秋の夜風は冷たいが、火照った頬にはちょうど良い。
弦一郎は、熱くなった頬や、どくどくと鳴る心臓を持て余しながら、合宿施設の前にあるベンチに腰掛けた。
彼女から好きだと言われたことに浮かれるあまり、自分の気持ちを伝えていないことに気付いた弦一郎はいま、率直に反省していた。
彼女に恋をしていると気付いた日から、弦一郎は、想いを交わし合うことの幸福を知った。そしてだからこそ、彼女の祖母の紅椿と交わした「不義理をするな」という約束のせいだけでなく、彼女から何かしてもらったら絶対に返したいし、もし自分が何かしたら、
紅梅にも返してほしいと思うようになっていた。
しかしどうにも己は彼女から貰うことに慣れすぎていて、返すことがおろそかになりがちだと、弦一郎はさすがに自覚している。終いには甘えて思い上がって、先日のようなことになったばかりだ。
しかし、言い訳をするならば、彼女からの想いを受け取るのは、ついただただうっとりとしてしまうほどに心地が良いのだ。常にしっかり意識を持ち、背筋を伸ばしている弦一郎であるが、彼女のことを考えるときは、なんだか夢の中にいるような、ぼぅっとした気持ちになる。
──甘えている、と、さすがにもう自覚がある。
何時如何なる時も己に厳しく、皇帝とまで呼ばれるようになった真田弦一郎であるが、唯一恋した相手にだけ、こうしてどうしても甘ったれてしまう。そしてそれを自覚しつつも、どうしても正すことができない。
それほどに、彼女が自分を好きだと言う水のような声や、お守りを渡すために触れてきた白く華奢な手や、蕩けそうなほどに甘やかな笑みは魅力的で、ただただ見惚れてしまうのだ。
(……伝えなければ)
弦一郎はそう思い、前髪を掻きあげた。生え際にうっすらとかいた汗が、外気に冷やされてひんやりするのを感じる。
景吾や清純が言ったとおり、好きな相手から好きだと言われたのならば、俺もそうだとはっきり返すのが道理だ、と弦一郎も思う。そして弦一郎が即座にそうしなかったがゆえ、曖昧な気持ちでいるかもしれない
紅梅に、いまさらながら申し訳ない気持ちになった。
すぐさま手紙で想いを伝えようかとも思うがしかし、なにごとも真っ向勝負を好む弦一郎は、直接口で言われたことは、なるべく自分も同じように返したい、と考えていた。
(だが、会えるのは、また、夏)
遠い、もどかしい、と、弦一郎は初めて思った。
今まで彼女に会える夏の日を楽しみにはしていたが、その日の遠さに切なくなるようなことはなかった。今すぐ会いたいと焦がれるようなこの気持ちが、乞う心──恋心であろうか。
なるべく早く手紙にて気持ちを伝えたほうがいいのか、それとも来年の夏に直接伝えたほうが良いだろうかと、弦一郎は悩む。
そしてどちらにしろ、どのような言葉で伝えようか、とも考えた。ただ俺も好きだと言うのは簡単だが、伝えるのが遅れたぶん、それでは足りない気もした。かといって詩的な表現をするのは恥ずかしいし、まずその表現自体思い浮かばない。
(いや、もっと……、具体的なことを)
伝えたい、と、弦一郎はぼんやりながらも結論づけた。
なぜなら弦一郎は、自分の気持ちや目に見えない関係性に名前をつけるのが苦手だ。そして無理やりそうしても、なんだかしっくり来ない。ただ好きだと伝えるのは簡単だが、だからどうした、と自分で思ってしまうのだ。
もちろん
紅梅から好きだと言われたことについてはまさに天に昇るような心地になったが、自分が言うのではまた別だ。
(……結婚)
舞妓見習いである彼女の立場は問題にならない、と、他でもない、その彼女の立場を後援している景吾が言い切った。──ならば、本当にそうなのだ。気持ちがあり、実際に行動すれば叶うことであるのだと改めて思った瞬間、弦一郎は高揚した。
結婚すれば、彼女は舞妓になるのをやめることになる。そして弦一郎のそばに、ずっと、一生いることになるのだ。
