心に誤りなき時は人を畏れず
(四)
 ──翌日。

 相手方のホームへ出向くことが多い立海大付属であるが、逆に迎えることも少なくはない。
 特に今日のように、練習試合の機会が元々多い柿ノ木中が相手である場合などは特にそうだ。

「あ、ありがとうございました……」

 柿ノ木中の二年生エース・九鬼貴一が、コート中央のネットまでふらふらと歩み寄る。
 エースという肩書ゆえに精市との試合が組まれた彼であるが、全員の予想通りこてんぱんに負けていた。常は自信過剰なほどに強気で、「お前は決して弱くない。俺が強かっただけの話だ」という決め台詞が自慢の彼も、さすがに今日ばかりはその大口も叩けていない。
 だがエースの意地か、彼はコートに膝をつくこともなく何とか挨拶のために足を進め、握手のため、ネット越しに手を差し出した。

「うん、ありがとう」

 精市もまた応え、手を差し出し、貴一の掌に自分の掌を合わせる。
「……えーと、幸村クン?」
 握手したまま、その手をじっと見て動かない精市に、貴一が怪訝な声を出す。まるで彫像のように色のない表情だった精市は、貴一の声にはっとしたように顔を上げた。
「あ、ああ、ごめん。何でもない」
「あ、そう? じゃ、ども」
「うん」
 笑う膝を抱えながら、貴一が退場していく。
 精市は、彼と握手をした己の掌を数秒じっと眺めていたが、やがて自分もコートを辞した。

「……なんだァ? さっきの」
 ベンチに戻った貴一は、汗を拭き、水分補給をしながら、ぼそりと呟く。そしてその呟きが耳に入った同じ二年生の選手が、「何が?」と首を傾げた。
「いや、さっきの握手。幸村クン、ぜんっぜんこっちの手握ってこなかったからさあ」
「マジで。握手するまでもねえとか思われてんじゃねえの」
「い、いくらなんでもそこまでじゃないだろ……」
 こてんぱんに負かされた自覚のある貴一は、ひくりと顔をひきつらせながら言った。

「まあ、俺もちょっと思ったけど。でもそのくせ手合わせたまま動かねえしさあ、何だったんだアレ」

 何だそりゃ、とどうでも良さそうにスコア表を寄越してくる同期に、貴一もまた、それ以上の疑問を持たなかった。






 元々休日の土曜日であることと、練習試合が早めに終わったこと。そしてテストが終わってすぐの試合で息抜きも出来てやしない、という赤也が言い出しっぺの意見により、珍しく、どこか遊びに行こうか、ということになった。
 大々的な寄り道に弦一郎はあまりいい顔をしなかったが、たまにはいいだろう、という精市の鶴の一声が効いた。弦一郎と精市は相変わらずの腐れ縁ならではの仲であるが、部長と副部長という役職上の上下関係が生まれてからというもの、こうして最終決定権を持つ精市のひとことに弦一郎が黙る時がしばしば出てきている。
 元々、警察官と自衛官を職業とし、剣術道場という家業の家に生まれた弦一郎である。上役の言うことは絶対、というトップダウン方式の命令系統がもはや身体に染み付いている彼は、こうして役職を背負うようになると、普段からの態度も若干それに倣う部分がある。
 とはいえ、あまりに理不尽な決定には全力で反発するし、相手はやはり精市なので、やむなく命令通りにしなければならない時は、苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしているが。

 なるべく皆の定期の範囲で、という選択肢から、学校から二駅ほど離れた駅前の繁華街を目指すことにした彼らは、駅のホームをぞろぞろと歩いた。

「なんか、初めてじゃねーか? 全員でどこか行くのって」
「そうですねえ。ばらばらにそれぞれ、ということであれば、それなりにありますが」
 そういえば、といった様子で言ったジャッカルに、比呂士が頷いた。
 確かに、この中の二、三人ずつで行動することはあっても、全員というのは、それこそ練習試合の遠征でしかないことであった。

