心に私なき時は疑うことなし
(七)
「遅い」
赤い顔でふらふらと部活にやってきた弦一郎を出迎えた蓮二は、開口一番そう言った。
「あ、え、いや、遅刻はしていないはずだが……?」
「そういう意味ではない。自覚するのが遅いと言っている」
「自覚……?」
「自分が誰をどれだけ好いているか、やっとわかったか」
「な、」
見ていたのでは、どころか、心を覗かれていたのではないかとありえないことを思うほど的確な言葉に、弦一郎は絶句し、陸にあげられた魚のように口をぱくぱくとさせた。
「何年かかった? 六年か」
「なっ……な……」
「お前、昨日今日、今の気持ちが芽生えたわけではないだろう? よく考えてみろ。ただ少し好ましいなと思っただけの女の子に、人間国宝の楽屋に忍び込んでまで文通の申し出をするのか、お前は? しかも、ややこしい家の事情もあるのに。更にはそれを六年続けている」
そう言われ、目から鱗が落ちたような顔をした弦一郎に、蓮二は「ここまで自覚の遅い一目惚れとは、恐れ入る」と、呆れたようなため息をついた。
「更に言えば、お前のやっているのは、傍から見れば織姫と彦星で、ついでに言えばロミオとジュリエットだ。情熱的なことだな」
一年に一度しか会えない、お互いの家が反発している間柄というポイントからすれば、確かにそうである。
「そ、そそそんな、ことは」
「ちなみにロミオとジュリエットは十六歳と十四歳で、ちょうどお前たちくらいだから、そのものだろう?」
その辺り、さしずめ俺はロレンス神父といったところだな、と蓮二は割とノリの良い調子で言った。
「だがまあ、良かったな。そこまで好きな相手と両思いで」
「りょうおもい」
舌がよく回っていないようなへろへろした声で復唱した弦一郎は、一拍遅れて、がっ、と擬音がつくような勢いで赤面した。
その様に、ぶは、と蓮二が噴出する。
「りょ、りょうおも、りょ、」
「両思いだろう? お梅もお前のことが相当好きだぞ。はっきり言われたことは?」
「あ、……る」
弦一郎は、自分に「好き」と言った彼女の顔と声を思い出して、頷いた。もう卒倒しそうだった。
「なら、両思いだろう、明らかに」
──その言葉に、弦一郎は本当にぶっ倒れた。
秋の足音が聞こえてくる中、蓮二はそれを熱中症として片付けた。
赤也が「真夏じゃなくても熱中症ってなるんスねえ」と言いつつ、初めて見る、目を回してうんうん唸り、ベンチに横たわる弦一郎をつついている。
「そうだな、眩しすぎたんだろう」
「今日、曇りッスけど」
赤也は、天を見上げて、怪訝な顔をした。蓮二は素知らぬ顔である。
「……ああ、しまった。仕事が増えた。精市が戻ってきてからにすればよかった。秋の選抜の話もせねばならんのに」
大阪から戻ってきてからというもの、精市は向こうで悪質な風邪をもらってきてしまったようで、しばらく学校を休んでいる。発熱があり、成長痛も相まって関節や筋肉が痛むため、大事を取って厳重に休養しているのだ。
部長が休めば副部長の弦一郎が仕事をこなすことになるわけで、そして副部長が倒れたとなれば、二人の仕事を引き継ぐのは、当然、三強の一人であり、実質二人の補佐で会計役職の蓮二である。
「は? 柳先輩が副部長熱中症にさせたんスか?」
「いや完全なる弦一郎の自業自得だが、せっかく自覚したなら、早めに畳み掛けておいたほうがいいと思ってな」
「はあ……?」
わけがわからない、という様子で首をひねる赤也に、蓮二は穏やかに笑った。
──己は、彼女に、恋をしている。
と、弦一郎は自覚した。蓮二の言う通り、六年目にして。
また、自覚した途端に、自分の今までの様々な気持ちに、すとんと折り合いがついた。納得した、ともいえる。
六年前のあの日、どうしても彼女との縁を無くしたくないと紅椿の楽屋にまで忍び込んだ行動力は、幼かったがゆえの、剥き出しの執着が成したものだった。それが初恋だったということは、当時から今まで、まるで気づいていなかったが。
