心に誤りなき時は人を畏れず
(六)
 暗い。
 もう朝のはずなのに、暗い。どうして電気がついていないんだ。朝だから? もう朝のはずなのに、どうしてこんなに真っ暗なんだろうか。

 ──かなり重度の難病だからなあ

 ドア越しに、乾いた声が聞こえる。

 ──テニスなんて、もう無理だろう

 暗いのは、電気がついていないからではない。
 自分が、何も見えなくなっているからだ。






「──やあ」

 疲れた顔で微笑み、明らかに頬の線が細くなった精市に、なるべく頻繁に見舞いに来ている弦一郎と蓮二は、揃って眉を顰めた。

 今日の朝、精市は起きるなり取り乱し、散々暴れたという。
 見えない、暗い、わからないと喚き倒し、テニスはもうできないと言われた、と叫んだと。

 実際、万全の対策チームを組み、再び彼がテニスが出来るように全力で取り組んでいるはずの主治医らがそんなに迂闊で無神経なことを言うはずがないので、おそらく精市の不安やストレスからくる悪夢と現実がごっちゃになったのだろう、と思われる。
 精市も落ち着いてから説明され、夢だったと理解し、主治医らに謝罪した。もちろん、精市の立場からすれば無理もないことである、と医者たちはむしろ彼を慰め、一緒に頑張っていこう、と鼓舞したが。

「悪いけど、今日はずいぶん疲れたんだ。──帰ってくれないかな」
「……そうか」
 二人は静かに頷いた。疲れた、というのは言われずとも様子を見ればよくわかったし、無理をさせるのは本意ではない。
 蓮二は鞄からプリントの束を出し、丁寧にベッドの傍らにある机に置いて、弦一郎とともに病室を出た。

 プリントは、休学中の生徒のための課題がまとめられたものであった。



「……大分、参っているようだな。幸村は」
 雑踏に溶け込みそうなぼんやりした声で、弦一郎が言った。白い息が、溶けるように消えていく。
 もうクリスマスも近い時期、部活の後に病院に寄ればもう辺りは真っ暗であるが、街路樹がささやかなイルミネーションで飾られ、眩しいほどに明るい。

 あれほど弱った精市を見るのは、弦一郎は初めてだった。
 四つの頃に出会い、それから何年も、ひたすらふてぶてしく、いつだって越えられない壁のように弦一郎の前に立ち、それでいて軽やかに進んでいく、殺しても死にそうにない彼しか、弦一郎は知らない。
 立海大付属に入学し、体力作りのメニューがこなせずに嘔吐したり、花粉症に振り回されている彼を見てあいつも人間だったのだとは思ったが、こんなに、──病名もわからないような、何万人に一人どころか、他に罹った者のいない病に罹るなど、想像もしていないことであった。

「無理もない。治るかどうかもわからん病だ」
「おい」
 きっぱりと言った蓮二に、弦一郎はさすがに険しい声を上げた。足を止めて蓮二を睨む彼に、蓮二もまた立ち止まる。
「本当のことだ」
「だからといって──」
「何だ? いつもの験担ぎか? 言ったことは本当になるから、悪いことは言うなと? ──馬鹿馬鹿しい」
「……何だと」
 弦一郎の眉間の皺が、更に深くなる。しかし、蓮二は全く怯みもしなかった。

「そうして本当のことから目を逸らし、口を噤んで誤魔化して、結局どうなった?」
「蓮二」
「お前が言わないなら言ってやる。精市の病は確かに直接命にかかわるものではないし、治る見込みもある。だがそれは逆に言えば、治る見込みはあるが決定打もないということでもある。そして免疫関係の病気であるので他の病気を呼び込みやすく、死にはしなくとも、死ぬよりつらい症状と一生向き合っていかねばならなくなるかもしれない。最悪、食事も呼吸もままならず、意識だけがある寝たきりの状態になる可能性も十分にある」
「蓮二、いいかげんにしろ」
「医者は、言っていないようだったが」
 一度蓮二は言葉を区切り、痛いほどに冷たい空気を吸い込んだ。

