心に誤りなき時は人を畏れず
(八)
「真田がむかつきすぎてなんかどうでもよくなった」

 腫れ上がった顔で言った精市の言葉は、確かに嘘ではなかったようだ。
 彼はブン太の作ったケーキをホールの半分近く食べつくしたし、治療チームを纏める主治医に改めて喧嘩の件を叱られた際も、「病人に手を上げるとは」と余計に怒られた弦一郎に、ざまあみろとばかりにニヤついていた。
 更にそれからすぐ、連絡を受けて駆けつけた弦一郎の母・諏訪子が裏拳で弦一郎を張り倒した──という表現では生ぬるい、ぶちのめした、という言葉が適切な数発を見舞って怒鳴りつけ、精市と精市の母に対して土下座を命じた時は、腹を抱えて大爆笑していた。
 ちなみに、他の面々は、二人の怪獣大決戦が子供の喧嘩に思えるほどの諏訪子の鉄拳制裁に、引くを通り越して青い顔でガタガタ震えていた。

 だがその日から、精市は弦一郎らの見舞いを断ることをしなくなり、また、なるべく睡眠導入剤に頼らず、眠る努力をするようになった。
 恐怖が消えたわけではない。どうしてもという時は、病室に泊まりこんだ家族に手を握ってもらいながら、それでも、彼は暗闇に一歩ずつ打ち勝とうとするようになったのだった。

 そんな彼の様子に、弦一郎はふんと鼻を鳴らし、蓮二は一瞬泣きそうな顔をしてから、何も言わずにそっと微笑んでいた。






 そして、それから数日後。

「──以上だ」

 低い声で、弦一郎は話を締めた。蓮二が補足しつつの彼の話を聞き終えたすべての部員たちは、シンと静まり返っている。
 部活の前、副部長である弦一郎とレギュラー一同は、すべての部員たちを集めた。
 彼らが話したのは、精市の病状について。そしてこれからの立海大付属中学男子テニス部の方針についてであった。
 精市本人と話し合い、彼らはすべてを明らかにすることにしたのだ。

「……幸村部長は、大丈夫なんですか」

 おそるおそる、といった様子で言ったのは、弦一郎を部長にしたほうが良いのでは、と発言して赤也に殴られた、あの一年生だった。
 心配そうな、不安そうな、そしてどこかばつの悪い様子の表情を浮かべているのは、彼だけではない。精市の不在に一度でも不満を述べたことがあるものは、皆同じような表情をしていた。

「精市の病状がこれからどうなるのか、そして再びテニスができるようになるかどうか、誰にもわからない。もちろん、俺自身にも」

 きっぱりと答えたのは、蓮二であった。
 彼はあの日から、本当に、曖昧なことを何一つ言わなくなった。そして同時に、過剰な心配で慎重になりすぎることも、根拠の無い自信で余裕ぶることもなくなっていた。
 彼はいつでも事実だけを淡々と述べ、残酷なほどの確率を弾き出し、また、そこから最も適切な手段を躊躇いなく選び、ど真ん中ぴしゃりの結果を導き出した。
 データマン、参謀、達人。その肩書がまさにこれ以上なく当てはまるようになり、柳蓮二の言うことならば確実だと誰もが口を揃える彼の言葉に、部員たちが、ショックを受けた顔をする。

「──大丈夫だ」

 だがその空気を切り裂き、打ち消すように重く鋭い声で、弦一郎が言った。全員が、堂々と佇む彼を見る。
 弦一郎は、何十人もの視線を真正面から受け止めると、胸を張って口を開いた。

「俺は」

 弦一郎は、シンと静まり返ったテニスコートで、話しだした。その声は決して大きくないのにもかかわらず、不思議に、ここにいる全員の耳に、まっすぐに響いていく。
「俺は、幸村精市に、一度たりともテニスで勝ったことはない」
 険しい目元をした弦一郎の表情は、苦々しい。ぎりぎりと歯を食いしばるような顔つきで、弦一郎は続ける。
「部長を決める時、俺達は、最もテニスが強い者が、テニスをする我々を率いるべきだとして、勝負をした。そしてあいつが勝って部長になった」
 それは、誰もが知ることだった。部員全員、そればかりか立海中の多くの生徒、時に教師までもが観戦に集まる中、あの日、幸村精市と真田弦一郎の試合は繰り広げられた。
 プロ顔負けの実力と気迫であった、龍虎の名試合であったと、今でも誰もが言う試合だ。
「病で不在だからといってあいつの勝利が覆されることはないし、俺の敗北もなかった事にはならん。だから不在であろうと部長は幸村で、俺が副部長であることも変わらん」
 弦一郎は言い切ったが、でも、という誰かのつぶやきをきっかけに、不安げなざわめきが広がる。──無理もないだろう。弦一郎の言うことの理屈はわかるがしかし、何しろ当人は病名すら存在していない難病に侵され、あの柳蓮二が、希望の一欠片もない言葉しか言わないというのが現実なのだから。

