心に誤りなき時は人を畏れず
(一)
弦一郎さま

秋の足音が聞こえ始めた昨今でございますが、季節の変わり目は、体調を崩しやすい頃でもあります。全国大会の後、お加減はいかがでしょうか。
弦ちゃんは普段からきちんとした過ごし方をされ、体も丈夫だと思いますが、気をつけすぎるということもありませんので、くれぐれもご自愛なさってくださいませ。

 …………

全国大会出場、優勝、というのが最大の栄誉であると存じておりましたが、さらにその上があるのですね。日本中学選抜選手の指名、たいへんおめでとうございます。
蓮ちゃんからは、全国大会はやはり学校単位の評価になるけれども、選抜は個人単位での評価で選定がされる、とお伺いしております。そして、そのような基準であるのは、将来プロになる可能性の高い方を指名しての強化合宿であるから、であるとも。
弦ちゃんが確実にプロへの道を進んでいるのを、今回、とても重く実感し、同時に、その道を歩ける弦ちゃんを尊敬し、また感動しております。出会った頃から貴方のことを凄い人だと思っておりましたが、今でも、今までも、その思いが揺らいだことはございません。

頑張ってください、と、ありきたりな言葉しかお贈りできないのを、とてももどかしく思います。選抜選手に選ばれたというお手紙を頂いた日は、どうにも興奮冷めやらず、すぐに天神様にお参り申しました。
この参拝で、今度の百度参りは三十四回目となります。私が足を運べば力になるというのなら、二百度でも三百度でも参拝いたしますが、そういうわけでもございませんので、やはりもどかしい気持ちが強うございます。


 …………

私は相変わらず、お座敷とお稽古、時々お舞台に明け暮れております。
景吾はんがお手伝いしてくださるようになってからは、お座敷よりもお舞台のほうがぐんと増えました。
お座敷で舞い、お客様とお喋りをするより、大きな舞台で舞うほうが私も好きなのでそれは良いのですが、パーティーをやるので余興に来いといきなり呼びつけられ、ジェット機に乗せられることも少なくありません。
お仕事をたくさんくださるのはとてもありがたいのですが、ぎちぎちに予定を詰め込んでいらっしゃるので、参ってしまいます。拒否を示すとこのくらいのことも出来ないのかと言われて結局受けてしまうのも、まんまと乗せられているようで悔しゅうございます。
こんな調子ですので、景吾はんの話をしようとすると、愚痴ばかりになってしまいます。申し訳ありません。
弦ちゃんは私の生活を多忙だとおっしゃいましたが、あの方と比べればどうということもないのだと思います。私はただ忙しいというだけですが、あの方はもう何をどうやってあれだけのことをこなしているのか、もうわけがわかりませんもの。

 …………


 …………

景吾はん、そして蓮ちゃんも、選抜合宿に招集されておられるのですよね?
お互いに鎬を削り、より良い経験が出来ますよう。せぇちゃんのお兄様が欠席というのは残念ですが、病気は早めに見つけてやっつけておくのが最良と思います。なにごともないのが一番ですが、早く不調がわかってよろしゅうございました。

 …………

ジュニア選抜強化合宿、いってらっしゃいませ。
あんじょう、お気張りやす。

紅梅 





「では、今日の練習は以上! 解散!」

 コーチの指示に、ありがとうございましたァー!! と、疲労の果て、やけくそのように絞り出した大声が響く。
 暦は、すっかり秋。練習がやっと終わった今、陽が長くなったはずの空は、ほとんど紺色に近い紫色になろうとしていた。

 ──正式名称、日本中学選抜強化合宿。通称、ジュニア選抜強化合宿。

 秋に行われるそれは、大日本テニス協会が主催する、夏の全国大会での成績、各地方ブロック秋季大会などから、大日本テニス協会の選考委員会が独自に推薦したメンバーによる強化合宿である。
 規模・設備などの点で高校選抜ほどではないが、少数精鋭となるため必然的にレベルは高い。合宿終盤ではトーナメントが行われ、上位者はプロ推薦・スカウトの対象になる外、上位メンバーで団体チームが組まれ、要請があれば海外の中学生チームと親善試合を行ったりもする。
 日本ジュニアテニスの世界でまず全員が目指すのはやはり全国大会、またその優勝ではあるが、全国大会はどうしても学校単位の評価となる。しかし選抜はその先、大日本テニス協会による個人単位での評価を得、声がかからねば、参加すら出来ない。

