心に私なき時は疑うことなし
(六)
弦一郎さま

準決勝の勝利、おめでとうございます!
とても、すごく、格好良かったです。ずっとどきどきして見ていました。一緒に来た知人が、圧倒的だ、と申しておりました。私もそう思います。
すごすぎて、稚拙な言葉しか出て参りません。もどかしいです。でも、とにかく、おめでとうございます。

明日の決勝戦は、ラジオを拝聴いたします。応援しています。がんばってください。蓮ちゃんにも、よろしくお伝え下さいませ。

紅梅
弦一郎さま

全国大会優勝、おめでとうございます!
先日は興奮しすぎて、みっともないお手紙を残しまして、申し訳ありませんでした。本当はもっと色々気の利いたことを言いたかったのですが、言葉が何も出てきませんでした。
決勝戦は、芙蓉お姐はんと一緒に、ラジオ中継を拝聴いたしました。実況や解説の方が、準決勝の四天宝寺戦よりも危なげのない試合だと仰っておられましたが、実際いかがだったでしょうか。
四天宝寺戦も、最後のS1まで行かずに勝っておられたので、ということは、相当お強いということなのでしょうか。すごいです。

 …………

ラジオ解説者の方が、弦一郎様に『皇帝』という異名をお付けになられておりましたね。観客席で皇帝コールが起こっていたようなので、ご存知かと思います。私も芙蓉姐はんと、歌舞練場の隅でこっそり皇帝コールをしました。
スポーツ界では、その世界で一流の、圧倒的かつ安定した実力でもって君臨する選手につけられる、王道の二つ名だそうですね。せぇちゃんのお兄様は『神の子』と呼ばれておられるそうですが、弦ちゃんの『皇帝』も、とても格好いいと思いますし、ぴったりです。実際の試合を見た後だと、殊更そう思います。

 …………

これからも、皇帝殿のご活躍を応援しております。

紅梅





 立海大附属中学は、二年連続で、全国大会を制覇した。
 しかも、準決勝では先に三勝を収め、最後のS1まで回らずに勝利したほどである。そのため精市の出番はなく、その姿が紅梅に見られることもなかった。
 ただ、四天宝寺のS1であり、精市と同じように二年生で部長になった、新人戦で『聖書』とまで言われた隙のないテニスをするという白石蔵ノ介のデータが取れなかったのを、蓮二が少し残念がっていた。──それほど余裕があった、ということでもあるが。

 そして決勝で戦った、兵庫の、牧ノ藤学院。こちらは三強ルーキーを得た立海大付属が台頭するまで、王者として君臨していた学校である。去年の全国大会の決勝も、立海と牧ノ藤であった。
 牧ノ藤は、長らく王者として君臨し、そして去年も今年も決勝まで勝ち残ってきているだけの実力は確かにあるのだが、部長であった平等院鳳凰ら三年生が去年高等部に移ってからというもの、その穴を埋めきれていない印象が強い。今年度はそれを挽回してくるかと思いきや、むしろその逆、とは蓮二の分析である。
 そんな牧ノ藤が相手だったからというわけではないが、立海大付属の強さは、誰から見ても圧倒的だった。

 オーダーは、D2が相変わらずのジャッカルとブン太。そしてD1が、蓮二と雅治。S3が弦一郎、S2が比呂士、S1が大将の精市、というものだった。
 まずD2、ジャッカルとブン太が危なげなく勝利。この二人はすっかりダブルスペアとして認識されているばかりか、現在の中学ジュニアダブルスの最高峰として『プラチナペア』という渾名がもはや定着している。個人としても、ブン太はボレーの天才として、そしてジャッカルは身体能力のあまりの高さが注目されていた。
 次いで、D1。蓮二のデータに基づいて雅治がフェイクとフェイントをこれでもかと繰り出し、対戦相手を負かすというよりは翻弄の極地を尽くし勝利。この時のあまりのゲームメイクの巧みさ、さらに技術力の高さから、二人はそれぞれ『達人マスター』・柳蓮二、『詐欺ペテン師』・仁王雅治、と二つ名がついた。
 さらにS3の弦一郎には、『皇帝』という名が贈られた。スポーツ界では珍しくない二つ名であるが、同時にプロの世界でも安定した実力を持つ重鎮の部類につけられる名でもあるのは、一般人でも認識していることだ。いくら昨今の中学テニスのレベルが高いとはいえ、ジュニアの範囲で『皇帝』など、普通は失笑ものである。
 しかし真田弦一郎には、確かに、『皇帝』の名で呼ばれるのを納得させるだけの実力と、強さと、そしてオーラがあった。
 そうして上手いこと二つ名を付ける、月刊プロテニスからの出向であるという実況解説者のおかげもあってか決勝戦は大いに盛り上がり、弦一郎の試合は『皇帝』のコールまで起こる始末だった。

