心に自慢なき時は人の善を知り
(三)
「おう、おう。予想通りにお怒りじゃ」

 たるんどる、と、部室の壁を超えてこちらのコートまで聞こえてきた怒鳴り声に、猫背になって内側に丸めた肩にラケットを担ぐようにした雅治は、目を細めて言った。
「お固いこって。あのっくらい、適当に答えときゃあええじゃろうにのぅ」
「まあ、あの真面目さが真田くんのいいところですよ」
 三年生になり、弦一郎と同じクラスになったことで彼と特に接点が増えた比呂士は、柔らかい口調でフォローした。

 精市の快癒祈願のため、常勝不敗を掲げたことで、立海大男子テニス部一同は、歴代の中でもかなりの結束を持つようになった。
 もともと、立海は設立当初軍学校で男子校だった校風が未だ濃い、根性論主義の体育会系の学校だ。更に弦一郎が現在トップに立つせいで、最近テニス部はすっかり“軍隊”だの、“テニス部だけはまだ軍学校である”と言われている始末である。
 また、それゆえに、特にレギュラー同士の間では、友人と呑気に表現できない関係性が生まれていた。そして自分たちが軍隊だの何だの言われており、事実全くそのとおりであるがゆえに、なるほどこれが戦友というものだろうか、と比呂士は納得しているし、他の皆もきっとそうだろう。

「真面目の一言で片付けられるようなもんじゃなかろ、あれは」
 ラケットを上向きに持ち、ボールのリフティングをし始めながら言った雅治に、比呂士は肩をすくめた。
 軍隊そのもののトップダウン方式を全員が順守し、同じ目的を掲げている自分たちが仲違いをすることは極少ない。が、弦一郎はそれこそ良く言えば真面目、悪く言えば保守的すぎるな価値観を持った頑固者なので、元々敵を作りやすい。とはいえ本人が誰よりも自分に厳しい努力家であるため、彼に面と向かって気に入らないと言う者は少ないが。
 つまり“認めてはいるが私的には苦手である”と弦一郎のことを評価する者が一定数存在しているわけだが、雅治もその部類なのである。
 何を考えているのかよくわからず、方言のようなそうでないような不思議な言葉を使い、ついにはコート上の詐欺師と呼ばれている雅治は、本来、軍隊のような集団に属することのなさそうなキャラクターなので、弦一郎と合わないのもしかたがないだろう──、と、誰もが思っている。

「……私から見れば、割と似た者同士なんですけどねえ」
「あん? なんぞ言うたか?」
「いえ別に」

 ふとした本音の呟きを、比呂士はまだ寒々しい春の空気に散らして有耶無耶にした。
 別に隠すつもりもない意見だが、本人に聞かせれば、きっと苦虫を噛み潰した顔で全力で否定するだろうことは確実だろうし、その相手をしてまでアピールしたいことでもなかったからだ。
 だが、弦一郎と雅治がある種似た者同士であるということについて、両名と“友人”と呼べる関係性を築いている比呂士だからこそ、確信を持っている。
 例えば意に沿わぬことを投げかけられた時、弦一郎は堂々と真正面から突っぱね、雅治はひょいと避ける。そして雅治は自分が設定した点数を取ることを最上の結果とするが、弦一郎は常に何でも百点満点を良しとする。
 つまるところ、雅治は例え猛勉強をしていても、“テスト勉強? なーんもしとらん”と言いつつ、良い点数をとって驚嘆されたいタイプの人間なのだ。そのあたり、“当然、勉強してきている”と言い、当たり前といった風情で実際に満点をとってみせる弦一郎とは、相容れない。結果の点数が同じであれば、なおのことお互いにイラつく。

 比呂士から見れば、ふたりとも、やり方が違うだけで、自分の意見は絶対に曲げない頑固者で、また同時に潔癖な完璧主義者である。
 そんな風に根が似た者同士であるからこそ、弦一郎は飄々としているように見える雅治が理解しづらいのだろうし、自分なら何も言わずにこっそり成し遂げるところ、大声を上げて真正面から突き進んで事をなす弦一郎を、雅治は無粋で苦手だと感じる。
 ──そして似た者同士であるからこそ、全く同じ目的を持った時、それはとてつもなく強固な繋がりとなる。常勝不敗を掲げてから、全く負けたことがない数少ないメンバーが、真田弦一郎と、そしてこの仁王雅治であるように。