「──大丈夫だ」

 弦一郎が、もう一度、よりきっぱりと言う。再度、シンと場が静まり返った。
 怒鳴ったわけではない。しかし誰もの背筋を叩いて伸ばすようなその声に、多くの者が緊張した顔をし、あるいは息を呑んで、姿勢を正した。

「大丈夫だ。あれは、殺しても死なん男だ」

 弦一郎の言葉には、根拠などない。
 だが彼のその姿が、ここにいる誰よりも精市と付き合いが長いという実績が、そしてそのどっしりと低く、心臓を掴むような言霊の力に満ちたその声が、これでもかという説得力を、彼の言葉に与えていた。

「少なくとも今はこのとおり、俺と互角にやりあうこともできる」
 そう言った彼の耳は、精市に殴られたせいで真っ青に鬱血していた。またマウントをとられた時に打った後頭部に軽めのコブができているため頭にはまだ包帯を巻いており、さらに今は見えないが、蹴られた胸、そして全体重をかけた肘を食らったみぞおちもまた、青々とした痕がくっきりとついている。──ついでに母にぶちのめされたせいで片頬もまだ腫れ上がっているが、それは部員たちの知るところではない。
 だがそれが動かぬ証拠となり、ここにいる全員に、しっかりとした説得力を与える結果となった。
「そうだな、蓮二」
「まあ、そうだな。ダメージでいえば弦一郎のほうが多くもある」
 蓮二が相変わらず淡々と言うと、同意を求めたはずの弦一郎は、苦虫を噛み潰した顔をした。自分が負けたようなふうに言われるのは甚だ不本意である、とめいっぱい表現しているような顔だった。

 その表情に、蓮二が、ふっと微笑む。
 あの日から蓮二が事実しか言わないように、弦一郎は「だが大丈夫だ」と言うようになった。根拠なく、しかし気休めでもなく、言われたほうが怯むような重い責任感をもって、彼は「大丈夫」と口にする。
 蓮二はそのことについて素直に弦一郎を尊敬していたし、救われている、と確かに感じていた。おそらく、他のレギュラー達も同じだろう。
 弦一郎が言う「大丈夫」は、決していい加減な気休めではない。冗談抜きで、彼は人ひとりの命の責任の一端を背負いながら、根拠もないのに「大丈夫」と宣言し、そしてそのために実際に努力を重ねるのだ。岩に齧り付くような、想像を絶する、心が折れないほうが不思議なほどの努力を。
 真田弦一郎、彼は、テニスの天賦の才を持たない。どの分野でもそれなりうまくやれはするが、キラリと光るような突出したもののない、普通にしていれば無難な器用貧乏でしかない才能しかない。
 だが彼は死の狭間で半狂乱になって殴りかかってくる幼馴染の拳をこれでもかと受けても翌日平気な顔でテニスが出来る鋼の肉体を持ち、そして人ひとりの命を、多くの者の不安と期待を背負っても、全く折れない精神力の持ち主なのだ。
 彼は想像を絶する努力でもって器用貧乏を万能に変え、とうとう“皇帝”とまで呼ばれるようになった。皇帝とは、すべての“人”の頂点に立つものを意味することもある。天賦の才の極地にして“神の子”と呼ばれる精市とは、まさに対極、そしてそれでいて同等に近いふたつ名は、象徴的ですらある。