 つまりジュニア選抜強化合とは、本気で将来プロを目指す選手にとって、まず通らなければならない第一の登竜門なのだ。
 よって全国大会出場経験ありという経歴よりも、ジュニア選抜選定選手という肩書きの方が、ぐんとレベルが高く、またプロ志望であると示すものとなるのである。



「はあー、今日もきっつ!」

 大浴場での入浴を済まし、橙色の髪を拭きつつベッドに倒れこんで言うのは、千石清純。東京にある、堅実なダブルスが有名なテニスの名門校・私立山吹中学校の選手である。
 山吹といえばダブルス、ダブルスといえば山吹と誰もが思っていた中、根っからのシングルス選手として、しかもかなりの実力者として頭角を現してきたのが、彼であった。

「千石、無駄に揺らすな。埃が立つ」
 清純の隣のベッドの弦一郎が、低い声で言った。
「あ、ごめん」
「勘弁しろよ。ただでさえ狭いんだからな」
 こちらは、二段ベッドがどこまでも似合わない景吾である。
 強制的な部屋割りにより、弦一郎、景吾、清純、そして蓮二の四人は、合宿の間、こうして同室で過ごすことになっていた。

「あと、風呂の後は水分を採れ。冷蔵庫の中にスポーツドリンクがあるはずだ」
「テメエ、初日に熱中症で倒れたのをもう忘れたか、アーン?」
「……君たち、言うこと厳しいようで割に親切だよねえ」
 どうもありがとね、と言いつつ、清純は部屋に備え付けの冷蔵庫から、よく冷えたスポーツドリンクのボトルを引っ張り出し、一気に半分ほど飲んだ。
 弦一郎と景吾はその様をちらりと見てから、今日の練習試合の全スコアを記したプリントに目線を戻した。

「ふむ。千石は随分と好調のようだな」
 感心したように言うのは、二段ベッドの、清純の上の段にいる蓮二である。
「へっへー、でしょ! ラッキーだけじゃないのよ、俺は」
 にっかりと笑う清純のテニスにおける渾名は、“ラッキー千石”である。
 まるでふざけたリングネームのようなその名のとおり、彼は非常に運が強い。今まで一度もトスを外した事はない、というのがその強運の代表格であるが、その他にも、奇跡としか言いようのない幸運が多く舞い込む。
 それゆえ、ラッキー千石という名には周りからの妬みも存分に込められているのだが、本人はこの調子で、へらへらと明るく笑っているだけだ。

「そのようだ。まあ、山吹は元々、基本に忠実で堅実な選手を作るメニューを徹底的にこなさせる学校だからな。千石はその点で、かなり手堅い土台ができている」
「……ま、それは否定しないよ。でもウチはやっぱり伝統もあってダブルス選手を中心に育てる感じがあるから、シングルス特化の練習ってあんまりしないんだよね。だからこの合宿、しんどいけどかなり新鮮でさ。これで女の子の応援があれば完璧なんだけどね!」
「なるほど」
 と言いつつ、蓮二は手にしたノートに素早くさらさらとなにか書き付けた。
「そうだな。練習を見ていても、お前が今までいかに基礎練習を徹底してきたのかは、嫌でもわかる。その上で行うシングルス特化メニューは、お前の実力を飛躍的に伸ばすだろうな」
「へへへ、そう思う?」
「そしてだからこそ、お前の幸運とやらが単なる偶然なのか、何千回何万回と同じことをしてもぶれない基礎ができているのだということなのか、自ずと分かるというものだが」
「……うーん、褒めてもらえるのは嬉しいけど、買いかぶり過ぎじゃないかな?」
「さて、どうかな」
 蓮二の、伸びかけたまま切っていない前髪の隙間から、うっすら開いた目元が除く。にやりと笑うその表情に、清純はひくりと引きつった。

「おお怖。うちはデータマンタイプがいないから知らなかったけど、データマンって怖いねえ。なんもかんも暴かれちゃいそう」
 キャーヤダー、と清純は自分自身を抱きしめるような、ふざけたリアクションを取った。

