心に誤りなき時は人を畏れず
(五)
 その後すぐ到着した救急車で、精市は近くの病院へ搬送された。
 しかし何らかの処置をするより先、病院に到着して間もなく、精市の意識はあっさり回復し、それどころか立って歩くこともできた。
 それはまるでちょっと昼寝をして起きたような様子で、医者たちも、付き添った弦一郎と蓮二、そして慌てて駆けつけた精市の家族も、ほっとするよりも先に、呆気に取られてぽかんとしてしまったほどだった。

「あーびっくりした」

 その翌日、上半身を起こした状態でベッドに寝かされている精市は、呑気に言った。
 搬送された病院で幾らかの検査をしたものの、どこにも異常がなかったため、彼は先日まで検査入院をしていた、金井総合病院に移っていた。意識が戻ってすぐ、本人は「何とも無いから帰る」と言ったが、さすがに突然倒れて意識不明になったとあればそれに賛成するものは一人もおらず、精市はこうして渋々再びベッドに縛り付けられているのだった。

「びっくりしたってレベルじゃねーッスよもう……勘弁して下さいよ……」
 赤也が、涙声で言った。眉も情けなくふにゃりと下がり、いつも勝ち気な色を浮かべている猫に似たつり目も、若干涙目になっている。下がって小さくなった肩を、ジャッカルが苦笑してポンと叩く。
 精市が倒れたことに一番わかりやすく動揺したのは、この赤也だったといえよう。精市が倒れた時は誰よりも真っ青になっており、救急車が走りだした後は泣き出してしまい、同じくその場に残ったジャッカルやブン太、比呂士や雅治が、日が暮れて暗くなるまで側にいて宥めたほどだ。
 ──とはいえ、彼らも動揺したという点では同じであり、赤也を慰めることで己を落ち着かせた部分も大いにあった。
 だからこそ、意識が戻ったと比呂士の携帯電話に連絡が来た時はどっと疲労を感じるほどに安心したし、緊張の糸が切れた赤也は、更に泣きじゃくっていた。

 そして翌日の今、学校が終わって下校するその足で、彼らはこうして見舞いにやってきているわけであるが、あまりにもいつもどおりの精市の姿に拍子抜けし、昨日とは違う動揺を、多くは苦笑という表情で表している。

「あはは、ごめんごめん」
「元気そうなのは大変結構なのですが……、結局、何だったのですか」
 眼鏡で目元が見えづらくとも、とても心配しているのがよく分かる様子で、比呂士が尋ねた。
「うーん、わからないんだよね、これが」
「……わからない?」
「前から引き続き、色々検査はしてるみたいなんだけど」
 精市は肩をすくめてそう言いつつ、小さい冷蔵庫からオレンジジュースのパックを出した。
「まあ実際何とも無いから、そう大したことじゃないよ」
「でもよ、倒れたってのは大したことだろぃ、幸村君」
 ブン太が、いつになく真剣な表情で言った。
「そうだぜ。いや、もしかしたらマジで何もないかもしんねーけど、そうじゃないかもしれねーだろ。無理だけはすんな。……って、当たり前か。上手いこと言えねーけど、まあ、……悪ィ」
「いや、ありがとう」
 困った顔でスキンヘッドの後頭部に手をやったジャッカルに、精市もまた苦笑した。
 その様子を、簡素な丸椅子に腰掛けた状態で精市のベッドの足元に頬杖をついた雅治が、じっと観察するように見遣っている。

 その後、学校のことや部活のことなどを話し、差し入れのお菓子を適当に食べてから、彼らは精市の病室から引き上げていった。
 五人の後ろ姿を見送った精市は、少ししてから、結局手を付けなかったオレンジジュースのパックを冷蔵庫に戻す。
 そして彼は、どこを見るでもなく少しぼんやりすると、振り切るように目を閉じた。