「俺は、あいつと──幸村と、勝負をすることにした」

 弦一郎は、ぎらぎらとした、試合の前のような顔つきで言った。

「あれが病に打ち勝ち、またテニスが出来るようになるまで。──また俺があいつに挑めるようになるまで、俺は常勝不敗を誓い、誰にも負けん」

 ごくり、と、誰かが息を呑む。
 それほど弦一郎の言葉は鬼気迫っており、尋常でない覚悟と、炎のような闘志が篭っていたからだ。

「お、俺──、俺も!」

 ややひっくり返った声を上げたのは、赤也であった。
「俺も、俺もやるッス、それ! 俺も、部長が帰ってくるまで、負けねえ! 誰にも!」
 振り返った弦一郎は、やや驚いた顔をして、赤也を見た。身を乗り出した赤也の握った拳は、やや震えている。だがその目には、覆せないとすぐわかる決意が宿っていた。
「ほほ──ぉ。俺らにもかぁ?」
「うっ、それは……」
 風船ガムを膨らませながらの、茶化すようなブン太の突っ込みに、赤也が怯む。

「まあ、完全に不敗というのは難しかろうな」
 やはり残酷なまでに現実的な、蓮二の言葉が続く。
「精市の次席の実力──、実質日本で二番目に強く皇帝とまで呼ばれる弦一郎はともかく、赤也が完全に不敗というのは無理だろう。俺ですら、完全勝利を成せる確率は98パーセントだ。しかもこれは対戦相手が中学生である場合に限る」
「う、ぐぐ……」
 淡々と述べる蓮二に、赤也はもはや涙目になっている。が、その涙目に宿った決意は確かであるらしく、ならやめておく、とも言わなかった。

「待ちんしゃい。俺ですら、ってことは、参謀もその常勝不敗とやらにチャレンジするつもりかい」
 雅治が言った。その言葉に、蓮二に一斉に視線が集まる。
「まあな」
「おい、蓮二」
 あっさりと答えた蓮二に対し、怪訝な顔をして、弦一郎が呼びかけた。

「精市の病が治るかどうか、そして精市が病を乗りきれるかどうか。それは誰にもわからないし、実質俺達ができることなど何もない」
 蓮二は、淡々と言う。しかしふと切れ長の目を開き、弦一郎に目線を向ける。
 そしてその茶色がかった澄んだ瞳には、弦一郎と同じ、後のない覚悟が宿っていた。

「何もないのだ。こういう願かけぐらいしか、俺達には何もすることが出来ない」

 ぎゅ、と拳を握った蓮二に、弦一郎は、また既視感を感じた。
 そうだ、自分は、自分たちは、何も出来ない。弦一郎が己の指を全部へし折ろうとも、祖母は死んだ。どんなに泣き喚いても、地面を這いずり血を吐いても、みっともなく懇願しても、現実は残酷に襲い掛かってくる。
「だがそれでも、できることをするのは、無駄ではないはずだ。確率もはじき出せない、根拠の無い、まじない染みたことしかできないが、それでもだ」
「……ああ、……そうだな」
 弦一郎は、はっきりと頷いた。
 心から叶えたい願いに対して何も出来ない時の、喉を掻き毟るようなやるせなさ、絶望に近い無力感、手当たり次第に叫び散らさずにはいられない不安感。何も出来なくても、何かしていないと気が済まなくなる気持ちを、弦一郎は、心の底からよく知っている。

 そして同時に、それが決して無駄ではないことも、弦一郎は知っていた。
 祖母は、死んだ。しかし紅椿の神楽は祖母に勇気を与え、延命手術は成功した。祖母は生まれた佐助に指を握られ、笑みを浮かべて死んでいった。

 現実は、どこまでも残酷である。
 だが、救いがないわけではない。そして心の持ちよう、精神的な要素が、時に肉体や技術を凌駕させ、限界を超える力をもたらすのだということを、弦一郎は身を持って知っていた。
 そしてその上で、幸村精市は殺しても死なない男だと、弦一郎は知っている。──誰よりも。

「なら、俺もやるぜぃ」

 そう言って一歩踏み出したのは、ブン太だった。
「──ジャッカルも!」
「俺もかよ!」
 いきなり話を振られたジャッカルが、いいリアクションをする。
「だってお前、ダブルスパートナーだろぃ。お前にも協力してもらわねえと」
「まあ、そうだけどよ……。あ、いや、ダブルスじゃなくても、俺もやるぜ、それ」
 仕切りなおすようにして、ジャッカルははっきり言った。
「言っとくけど、付き合いとかじゃねえぞ。俺がやりたいからやるんだ」
「さっすがジャッカル! 話がわかる!」
 けらけらと笑いながら、ばん、と、ブン太がジャッカルの背を叩いた。
「なーに、俺の天才的妙技とジャッカルのスタミナに勝てるやつなんか、そうそういねえし!」
 にやりと笑ってそう言った言い方こそいつもの様にどこか軽いが、その目に宿った決意は、赤也に負けず劣らずの輝きがある。──もちろん、ジャッカルもだ。

