心に自慢なき時は人の善を知り
(一)
「えっと、じゃあまず学年とクラス、お名前からお願いします〜」
ICレコーダーを机の上にコトリと置いて、芝 砂織は、若干緊張した面持ちで言った。
砂織は『月刊プロテニス』の記者として属された、二十二歳の新人記者である。
新卒で編集社に入社した彼女の希望は、本来、芸能関係の部署であった。なぜなら彼女は幼い頃から重度のアイドルファンで、また見目のいいミュージシャンや俳優、モデルなど、あらゆる方面へのチェックを欠かしたことのない、つまるところ三度の飯より美少年と美青年が好きな、筋金入りの面食いだからである。
だが彼女はどういうわけか、スポーツ部署に配属され、そして『月刊プロテニス』のチームで記者として働くこととなった。
『月刊プロテニス』は、日本で最もメジャーなテニス雑誌である。
同社では月刊プロサッカーやら月刊プロ野球やら、他スポーツに特化した雑誌も取り扱っており、元々スポーツ関係に強い出版社だが、『月刊プロテニス』はその中でも刊行の歴史が長い、テニスファンかつ記者や編集社志望であれば誰もが夢見る雑誌である。
だが砂織はスポーツ観戦の際には勝敗や繰り出される技の数々より、整った顔の選手ばかり眺めているタイプである。
マニアックなテニスファンの志望者を差し置いてなぜか抜擢された砂織は、彼らの血を吐くようなやっかみなど知ることもなく、夢だった芸能部署に所属できなかったことに、脳天気に落胆した。
しかし持ち前の、脳天気さと比例したポジティブさでもって、月刊プロレスリングやら月刊大相撲などに配属されるよりはましである、それにまだ一生この部署にいると決まったわけでなし、実力を認められれば希望の部署への転属願いも出せるだろう、と思い直した砂織は、とりあえず、与えられた仕事を頑張ることにした。
砂織の直接の上司、というよりは同僚の先輩となるのは、井上守という、三十歳という年齢からしても妥当な、中堅どころの記者である。
しかし彼は幼少の頃から学生時代、そして社会人になり出版社に入社してからも会社のテニス部に所属しているという、筋金入りのテニスファンだ。プレイするのも観戦するのも大好きで、テニスに人生を捧げていると言ってもいい。もちろん国内外の選手や大会、小さな試合をも網羅し、その知識量は相当なものである。
そのため、三十歳というベテランというにはやや足りない年齢でありつつも、彼は『月刊プロテニス』のチームの誰もに一目置かれている、中心人物であった。
どんな分野でも、オタクやマニアというものは、新参やにわかファン、ルックス鑑賞目当てのミーハーを嫌うという傾向がある。砂織自身、アイドルに限らず、ミュージシャンや俳優、モデル、各方面の見目麗しい男性を網羅するため、各ジャンルのディープなファンに、邪道だと誹られ、真のファンではないと何度も言われてきた。
正直彼ら・彼女らの言い分はもっともだと、砂織も認めている。だが同時に、それでも好きなものは好きなのだから仕方がない、とも思っていた。
それにその都度のルールは完璧に守っているし、出待ちだの買い占めだの転売など、モラルに反した行為もしたことがない、という自信のある砂織は早々に開き直り、同じ趣味の友達もあまりいないまま、ひたすら我が道を突っ走っている。
だからこそ、テニスのテの字も知らない砂織はさぞ散々に馬鹿にされて怒られるのだろうなあと思っていたのだが、その予想は完全に裏切られた。
配属された時、まず簡単な自己紹介の後、守は「好きなテニスプレーヤーは?」と聞いてきた。それに砂織は馬鹿正直に「誰もいません」と答え、ついでに、「かっこいい選手がいないので」と、言わなくともいい理由まで述べた。
言わなくともいいことである、と砂織もわかってはいたが、イケメンを見つけたらはしゃいでしまう性分は押さえられないし、押さえたくない。だからこそ最初にこうしてミーハーであると表明しておいたほうが、空気を読まずにイケメンにはしゃいでも「まああいつだからなあ」と諦めてもらえる。
砂織にとっては、頭の軽いミーハー女だと思われることよりも、大好きなことに全力で喜べないことのほうが何倍も、いや比べることが出来ないほどに嫌だった。
しかし守はそれに怒るでもなく、呆れるでもなく、ましてや軽蔑などもせず、「そうかあ」と苦笑した。
「実は、日本のテニスは最近ちょっと低迷していてね」
「そうなんですか?」
テニスは、日本では第二の国技と言われるほどに盛んなスポーツである。