「免疫……」

 呆然、といった様子で繰り返した精市に、主治医は誠実な頷きを返した。
 倒れてから数日後、様々な検査を経て、医者は精市の症状を「直接命にかかわる病ではない」と前置きした上で、「ギラン・バレー症候群に酷似した免疫系の難病」と診断した。
 全体的には膠原病、全身複数の臓器に炎症が起こり、臓器の機能障害をもたらす一連の疾患群にカテゴライズされると思われるが、精市の場合、根本的なところでまた少し違うのだ、と医者は説明した。
 ギラン・バレー症候群とは、急性・多発性の根神経炎の一つで、主に筋肉を動かす運動神経が障害され、四肢に力が入らなくなる病気である。重症の場合、中枢神経障害性の呼吸不全を来し、この場合には一時的に気管切開や人工呼吸器を要する。日本では特定疾患認定された指定難病だ。
 膠原病もまた完全な病態の解明は未だ成されていないが、多くの場合に自己免疫疾患としての機序が関与していると考えられ、遺伝的要因と環境要因が発症に関与するとされる。慢性に経過し、寛解と再燃を繰り返しながら進行することがある。また、ギラン・バレー症候群においては、患者の三分の二程度が、発病前に風邪のような症状を訴える。

 突然ふっと消え失せる、テニスラケットを掴む手の力。握手をしたはずなのに感じられない、相手の手の感触。結べない靴紐。長く続いた、発熱を伴う風邪のような症状。そして今回の、呼吸不全と全身の痙攣による意識不明。
 ──心当たりが、ありすぎた。

 更に精市の場合、四肢の痙攣などに加え、視覚や嗅覚、味覚や聴覚においても症状が出ているため、その点で非常に珍しく、ギラン・バレー症候群や膠原病に似通ってはいるが、固有の病名は存在しない、と主治医は言った。そして一人の医師で担当しきれる症状ではないため、チームを作って対応する、とも。
 ゆっくり、しっかりした口調、しかし次々に寄越される説明に、精市の目が泳ぐ。
 その時、それを察した精市の父が、息子の手を強く握った。精市の手がずいぶん冷たくなっているせいか、とても熱いように感じられる。

「精市」

 基本的に母親似で、どちらかというと中性的な容姿を持つ精市は、口髭を生やし、堂々とした佇まいの父とはあまり似ていない。
「大丈夫だ、父さんと母さんも、皆付いている」
 父は、しっかりした声で言った。その声に、すやすやと寝ている精市の妹を抱いた母も、はっきりと頷く。

「弦一郎君や、蓮二君たちもだ。こうして症状が解明できたのは、蓮二君のおかげでもある」
「……蓮二?」
「そうだ」
 曰く、以前の検査入院も含めて専門的な検査は散々したが、普段の精市の様子が事細かにはわからないため、診断を下すのに決定打が足りない状態であった。
 しかしそこで、普段から精市のテニスを常に見ており、“データ”として事細かに記録をつけていた蓮二がそれらをすべて提供したことで裏付けが取れ、検査結果が一本に繋がったのである。
 蓮二が提供した“データ”は、主治医ら曰く、そこいらの研修医よりも的確かつ詳細なもので、これがなければまだしばらく検査の繰り返しをしていただろう、とのことであった。

「お前の記録を取っていて、このままだといつか大事になるかもしれないと危惧していたのに何も出来ず申し訳なかった、と、蓮二君から頭を下げられたよ。弦一郎君もだ。あいつならば大丈夫だと無責任に言い続けていた、と」
 もちろん、君たちのせいではないと言ったが、と父は付け加えた。
 精市は呆然とした様子でそれを聞いていたが、あの二人がそう言って頭を下げただろう光景がなぜかとても生々しく想像できてしまい、表情を歪め、唇を噛む。
 父の手が、より強く精市の手を握った。その手の冷たさを、震えを、どうにか支えようというように。

「──大事なのは、この病気が治る見込みのあるものであり、また、この病気自体が生死に関わるものではないということです」
 親子の様子をじっと見守っていた医者が、沈黙をそっと押しのけるように、慎重に口を開く。命にかかわる病気ではない、という一言に、精市の両親が、僅かにほっと息をついたのがわかった。
「時間はかかるかもしれません。ですが、精市君。こうしてお父さんもお母さんも、友達も、みんな君の味方です。私達も、全力を尽くします。頑張りましょう」
「……は、い」

 精市は、ぎこちなく頷いた。






 そして精市が倒れ、入院してから、既に十日あまりが経過した。

 部活の後、揃って見舞いにやってきたレギュラーたちと赤也を、精市は屋上に誘った。ベッドにばかり居たくないのだ、と言った彼に、誰一人として「寒いから嫌だ」と言うことはなく、精市はベンチに腰掛けて、己の病状を簡単に語った。
 既に蓮二、そして父親が内科医であり、自身も医者志望である比呂士からある程度の説明がなされていたため、皆静かに、落ち着いてそれを聞いた。