 そんな風に比呂士がぼんやりと思っていると、「──我々には、まだ早い!」と、先程よりもすさまじい大声が響いてきた。
 更にそれから二秒も経たず、遠目にも湯気が出そうなほどかんかんに怒っているとわかる弦一郎が、バンと勢い良く部室のドアを開けて出てくる。荒々しく大股で歩く弦一郎に、後輩たちが肩を竦ませて道を空けるのが見えた。
「あーあー。やらかしよった」
「付き合ったことがある女性の人数、のところですかねえ」
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら比呂士が言うと、「多分そうじゃろ」と、雅治が白けた様子で答えた。

「ちなみに、仁王君はなんと答えたのです?」
「俺は正直者じゃけぇ、ゼロ人じゃ」
 けろりと言った雅治に、確かに嘘ではないな、と比呂士は小さく頷いた。
 雅治は、モテる。白銀に染めた髪、細身だがテニスで鍛えた体躯に鋭めの顔立ちは、バンドマンのような、崩れた魅力がある。さらに、口を開けばミステリアス、と本人も意識しているのだろうキャラクターは、同年代の娘には非常に心惹かれるものであるようだ。
 だが実際、雅治は、それに対して本気でどうとも思っていない──というより、むしろ煩わしいと思っている、というのも、比呂士は知っている。

 そもそも雅治は、あまり女性に興味が無いのである。
 とはいっても同性愛者というわけでは全くないのだが、例えばグラビア雑誌やさらに直接的な媒体に対し、ふざけて誰かと覗くように見ることはあっても、それ以上の反応は示さない。それに、以前数人と女性経験の有無について恋バナと猥談の間のような話をした時、雅治は自分の経験について「さて、どうかのう」とその場ははぐらかしたが、そのあと比呂士にこう漏らした。

「キスとかええわ……口に相手のツバつくし……」

 あまりにもな言い様に、比呂士は思わず、口をぽかんと開けて立ち尽くしたのを覚えている。
 だがとにかく、雅治の本音はそんな様子であるようだ。硬派、というのとも違う。彼の見た目やキャラクターとは真逆だが、とどのつまり、ただ単に幼く、それゆえに潔癖なのである。おそらく、初恋もまだなのではなかろうか。
 だからこそミステリアスなキャラクターを演出し、それを格好良いと思っているのだろうし、だがその一方で、輪をかけて精神年齢の低い赤也と転げまわり、くだらないことで涙を流して笑う第一人者でもある。

 だが、所謂“チャラい”と見なされやすい彼の容姿に惹かれてやってくるのはつまり、そういう趣味系統の女子ばかりであった。
 そもそも女性に興味が無いのに、よりにもよって女っぽさを前に出してくるタイプにばかり言い寄られるのに、雅治は本気で困っているようだった。
 とはいえ“コート上の詐欺師”の二つ名を殊の外気に入っており、ミステリアスなキャラクター作りに余念のない彼でもあるので、一度二度、告白を断らず、かといってはっきり受けるでもなく、としたことがある。──要するに、格好つけたのだ。
 そして案の定、肉食系の彼女らにべったりとくっつかれ、しまいには女性同士で物凄い争いが起きた。それはそれは本当に熾烈な、まさに修羅場で、男なら全員縮み上がるような有り様だった。どこが、とは、紳士を自負する比呂士はあえて言わない。

 本人たちの派手な容姿、そしてそのやり合い自体の騒がしさからその時のことは学校中の誰もが知ることとなり、結果、雅治は、派手な女を取っ替え引っ替えのチャラ男だと思われていることが多い。
 ──実際には、雅治は誰とも付き合ったことはないし、この件で本当に懲りたらしく、告白される度にキャラを忘れて丁寧に断っているのであるが。
 そのため、雅治がインタビューで答えたという「ゼロ人」は、周りから見れば真っ赤な嘘であり、本人からすれば真実である、というわけだ。