 だがその道化じみた態度に、蓮二や景吾はもちろん、弦一郎ですら、不敵な笑みをこぼすだけだ。

 最初こそ、このキャラクターや女好きを公言する態度から、なぜこんな奴が、と弦一郎も思っていた。しかし試合をしてみれば、まるで真逆の印象のテニスをするのが、千石清純なのである。
 合宿の最初の頃に彼のテニスと戦い、決して楽ではない勝ちを得た弦一郎は、彼を侮るのを一切やめている。

 地道な努力で培われた基礎力に支えられた、堅実なテニス。まるで、何十年も基礎工事をして建てた城のごとく頑強なスタイルは、本人の派手な容姿からは想像もつかないほど手堅い。基礎がしっかりしているからこそ小手先が通用せず、そして頑強な基礎を前提に繰り出される巧妙な技術は、絶大な効果を生み出す。
 また、数々の効果的なショットを“ラッキー”と真っ先にへらへらと評価するのが彼自身だということも、データマン・柳蓮二は既に気づいていた。本人がそうすることで、単なる幸運、実力ではないと、誰もが彼を侮る。そして妬み嫉み、時に侮蔑も込めて、彼を“ラッキー千石”と呼ぶ。何が起こっても、偶然だと思い続ける。
 だからこそ、その絶妙な技の数々が、彼が故意に起こしたことであると、誰も思わない。よしんば本当に偶然の幸運だったとしても、その幸運が生きるのは、これ以上ないほど頑強な、コツコツと積み重ねられた基礎があるからだということまで、考えが至らないのだ。

 今回彼がこの合宿に参加しているのも、精市や国光が辞退したがゆえの繰り上げ、いつもの“ラッキー”だと思っている者は多い。しかし実際は、最初から彼の参加は決まっていたのだ。
 誰もそう思ってはいないし、本人もにこにことするばかりで何も言わないが。

 ──とんだ曲者!

 と、同室になった三人は、千石清純をそう評価していた。




 四人はしばらくスコア表を見ながら、今日の練習についての反省会のようなことをした。
 話しづらいので、上の段の景吾と蓮二は下に降りてきて、下の段の者のベッドに並んで腰掛けながら、ああでもない、こうでもないと言い合う。
「……こんなものか。消灯時間までまだ少し時間があるが──」
「こらこら、筋トレもロードワークもダメだよー。こないだオーバーワークだってコーチに怒られたばっかじゃん」
 そわそわと外に出るドアを見た弦一郎に、清純がにこやかに言った。

「むう……しかしだな……」
「気持ちはわからなくもないけどー、せっかくプロのトレーナーがメニュー組み立ててるんだから、この合宿の間は我慢我慢」
「……そうだな」
 素直に清純の言うことを聞いて座り直した弦一郎に、蓮二は、ほう、と小さく感心した。

 清純は、非常に社交的な性格だ。さらにそれに見合う優れたコミュニケーション能力があり、加えてかなり太い肝の持ち主でもあった。
 彼のテニスの印象から、単なる軽薄な男ではない、ということはすぐにわかる。そしてそれを意識して彼を見れば、その剽軽さが決して他人を不快にしないよう配慮のされたものだ、ということにも気づく。よく喋るので騒がしいように思えば、妙に要を心得た要領の良い話運びは、実際に聞いてみると、テンポの良いラジオでも聞いているかのように軽妙なのだ。
 こうして同室になった際、多くの者がまず怯む容姿と雰囲気の持ち主である上、三強のうちの一人、皇帝という二つ名が既に定着しつつある弦一郎に、「千石清純でっす! ヨロシクね!」などと言いつつ、星が飛びそうなウインクをぶちかましたのは、後にも先にも清純ぐらいのものだろう。
 ちなみにその時、弦一郎はあまりに突き抜けて明るいその挨拶に呆気に取られてぽかんとし、蓮二はそんな弦一郎を見て、思い切り噴出していた。
 テニスでやり合い認め合った上、そんなファーストコンタクトだったせいか、弦一郎が抱きがちな“お固い”心理的な壁は、清純によって完全に壊されている。おかげで、今まで決して合わないタイプの人間だろうと思っていたのに、清純に対して弦一郎が抱く印象は、悪くないどころかかなり好ましい方に傾いている。
 いっそ、新しいタイプの知り合いが出来たな、と新鮮な気持ちですらあるほどだ。