舞妓になるための修行をみっちり積んだだけあって彼女の立ち居振る舞いは申し分ないどころか極上のもので、料理ができることも知っている。彼女が作ったものを口にしたことは少ないが、真田家に泊まっていた頃は必ず台所を手伝っていたし、亡き祖母や義姉が「とても上手」と言っていたので、きっとそうだろう。弦一郎が佐助の話をする度に喜び、引退した芸妓が連れてきた赤子の話などを嬉しそうによくするので、子供も好きなのに違いない。
想像力の乏しいはずの弦一郎は、何故かその様を、次々に夢想することができた。そしてその夢想はきらきらと輝いていて、とても素晴らしいものであるように感じられた。
そしてそこまで考え──人によってはそれを妄想とも呼ぶが──、弦一郎は、自分は彼女と、結婚を前提とした付き合いをしていきたいと思っているのだ、と、はっきりと結論づけた。
(──よし。直接言おう)
自分と彼女にとって手紙は重要で神聖なやりとりではあるが、こんなことをいつもの手紙で済ませるのは良くない。来年の夏という事にはなってしまうが、直接顔を見て、真正面から伝えるべきである、と弦一郎は断じた。
弦一郎はひとつ頷き、決意した表情、しかし火照りの取れない顔のまま立ち上がった。
こうして、ジュニア選抜合宿は参加者全員にとって充実した内容となり、誰しもが新しい発見をし、一周りも二回りも実力をつける結果となった。
無論、弦一郎や蓮二も例外ではない。弦一郎は今まで半ば根性論に支配された力づくの練習をしていたのをプロのトレーナーたちに矯正され、なお効率的な訓練方法を身につけることができたし、蓮二も様々な選手たちのデータをかき集め、その分析に寄って戦術の幅が広がり、また新しい自分の技を編み出すことができた。
さらに、二人が持ち帰ってきた様々なノウハウは、もちろん留守番組にも伝えられた。
主に蓮二がまとめ分析したデータによって練習メニューが大幅に見直され、それによって、王者・立海大付属男子テニス部は、さらに実力を上げようとしていた。
──そして。
「幸村精市、復・活!!」
やけにハキハキした台詞と、きらきらしい笑顔のポーズ付きで部活に顔を出した精市に、平部員からは嵐のような、そしてレギュラーからはまばらな拍手が起こる。ちなみに、弦一郎は拍手せず、珍獣でも見るような顔で精市を見ていた。
「いやあ、身体が鈍ってしょうがないよ。みんなぜひ相手してね」
肩をごきごき鳴らしてにこやかに言う精市に、何人かがそっと目を逸らした。この“神の子”がたかが検査入院ごときで実力を落とすはずはないし、その上こうもやる気満々の彼とやりあえばどうなるか、知っている者はまさに身を持って知っているからである。
「精市。結局何もわからなかったと聞いたが……」
「そうなんだよ。まあまだ結果が出てないってだけで、色々調べては貰ってるんだけどね」
怪訝そうに声をかけてきた蓮二に、精市はあっけらかんと答えた。
ジュニア選抜合宿を欠席してまでした検査入院であるが、精市の不調の原因は、結局明確になっていない。
データマンの蓮二としてはそれがどうしても気になるのだが、本人はとにかくベッドに縛り付けられる生活から開放されて上機嫌だった。
「結果が出るまで安静にしとけ、っていう先生もいたんだけどね」
「……なに? では医者から太鼓判を押されたわけではないのか?」
蓮二の眉間に、珍しく皺が寄る。精市は肩をすくめた。
「まあ、そうだけど。こんなに色々検査して、何日もかけてわからないのに、まだ待たされるなんてやってられないよ」
「それは……」
「大丈夫、大丈夫。実際元気なんだし」
けらけらと笑いながら言った精市は、「幸村ぶちょー! 俺と勝負ッス!!」という赤也の怖いもの知らずの挑戦に「受けて立つよ!」と言いながら、意気揚々とコートに入っていった。
「蓮二」
納得行かないような顰め面でそのさまを見ている蓮二に、弦一郎が声をかける。
「思慮深いのも結構だが、あまり心配しすぎるのも良くない。杞憂を続けると、本当に良くないものを呼びこむぞ」
どこまでも現実主義なようでいて、時々こうして験担ぎを重用する弦一郎に、蓮二はわずかに苦笑を浮かべた。