 その点で言えば、弦一郎は逆、とはいわないまでも、歳相応のものがある、と比呂士は思う。
 雅治ほど頻繁ではないにしろ、弦一郎も、異性から告白されることがある。丁寧に断るのは同じだが、異性から告白されたというそれそのものに悪い気はしていないのは、抑えきれていないご満悦顔から明らかだ。
 それに、恋バナや猥談で、ぎゃあぎゃあと喧しくはあるものの、結局“淑やかで献身的な和風美人”が理想であるらしいことが知れた。さらには、髪を結い上げた時の白い項や、手足の小ささ、足首の細さなどにぐっとくるらしい。なかなかの趣味である。
 それだけでなく、その時の弦一郎の様子から、具体的にそういう対象がいるのだろう、と比呂士は察している。献身的な和風美人で、項が白く、手足が小さく、足首の細い誰かが。
 それがどこの誰であるのか、弦一郎はついに全く口にすることはなかったが、その頑なな様子からして彼が本気で思いを抱いているようなのを察した比呂士は、それ以上聞くのをやめている。

 異性に対する理想や好みすらあやふやな雅治に対し、弦一郎は非常に具体的な理想と、そして実際にその存在を持っている。ここでも、双方真逆のようで、見た目に反して、という点では共通しているのだから興味深い、と比呂士は勝手に面白がっているのだった。

「……で、おまえさんはどう答えたんじゃ」
「私ですか?」

 ラケットの上でボールを転がしながら肩越しに振り返った雅治に問われ、比呂士はもう一度、眼鏡のブリッジを押し上げる。

「ヒミツです」
「はあ?」
「ヒミツです、と答えました」
 何でもないようにさらりと言った比呂士に、雅治は、下唇を突き出すようにして口を開け、呆れたような顔をした。

 一年生の時、ゴルフ部に所属していた比呂士を、自分のダブルスパートナーとしてテニス部に引っ張ってきたのは、雅治である。
 七三に分けたきっちりとした髪型に、常に一点の曇りも無い眼鏡。背筋は真っ直ぐに伸ばされ、仕草はきびきびと丁寧、ポケットには清潔なハンカチとちり紙。成績優秀で教師たちからの評判も良く、校則違反など微塵もしない、健康健全、生真面目な優等生。それが雅治が最初に抱いた比呂士の印象であり、実際今でも変わらずそうである。
 だがしかし、それが事実であると同時に、雅治が苦手とする、武器のようなつけまつ毛を装備した女子をも“レディ”と称して悠々と接し、喧嘩は買わないがそのかわり、公式の試合や体育の時間でもって相手をこてんぱんにするという彼に気づいてから、雅治は比呂士に興味を持った。聞けば、曰く、「紳士たるもの喧嘩はいたしませんが、きちんとした決闘には応じます」だそうだ。
 そのうち、ゴルフだけでなく射撃やアーチェリー、ラクロス、スキーやスノーボード、スケートなどの経験もあるということに少し驚き、やや強引に誘って、テニスラケットを握らせてみた。──それが、きっかけである。

 柳生比呂士は、とてつもなく柔軟で、器用な人物だった。
 それは初めてやったはずのテニスで難なく雅治と打ち合えたという技術的な才能の意味でも、そして、精神的、性格的な意味でも、である。
 比呂士は、“否定する”ということを、ほとんどしない。その都度のルールを守ることをよしとするが、それを他人に押し付けない。やんわりと注意することがなくもないが、「今はやめておいたほうがよろしいと思いますよ」というくらいのものだ。自分が理解できないやり方をするものに出会っても、「そういうこともあるのでしょう」と言う。
 そしてそのやり方は、雅治のようなややひねくれた性根の者にも聞き入れやすく、同時に、弦一郎のような四角四角した性格の者にとっても、おおいに許容範囲なのだった。

 生真面目だが非常にノリが良く、筋を通した上で柔軟な対応をする。非常に器用なその様を気に入った雅治は、連日、様々なストリートテニスコートに彼を引っ張りまわした。
 色々な相手と試合を続けた結果、本当に器用な比呂士はすっかりコツを掴み、フェイントと駆け引きが主軸である雅治のダブルスパートナーとして、言葉要らずの阿吽の呼吸を合わせてくれるようにすらなった。

 一年生の時のレギュラー選抜で、雅治は、対戦した弦一郎に“地力をつけろ”と言われた。
 生まれつき体格に恵まれ、故障知らずで、幼少の頃から家業の剣道で鍛えられた体力おばけのような弦一郎に言われたからこそ、雅治は非常にむかっ腹がたち、その時の苦手意識を、未だに弦一郎に対して引きずっているところがある。
 それに地力が足りないなど、わざわざ言われずとも百も承知だった。身体を作り、基礎力をつけるというのは、とにかく地道で長い時間がかかる。もちろんそれを怠るつもりはないが、今すぐどうこうできるものではない。しかも雅治はひどい偏食持ちで、胃も小さく、食べるのが苦手だ。だからこそ、雅治はフェイント、駆け引き、──そして模倣を選んだのだ。

