」
「ああ、そりゃあもう」
静かな口調で言った国光に、守は朗らかに返した。隣の砂織は、弦一郎の凄まじい怒鳴り声を思い出して、肩をすくめる。確かに、あれほどまでの声が出せるのだから元気には違いない、と思いつつ。
「手塚君は、真田君とは親しいの?」
「親しい、というほど頻繁に顔は合わせませんが……、面識はあります」
「そうかあ。まあ、ジュニアの中でもトップ同士だから、当然か」
納得した様子で、守はうんうんと頷いている。
「というよりも、……真田とは、約束をしているので」
「約束?」
「はい」
その時のまっすぐな目に、守は、どきりとした。守の目を見ているようでいて、しかしその眼差しは、その実もっと遠く、遥か先を見据えているようだった。
「全国決勝で戦おう、と」
若さの煌めきがあふれんばかりの、痛々しいほどに清廉な、それでいて熱く燃えるような目。ああ、かつては自分もこんな目をした頃があっただろうかと、守は心が引き攣れるような気持ちがした。
「……なるほど。約束は守らなければね」
「もちろん、そのつもりです」
国光は、しっかりと頷いた。
家まで送って行こうかという守の申し出を断り、いつもどおり軽く走って帰宅した国光は、いつもどおりに入浴して汗を流し、夕食までの間に授業の予習復習をした。
明日の授業の用意まできっちりと終わらせた国光は、母が呼びに来るまでの間と、ラケットバッグの内側に挟んであるファイルを取り出す。
ファイルに挟まっているのは、青春学園中等部・男子テニス部の部員たちの、毎月の戦績表。そして自他ともに認めるデータマン・乾貞治による、その分析記録である。
本日から、校内ランキング戦が始まった。
これは毎月、二・三年生全員を四ブロックに分けてリーグ戦を行い、各ブロックの上位二名、計八名がレギュラーとして、各種大会への切符を手にする戦いである。
国光が部長となった今年度、良くも悪くも、部員たちの実力差はきっぱりと分かれていた。
まず現在のレギュラーであり副部長である、大石秀一郎。同じく三年生の菊丸英二とのダブルスは去年個人の部のダブルス枠で全国まで行き、ゴールデンペアとも呼ばれ、あのダブルスの古豪・山吹にも引けをとらないと評価されているし、国光もそれは確信している。
シングルスプレーヤーとしては、大会出場自体が少ないせいでまだ大きく有名ではないが知る人ぞ知る、“天才”不二周助がかなりの実力だ。実力面でもメンタル面でも、まったく隙がない。彼ならば全国大会に出場しても、危なげのないプレーが出来るだろう。
同じく三年・乾貞治は、テニスに限らずどのスポーツでも重要視されるデータマンとして、もはや得体の知れないほどの引き出しを持っている。理論上可能とさえ結論が出れば、どんなことでも可能にしてみせるほどの努力家でもあった。その上、他の選手のデータも緻密に収集し分析し、皆に還元するだけでなく、抜け目なく自分の糧にする貪欲さもある。
更に同じく三年・パワープレイヤー枠として、河村隆。ややパワーに傾倒しすぎな面はあれど、そうなってもおかしくないだけのパワーの持ち主である。全体的にテクニック面に偏ったメンバーだからこそ、団体戦では頼れる場面が多々あると思われる。
そして、年功序列が第一である青春学園では珍しい──、というより、国光が部長になってからレギュラーに引き上げた感のある、桃城武と、海堂薫。
実力はもちろんのこと、彼らには気迫がある。中学三年間の短い部活であるとか、まだ二年生であるとか、そういうことを全く無視してとにかく勝ちたい、何が何でもテニスがしたいと岩に齧りついてくる気迫を、国光は大いに買っている。
そして実際、彼らのその気概は、武においては曲者ともいうべき柔軟かつパワフルな器用さに、薫においては部内の誰にも負けないスタミナとして発現している。
そしてこれこそが、国光がこの二年間、求め続けてきたものだった。
国光は、テニスが好きだ。