「まあ、暇なのは確かだけどさ。さすがに寝るには早いし」
 時計は、まだ八時を回ったところである。
「そうだな。トランプぐらいなら備え付けてあったと思うが」
 確か引き出しに──と蓮二が言うと、清純は、チッチッチ、とわざとらしく指を振った。
「やだなあ柳君! こういう時は猥談か恋バナってのがセオリーだろ!」
「猥っ……たるんどる!」
 予想通り、弦一郎が吠えた。そのばかでかい声に景吾が頭痛を堪えるように顔を顰め、「うるっせえよ真田!」と負けじと怒鳴った。

「あ、えっちいのはダメ系?」
「当たり前だ!」
「そっかー。じゃあ恋バナね。ピュアーなやつ。真面目な話」
「む、むう」

 上手いな、と蓮二は密かに感心した。最初に必ず断るだろう提案をして、それよりはマシだと判断されるであろう代替え案を了承させる。セールスなどでよく用いられる話術である。──清純が狙ってやっているのか、素でやっているのかはわからないが。

「つーか、君らモテるっしょ? 話聞かせてよ」

 参考にするから! と、女好きを公言する清純は、緑の目がきらきらとしていた。

「跡部君とか凄いじゃん。ファンクラブまであるんでしょ?」
「まあ、雌猫共は多いがな」
「雌猫」
 すんげえ、と、清純は、呆れ半分、憧れ半分といった様子で言った。弦一郎は完全に呆れた様子で半目になっているが、蓮二は、ふむ、と頷いた。
「跡部のファンクラブの女生徒たちも、自分たちのことを雌猫というそうだぞ」
「えっ、自称してんの?」
 蓮二の補足に、清純は、目を丸くした。
「特定のロックスターなどのファンのことを、固有名詞で呼ぶことがあるだろう?」
「あー、レディー・ガガのファンが“Little Monster”とかだったり、及川光博がファンのことベイベちゃんて言ったり? そういうの?」
「それだ。少なくとも、彼女たちはそう思っているようだな。そのため、跡部が彼女らに“雌猫共!”と言ったとしても、子猫ちゃんたちめ、ぐらいのノリで捉えられて歓声が起こっているようだ」
「すげえなにそれ」
 清純は、驚くのを通り越してもはや真顔である。いっそ景吾がアイドルとして活動でもしていようものなら多少納得できなくもないが、そんなこともないのだ。ないのに、この有り様なのである。
 だからといって氷帝内に限った人気ということでもなく、『跡部様ファンクラブ』の会員は、東京中どころか全国に存在し、しかも女生徒に限らないのだという。
 発足当初こそ同年代の女生徒らばかりだったが、彼女の姉妹や母親がその存在を知り、更には男子生徒らもそのカリスマをリスペクトするようになってからというもの、女性ファンほどではないが、男性ファンも一定数存在しているらしい。

「まあ、俺様を称えることを止めはしねえよ」

 こんな台詞を素で言える人間が、世界にどれだけいるだろうか、という台詞をさらりとのたまいつつ、景吾は薄茶色の髪を掻きあげた。
「おー……。世界が違いすぎて何一つ参考にならないのが残念なんだけど、で、そんな跡部君の恋バナは?」
「ねえな。今のところ」
「えーホントに?」
「残念ながらな」
 にやり、と微笑みながら景吾が言う。ふはー、と清純がため息をついた。
「やばいね。跡部君やばい。イケメンすぎてやばい」
「ハッ。何を今更」
「うん。これ以上話してると俺もファンクラブに入っちゃいそうだから、跡部君のターンここまでね」
 景吾を持ち上げつつも、清純は、うまい具合に話題を転換した。

「じゃ、柳君は? 最近は草食系男子がモテるよね!」
「いまナチュラルに草食系に分類されたことについて若干気にかかるが、残念ながら、俺もそういった話はないな」
 いつもどおりの淡々とした口調で、蓮二は答えた。
「ええ〜」
「そう残念そうな声を出されても、ないものはない」
 唇を尖らせる清純に、蓮二は苦笑して肩をすくめる。

「だが、まあ、真面目な恋の話ということであれば、うってつけが」
「えっなに? なになに? 誰の話?」

 今までにない煌めきを讃えた目でわくわくと身を乗り出してきた清純に、蓮二はにやりと笑う。
 そして、今までずっとむっつりと黙りこくり、どこか隠れるように三人から少し身を離そうとしていた弦一郎に、はっきりと目を向けた。
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BY 餡子郎
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