 ──仁王君はフェイントや駆け引きがとてもお上手なので、基礎の力がもっとあれば、更に決定的なペテンが出来そうですねえ。

 後日比呂士に言われたこの言葉は、雅治の中に、すとんと落ちてきた。
 言っていることは弦一郎と全く同じなのであるが、雅治は怒られるのが大嫌いで、褒められると伸びるタイプだった。負けず嫌いなので、不得手は克服しようとする。ただし一人でひっそりやりたいので、放っておいて欲しい。そして得意なことは堂々と見せびらかしたいし、大々的に評価して欲しい。
 雅治のそういう、はっきり言えば非常に面倒臭い性根に対し、弦一郎はどこまでも外れていて、そして比呂士はぴったりはまった性格だったのだ。

 弦一郎と仲良くやれるだけの生真面目さを持ちつつ、色々とわかっているだろうに放っておいていてくれる比呂士は、雅治にとって居心地のいい相手だった。
 同じく、弦一郎と親友と言ってもいい間柄でありつつもユーモアを解しノリもいい蓮二もまた雅治にとって付き合いやすい相手だが、彼はデータマンだけあって主観的な称賛などをせず、ただ事実だけを述べるので、一緒にいて非常に実にはなるが、耳が痛いこともあるため、ダブルスパートナーとしてやっていける類の居心地の良さはない。
 とはいえ、都合のいい時だけ頼っても蓮二は全く気にしないので、遠慮なくそうさせてもらっているのだが。

 とにかく、意図してどっちつかずでミステリアスなキャラクターを作っている己自身と比べ、本当にミステリアスなのはこの柳生比呂士の方である、と雅治は思っている。
 ヒミツ、と称したらしい女性経験の有無についても、そうだ。同級生と付き合ったことがないのは確かだと思うが、もう卒業した女性の先輩と、二人っきりで図書室にいるのを見かけたことがある。
 それに、雅治がペテンのために研究し始めた化粧関係について、彼はさらりと口を出してきた。ブランドや化粧品のメーカーについてもそこそこ知っており、本人は「母から聞きまして」と言ったが、どこまで本当やらわからない。
 おそらく彼には、“はっきり付き合っているというわけではないが、二人きりで合うこともある”という距離感の異性が、たぶん複数人か、あるいは時期をずらして一人ずついるのだろう、と雅治は目星をつけている。
 以前、そのやりようを参考にし、告白してきた同級生と先輩に曖昧な返事をしたら目を覆うような修羅場に発展して懲りたので、雅治はもう女性関係において二度と比呂士の真似などしないと誓い、告白してきた相手には、キャラを忘れて真面目かつ丁寧に断ることにしている。
 だがそんな有り様と同時に、特撮やヒーローものが好きで、毎朝妹と一緒にスーパー戦隊やらライダーやら、果てはプリキュアまで網羅して楽しげに語る、子供っぽいというかオタクっぽいところも、比呂士は持ち合わせていた。

「紳士は時にミステリアスなものです」
 眼鏡をきらりと光らせながら、比呂士が心なしか得意げに言った。
 何言っとんじゃお前、と雅治は思わず言いかけたが、まったく事実でもあったので、結局、色々なものを飲み込んで口を噤んだのだった。






「──へぇ、凄いね」

 ファイルにまとめられた紙束をめくりながら、感心を滲ませた声で、精市が言った。
 部活動報告書、と書かれたそれは、部員たちの試合の勝敗、スコア、練習メニューなどが書かれたものだ。そしてそれは、なるべく日にちを開けないよう、レギュラーたちが二、三人ずつ交代で病院に訪れ、部長である精市に手渡しし、実際の報告もする。ここまでが、立海大付属中学男子テニス部の習慣になっていた。
 そして今日の当番は、ブン太とジャッカル、そして当番ではないがくっついてきた赤也である。