 そして、準決勝の四天宝寺より更に危なげなく、つまりD2とD1、そして弦一郎がS3をいわゆる三タテで下し、立海は牧ノ藤に勝利。大阪の四天宝寺、兵庫の牧ノ藤と、関西をホームとする強豪を圧倒的な強さで破った立海大付属は、こうして優勝した。
 神の子、幸村精市。皇帝、真田弦一郎。達人、柳蓮二。三強、ビッグスリー。コート上の詐欺師、ボレーの天才、四つの肺を持つ男。そんな異名をまとめて『王者・立海大付属』とし、彼らは頂点に立ったのだった。






 全国大会後、弦一郎は、どこかぼんやりとすることが多くなった。
 どこか遠くをぼうっと見つめて、ため息を吐いたり、と思えば、なんだかそわそわしたり。その様を、誰もが怪訝に、そして蓮二や精市はどこまでも生暖かく見守っている。

 準決勝を観戦しに来た紅梅であるが、時間の隙間を縫うようにして来ていたこともあって、弦一郎とは会うことなく帰ってしまった。
 しかし、ホテルに戻ると見慣れた白い封筒が届けられており、いつになく急いだ、そして興奮が伝わるような字で、準決勝の勝利を祝った手紙が入っていた。切手も消印もない様から、彼女が帰り道にこの手紙を書き、自分でしたか人に頼んだかはわからぬが、直接ホテルに届けたのがわかる。
 弦一郎は、手紙を何度も読み返した。特に、格好良かったです、と書いてあるところを見ると、必ずにやつき、一人で意味なく部屋をうろうろしたり、ベッドに突っ伏したりし、翌日の決勝戦も、ラケットバッグの内ポケットにその手紙を忍ばせて試合に臨んだ。そのことは、さすがに蓮二も知るところではない。──予想はしているだろうが。

 決勝戦後は、速達で二通目が届いた。もちろん、優勝を祝う手紙である。
 皇帝と名付けられたことに関して、弦一郎は元々全く悪い気はしていない。達人と名付けられた蓮二も、機嫌が良さそうだ。男子たるもの、こういう評価が嬉しくない者はそういないだろう。比呂士はたまたまあの実況解説者がいる時に試合をしなかったので二つ名が冠されず、そのことを非常に残念そうにしているのも、よくわかる。ペテン師と呼ばれているのに嬉しそうな雅治のセンスは、弦一郎にはよくわからないが。
 しかしだからこそ、紅梅に「皇帝殿」と手紙の上とはいえ呼ばれたのは、弦一郎を非常に興奮させた。悪くない、全く悪くないぞと、弦一郎は一人でにやにやした。

 王者・立海大付属の、皇帝・真田弦一郎。
 その名を受けたことは、弦一郎に、単純な誇らしさと、今までを認められた安堵と、これからへの自信をもたらした。

 ──俺は榊監督やあいつに恥じないように、王になる。お前はどうだ?
 ──お前は、天衣無縫の隣に立てるだけの男になる気があるのか?