だんだん上手くなる手紙に感心すると同時に、自分も恥ずかしくないようにと書道を習い始めたのも、会う一年ごとに彼女が美しくなるのをうっとりと眺め、古都の景色や国宝の美しさと同等に並べて讃えたたのも、恋心あってのことだったと、今ならわかる。
景吾が紅梅のことを色々話す度にむかむかしたのが悋気だということにも、気付いた。生まれて初めて抱いた感情だったので、よくわからなかったのだ。弦一郎は自分が一人で勝手に悋気を起こして拗ねていたということを改めて認め、反省した。
今では跡部景吾という人物の人柄も、そして紅梅が自分に持ってくれている想いも理解しているので、前ほどむかむかすることはない。──それでもどうしても、少しだけ、気に入らないが。
そして弦一郎は、彼女も自分を好いてくれているという事実に、まるで身体が浮き上がっていくような、ふわふわとした高揚を感じた。
自分が彼女に抱くこの気持ちを、彼女も自分に抱いている。両思いだと、蓮二は言った。
双方、同じ思いを抱いている。お互いに恋をしているということの親密さに、距離などまるで関係ないのだと、弦一郎は理解した。自分の心には彼女が住んでいて、彼女の心にも、おそらく自分が住んでいる。心を交わすのに、距離や、会える時間の少なさなど全く問題では無いのだと、弦一郎は実感したのだ。
そしてそれが、どんなに稀有で幸福なことかということも。
小さな黒い守り袋が、ずっしりと重いものに感じられる。
ここに彼女の百度の祈りが詰まっていると思えば、それは弦一郎にとって、天満宮のご利益よりも重大だった。そして、自分の手を握ってご利益を願い祈ってくれた時の白く柔らかい手、すぐそこまで近づいた長い睫毛、何より自分のために裸足になった華奢な足を思い出すと、弦一郎は心臓を掴まれるような心地がすると同時に、何にでも勝てるような気がしてくるのだ。
手紙の頻度は、文通を始めた頃のように多くなっている。
少し前には書くことがないので返事に困るなどと思っていたのが嘘のように、長い手紙を書く。何を多く伝えたというわけでもないのに、自然に長くなるのだ。彼女の手紙も、同じように長い。
便箋やインクがすぐなくなるので、例の店に買いに行った。やや久しぶりに現れた弦一郎を店主は歓迎してくれ、美しい色のインク瓶を並べてくれる。
色とりどりの、ガラスの屈折反射を受けて光る染料インクが、ひどく美しいものに思えた。
それだけではない。夏から秋に変わろうとする木々の色、高くなっていく空、薫る風、食卓に上がる季節の料理が、とても風流で美しいものに感じた。それだけでなく、日常だったはずのテニスコートに映える黄色の軌跡、図書室の紙の匂いや、庭で翻る洗濯物のシーツにさえ、美しさを感じる。
彼女が住まわった心はとても敏感になっていて、すべてのものがきらきらして見えるのだ。
すべての煌めきの中心は、彼女だった。
天を仰ぐようにして、眩しいものに膝をつくようにして、弦一郎は、恋をしていた。
全国大会が終われば、立海大付属では文化祭に相当する海原祭が開催される。テニス部は、演劇と模擬店で参加した。クラスの出し物もあるため、随分と慌ただしい数日間であった。
更にその後は沖縄への修学旅行、続いて国際色豊かな教育環境をアピールする立海大付属ならではの海外研修ツアーで、弦一郎は、初めて海外に足を運んだ。弦一郎が選んだ行き先は、精市と蓮二と同じく、中国。
万里の長城などの文化的な史跡を中心に見学する傍ら、弦一郎は、自由時間で見て回った雑多な店の中から、美しい小瓶をひとつ、こっそりと購入した。
彼女に何か贈り物をしたい、とは、元々思っていた。
なぜなら、京都で会った時に借りた手拭いを返さぬまま持って帰ってきてしまったからだ。
その手拭いは売り物ではなく、紅梅が、というか『花さと』が発注して作ったものだった。力士が自分のオリジナルの浴衣を作って谷町に配るようなもので、芸妓や舞妓は扇子や団扇、手拭いなど、自分の名が入った小物を作って贔屓に渡したりするらしい。紅梅はまだ見習いだが、色々あって名前が売れており、ファンクラブ、後援会まであるので、会員へのプレゼントとして、特別に作ったそうだ。