 当番でなくても、赤也はよく精市の病室にやってくる。
 精市を何とか元気にしたいと思っているのだろう、そして部活のこと、それ以外のことを喋ったり、いただきものの果物やお菓子を食べたりして過ごしていくのだ。
 花が好きでガーテニングを趣味にする精市を思って、一度見舞いにあるまじき鉢植えの花を持ってきたことがあったが、そんなことも笑い話にできるくらいには、精市も赤也の存在をありがたく思っていた。

「かなり勝率が上がってる。数値にすると、よく分かるな」
 精市はそう言って、蓮二が作ったフォーマットのとおりに作成されたグラフや表、様々な数値を指先でなぞる。
 彼の言うとおり、常勝不敗の誓いを掲げたあの日から、テニス部の戦績は、右肩上がりに上がっていた。
 相変わらず他校への練習試合を中心としたとにかく実戦重視の練習メニュー、そして共通の目的を持ったがゆえの勝利への貪欲さ、更には敗北に伴う副部長からの鉄拳制裁の恐怖が、彼らの実力を恐ろしいスピードで引き上げているのである。
「おうよ。一年二年の平部員、だいぶ頑張ってっからなー」
 そうなると俺らも負けられねえし、と、ブン太が風船ガムを膨らませながら言う。器用なものだ。
「だよな。みっともねえとこ見せられねえもんな」
「フフ」
 僅かな疲れ、しかし高いモチベーションと嬉しさを滲ませたジャッカルの深い頷きに、精市は微笑みを返した。

「あれ……、へえ。赤也、最短試合時間更新?」
「そうなんスよ!」
 精市が報告書をめくるのをやけにそわそわと見ていた赤也が、待ってましたとばかりに声を上げた。
「真田副部長が、“ただ勝とうとするのではいかん。何か目標を決めて勝て”とか言うんでェ」
 眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げての弦一郎のモノマネを交えて言った赤也に、精市だけでなく、ブン太とジャッカルも噴き出した。
「いろいろ考えたんスけど、やっぱ、どうせ勝つなら圧倒的に勝ちてえじゃねっすか! だから試合時間をなるべく短くってのを目標にしたんス! そんでぇ」
 興奮気味にまくし立てる赤也の声を聞きながら、精市は彼のスコアをめくっていく。
 数値にしてみるとよくわかるが、赤也の挑戦は、なかなかに侮れるものではなかった。一番早いものだと、十八分程度。中学テニスのレベルで、これはかなりの記録である。
 これは蓮二も興味深いと認め、試合時間の記録は別紙でつけてあるのだと、当の赤也がどや顔でその記録用紙を見せつけた。

「──フフ」
「え、何スか?」
 面白そうに笑った精市に、記録用紙を掲げた赤也がきょとんとする。
「赤也、その目標、真田に言った?」
「そりゃあ、目標決めろっつったの副部長だし。言ってますけど」
「なんか、微妙な反応しなかった?」
「え、なんでわかるんスか」
 きょとんとした目を今度は驚きで更に丸く見開いた赤也に、精市はまた笑う。

「最速試合時間更新、っていうの。これ、真田が小学生の時に躍起になってた目標だからさ」
「えっ」

 ひらり、と、赤也の試合時間の記録用紙が落ちた。
「勝つなら圧倒的に勝たねば、っていうのも同じ」
「へー、マジ?」
「でも真田ならやりそうな感じではあるよな」
 興味深そうな顔で、ブン太とジャッカルが身を乗り出した。
「本当、本当。ほんとお前たちよく似てるよね」
「ちょちょちょ、やめてくださいよあのカタブツと似てるとかァ!」
「おい真田に言いつけんぞ」
 呆れ顔で、ブン太が言う。しかし赤也はそれも耳に入らないほど驚いているらしく、丸椅子から立ち上がったまま肩を怒らせ、「ぜってー似てるとかねえッスから!」と、病院で出す声としては明らかに音量オーバーの声を出した。

「そう? でも真田は自覚あると思うよ、お前と自分が似てるの」
「はあああああああ!?」
「真田のやつ、今でこそ“皇帝”とかご大層に呼ばれてるけど、小学生の時はそりゃもう躾のなってない狂犬みたいに喧嘩っ早くてさあ。試合でも実際には暴力振るわないけど、いつ殴りかかってくるかって感じだから、対戦相手がビビるのなんの。あの頃のあいつのアダ名知ってる? “猛獣”とか“暴君”とか、とにかく碌なもんじゃなかったね」
 ぽかんとしている三人に、精市はふっと懐しそうな笑みをこぼした。