「……まずは、自分の体を治すことに専念しろ」

 弦一郎は、彼一流の、重々しい言い方で言った。
 そしてその言葉に、他の全員も、静かに頷く。シン、と静まり返った屋上に、ピュウ、と真冬の冷たい風が吹いた。高く、冷たい氷のような色をした空を、精市はじっと見上げている。

「──幸村部長がいなくっても!」
 その空気を打ち壊すように、赤也が殊更明るい、威勢のいい声を上げた。
「立海の三連覇に死角はないッスよ!」
「……それはそれでヘコむなあ」
 精市は少し眉をひそめ、半眼になって赤也をじろりと見た。途端、失言に気づいた赤也が大いに慌てる。
「えっいや……! そうじゃなくって!」
「クス……、嘘だよ」
 そう言って笑った精市に、赤也も、そして皆も、安心したように笑う。
 しかし隣に立っている弦一郎、そして赤也の後ろにいる蓮二は、じっと黙ったまま、精市の様子を伺っていた。



 その後いくらか話してから、部活のことで打ち合わせることがある、という弦一郎と蓮二を残し、比呂士と雅治、ジャッカルとブン太、そして赤也はベンチから腰を上げた。
 赤也はまだ居るとごねたが、先日のテストの結果が相当悪かったので、その対策をしろと蓮二に冷静に指摘され、さらに弦一郎に拳骨を落とされたため、渋々と四人に引きずられていった。

「赤也は元気だなあ」

 はは、と、精市は軽く笑った。
「……精市、ここは冷える。風邪をひくから、病室に戻ろう」
 暗くなり始めた空を見上げる精市に、蓮二が静かに言う。
「冷える?」
「ああ」
「本当に?」
 精市は、ウェーブした髪に、ぞんざいな仕草で指を差し入れた。

「本当に、寒い?」

 蓮二、そして弦一郎は、眉をしかめた。
 真冬の屋上、しかも夕暮れの風は、芯まで凍えるほど冷たい。二人は上着こそ着ていないが、冬の制服をきっちりと着こんでいるのでさほどでもないが、精市はといえば、開襟のパジャマに薄っぺらいカーディガンを羽織っただけの姿で、しかも足元は素足にスリッパである。
 寒々しいことこの上ない。──しかし精市の声は、それより更に冷たかった。

「……ああ、寒いとも。凍えそうだ」
「ふぅん」
 尖った氷のような声で、精市は返事をした。
「どうだか」
「幸村」
 弦一郎が、熱くも冷たくもない、ただ重々しい声を出した。精市はその声に、僅かにむっとしたような顔をする。そしてそれを表すかのように、むっつりと黙った。

「──“幸村部長がいなくても”だって」

 僅かな沈黙の後、精市は、ボソリと言った。
「頼もしいなあ」
「……幸村」
「前の検査入院の時も、真田と蓮二でうまくやれてたんだろ? だから今だって」
「幸村」
「全然問題ないんだ、俺がいなくても。──知ってるよ、俺がこんなだから、部長で居るのはふさわしくないんじゃないかって言われてるんだろ? 元々部長は俺か真田かって言われてたんだから、もう部長が真田で副部長が蓮二ってしたほうが──」
「幸村!!」
「怒鳴るなよ」
 病院だぞ、と、精市は淡々とした様子で言った。対して、声を上げた弦一郎の顔はこれでもかと厳しく、眉間には深い皺が寄っていた。

「……精市」

 蓮二の声は静かで、しかしぴんと張ったような緊張感があった。
「お前も、俺達も、風邪をひく。病室に戻るぞ」
「……わかったよ」
 ようやく腰を上げた精市は、スリッパをぺたぺたと鳴らしながら、階段に向かっていく。はあ、と息をついた弦一郎が、それに続いた。






「──赤也!」

 寒空の下、弦一郎の声が響く。
 彼が駆けつけた先には、暴れる赤也を後ろから羽交い締めにしているジャッカルと、蹲り、どうやら頬を押さえているらしい一年生がいた。
「おい、どうした」
 弦一郎が声をかけると、ぎっ! と、赤也がものすごい目で弦一郎を睨んだ。その目は鋭く釣り上がり、赤く充血し、そして薄っすらと涙を湛えていた。
「真田、副部長」
「何だ」
「……部長は、幸村部長だ! アンタじゃねえ!」
 喉が破けるのではないかと思うほど引き攣れた声で叫んだ赤也は、ジャッカルの腕を振りほどくと、猛ダッシュでテニスコートを出て行ってしまった。「あー」と、風船ガムを膨らませながら、ブン太がその後姿を目で追って、赤い髪の頭を軽く掻いた。