広げて見てみると、確かにそれらしく、梅の枝の染め抜きの根本の所に、ひっそりと彼女の名前と、『花さと』の屋号が入っている。
しかし弦一郎は、約九十センチの長さの端から伸びた梅枝の反対側に、小さく刺繍がしてあるのに気付いた。半円の形で、白地に白糸で刺繍してあるのでわかりにくかったが、明らかに、あとから意図的にされたものである。
当初は彼女も「どうせ配り物の手拭いなので気にせず貰ってほしい」と言っていたのだが、弦一郎が刺繍のことを言及すると、途端に返せと言ってきた。何度も洗濯したのが明らかな吸水性の良さから配り物としてはおかしいなとは思っていたのだが、どうも彼女の私物であったようだ。
されていた刺繍は、月。半月だった。
半月は、輝いている半円部分を弓の形になぞらえ、弓張月──、弦月、と呼ぶこともある。手拭いを広げると、下から伸び上がった枝に咲いた梅の花が、遠い弦の月を仰いでいるような図柄になる。
この弦月が何を示しているのかぐらい、六年間の気持ちに気づいた弦一郎にはすぐに理解できた。
紅梅は何度か返せと言ってきたが、弦一郎は返さなかった。
天女の羽衣ならぬ舞妓の手拭いは、洗ってしまうと当初の彼女の香りは消えてしまったが、梅の花に仰がれる弦月の図柄を見ていると、自然笑みが浮かんでくる。──にやにやとした笑みが。
ともかくそういうわけで、その代わりとして、彼女に何か贈り物を、と思っていたのである。
弦一郎が中国で見つけたそれは、鼻煙壺、snuff bottleともいわれるもので、本来嗅ぎ煙草や練り香水を入れるための小瓶である。
清の時代では大ブームが起こったこともあり、かつては北京の宮廷内に鼻煙壺を専門に作る工房があり、そこで作り出されるものは『皇帝の鼻煙壺』とも呼ばれ、主に家臣への褒美、寵姫への贈り物、外交時の手土産などに使われたこともある。
その頃を極盛期として、実用性よりも芸術性を求めた工芸品になって今に至るというものだ。
店内には、陶製のものや硝子製のもの、金属製、玉や瑪瑙等の貴石、象牙を彫り込んだものなど様々な種類があり、どれも華やかで、値段も目玉が飛び出るようなものから手頃なものまで様々だったが、弦一郎が選んだのは、透明の硝子瓶に絵付けがしてあるものだった。
絵柄は、風に靡く衣を纏った中国風の古い美人の姿と、梅の枝の柄。日本では花というと桜を指すことが多いが、中国では梅とするのが普通で、絵柄としては王道のモチーフだ。値段も、学生が購入するものとしていきすぎない範囲である。
しかし弦一郎は、この品が殊の外気に入った。なぜなら、よく見ると白い蛇が美人の足元に描いてあることから、これが単なる美人画ではなく、『白蛇伝』の白娘子であること、更には、その非常に細かい絵付けが、普通に瓶の外側からしたものではないということに気づいたからである。
つまり、ピンセットで部品をひとつずつ組み立てて瓶の中に船の模型を作るボトルシップと同じようにして、細い筆を口から差し入れ、内側から絵付けをしているのだ。子供の手にも握り込めるような小瓶でそれをやるという繊細さに弦一郎は感心し、そしてこの大きさなら、割れぬように包んでも余裕で封筒に入る、と思った瞬間、あっという間に購入を決めてしまった。
さらに、希望すれば名前も入れられるというので、弦一郎は、華やかな枝ぶりの梅の隙間に、小さく“紅梅”と入れて貰った。
弦一郎は帰国してから小瓶を厳重に緩衝材に包み、いつもの封筒に入れて、土産話を書いた手紙とともに、彼女に送った。
初めての贈り物を、紅梅はとても喜んでくれた。
小瓶の歴史や由来を知っていたのか調べたのか、「親愛なる皇帝陛下におかれましては素敵な贈り物を賜り存外の喜びでございます」と、芝居がかって恭しい礼が述べられていたのにも、ついにやけた笑みが浮かんだ。