「全員ってのもそうですけど、俺、幸村部長とどっか行くの初めてッス!」
 そう言う赤也は先輩たちに一人混ざって出かけるのが何やら嬉しいらしく、先程からどこかテンションが高い。
「そうだね。赤也は大概蓮二か真田か、あとはジャッカルとブン太といることが多いから」
 ゆったりと笑みを浮かべ、精市が頷いた。
「まー、ジャッカル先輩と丸井先輩は確かによくゲーセンとか行きますけど」
「蓮二とは、家の方向が同じなんだよね、確か」
「ッス。小学校が同じで」
 まあ今まで知らなかったんですけど、と赤也は癖の強い髪の頭を掻いた。
「真田は……」
「副部長はなんつーか……家に行ったり来られたりが……」
 赤也は、気まずそうに目を泳がせる。
 件の日から、赤也は成績が落ちればすぐに真田家に引きずられて勉強を詰め込まれるし、その礼として、弦一郎が切原家に呼ばれて食事などをしていく機会もそこそこある。かといって、赤也が真田家に自主的に行くことは殆どないが。
「ふーん、仲いいね」
「あれは仲いいって言わねえっス」
 げんなりした顔で、赤也は言った。その様子が面白かったのか、精市はけらけらと笑う。

「つーか幸村部長、手袋暑くねっすか」
 精市がしている手袋を見て、赤也が首を傾げた。
「……そう?」
「今日、超あったけーっすよ」
 正直マフラーいらねえもん、と、防寒の役に立たない学校指定のマフラーをひらひらさせながら、赤也が言う。そのとおり、確かに今日は暖かかった。コートなどを着ている者はホームにも殆どおらず、弦一郎などマフラーさえしていない。
「そう──、そうかな」
 じゃあ外しておこうかな、と、精市は手袋を外し、ラケットバッグについた、ファスナー付きのポケットに突っ込む。
「あ、ごめん、先行ってて。靴紐ほどけてる」
「うーっす」
 しゃがみ込んだ精市に返事をして、赤也はすぐそこにある階段をかけ登っていった。


 密かに、その様子を階段を登りながら眺めていた弦一郎は、靴紐を結び始めた精市から目線を外すと、蓮二に声をかけた。
「──蓮二。昨日の件は」
「ああ、大丈夫だ。今日朝一番に話した」
 弦一郎がこそりと話しかけてきたそれに、蓮二は、穏やかな表情でそう返す。弦一郎もほっとしたのか、「そうか」と落ち着いた声で言う。

「俺はどうも、心配症なようだ。精市のことだ、きっと心配いらんのだろう」
「そうとも」
 弦一郎は、深く頷いた。
「お前の“データ”は頼りになるが、たまにはそう、今のように、“きっと”とか“おそらく”などという具合でも、いいのではないか? たまには肩の力を抜くことも大事だろう」
「データマンとしては、そういう曖昧な言葉はあまり好きではないのだが」
 やれやれ、といった様子で、蓮二は肩をすくめた。

「しかし、ははは。よりにもよってお前にそんなふうに言われるとはな」
「む……」
 自覚があるのか、弦一郎は気まずげに眉間に皺を寄せた。しかし、素で笑っている蓮二を前に、すぐ其の眉間の皺を緩める。
「……お前も、以前と比べるとずいぶん柔らかくなったな。誰のおかげやら」
「れ、蓮二」
 かの存在を匂わせた途端、弦一郎が挙動不審になる。

 結婚を前提に付き合いを申し入れようと思っている、という弦一郎の意思を、ジュニア選抜の合宿後すぐ、蓮二はすでに聞いている。
「お前らしくはあるが」と言いつつもぽかんとした蓮二の顔は、弦一郎が初めて見る種類のものだった。しかしいつもどおり応援はしてくれるようで、手紙ではなく直接言おうと思っているという弦一郎の言葉にも、「確かに、プロポーズが手紙というのは少々インパクトに欠けるな」と概ね同意を示していた。
 プロポーズ、とはっきり言われて弦一郎は大いに顔を赤くしたが、実際そのとおりであるので、弦一郎は素直に蓮二の助言を聞いた。つまり、直接言うのはいいがそれまでまた曖昧な期間を設けるのは良くないので、せめて好きだということぐらいは手紙でもいいから告げておけ、という助言である。
 弦一郎もそれはそうだと思ったので従うことにし、所謂恋文をしたためるべく、合宿の後から奮闘している。──しているが、未だ良いものは書けていない。もちろんいつもの手紙の返事はすぐに出しているが、その傍ら、彼女に好きだと伝えるための特別な文章を、うんうん唸りながら考えているのだ。
 蓮二からは苦笑とからかい混じりで「なんなら推敲してやろうか」と言われているが、さすがにそれは恥ずかしかった。