一生テニスをして生きていきたいと当然のように思い、夢ではなくこれから続く現実の将来として、プロになろうとしている人間だ。
そんな国光にとって、同級生である秀一郎や英二、周助、貞治、隆はかけがえのない友人であり、尊敬もしており、大切な人間だ。人付き合いが不得手で、コミュニケーション能力に難のある己に根気強く付き合ってくれる、稀有な存在だと、国光は常に感謝の念を抱いている。
──しかしテニスにおいて、自分と彼らには決定的な差がある、と、今まで一度も、誰にも口にしたことはないが、国光は常に感じていた。
彼らもまた、テニスに真剣だ。毎日歯を食いしばって練習し、ボールを追いかけている。国光と同じように。
だが、違うのだ。
息をするのと同じように、これからずっとテニスとともに生きていくのだと思っている国光と、彼らは違う。家業の寿司屋を継ぐため、テニスは中学だけだと言っている隆を筆頭に、秀一郎もまた、将来は医者になると進路をはっきり決めている。菊丸は青学生らしく今をおおいに楽しんでいて、将来のことは彼らほどはっきりと決めていないようだが、プロになるという選択肢もはっきりしてはいない。
そして、周助。レギュラーの中で最も国光に近い実力を持ちながら、彼には、何が何でも勝つというような気迫が薄い。勝ち負けに熱くなれない、と、かつて本人から聞いたことがある。飄々としたその存在感だからこそ“天才”と評価されるのだろうが、テニスを楽しむでもなく勝ちにこだわるわけでもなく、己の限界を試すでもないそのテニスは、彼がいくらテニスが上手くなっても、国光はいつも何か不安を覚える。
貞治はむしろテニス云々というより、“データ”ありきの人物だ。テニスのためにデータをとっているのか、データのためにテニスをしているのかよくわからない。正直言えば、後者ではないか、と国光は思っている。とはいえ、対象がテニスではないとはいえ、ひとつのものに対してブレがないという点では、共感を覚えもするのだが。
彼らは、かけがえのない友人である。
だが、これから先、国光のようにボールを追いかけてはいないだろう。
その点で、二年生二人は毛色が違う。将来プロになる云々はともかく、目の前の勝利にこれ以上なく貪欲だ。単に血の気が多いとも言えるが、そのがむしゃらさと、ボールを追いかける以外のことをあまり考えていない一直線なあり方は、国光にとって非常に魅力的だった。その輝きを待っていたのだと、そう言いたくなる共感に震えた。
だからこそ、彼らの実力もあるとはいえ、彼らが二年生でレギュラーとなることを、国光は当たり前に許した。二人もの二年生がレギュラーになるのは、青春学園において実に数年ぶりのことだという。
ふぅ、と短い息を吐いて、国光は、ひとり書き込みの少ない一枚を手に取る。
──越前リョーマ。
今年入学の、一年生。
アメリカのジュニア大会を四連続で優勝した、天才少年。
レギュラーたちの練習にひょいと割り込んで実力を見せつけ、下級生に先輩風を吹かす上級生に顔色一つ変えなかった様から、まず、我の強い一年生だ、と思った。
そして昨日、壊れかけたラケットでもって、喧嘩をふっかけた荒井将史を完膚なきまでに叩きのめした彼の姿を見た国光は、その時初めて、──「俺なら」、と思った。
どちらかというと想像力に乏しく、空気を読むというのが苦手で、だからこそ礼儀にばかり気をつけるようになった国光は、自分ならどうするだろうか、もし自分だったら、と考えることがあまりない。やろうとしても、うまく想像できないことがほとんどだ。だからこそ、卒業後は別々の道を行くのだろう友人たちに、ぼんやりとした壁を感じてしまいもする。
だが、越前リョーマ。初めて出会った彼の姿に、国光は初めて、己を重ねた。
──もし、自分だったら。
一年生だった自分が、あんなふうに頑として譲らず、生意気と言われても、自分のテニスを譲らなければ、どうなっていただろうか。
今は傷まないはずの肘を無意識にさすりながら、国光は人知れず震えた。