弦一郎は、彼女と時々やる、このような、ごっこ遊びにも似たやりとりが割と好きである。
それは、傍から見れば所謂、バカップル、と呼ばれるようなやりとりであることを、彼は知らない。
「残念ながら、ドクターストップだそうだ」
残念そうに、蓮二は報告した。
何がかといえば、精市の、秋のジュニア選抜合宿参加である。数年前から催されているそれは、主に全国大会で活躍を見せた選手へ、学生テニスの全てを取りまとめている大日本テニス協会から声がかかり、所属している学校関係なしに行う強化合宿だ。
概要を聞くだけでもかなり実りあるものになるのが確実な合宿であるが、定められた参加人数はかなり少ない。目安として、全国大会でベスト16以内に入っており、中でも目覚ましい活躍や才能を見せた者に声が掛かると言われている。
そのため、各校一人でも声がかかれば大抜擢、二人ならばかなりのものだ。そこのところ、立海大付属は“三強”全員、つまり精市、弦一郎、蓮二の三人に声がかかり、これは今までも例のないことだった。優勝校だということを差し引いても、である。
しかし精市は、大阪で移されてしまった風邪が悪質に長引き、学校も来たり休んだりを繰り返している。症状自体はそこまで重くないし、学校に来た時は元気なのでさほど心配するような様子ではないのだが、あまりに長引くので一度きちんと検査をするべき、と主治医が主張したのである。
大事な選抜合宿に参加できなくなることについて精市も随分ごねたが、神の子とまで呼ばれる精市の才能を知っているからこそ、早めに原因を突き止め、完璧に治した方が良い、と真剣に言われれば、返す言葉は見当たらなかった。
「……そうか。残念だ」
弦一郎もまた、難しい顔をしてそう言った。せっかくの選抜合宿、より強い者ばかりを集めたそれに、最大のライバルである精市がいないというのは、やはり物足りなく感じる。
「しかも、情報によると、手塚も辞退だそうだ」
「何ィ!?」
弦一郎は、大声を上げた。
三強が三人まとめて指名されたのも前例のない事だが、全国大会に出場すら出来なかった青春学園に属する国光に声がかかったのも、初めてのことである。
それほど彼が際立っていたということ、全国大会に彼が出場できなかったことをお偉方も非常に惜しく思っていたのが明らかな大抜擢だった。
「なぜ……何故だ!? 選抜だぞ!?」
「理由についてはまだわからない。だが正式に辞退の届け出が出ているのは確かだ」
蓮二の言う情報に間違いがないことをとくと知っている弦一郎は、今度こそ絶句した。
「もしかしたら、新人戦の時のように、また海外の大会に出場するのかもしれないな。あちらは秋に大きな大会があることも多い」
「日本など眼中にない、ということか。……くっ」
弦一郎は、悔しげに歯を食いしばり、絞り出すような声で言った。
「俺としても、今期のジュニアテニスの至宝とまで言われている彼のデータが手に入らないのは非常に惜しいが……。引き続き、情報は集めてみよう」
「ああ……頼む」
「わかった。……ところで、来週の日曜はどうする?」
暗い話題を打ち消すようにして、蓮二が言った。
全国大会以降、海原祭、修学旅行、海外研修。そしていつもどおりのハードな部活と、充実しつつも慌ただしい日々が続いているが、ふと、休息日のように、何の予定もない久々の日曜日が、来週あるのだ。
「ああ、剣道の段位認定の試験を受けることになってな」
「……そういえば、初段だったか。お前の腕前からすると意外だが」
「何の。妥当だ」
弦一郎は、謙遜というよりは厳しすぎる様子で言った。
ただ無為にだらだらと寝て過ごすのが苦痛な弦一郎に、剣道の段位検定試験を受けてはどうだ、と提案したのは、義姉であり、姉弟子で、すっかり真田剣術道場の代表師範である由利だった。