「おいおい、俺らを忘れてもらっちゃ困るぜよ。なーに、片っ端からペテンにかけちゃるけぇ、安心せえ」
「ええ、仁王くんの言うとおりです。私のレーザービームで何もかも蹴散らしてみせましょう」

 もう一組のダブルスペアもまた、一歩進み出た。
「かかか。レギュラー全員の勝ち星掲げりゃ、千羽鶴なんぞ目じゃなか」
「ちょ、ちょっと待って下さいよぉ!」
 雅治が好戦的な笑みを浮かべたその隣で、赤也がひっくり返った声を上げた。
「お、おおお俺も! 俺もやりますってばぁ!」
「あー……。でもお前、俺らより負ける確率高ェだろぃ」
「ま、負けねえッス!」
「いや負けるって」
「ふむ」
 赤也が今にも泣き出しそうになったその時、蓮二がひとつ首を傾げた。

「確かに、赤也が常勝ではいられない確率100パーセント」
「そんなぁ!」
「事実を言ったまでだ」
 蓮二の断言に、レギュラーたちが「ああ……」と苦笑の混じった声を出し、赤也の目にたまった涙の粒が更に大きくなった。
「だがしかし、それは俺達も同じことだ」
 皆を見渡しながら、蓮二は続ける。
「俺達もまた、100パーセントの確率で常勝でいられるとはいえん」
「おいおい、そういうこと言うもんじゃねえだろ」
「事実だ」
 眉尻を下げて言ったジャッカルにきっぱり返した蓮二は、少し間を開けてから、もう一度口を開いた。

「そこで──、どうだ。もし負けた者には、きついペナルティを下すというのは」

 その提案に、きょとん、と、全員が目を丸くした。
「罰ゲームと言ってもいい。が、やはり常勝であるのが本意であるしベスト。だから、これほどきつい仕置きならば一度の敗北も無効になるだろう、と過激なペナルティを用意して挑むのだ」
「なるほど。それなら“負けても無効になるから”という甘えもなくなりますね」
 納得したように、比呂士が深く頷いた。

「そういうことだ。具体的には──、そうだな。代表者である弦一郎に一発殴られる、というのはどうだ」
「ひいっ」
 赤也が、青くなって飛び上がった。
 しかし彼だけでなく、他の面々──つまりあの怪獣大決戦を目の当たりにした彼らも、あれを自分が食らうところを想像したのか、若干青くなって呻き声を上げ、冷や汗を流している。

「ふむ。……しかし、仕置になるか? その程度で」
「おい、その程度とか言うな、あれを」
 ひとり納得行かない顔で呟いた弦一郎に、ブン太が突っ込む。全員が、ブン太の言葉に同意してうんうんと深く頷いた。

「……そうか? まあ、お前たちがいいというなら構わんが」
「では、決まりだな。常勝が途切れた際は、弦一郎の手加減なしの張り手一発」
「お、俺も!」
 蓮二がまとめようとしたのを遮ったのは、一年生の面々だった。
 彼らは腕が耳につくほどまっすぐに挙手し、紅潮した顔でレギュラーたちに対して身を乗り出していた。

「俺も、それ、やります! お、俺が一回も負けないっていうのは無理だと思いますけど、真田先輩から一発食らう覚悟はあります!」
「お、俺も!」
「俺もやります!」
「俺も、やらせてください!」

 次々に、声が、手が上がる。
「……お前たち」
 あっという間にほとんど全員が手を上げ、俺も俺もと言い募るその様に、弦一郎は目を丸くした。
「お、俺! 真田先輩が部長になったらいいとか軽々しく言って、スンマセンっした! その罪滅しじゃないですけど、だから、その、……俺も! 俺も幸村部長に元気になって欲しいし、……部長のテニスがすげえの、知ってます! だから」
 だから俺にもやらせてください、と言ったのは、赤也に殴られた、あの一年生だった。
 弦一郎は眦をすがめ、厳しい目で、一年生たちを数秒見渡す。しかし今、誰一人として、弦一郎の眼光から目を逸らす者はいなかった。