あの姿は、自分と同じだ。一生に一度きりの青春が何だ。己はテニスがしたいのだ、他のことなど糞食らえだと、自分とて言ってやりたかったのだと、国光ははっきりと自覚したのである。
そして迷うことなく、国光は、校内ランキング戦に越前リョーマを組み込んだ。
翌日張り出されたそれに驚くでもなく、ただ好戦的な、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべた彼をちらりと見て、国光も同じような笑みを浮かべそうになった。とはいえ、表情筋が死んでいると評判の国光なので、その眉がわずかでも動くことさえなかったが。
彼は危なげなく非レギュラーの二、三年生を完封し、Dブロック決勝にて、二年生レギュラーである海堂薫を6−4で下した。
レギュラーに勝ってみせた彼を、一年生だからと軽く見る者は、この青春学園であろうと、これからいなくなっていくだろう。そして薫もまた、敗北を大きなバネに出来るタイプの、非常にいい意味でどこまでもしぶとい選手である。久々の敗北に、また彼は一回りも二回りも強くなるに違いない。
ついに風が吹いてきたと、国光はいま、感じている。
ぞくぞくとする。無論、武者震いだ。
「……来年、我が青春学園は、必ず全国大会に出場する」
あの日の約束を、国光は一言一句違えず、ひとり繰り返した。何の恐れもない、勇気に満ちた、その宣言。
「そして決勝で、立海大付属に勝利する」
──油断など、しない。
戦えるという喜びに、国光は、あの日と同じ笑みを浮かべた。
「──全国決勝で戦おう、なんて。んー、青春! ってカンジですねえ、先輩!」
「ははは、そうだな」
「美形のコがやると、なお美しいわあ!」
「……ははは」
うっとりしたような表情で遠くを見ながら興奮する砂織に、ハンドルを握った守は乾いた笑い声を上げた。この後輩は、本当にブレない。
「っていうか、先輩。中学テニスは今のところ、立海大付属が二連覇してるんですよね? で、真田君とあと柳君は、その二大会ともレギュラー」
「ああ、そうだ。王者立海大、ってな。真田君は“皇帝”、柳君は“参謀”って二つ名があるよ。部長の幸村君は“神の子”って呼ばれてる。で、この三人で“三強”な」
「それはまた大層な。……でも、そんな三強のうちの一人である“皇帝”と、決勝で戦おう、って約束するぐらいなんだから、手塚君もめちゃくちゃ強いんですよね?」
「そりゃあもう。彼はもっと小さい頃から、日本どころか世界で知る人ぞ知るって感じで注目されてきた、日本ジュニアテニスの至宝だよ」
「ってことは、青春学園も優勝候補のひとつって思っていいんですか? 事前ミーティングでは言われませんでしたけど?」
あまりにも知識のない状態で取材をするのもどうか、ということで、砂織は守から、最低限のテニス知識と、日本ジュニアテニスの歴史や学校名など、基本的なところを事前のミーティングで叩きこまれている。──とはいっても、一夜漬けに近いようなものなので、しっかり身になっているとは言いがたい様子だが。
「あー……それか。うーん、実のところ、青春学園はテニスの名門ではあるけど、優勝候補とは言いがたいんだよなあ。全国大会も、ここ何年か出場自体まばらだし……。出れても一回戦とか、二回戦落ち」
「えっ、そうなんですか? 手塚君がいるのに?」
「いくら手塚君が強くても、大会は団体戦だから」
「あ、そうか」
プロともなれば選手個人個人の戦いとなるが、学生テニスは基本的に団体戦、というのが、日本テニスの伝統であり常識である。
「ってことは、青春学園って、手塚君以外はヘタクソなんです?」
「言いにくいことをバッサリいくね、お前は」
守は、もはや呆れを通り越して恐ろしい物を見るような様子だった。
「……まあ」
コホン、と咳払いをして、黄色信号を視界に入れた守は、ゆっくりと徐行しながら言葉を選ぶ。
「正直言って、手塚君は本当に飛び抜けているからね。そして青学には、手塚くんを超えるどころか、横に並べる選手もいない」