「そう……だろうか」
「そうだ。それに、知っているだろう? あいつは殺しても死なん」
弦一郎が視線で示した先では、コートを抉るようなスマッシュを、赤也の足元ギリギリにぶちかましている精市がいた。その表情は満面の笑みで、顔色もこれでもかとツヤツヤしている。むしろ赤也のほうが青くなって膝をガクガクさせていて、どう見ても体調が悪そうだ。
その様子を見て、蓮二の口の端に、僅かに笑みが浮かぶ。
「……そうだな」
「そうだ。単なる鬼の霍乱……」
そう言った弦一郎の足元に、黄色の軌跡が突き刺さった。
「あっごめんごめん、なんか失礼な言葉が聞こえたからさ」
「貴様……」
相変わらずきらきらしい笑顔で、てへぺろ! とでもいうような仕草で言ってきた精市に、弦一郎の表情が引きつる。
「──幸村ァ!! 次は俺と勝負だ!」
「望むところだ真田ァ!!」
声を張り上げ、ある意味実にイキイキとそう怒鳴りあう部長と副部長。立海大付属中男子テニス部における通常運行に、部員たちが「ああ、いつもどおりだなあ」と何やらほっこりした顔をしている。
蓮二もまたその様に笑みを浮かべたがしかし、ひとり薄っすらと目を開けた彼は、試合をしている精市のコートの横のベンチに座り込む。
そして、使い込んだノートに、静かに何かを書き付け始めた。
その後、部長の精市が復帰したこともあり、立海大付属男子テニス部は、他校との練習試合を多く組むようになった。
王者・立海大付属と試合をしてみたい学校は多く、相手には全く困らない。どころか、希望を受けてスケジュールを調整するのが大変なほどだ。そのせいだけではないが、練習試合であるのでという名目でレギュラーばかりが試合に出るのではなく、赤也を筆頭に、準レギュラーなどもコートに立つようにして、様々な学校とやりあい、彼らは経験を積んでいく。
しかし、部活となると他校に出向き、相手をこてんぱんに叩き潰しては去ってゆく立海大付属は、アポイントメントをとっているとはいえまるで道場破りの武者修業のような風情だった。
そんな、ある日のことである。
「──15−30!」
審判の声がそう響き渡った時、誰もが目を見開いた。ぽかんとした、といってもいい。
「……あれ?」
ラケットを取り落とした精市が、呆けたような声を出す。
対戦相手が打ったショットは、苦し紛れの緩いロブ。誰もが、これで試合が決まるだろうと思っていた。しかしボールが弓なりに上がったその時、精市の手からラケットが落ちたのだ。
強いショットを受けきれず、握力不足によってラケットを取り落とすことはある。しかし精市はそもそもラケットにボールが当たってすらいないのに、ラケットを落とした。そして、初心者の子供でも打ち返せるだろうロブはまんまと精市のコートにインし、ポイントを取っていったのである。
コートに落ち、からんからんとカーボンフレームの軽い音をさせているラケットに、精市も、レギュラーたちも、部員も、いや誰もが呆然としていた。
「──幸村! 何をしとるか!」
「え、ゴメンゴメン」
弦一郎が怒鳴るのに、精市は曖昧にそう返した。精市自身、どうしてラケットを落としたのか、全くわからなかったからだ。
しかしその後、精市は当然のように五分もかからず試合を終え、もちろん勝利した。幸村精市の珍しいうっかりミスは、あの神の子でもうっかりをすることがある、と少々部内で話題になった。
しかし精市自身も反省し、次の日も、その次の日も、うっかりどころかいつにも増して死角のない試合を続けたため、そのまま忘れ去られてしまった。
弦一郎さま
つい先日まで赤や黄色の落ち葉の色に見惚れておりましたのに、いつの間にか己の息の白さに驚きますこの頃、そちらではいかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
寒い時期に私が神奈川に足を運んだのは、佐和子お祖母様にお別れをした日だけで、そちらの寒暖の具合に実感が湧きません。海風はやはり寒くございますか?