 そして、彼女に恥じない名を受けた、という喜びも、密かにある。

 二通目の、優勝を祝う手紙を受け取った時、弦一郎は、すぐに返事を書いた。
 ああでもないこうでもないと何度も書き直し、少しでも下手な字がないかと気にしながら書いた手紙は、何をたくさん書いたという覚えもないのに、いつになく長いものになった。
 その感覚は、紅梅と文通を始めた頃、夢中で彼女の手紙を読み、彼女の手紙が来た日は他のことを放り出して返事を書いていた頃のようだった。

 ──いや、全く同じ、ではない。
 今までのやりとりは、ひたすらに穏やかで、ゆったりと静かなものだった。
 だというのに、今はとにかく気が逸るのだ。別に急ぐ必要もないのに速達で手紙を出したり、ポストに入れた側から、返事はいつ来るだろうかとそわそわして、浮き立つような気持ちを持て余しながら眠りについたりといったことを、弦一郎は日々繰り返している。
 そして紅梅も、ほとんど三日とおかずに返事をくれる。白い封筒がポストに入っていると、弦一郎は、身体が軽くなる気さえした。
 手紙なので、どうしても、電話で話したりするよりは、かなりスローなやりとりである。しかし手紙だからこそ、こうして大した日も置かずに返事が来るのは彼女もこのやりとりを楽しんでくれているとわかる。そのことも、弦一郎には嬉しかった。

 紅梅からの返事を待つ間、弦一郎は、返事を疎かにしていた頃の彼女からの手紙をじっくり読むことから始まり、時間を遡って、押入れの葛籠に保管している彼女の手紙を読み返した。
 今は風流な文字を流れるように書く紅梅だが、過去に遡ると、その字がだんだん拙くなっていき、言葉遣いも幼くなる。それが面白く、楽しく、そしてきゅうと胸が締め付けられるほどかわいらしく感じた。
 こんな字を書くような小さな頃から、彼女は弦一郎の側にいたのだ。声や顔が思い出せなくとも、彼女の書いた心尽くしの手紙が確かにここにある。それなのに、何が遠いものかと、弦一郎は自分の独り善がりを改めて反省した。これもまた勝手なことだが、自分がもう一人いたら、思い切りぶん殴っているところだ、とさえ思う。

 彼女も、自分が出した手紙を読み返すことがあるだろうか。ああ、過去の自分は妙なことを書いてはいまいかと、弦一郎はどうしようもなく気恥ずかしい気持ちになって、部屋でひとり悶える。
 全国大会終了後、弦一郎は人知れず、こんな日々を送っていた。



「弦一郎」

 残暑厳しいものの、夜になれば虫の声がする頃となった。
 すべての授業が終わった後、教室の窓際でぼんやりとしていた弦一郎は、聞き慣れた声から呼ばれ、はっと顔を上げた。

「あ、ああ、蓮二か。何だ」
「……おい、最近ぼんやりしすぎていないか。大丈夫か」
「だ、大丈夫だ。支障ない。たるんどらんぞ」
「それならいいが……」
 ふう、と息を吐いてから、蓮二は弦一郎に歩み寄り、やや潜めた声で言った。
「──麻田が呼んでいる」
「麻田?」
 弦一郎は、きょとんとした。

「……誰だ?」

 弦一郎がそう言うと、蓮二は、呆れた、という顔をした。
「同じ風紀委員の女子だろう。眼鏡に三つ編みの。最近仲良くしていただろうが」
「ああ、眼鏡に三つ編み……」
 そう言われて、弦一郎は納得して頷いた。とはいっても、本当に眼鏡と三つ編みしか思い出せず、顔がよく記憶に上ってこないが。
「ん? 仲良く……? いや、別に仲良くなった記憶はないが……?」
「そのようだな。名前も覚えていないほどだしな」
「うむ?」
 頭の周りに疑問符を飛ばしながら、弦一郎は頷いた。蓮二は引き続き呆れた顔をしているが、どこか同情するような空気を、弦一郎でない誰かに飛ばしているようだった。
「それにしても、何の用だ?」
「場所は第二校舎裏だ」
「なぜそんな所に……委員会の話なら明日の会議ですればよかろう」
 弦一郎が不思議そうに首を傾げると、呆れた、という蓮二の顔が、更に突き抜けて、何か達観したようなものになる。
 わけがわからないまま、弦一郎は彼に追い立てられるようにして、第二校舎裏に向かった。