世界的にも、“庭球(Tei-kyu)”という言葉が世界で通じる程度に強豪国として知られているし、日本国内でも高額賞金の大会が開催されているため、コーチ業や自由のきく副業などを持つことで、職業としてもある程度成り立っている。無料、あるいはワンコインで利用できるストリートテニスのコートも、生活圏内にひとつふたつはあるのが普通だ。
日本に住む者の常識の範囲として、砂織ももちろんそんなことぐらいは知っている。
そして知っているからこそ、低迷している、というのが意外だった。
「そうなんだ。日本国内のみのプロテニスプレーヤー人口はそれなりに多い、というか常に固定されている状態だ。特に男の子なら、テニスを一度もしたことがないという子は少ないだろうし」
「そうですね」
砂織の認識でも、男の子がやるスポーツといえば、まずテニス。僅差でサッカー、次いで野球といったイメージだ。
「でもここ数年、プロの世界での日本人ランキング上位者が少なくなっている。だから、日本はもうテニス後進国だと言われることもあって。……うちの雑誌も、少しずつだけど、売上が減っているし。そりゃあ、危機を感じる数じゃないが、毎回同じ人しか買ってないような数字というか……」
はあ、と、守は溜息を吐いた。
「世界ランカーがいないわけじゃないし、日本のテニス、いいんだよ、とても。堅実というか、質実剛健というか、そういう感じで」
「へえ」
「でもなあ、俺が考えるに、それが原因だと思うんだよ」
「はあ」
これからそのテニスの記者になるというのに、全く興味のなさそうな声で、砂織は相槌を打った。だが守はそれを全く気にすることなく、続ける。
「芝君は、好きなテニス選手がいないと言ったね。それは、格好いい選手がいないからだと」
「はい」
「……本当に、いない?」
「いません」
「やっぱり?」
砂織がきっぱり断言すると、守は若干うなだれた。
「自慢じゃないですけど、私、雑誌であれテレビであれネットであれ、メディアに一回でも登場したことのあるイケメンなら、絶対に見逃しません。でもテニス選手で、そういう人はいませんね」
「す、すごいな」
守は、ごくりと息を呑んだ。一瞬引いたようにも見えたがしかし、それはすぐに期待感あふれる表情になった。その変化に、今度は砂織が少し怪訝な顔をする。
「俺が言うのも何だけど、今の選手は、実力はあっても華のないタイプが多い」
「あー、なんかわかります」
イケメンあらば東奔西走一切苦ではない砂織は、せっかくテニスの担当になるならばと、プロテニスの選手名鑑を持ちだし、片っ端からチェックした。万が一にもないとは思うが、見逃しているイケメン選手がいるかもしれない、と思ったのだ。
しかし現役の日本人プロの中で、砂織の眼鏡にかなうルックスを持つ選手はおらず、いたとしても既に引退していたりで、砂織はたいへん落胆した。
アスリートにはアスリートの格好良さがあるとは思うのだが、砂織の好みはそこではない。所謂可愛い系のアイドル顔、綺麗めの美形タイプが彼女の好みであり、保守範囲なのだ。
「でも、実はだね。──いまプロの世界は若干低迷しているけど、逆に、いずれプロになるだろうジュニアテニス──学生テニスは、金の卵揃いと言われているんだ」
テニス知識の全くない砂織のために守が説明する所によると、海外と違い、中学テニスの全国大会やインターハイはプロの登竜門、スカウトの場としておおいに機能しているのだという。学生テニスのトップがプロ転向するのは、普通のことだ。
そして日本におけるプロテニスプレーヤーへの道は、概ね四つのルートに分けられる。
ひとつめが、『自主プロ転向』。
これは中学、高校での全国大会出場経験等を成績として主張し、自主的にプロ転向するルートである。自分でプロ登録さえすればいいので最も簡単だが、所属クラブやスポンサー等のバックアップがないため、本人負担が大きい。
賞金が得られた場合は全て自分の懐に入るが、すべての経費も自分持ちなので、その上生活費も捻出するとなると、自主プロ転向の場合は必然的に国内のみのプロ活動となる場合がほとんどだ。
ふたつめは、『大日本テニス協会推薦によるプロ転向』。
日本でプロになるにあたって最もスタンダードなルートで、所属学校を問わない選抜メンバーから選ばれることが殆どである。
ただし、あくまで推薦であるので、協会から最低限の経費の援助は出るが、その他は自腹を切らなければならない。得た賞金は基本的に全て選手本人のものとなるが、ある程度の協会への寄付が暗黙の了解となっている。
みっつめが、『海外テニスアカデミー、クラブ等からのプロスカウト』。
中学・高校での活躍が飛び抜けて目覚ましく、海外のテニスアカデミーやクラブ等からスカウトが来るルートだ。