 弦一郎もまた走り去っていった赤也を目で追っていたが、雅治がフェンスの向こうからひょいひょいと走っていったのが見えたので、ひとまず目の前のことを片付けることにした。

「……おい」
 発されたのは、弦一郎自身が驚くほど低い声だった。おそらく赤也に殴られた一年生だけでなく、その場にいた全員が、思わずビクリと肩を震わせる。
「何を言ったのかは知らんが、赤也の言うとおりだ。お前たちが何をしようと、部長は幸村精市、変更はない」
「で、でも」
「何だ」
 ぎろり、と弦一郎が睨むと、一年生は「なんでもありません」と、いかにも不服そうにごにょごにょ言った。
 その態度に、弦一郎の眉間に深い皺が寄る。

「──何でもないなら最初から言うな! たわけ!」
「ヒッ」
 腹の底に響く怒鳴り声に、地面に蹲っていた一年生が竦み上がる。
「文句があるなら真っ向から来い! 影でグチグチと、気色の悪い!」
「ひ、ひい」
「どいつもこいつも、真っ向から来て真っ向から殴り飛ばされるぐらいの根性で物を言え! 情けないとは思わんのか!」
 弦一郎が険しい顔のままぐるりと周囲を見渡すと、誰もが気まずそうに目を逸らした。その様に、ますます弦一郎のこめかみに青筋が浮かぶ。

「……たるんどる!!」

 ひときわ大きな声で弦一郎が怒鳴ると、何人かの一年生が腰を抜かし、ジャッカルがため息をつき、ブン太が半目のまま、膨らませた風船ガムを破裂させた。

 このように、精市が言ったことは、事実であった。
 実際の病名や症状こそ明らかにしていないものの、度重なる検査入院に、部長としてふさわしくないのではないか、という声が上がってきているのだ。

 なぜなら、精市は元々、直接部員らの面倒を見るタイプの部長ではなかった。
 神の子とも呼ばれる圧倒的なまでのテニスを、高みに君臨するその姿を見せることで皆をついてこさせるタイプのやり方が精市のやり方であり、そして今までは、それが確かに最も良い形であったのだ。
 だがこうして本人の姿がなくなった今、彼のテニスを見ることは出来ない。すると部員たちの印象に残るのはどうしても、今まで直接部員たちを指導することの多かった弦一郎、そしてその補佐をする蓮二となる。
 ならば帰ってくるかどうか分からない幸村精市よりも、後輩らをよく指導し、問題児の切原赤也をも舎弟のようにしており、何より実際神の子に次いでの実力者であり、“皇帝”とも呼ばれる真田弦一郎を部長に、そして参謀とも達人とも呼ばれるデータマン・柳蓮二を副部長としてしまったほうが良いのでは、となるのは、当然といえば当然のことでもある。
 しかも今の立海大附属中学男子テニス部は、幸村精市、真田弦一郎、柳蓮二の三強を始めとして、今のレギュラーたちの飛び抜けた実力に腰を引く形で今の三年生らは早々に引退し、同年の二年生も、レギュラーになれる可能性の薄さから、退部した者が散見される状態だ。
 そしてそれに反比例して、三強に憧れて入部してきた一年生は、例年よりも多い。今の部員の大部分はそんな一年生が占めており、そして彼らは入部の洗礼でもある地獄のシゴキの期間中、散々弦一郎に面倒を見てもらった面々でもある。一番つらい最初の頃に面倒を見てもらったという実績は固く、時に赤也が引くほどに弦一郎を慕う一年生は多い。

 精市が部長として誰もに認められていたのは、皇帝・弦一郎が一度として勝てたことのない、“神の子”たる、圧倒的なテニスあってこそだった。
 だからこそ、そのテニスが見れなくなった今、幸村精市が部長であることを疑問視する声が、じわじわと、だが確かに多くなってきていたのだった。