 階段の上で弦一郎と蓮二がそんなやりとりをしているその時、階段下手前でしゃがんだ精市は、緩んだ靴紐をきゅっと引き、くるりと回して結ぼうとしていた。
(──あれ)
 するん、と手の中から逃げていった靴紐に、精市は僅かに眉を寄せた。
 もう一度紐を引き、結ぼうとする。しかし指先はもたもたとして思うように動かず、数度やってもうまく結べない。
(寒いからだ)
 やっぱり手袋をすべきなんだ、と精市は自分に言い聞かせるようにして断じた。今日は温かいそうだが、きっと寒いせいだと。
 しかし何度やってもするりするりと指をすり抜けていく靴紐に、さすがにいらいらし始めてきた。一度小さく息を吐き、先を行く友人たちに、声をかけようとする。

(──あ、れ?)

 顔を上げた精市は、声の出ない喉に驚いて、固まった。
(なんで、こんなに静かなんだ)
 ここは、駅だ。線路が四本、ホームが二つもある、そこそこ大きな駅。先程まで、向かいのホームに快速急行が到着すると、うるさいほどにアナウンスがあったはずだ。
 しゃがみ込んだ精市の横を、高いヒールを履いた女性の脚が通り過ぎる。しかしその鋭利な踵は、少しも音を立てていない。沢山の人々の声、足音。電車の音、アナウンス、あるいは駅の外の様々な音の一切が、消えていた。まるで無声映画のように、ただただ景色だけが流れてゆく。──精市を取り残すようにして。

(何だ、これ)

 汗が、流れる。指がかじかむほど寒いはずなのに、汗が。それとも赤也の言うとおり、今日はマフラーがいらないほどに温かいのか、──精市には、わからない。

(何、なんだよ。なんなんだ)

 駅だというのに煙草に火をつけている、ガラの悪そうな若者が見える。立ち上る煙。しかしその臭いは、精市まで届かない。こんなに近いのに、まったく、何も。
 口の中が、乾く。唾液の味もわからない。ただ、からからに乾いているということしか、精市にはわからない。
 見上げた階段を、赤也が元気よく駆け上っていくのが見える。

(──待って、)

 そう、言おうとした。しかし、口が開かなかった。
 靴紐などもう知るかとばかりに、立ち上がろうとする。しかし、膝が動かない。視界が反転する、地面に倒れたのがわかる。しかしその地面が冷たいのか温かいのかもわからない。暗い。まだ昼過ぎのはずだ。しかし暗い。何も見えない。

 ──体の感覚が、なくなっていく。



「赤也、幸村はどうした」
「あ、なんか靴紐ほどけたから先行ってくれって」
 追い付いてきた赤也がぞんざいに言ったそれに、弦一郎は眉を顰める。
「なに? しかしもう電車が来るぞ。幸村──」
 振り向き、階段下を見た弦一郎は、目を見開いた。
「ゆ……」
 蓮二や他の面々も、異常に気付き始める。倒れた精市の周りにはざわざわと騒ぐ軽い人だかりが出来ていた。
 轟音を上げて、電車がホームにやってくる。

「幸村ぁ──っ!!」

 電車の音にも負けない音量で、弦一郎が声を張り上げた。
 数段飛ばしのものすごい速さで階段を駆け下りた弦一郎は、野次馬をかき分け、倒れ伏した精市の側にしゃがみ込む。
 精市はひどく汗を流しており、苦悶の表情をしていた。顔色は紙のように白く、指先が痙攣している。脚が、ほどけたままの靴紐が、ホームに投げ出されていた。
「幸村、おい、わかるか、幸村。意識はあるか、おい!」
 己もまた手が震えているのを自覚しながら、弦一郎は精市の肩を叩いた。しかし、反応はない。呼吸があるのが救いだが、まるで弦一郎の存在に気づいていないような様子である。