京都は四季の彩り豊かである分、夏は暑く冬は寒く、季節の変わり目の見極めに毎年大変な思いをしております。
それに和服はやはり足元が冷えやすく、また私どもは襟を大きく抜く着付けをいたしますので、冷たい風に晒される項が心細く、どこに懐炉を仕込めば一番暖かいのかなど、いかにして暖かく過ごすかということに毎年腐心してございます。
普段は見えないところまでおしゃれに気を使うお姐はんがたも、この寒さに背に腹変えられぬご様子でいらっしゃいます。風邪を引いたら元も子もございませんので、股引でも何でも履けばよろしいと思うのですが、芸妓たるもの、という矜持との戦いであるようでございます。
とはいっても私も他人ごとではなく、風邪は引くな、しかしみっともなくもするな、というお母はんやお姐はんがたからのお叱りの無茶にいかに従うか、悩むところでございます。
…………
いくらよく鍛えておりましても、自然の脅威には勝てぬ時がございます。弦ちゃんも風邪を引かないように工夫して、くれぐれもご注意なさってください。
私は帯の後ろ、腰の所に小さい懐炉を挟みますと大分暖かく感じますので、これで何とか乗り切ろうと思います。
…………
紅梅
季節は秋を通り過ぎ、初冬になろうかという頃。
立海大付属でも、学校指定のマフラーやベストを身に付ける生徒が目立ち始める頃だった。しかし濃い黄色のチェックのマフラーはナイロン製、アイボリーのベストはかなり薄手であまり暖かくはないので、市販のもっと温かいものを身につけたがる生徒も多い。
風紀委員の弦一郎は、通常、校則に従ってそれらを取り上げなければならない立場である。周りの者達も、暖かな防寒着を、この鬼の風紀委員が無情にも抜き打ちチェックで摘発しまくるのであろう、と思っていた。
しかし誰もが予想しなかったことであるが、単に身を飾る目的なら兎も角、防寒のために凍えながら身につけているそれを取り上げるのはどうか、と、彼は風紀委員長と教師に進言したのである。
私立であるぶん公立の学校より多少融通がきくとはいえ、普段教師よりも校則に厳しい弦一郎の発言力は、かなりのものだった。
結果、学校指定のマフラーと制服さえきちんと見えるように身につけていれば、他は防寒性の高いものを身につけても良い、ということになり、生徒たちは大いに湧いた。ついでに、堅物と評判だった弦一郎の評価も、多少変わった。──少しは話のわかるやつではないか、というような方向に。
「いやー、真田もやるときゃやるのなー」
「ああ、俺寒いの苦手だから、マジ助かったぜ」
嬉しそうな顔なのは、ジャケットの下に薄手のセーターを着込んだブン太と、同じようにセーターを着込んでいるジャッカルだ。特にジャッカルはスキンヘッドなので、もっと寒くなった時はニット帽を被らないと頭から風邪をひくらしく、それが許されて本当に助かった、と胸をなでおろしている。
ちなみに今日は、二学期の中間テストの最終日である。午前中のうちにすべての科目のテストが終わり、部活動は学校側から休止命令が出ている。そのため、部活のある者もない者も、さっさと帰って英気を養ったり、こうして下校時刻に追い出されるまで呑気にお喋りに興じたりなど様々である。
「ピヨ。こればっかりは真田サマサマじゃ」