資金・設備・環境面ともに最も堅実なルートであるが、テニスアカデミーやクラブの多くは全寮制で、生活の全てを管理され、かつ所在が海外となることが前提のため、若くしてかなりストイックかつ孤独な戦いを強いられる。
得た賞金の分配は、賞金の額に関わらず、定額をアカデミーに納める・賞金の数割を納めるなど、アカデミーやクラブによって異なるが、全額選手本人のものになることはない。
そして最後が、『スポンサー付きのプロ転向』である。
試合以外でもCM等のメディアに顔を出すことが前提なため、企業イメージを損なわないテニスの強さとともに、キャラクター性を始めとするスター要素、プライベートを含むイメージ保守の義務なども求められる。
得た賞金は全額本人のものになる上、契約によっては経費捻出以外にスポンサー料も入る。セレブと呼ばれるテニスプレーヤーのほとんどは、スポンサードのスター選手である。
またどの企業がスポンサーになるかは、毎年、非公式であるがドラフト会議のような取引も行われているという。
守のその説明はとてもわかりやすく、マニア特有の独り善がりな歩み寄りづらさは全くなかった。そのことからも、砂織は改めて、自分の先輩になる彼に、人間的な好感を持った。──顔は全く好みではないが。
「嵐の前の静けさ、黄金期再来は近い、とかね。世界レベルで注目と期待を集めてる。今すぐプロになってもやっていけると言われる選手もいるぐらいだ」
「へえ〜」
すごいですねえ、と、砂織は全くそう思っていなさそうな声で言った。しかしそこで、守の目がきらりと光る。
「そう、そして……、そんな彼らを将来獲得せんと、今から目をつけているスポンサー志望の企業もちらほらいるくらいだ。これがどういう意味か、わかるかな」
「えっと……」
「スポンサードの選手は、スポンサーの広告塔としての役目を課される。つまり……」
コホン、と、守は勿体ぶったような咳払いをした。
「イメージキャラクターとしてCMに出演できるほど、容姿の整った選手が多い!」
「マジですかあ!」
砂織が、未だかつてない食いつきを見せた。表情は期待に輝き、目はやや怖いほど爛々としている。
そのリアクションの良さに、守はウムと大きく頷いた。
「ああ。特に氷帝学園の跡部景吾君なんかあまりにも美形で、俺も最初見た時はポカンとしたぐらいだからな。いやー、あんなに綺麗な人間がいるものなんだなあ。CGかと思った」
「そ、そんなにですか……」
「彼は部長だが、他のレギュラーの子も、アイドルやモデルみたいな子がちらほらいたぞ」
「わー! まじですか、わああー!」
「他にも青春学園の手塚国光君も、中学生とは思えない、大人っぽいクールな美青年という感じだったな。他にもいかにも元気そうで人懐っこい、でも顔は整った子とか、もういかにも王子様っぽい優しそうな子もいて、そのままアイドルグループにして売り出したらいいんじゃないかってぐらい。あとは関西の学校にも、ちょっとびっくりするぐらいの綺麗な子が……」
「やばい」
涎出てきた、とまでは、さすがに砂織も言わなかった。実際に涎は出ていたので、言わずとも、という感じであったが。
「そこで俺は、彼らを重点的に取材することで、これからのテニス界への期待と注目を高めようと思っているんだ」
「なるほど。……でも、先輩」
「うん?」
口の端を拭いつつ、しかし真剣な、若干心配そうな顔で訪ねてきた砂織に、守は首を傾げた。
「先輩って、テニス大好きですよね。……そういう人って、私らみたいなミーハーなのから注目されたり騒がれたりするのって、嫌じゃないんですか?」
「ああ、そういうこと」
守は納得した様子で、そして笑みを浮かべて頷いた。
「そういうふうに思うファンは多いな。特に、テニスというスポーツがとても好きなファンは」
俺も実際そう思っていた時期が多少あった、と守は言う。
「でもやっぱり、テニスというスポーツが人気スポーツであり続けるために、そしてひいてはウチの雑誌が売れ続けていくためには、そういう事も言っていられないのが現実、と、俺も大人になって思ったわけだよ」
「はあ」
「それに、初めのとっかかりがミーハーな気持ちでも、彼らを追いかけるうちに、テニスも好きになるかもしれない。そうでなくても、テニスをする彼らを応援してくれるんなら、にわかでもミーハーでも何でもいいさ」
「そうですか」
「まあ、マナーが悪いとか、他の選手を悪く言うとか、そういうのはやめてほしいと思うけども。だから彼らを取材すると同時に、そういうモラルを持って応援して欲しい、ということも強めに押し出すつもりだよ」
「なるほど、それは大事ですね」
砂織は、真面目な様子で頷いた。にわかファンやミーハーが許されるとしたら、それはマナーを守り、モラルを大事にするからこそである、と砂織は重々知っているからだ。