 第二校舎裏に行くと、確かに女生徒がいた。
 しかし彼女はなぜか三つ編みをほどき、眼鏡を外していたため、まじまじ顔を見ても彼女が“麻田”かどうかわからず、弦一郎はちらっと名札を見て本人確認をした。風紀委員たるもの当然だが、彼女がきちんと校則を守る者で良かったと思う。

「こんなところに呼び出して、何の用だ」
 何か相談事か、と弦一郎が聞くと、麻田という少女は、眼鏡を外した目をうるうるさせて、上目遣いに弦一郎を見た。
「真田君、遅くなったけど、全国大会優勝おめでとう」
「あ? ああ、ありがとう」
「真田君、すごく頑張ってたよね。委員会もあるのに」
「当然のことだ」
 ふん、と鼻を鳴らして、弦一郎は顎を上げた。
 弦一郎は、努力家だ。しかも、常軌を逸したレベルである。他人に厳しいが、それ以上に、自分にはどこまでも厳しい。
 そんな弦一郎にとって、努力を賞賛されるのはあまり据わりのいいものではない。努力によって得た勝利を賞賛されるのは喜ばしいし誇らしいが、努力自体を褒められても、見当違いの感しかしない。最悪なのは、負けた時に「頑張ったんだからいいじゃないか」と言われることだ。
 だからこそ、こてんぱんに負けてしまった時、紅梅が言った「次は勝て」という言葉は弦一郎を奮い立たせたし、圧倒的な勝利を収めたいま、麻田という少女が言った「頑張っていた」という評価は、どうしようもなく上滑りしていた。

「私、ずっと見てたよ。真田君が頑張ってるとこ」
「ああ……、それで、本題は何だ」
 どうでもいい称賛を早く切り上げたくて、弦一郎は急かした。しかし少女はもじもじと膝をこすりあわせるだけで、何も言わない。
「おい」
「んもう、ちょっと、急かさないでよ。心の準備がいるんだから」
「はあ?」
 弦一郎は、怪訝な顔をする。
 わけがわからないが、どうやら深刻な話ではなさそうであると断じた弦一郎は、さっさと済ませてくれまいか、とやや苛々しながら、この後すぐに部活に行けるように持ってきたラケットバッグを、肩に担ぎ直した。
 すう、はあ、と、なんだかわざとらしく深呼吸をする女生徒を、弦一郎は顰めっ面で待つ。

 するとやがて、彼女はまっすぐに弦一郎を見て、切なげに眉を寄せ、言った。

「──好きです、真田君。付き合ってください」

 呆気、という感じで、弦一郎は絶句した。
 予想もしていないことだった──、が、人気のない場所への呼びだしや、麻田という女生徒の様子からして、考えつくことではあるな、と弦一郎は今になって思った。とはいっても、彼女がわざわざ三つ編みを解き、眼鏡を外している意図は全くわかっていなかったが。

「……ああ、そうなのか。すまん。気持ちはありがたいが受けかねる」

 全く予想していなかったことだったからか、それともなんだかんだ言って告白されるのは三度目だからか、弦一郎はあっさりと彼女の申し出を断った。
 彼女はショックを受けたような、泣き出しそうな顔をして、「そう」と呟き、俯いた。弦一郎は申し訳なく思うが、心に痛みはない。蓮二に、紅梅が泣いていたと聞かされた時は心臓が止まるかと思うほど胸が痛かったというのに、今はただぼんやりと申し訳ないと思うだけで、居心地の悪さもあり、とっとと部活に行きたいという気持ちのほうが強かった。

「どうして、って、聞いてもいい? 部活が忙しいから? せめて全国大会が終わってからにしよう、と思って今にしたんだけど……」
「確かに全国大会前は特に忙しいが、いつでも変わらん。来年も全国大会はあるし、高校に上がってもインターハイがある。同じことだ」
「……それって、ずっと忙しいから無理ってこと?」
「ああ、まあ……いや……そういうわけでもないのだが……」
 なんだか面倒くさくなってきた弦一郎は、適当に返事をした。
 正直なところ、こういう話で、他のことが忙しいから云々という断り文句は建前でしかない、と弦一郎は思っている。部活がこうもハードであっても風紀委員の仕事もこなせているように、やると心に決めて計画を立てれば、やってできないこともない。根性論者の完璧主義、そして常軌を逸した努力家の弦一郎だからこそ、そう思っている。
 だから彼女の申し出を受けないのは、単にそうまでして彼女と関わっていきたいと思うまでの気持ちがないからに過ぎないのだが、それをはっきり言うのはさすがの弦一郎も憚られたし、そもそも自分の心を説明するのが筋金入りで下手であるため、どう伝えればいいのかもよくわからなかった。