こちらは、セーターだけでなくすでに耳あてまで用意している雅治である。彼はその細身のせいか、極端な暑さ寒さが苦手なたちだ。夏は日陰とクーラーの側から離れたがらず、冬はヒーターの側から離れたがらない彼が立海大付属のテニス部でしかもレギュラーというのは、改めて思えばなんだか不思議な話だ。
「マジ意外っす。真田副部長だったら絶対“鍛え方が足らんから寒いのだ!”とか言いそうなのに」
そういう赤也は、大きめのサイズであるはずの制服のジャケットがもこもこになるほどの厚手のセーターを着込んでいる。あれはさすがに後で暑くなるんじゃねえかなあ、とジャッカルが苦笑していた。
「まあ、そうですねえ。……と、このように言われておりますが? 真田君」
「ぎゃっ」
比呂士が振り返って発言したそれに、赤也が尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。
皆が比呂士の視線を追えば、そこには、ぎろりと赤也を睨みながら立っている弦一郎がいた。さすがのもので、ジャケットの下はすぐに薄手のベスト、学校指定のもの以外は身につけている様子がない。
「あ、真田副部長、ドモっす!」
「あったけーわー。サンキュな、真田」
「助かったぜ、真田!」
「ぬくいナリー」
調子良く声を上げる面々に、「ふん」と弦一郎は鼻を鳴らした。
「結構。寒さを理由に勉学に身が入らぬという言い訳は、これでなくなったわけだ。今回のテストの結果はさぞ立派なものなのだろうな、赤也」
「げっ……」
あの日、面倒を見ると家族に挨拶と宣言までした時から、弦一郎は赤也の成績まで管理している。とはいえ、赤也の成績は弦一郎が思わず目眩を起こすほどにひどかったので、蓮二を始め、結果的にここにいる面々全員で面倒を見ている形だ。
決して、彼らが親切ということではない。単純に、そこまでしないとどうにもならない成績なのだ。いくら立海の入試が簡単とはいえ、赤也の学力は、この学力でどうやって入学してきたのだ──、いや、本当に小学校に行っていたのか、と疑うレベルだった。
具体的には小学校高学年レベルの漢字の半数以上が書けず、九九にも怪しいところが散見される。英語に至っては、ローマ字との区別が未だについていない上、そのローマ字さえ若干危ないという有り様。
その上、興味のあることには弦一郎も驚くほどの集中力を見せる赤也だが、それ以外の事になると、反動のようにして強烈なサボり癖が発揮されてしまう性格でもあった。放課後少し勉強を見てやる程度ではどうにもならず、結果的に、真田家に全員泊まり込みの合宿形態で、赤也の勉強を見ながらテスト勉強をする、ということが、もはやレギュラーメンバーの習慣になっている。
「ははは、そうですね」
苦虫を噛み潰した顔をした赤也に、比呂士が笑い声を上げた。
「まあ、大丈夫でしょう、今回は。赤点はないものと信じていますよ、切原くん、ねえ。あれほど苦労したのですから」
「う、うす」
笑いながら、しかしどこかずっしりと重い声で念を押してきた比呂士に、赤也は寒さのせいではなく、肩を縮こまらせながら返事をした。
比呂士は蓮二と学年一位を競う学力の持ち主であるが、それだけに、赤也の底辺を這いずった学力を前に、かなり頭を抱えていたのだ。「b動詞はわかったんスけど、a動詞とかって習いましたっけ?」と真顔で訪ねてきた赤也に、それでも根気強く教え続けた彼を、誰もが尊敬したものだ。
本人は、「違う意味で私も勉強になりました」と、何やら遠い目で言っていたが。