礼儀正しくしていれば、先輩ファンが話しかけてくれて、いろんなことを教えてくれることもある。だがしかし、ルールやマナーを破ろうものならたちまち攻撃の対象にされ、あっという間に排斥されてしまう。
「それに、だ」
守は、にやりと笑った。
「まず彼らは、ただ立っているだけでも格好良い、青春真っ盛りの中学生だ」
「素晴らしいですね」
尊い世界の宝と言ってもいい、と砂織は頷く。
「そしてその格好いい彼らが、汗を流し、歯を食いしばり、真剣に、必死になってテニスをする。しかも、強い。プロ顔負けに強い。……どうだ」
「……それは」
砂織は、ぶるっと身震いした。その目には、燃え盛らんほどのやる気と、熱に浮かされたような潤みがある。
「……惚れますね」
「そうだろう」
うむ、と、守は満足気に頷いた。
「俺は既に数年、学生テニスを取材してきた。今中学生の彼らの取材も数回してきているが、彼らの実力は相当だ。ミーハーなファンが、すぐに真剣なファンに変わるだろうほど。応援せずにはいられない、そんな魅力が彼らからは溢れている。……だから」
ばん、と、守は砂織の肩を叩いた。
力強く、そして期待がこもっているのが明らかなその衝撃に、砂織は姿勢を正す。仕事関係の相手から肩を叩かれて、セクハラだ、と微塵も思わなかったのは、初めての事だった。
「だから芝君は、彼らの魅力を余すことなく取材してくれたまえ! できれば人気の出そうな選手を重点的に!」
「わかりました! この芝砂織、全力で期待に応えてみせます!」
未だかつてないやる気に、砂織の目はごうごうと燃えていた。
その後、砂織は守について主に中学校のテニスを見学し、取材をし、と、着々と仕事を覚えていった。
そして守の言ったことに嘘や誇張は一切なく、特に氷帝学園の男子テニス部部長・跡部景吾は、砂織が知っている中でもだんとつの美形だった。おまけにエンターテイメント精神にあふれた素晴らしいスター性と、多くを率いるリーダーシップも備えており、コンサートとかディナーショーとかやってないのか、やるべきだ、チケット買えるだけ買うから、と砂織は本気で思ったほどだ。
彼が王様、キングと呼ばれていることについて砂織は大いに納得したし、彼を紙面に載せる際は一番に押し出していこう、と決めた。
それに、彼以外のレギュラー部員も整った容姿と特徴的なキャラクターの選手がとても多かったので、砂織は氷帝学園の取材から帰る時、アイドルのコンサート帰りのようにうっとりした顔をしていた。
その後、山吹中学校、青春学園、聖ルドルフといった東京都の学校を主に取材したが、程度の差はあれど本当に見目のいい美少年、あるいは中学生とは思えぬほどきりりとした大人っぽい容貌の選手が必ず在籍していたため、脳天気な砂織とはいえ、仕事で辛さを覚えることが一切なかった。
しかも中学生の彼らは大人ぶってはいても──実際に大人かと思うような選手もいたが──、やはり中学生なので、取材ということに舞い上がる者やはしゃぐ者、緊張で顔を赤くする者など様々で、砂織は心が洗われるような気持ちになった。
「井上先輩、私、この仕事、天職かもしれません」
「それは大いに結構だけども、涎は拭こうな」
生暖かい目で、守は言った。
しかし彼女のいうことは、なかなか馬鹿にできるものでもなかった。テニス馬鹿であるがゆえ、お固い試合分析や技の解説などに偏りがちな守らの作る記事は、同じテニス馬鹿の定期購読者たちには大いに評価されているが、新規購読者獲得には繋がりにくい。
しかし今回、砂織の意見を守を通して大いに取り入れ、そして無理を通して跡部景吾を表紙にして東京の中学テニス特集を組んだ先月号は、売れに売れた。おまけにニュース番組で今月の月間プロテニスの表紙になっているものすごい美形は誰だ、と軽く話題にもなり、編集部は大喜びだった。
特集担当の守には臨時のボーナスが与えられ、その金で、守は東京都内でも隠れた名店である『かわむらすし』にて砂織に特上の寿司を奢り、芸能部署へのコネを使って、非売品のアイドルの等身大ポスターを手に入れてやった。
砂織にはこれからもやる気を出してもらわないといけないと思っての報奨であったが、おそらく、砂織は寿司を奢らなくとも全力で取材をしただろう、そう思うほどのやる気が、彼女にはあった。何よりである。
「でも今回は、ちょっとピシッと気合を入れて挑んでもらったほうがいいかもな。何しろ相手は王者・立海大付属だ」
そう言いつつ、守は車を徐行させ、大きな門の前で停めた。
明治時代に建てられた、歴史を感じる厳しい門。
巨大なその表札には、『立海大附属中学校』とあった。