いや、他の子もすごくいい選手たちなんだけどな、と、守は念を押した。
「そもそも青学自体が、何が何でも優勝っていう感じの学校じゃないからなあ。学校名通り、青春時代、思い出づくりを大切に、という校風かな」
「あ、やっぱりそうですよね? 私が高校生ぐらいの時に、女子の制服がすっごく可愛くなって人気が出たって聞いてます」
砂織が言うと、そうそう、と守は頷いた。
「男子は未だに普通の学ランだけどな」
「いいじゃないですか学ラン。むしろそこを変えなかったのを評価したいです」
「そ、そうか?」
妙に真剣な砂織に、守はたじたじになる。
「ま、まあ、とにかく。青学のテニス部は設備も本格的なのもあって地区でも強い子が集まるけど、そういう校風だから。今一歩勝ちに貪欲じゃないというか……。そのせいで、手塚君は青学名義で公式試合には数えるほどしか出場してないし」
「えー!? なんでですか!? めちゃくちゃ強いんでしょう!?」
「いや、だから、青学はそういう学校なんだよ」
守は少し神妙にそう言って、青春学園の“伝統”について話した。
レギュラーはもちろん実力で選ばれるが、一年生はそもそも候補にすら入らないこと。短い青春時代の思い出づくりを重視し、最終的には年功序列が優先されることなどを聞いて、砂織は微妙な顔になる。
「なんですか、それ。変じゃないですか? だって強いのに」
「ああ、そうだ。あの年齢で、今すぐプロになってもおかしくないような手塚君は、レギュラーにさえ選ばれれば、目覚ましい活躍をしただろう。でもその活躍の影で、短い学生生活でのテニス経験が球拾いで終わる子が出るわけだ」
「うー、わからなくはないですけどぉ……」
「そうだな、わからなくはない」
守は、苦笑したまま深く頷いた。
たまたま同時代に生まれただけの、言うなれば凡人である少年たちのその場限りの青春のために、日本ジュニアテニス界の至宝とまで言われる手塚国光の才能を腐らせていると言っても過言ではないこの二年間は、テニスを愛する者としてはやるせないものだ。
だがしかし、守もまた、テニスを愛し、テニスに青春を捧げた少年だったからよくわかる。どんなにテニスが好きでも、テニスに愛されなければ、プロにはなれない。その切なさと悔しさを散々に味わい、自分の横を駆け抜けて世界のコートに向かってゆく同級生の背中を、守は見てきた。そして己を置いていったその姿が、世界の壁にぶつかって膝を折る姿もまた嫌というほど見てきた守だからこそ、あの手塚国光と同じ世代になった選手たちに、羨ましさと同情を同時に抱いていた。
「優勝カップは、ひとつだけだ。仕方がないさ」
そして、だからこそ尊いのだ。
大人になれば、人間としての価値、男としての価値を容赦なく付けられて、皆社会に出てゆくことになる。それはそれでやりがいのあることだが、若いうち、一度しかない短い青春時代。凡人も天才も、若さの前では同価値であると、どうかそうあってほしいと、守は願っていた。
「……切ないですねえ」
「それが青春ってやつさ」
しみじみと、大人二人はつぶやいた。信号が青くなり、守はゆっくりとアクセルを踏む。
「それに──」
危なげなく車を運転しながら、守は言った。
「今年は、いよいよ手塚君が部長になった。彼は、勝ちに来るぞ」
「……ってことは、一年生二年生関係なく、強い選手を出してくるってことですか?」
「おそらく」
守は、はっきりと頷いた。
「それに、言ったろう? 手塚君ほどじゃないが、青学の選手も侮れない子が揃ってる。その上、手塚君がこれぞと思ったメンバーを出し惜しまないとくれば」
「青学も、ダークホースになり得る?」
「そのとおり」
わくわくとした顔で、守は肯定する。笑みを抑えきれない表情、その目は、少年のようにきらきらとしていた。
「今年の全国、ちょっとわからないぞ」
守は、ハンドルを切る。
カーブを曲がると、それに続いて車が数台通り過ぎる。間もなくして青信号になった横断歩道を、白いキャップをかぶった、小柄な少年が渡っていった。