「……早く救急車を呼ばんか──っ!!」

 野次馬たちを一喝するように弦一郎が怒鳴ると、ホーム中の人間が、おろおろとした様子で携帯電話を取り出しはじめる。
「真田君! いま私の携帯で救急車を呼びました。丸井くんと桑原くんに駅員さんを呼びに行って頂いています!」
「──わかった!」
 既に行動していた比呂士のおかげで弦一郎自身もまた少し落ち着きを取り戻し、ふっと一度息をついた。

「蓮二」
「──あ」
「蓮二!!」
「え、あ、……あ?」
 階段を駆け下りてきたはいいものの、精市の側に膝をついて呆けている蓮二に、弦一郎は強い声をかけた。しかし蓮二はやはり彼らしくなく呆然としているばかりで、反応が鈍い。

「落ち着け! お前らしくもない。携帯電話を貸してくれ。幸村のご家族に連絡する」
「けい、たい」
 目眩を抑えるように、蓮二は自分の額に手をやった。細い指は真っ白になっており、僅かに震えていた。
「そうだ、携帯電話だ。貸してくれ。どこにある」
「ポケット……ポケットだ」
「そうか。勝手に取るぞ」
 弦一郎はさっさと蓮二の上着やズボンのポケットに手を突っ込むと、素早く携帯電話を取り出して電話をかけ始めた。さすがの長い付き合いだけあって、幸村家の固定電話番号は暗記している。ただ、携帯電話の操作にわずかに手間取り、弦一郎はちっと舌打ちをした。

「──精市」

 蓮二は膝をつき、倒れている精市を見た。
 頭を、働かそうとする。こんなに頭が回らないのは、蓮二にとって初めての事だった。それでも弦一郎に怒鳴られたことをきっかけに、しっかりしなければという意識が辛うじて働き始める。
 落ち着け、己には“データ”がある。そう、──“こうなるかもしれない”とわかっていたほどの詳細なデータが。

「……嘔吐はなし。体温やや高め、発汗異常。痙攣、末端の震え。脈拍は……」
 精市の症状を、データを、なるべく詳細に頭に叩き込む。救急車の音が近づいてきた。救急隊員に、できるかぎり正しい情報を伝えなければならない。それが自分の役目だと、蓮二は己を奮い立たせた。

「精市、わかるか! 意識はあるか。おい!」
 蓮二は精市の肩を叩きながら、顔を近づけ、その耳元で、普段の彼としては考えられぬほど大きな声で言った。
「声が出ないなら手を握れ! 目を開けるのでもいい! 何でもいい、反応してくれ」
 痙攣する精市の手を、蓮二はぎゅっと握った。冷たい手だった。今日は、こんなにも温かい日であるのに。
「精市、頼む。反応してくれ、おい!」
「──れ、は」
「精市!」
 わなわなと震える精市の唇から漏れた音を耳聡く聞きつけ、蓮二は彼の口元に耳を寄せた。

「お、れは」
「精市」
「りっかい」
 途切れ途切れの精市のかすかな言葉に、蓮二は耳を澄ませる。そして聞き取れた内容に、ぐしゃりと顔を歪めた。

 ──俺は、立海を、三連覇、させなくちゃ。

「そう……、そうだ、精市。そのとおりだ」
 震える声で、蓮二は言った。
「そうだ、三連覇だ。我々立海大付属は全国三連覇を成し遂げる、そうだろう? そのためにはこんなところで倒れている場合ではない、──そうだろう、精市!」
 目の焦点があっていない精市に、蓮二は叫ぶように呼びかけた。

 ああちくしょう、と、蓮二は内心、己の言った言葉を口汚く罵る。
 己は、データマンだ。いつの日か、もしかしたらこうなってしまうのではと察せられるだけのデータを持っていた。それなのに、きっとだの、おそらくだの、現実から目を逸らしてごまかして、結局はこのざまだと、蓮二は己を蹴り飛ばしたい気持ちになる。

「大丈夫だ、精市。きっとすぐ治る。大丈夫だ」

 ──ああこれだから、曖昧な言葉は大嫌いだと、蓮二は震える指を押さえつけた。
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BY 餡子郎
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