弦一郎は中学一年生の、十三歳になってすぐに初段になってから、段位認定を受けていない。元々、弦一郎は段位を取るために剣道をやっているのではなく、精神統一やテニスへの応用、またライフワークの一環で行っているので、テニスや勉強が忙しい日々の中、後回しになっていたのだった。
だが蓮二の言う通り、道場の誰に聞いても弦一郎は初段以上の腕前であるし、居合においても、真剣を使った稽古も行っている。
そのため、この機会にきちんと段位認定を受けてはどうか、という義姉の提案は、まさにちょうどいいタイミングだった。
「そうか。もし予定がないのなら、映画でもどうかと思ったのだが」
「すまんな。また今度誘ってくれ」
「わかった。では、頑張ってこい」
「ありがとう」
──そして、日曜日。
試験を受けるのは弦一郎だけでなく、というより、元々真田剣術道場に通う者たちの段位試験に、弦一郎が混ざった形である。
引率として、道場主である弦右衛門、そして年少門下生を担当している由利が同行した。
会場は、少し電車を乗り継いで、県境を超えて東京にある、体育施設。剣道場や柔道場、弓道場などもあるので、こういった武道の段位試験では定番の会場である。
剣道以外にも柔道や空手、薙刀、弓道などの段位試験も同事に行われているようで、ぱっと見同じようでいて微妙に異なる道着を着た老若男女が、多くやってきていた。
居合藩士であり、この世界では有名人な弦右衛門はいろいろな人に声をかけられ、その度、弦一郎も孫として挨拶したり、初対面であれば紹介されたりする。
予約の確認と申し込みを済ませ、時間まで待つ。
どうせ手持ち無沙汰であるからと、弦一郎は小学生の門下生らをまとめる義姉を手伝いながら、呼ばれるのを待っていた──その時だった。
視界に入ったその姿に、弦一郎は目を見開いた。
眼鏡をかけているというだけで、参加者でないのは明らか。道義姿の者ばかりの中、シンプルなポロシャツとズボンを履いたその姿は、逆に目立つ。
外側のあっちこっちに跳ねた、濃茶の髪。まさかこんなところで見かけるとはまったく思っていなかったので、本当に本人だろうかと、弦一郎はまじまじと彼を見た。
しかし何度見ても、やはり彼である。
「て、」
「──手塚ァアア!!」
弦一郎がかけようとした声は、弦右衛門の、咆哮のような声にかき消された。
その声の迫力、そして何より祖父がいきなり彼を──手塚国光を呼んだことに心底驚いて、弦一郎はぽかんと立ち尽くした。
しかし驚いていたのは弦一郎だけではなく、周りの人々も、大銅鑼のような声に度肝を抜かれて一斉に弦右衛門を見ている。そして何より国光本人も、弦一郎と同じような顔をして固まっていた。
「おうおう、真田の! 久しぶりじゃな!」
そしてのしのしと歩いてきたのは、弦右衛門に負けず劣らず鋭い目つきをした、柔道着を着た老人だった。
真っ白になってはいるが豊かな髪を後ろに撫で付け、同じく白く豊かな髭を生やしている。
「門下生らの試験か?」
「うむ、ウチの孫もな。おお、弦一郎は会わせたことがなかったな!」
弦右衛門はいつになく豪快な笑みを浮かべて、弦一郎の背中をばんと叩き、老人の前に進ませた。
「弦一郎! このくそじじいは手塚国一、警察時代の同期じゃ。今でも警察で柔道の指導をしておる」
「なんと、くそじじいにくそじじいと言われるとは思わなんだ。ははあ、これは見事に貴様んとこの顔じゃなあ」
「フハハ。いけめんじゃろ。儂に似て」
喧嘩を売り合っているのか談笑しているのかわからぬ遣り取りをする老人たちを前に、弦一郎は呆然とするしか出来ない。
「惚けたことを抜かしよる。いやしかし、確かに、貴様の孫にしてはいい目をしておるな。しかしウチの孫も負けてはおらんぞ! 国光!!」
国一が怒鳴るようにして呼ぶと、彼は弦一郎を見ながら前に出てきた。弦一郎も、彼を見ている。
「……手塚」
「……真田。……奇遇、だな」
「……そのようだ」
未だやや呆けながら言葉を交わす孫たちに、老人二人は、「何じゃ知り合いか!」「世間は狭いのう!」などと言い合い、何が面白いのかまたげらげら笑っていた。