「私、真田君が忙しくても、待ってるよ? それでもだめ?」
「いや……」
 待たれても困る、と言いたい。だがもちろん言えず、弦一郎はただ口ごもった。
「……私の事、嫌い?」
「いや、別に嫌いではないが……」
 今の弦一郎の気持ちとしては、“困った”がだいぶ“面倒臭い”に変化してきていた。ついでに言えば、“申し訳ない”という気持ちはもうあまりなくなってきている。例えるならば、契約を取るのに必死な新聞の勧誘員に迫られている感覚に近い。最初は申し訳なく思っていても、あんまりしつこいので気持ちが冷めてきた、というような。
 やたらうるうるきらきらした上目遣いで見られても、抜かりなくだんだん距離が縮まってきているのに気づけば、若干の恐怖すら覚えてしまう。

「嫌いじゃないならいいじゃない。付き合ってるうちに好きになるかも」
「いや、すまんが賛同できん」
「どうして? もしかして、好きな子でもいるの?」
「好きな……?」
 それは、この年頃の青少年ならばだれでも聞かれ、また聞いている質問だ。だがしかし同時に、弦一郎が今まで生きてきて、滅多に聞かれたことのない質問でもあった。極稀に聞かれても、「たるんどる!」と怒鳴り返してきたし、そういう反応しかしないことを周りも理解しているので、もう弦一郎にそういう質問をする者は居ない。

「好きな、」

 ──うちも、弦ちゃんのこと、好きえ

 途端、弦一郎は、頭から湯気が出るのではないかというほど真っ赤になった。
 女生徒から面と向かってされた告白には全く気持ちが動かなかったというのに、恥ずかしそうな、しかし嬉しそうな、幸せそうな彼女の声を思い返しただけで、弦一郎は、目の前がまぶしくて立っていられないような気持ちになる。
 さらに、一度思い返せば、芋蔓式に、一気に様々記憶が蘇ってくる。水のような声、白く小さく、そして柔らかな手の感触。つやつやに磨かれた爪がついた、細い指先。赤くなった耳、濃い桃色を増した目尻、恥じ入るように伏せられた長い睫毛。白塗りの化粧などものともしない、花が咲くような、蕩けるような笑顔。少し不格好な、奇妙な笑い声。
 ──そして、自分のために石畳を歩く、裸の足。

「すっ、すす、好き、など、という、ことではっ、いや、」
 先ほどまでの、ドライなまでの態度が嘘のように、弦一郎は何を弁解しているのかわからぬ言葉を連ねた。
 曰く、前からそのありかたは尊敬しているだの、応援しているだの、美人だとは思うが厭らしい目で見たことはないだの。
 女生徒は、豹変した弦一郎の態度に最初こそぽかんと呆気にとられていたが、だんだんと口元が引き結ばれ、最終的には、白けたような目になっていた。──話すのに必死になっている弦一郎は、気づいていないが。
「そ、そういうわけでだな!」
 喋っているだけなのにぜえはあと息を荒らげている弦一郎が見ると、彼女はいつの間にか眼鏡をかけ直していた。その奥にある目は、先ほどまでうるうるきらきらしていたのが嘘のように白けきっている。
 そして彼女は、手首につけていたゴムで適当に髪を縛りつつ、

「あ、そう。頑張ってね」

 とだけ言って、踵を返して去っていった。
 それから、弦一郎は彼女と何かしらの縁ができることは終ぞなかったが、その潔いほどの去りっぷりに関しては、不思議と後々になっても記憶している。
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BY 餡子郎
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