「……覚悟はあるようだな。ならば、よかろう」

 弦一郎が頷くと、あざあっす! と、今までで一番威勢のいい、大きな声が響いた。
「なかなか大事になったな。──しかしこれほど人数が多いと、お前の手が腫れ上がるぞ」
「む」
 蓮二の指摘に、弦一郎が困ったような、苦い顔をした。確かに、この確実に数度は負けるだろう一年生たちに漏れ無く平手を見舞っていては、さすがの弦一郎でもダメージが蓄積するだろう。──しかも、ラケットを握らなければならない、肝心のその手に。

「そうだな……、ああ、裏手で良ければ問題ないが」
「裏手、というと……。お前が母君から食らっていたあれか」
 常に湖面のように静かな蓮二の表情が、ひくりと引き攣った。同時に、先日弦一郎が諏訪子にその裏手でぶちのめされた現場を見たレギュラーの面々もまた、ざっと顔色をなくす。
「うむ、隊で教官をしておられた頃から、母上がする折檻といえばあれだ。曰く掌を使わないので手が痺れることを防ぎ、よって大事な装備を取り落としたりといった危険がなくなるからだそうだ。あのやり方なら俺も手が痺れず、問題なくラケットを握っていられる」
 なんとも最前線的な理由である。
 弦一郎の母が陸上自衛隊で教官をしていたということは多くの者が知っているため、一年生たちもざわざわとし始める。

「……そうか」
「ああ。それに、このやり方は腕力がなくとも、かなり威力が高い。女子供がやっても多少の痴漢ぐらいは撃退できるとも言われるくらいだからな、普通の平手よりも相当痛い。仕置には最適だろうな」
「………………そうか……」
 名案だ、と頷きながら弦一郎は言ったが、蓮二は遠い目をし始めていた。他の面々も、概ね同じような感じである。食らうことが確実な赤也など、戦場に向かう死兵のような顔をしていた。



 ──このようにして。

立海大付属中学テニス部は、部長不在の部になったと同時に、その不在を守るため、常勝の掟を掲げるようになった。

 公式試合はもちろん、野試合であろうと、彼らは敗北を許さない。
 そしてその覚悟と決意をもってして、彼らは部長・幸村精市が掲げた立海三連覇の本願を成し遂げようと、来る夏に挑むことを決めたのだった。






「……ところで、弦一郎」

 常勝の掟を掲げたその日の下校時、ふと弦一郎と二人になった蓮二は、そっと弦一郎に話しかけた。

「何だ」
「今回の……、精市に関することは、おには?」
「ああ……」
 弦一郎は、そのまま、まさに言いにくそうな顔をした。
「いや、紅梅は、その、幸村を女と思っているだろう。それと、双子の兄がいるとも」
 ややこしい事態が重なった結果、紅梅は、実際には幸村精市というひとりの人間である存在を、幸村せい子という妹と、幸村精市という兄の、双子の兄妹だと思っている。

「どう説明したものかと思ってだな……。事が事だけに、軽々しく言うのも憚られるので……。かといって、ずっと伏せておくのも、という感じで、悩んでいた」
「まあ……、そうだな。……その点については、今度相談に乗ろう」
「……頼む」
 前から相談しようとは思っていたのだが、色々あったからな、と言いつつ、弦一郎は少しほっとした顔をした。

「それと、だが」
「うん?」
 ひとつ肩の荷が下りたせいか、僅かに穏やかな目元になった弦一郎は、きょとんとした顔で振り返る。

「結局、恋文は書いたのか」

 途端、夕日が長く伸ばした弦一郎の影が、ぴたりと止まった。
 そしてそのまま無言で自分の顔を両手で覆い、今にも崩れ落ちんかという様子で上を向いた弦一郎に、蓮二は非常にかわいそうなものを見るような目を向けた。
「……忘れていたのか」
 弦一郎は、答えなかった。ただ顔を覆って天を仰ぎ、「ああ……」と、絶望的な声を出した。精市が生きるか死ぬかの時にあれほど堂々としていた様とは、天地の差の姿である。