「……まあ、あいつも理由があってああだったんだろうけど」

 当時病床にあった祖母のために弦一郎が鬼気迫る勢いで勝利を追い求めていたことを、その祖母の葬式での一悶着によって、精市は知っている。そしてその連勝記録を打ち破ったのは、他でもない精市である。ネットを挟んで退治した、手負いの獣のように光る弦一郎の目を、精市はいつだって思い返すことができる。
 いま彼は、あの時と同じことをしているともいえる。だがしかし、ただひたすら身を切る思いでそうしていたのだろうあの時と違うのは、相手が精市だというところだ。
 真田弦一郎は、常に戦っている男だ。だがあの金色の輝きを纏った弦一郎は、まったく自分を見ていなかった、と精市は思い出す。しいて言えば、自分自身と戦っていた、とも言えるだろう。ただひたすらボールを追うだけのあの姿は、まるで精市など見ていなかった。そのことにとてつもなく苛ついて、ふざけるなと腹の底から怒鳴ったことも、精市はちゃんと覚えている。

 ──俺は、勝つ。勝ち続ける
 ──どんな相手でも、お前がいない間、誰にも負けん


 歯を食いしばり、今から精市の喉笛に噛み付くかのような顔をして言った彼の顔を思い出すと、精市は非常にムカムカすると同時に、負けてなるものかという武者震いが湧き起こるのを感じた。
 彼は、戦っている。あの時のように。しかしその対戦相手は、その時コートに立っている対戦相手でもなく、そして弦一郎自身でもなく、“神の子”、幸村精市なのだ。

 常に自分を倒そうと、岩に齧り付きながら這い上がってくる、どうしようもなくいけ好かない腐れ縁の幼馴染を、精市はこうしてその存在に支えられているという事実があってなお、慕わしいとは思わない。
 精市と弦一郎は、龍虎と呼ばれることもある。龍虎は戦っていてこそ龍虎なのであり、友情や慣れ合いが存在していたとしても、それは二の次三の次だ。殺し合いに近いような戦いの上に、二人の関係は正しく成り立つ。そのことを、精市も弦一郎も知っていて、そして何よりお互いにそれを望んでいる。

 そんなことを思いながら、精市は、不服そうな、複雑そうな顔をしている赤也を、ちらりと見た。

 三強と呼ばれる精市ら三人を中心に、レギュラーたちに追いつこうと必死で千尋の谷を登ってくるような姿に、精市はかつての弦一郎を見る。弦一郎が通った道を自覚なくことごとく踏襲する赤也はどうしようもなく面白く、そしておそらく弦一郎にとっては気恥ずかしく、どうしても放っておけない存在なのだろう。
 しかしそれと同時に、決定的に弦一郎と違うところもある、と精市は感じていた。

「……幸村部長」
「うん?」
 不貞腐れたような顔で低い声を出した赤也に、精市は首を傾げた。
「真田副部長の最短試合時間って、何分ッスか」
「え? うーん、小学生の時だし、公式に記録申請してたわけじゃないしなあ……。でも確か、十五分台だったと思うよ」
「十五分」
 それを聞いて、赤也はぎゅっと拳を握ると、「っし!」と何やら気合を入れ、にっかりと笑った。

「わっかりました! その記録、ぜってー破ってみせますんで!」

 まっすぐに自分を見て宣言した赤也に、精市は微笑む。そして、「そうか、頑張れ」と、穏やかに声をかけた。

「……うーん、やっぱり赤也は真田とは似てないかなあ」
「でっしょお!? 似てねえっすよ絶対!」
「うん」

 なぜなら弦一郎には、赤也のような可愛げなど欠片もない。
 そして赤也には、弦一郎のような、いつ喉を食い破られるかという危機感や武者震いを、精市は全く感じていないからだ。──残酷なほどに。

「幸村部長にも、いつか勝ちますから!」
「ははは。そんな日は来ないよ」

 慕わしげに、無防備に笑いかけてくる赤也に、精市もまた、可愛い後輩に向ける優しげな笑みを返す。
 そして、その笑みが実のところどこまでも容赦の無い、残酷な笑みであることに気づかない赤也は、不貞腐れたように、しかしどこか嬉しそうに頬を膨れさせたのであった。
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BY 餡子郎
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