「……本当に、テニスは、もうできないかもしれない」

 蓮二がそう言った直後、弦一郎は、蓮二の胸倉を掴みあげていた。すれ違う通行人たちが、何事かとちらちら振り返る。
 しかし弦一郎のその手は、震えていた。その震えは怒りからくるものか、それとも禁忌に触れた恐怖からくるものか。両方であろう、と、蓮二は断じた。それは間近に迫った弦一郎の表情がありありと表していることであり、また、蓮二自身もまたそうであったからだ。

「お前がどう言おうと、俺は二度と、曖昧なことは言わない」
 きっぱりと、蓮二は言った。
「曖昧な……、だと」
「そうだ。俺はデータマンだ」
 蓮二は、震える拳をぎゅっと握ると、間近にある弦一郎の目を、まっすぐに、そして鋭く見返した。
「ゴミを漁り泥を舐めまわろうともデータを集め、現実を見つめ、事実を捉え、分析し、確率を弾き出す。どこが弱くて、どこが強いのか。その上でどうすればいいのか考えて、寸分の狂いもなく実行する。きっとだの、おそらくだの、起こるかわからない奇跡や偶然になど頼らない。……頼るものか」
 ぐっと、蓮二は一度息を呑んだ。──覚悟を決めるような仕草で。

「俺は、そうやって勝つ。──勝たせてみせる」

 そう言った蓮二の薄い唇が震えているのを、弦一郎は見た。声変わりを迎え、滑らかに低くなったはずの彼の声は、掠れ、震え、そして寒空の下、真っ白になるほど熱かった。

 蓮二が何らかの覚悟を決めたことを、弦一郎は薄っすらと感じてはいた。
 そうでなければ、あんなに冷静に精市の主治医らに今までの“データ”を提供し、まるで己も医者の一人であるかのように詳細に解説したりはしないだろう。実際、そのおかげで精市の症状を断定することが出来た、と直接主治医から弦一郎も聞いている。
 救急車で運ばれた時も、主に精市の家族やらに連絡をとっていた弦一郎に対し、蓮二はひたすら救急隊員に倒れた時の情報を伝えていた。脈拍、発汗量、意識不明になってからの時間、痙攣の具合など。
 無駄かもしれない、しかし何かの役に立つかもしれないと、砂のひとつぶも取りこぼさないようにするかの如き詳細なデータを、蓮二は医者たちに今も提供し続けている。

 弦一郎は、呆然、というのに近い表情でしばらく蓮二を見ていたが、やがて、ぎゅっと口元を引き結ぶ。
 いま彼に湧き起こるのは、かつてと同じ恐怖である。日に日に衰えてゆく、元気だったはずの祖母。どんな時もふてぶてしかった幼なじみの、弱った姿。義姉に抱かれた、生まれたばかりの甥っ子。一歳になって間もない、彼の母に抱かれた赤子の妹。──フラッシュバックのように、弦一郎の中で、過去と今が交錯する。

「──俺は」

 弦一郎は、ぎゅっと拳を握った。
 何かを掴み取ろうとするように、──かつてのように。

「──なら、俺は」

 ずっと真っ直ぐな視線を向けてくる蓮二と同じように、弦一郎もまた、まっすぐに彼の目を見返した。
「俺は、大丈夫だと、言い続ける」
 言霊。良いことであれ悪いことであれ、言葉には、声に出すことで現実に影響を与え、そのとおりの結果を現す力が宿る。弦一郎は今でも、祖母が亡くなった今でも、それを信じていた。
 どうしようもないことは確かにあると、弦一郎はあの時学んだ。だがどうしようもなくなるまで、あるいはどうしようもないとわかっていても、無様でも必死に足掻くこともまた決して無駄ではないということを、弦一郎は深く知っていたからだ。

「そうだ、蓮二。お前の言うとおりだ。奇跡など起こらない。そんなものは甘ったれた綺麗事だ」

 糞食らえだ、と、弦一郎は吐き捨てた。
 弦一郎が己の指を全部へし折ろうとも、祖母は死んだのだ。どんなに泣き喚いても、地面を這いずり血を吐いても、みっともなく懇願しても、現実は残酷に襲い掛かってくるのだと、弦一郎は散々に思い知っている。
 だがその上で、弦一郎は言った。現実がどこまでも残酷であると同時に、心の持ちよう、精神的な要素が、時に肉体や技術を凌駕させ、限界を超える力をもたらすということも、また確かな事実であると知っているからこそ、弦一郎は堂々と言った。