 ──たるんどる。

 と、弦一郎は小さく、しかし心の底から呟いた。
 かつて同級生からの告白を断った時、部活が忙しいから付き合えないのかと問われ、そうではないと弦一郎は返した。事実弦一郎は、他のことが忙しくて恋人のことが疎かになるというのは単なる怠慢である、と思っている。部活がいくらハードであっても風紀委員の仕事もこなせているように、やると心に決めて計画を立てれば、やってできないこともないのだと。
 だからこそ、今回、紅梅に好きだと言うと決めたのにも関わらずすっかり忘れていたのは、己の怠慢以外のなにものでもない、と弦一郎は嘆き、後悔した。

「……仕方がないさ。最近、色々大変だったのだから」
 蓮二が、弦一郎を慰める。同情がたっぷり篭った労しげな声に、弦一郎は情けなさのあまり泣きたくなった。
「……も、」
 若干震えた声で、おそるおそる、弦一郎は言った。
「もう、遅かろうか」
「そんなことはない」
「そ、そうだろうか」
「多分」
「……曖昧なことは言わんのではなかったのか!」
 弦一郎は、悲痛な声を出した。

「そう言われても、この柳蓮二とて、乙女心ばかりは未知数なのでな」
 しれっと言う蓮二に、弦一郎は恨めしげな声でまた唸った。
「だが、最近お前がとても忙しいので手紙が遅くても責めないでやってほしい、と何度か俺も姉や本人に伝えている。それなり効果はあるだろう」
「蓮二……!」
 現金にも手のひらを返し、持つべきものはデータマンの友である、と、弦一郎は感動した。

「それに、おはお前にとても甘いからな。告白が遅くなっても、許してくれるさ」
「…………そうだろう、か」
「そうだとも」
 蓮二が今度こそはっきり言うと、弦一郎は、はあ、とため息をついた。

「……そうだな」

 力の抜けたその声に、蓮二は、この他人にも自分にもどこまでも厳しい友人が、京都に住む彼女にだけは甘えているということを実感し、そしてほっとした。
 いくら弦一郎の肉体と精神が強靭でも、どこまでも耐えられるというわけではない。最も強靭な金剛石も、なまじ強靭であるがゆえに、ふとした方向からの衝撃で粉々に割れてしまうことがある。
 だがこうして彼女だけが弦一郎を手放しで甘やかしていれば、弦一郎は柔軟さを保つことができる。どんなことがあっても、時に強靭に、時にしなやかに切り抜けて、堂々と立ち続けていられるだろう。

 紅梅にとっては、勝手な言い分かもしれない。
 だが蓮二は、どうか彼女がこれからも弦一郎に愛想を尽かすことなく、彼を甘やかし続けてくれることを望んだ。──二人の、共通の友人として。

「……頑張れ、弦一郎」
「ああ……」

 情けない声で返事をした弦一郎が背負うラケットバッグには、黒い小さなお守りがぶら下がっている。
 どこまでも弦一郎に甘い彼女の、百度の祈りが篭ったお守りが、ゆらゆらと揺れた。






弦一郎さま

年が明けましてからこちら、春の兆しもまだまだ感じられぬ寒さの中、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。

 …………

精市さまのご病気、まことに心配なことと思います。
お会いしたことはございませんが、弦ちゃんのお手紙で度々お話をお伺いし、お人柄についてもお聞かせいただいているせいか、全くの他人のような気がいたしませんので、私も心配でございます。
しかし、テニスのことよりもまずはお体が無事でありますよう、と思うのは、やはり私が他人であるせいでしょうか。命よりも大事なことがあるというのは、私にも多少覚えのあることではあります。しかしやはり、命あっての物種というのが真理でもございますので、精市さまには、くれぐれもご自愛いただきたいと願う次第でございます。

 …………

常勝不敗の掟を掲げたとお聞きして、まず私が思い浮かべたのは、佐和子お祖母様が亡くなった時のことでございました。
正直な所、呆れております。弦ちゃんは、あの頃と何もお変りない。それが歯がゆく、そしてあなたがどこまでも真摯であられると強く感じた、というのが、私の気持ちでございます。
いつもどおり、私には遠くから祈り、応援することしか出来ません。御百度の際、あなた方が常勝であり、精市さまが病に打ち勝ちますようにと神頼みをするのが、私の精一杯でございます。
私も同じもどかしさを味わうことで、あなたの心の力になれることを願います。


 …………

私に直接伝えたいこととは、何でしょうか。
今年の夏を楽しみにしております。

 …………

紅梅
- 心に誤りなき時は人を畏れず -
(心に間違いがなければ、なにも畏れることはない)


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BY 餡子郎
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