「あーかーやー」

 部室練の裏で立ち尽くしている赤也に、雅治が間延びした声をかける。
 距離を取ったまま眺めていると、ガシャン、と赤也が勢い良く緑色のフェンスを蹴りつけた。おお怖、と雅治は肩を竦め、その猫背気味の姿勢のまま、ひょいひょいと赤也に近寄っていく。
「ま、そうカリカリしなさんな。あの一年、ちーと気色悪いぐらいの真田派じゃけえ」
 赤也は俯いて、黙っていた。
「ホモじゃなかろかて、実は疑っとる」
 空気を抜くような笑いを滲ませて雅治が言うと、赤也が初めて、ちらりと振り向いた。
「………………俺もそう思うッス」
「じゃろ」
 かか、と笑って、雅治は赤也がへこませたフェンスに寄りかかった。ぎしり、と軋む音がする。

「真田を部長にー、て、今更じゃろ。そんなキレんでも、放っときんしゃい」
「……あいつ」
「ん?」
「あいつ、もう幸村部長は戻ってこないだろって言った」
 赤也が、ぎち、と拳を握りしめる。雅治は、黙って聞いていた。
「戻ってこないかもしれないし、戻ってきたって、そんなにブランク開いてたら前みたいなテニス、すぐするのは難しいんじゃないかって、だから真田先輩が部長した方がいいって」
「……さよか」
 雅治が静かに相槌を打つと、赤也から、ずっ、と鼻をすする音がした。

「幸村部長、帰ってくるのに」
「おう」
「すぐ帰ってきて、また、前みたいに、テニス」
「そうじゃな」
「俺、今度こそ、勝って……」
「それは無理じゃな」
「無理じゃねえッス!!」
 赤也が、勢い良く振り向く。まだ薄っすらと充血したままの目から、涙が飛び散った。しかし雅治と目が合うと、その表情が、ぐしゃりと歪む。

「無理じゃねええええ」
「おー」
「幸村ぶちょ、絶対、帰ってく、くる、」
「うん」
「テニスううう」
「うん、うん」
 うあー、と声を上げて泣き始めた赤也にひたすら相槌を打ちつつ、雅治は黒いもじゃもじゃとしたくせ毛の頭を、ぽんぽんと叩いてやった。

「……大丈夫ですか、切原君」
「おっ、紳士が来たぜよ」
 建物の影から心配そうに現れた比呂士に、雅治が目を細めた。「茶化すんじゃありませんよ、仁王君」と窘めつつ、比呂士は実に紳士らしく、濡らしたタオルを赤也に渡した。
 そして赤也が走り去った後、弦一郎があの一年生をきつく叱り飛ばしたこと、部長になる気は一切ないこと、またその場にいた全員に腹筋三百回を命じたことを伝えた。
「切原くんには、特にお咎めはないようですよ」
「だっで、おれ、わるくねえ、っす、もん」
「私もそう思いますが、殴ったのはあまり褒められたことではないでしょう」
「真田副部長だって、俺を殴るじゃないっすがあ!」
 鼻水がずるずるになった顔を上げて、赤也が叫んだ。「うーん、言い返せませんねえ」と、比呂士が呑気な声を上げる。

「うぐうううう」
「へえへえ、もう泣くな泣くな。そーら、仁王先輩がテニスしちゃるけぇ」
「……何ゲーム、っす、か」
「いっくらでもええから、コート準備してきんしゃい」
 赤也はしばらくぐずぐず言っていたが、最後に大きく鼻をすすると、コートに向かって小走りに走っていった。

「……仁王君は、なんだかんだ、結構面倒見がいいですよね」
「まあ、弟おるしのう」
「そういえば、そうでしたね」
「ピヨ」
 お得意の謎の擬音を発して、雅治は肩を回した。くきり、と小さな音がする。

「それに、まあ」
「はい」
「ああやってビャービャー泣かれると、泣けんじゃろ、こっちが」
「……そうですね」
 わかります、と、比呂士は言った。比呂士も、妹がいる。
「おかげで情けないとこ見せんでええし、良か」
「それは、確かに」
 苦笑して、比呂士は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

「上のもんができるんは、せいぜいドンと構えて厳しく扱いてやるこっちゃ」
「そういうものですか。うちは妹なので少し勝手が違うようで」
「そういうもんじゃ」
「では、柳生先輩も切原君とテニスをしてさし上げることとしましょう」
「そうしんしゃい。レーザー大奮発しちゃれば、元気も出るじゃろ」
「そうですね。レーザービームが嫌いな男の子はいませんからね」

 そう言って、二人はラケットを携え、可愛い後輩の相手をしに、ゆっくりコートに歩いていった。
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BY 餡子郎
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