「だから俺は、無責任に、気休めのように言うのではない。本気で言うのだ。お前がそうして事実だけを口にするように、その事実がどんなに残酷でも、岩に齧りついてでも、──血反吐を吐いてでも!」
 蓮二の胸ぐらを引き寄せ、額がぶつかるほど近い距離で、弦一郎は言った。
「勝ってみせると、やってみせる、勝てると、大丈夫だと、俺は言うぞ。そして、必ず勝ってみせる。今までずっと、そうしてきたようにだ!」

 絞り出すように、しかし一点の迷いもなく、弦一郎は言った。
 それは祈りであり、決意であり、そして実績と説得力のある、力強い言葉。確かな力の宿った、言霊だった。

「……そうだな。お前はずっとそうして勝ってきた」
 初めて、蓮二が笑みを浮かべた。その微笑は淡くやはり震えていて、泣き顔との境が曖昧なものだったが、それでも確かに笑みだった。

「だから、……だから、俺が決して大丈夫だと言わない代わりに、お前がそうして、……大丈夫だと、……大丈夫なのだと、言ってくれ」
「……蓮二」
「頼む」
 蓮二の表情が、とうとう歪んだ。切れ長の目の端が、イルミネーションの光を小さく反射する。

「……頼む、弦一郎」

 震えた声で言われ、弦一郎は、とっくに力が抜けてはいたが、掴んでいた蓮二の胸ぐらを、そっと離した。
 しばらく、二人はそのまま黙って突っ立っていた。その間にも二人の横を何人もの人が通り過ぎ、車道を通り抜けた車のクラクションがやかましく鳴り響き、脳天気なクリスマスソングが近くの店から聞こえてくる。だが不思議と、二人の間は静かだった。

「……大丈夫だ」

 俯いている蓮二に向かって、弦一郎は、きっぱりと言った。
 その声は低く、決して音量は大きくないのに、クリスマスソングも、クラクションも、人々の喧騒も、すべての音をすとんと切り裂くようにして、まっすぐ蓮二の耳に響いた。

「俺も、お前も、うまくやれる」
「……ああ」
 一人ではないとか、仲間である、などとは言わなかった。
 慣れ合いが自分たちの性に合わないことを、彼らは学び、知っている。だがそれぞれが自分のやれることを最大限やれば、うまく噛み合った最高の結果が訪れるということもまた、ここ二年近い付き合いで、十分に理解していた。

「俺を誰だと思っている。皇帝・真田弦一郎だ」
「ああ」
「お前も、我が立海が誇るデータマン・柳蓮二であろう。しっかりしろ」
「ああ」
「幸村も」

 弦一郎は、一度大きく息を吸い、吐いた。鍛えぬかれた肺活量でもってして吐出された息が、まるで蒸気機関車のように、ぶわりと白く広がる。

「大丈夫だ。あれは殺しても死なん」

 その声がいつもどおりにどこか苦々しげであったので、蓮二は初めて、ふっと息を吹き出して笑った。

「……そうだったな」
「そうだ。何度も言っているだろう。忘れるな」
「ああ……」
 目元を手の甲で拭った蓮二を、弦一郎は、どっしりと腕を組んで見遣る。
 蓮二は、はあ、と一度息を吐くと、顔を上げた。目尻が若干赤くなっているが、浮かんでいるのは何とか笑みの範囲のものだった。

「帰るぞ。明日も部活だ」
「ああ」
「予定は万全だな」
「もちろんだ」

 二人は頷きあうと、歩き出した。
 ほとんど同じ身長、歩幅もほぼ同じくらいになっている彼らは、誰とも目を合わさず、華やかなイルミネーションも、全く視界に含んでいない。それどころか、お互いすら見ていない。同じ方向に歩いていると理解しているがゆえに、いちいち場所を確認したりはしない。

 そうして、二人はただ、横並びに歩き出した。
 ──やるべきことに向かって、脇目もふらずに。






 ──暗い。
 ──ああ、何も見えない。何も聞こえない。

 暗闇の中、何の音も聞こえては来ない。耳鳴りさえ起こらない、完璧な静寂。育てていた花の香りを、何一つ思い出せない。唾液の味もわからなくなると、自分の体が消えてしまっているような気がしてくる。
 自分の指は、腕は、足はどこだろう。指一本、自由に動かすことができない。自分の体は、一体どこにいったのだろう。地面はどこだ? 自分は今、立っているのか? 座っているのか? それとも無様に倒れ伏しているのか?