「しかし確かに、真田くんが校則に口を出したのは意外でした。どういう心境の変化で?」
「……別に」
弦一郎は、ぼそぼそと言った。
「……いくらよく鍛えようとも、自然の脅威には勝てぬ時がある。用心するに越したことはない」
それだけだ、と言った弦一郎の腰の後ろに小さな使い捨て懐炉が貼り付けてあることは、誰も知らないことである。
「ところで、蓮二か幸村を見なかったか」
弦一郎が尋ねると、五人は顔を見合わせた。
「はて。幸村君は存じ上げませんが、柳君なら、部室の近くにいらっしゃるのではないでしょうか。何やら用意があると仰っていたような」
「そうか」
「いえ。明日の練習試合の件で?」
「うむ、最終調整をな。ありがとう」
比呂士に礼を言った弦一郎は、スケジュールのプリントの束をもって、五人が屯していた教室を離れた。
「……から、大丈夫だって」
比呂士の助言通りに部室の近くまで来た弦一郎は、聞こえてきた声に、歩む足を止める。
部室の建物の裏を覗きこむ。と、そこには、蓮二と精市が向かい合っていた。
「しかしだな……」
「しつこいよ、蓮二。俺が負けたことある?」
「……ないが」
精市は笑みを浮かべているが、それはお世辞にも朗らかなものではなかった。苦笑とひとことでいうにも苦々しさの濃い、何やら苛つきを覆い隠すような、引きつった笑みだ。
対して蓮二もまた、眉間に皺が寄っている。だがその秀麗な眉は少し下がっていて、怒っているのではなく、困り果てているような表情だ。
どちらも見たことがないような珍しい様子に、弦一郎は目を丸くした。
「ならいいじゃないか」
「……良くない。例えば昨日だ。3ゲームめのサーブ──」
「なんでもないって言ってるだろう!」
「──おい」
精市がヒステリックな声を上げたので、弦一郎は思わず声をかけた。
「……弦一郎」
いたのか、と呟いた蓮二、そして本当に今はじめて弦一郎の存在に気づいたらしい精市に、弦一郎はますます怪訝な顔をした。この二人が、ここまで側に来ている人の気配に気づかぬなど、滅多にないことである。
「一体、どうした。お前たちが言い合いなど、珍しい」
「……なんでもないよ。ああ、明日の練習試合?」
髪をかきあげた精市はやはり笑顔だが、同じく、やはりそれはどこか歪んでいた。
「そうだが……」
「そう。悪いけど、あとで教えて。俺ちょっと用事あるから」
「……まあ、最終確認だけだ。部長のお前から変更がないなら構わんが」
「大丈夫。じゃあ、悪いけど」
そう言って、精市は踵を返し、さっさと歩き去って行ってしまう。
そしてその後姿を、蓮二がやはり険しい表情で見遣っている。
(──いや)
と、弦一郎は思い直した。これはただ険しい表情、というわけではない。
「何を心配している、蓮二」
弦一郎が言うと、蓮二ははっとした顔をして、弦一郎を見た。切れ長の目は数秒見開かれていたが、やがてふっと伏せられる。
「いや、……大丈夫だ」
「うむ……?」
「杞憂だ、きっと。心配いらん。明日、精市に謝る」
「……まあ、お前たちがいいならいいが」
「大丈夫」
そう言って、蓮二は、弦一郎の手の中のスケジュール表を手に取った。
書き込みのされたコピー用紙には、年をまたがる練習試合の予定が、びっしりと書き込まれている。裏をめくれば、赤也の下手な字で、『常勝立海!』とか、『レギュラー・切原赤也(予定)』と書いてある。
蓮二はそれに、今度こそふっと微笑を浮かべた。
「──大丈夫だ。きっと」