 ポォン、と、何かが跳ねる音がした。
 黄色い軌跡が、見えた気がした。

 精市は、必死になってそれを追おうとする。しかし、足が動かない。
 ああ、ラケットはどこだ? 握る指はどこ?

 ポォン、と、テニスボールが跳ねる。だが精市は、それを打ち返すことはおろか、どこにボールが落ちたのかすらもわからなかった。



 ──ひっ、と、自分が息を鋭く吸った音で、精市は目を覚ました。

 どくどくと、心臓が激しく鳴っているのがわかる。窓の向こう、遠く、車の走る音がわずかに聞こえる。ちくたくと、時間を刻む壁時計。──ほっとした。
(汗だくだ……)
 不快さに顔をしかめ、精市は額に張り付く髪を掻き上げ、ゆっくりと身体を起こす。

 最近は、いつもこんな調子だ。
 寝てしまったらもう二度と目覚めないのではないか、目を閉じた暗闇がずっと続くのではないかと思えてしまい、精市はあまりよく眠れなくなっていた。
 そして、浅い眠りは夢を見やすい。強いストレスを感じている状況下では、それは悪夢となって襲い掛かってくる。その挙句が先日の騒ぎであるが、眠れないという状態は全く改善されていなかった。こうして薬で無理やり眠っても、暗闇に飲み込まれそうな恐怖が、ずっしりと精市を苛むのである。
 こうしてやっと眠れても悪夢を見てすぐに起きてしまうし、もう一度寝ようとしてもまずうまくいかない。

 しかしとりあえず、大量にかいた汗をどうにかしよう、と、精市は布団を蹴飛ばし、自分のパジャマのボタンに手をかける。

「──え」

 ベッドの中、布団を剥がしたそこに広がっていたものに、精市は動きを止めた。



 ナースコールで看護師を呼ぶまでどのくらい時間が経ったか、精市はよく覚えていない。
 恥ずかしいことではない、睡眠障害を起こすと時々あるし、今は特にストレスが多いから十分考えられることである、と優しく、そして慣れた様子で看護師は言ったが、パニック状態に近かった精市は、それをほとんど理解できなかった。
 ただ、看護師が年配とはいえ女性だったのでとても恥ずかしい思いをしたということ、またシーツにシートを敷かれた時の絶望感だけが、強く精市の心に刻み込まれた。

 朝になってやってきた医者は、これがストレスによるものなのか、それとも臓器や排泄系の筋肉にまで麻痺が出ていることによるものか調べよう、という。

 ──精市の前に、暗闇が広がる。

 自分はこうして少しずつ、赤ん坊のように、何もできなくなっていくのだろうか。
 テニスもできなくなり、芋虫のようにベッドの上に寝転がって、汚物を垂れ流してただ生きていくだけの肉の塊になっていくのかと思うと、発狂しそうな恐怖が襲ってきた。

 しっかり、と、医者が、両親が呼ぶ声がする。
 だがしかし、精市の意識は、暗闇に飲み込まれていった。あんなに眠れなかったというのに、暗闇に引きずり込まれるようにして、精市は転がり落ちるように沈んでいく。

 何も見えず、何も聞こえない。
 家族の顔もわからないし、声も聞こえない。耳鳴りさえも響かない静寂。唾液の苦味も、自分が垂れ流した汚物の匂いさえもわからず、己の指が何を掴んでいるかもわからない。ただひたすら何もない残酷な暗闇だけが、精市を支配する。

 ──それは、絶望という名の暗闇だった。
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BY 餡子郎
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